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1巻

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「薬草魔女ってのは、そういうのを全部覚えてるのか? 俺はクライトに聞いて、初めて薬草魔女っていうのを知ったんだ」

 カルパに問われ、エルファは頷いた。クライトよりも少し高い、女性が好みそうな甘い声だ。

「そうですね。ただ、薬草魔女にも種類があって、薬効を追い求める薬師くすしに似た流派と、私のように最初の薬草魔女の意志を受け継いだ、日々の食事でより健康になろうという流派があるんです。共通するのは、身体にいい物を食べて健康的な日々を送り、やまいを寄せ付けないようにしようという考えが根本にあることです。私のご先祖様であり、最初の薬草魔女であるエルーファ様は、祖母である実りの聖女のラファルタ様に長生きしてもらうため、薬草魔女になったそうです」

 カルパの手からスプーンが落ちた。

「つまり、君は実りの聖女の子孫なのか?」
「あれ、言ってなかったっけ? わりぃ悪ぃ」

 クライトはあっけらかんとカルパに謝った。この国にも今、実りの聖女がいるから驚いたのだろう。

「子孫はたくさんいますから、大したことではないですよ。その中で薬草魔女をしている人が少ないだけです。現在は子孫ではない薬草魔女の方が多いのですが、大切なのは血筋ではなくて、薬草魔女として認められたあかしを師からもらい、ラフアを名乗ることです。私の名前の中にある『ラフア』は、実りの聖女の名前から取った、一人前の薬草魔女と認められた者だけが名乗れる称号です。一種の国家資格と言えば分かりやすいですね」

 エルファは誇らしい気持ちで語った。外国人には薬草魔女について理解してもらえなくて困る時があるので、いつもこうして説明している。文化に根付いた役職というのは、説明が難しいのだ。

「へぇ。名前にはそんな意味があったんだ」

 クライトは感心したように言う。

「とは言っても、薬草魔女と認められただけで、まだまだ実務経験が足りないんですが。こればかりは歳を重ねていかないと。薬草魔女が目指すのは、人々の相談役ですから」
「ああ、村一番の物知りばあさんみたいな?」
「そうですね。そんな感じで、村に一人はいてほしい存在です」

 ポタージュがなくなり、メイン料理が来る。
 肉のワイン煮込みだ。赤ワインと香草のいい香りがする。切り分けて口に含むと、羊の味がした。ほとんど癖のないことから、ラムだと分かる。

「おいしい! うちの薬草酒を使って煮込んだんですね」
「正解!」

 ゼノンが薬草酒のボトルを片手に、再び食堂に入ってくる。

「本当は魚介類をもっと出したかったんだけどねぇ、いきなりだからさっきのしかなかったんだ」

 海辺でもないここでは、高級食材だろうから仕方がない。むしろそんな物を出してくれたのに驚いたぐらいだ。

「初めて作るからもう少し色々と試してみないとアレだけど、なかなか深みのある味になってるでしょ? カルパさんは、薬草酒も味見してよ」

 ゼノンはカクテルグラスに薬草酒をそそぐ。

「これはエルファちゃんの身内の人が作った薬草酒なんだよ。そのまま飲むより、料理向けらしいけど」
「へぇ」

 カルパは香りをぎ、わずかに口を付ける。

「癖があるな。でも、けっこういいかも」
「なくなってもエルファが作り方を知ってるから仕込めるぜ。もう少し飲みやすいのとかも、調整すれば出来るとさ。そのために色々と種とか苗とかもらってきたんだ」

 クライトが薬草酒と別の飲み物を混ぜながら言う。カルパも興味を持ったのかそれを受け取った。
 その間にも、エルファはラムを食べ続けた。付け合わせの根セロリのピュレも美味しい。

「根セロリもいい食材なんですよ。茎セロリよりも癖がなくて食べやすいのに、茎セロリと同じように美肌にいいし、整腸、利尿作用もあるんです」

 茎セロリが嫌いな人でも、根セロリは食べられるという人も多いのだ。

「肌にいいんだ。そりゃ女の人が喜ぶな。外食の店は女性が決めることが多いし、男は女性のために店を選ぶから」
「根セロリの旬が終わりなのが残念ですが、春から夏でも美肌にいい野菜はたくさんあります。女性向けの料理には、そういうのを売りにするといいかもしれませんね。この国にどんな食材があるのか、市場を見てみたいです」

 エルファはこの国の市場を想像すると楽しみで仕方がない。食材とは、見ているだけでも楽しいものである。それに、食材に関してはグラーゼの市場の方が豊富に揃っているが、初めての市場では思いも寄らぬ物が売っていることが多々あるのだ。

「じゃあ、明日は皆で市場に行こっか。それとも明後日にする? 慣れない長旅で疲れてるだろうし」
「明日で大丈夫です。こんな美味しい物を食べさせていただいたので、元気が出ました」
「エルファちゃんも食べて元気になるタイプだよねぇ」

 ゼノンは腰に手を当てて笑みを浮かべた。
 もちろん疲れてはいるが、色々な物を食べながらの旅だったから、苦痛はなかった。明日も元気に動き回れるだろう。それに、案内してくれるのが食品関係の仕事をする彼らなら、なおのこと心が浮き立つ。エルファの知らない食材もよく知っているだろう。

「お菓子も出したかったけど、今日は休業日で作ってないんだ。今度、カルパさんに作ってもらうよ。うちで一番菓子作りが上手いのは、やっぱカルパさんだし」
「それは楽しみです」

 カルパが作るお菓子の美味しさは、道中何度も聞いたのだ。代表なのに、お茶とお菓子が大好きなだけでなく、自分で作るのも大好きなのだと言う。それがこのように若くて素敵な男性だとは思いもしなかった。本当に人は見かけによらないものである。

「薬草魔女は菓子も作るって聞いたが」

 カルパはワインを飲みながら尋ねた。

「はい。お菓子にすれば、嫌いな野菜でも子供が食べてくれるので、食育にも有用なんです」
「エルファちゃんに食べさせてもらったお菓子は、素朴で美味しかったなぁ」

 味を思い出したのか、ゼノンが幸せそうに言う。その時、カルパが手を叩いた。

「そうだ」
「いきなりどうした?」

 クライトが問うと、カルパは満面の笑みを浮かべる。

「せっかく聖女様の子孫で特別な資格持ちが来たんだから、店にはエルファにあやかった名前を付けよう」
「え?」
「ラフアだっけ」
「え?」
「フレーメの名前はじいさんの名からもらったから楽だったけど、新店の名前をどうするか悩んでたんだよな。ティールームと同じにフレーメってつけるとややこしいし」

 カルパは機嫌良さそうに頷いた。

「えっと……それってエルファちゃんの名前を使うってこと?」

 ゼノンが首を傾げて問うと、カルパはまた頷いた。

「大丈夫だ。さすがにそのままは使わない」

 そのままでなくても、エルファの名前を使うということだ。

「や、やめましょうよ。そんな、私なんかの名前を店名にするなんて!」
「でも、伝統があって、薬草魔女なら誰でも名乗ってるんだろ? そういうのにあやかるのは、世間ではありふれたことだから大丈夫だ」

 カルパは上機嫌で料理を食べる。胸のつかえが下りたかのような、すっきりとした清々しい表情だった。

「そうですけど。なんか、その、私がでしゃばりすぎている感が!」
「でも、エルファの名前も元々は聖女の名にあやかったんだろ?」
「そうですけど」
「他にしっくりくる名前もないし、伝統のある聖女と関連づけられるのは店にとってもいいと思う。この国には実りの聖女もいるし、しかもちゃんと伝統を受け継いだ薬草魔女もいるんだから無関係ではない。何の問題もない!」

 カルパは尻込みするエルファを前に、拳を握りしめて強く断言した。

「いやぁ、肩の荷が下りた。俺、そういうの苦手なのに、押し付けられてどうしようかと思っていたんだ」

 彼は本当に清々しい様子で言う。最初の鋭い雰囲気など微塵みじんも感じなかった。ひょっとしたら、店名で悩んでいたからあんな感じだったのかもしれない。

「エノーラさんに報告しないとな。あの人なら絶対に食い付いてくる」

 エルファが首を傾げると、ゼノンが教えてくれる。

「エノーラさんってのは、新店の提案をした取引先の女性経営者だよ。ゼルバ商会の跡取りの」
「ああ、うちでお話ししていた出資者の」

 大きな商家の跡取りが興味を持つのは当然だろう。薬草魔女の歴史と知識には、それだけの価値があるという自負があった。

「きっと店名にも賛成してくれるよ」
「さ、賛成するんですか!?」
「そりゃあ、その方が宣伝しやすいからねぇ。店の売りって大切なんだよ。美味しいっていうのは大前提として、それにもう一つ付け加えると宣伝しやすいんだって。ほら、差別化ってやつ?」

 確かに宣伝はしやすいだろう。彼らの反応を見る限り、この国には料理人をしている薬草魔女はいないのだ。

「まあカルパさんがいるだけで十分差別化されてるんだけど、カルパさんにだけ頼ってると体調を崩されたら終わりだからねぇ。料理人としてもさすがにそれは悲しいし」

 エルファはそのカルパを見た。いるだけで人が来るほど、彼の能力は人々に信頼されているのだ。エルファはまだその理由を体感していないが、いつか目の当たりに出来る日が楽しみだ。

「明日の市場には俺とクライトもついていくから、ゼノン、寝坊してたら起こしてくれ」
「なんで俺に頼むんですか、カルパさん。俺達帰ってきたばかりで、一番寝過ごしそうなんですけど」
「じゃあニケ、頼む。ついでにゼノンとエルファも起こしてやってくれ」

 カルパは先ほど給仕をしてくれた女性に声をかけた。

「彼女はニケ。ホール担当だ。仲良くやってくれ」
「よろしくお願いします。分からないこと、男性には言いにくいことがあったら遠慮なくおっしゃってください」

 ニケに頭を下げられ、エルファは彼女に笑みを向けた。しっかりしていそうな、二十歳ほどの女性だ。長い茶髪を高い位置で一つに結んで、白いシャツに黒いエプロンを身につけている。

「こちらこそよろしくお願いします。この国の習慣を知らないので、教えていただけると嬉しいです」

 優しそうな人ばかりで、エルファは安堵した。ここで働くにあたって一番不安だったのは人間関係だったから。だが、順調だとのぼせ上がっていたら、人間関係など一瞬で壊れるから難しい。男女が関係すると特に。だからここでは、そういうくだらないことで火傷やけどしたりしないように気を付けなければ。

「そうだ。ゼノンさん、後で厨房ちゅうぼうを貸していただけませんか?」
「構わないけど何を作るの?」
「いつも食べているビスケットです」
「いいよ。あれも素朴な感じだけど、香ばしくてすごく美味しいよねぇ」
「ええ、スペルト小麦を使っているんですよ。ふすまなどを取り除いても、全粒粉ぜんりゅうふんと同じぐらい身体にいいんです」
「食材も好きに使っていいから、余分に焼いてくれると嬉しいな。君が持ってきた小麦も、扱ったことはないけど探してもらうから」

 それを聞いて、エルファは少し悩んだ。

「でも、ちょっと高いんですよ。今主流のパン小麦の原種である古代小麦なんですが、皮殻が固くて脱穀だっこくしにくいんです。それに出来上がりは普通のパン小麦よりも少なくなりますし。それでも虫が付きにくく、強くて育てやすいので、普通の小麦が育たないような荒れ地で栽培されています」
「へぇ。小麦ってそんなに種類があるんだ」
「品種もそうですが、産地や収穫時期によって粘りも違いますから。麦にも色々とあるんです」
「ああ、そっか……。そうだよなぁ。粉は袋で買ってるから、そこまで気にしたことなかったや」

 ゼノンはしみじみと考え込んだ。
 同じ作物でも、育てる人が違うだけで味が違う。ましてや品種が違うなら、味どころか栄養分だって違ってくるのは当然だ。

「じゃあ、カルパさんが気に入ってくれたら、仕入れられるように交渉するよ。少なくともグラーゼにならあるんだよね?」
「はい。カテロアでも育てられているはずです」
「ならゼルバ商会に聞けば何とかなるかな。そのためにも余分に焼いてよ。とびきり美味しくさ」
「分かりました」

 つまり経営者や出資者に実物を食べさせて、積極的に仕入れてもらうようにする。エルファの腕次第ということだ。自分の料理でこのように人が動くのだ。初めての経験に緊張しながらも気分は高揚していた。

「ビスケットだけでなく、パンも香ばしくて美味しいんですよ」
「ああ、エルファちゃんところのパンも美味しかったなぁ。あれなら多少高くても売れるだろうなぁ」

 ゼノンが言うと、クライトも頷いた。
 こうして期待してもらえると、料理人として腕が鳴る。


   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 ビスケットの生地をねる。水が違うので少し勝手は違ったが、なんとかまとまった。

「ちょっとだれてるかなぁ? 難しい」
「そうなの?」

 エルファが生地と睨めっこしていると、横で調理していたニケが尋ねてきた。気さくな性質たちなのかもう口調が砕けている。

「ここはグラーゼよりも水が素直で柔らかいですね。ビスケットだからいいですけど、パンだと水加減がちょっと難しいかもしれません。スペルト小麦は一般的な小麦粉よりもだれやすいので、何度か作ってみないことには」
「そっか。そうよね。水って出る場所によって味も違うし、ここらの水はさらっとして飲みやすいって言われてる。でもエルファは初心者じゃないんだから、きっとすぐに慣れるわよ。クライトさんがわざわざ勧誘してきたってことは腕がいいってことだし。ゼノンがいなかったら店を任せられてたと思うよ」

 それを聞いて、エルファは頬を引きつらせた。

「そんなに簡単に任せてしまうんですか?」
「クライトさんが言うならね」

 ニケは気さくに言う。クライトといいゼノンといい、普通では考えられないほどに信頼されているようだ。もっともエルファも彼の舌を信用したから、こんな遠くの国までやって来たのだ。口先だけなら絶対についてこなかった。

「そういえば、ニケさんは何を作っているんです? 美味しそうですね」

 彼女はパンを切って、野菜を挟んでいた。野菜の上にかかっている白いソースが美味しそうだ。

「明日の朝のティールーム担当や、配達用の商品作りをする連中の朝食なの。朝が一番忙しいのよ。だからさっと食べられるように用意してあげているの」
「ああ、なるほど。――それにしても立派な厨房ちゅうぼうですよね」

 エルファは周りを見回してそう言う。

「これでも手狭なのよ。うちはティールームと配達があるから、大量にお菓子や軽食を作らないといけないの。お菓子だけの販売もしているけど、商品が追いつかないぐらい人気なのよ」
「ここでも狭いんですか。商売繁盛ですね」

 広い厨房ちゅうぼうだった。それに、ぴかぴかに磨かれた作業台と鍋類。充実した調理器具の数々は、すべて大切に使われているのが見て取れる。

「さっきまでいた食堂も、昼間は作業場になるの。ミキサーみたいな大きめの道具を置いたり、品物を仕分けしたり包装したり」

 居室が狭いのに立派な食堂があると思ったら、作業場としての用途が主なのだろう。だけど、そうと気づかないほどに掃除が行き届いていた。

「大切に使われていて、温かみのあるいい厨房ですよね」

 磨き上げられ、汚れの一つもない鍋は、手を抜かない料理人がいるあかしだ。使わなければ使い込まれることはなく、使い込まれていてもぴかぴかなのは、物を大切に使っている証拠。
 綺麗な厨房は汚してはいけないという気になるから、その後も綺麗さが保たれる。そしてこれが習慣になれば、手間暇を惜しまない料理人が育つ。

「新店の厨房は設備も道具もみんな新品だけどね」
「ということは、これから自分達で厨房を作っていくんですね。新しい店も、居心地のいい場所になるといいですね」

 エルファはそう言いながら桶で手を洗い、荷物の中から麺棒めんぼうを取り出した。

「何それ? 陶器製の麺棒? 可愛い!」

 ニケは陶器製の麺棒を見て目を輝かせた。ハンドル付きで、マーガレットの模様がついている。

「お気に入りなんです。包丁とか、お菓子の木型とか、お気に入りを色々持ってきたんですよ」
「包丁は自分専用のを持ってる人が多いけど、そういうのを持ってきた人は初めてかも。ここでもお菓子をたくさん作るから、型はいっぱいあるのよ」

 と、彼女はケーキ型やクグロフ型など、様々な焼き菓子の型が置かれた棚を指さした。

「でも、自分だけのお気に入りっていいわね」
「ええ。地域差があって見た目も多種多様なので、コレクターも多いんですよ。私のこの木型は、先祖の聖女の形なんです」

 胸の前で手を組む女性の上半身をかたどった型だ。手の平ぐらいの大きさで、エルファの持つ型の中では一番地域性が出ている。

「どんな形になるの? せっかくビスケット作ってるんだしやってみてよ」
「いいですよ」

 取り出しやすくするために型に小麦粉をまんべんなく振ってから、余分な粉を軽く払う。そこに取り分けた生地を入れて押し込むように麺棒でのばす。木型からはみ出た分を糸でこそぎ落とし、ひっくり返してガンガンと作業台に叩き付けると、生地が型からがれた。

「これを焼いてお祭りの時に食べるんです」
「おお、それはいいかも!」

 ニケは聖女の形をしたビスケット生地を見ながらはしゃいだ。それから同じ物をいくつか作ると、麺棒めんぼうで残りの生地を均等にのばし、今度は厨房に置いてあったシンプルな型で抜いた。

「聖女様ビスケットこれだけ?」
「全部これだと抜くのが面倒臭いんです。少しだれ気味なので、抜きにくいですし。それに見た目が違うだけで、味は変わりませんから」
「そりゃそうか」

 今日のビスケットは、ナッツもハーブも入れないシンプルな物である。色々入れても美味しいが、何も入れなければ素材そのものの味がよく分かる。
 全て抜き終えて天板に並べると、事前に温めておいたオーブンに入れた。

「あとは焼き上がりを待つだけです。ニケさんも後で味見してくださいね。失敗してないといいんですけど」
「んじゃあ味見する! 普通の味覚しかないけど美味しいかどうかは分かるから任せなさい!」

 胸を張るニケを見てエルファは笑った。働き者で清潔感があって、好感が持てる。おまけに飲食に関わる仕事をしているのに、華奢きゃしゃで折れそうな腰をしている。どうしてそんなに痩せていられるのか、もう少し親しくなったら聞いてみようと思った。
 と、その時だ。

「た、助けてくれっ! 誰かっ!」

 どこからか助けを求める声が響いた。

「え、今の何?」

 ニケが開け放っていた窓から首を出す。エルファは思わず手近にあった麺棒を構えた。

「ぐおっ」

 男のうめき声が聞こえた。それほど遠くないようだ。ニケは慌てて頭を引っ込めて窓を閉める。

「そういえば最近、変なのがこの辺に出るってナジカが言ってた! 私、ゼノン呼んでくるっ」

 ニケは慌てて厨房ちゅうぼうを飛び出した。ゼノンは一見のんびりした気の弱そうな青年だが、実はかなり腕が立つ。旅の途中、一度柄の悪い男達に囲まれたが、一人で片付けてしまったほどだ。グラーゼに来たのも、料理人兼、荷物の護衛としてだったらしい。彼に任せれば大丈夫だろう。
 そう自分に言い聞かせていた時、何かが壊れるような音と苦悶くもんの声が聞こえ、エルファは思わず麺棒を抱え直した。
 声の主はどうなったのだろう。そう考えると我慢できず、そろりそろりと勝手口を開いて外の様子を見る。そこには正面の通りよりも狭くて薄暗い道があった。見える範囲には誰もいない。

「こ、殺さなっ」

 道の奥の方から男性が呻きまじりに命ごいをする声が聞こえたかと思うと、途中で途切れた。

「こ、殺しっ!?」

 心臓が跳ね上がった。ゼノンはまだ来ない。もしもここで何もしなかったがために、あの男性が死んでしまったとしたら。
 エルファの読んだ本では、いつも主人公はぎりぎり間に合わず、被害者は死んでしまうのだ。前の場面でのおしゃべりがほんの少し短かければ助かるような、ぎりぎりのところで。
 そこまで考えると、エルファは麺棒めんぼうを抱えて走り出した。
 角を曲がり、走りながらたくさんあるポケットの一つから小袋を取り出し、もう一度角を曲がる。
 すると目の前に背の高い男がいた。その向こうにはランプを持った数人の男と、血を流して倒れている男性も一人いる。

「きゃああああああっ!」

 エルファは小袋を投げるのを忘れて、麺棒を振り上げていた。

「人殺しっ!」

 目の前にいた男に、思い切り麺棒を振り下ろす。まともに殴られた男は、後ろに倒れて尻もちをついた。

「…………な、なんだっ!? 女!?」

 倒れた男の向こうから、別の男の声がした。
 我に返ったエルファは、手にしていた小袋を投げて後ろに下がった。

「なんっ、げほっげほっ、め、目がっげほっはっくしゅくしゅくしゅ」

 人殺し達は思い切り中の粉を吸ってくれたようだ。劇物のような香辛料を混ぜてあるので、目に入ったり、吸い込んだりすると大変なことになる。倒れている男性が吸い込んでいないことを祈りつつ、エルファはさらに下がった。

「てめっ、ごほっ、くしゅ」

 エルファが殴り倒した男は、腰をいていたためあまり吸い込まなかったらしく、口を押さえてゆらりと起き上がる。
 もう一度殴ることも考えたが、下手なことをして取り上げられたら相手に凶器を与えることになるし、何よりこれは調理器具だ。人が倒れているのを見てうっかり殴ってしまったが、本来人を傷つける道具ではない。
 時間は稼げたので、エルファは迷わず来た道を戻った。ゼノンもそろそろ外に出ているだろうから、合流すれば彼が何とかしてくれる。
 あの角を曲がればアパートがある。そう思って角を曲がったが、あるはずのアパートがなかった。ドアを開けっ放しで来たから、見落とすはずがない。あの短い間で、道を間違えた。

「きゃああああああああああっ、たすけてぇ!」

 何かあった時、必要なのは助けを呼ぶことだと教わっていたエルファは、走りながら人が無視できないほどの大きな声で悲鳴を上げた。長閑のどかな村で、畑を挟んだところにいる人と話すこともあったから、大きな声を出すのには慣れている。
 後ろを振り返ると、人殺しはまだ追ってきていた。犯罪者というのは、大きな音を立てると逃げるものだが、何故だろう。
 しかし、すぐに思い至る。エルファが顔を見たからだ。
 エルファは古典的な、しかし効果のありすぎる最終手段をとることにした。

「放火魔よぉぉぉぉぉおっ」

 人殺しは他人事だが、放火魔は他人事ではない。何しろ飛び火して自分の家まで燃える可能性もあるのだ。だから面倒臭がったり、怯えたりしている人でも慌てて外に出てくる。

「なっ、このクソアマっ」

 エルファがもう一度叫ぼうとした時、突然目の前に人が現れた。

「きゃっ」

 全力で前にいた人物に突っ込み、相手の胸板で鼻を打って後ろに倒れかけた。

「うわっと」

 前にいた誰かはびくともせず、逆に倒れかけたエルファの腰に手を回して抱きとめてくれた。

「大丈夫? あれが放火魔?」

 まだ若い――少年と言ってもいい男の声だった。顔を上げると、明かりを片手に持った、エルファと変わらない年頃の男の子が優しげな笑みを浮かべている。

「はい! 人を殺して、燃やそうとしてましたっ!」
「燃やそうとなんてしてねぇよ!」

 追いついてきた人殺しが反論する。

「火を持ってたじゃない!」
「あれはただの明かりだ!」

 でも仲間が火を持っていたから、放火しようとしていてもおかしくはない。自分は何も間違っていない!

「君は下がってて。放火はともかく、女の子を追い回す変質者なのは確実だから……あああっ」

 優しげな彼は、いきなり悲痛な声を上げた。

「や、夜食がっ!?」

 彼は地面に落ちた物を見て泣きそうな声を出した。そこにはパンが落ちていた。手提げ袋も落ちているから、そこから転がり出たのだろう。

「おのれっ、殺人鬼の放火魔めっ!」

 彼は地面に落ちていたパンではなく、その近くにあった帽子を拾って頭に被った。その時、しゃらりと鎖のような音がした。

「げっ、緑鎖りょくさかっ」
「ははっ、現行犯だな!」

 楽しそうな声を出して、その少年は何かを手にした。
 緑鎖。昼間、ゼノンが説明してくれた警察のことだと思い至る。つまりエルファは、運良く警察官の腕に飛び込んだのだ。
 運の悪い人殺しはきびすを返すが、少年が手の中の物を投げると、それは生き物が飛びかかるようにうねって男に絡みつく。男は一瞬宙に浮くようにして、そのまま転んでしまった。

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