令嬢諮問魔術師の事件簿

真魚

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第一話 グリムズロックの護符事件

第七章 蝶の導き 2

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 蝶はずいぶん森の深くまで分け入ってゆくようだった。

 ようやく羽ばたきが止ったのは、木々に囲まれた円形の小広場を思わせる小さなくぼ地だった。空気精霊が報せた通り、真ん中に古いオークの古木がある。
 葉を落とした枝を天蓋のように広げた巨木の根元にはかなりの雪が残っていた。その根雪の手前に、目に染みるほど鮮やかな深紅の花の群生があった。
 朽ちた花びらの蝶はその花の上で震えると、サラサラとした淡金色の微粒子に変じて零れ落ちていった。

「ご苦労様」と、エレンは呟いた。
 夕べの無理がたたっているのか、また少し目眩がする。

 この森は土と水の息吹プネウマが濃厚である。
 焔の性のエレンにとっては最良の環境とはいえない。
 他の場所なら殆ど疲労せずに使える小さな技を用いるだけでも、深い霧のなかで無理やり火打石を打ち付けているような徒労を感じてしまう。
 エレンはひとまずその場にしゃがみこむと、怖ろしいほど鮮やかな『怠惰な恋の花』の色調を眺めながら、この先どうしたものかと考え始めた。


 ――こうして物証も見つかったのだから、ひとまずタメシスに戻って警視庁ヤードに報告しようかしら?


 犯人が誰であれ、ジョン・クルーニーに魅了魔術チャームが用いられている可能性が高い以上、裁くのは王室つき魔術師たる「魔術卿ロード・マギステル」が統括する月室庁裁判所ムーンチェンバーだ。これだけ確固たる物証があるなら、どうもみ消そうとしたって捜査はなされるはずだ。


 --よし決めた。ミスター・ニーダムに連絡をとって、サー・フレデリックに報せてもらおう。


 どっちにしたって組合長には成り行きを説明しなければならないのだ。
 エレンは念のためもう一、二枚、万が一のときの証拠として示すために花びらを採取しておくことに決めた。
 しんどいけれど仕方がない。

 これが最後の一仕事だ。
 エレンがよろよろと立ち上がり、虚空を抱くように腕を広げて空気精霊エアリアルを呼ぼうとしたとき、背後でカチリと固い音がした。
 同時に聞き覚えのない若い女の声が言う。


「魔法使い。そのままこちらを向きなさい。おかしな真似はしないでよ? 私は短銃ピストルを持っています」


 声は微かに震えていた。
 緊張しきっているようだ。

 両手をあげたまま恐る恐る振り向くと、くぼ地を囲む木々のあいだに、全く知らない若い娘が立っていた。

 年頃は二十一、二だろうか? 
 中背で、やや浅黒いハート形の顔をしている。白地に紺の縦縞のつつましやかなドレスにもったりとした苔緑色のショールを重ね、同じ色のボンネットを被っている。寒さのために赤らんだ頬と真っ赤になった唇。くっきりとした黒い眉を吊り上げたさまがいかにも勝気そうだ。一目で聡明だと分かる濃い茶色の眸に燃えるような怒りと恐怖が宿っている。

 その手には本当に短銃が握られていた。
 エレンはほっとした。

 燧石フリントではなく凝石エレクタを使った魔術式の短銃のようだ。

 純粋の焔の性の凝石は、エレンにとっては最も忠実な召使に等しい。たとえこの森の中だろうと容易く従わせられる。

焔玉髄フラマゲート。燃えて滅しなさい」

 声に微細な魔力を籠めて命じるなり、短銃の着火装置のあたりが淡い金色の光を放ったかと思うと、金色を帯びた赤い焔がぱっと燃え上がった。
「きゃ!」
 娘が小さく叫んで短銃を投げ捨てる。エレンはそのままの姿勢で呼んだ。

空気精霊エアリアル! わが魔力グラマーを与える! つむじ風を起こしてその銃をこちらへ!」

 濃く爽やかな月桂樹のような香りがぱっと立ち上るのと同時に、耳元でビブラートのかかった声が震える。


 ――承った女主人ミストレス……

 
 次の瞬間、エレンの足元で朽ち葉が巻き上がり、小さなつむじ風が、朽ち葉を巻き上げ、月桂樹めいた方向をまき散らしながら地面を走って短銃を巻き上げるなり、忠実な小さなダックスフントみたいにまた足元へと戻ってきた。

「ご苦労様。ありがとう」


 何とか告げ、強烈な目眩を堪えて腰をかがめて短銃を手にとる。
 途端に風の勢いが衰え、くるくると落ち葉を回しながら静まっていった。

 巻き上げられていた最後の葉の一枚がエレンの黒いブーツのつま先の上へと落ちるさまを、見知らぬ娘が右手を抑えたまま呆然と凝視していた。
 エレンは慣れない短銃を手にしたまま眉をよせた。
「火傷をしたの? 加減はしたつもりだったのだけど。見せて。痛むなら癒すから」
 近づくなりヒッと喉を鳴らして後ずさってしまう。

「よ、よらないで魔女! あんた何者なの? いつ、どうやってジョンに魅了魔術チャームをかけたの!?」
「え、わたくしが!?」
 エレンは愕いた。
 同時に目の前の怒りながら慄く若い娘の正体を察した。

「――あなた、もしかしてミス・シシー?」
「教えるはずないでしょう? 魔女に名前なんか!」
 娘は――おそらくはシシー・エヴァンスは、果敢に言い返しながらまたしても後ずさった。と、背中が古木の幹に突き当たってしまう。はずみでボンネットが外れて、光沢のある美しい赤褐色の髪が露わになった。三つ編みを編んで巻き付けた可愛らしい髪形が、幼さを残した顔立ちによく似合っている。

「ああ、あなたやっぱりミス・シシーね」と、エレンは怯える年下の娘を宥めるために敢えて笑顔を浮かべながら言った。「ミス・エリザベスの言った通り、まるで桃花心木マホガニーを磨いたみたいに綺麗な髪だもの」

「……――あの子とそんな話を?」
 シシーが戸惑った声で言う。
「ええ」
 エレンは頷いて、短銃を相手に差し出した。
「お返しするわ。着火装置の焔玉髄を燃やしちゃったから、残念ながらすぐには使えないけれど」
「あなた――本当に魔法使いなの?」
「見て分からなかった?」
 エレンは少なからず心外さにかられて答えた。「わたくしこそ訊きたいのだけれど、あなたがミス・シシーだとしたら、一体ここで何をしているの? ミスター・ジョンとの婚約を破棄されて以来、ずっと御病気で家に閉じこもっていると聞いていたのに」
「家に閉じこもっていたのは本当。でも病気のせいじゃない」と、シシーは顔を悔しそうに顔を歪めて答えた。「そこの花を見張るためよ――正確には、そこの花を摘みに来るかもしれない隠れた魔法使いが誰なのかを見張るため。牧師館の屋根裏部屋からは、この森へ入る入口がよく見えるの」
「そのためにずっと家に? もう何か月も一人で?」
 エレンは呆れながら感嘆した。「あなた男ならきっといい警察官になれるわ! ああもう信じられない、こんな有能な人材が含まれる人類の半分を無駄にしているなんて!」
「なにその感想」と、シシーがくすりと笑う。「本当にあなた何者? パーシー一族に頼まれてジョンに怪しい薬を盛っている悪い魔女って風には、全然見えないんだけど」
「そうね。わたくしは善い魔女です」と、エレンは自信を持って答えた。「パーシー一族とも何の関係もありません」
「なら何でここに?」
「警視庁の捜査のため――いえ、今はまだ個人的な調査の段階かしらね?」答えながらエレンは腹を決めた。この娘は信頼できる。

「間違いなく関係者ではあるのだから、あなたには打ち明けておきます。わたくしはエレン・ディグビー。タメシス警視庁任命の諮問魔術師です」
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