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第10章
それぞれの夏 6
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*
風も吹いていない招集所で、僕は向かい風を受けているような気分だった。
彼の走ったレースのことはいろいろ見たり聞いたりしたし、100mで高校歴代2位の記録を叩き出したときは全国でのニュースとしても報道されていた。
それでも目の前で藤枝を見るのは、中学三年のとき以来だった。
藤枝が僕を見ているのがわかった。僕もまた視線を返す。
「藤枝、オレはオマエともう一度走るために、僕はこの場所に帰ってきたんだ」
どんな反応をするのだろうと思っていると、藤枝は軽く微笑んだ。
その微笑みは、僕をバカにしているようには見えず、穏やかなものだった。
「僕も3年前の全中で相沢碧斗と同じ組になったとき、同じこと思ってた」
「同じこと?」
あの中学三年の大会の場面が頭の中で蘇る。
「中二のとき、僕は全中の準決で相沢碧斗に圧倒的な走りを見せつけられたんだよ。こんな奴がいるのかって。この人に勝ちたいと思って僕はずっと走ってきたんです」
初めて聞く話だった。深町くんと走ったことがあったように、僕は中学二年のときに既に藤枝と走ったことがあったのか。
「そうなのか……」
「それなのに陸上の舞台から消えてしまうから残念でしたよ。同姓同名の違う選手が現れたことにも驚いたけど」
おい、相沢碧斗。ここにも全国レベルでオマエを知ってる奴がいるぞ、と言いたかった。
「本物の相沢碧斗が愛知で復活したことは、深町から教えてもらって知ってたんだ」
このとき、深町くんと藤枝が繋がりがあったことを僕は初めて知った。
「南関東と東海大会が同じ日じゃなかったら観に行きたかったぐらい、僕は相沢碧斗を探してた」
「え」
「それが今日こうして同じ組で走れる。ある意味、決勝よりも大事なレース。スタートリストをみたときからずっとこのレースが楽しみでしかったなかった」
「……楽しみだったのは、オレも同じだ。今日はオレが藤枝に挑戦する番だ。オレは『天才』でも『万能』でもないけど、いまのオレができることをぶつける」
僕がそう応えると藤枝は微笑んだ。
「男子100m、最終コール始めまーす」
その声で、急に招集所の空気が張り詰めていくのがわかった。一組ずつ選手が呼ばれていくたびに緊張感が高まっていく。県大会も東海大会も緊張しなかったわけじゃないけれど、全国の舞台は何度立っても独特な雰囲気がある。
第1組がスタートし、第2組である僕たちが呼ばれた。
灼熱のトラックに足を踏み入れると、少し吐き気がした。緊張していることを自覚し、僕は軽くその場でジャンプし、スタートブロックのセッティングに向かった。
*
『位置について』
アナウンスがスタジアム内に響く。
小学生の頃に紗季と通っていたランニングスクールの先生に聞いたことがあった。なぜ走る前にトラックに一礼するのかと。走るのは自分一人なのに何をお願いしているのかと。
「感謝の気持ちを表しているんです。たしかに走るのは一人かもしれません。走りだせば誰かのフォローをもらったり、代わりを頼むことはできません。でも、ここまで来る中で多くの人に出会い、いろんなことを教えてもらい、いろんな助けをもらったはずです。いいライバルもいたかもしれません。いろんなことを気づかせてもらったかもしれません。そして走ることができる場所があること、その場までしっかり練習できて辿り着けたこと、自分を取り巻くすべての環境に感謝して、これからレースに挑みます、お願いしますという気持ちですね」
先生の話はいつも長かった。このときの話も、小学生の僕には正直にいってあまり理解できていたとは言えない。「感謝」というキーワードとして覚えていたぐらいだった。何に感謝をすればいいのかよくわからなかった。
でも今ならばわかる。
中学三年で陸上を辞めてから、またここに来るまでにいろんな人に出会った。愛知の高校に進ませてくれた両親にも感謝している、住まわせてくれた祖父母にも感謝している、出会った友人たちにも感謝している、いろんなことを気づかせてくれた人たちに感謝している、また走る場所があることにも感謝している。
その感謝をもって、いまできる最大限の力で走るために、トラックに向かって一礼するんだと。
「お願いします!」
僕はそう叫んでスタートブロックに向かった。
スタートブロックに足を乗せ、膝立ちの状態で大きく息を吐く。スタートラインに沿うように両手を置き、背中を軽く揺らす。
隣のレーンからは殺気なんじゃないかと思うような寒気を感じる。藤枝はそこに存在しているだけで、圧倒的なものを放っている。
中学三年の僕はこの雰囲気に圧倒されて、一歩目の時点で集中できず、すべてをへし折られてしまった。
いまは大丈夫。いまできることを精一杯やるだけだ。僕が僕であるために、今度こそ藤枝と最後まで走るんだ。
『用意』
意識が穏やかな水面のような状態に入っていく。何にも惑わされない、一番自分にぴったり合う感覚だ。
ピストルの音が聞こえた瞬間、僕はスタートブロックを蹴った。
風も吹いていない招集所で、僕は向かい風を受けているような気分だった。
彼の走ったレースのことはいろいろ見たり聞いたりしたし、100mで高校歴代2位の記録を叩き出したときは全国でのニュースとしても報道されていた。
それでも目の前で藤枝を見るのは、中学三年のとき以来だった。
藤枝が僕を見ているのがわかった。僕もまた視線を返す。
「藤枝、オレはオマエともう一度走るために、僕はこの場所に帰ってきたんだ」
どんな反応をするのだろうと思っていると、藤枝は軽く微笑んだ。
その微笑みは、僕をバカにしているようには見えず、穏やかなものだった。
「僕も3年前の全中で相沢碧斗と同じ組になったとき、同じこと思ってた」
「同じこと?」
あの中学三年の大会の場面が頭の中で蘇る。
「中二のとき、僕は全中の準決で相沢碧斗に圧倒的な走りを見せつけられたんだよ。こんな奴がいるのかって。この人に勝ちたいと思って僕はずっと走ってきたんです」
初めて聞く話だった。深町くんと走ったことがあったように、僕は中学二年のときに既に藤枝と走ったことがあったのか。
「そうなのか……」
「それなのに陸上の舞台から消えてしまうから残念でしたよ。同姓同名の違う選手が現れたことにも驚いたけど」
おい、相沢碧斗。ここにも全国レベルでオマエを知ってる奴がいるぞ、と言いたかった。
「本物の相沢碧斗が愛知で復活したことは、深町から教えてもらって知ってたんだ」
このとき、深町くんと藤枝が繋がりがあったことを僕は初めて知った。
「南関東と東海大会が同じ日じゃなかったら観に行きたかったぐらい、僕は相沢碧斗を探してた」
「え」
「それが今日こうして同じ組で走れる。ある意味、決勝よりも大事なレース。スタートリストをみたときからずっとこのレースが楽しみでしかったなかった」
「……楽しみだったのは、オレも同じだ。今日はオレが藤枝に挑戦する番だ。オレは『天才』でも『万能』でもないけど、いまのオレができることをぶつける」
僕がそう応えると藤枝は微笑んだ。
「男子100m、最終コール始めまーす」
その声で、急に招集所の空気が張り詰めていくのがわかった。一組ずつ選手が呼ばれていくたびに緊張感が高まっていく。県大会も東海大会も緊張しなかったわけじゃないけれど、全国の舞台は何度立っても独特な雰囲気がある。
第1組がスタートし、第2組である僕たちが呼ばれた。
灼熱のトラックに足を踏み入れると、少し吐き気がした。緊張していることを自覚し、僕は軽くその場でジャンプし、スタートブロックのセッティングに向かった。
*
『位置について』
アナウンスがスタジアム内に響く。
小学生の頃に紗季と通っていたランニングスクールの先生に聞いたことがあった。なぜ走る前にトラックに一礼するのかと。走るのは自分一人なのに何をお願いしているのかと。
「感謝の気持ちを表しているんです。たしかに走るのは一人かもしれません。走りだせば誰かのフォローをもらったり、代わりを頼むことはできません。でも、ここまで来る中で多くの人に出会い、いろんなことを教えてもらい、いろんな助けをもらったはずです。いいライバルもいたかもしれません。いろんなことを気づかせてもらったかもしれません。そして走ることができる場所があること、その場までしっかり練習できて辿り着けたこと、自分を取り巻くすべての環境に感謝して、これからレースに挑みます、お願いしますという気持ちですね」
先生の話はいつも長かった。このときの話も、小学生の僕には正直にいってあまり理解できていたとは言えない。「感謝」というキーワードとして覚えていたぐらいだった。何に感謝をすればいいのかよくわからなかった。
でも今ならばわかる。
中学三年で陸上を辞めてから、またここに来るまでにいろんな人に出会った。愛知の高校に進ませてくれた両親にも感謝している、住まわせてくれた祖父母にも感謝している、出会った友人たちにも感謝している、いろんなことを気づかせてくれた人たちに感謝している、また走る場所があることにも感謝している。
その感謝をもって、いまできる最大限の力で走るために、トラックに向かって一礼するんだと。
「お願いします!」
僕はそう叫んでスタートブロックに向かった。
スタートブロックに足を乗せ、膝立ちの状態で大きく息を吐く。スタートラインに沿うように両手を置き、背中を軽く揺らす。
隣のレーンからは殺気なんじゃないかと思うような寒気を感じる。藤枝はそこに存在しているだけで、圧倒的なものを放っている。
中学三年の僕はこの雰囲気に圧倒されて、一歩目の時点で集中できず、すべてをへし折られてしまった。
いまは大丈夫。いまできることを精一杯やるだけだ。僕が僕であるために、今度こそ藤枝と最後まで走るんだ。
『用意』
意識が穏やかな水面のような状態に入っていく。何にも惑わされない、一番自分にぴったり合う感覚だ。
ピストルの音が聞こえた瞬間、僕はスタートブロックを蹴った。
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