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巡りの始まり 8

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 ふと顔を上げ時刻を確認すれば僕がここに来てから既に四時間は経過していた。
 長時間文字を追っていたからか、目が酷く疲れている。
 開いていた読みかけの本を閉じ、床に置いていた他の本の上に重ねた。

 壁に背と頭を預け、一度深く目を閉じる。少し頭を休ませようと思った。しかし顔が上に向いているからか天井にある灯りのせいで目を閉じていても眩しい。

 ……寒いな。息が白い。確かここは魔道具の温度調整が効きにくいんだったか。加えて雨が降っていることも寒さの原因だろう。

 壁に頭を預けたまま左横の人物に視線を向ければ先程の威勢はどこへいったのか、すうすうと小さな寝息を立てて眠っていた。よく泣いた後は眠くなる、疲れる、と聞くからそのせいなのだろう。
 実体験がないのでそれが確かなのか本当のところは分からないが。

 僕は一つ溜息を吐くと指を鳴らし灯りを消した。
 これは魔道具の一種。決められた動作を行えば誰だって点ける事も消す事も可能だ。

 今日は月が出ていないから灯りの消えた室内は随分と暗い。そして相変わらず外からは窓を打つ雨の音が聞こえてきていた。

「寝るときくらい放したらどうです?」

 思わず呆れた声が出る。
 流石にこの暗闇の中で本を読むことは出来ないが、目が慣れてしまえば相手の表情くらいは認識できる。
 膝を立てて座りながら眠る彼女の腕の中には眠る前まで読んでいたであろう一冊の本が抱き抱えられていた。

 溜息をつきながらその本を取ろうとするが、寝ているはずなのに腕に力を込められていて中々取り出せない。
 寝ていてもこうなのか、と再度溜息が漏れた。

 無理に取ろうとしても取れそうにないので仕方なく本を掴む指を一本一本解いていく。すると彼女は小さく身動ぎをし、眉を寄せた。

「うう……負かす…」

 いったいどんな夢を見ているんだか。
 いや、もしかしなくとも夢の中でさえいつもと同じことを、僕やユーリに喧嘩をふっかけているのだろう。
 そう思うと呆れを通り越して感心してしまう。

 起きる気配がないことを確認し、再び指を解いていく。今度は身動ぎすることも寝言を発することもなかった。

 ようやく取り出すことのできた本を床に置き、投げ捨ててあった毛布を肩にかけてやる。
 この寒い中よく何も掛けずに眠れるな、と感嘆しながら。

 と、今度はかけてやったばかりの毛布を剥ぎ腕の中で丸め込んでしまう。

「………」

 ぐちゃぐちゃで一纏めになった毛布に顔を埋めくかー、と寝息を立てるその幸せそうな寝顔に何とも言えない気持ちになる。
 物理的に叩き起こしてやろうか。

 ユーリから聞いてはいたが、寝ている時は何かを抱きとめるのが癖のようだ。普通だったら微笑ましいんだろうが今この状況においては厄介以外の何物でもない。何故なら毛布がこの一枚しかなく、このまま寝かせておいたら確実に風邪をひいてしまうだろうからだ。見たところ夜中に起きて無意識に動き回ることは無くなったみたいだが……どちらにしろ迷惑な寝ぼけかただ。

 さてどうするか。
 僕が使っているのを貸してやってもいいがすると今度はこちらが風邪をひく羽目になるだろう。腕の中から奪い取るのも一つの手ではあるがそれではまた剥ぎ取ってしまう可能性が大きい。奪い取っては掛け直してを何度も繰り返すのは御免だ。
 かといってこのまま放置して風邪をひきでもしたら僕がシゼルに何を言われるか………

 他にいい方法もなかったので仕方なく互いの間にあった人一人分の距離を詰め自分とラロの身体を一枚の毛布で包んだ。これなら一人で毛布に包まるよりも暖が取れそうだ。

 魔法でいつもより弱めの灯りの球体を作り、それを頼りに読書を再開し始める。しかし数分と経たない内に左隣がもぞもぞと動き始めた。

 今度はなんだと目を向ければ、人肌が心地いいのかラロがこちらに擦り寄ってきていた。
 柔らかな黒髪が頬にかかって少しくすぐったい。

「はあ」

 本日溜息を吐くのは何度めのことだろうか。ここ数年はこういったことが多い。
 溜息を吐くと幸せが逃げるという話が本当ならこれから先一生僕には幸運なんて訪れないだろう、と思ってしまうほどに。

 ―――今直ぐなんて無理でしょうけど、それでもいつかきっと分かる時が来るわ。

 ふと思い出したその言葉に引きずられるようにして昔の記憶が頭を過る。

 薄れかかってきた昔の記憶の中の僕は溜息など吐くことがなかった。そんなものを吐く暇がなかったのか吐くような場面がなかったからかは忘れてしまったが、溜息を吐くのも悪くないかもしれない、などと考えるようになるとは……僕は随分と感化されていたらしい。

 この変化が良いものかどうかは分からない。
 ただ一つだけ不満があるとするなら、自分がこんなにも面倒くさい人間なのだと知ってしまったことに対してだろうか。

 暗く静寂の広がる部屋の中で窓を打つ雨音とラロの小さな寝息だけが聞こえている。

 寒いはずの室内で、左側だけがとても温かかった。




 *



 体を揺さぶられている気がして目が覚めた。どうかしたのだろうか、としょぼしょぼする目を開けてみれば何故か視界に入ってきたのは女男の顔。
 ……私は夢でも見ているのだろうか。
 こいつが私の使うこの部屋に入ってくるなどあり得ない。だから目の前にこいつがいること自体がおかしい。

 夢なんだろうな。夢とはいえ眠っている時までこいつの顔を拝む羽目になろうとは。

 なんとなくムカついたので奴の顔に手を伸ばす。

 おお、温かい。しかも柔らかいしすべすべだし、まるで本物のような手触りだ。
 以前シゼルがこいつの肌を羨ましいと言っていた理由が分かった気がする。

 ふにふにふにふに。引っ張ってみたり揉んでみたりを繰り返されているその顔は益々不機嫌さに拍車がかかっている。夢のはずなのに妙に現実味を帯びてるなあ。

 口の端を引っ張っても、頬を引っ張っても、目の下を引っ張っても、鼻を摘んでも、腹立たしい事に中々不細工にならない。夢ならこちらの望み通り不細工になってくれてもいいのに。つまらん。

 ああでも、こいつが不細工になったところって想像ができない。想像できないから夢なのに不細工になってくれないんだろうか。
 なんてうだうだとどうでもいいことを考えていたら、ゆらりと相手が片手を上にあげた。
 私はそれを目で追う。

 妙にゆっくりに感じる手が私の頭目掛けて落ちてきて……鈍い音と痛みに私の目は覚めた。

「っだ、ムグゥ!?」

 痛さに口から声が出かかって、しかしその声を遮るように口を奴の手で塞がれる。
 何をするんだ、と若干涙の浮かんだ目で訴えれば奴はまるで子供を宥めるかのようにしー、と自分の口の前で人差し指を立てた。

 段々と意識がハッキリしてくる。
 声をあげちゃいけないなら出させるなよ、と心の中で文句を言いつつも視線を動かして周りの状況を観察。

 私が今いるのは私とシゼルが使う部屋ではなく、何故か一階と二階を繋ぐ階段の最上段だった。

 なんで私はこんなとこに?と少し考えてからあ、またか、と状況を察する。

 私には幼い頃から変な癖、というか寝ぼけ癖がある。夜中に起きて、そこら辺を歩き回ったりしているらしい。らしいというのは自分では分からないからだ。ただ、朝起きると何故か廊下で寝ていたり、玄関で寝ていたり、ユーリに覆い被さって寝ていたりしている。そして毎回あれえ?と首を傾げているのだ。
 直そうにも無意識下の行動なので直せない。

 ここに来てからは直ったと思ってたのになあ。朝起きたらベッドから落ちている事はあれど、部屋から出たことは一度としてない。偶にシゼルを潰してる時もあるけど。

 なんだ、直ってなかったのか。ぬか喜びしちゃってたよ。

「フガフガァ(そろそろ苦しいんだけど)」

 それよりもさっきからずっと口と一緒に鼻まで塞がれていてまともに息が出来てない。苦しくなってきたんだが。

 口に当てられている手を叩き、声を出さないから解放してくれと目で訴える。だが、奴はニッコリといい笑顔を浮かべただけで手を放してくれるわけではない。それどころかギュウッ、と更に手を押し付けてきた。
 後退しようとしても背が段差にあたり、逃げることが叶わない。
 背を仰け反らせても手が追いかけてくる。
 その手をバンバン叩いても放れる気配はない。

 そして、私の息も限界だ。
 こうなったら。

 やけくそ気味に口を押さえている手に噛み付こうとして……空振りに終わった。噛み付こうとした瞬間手を退けやがったのだ。

「………」

 なんで今退けた。

 私が仰け反ったからか、いつの間にか奴は私に覆い被さるような態勢になっている。
 男にしては長く伸ばされた黒髪が顔に落ちてきて鼻がむず痒い。くしゃみが出そうだし、くすぐったくて笑いがこみ上げてくる。
 だが、決して笑ってなるものかと顔に力を込め、奴と視線を合わせた。

 自分で言うのもなんだが、笑いを堪える為に顔に力を込めた今の私の顔はさぞ笑いを誘うものになっているのではなかろうか。

 ああ、最近変顔ばかり上手くなっていく自分にちょっと泣けてくる。上手くなりたい訳じゃないのに。女の子なのに。

「?」

 妙に静かな奴に違和感を覚えた。

 いつもならこういう時『不細工ですね』と女の子に言ってはいけない言葉を奴は吐くのに何故か今日は何も言わない。いや言ってほしい訳ではないので言わないでくれるならその方がいいのだけど。

 それにさっきから微動だにしないのだが。

 真っ黒なその目を微かに見開いていて、何かに驚いているかのような……

「…そろそろ部屋に戻ってはどうですか?」

 気のせいだったようだ。

 私の上から退くと、わざわざ目の前で今の今まで私の口を押さえつけていた手をパンパンと払う。それについては何も言うまい。今更だ。そう、今更。だからキレるな私。

「言われなくても戻りますぅ」

 立ち上がり、階段を降りようとした私の腕をしかし奴は引き留める。

「なに?」
「寝ぼけているんですか?」
「え?ああ、なんか飲んでこようと思って」

 喉が渇いたし、それに少し肌寒い。何か温かい飲み物でも飲んでこようかな、と思ってのことだ。
 だから別に寝ぼけてはいない。寝室の場所くらい分かっている。

「その格好で、ですか」

 言われて、改めて自分の格好に目を向けてみる。ぶかぶかの夜着を着ている格好を。あれ、上しか着てない。寝る前にズボンもちゃんと穿いてたのに。

 顔を上げると、奴は少し眉を寄せている。夜着のズボンがいつのまにかどこかへいってしまったのは予想外だったが、それ以外は別段変なところはないと思うけど。
 というか、どうせ誰とも会わないんだから変な格好だとしても問題はない。

「この格好で、ですよ」

 言葉の意味がよく分からなかったが特に気になることでもなかったので私は奴の手を振り払い、今度こそ食堂へと向かった。

「くしゅっ」

 おっと今頃になってくしゃみが。




 食堂で温かいミルクを飲んだ後、体が温まったからか急激な眠気に襲われた。
 寝直そう。欠伸をしながらそう思い、部屋に向かおうとしたが階段を登りきってすぐ目の前にある談話室から光が漏れているのに目が止まった。

「……あんたこそ早く部屋に戻りなさいよ」

 ドアを開けてみれば予想通りというかなんというか。女男が椅子に腰掛けていた。さっき着ていた黒く丈の長いコートは椅子の背に掛けてある。
 いつも以上にカッチリとした服装なのも、こんな夜も本番の時間帯に帰ってきたのもつい先程まで屋敷に帰っていたからなのだろう。昼間出掛ける準備をしていた奴にユーリがどこに行くのか問いかけたら『一度帰省してきます』と返事をしていたのを聞いたから知っている。

 自分の家に少し帰るだけなのにそんなかしこまった服装をする必要があるなんて、やっぱり貴族って大変そうだ。最近通い出した学校で同年代の貴族の女の子達がひらひらキラキラとした重そうなドレスを着てるのをみると心底『庶民で良かった』と思う。年がら年中あんなのを着るなんて私は絶対御免だ。

「戻りたくはありますが……」

 女男は私の顔をじっと見つめた後、はあ、と溜息を吐きやがった。
 私の顔から視線を外さずに。

 頬が引きつってしまったのは仕方がないだろう。だって人の顔見て普通溜息吐くか?吐かないだろ。

「私のせいだってか」
「いいえ?貴女そっくりの顔をした人は人の気配に敏感でしょう」

 私じゃないなら私の顔見て言うな。そりゃ私とユーリは双子だし、性別は違うのにそっくりな見た目をしてはいるけどさ。

「あー、でもそっかあ。ユーリかあ」

 その理由は私にとって納得のいくものだった。
 あいつは私と顔は似てるのにそれ以外は正反対。神経質であり、気配に敏感だ。それに眠りも浅い。確かに夜中誰かが部屋に入ってきたりしたら目を覚ましてしまうだろう。

 ユーリのことがよく分かってる。毎日同じ部屋で過ごしていればそれくらい当たり前なんだろうか、と少し驚いた。
 そしてもう一つ驚いたことといえば……

「何ですか?」
「いや……なんていうか……」

 ……気、使えるんだ。

 そりゃ使えることは使えるんだろうけど、ならなんで私には使わないのかが不思議だ。
 だが、そう思いつつも声には出さない。出したら『気を使う必要がどこに?』と真顔で問い返されそうだ。
 うん、我ながらいい線いってるんじゃないか?

 まあいいや。眠い今そんなことはどうでもいい。

「それじゃ、私寝直すから」

 返事はどうせ返ってこないだろうから一言言い残してすぐに部屋から出た。

 今度は寄り道せずに部屋に戻り、部屋の脇に脱ぎ捨ててあったズボンを穿いて私はベッドに潜った。


 翌朝、誰かに揺さぶられている気がして目が覚めた。なんか夜中もこんな事あったなあ。
 似た出来事を思い出しながら目覚めた私の目の前にいたのは昨夜私を叩き起こした奴ではなく、その奴の話に上った人物。つまりユーリ君。

 ……あれ、なんでユーリがいるの?

 なんとなく嫌な予感がして周りに目を向ければ、私がいたのは今度は階段の最上段ではなく廊下のど真ん中。
 わーお。

「この馬鹿タレ!こんな寒い日にこんなとこで寝る奴があるか!」

 はい、おっしゃる通りでごぜーます。

 額に筋を浮かべた片割れに、私は朝っぱらから説教をされた。

 ちなみにズボンちゃんはまたどこかへいっていた。






 夢の中でユーリの説教が終わったと同時に目が覚めた。とても『いい目覚め』とは言えない寝覚めだ。

 せめて説教が始まる前に目を覚ましたかった。あ、でも最近は私が夜中寝ぼけて歩き回ったり部屋を出たりすることはなくなっていたから懐かしい気もする。

「あれ」

 朝、のはずたよね。多分。窓の外からは鳥の鳴く声が聞こえてくるのに目の前は薄暗い。そしてなんだか息苦しいし温かい。

 薄暗い中で目を凝らすと、自分の黒髪とは別に違う黒が紛れていることに気がつく。髪の流れている方向が違うのだ。

 温かい何かに押さえつけられている頭をグリグリと上に向けて、一瞬思考が停止した。

 人間、驚きすぎると声が出ないらしい。

 すぐ目の前、それも夢で見た以前よりも近い距離に奴、アルバンケールの顔があった。

 うわー、こんな近くから見ても相変わらずの綺麗な肌だな……って違う、そうじゃない!
 なんで私はこいつと一緒に寝ているんだ。それがおかしいだろ。
 もしかしなくとも私の頭を押さえつけてるのもこいつか!

「ねえ、ねえちょっと!」

 考えが上手く纏まらない。なのですぐに考えることをやめこれはいったいどういう状況だ、と奴に説明を求めるべく先程まで顔を埋めていた胸板を叩く。

「おい、起きろ女男!」

 思わず最近ではあまり使わないように意識していた乱暴な口調が飛び出るほどに私は焦っていた。
 バンバンバンバンと四回ほど叩いたところで奴はやっとうっすら目を開けた。そして私の方に視線を向ける。

「……おはようございます」
「いや、その前に放してよ」

 この状況で挨拶など要らん。

 奴は驚くことも焦ることもなく促されるままに私から手を放し、毛布を剥ぎ取るとのそのそと起き上がり、床で寝ていて凝ってしまったのか、伸びをしている。
 私はもう慣れているから気にならないが。

「もう昼ですか」
「え?あ、ほんとだ」

 時刻を確認すれば陣が起動するまで残り約一時間。随分とぐっすり眠っていたらしい。
 てっきりまだ朝だと思ったのに……って違う!

「ねえ、さっきの説明がほしいんだけど……」
「さっきの?……ああ、つい寒かったので抱き枕にしてました」

 ついじゃねーよ。
 ついで許されたら『魔がさした』と証言する痴漢魔相手に騎士団は出張ってこない。

「あんたは慣れてるんでしょうけど私、一応年頃の女の子だからね」
「女の子?誰がですか?」
「目の前」
「目の前には凶暴な誰かさんしかいませんが」

 誰かさんて誰だよ。いや私もよく使うけどさ。

 本当に不思議がっているようにキョトンとした奴のその顔を殴ってやりたい。勿論ぐーで。
 平手打ちなんて甘っちょろいものでなく、ぐーで。

「僕は先に出ますね。寄るところもあるので。それでは」

 拳を握り怒りから震えている私を置いて奴は欠伸をしながらドアノブに手をかけて、思い出したように「ああ」と振り返った。

「年頃の女の子さん、顔、よだれの跡が付いてますよ」

 無駄にキラキラした笑顔と共に一言言い残して奴は今度こそ出ていった。

 ………………………。

 だーーー!ほんっとムカつくあのクソ男!


 爽やかな朝を過ぎた時間帯。百はある自習室の一室で最悪な一日の始まりに一人地団駄を踏む私であった。


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