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3巻
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しおりを挟む第一話 薬草魔女のお茶会
季節の変わり目――特に夏から秋にかけてと、冬から春にかけては楽しみが多い。今は初秋。春のようなうきうき感はないが、食べ物が美味しく感じられる時期だ。身体も冬に備え栄養を蓄えようとするので、とてもお腹が空く。
エルファは、この頃に出回る食材の中ではイチジクが好きだ。干しイチジクもいいが、新鮮なイチジクが特にいい。もちろんイチジクを使ったお菓子も大好きだから、現在勤める『レストラン・ラフーア』のデザートとしてもよく出している。店で使うイチジクは質が良い。蕩けるような甘味と舌触り、ぷちぷちした種の食感。艶やかな色合い。そのすべてが素晴らしいといったらない!
もう少し秋が深まると出回る栗も楽しみだし、梨もいい。梨はそのままでも美味しいが、コンポートにして食べるのがエルファの好みだ。庭の林檎もそろそろ収穫できるだろう。木がまだ小さいせいか実もあまり大きくないから、焼き林檎にして皆で少しずつ食べようと同僚達と話している。
「ああ、この季節はお菓子作りが楽しくて仕方がありません」
「分かる。すっげぇ分かる。この時期は商品の入れ替えで在庫も一掃するし、つい新商品の素材も贅沢になっちまう季節だ」
厨房で明日の仕込みをしていたエルファが思わず呟くと、イチジクのタルトにシロップで照りを付けていたカルパが深く頷いた。
彼は、この『レストラン・ラフーア』や『ティールーム・フレーメ』を経営している、王室御用達の茶問屋『フレーメ』の代表である。すらっと背の高い美男子で、菓子作りを趣味とし、お茶をこよなく愛している。そして、食べ物の味をよくする魔力持ちとして有名だ。
彼の能力は食材の近くにいるだけでも発揮される。なので彼は普段から食材の倉庫で寝ていたりする。そんな彼が自ら料理すれば、もちろん素晴らしいものが出来上がるのだが、にもかかわらず彼は店であまり料理をさせてもらえない。彼が作ったというと、それだけで人が群がると予想されるし、他の従業員が作ったものが劣っているかのように言われる可能性がある。かといってすべての料理を作ったら、間違いなく彼は過労死するだろう。だから従業員一同でお願いして、店に出す料理に手を加えるのは基本的に遠慮してもらっているらしい。
だがそんなカルパも、ラフーアのデザート作りだけは時折許されている。さすがに全面禁止は可哀想だし、たまになら客もカルパ作と分からないからだという。
そのカルパが今作っているのは試作品のタルトだ。試作品は従業員が味見することになっているので、皆が完成を心待ちにしていた。今やカルパの手元は厨房内の注目の的である。
「カルパさんの作るお菓子は見た目も宝石のように綺麗で、本当に贅沢って感じがしますね」
「エルファの焼くマフィンも最高に美味いよ。なんか、不思議な味がする」
カルパはエルファが焼いたドライフルーツ入りのマフィンを指して言った。実りの季節が来たから店に残っていたそれらを消費してしまおうということで、エルファが焼いたのだ。
「ドライフルーツを薬草酒に漬け込んだんですよ。こちらはその薬草酒を生地にも少し練り込んだもので、ちょっと味が違います。大人の味ですね」
どちらが好きかは、人それぞれだろう。
「いいねぇ、その一工夫。お客様の様子を見て、評判がよければ定番化したいな」
「季節ごとに入れるフルーツを変えましょうか。都会の人は季節限定とか新商品が好きだから」
皆の賄い料理を作っていた料理長のゼノンが、フライパンを火から下ろしながら話に入ってきた。のんびりとした雰囲気の青年だが、そのくせ誰よりも素早く、正確に調理のできる優れた料理人だ。
「薬草酒を練り込んでないのは、明日子供達に持っていくやつ?」
「はい。そのついでに新商品の提案もしてきます」
エルファは明日、ゼノンが幼い頃にいたという孤児院に招かれているのだ。訳あって子供達だけではなく大人も集まることになったので、なんとなく二種類作ってみた。
「ゼノンさんやナジカさんの育った場所がどんなところなのか、今から楽しみですよ」
「育ったっていうか何というか。二人ともあそこにいた期間は短いんだけどさ」
ゼノンは一、二年のうちにそこを出て、料理の修業のために何軒かの店に住み込みで働いていたらしい。彼と兄弟のように育ったナジカも、早いうちに学校の寮へ移ってしまったそうだ。
「あそこを見たら、たぶんビックリするだろうなぁ」
ゼノンがしみじみと言う。
「ナジカさんも言ってました。昔はすごい場所だったと」
件の孤児院は、元々訳あり物件だったらしい。どう訳ありなのかは、その物件を手配したエノーラの話を思い出せば自ずと答えは見えてくる。つまり、俗に言う事故物件だ。
彼女は自分の出資するラフーアを立ち上げる際も、訳あり物件だったこの建物を安く紹介してくれたのだ。あの時彼女は、『ちゃんと処理してあるから何も出ない』と言っていた。事実、ここの二階に住むエルファも何かを見たことはないので、孤児院の方も『処理』はしてあるのだろう。
「今でもある意味すごいけど、昔に比べたらまあ普通だしな。ただ、俺やナジカみたいな傀儡術師の子供らの面倒も見てて、元聖騎士の神官様がいて、ルゼ様ん家から援助を受けてるってだけだし」
「改めて聞くと、大層立派な孤児院ですね」
聖騎士とは聖女様に仕える偉い騎士のことだし、女聖騎士ルゼはこの国の第四王子ギルネストの妻で、その実家も大層羽振りのいい貴族だと聞いている。
「立派だよ、ある意味」
なのに『ある意味』という含みのある言葉。それが気になって仕方がなかった。
「ナジカさんも教えてくれないんですけど、まだ何かあるんですか?」
「見れば分かるよ。気の小さかった子供達がたくましくなった最大の要因だし。アルザも昔は人見知りが激しかったのに、今では舞台役者だし」
現在大人気の芝居で主役を張っている女優も、その孤児院にいたらしい。人見知りの子供をそこまで成長させてしまうのだから、すごいところだというのは理解できた。
「よし、できた」
カルパは出来上がったタルトを見て頷いた。
「見た目は完璧。次は味だな」
カルパがよく研いだ包丁を手にして舌なめずりをする。
「いよいよ味見ですかっ!? 味見ですよねっ!」
いきなり背後から給仕のニケが声をかけてきた。レストラン勤めしているだけあって、綺麗な容姿にも構わず食いしん坊ぶりを露わにしている。いや、この店に食べるのが嫌いな従業員はいない。
「あ、私も! 給仕として、味の分からないものをお客様に出すなんて失礼はできませんよね!」
目を爛々と輝かせて挙手したのは、同じく給仕をしているラスルシャだ。彼女もまた、氷のような雰囲気を持つ絶世の美女だが、中身は普通の女の子である。とはいえ、彼女は人間ではない。実は魔族と呼ばれる魔物の一種である。この大陸の魔族は大抵褐色の肌をしているが、彼女は肌が白い。魔族の中でも白魔族と呼ばれている種族らしい。北にある鎖国状態の島国にいたのだが、その窮屈さに嫌気がさして家出してきたのだそうだ。
彼女の足下には一緒に国を出てきたという、どう見ても大きなペンギン――川猫獣族のジオズグライトがいた。彼はラスルシャの住んでいた島にしか生息していない、変わった魔物である。いや、変わっているという以前に、そもそも鳥の魔物というのは存在しないと言われているのだ。そのせいか本人は、自分のことを猫だと主張している。
「ラスルシャ、あんまがっつくなよ。はしたない」
「分かっているわよ、ジオズグライト。でもこれ美味しそうだもの!」
種族が何であれ、ジオズグライトが呆れて肩をすくめる姿はそれはもう愛らしい。茶問屋フレーメの看板猫になってしまったのもよく分かる。最近、ティールーム・フレーメの方に可愛らしい本物の猫獣族が働くようになったので、看板猫の地位も揺らぎ始めているが、もし看板鳥を名乗るなら不動の地位を保てることだろう。
そんなジオズグライトとラスルシャのやり取りを見て、カルパが窘める。
「分かった分かった。これは食後な。空腹の時に食べたら何でも美味く感じるから意味がないだろ。満腹時に食べてもらって、皆の合格が出たら店に出す」
「でも素材が良い上に、カルパさんが作ったお菓子なら、美味しくないはずがないですよ」
「そうそう。カルパさんが作って美味しくないなら、誰がどうやっても美味しくならないわ」
ニケとラスルシャの持ち上げぶりに、カルパは呆れたようにため息をつく。
「じゃあサボってないで、さっさと店じまいしてこい。でないとおまえらの夕食に、一か八かで試してみたい一工夫をするぞ」
「……それはちょっと遠慮しまーす」
ニケとラスルシャは顔を引きつらせながらも、ピンと背筋を伸ばして店内に戻る。そんな二人の姿に、エルファも思わず噴き出した。
「それで、一か八かってどんな工夫をするんですか?」
「隠し味はどこまでの量なら隠せるかの検証とか、意外に美味しい食材の組み合わせ探しとか」
「それは、確かに嫌ですね」
「意外な組み合わせってのは、大抵微妙なのが出来上がるからな!」
一口だけの味見ならまだしも、自分の夕食として出されるのはキツい。
厨房にいた従業員達は笑い合いながら、皆、手だけはちゃんと動かし続けていた。
翌日、ナジカがエルファを迎えに来た。エルファを孤児院に誘ってくれたのは、このナジカだ。彼は妖精のような女の子を連れていた。エルファの友人で、妖族という魔物のリズリーである。
「あら、リズリーも来るの?」
支度をして店の入り口まで出てきたエルファが尋ねる。
「うん。今日は休みだって言ったら、気晴らしにってナジカが誘ってくれたの」
「慣れない仕事で疲れてはいない?」
「うん。忙しいけど、お店で働くの楽しいし、休憩もあるから疲れないよ。お客さんも優しいし」
彼女はこのラフーアから少し離れたところにある、ティールーム・フレーメの支店で働いている。
地下に生きる魔物達が地上で人間と一緒に働くというのは、まだまだ一般的とは言いがたい。それでもリズリーは可愛らしい見た目のおかげで、客に可愛がってもらっているらしい。
「ナジカさん、リズリーを気遣ってくれてありがとうございます」
「そりゃあ、俺にとってもリズリーは友達だしな」
ナジカは人懐っこい笑みを浮かべてリズリーの頭をくしゃくしゃと撫でた。
彼はエルファと同じ年頃の青年で、緑鎖という警察組織に属している。今日は非番なので制服ではなく私服姿だ。が、それを差し引いても、そんな堅い職につく真面目な青年には見えない。胸元のボタンは外され、だらしなく開かれた襟元からはじゃらじゃらとしたネックレスが見えている。他にもピアスやら指輪やらをいくつもつけており、どうしてもチャラい不良のように見えてしまうのだ。
そのナジカは、そんなことは気にする様子もなく明るく尋ねてくる。
「ゼノンは? 一緒に行くんだよな?」
「ゼノンさんはアルザさんをお迎えに行きました」
「ああ、アルザも来るのか」
「最近、忙しくて孤児院の方に顔を出してないし、色々とちょうどいい、だそうです」
人気女優ともなればそうそう時間も取れないのだろう。そんなアルザは、実はゼノンの恋人である。
「確かにデート代わりにもちょうどいいな。さっさと結婚すればいいのに」
「アルザさんは人気の役者さんですし、なかなか難しいんじゃないですか。あまり大っぴらにお付き合いされてないみたいですし」
「確かになぁ。だからゼノンも必死なんだよなぁ。なんたって女の人達に人気の女優だろ? 相手の男に対する彼女達の目が厳しいのなんのって。釣り合いだのなんだの。エルファのおかげで店が有名になってよかったよ。ラフーアの料理長なんて、今や女性の憧れだから」
「有名な方の恋人になるのも大変ですね」
「幸せな悩みだよ」
「確かに、お相手と相思相愛だからこそですよね」
幸せであるがゆえの贅沢な悩みと言える。が、エルファの答えにナジカは複雑そうな顔をする。
エルファは以前、彼からの告白を断った。もっとも、初対面でいきなり結婚してくれと言ってきたのだから当然である。しかもその理由が、エルファの作ったビスケットが美味しかったからという胃袋重視のものなのだからなおさらだ。今となってはナジカらしいと笑って許せるが、当時婚約者に浮気され、結婚が破談になったばかりのエルファには、とても受け入れられなかった。
とはいえ、ここ最近は彼の人柄を知ったこともあり、自然と恋愛対象として意識するようにもなっている。ナジカは元婚約者のアロイスと違って、浮気はしないだろう。その上優しくて、エルファの料理を美味しい美味しいと、誰よりも嬉しそうに食べてくれる。その姿を見ているとエルファも胸がくすぐったくなる。だから付き合ってみるのも悪くないと思っているのだけど、そこまで踏ん切る勇気は、まだない。
「じゃあ行こうか」
と、ナジカは門の外にいる愛馬のハニーを指した。エルファと、小さな子供ほどの背丈しかないリズリーとなら、三人乗りができるぐらいの立派な馬だ。
ナジカはエルファを馬に乗せながら改めて挨拶をする。
「今日はよろしく。ずっと楽しみにしていたんだ」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
機会を作ってもらっているのはエルファの方だ。
今日、エルファは孤児院で、薬草魔女としてのお茶会を開くのだから。
薬草魔女は名前の印象から薬師だと思われることがある。しかしそれは少し違う。薬草などの効能を生かして、人々に健康な食事を提案するのが本来の薬草魔女の仕事である。
かつてエルファの故郷グラーゼで、実りの聖女が身体を壊して弱った際、その孫であるエルーファが病状に合わせた食事を作って回復させた――それが薬草魔女の始まりだからだ。エルファはその実りの聖女やエルーファの子孫に当たる。
時代は流れ、薬草魔女の中には薬師のような仕事をしている者もいるが、今のエルファは料理人として働いている。結婚が破談になってヤケ食いしていた時に、フレーメの仕入れ人であるクライトと料理長のゼノンにスカウトされたのだ。
最初はヤケクソ気味に故郷から遠く離れたこの国にやってきたのだが、今は心の底からよかったと思っている。あのまま故郷にいたら、立ち直るのにずいぶんと時間がかかったろう。こんなに早く立ち直れたのは、気のいい同僚達の心遣いと、ナジカの強引な口説きによる荒療治のおかげだ。
その上彼らには、こういった催しを行う手助けもしてもらっている。薬草魔女としてはまだひよっこのエルファにとって、こんな風に経験が積めるのはとてもありがたいことだ。
晴れた秋空の下、ナジカ、リズリー、エルファの順で馬の背に乗り、色々おしゃべりしながら孤児院への道を進む。
「でね、ドニーってばね、いっつも女の子とお話してるの。いい奴だけど、ダメな男だよ!」
「まあ、彼はいかにもそんな感じだし、お客様も喜ぶからいいんじゃないかしら?」
同僚の日々の態度に憤慨するリズリーを見て、エルファはくすりと笑った。
「うん、そうだね。それに、怖いお客様が女の子達を怒った時は、しっかりと庇ってたよ。口だけじゃないから、ダメなだけの男じゃないよ」
「そうね。ドニーさんはアロイスと違って、女性に対して本当に分けへだてなく親切にしているもの」
リズリーと同じ店で働くドニーは、女性とおしゃべりしたり褒め称えたりするのが好きな猫獣族の男だ。相手は猫だから、それを色恋ゆえのものと勘違いする人間の女性はいないだろうが、それでも彼は、特定の誰かを贔屓したなどと言われないよう、幼女から老婦人まで、すべての女性を尊重している。八方美人だったアロイスと違い、あくまでも彼は紳士なだけなのだ。
「ナジカもいい奴だよ」
それは知っているから、とエルファはリズリーの頭を撫でた。癖のある灰褐色の髪は、触れるとふわふわで思わず指で梳きたくなる。妖族という種族は地下の妖精などと呼ばれているが、実際尖った耳はいかにも妖精っぽくて愛らしい。背丈も小さくまるで子供のようだが、妖族はこれ以上成長しない。これで大人なのだ。
「さて、もう着くよ」
ナジカに声をかけられて、エルファ達は周囲を見回した。
「どちらですか?」
それらしい建物は見当たらない。右手の方に古めかしい何かの研究所のような建物があるだけだ。ナジカが答える。
「今、君が視線を向けて真っ先に候補から外した施設だよ」
エルファは再度、右手の建物を見た。孤児院という言葉の印象からはかけ離れた、頑丈そうで立派な建造物だった。中で多少何かあっても、周囲にはほとんど分からないのではないだろうか。人の善意で成り立つ施設が、このように牢獄めいたところであっていいものか。
「……それで、あの表現ですか」
ゼノンが口にしていた『ある意味』は、このことを指していたのだ。
「エノーラさんが薦めてくださった訳あり物件だったと聞いていますが」
「元は何かの研究所だったらしいよ。俺達の子供の頃はひどかったけど、エリネ様が浄化してくださったんだ」
「まあ、聖下にはそのようなお力まで? 素晴らしいですね」
エルファの祖先と同じ力を持つ、実りの聖女エリネ。一度だけ、薬草魔女であるエルファに会うため、ラフーアに来店したことがある。実りの女神レルカの聖像にも似た、穏やかな雰囲気と落ち着きのある美しさを持つ、若い女性だった。
「エリネ様は魔力を貸してくださっただけで、実際にやってくれたのは神官様達だけどね。エリネ様のお力の影響を調べる実験と、若手の神官様達に経験を積ませるって意味もあったから、タダでやってもらえたんだ」
「そうでしたか」
神官といえど、基本的にその労働は有償だ。特に私有地の浄化など、普通は無償ではやってくれない。ここにいたナジカやゼノンが、エリネに保護されて連れてこられた子供だったからというのもあるのだろう。
「俺達も協力してやり方を覚えたから、たまにエノーラさんに頼まれてあちこちの浄化を手伝ったこともあったな」
「……ナジカさん達って、そんなこともできるんですか?」
意外すぎる特技に驚いた。『達』ということは、同じ傀儡術師のゼノンも含まれているのだろう。
「纏め役のウルバさん――この施設の中にある神殿の神官様を中心にしてやってたんだ。謝礼をもらってね」
「そうですか。それにしてもナジカさん、ここを孤児院じゃなくて施設なんて呼んでるんですか?」
「まあね。正確にはオブゼーク慈善院っていうんだけど。俺達が入った頃は『収容所』呼ばわりだったよ。でもそれじゃ外聞が悪いからって、ルゼ様のご実家に寄付をしてもらったのを理由に名前をいただいたんだ。まあ、発起人のギル様が自分の名前を付けるのを嫌がったってのもあるけどさ」
聖騎士ルゼとその夫であるこの国の第四王子ギルネスト。実に頼もしい後ろ楯だ。
「さて、ここが入り口だよ」
ナジカは馬から降りると、しっかりした造りの鉄門を開け放つ。ギィッという音が辺りに響いた。
エルファも馬から降りて、改めて周囲を見回す。まるで中にいる者を逃がすまいとしているかのような物々しい塀が建物を囲んでいる。が、入ってみればその内側には様々な花や野菜が植えてあり、箒や園芸用品などの生活感のある道具が程良い間隔で置いてあった。この施設を管理している人の計らいだろう、ここを居心地のいい場所にしようという温かい気持ちが伝わってくる。
「じゃあこっち」
と、ナジカは馬を置いて歩き出す。すると馬は植えられていたイチゴノキに駆け寄り、まだ熟し切っていないヤマモモにも似た丸い実を食べた。
「こら、ハニー。勝手に食べちゃダメだって」
ナジカに叱られると、馬は悪びれもせずイチゴノキの下に座り込む。
「馬は果物とか好きですからね。でもたくさん実が生る木ですし、一つ二つなら大丈夫なのでは?」
それぐらいなら目くじら立てる人もいないだろう。一年かけて熟すその実は生のままでも食べられるが、決して美味しいものではないので、まとめてジャムにしてしまうのだ。
「まるで俺が美味いもの食べさせてないみたいじゃないか。ちゃんと食べさせてもらってるのに!」
『もらってる』という言い方になるのは、彼が、牧草に近寄ると咳や鼻水が出る枯草熱という症状持ちだからだ。そのため、餌やりだけは他の人に代わってもらっているらしい。
「ハニー、あとで何か食べさせてやるから、大人しく待ってるんだぞ!」
そう言うと、ナジカはちらちらと馬を振り返りつつ歩き出した。
彼の向かう先には、堅牢な施設とは別の、小さな建物があった。こぢんまりとして温かみのある木造の建物だ。リズリーがナジカに尋ねる。
「あの建物なぁに?」
「癒しの女神と実りの女神を祀っている神殿さ。元々は倉庫みたいなのがあったんだけど、あんまりひどかったから何年か前に壊して新しく建てたんだ。立地の悪さと建て方の悪さが重なったせいで、変なのを呼び寄せてたんだってさ」
「へぇ、地上は変わってるねぇ」
ナジカとリズリーはけらけら笑いながら話しているが、エルファは聞いているだけで寒気がしてきた。『ひどかった』とはつまり、そういうことなのだろう。この場所の温かみは、誰かの配慮とかそういった次元の話ではなく、その手の寒気を感じさせないための涙ぐましい努力の結果ではないかと思えてくる。
「おーい、ウルバさん、いる? あ、いた。ゼノンももう来てたか」
ナジカは神殿の中に入っていく。
礼拝をする空間があるだけの小さな神殿だ。古い神殿にありがちな装飾的な柱や高価な美術品は見当たらない。しかし最近建て直されただけあって中はとても綺麗で、掃除も行き届いている。
そこにお茶会のためのテーブルと椅子がいくつか並べられていた。その周囲には、先に来ていたゼノンや、ワインレッドの上着も艶やかな男装姿のアルザ、そしてここで生活していると思しき子供達や神官らしき男性が集まっている。奥は布で仕切られており、その向こうには誰かが作業しているような気配があった。あちらでお茶の準備をしているのだろう。アルザはエルファ達を見ると、憤慨した表情で腰に手を当てて訴えてくる。
「聞いてよナジカ。ウルバさんったら、時間があるからって祭服着たまま身体鍛えてたんだよ!」
アルザの周囲にいる小さな女の子達も、同じように腰に手を当てながら頷いていて、とても可愛らしい。美人で格好いい先輩を慕っているのだろう。
「また? ウルバさん、祭服汚したらマグリアに叱られるよ」
ウルバと呼ばれた神官の男性は、ナジカ達にへらりと笑って見せた。人の良さそうな柔和な雰囲気だが、ゆったりとした祭服の上からでも鍛え上げた身体つきをしているのが分かる。
「いや、その、彼女には内緒……あ、げ、マグリア……」
ウルバはエルファ達の背後を見て、顔を引きつらせた。いつの間にか一人の女性がエルファ達の背後に立って、怒りに顔を引きつらせていた。背中には、元気いっぱいに手足を振り回す健康そうな赤ん坊を背負っている。
「げ、じゃないでしょ。その服、高い上に白いのよ。そう、白いの! 理解してるっ!?」
「うっ……つい」
「これだから貴族のボンボンはって言われんのよ! 今日はお客さんの前だからこれ以上言わないけど、後できっちり話し合いましょうねぇ」
女性の怒りはもっともだ。男は平気で服を汚し、それを洗濯する女はガミガミと怒る。国は違えど、こんな光景はどこでも繰り広げられるようだ。
その場にいた子供達はけらけら笑い、ナジカ達やゼノンらも肩をすくめている。
「エルファ、その人はマグリア。俺達の姉貴で、ウルバさんの奥さん」
この場合の姉貴とは、同じ施設にいた年長の女性という意味だろう。
「初めまして、エルファと申します。本日は場所のご提供ありがとうございます。こちら、皆さんで召し上がってください」
エルファは持参した籠の一つをマグリアに差し出した。
「あ、これはご丁寧にどうもありがとうございます。狭い場所ですが、お好きに使ってください」
マグリアの周囲に子供達がお菓子をもらおうと一斉に集まってくる。が、彼女はまるで眼中にないかのように平然としていた。子供達の対処に慣れている様子が窺える。
「こんにちはエルファ。久しぶりだね。席はこんな感じでいいかな?」
アルザはそんな騒がしい雰囲気を変えようとしてか、美しい笑みを浮かべて問う。どうやらお茶会の準備を手伝ってくれていたらしい。神殿内に並ぶ長方形のテーブルには、事前にゼノンに運んでもらったエルファのテーブルクロスがかけてあった。
それにしても、相変わらず中性的な魅力のある美女だ。男装の麗人役を演じたことが人気の出たきっかけだったため、普段からそういった雰囲気が出るよう心掛けているらしい。
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