【完結】碧よりも蒼く

多田莉都

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第3章

かつて住んでいた町で 5

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*
 僕が立ち止まっているから慌てる必要はないと思ったのか、紗季はゆっくりと階段を降りてきた。
 スタンド裏の通路は、ほとんど歩いている人がいなかった。

『続きまして女子100mは第一組――』


 競技場内のアナウンスが少し遠く聞こえる。屋根のないスタンドと比べて、スタンド裏は屋根があり、影に覆われている。

 いま見ていたものから遠ざかったような感覚をどこかに感じつつ、目の前に近づいてくる紗季に言葉にできない感覚が胸の中で渦巻く。


「大きい声で人のフルネームを呼ぶなよ」


 僕がそう言うと、


「だってそうでもしないと止まらないだろうなって思ったから。別に違う人の名前を呼んだわけじゃないでしょ?」

 悪びれる様子もなく、腕組みをしながら紗季は言った。

「それとも、陸上競技場このばしょでは自分が有名人かもだから呼ばれたら困る?」

「……わざわざ目立つ必要はないだろ」

「目立つのを避けたい人がどうしてわざわざこの場所に帰ってきたの?」

「それは……」


 紗季の後ろに近づいてくる男の姿が見えた。紺のジャージに白Tシャツ、僕ではない相沢碧斗だった。


「もう自分がいない場所で、自分の名前での出場記録があって、しかもとんでもなく遅いタイムだって勝手にネット上で流されたら何があったんだって思うだろ?」


 僕は相沢碧斗を見ながら言った。
 何が起きているのかわからないであろう彼は何度も瞬きをしていた。


「ごめんね、碧斗。わけわかんないよね……。ええっと、どこから話せばいいのかわからないけど、あいつが貴方と同じ名前の『相沢碧斗』。ずっと影で貴方がウワサされてきた比較相手」

 簡潔な紹介を聞いて、彼は目を見開き「ええ!」と声をだした。

「あいつは……私と同じ小学校、中学校で同じ陸上部だったんだ。昔からとにかく足が速くて……碧斗も散々聞こえてきたとおり、あいつは速かったの。中2のときは100mを全中で優勝しちゃうぐらいに……」
「……そこまでだったけどな」

 僕は紗季の言葉を遮った。


「そこまでは順調だった。そこからはダメだったけどね。そこから先に行けなかった」

 僕がの言葉に紗季は「違う」と言った。少し強い口調で。

「違う。『行けなかった』んじゃない! 『行かなかった』んでしょう?」

「行かなかった?」
「藤枝くんに一回負けただけでしょ? それがなんだっていうの? もっと努力して、もっと練習すればよかったじゃない。もっと頑張ればもっと先に行けたかもしれないのに!」

 苛立ってしまうんだろうな、と思ったが不思議なことに自分が落ち着いていることがわかった。


「紗季まで、そんなことを言うのか」


 僕はため息をついた。


「どういう意味?」
「もっと努力? もっと練習? もっと先に? そんなことみんな言ってきたさ。どこかのコーチが偉そうに言ってたさ。オマエならできる、オマエはもっと速くなれる、もっと頑張れ、もっと練習しろ……」


 顔も名前も思い出せないコーチだ指導者だの声が頭で反芻する。
 オマエには才能があると認めてるんだ、と押し付けのような肯定。僕はあの指導者たちに認めてもらいたかったわけではない。 


「オレが練習してなかったとでも言うのか? 練習してきてないわけないだろ! オレは才能だけで走ってきたわけじゃない。小学生の頃から放課後に練習してきたさ。スタートからの姿勢、見る方向、腕の振り方、足の上げ方、何でもやってきたさ。それで記録も出してきた」

 中学2年の夏に出した「10秒67」、そのタイムを出したときはメディアにも取り上げられた。

 まだ1年の時間があるから、中学の歴代1位も狙うことができると騒がれたこともあった。
 僕自身も更新できると思っていた。僕こそが歴代1位になるんだと思っていた。


 しかし、そう簡単にタイムは縮まらなかった。

「オレのベストは中2の夏で止まってる。10秒67のまま。それでも、誰も文句は言わなかったけど」

 中2の秋以降、ベストタイムこそ更新はなかったが、出場する大会では優勝していた。
 おそらくは僕だけが中学記録までの差を縮められていないことに焦りを覚えていた。


「それでも中3の全中までは行けたけど……藤枝はあっさりと中学記録を更新した。オレの超えれない壁を超えた存在に出会ったんだ。それを理解した瞬間、頭なのか身体なのか……もうどっちだったのかよくわからないけど、オレの何かが走ることを拒否したんだ」


 全国大会の100m予選、トラックの途中で止まってしまった自分の記憶、今でも消すことができない。


「なのに……もっと頑張れだって?」
 
 僕は紗季を見た。
 紗季は僕を見たまま何も言わない。
 怒ってもいなければ悲しんでもいないような感情の伝わらない表情だった。


「もうオレに対する期待も応援も、すべて重たかった。すべてを捨てたはずだった。なのに……また自分の名前が陸上競技の記録に出てきたら、そりゃあ確かめたくなるだろ? 何が起きてるんだって」



 僕は、あっちの相沢碧斗を見た。
 彼もまた何を思っているのか、表情からはわからない。


「いや、別に相沢碧斗おまえは悪くないよ。ただの同姓同名、責任もなにもない。いまでも名前が出る理由が確かめられたから、もうそれでいいよ」


 彼もまた僕の名前に追いかけられた。ある意味、被害者だ。何も責めることはない。

「それで――」

 もう話を終わらせようとしたとき、紗季が口を開いた。僕は紗季に目を移した。


「もう飛べない相沢碧斗あなたは、少しずつ飛ぼうとしている相沢碧斗こっちのあおとを見て何か思うことはあったの?」

 


 
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