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第二話 ターブの魔鏡事件
第三章 画家組合の阿呆鳥
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「ところでミス・ディグビー、ひとつ聞きたいのですが――」
馬車旅も三日目に差し掛かってだいぶ打ち解けてきたころ、マディソンが興味深そうに訊ねてきた。
「絵描きに魔術の心得があるというのはよくあることなのですか?」
「ええ、結構よくあるわね」と、エレンは嬉しく答えた。ちっとも懐いてくれない猫がようやく寄ってきてくれたようだ。「ミセス・マディソン、たとえば一〇〇〇人あたりだったら魔力を備えた人間が何人くらいいるか知っている?」
「いいえ生憎。一人か二人ですか?」
「正解。大体そんなところね。サー・フレデリックの最新の統計によると、魔力を備える人間が生まれる割合は0.3%程度だそうなの。それも、ごく微細な力も含めてね」
「ああ、田舎の村にたまにいる一つだけお呪いを使えるおばあさんのような?」
「そうそう。そういう人も含めて一〇〇〇人に三人――職業的な魔術師としてやっていける程度の力となると、たぶんその十分の一くらいなの」
「つまり、一万人に一人ですか?」
「そういうこと。だから、独立した魔術師組合を持っている都市はアルビオンでは首都タメシスだけで、他の都市の場合、大抵は金細工師組合や画家組合、場合によっては鍛冶屋の組合なんかに一緒に入っていることが多いのよ」
「ああ、ならターブもそうなのですね?」
「ええ。最もターブの場合はタメシスから近いから、街道がこれだけ整った今は、魔術だけで一本立ちできると思った魔術師は大抵タメシスに出てきちゃうでしょうけど。ひと昔前はかなり強力な魔術師も画家組合に所属していたらしいわ」
「……ひと昔前っていつ頃です?」
「大タメシス街道が整備される前だから――六〇〇年前くらい?」
長命の契約魔と付き合うためか、魔術師全般の時間間隔は一般とは微妙にずれている。マディソンはちょっと面白そうに「そうですか」とだけ答えた。
そうして少しは打ち解けつつ三日目の馬車旅を続けていたエレンたちは、よく整備された大タメシス街道のおかげで、昼前にはターブの郊外へ着くことができた。
春の最中の保養地は大層賑やかだった。
エレンは先に出した速達郵便で予約しておいた新カナル通りの宿に着くとすぐ、長旅用に着ていた古ぼけたラシャの乗馬ドレスを脱ぎ捨て、白地に黒い水玉を散らした薄地綿のハイウェストドレスに着替え、派手なローズピンクのサッシュを結んだ。
この服は経費での新調である。
デザインは最新流行だが素材は中級品で、シンプルでオーソドックスな高級品が好みのエレンの日ごろの服装とは対極にある。
きついシニヨンにまとめた赤みがかったブロンドをほどき、鏝でしっかりカールさせてから崩れそうな形に結って、頬紅をしっかりはたいて整いすぎた青白い顔をできるだけ華やかに見せる。仕上げにローズウォーターを手首に振りかけてから、エレンはドレスの裾をつまんでくるっと回ってみせた。
「どうミセス・マディソン、果敢ない最後の機会にかけて保養地に夫捜しにやってきた若作りの御令嬢に見える?」
「ありあまるほどの機会をふるいにかけて最後の大物を狙っている野心的な御令嬢に見えますよ」と、保養地らしい麦わら製のボンネットにサッシュと同色のサテンのリボンを結びながらミセス・マディソンが請け合ってくれた。
「どういう設定なんですか?」
「だから、そういう設定よ」と、エレンは先の細すぎる黒いエナメル靴に足を突っ込みながら肩を竦めた。「ここだとどこに知り合いがいるかわかりゃしないもの! お互いよく顔は覚えていない昔の学校友達かなにかにばったり出くわしたら、セルカークのエレンの遠縁の従妹のセシリアとでも名乗っておくわ」
「お互い顔をよく知っているお友達に会ってしまったら?」
「その場合、この格好を見ればわたくしがわざと別人に見せかけようと思っていることは察してくれるはず。――わたくしが正気を失ったんじゃないかと案じるかもしれないけれどね! どっちにしろ声はかけてこないでしょ?」
「周到なご配慮ですね」と、マディソンは意外そうに言った。「それで、ミス・セシリア、本日はどちらへ夫捜しに?」
「当然まずは肖像画を頼みに行くわ。椅子駕籠を手配して頂戴」
エレンはレディ・アメリアの態度をまねてつんと顎をそびやかして命じた。
「はいマイ・レディ」
マディソンがやけに恭しく応じる。揺らぎの少ないダークブラウンの眸が面白そうに光っている。
椅子駕籠は保養地特有の二人担ぎの箱型の輿だ。
本来ならば一人で歩くのも難しい病人を運ぶための輿だが、およそ多少の財産のある女性保養客は、市内でのちょっとした移動には必ずこの駕籠を使う。使わなければまともな身分の婦人とはみなされないため、どうしたって使わざるを得ないのだ。
マディソンの手配で宿へと呼ばれてきた椅子駕籠は、正確には一人担ぎだった。前方は人間が担いでいるが、後方を担ぐのは古びた鉄製の自動機械人形だったのだ。
「あら、ターブ名物鉄人駕籠ね! いつ見ても二〇〇年前の設計とは思えないわ」
エレンがうっかり職業的な感嘆を漏らすと、前方の駕籠かきが吃驚した顔をした。
「お嬢さんよく知っていなさるねえ!」
「ちょっと本で読んだのよ」
エレンは慌ててごまかした。
ターブ名物鉄人駕籠――
アルビオン南部の魔術師のあいだではわりと有名なこの駕籠かきの自動機械人形は、二世紀前、星の処女王エスター陛下治世の末期に、往時のターブの社交会館の儀式長を務めていた通称「祭典魔術師」サー・チャールズ・スキナーが、新興の保養地に女王陛下を迎えるにあたって作成した一体に始まる。
祭典魔術師はターブ市内の主要な辻に、焔の息吹の精粋である焔玉髄を埋め込み、それぞれの間を息吹が通うようにして、その見えない息吹の線上を歩むように設計した初代の駕籠かき人形を作り上げたのだ。スキナーはこの技術によって女王に認められて騎士爵位を賜った。
焔玉髄は永遠に使えるものではないから、ときどき交換はされているのだろうが、今の自動機械人形が歩むのも、基本的には二世紀前に祭典魔術師が張り巡らした息吹の動線上である。この技術が後に応用されて首都タメシスに縦横無尽に張り巡らされた四種混合息吹を動力にした自動辻馬車網に発展していくのだが――それはまた別の話。
エレン自身も生来が火の性の魔術師であるため、「ターブの祭典魔術師」には、大先輩として大いなる敬意を払っている。
さて、その大いなる敬意の対象である鉄人駕籠の乗り心地は、お世辞にも最高とはいえなかった。
エレンは上下にガタガタ揺れる狭い縦長の箱の中にギュッと詰まって、ターブ市域の中心部である鉱泉館広場へと運ばれていった。
この保養地の中核のひとつである鉱泉館の前に広がる方形の広場で、中央の台座の上に初代の武骨な「鉄人」と肩を組んだ祭典魔術師の銅像があり、四方にはびっしりと淡い黄色の石造りの三階屋が並んでいる。(ターブ中心部の家屋は景観保持のために厳密な統一規格に従って立てられているのだ)。
一辺三〇フィート〈*約90m〉くらいの石畳の広場は――この保養地ではいつものことだが――老若男女の保養客でお祭りみたいに賑やかだった。
エレンとよく似た水玉模様の薄綿織と麦わらボンネットで装った巻き毛の娘たちがそこにもここにもいる。半分は野心的な御令嬢で半分は高級娼婦だろう。
ヴァイオリンを弾く大道芸人。
アイスクリームのカフェ。
プリムローズやヒヤシンスを売る古風な田舎風のドレスの花売り娘たち。
そんな賑やかな広場のなかを、鉄人駕籠が決まった線に従ってガタピシ動いている――自動機械人形を使っていない駕籠は好きに動けばいいのだが、みな基本的に同じ動線上を移動するのは長年の習慣の賜物だろう。広場に群れた保養客たちも、駕籠の移動するラインは心持よけている。
エレンは鉱泉館の向かい側の一軒の前で椅子駕籠から降りた。
途端、背後からヒュッと口笛を吹かれる。
「見ろよあのブロンド!」
「ゴージャスだねお嬢さん! 今日はまだ一人なの?」
若い男たちの冷やかしの声が架かるのはこの身なりでは致し方ない。エレンは気にせず目の前の建物と向き合った。
他のすべての三階屋と同じく、間口が狭く縦長の淡黄色の建物である。
黒い玄関扉の上にも門柱から突き出す一対の看板にも「画家組合」の文字が金色で書かれている。
左手の看板の下に黒い鳥籠が釣り下がって、真っ青に彩色された鳥型の自動機械人形が入っている。エレンが門柱の間に立つと、一拍おいて機械鳥の双眸がピカっと白っぽい閃光を放ち、ガラガラとひび割れた声で、
「よういらしたの客人よ! 御名を伺おう!」
と、古風な口調で告げてきた。
なかなかよくできた自動機械人形だ。さすがにターブの画家組合だとエレンは感心した。もしかしたら今でも結構有力な魔術師が所属しているのかもしれない。
「タメシスから来たディグビーよ。昔この町に住んでいた肖像画家を捜しているの」
エレンが率直に要件を告げても、機械鳥はもう言葉を発さなかった。
両目も全く閃かないままだ。
一体どうなっているのだろう?
エレンが所在なく立ち尽くしていると、
「お嬢さん、勝手に入るんだよ!」
と、背後から誰かが大声で教えてくれた。「その阿呆鳥は喋るだけなんだ! とにかくただ喋るだけ!」
「あらそうなの。ありがとう」
エレンは少々意気消沈しながら勝手に扉を押した。
機械鳥はもちろん沈黙したままだ。
黒い重い扉を押して入ると、カランカランと鐘が鳴った。
機械鳥は本当に単なる飾りだったらしい。
玄関ホールに入るなり、右手のドアが開いて、白いシャツの上に派手な緑のウェストコートを着たまだまだ若そうな男が現れた。
若者はエレンを見るなりまじまじと目を見張り、何となく怯えたような声で訊ねてきた。
「マ、マダム、本日はどのようなご用件で?」
「その前にあなたはどなた? この会館の従業員なの?」
「あ、はい。書記のソープといいます」
「そう。わたくしはミス・ディグビー。タメシスから来ました。昔この町で修行をしていたある肖像画家を捜しています」
「昔とは、いつ頃ですか?」
「三十年以上前でしょうね。アルフレッド・デールといいます。彼についての記録が何かあれば教えていただけますか? 今どこに住んでいるかを知りたいのです」
エレンが落ち着いた口調で頼むと、書記も落ち着きを取り戻した。
「分かりました。確認して参りますね。どうぞ、そちらの客間でお待ちください。すぐお茶を運ばせますから」
「ありがとうございます」
客間は玄関ホールの左手だった。
ごくごく小さな部屋ながら、画家組合会館の客間らしく、広場に面した窓の壁を除いた三方が大小さまざまな肖像画で埋め尽くされている。すぐにメイドが運んできた熱い紅茶を飲みながら、エレンはそれらの絵画を順に眺めていった。作者名とモデル名。描かれた場所と年代。どこかにアルフレッド・デールの名前があるかもしれない。
しかし、三方すべての壁を確かめても、デールという名前は見つからなかった。若きレディ・アメリアに見える肖像ももちろんない。
諦めて椅子に座り直して最後の茶を啜ってからすぐに、若い書記が紙片を手にして戻ってきた。
「ミス・ディグビー、お捜しの人物が見つかりましたよ!」と、得意そうに言う。「ミスター・デールは今でもこのターブの郊外に住んでいましたよ。川向うのウッドサイド村です。風見鶏荘という邸に住んでいるそうです」
「あらそうなの」
エレンはどうにか動揺を隠して答えた。
少なくともターブの画家組合は、ミスター・デールが死んでいるとは思っていないらしい。
――今日は四月の十七日よね……?
レディ・アメリアが〈合わせ鏡〉のなかにかつての恋人の死に顔らしきものを見たのは受胎告知の祝日たる三月二十五日。
もし気の毒なミスター・デールが本当に死んでいた場合、春の陽気の中で二十三日間放置されていた死体と対面することになる……のだろうか?
そう思うと胃のあたりがキューっと痛んだ。
エレンは決意した。
そのウッドサイド村へ向かう日の朝は何も食べないでおこう。
「ありがとうございます。ミスター・ソープ。本当に助かりました」
「お安い御用ですよ。お帰りに椅子駕籠をお呼びしましょうか?」
「ええ、よろしくお願いします」
書記がカラカラ鐘を鳴らして外へ出てからすぐ、またしてもドアの鐘が鳴った。
もう駕籠が来たのかと慌てて玄関ホールへ出ると、今まさに閉じたドアの前で、やたら身なりのいい長身の男が忌々しげに舌打ちをしていた。
「何なんだあの阿呆鳥は! 奴は一体何のために存在しているんだ?」
どうやら――先ほどのエレンと同じく――喋るだけの自動機械人形(オートマタ)に足止めを食らった口らしい。エレンは思わず忍び笑いを漏らした。
と、長身の男がハッとしたように顔を向けてきた。
どうやら今しがたまでエレンの存在に全く気付いていなかったらしい。
「失礼お嬢さん。愕かせてしまいましたね」
響きの良いバリトンで詫びながら帽子を外してくる。
エレンも慌てて詫びた。
「いえ、こちらこそ。不躾に笑ってしまって」
「あなたの笑い声ならいくらだって聞きますよ。たとえ私への嘲笑であれね!」と、男は快活に笑いながら、率直な賛美を滲ませた目でエレンの姿を眺めた。
エレンも同じくほれぼれと相手の姿を見上げた。
目の前の男はまさしく完璧な貴公子だった。年頃はエレンより五つ、六つ上だろうか? 艶のある黒い巻き毛を洒落た形に調え、シンプルだが一目で最上級と分かる乗馬服に身を包んでいる。
「もしかしたらあなたもあの鳥に悩まされた手合いですか?」と、男が面白そうに訊ねてくる。エレンは笑って頷いた。
「ええ。てっきりあの自動機械人形が取り次いでくれると思ったのに!」
「あれは全くひどい。親切な大道芸人が声をかけてくれなかったら、私は木偶の棒みたいにずっとドアの前に立ち尽くしているところだった。――ところでこの会館には誰も従業員がいないのかな? あなたは違いますよね?」
「ええ。わたくしも客ですわ。もう帰るところですけれど」
「それは残念だ。よろしければ――」
男がそこまで口にしたとき、残念なことにカランカランとドアの鐘が鳴って、若い書記が意気揚々と戻ってきてしまった。
「ミス・ディグビー、椅子駕籠が参りましたよ!」
「あ、あらありがとう! それではまた!」
エレンはいきなり襲ってきた激しい動悸に追い立てられるようにしてドアの外へと駆けだした。
エレンの姿が外へ消えるのを待って、貴公子が顎に手を当てて訝しそうに首をかしげた。
「――ミス・ディグビー?」
「あ、あの、旦那様」と、書記がびくびくと訊ねる。「お待たせして申し訳ありません。本日はどのようなご用件で?」
「その前に君は誰だい?」
「あ、すみません! この会館の書記のソープと言います」
「そうかソープ君。私はスタンレー卿だ。以前この町に住んでいたかもしれないある肖像画家を捜しているんだ――」
馬車旅も三日目に差し掛かってだいぶ打ち解けてきたころ、マディソンが興味深そうに訊ねてきた。
「絵描きに魔術の心得があるというのはよくあることなのですか?」
「ええ、結構よくあるわね」と、エレンは嬉しく答えた。ちっとも懐いてくれない猫がようやく寄ってきてくれたようだ。「ミセス・マディソン、たとえば一〇〇〇人あたりだったら魔力を備えた人間が何人くらいいるか知っている?」
「いいえ生憎。一人か二人ですか?」
「正解。大体そんなところね。サー・フレデリックの最新の統計によると、魔力を備える人間が生まれる割合は0.3%程度だそうなの。それも、ごく微細な力も含めてね」
「ああ、田舎の村にたまにいる一つだけお呪いを使えるおばあさんのような?」
「そうそう。そういう人も含めて一〇〇〇人に三人――職業的な魔術師としてやっていける程度の力となると、たぶんその十分の一くらいなの」
「つまり、一万人に一人ですか?」
「そういうこと。だから、独立した魔術師組合を持っている都市はアルビオンでは首都タメシスだけで、他の都市の場合、大抵は金細工師組合や画家組合、場合によっては鍛冶屋の組合なんかに一緒に入っていることが多いのよ」
「ああ、ならターブもそうなのですね?」
「ええ。最もターブの場合はタメシスから近いから、街道がこれだけ整った今は、魔術だけで一本立ちできると思った魔術師は大抵タメシスに出てきちゃうでしょうけど。ひと昔前はかなり強力な魔術師も画家組合に所属していたらしいわ」
「……ひと昔前っていつ頃です?」
「大タメシス街道が整備される前だから――六〇〇年前くらい?」
長命の契約魔と付き合うためか、魔術師全般の時間間隔は一般とは微妙にずれている。マディソンはちょっと面白そうに「そうですか」とだけ答えた。
そうして少しは打ち解けつつ三日目の馬車旅を続けていたエレンたちは、よく整備された大タメシス街道のおかげで、昼前にはターブの郊外へ着くことができた。
春の最中の保養地は大層賑やかだった。
エレンは先に出した速達郵便で予約しておいた新カナル通りの宿に着くとすぐ、長旅用に着ていた古ぼけたラシャの乗馬ドレスを脱ぎ捨て、白地に黒い水玉を散らした薄地綿のハイウェストドレスに着替え、派手なローズピンクのサッシュを結んだ。
この服は経費での新調である。
デザインは最新流行だが素材は中級品で、シンプルでオーソドックスな高級品が好みのエレンの日ごろの服装とは対極にある。
きついシニヨンにまとめた赤みがかったブロンドをほどき、鏝でしっかりカールさせてから崩れそうな形に結って、頬紅をしっかりはたいて整いすぎた青白い顔をできるだけ華やかに見せる。仕上げにローズウォーターを手首に振りかけてから、エレンはドレスの裾をつまんでくるっと回ってみせた。
「どうミセス・マディソン、果敢ない最後の機会にかけて保養地に夫捜しにやってきた若作りの御令嬢に見える?」
「ありあまるほどの機会をふるいにかけて最後の大物を狙っている野心的な御令嬢に見えますよ」と、保養地らしい麦わら製のボンネットにサッシュと同色のサテンのリボンを結びながらミセス・マディソンが請け合ってくれた。
「どういう設定なんですか?」
「だから、そういう設定よ」と、エレンは先の細すぎる黒いエナメル靴に足を突っ込みながら肩を竦めた。「ここだとどこに知り合いがいるかわかりゃしないもの! お互いよく顔は覚えていない昔の学校友達かなにかにばったり出くわしたら、セルカークのエレンの遠縁の従妹のセシリアとでも名乗っておくわ」
「お互い顔をよく知っているお友達に会ってしまったら?」
「その場合、この格好を見ればわたくしがわざと別人に見せかけようと思っていることは察してくれるはず。――わたくしが正気を失ったんじゃないかと案じるかもしれないけれどね! どっちにしろ声はかけてこないでしょ?」
「周到なご配慮ですね」と、マディソンは意外そうに言った。「それで、ミス・セシリア、本日はどちらへ夫捜しに?」
「当然まずは肖像画を頼みに行くわ。椅子駕籠を手配して頂戴」
エレンはレディ・アメリアの態度をまねてつんと顎をそびやかして命じた。
「はいマイ・レディ」
マディソンがやけに恭しく応じる。揺らぎの少ないダークブラウンの眸が面白そうに光っている。
椅子駕籠は保養地特有の二人担ぎの箱型の輿だ。
本来ならば一人で歩くのも難しい病人を運ぶための輿だが、およそ多少の財産のある女性保養客は、市内でのちょっとした移動には必ずこの駕籠を使う。使わなければまともな身分の婦人とはみなされないため、どうしたって使わざるを得ないのだ。
マディソンの手配で宿へと呼ばれてきた椅子駕籠は、正確には一人担ぎだった。前方は人間が担いでいるが、後方を担ぐのは古びた鉄製の自動機械人形だったのだ。
「あら、ターブ名物鉄人駕籠ね! いつ見ても二〇〇年前の設計とは思えないわ」
エレンがうっかり職業的な感嘆を漏らすと、前方の駕籠かきが吃驚した顔をした。
「お嬢さんよく知っていなさるねえ!」
「ちょっと本で読んだのよ」
エレンは慌ててごまかした。
ターブ名物鉄人駕籠――
アルビオン南部の魔術師のあいだではわりと有名なこの駕籠かきの自動機械人形は、二世紀前、星の処女王エスター陛下治世の末期に、往時のターブの社交会館の儀式長を務めていた通称「祭典魔術師」サー・チャールズ・スキナーが、新興の保養地に女王陛下を迎えるにあたって作成した一体に始まる。
祭典魔術師はターブ市内の主要な辻に、焔の息吹の精粋である焔玉髄を埋め込み、それぞれの間を息吹が通うようにして、その見えない息吹の線上を歩むように設計した初代の駕籠かき人形を作り上げたのだ。スキナーはこの技術によって女王に認められて騎士爵位を賜った。
焔玉髄は永遠に使えるものではないから、ときどき交換はされているのだろうが、今の自動機械人形が歩むのも、基本的には二世紀前に祭典魔術師が張り巡らした息吹の動線上である。この技術が後に応用されて首都タメシスに縦横無尽に張り巡らされた四種混合息吹を動力にした自動辻馬車網に発展していくのだが――それはまた別の話。
エレン自身も生来が火の性の魔術師であるため、「ターブの祭典魔術師」には、大先輩として大いなる敬意を払っている。
さて、その大いなる敬意の対象である鉄人駕籠の乗り心地は、お世辞にも最高とはいえなかった。
エレンは上下にガタガタ揺れる狭い縦長の箱の中にギュッと詰まって、ターブ市域の中心部である鉱泉館広場へと運ばれていった。
この保養地の中核のひとつである鉱泉館の前に広がる方形の広場で、中央の台座の上に初代の武骨な「鉄人」と肩を組んだ祭典魔術師の銅像があり、四方にはびっしりと淡い黄色の石造りの三階屋が並んでいる。(ターブ中心部の家屋は景観保持のために厳密な統一規格に従って立てられているのだ)。
一辺三〇フィート〈*約90m〉くらいの石畳の広場は――この保養地ではいつものことだが――老若男女の保養客でお祭りみたいに賑やかだった。
エレンとよく似た水玉模様の薄綿織と麦わらボンネットで装った巻き毛の娘たちがそこにもここにもいる。半分は野心的な御令嬢で半分は高級娼婦だろう。
ヴァイオリンを弾く大道芸人。
アイスクリームのカフェ。
プリムローズやヒヤシンスを売る古風な田舎風のドレスの花売り娘たち。
そんな賑やかな広場のなかを、鉄人駕籠が決まった線に従ってガタピシ動いている――自動機械人形を使っていない駕籠は好きに動けばいいのだが、みな基本的に同じ動線上を移動するのは長年の習慣の賜物だろう。広場に群れた保養客たちも、駕籠の移動するラインは心持よけている。
エレンは鉱泉館の向かい側の一軒の前で椅子駕籠から降りた。
途端、背後からヒュッと口笛を吹かれる。
「見ろよあのブロンド!」
「ゴージャスだねお嬢さん! 今日はまだ一人なの?」
若い男たちの冷やかしの声が架かるのはこの身なりでは致し方ない。エレンは気にせず目の前の建物と向き合った。
他のすべての三階屋と同じく、間口が狭く縦長の淡黄色の建物である。
黒い玄関扉の上にも門柱から突き出す一対の看板にも「画家組合」の文字が金色で書かれている。
左手の看板の下に黒い鳥籠が釣り下がって、真っ青に彩色された鳥型の自動機械人形が入っている。エレンが門柱の間に立つと、一拍おいて機械鳥の双眸がピカっと白っぽい閃光を放ち、ガラガラとひび割れた声で、
「よういらしたの客人よ! 御名を伺おう!」
と、古風な口調で告げてきた。
なかなかよくできた自動機械人形だ。さすがにターブの画家組合だとエレンは感心した。もしかしたら今でも結構有力な魔術師が所属しているのかもしれない。
「タメシスから来たディグビーよ。昔この町に住んでいた肖像画家を捜しているの」
エレンが率直に要件を告げても、機械鳥はもう言葉を発さなかった。
両目も全く閃かないままだ。
一体どうなっているのだろう?
エレンが所在なく立ち尽くしていると、
「お嬢さん、勝手に入るんだよ!」
と、背後から誰かが大声で教えてくれた。「その阿呆鳥は喋るだけなんだ! とにかくただ喋るだけ!」
「あらそうなの。ありがとう」
エレンは少々意気消沈しながら勝手に扉を押した。
機械鳥はもちろん沈黙したままだ。
黒い重い扉を押して入ると、カランカランと鐘が鳴った。
機械鳥は本当に単なる飾りだったらしい。
玄関ホールに入るなり、右手のドアが開いて、白いシャツの上に派手な緑のウェストコートを着たまだまだ若そうな男が現れた。
若者はエレンを見るなりまじまじと目を見張り、何となく怯えたような声で訊ねてきた。
「マ、マダム、本日はどのようなご用件で?」
「その前にあなたはどなた? この会館の従業員なの?」
「あ、はい。書記のソープといいます」
「そう。わたくしはミス・ディグビー。タメシスから来ました。昔この町で修行をしていたある肖像画家を捜しています」
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「三十年以上前でしょうね。アルフレッド・デールといいます。彼についての記録が何かあれば教えていただけますか? 今どこに住んでいるかを知りたいのです」
エレンが落ち着いた口調で頼むと、書記も落ち着きを取り戻した。
「分かりました。確認して参りますね。どうぞ、そちらの客間でお待ちください。すぐお茶を運ばせますから」
「ありがとうございます」
客間は玄関ホールの左手だった。
ごくごく小さな部屋ながら、画家組合会館の客間らしく、広場に面した窓の壁を除いた三方が大小さまざまな肖像画で埋め尽くされている。すぐにメイドが運んできた熱い紅茶を飲みながら、エレンはそれらの絵画を順に眺めていった。作者名とモデル名。描かれた場所と年代。どこかにアルフレッド・デールの名前があるかもしれない。
しかし、三方すべての壁を確かめても、デールという名前は見つからなかった。若きレディ・アメリアに見える肖像ももちろんない。
諦めて椅子に座り直して最後の茶を啜ってからすぐに、若い書記が紙片を手にして戻ってきた。
「ミス・ディグビー、お捜しの人物が見つかりましたよ!」と、得意そうに言う。「ミスター・デールは今でもこのターブの郊外に住んでいましたよ。川向うのウッドサイド村です。風見鶏荘という邸に住んでいるそうです」
「あらそうなの」
エレンはどうにか動揺を隠して答えた。
少なくともターブの画家組合は、ミスター・デールが死んでいるとは思っていないらしい。
――今日は四月の十七日よね……?
レディ・アメリアが〈合わせ鏡〉のなかにかつての恋人の死に顔らしきものを見たのは受胎告知の祝日たる三月二十五日。
もし気の毒なミスター・デールが本当に死んでいた場合、春の陽気の中で二十三日間放置されていた死体と対面することになる……のだろうか?
そう思うと胃のあたりがキューっと痛んだ。
エレンは決意した。
そのウッドサイド村へ向かう日の朝は何も食べないでおこう。
「ありがとうございます。ミスター・ソープ。本当に助かりました」
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「ええ、よろしくお願いします」
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「何なんだあの阿呆鳥は! 奴は一体何のために存在しているんだ?」
どうやら――先ほどのエレンと同じく――喋るだけの自動機械人形(オートマタ)に足止めを食らった口らしい。エレンは思わず忍び笑いを漏らした。
と、長身の男がハッとしたように顔を向けてきた。
どうやら今しがたまでエレンの存在に全く気付いていなかったらしい。
「失礼お嬢さん。愕かせてしまいましたね」
響きの良いバリトンで詫びながら帽子を外してくる。
エレンも慌てて詫びた。
「いえ、こちらこそ。不躾に笑ってしまって」
「あなたの笑い声ならいくらだって聞きますよ。たとえ私への嘲笑であれね!」と、男は快活に笑いながら、率直な賛美を滲ませた目でエレンの姿を眺めた。
エレンも同じくほれぼれと相手の姿を見上げた。
目の前の男はまさしく完璧な貴公子だった。年頃はエレンより五つ、六つ上だろうか? 艶のある黒い巻き毛を洒落た形に調え、シンプルだが一目で最上級と分かる乗馬服に身を包んでいる。
「もしかしたらあなたもあの鳥に悩まされた手合いですか?」と、男が面白そうに訊ねてくる。エレンは笑って頷いた。
「ええ。てっきりあの自動機械人形が取り次いでくれると思ったのに!」
「あれは全くひどい。親切な大道芸人が声をかけてくれなかったら、私は木偶の棒みたいにずっとドアの前に立ち尽くしているところだった。――ところでこの会館には誰も従業員がいないのかな? あなたは違いますよね?」
「ええ。わたくしも客ですわ。もう帰るところですけれど」
「それは残念だ。よろしければ――」
男がそこまで口にしたとき、残念なことにカランカランとドアの鐘が鳴って、若い書記が意気揚々と戻ってきてしまった。
「ミス・ディグビー、椅子駕籠が参りましたよ!」
「あ、あらありがとう! それではまた!」
エレンはいきなり襲ってきた激しい動悸に追い立てられるようにしてドアの外へと駆けだした。
エレンの姿が外へ消えるのを待って、貴公子が顎に手を当てて訝しそうに首をかしげた。
「――ミス・ディグビー?」
「あ、あの、旦那様」と、書記がびくびくと訊ねる。「お待たせして申し訳ありません。本日はどのようなご用件で?」
「その前に君は誰だい?」
「あ、すみません! この会館の書記のソープと言います」
「そうかソープ君。私はスタンレー卿だ。以前この町に住んでいたかもしれないある肖像画家を捜しているんだ――」
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友達だと思ってたのに、催眠術をかけられ体が敏感になって容赦なく何度もイかされる。気づけば彼なしではイけない体に作り変えられる。SM調教物語。
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