1 / 1
さかな
しおりを挟む
僕は僕の左手が、僕の目を盗んで、たびたびその役割を放棄してることにしばらく前から気づいていた。
気づくと僕の左手は、死んだニワトリの足のようにみぞおちの辺りで、固く縮こまっているのだ。
僕がさっと目を向けると、魔法が解けたように左手はいつもの仕事に戻った。
つまり、書き物をするときに紙を押さえたり、飲み物のキャップを開けるときにボトルを押さえたり、頭を掻いたり、そんなことだ。
ある休日、僕は街に出ると刺青屋を訪ねた。
左手に刺青を彫ってほしいと僕は注文した。
「何を?」
「魚を」
それはただの思いつきだった。
注文通り、手首から肘までの前腕の部分に3匹のサカナが描かれた。
記号のようなとてもシンプルなデザインで、サカナは同じ方向に顔を向け一列に並んでいた。
僕はそのサカナの刺青が気に入った。
おかげで僕はチラチラと左手に目をやるようになり、左手はさぼる間も無く仕事をこなしているかに見えた。
しかし、左手は働くことを拒否する意思表示を僕に示してきた。
ある朝、目覚めてみると左手は巨大化していた。
ちょうど羽を畳んだダチョウが僕の肩から逆さにぶら下がっているような様子なのだ。
立ち上がってみると、手の甲は床にあたり窮屈そうに指先を丸めていた。
サカナは、水中に沈んだように、小さくなって皮下に埋もれてしまった。
仕方なく僕は、左腕を引きずるようにして会社に向かった。
もちろん、これは気持ちの問題なのだ。
本当に腕が巨大化したわけではないことは、僕にもわかっていた。
つまり、僕は病気なのだ。
しかし、そうは分かっていても、僕は行く手を阻む左手に蹴つまずかずにいられなかった。
病院か、刺青屋か、悩んだ末に僕は病院へ行くことにした。
というのも、僕が左の腕に耳を当ててみると、ぷくぷくと水音がするのだ。
そして、目を当てるとサカナは僕の腕の中で自由に泳ぎ回っているのだ。
僕はその一部始終を医者に話をした。
医者は特に驚いたふうでもなかった。
「薬を飲んでしばらく様子をみましょう」と医者は言った。
「その薬は僕が飲むのですか?」僕は聞いた。
「そうです」
「薬が必要なのは、僕ではなく、この左手ですよ」
「その考え方が、病気なんです。自覚をしてください」と医者は言った。
僕は薬をもらって、病院を出た。
医者が正論を言っているのは僕にだって分かっている。
しかし結局僕は、その足で刺青屋に向かった。
彫り師の男は、じっと腕組みをして僕の左腕を覗き込んだ。
彫り師が3度手を鳴らすと、サカナたちは水面に浮かび上がるように皮膚の表面に姿を表し、一列に整列した。
「さすがですね」僕は感心して言った。
彫り師は神妙な顔つきで僕を見返した。
その表情は、困惑しているようにも、全てを悟っているようにも見えた。
僕は礼を言って、店を出た。
しかし、しばらくするとサカナは尾ひれを翻し、再び水中深くへ潜っていってしまった。
手を叩いて呼びもどそうにも、僕の左の手の平はずっと遠くにあるのだ。
刺青屋に戻ることも考えたが、僕はあきらめてアパートに帰ることに決めた。
結局、何度呼び戻したところで、サカナはきっとまたどこかへ行ってしまうのだ。
医者からもらった薬は続けていたが、症状は改善しないばかりか、悪化していく一方だった。
僕はしだいに悪夢に侵されるようになった。
僕の腕の中でサカナが暴れるのだ。
夢の中の魚はカツオほどにも成長していて、尖った面先をぶつけて僕の腕を突き破ろうとする。
とうとう魚は大量の水しぶきとともに、僕の顔めがけて飛び出してくる。
「うわー!やめろー!」
いつもそこで目が覚めた。
体は本当に水を浴びたように、いつも汗でぐっちょりと濡れていた。
それでも僕が勤めを辞めずに通常の生活を続けていられるのは、ただ単に自分はおかしいのだということを自覚している一縷のまともさが残っているからなのだった。
しかし、周りの人間はしだいに僕のことを遠巻きに見るようになりつつあった。
それは、僕がありもしない左手の虚像につまづいたり、階段を登るときに左手を渾身の力で引きづり上げるような奇行のせいだろう。
巨大な左手に翻弄され、今や僕には時間内に信号を渡ることすら困難なのだ。
左手は、イカにもタコにもいかようにも好き勝手に姿を変えた。
すでに僕の左手には「手である」という概念はなく、僕にさえ、左肩に存在すべきは何なのか、わからなくなってしまっているのだ。
ある朝の通勤途中のことだ。
バスを降りると誰かに呼ばれた気がして、振り返るとそこに少女が立っていた。
「こっちよ」少女は僕を手招きをした。
幼い、とても美しい少女だった。
僕は直感でその少女は、現実のものではないと察した。
「ごめんね。これから会社に行かないといけないんだ」
僕は膝を曲げ、少女の目線に顔の位置を合わせて誘いを断った。
少女は僕の両頬を手の平で挟み、僕の唇に念入りなキスをした。
それで僕の意思はとろけてなくなった。
僕は少女に手を引かれて、生垣の合間から森へと続くトンネルをくぐり抜けた。
もちろん、そんなトンネルが街中にあるはずないことはわかっていた。
僕は少女に手を引かれて、森の道を歩いた。
不思議なことに少女に繋がれた左手はただの左手の形状を保っているのだ。 「君は誰?」僕は言った。
でも、そんなこと本当はどうでもいいような気がしてきた。
たまにひらひらと舞う蝶とすれ違った。
頭上高くで知らない鳥の声がした。
僕の頭の中では、少女にいたずらをする妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていたが、やがてそれも小さくなり消えて行った。
僕はただ、少女に手を引かれ、森の中を歩き続けた。
少女が足を止めると、そこには大きな泉が広がっていた。
音のない静かな場所だった。
少女は僕の左手のシャツの袖をまくり上げると、サカナの刺青を細く小さな指の先でそっとなぞった。
「あなたはサカナの形に自分を傷つけた」
少女が微笑むと、僕も微笑んだ。
「行きましょう」
僕らは水辺に立った。
僕は泉にそっと左手を浸した。
魚は水に放たれ、しばらく水面を3匹で並んで泳いでいたが、やがて水中に消えていった。
いつの間にか、少女の姿はなかった。
僕は左手を太陽にかざし、感覚を確かめた。
はじめからこうすればよかったことはわかっていたのに、僕は何故かそうすることを思いつけずにいたのだ。
気づくと僕の左手は、死んだニワトリの足のようにみぞおちの辺りで、固く縮こまっているのだ。
僕がさっと目を向けると、魔法が解けたように左手はいつもの仕事に戻った。
つまり、書き物をするときに紙を押さえたり、飲み物のキャップを開けるときにボトルを押さえたり、頭を掻いたり、そんなことだ。
ある休日、僕は街に出ると刺青屋を訪ねた。
左手に刺青を彫ってほしいと僕は注文した。
「何を?」
「魚を」
それはただの思いつきだった。
注文通り、手首から肘までの前腕の部分に3匹のサカナが描かれた。
記号のようなとてもシンプルなデザインで、サカナは同じ方向に顔を向け一列に並んでいた。
僕はそのサカナの刺青が気に入った。
おかげで僕はチラチラと左手に目をやるようになり、左手はさぼる間も無く仕事をこなしているかに見えた。
しかし、左手は働くことを拒否する意思表示を僕に示してきた。
ある朝、目覚めてみると左手は巨大化していた。
ちょうど羽を畳んだダチョウが僕の肩から逆さにぶら下がっているような様子なのだ。
立ち上がってみると、手の甲は床にあたり窮屈そうに指先を丸めていた。
サカナは、水中に沈んだように、小さくなって皮下に埋もれてしまった。
仕方なく僕は、左腕を引きずるようにして会社に向かった。
もちろん、これは気持ちの問題なのだ。
本当に腕が巨大化したわけではないことは、僕にもわかっていた。
つまり、僕は病気なのだ。
しかし、そうは分かっていても、僕は行く手を阻む左手に蹴つまずかずにいられなかった。
病院か、刺青屋か、悩んだ末に僕は病院へ行くことにした。
というのも、僕が左の腕に耳を当ててみると、ぷくぷくと水音がするのだ。
そして、目を当てるとサカナは僕の腕の中で自由に泳ぎ回っているのだ。
僕はその一部始終を医者に話をした。
医者は特に驚いたふうでもなかった。
「薬を飲んでしばらく様子をみましょう」と医者は言った。
「その薬は僕が飲むのですか?」僕は聞いた。
「そうです」
「薬が必要なのは、僕ではなく、この左手ですよ」
「その考え方が、病気なんです。自覚をしてください」と医者は言った。
僕は薬をもらって、病院を出た。
医者が正論を言っているのは僕にだって分かっている。
しかし結局僕は、その足で刺青屋に向かった。
彫り師の男は、じっと腕組みをして僕の左腕を覗き込んだ。
彫り師が3度手を鳴らすと、サカナたちは水面に浮かび上がるように皮膚の表面に姿を表し、一列に整列した。
「さすがですね」僕は感心して言った。
彫り師は神妙な顔つきで僕を見返した。
その表情は、困惑しているようにも、全てを悟っているようにも見えた。
僕は礼を言って、店を出た。
しかし、しばらくするとサカナは尾ひれを翻し、再び水中深くへ潜っていってしまった。
手を叩いて呼びもどそうにも、僕の左の手の平はずっと遠くにあるのだ。
刺青屋に戻ることも考えたが、僕はあきらめてアパートに帰ることに決めた。
結局、何度呼び戻したところで、サカナはきっとまたどこかへ行ってしまうのだ。
医者からもらった薬は続けていたが、症状は改善しないばかりか、悪化していく一方だった。
僕はしだいに悪夢に侵されるようになった。
僕の腕の中でサカナが暴れるのだ。
夢の中の魚はカツオほどにも成長していて、尖った面先をぶつけて僕の腕を突き破ろうとする。
とうとう魚は大量の水しぶきとともに、僕の顔めがけて飛び出してくる。
「うわー!やめろー!」
いつもそこで目が覚めた。
体は本当に水を浴びたように、いつも汗でぐっちょりと濡れていた。
それでも僕が勤めを辞めずに通常の生活を続けていられるのは、ただ単に自分はおかしいのだということを自覚している一縷のまともさが残っているからなのだった。
しかし、周りの人間はしだいに僕のことを遠巻きに見るようになりつつあった。
それは、僕がありもしない左手の虚像につまづいたり、階段を登るときに左手を渾身の力で引きづり上げるような奇行のせいだろう。
巨大な左手に翻弄され、今や僕には時間内に信号を渡ることすら困難なのだ。
左手は、イカにもタコにもいかようにも好き勝手に姿を変えた。
すでに僕の左手には「手である」という概念はなく、僕にさえ、左肩に存在すべきは何なのか、わからなくなってしまっているのだ。
ある朝の通勤途中のことだ。
バスを降りると誰かに呼ばれた気がして、振り返るとそこに少女が立っていた。
「こっちよ」少女は僕を手招きをした。
幼い、とても美しい少女だった。
僕は直感でその少女は、現実のものではないと察した。
「ごめんね。これから会社に行かないといけないんだ」
僕は膝を曲げ、少女の目線に顔の位置を合わせて誘いを断った。
少女は僕の両頬を手の平で挟み、僕の唇に念入りなキスをした。
それで僕の意思はとろけてなくなった。
僕は少女に手を引かれて、生垣の合間から森へと続くトンネルをくぐり抜けた。
もちろん、そんなトンネルが街中にあるはずないことはわかっていた。
僕は少女に手を引かれて、森の道を歩いた。
不思議なことに少女に繋がれた左手はただの左手の形状を保っているのだ。 「君は誰?」僕は言った。
でも、そんなこと本当はどうでもいいような気がしてきた。
たまにひらひらと舞う蝶とすれ違った。
頭上高くで知らない鳥の声がした。
僕の頭の中では、少女にいたずらをする妄想が浮かんでは消え、浮かんでは消えしていたが、やがてそれも小さくなり消えて行った。
僕はただ、少女に手を引かれ、森の中を歩き続けた。
少女が足を止めると、そこには大きな泉が広がっていた。
音のない静かな場所だった。
少女は僕の左手のシャツの袖をまくり上げると、サカナの刺青を細く小さな指の先でそっとなぞった。
「あなたはサカナの形に自分を傷つけた」
少女が微笑むと、僕も微笑んだ。
「行きましょう」
僕らは水辺に立った。
僕は泉にそっと左手を浸した。
魚は水に放たれ、しばらく水面を3匹で並んで泳いでいたが、やがて水中に消えていった。
いつの間にか、少女の姿はなかった。
僕は左手を太陽にかざし、感覚を確かめた。
はじめからこうすればよかったことはわかっていたのに、僕は何故かそうすることを思いつけずにいたのだ。
0
お気に入りに追加
1
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
アライグマがやる理由、僕がやらない理由
マツダシバコ
現代文学
ランドセルの中には色々なものが詰まっていた。けれど、どの中身も僕の興味を引かない。ランドセルには毎日、与えられたものが詰め込まれていく。やがて、ランドセルはいらないもので溢れかえってパンパンに腫れ上がる。僕はある日、山の上のクリーニング店を訪ねる。クリーニング店はランドセルを新品のようにきれいに洗い上げてくれた。しかし、その先には思いも寄らない展開が待っていた。
うさぎ
マツダシバコ
現代文学
森の子供たちはまず、うさぎの狩りから教わる。うさぎ、キツネ、鹿、イノシシ。そして、最後はクマだ。森の子供たちはそうやって大人になっていく。ギーはうさぎの狩りができなかった。うさぎと友だちになりたいのだった。けれど、森の掟はそれを許さなかった。狩りができなくては、森では大人と見なされない。
バーチャルパーク
マツダシバコ
現代文学
芝生の広場には一定の間隔ごとにカプセルが並んでいた。[39]番。それが彼にあてがわれたカプセルだった。カプセルの中で彼は様々なバーチャル世界を体験する。そしてそこにはいつも彼女の視線があった。突き刺すような恐ろしい視線だ。やがて、彼と彼女との関係性が明らかになっていく。それは、殺す側と殺される側という役割だった。繰り返し、繰り返し、その役回りは襲ってくる。逃げることはできない。
ホルスタイン
マツダシバコ
現代文学
子供の頃、6本指の男の子がいて、私はその子に憧れていた。何か自分だけの特別なもの。私だけの大切なもの。私はずっとそれが欲しかった。ある日、健康診断で見つかった小さな肝のう胞。それは私を幸せにしてくれた。
ことり箱
マツダシバコ
現代文学
街にはことり箱があった。ことり箱はピーチクパーチク騒がしい。だけど、街のみんなはことり箱を愛している。ことり箱があってのこの街だから、ことり箱あっての僕らだから。僕らは共に目覚め、共に出かけ、共に眠る。幸せは小鳥たちが運んできてくれる。大量の雨と共に。
天使ごっこ
マツダシバコ
現代文学
「昨日、寝ていたら枕元に神様がきてね、私を天使にしてくれるって。そう言ったの」さゆりちゃんは言った。私はさゆりちゃんがうらやましくて、さゆりちゃんのお弟子さんにしてもらうことにした。女の子なら誰もがあこがれる天使の存在。少し天然な主人公の勘違いな魔法をめぐって、奇妙な物語に巻き込まれていく。幼少期、思春期、成熟期と少女の成長を追っての3部構成。
田舎の娘、風が吹くを見て詠む事
はぎわら歓
恋愛
皇太子のニシキギは宮廷を抜け出し、一人の娘、ミズキを見初める。その娘と間違えられた地方受領の姫、クチナシは、自分とよく似た下女、ミズキと入れ替わる。ミズキは実はクチナシと従妹同士だった。
ミズキはニシキギと結ばれゆるゆると蜜月を過ごすが、やがて戦乱が始まる。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる