令嬢諮問魔術師の事件簿

真魚

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第一話 グリムズロックの護符事件

第七章 蝶の導き 1

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 気合を入れて子供部屋へ向かったエレンは、室内に入るなり叫びそうになった。

 前庭に面する窓がすべて空いている。
 そして子供がいない!
 まさか落ちたのだろうか?

「--ミス・エリザベス? ミス・エリザベス!?」
 呼びながら窓辺に駆け寄ったとき、いきなり背後から小さな体が体当たりをしてきた。
エレンは思わず叫びながらも、咄嗟に両手を伸ばして窓枠をつかんだ。
 全身から血の気が引いている。

「なぁんだ。つまんないの。そのまま落ちちゃえばいいのに」
 背後から小生意気な子供の声が言う。

 エリザベスだ。
 物陰に隠れて、こちらが窓辺に寄るのを待ち受けていたのだ。
 エレンはあまりの恐怖のためにどくどくと高鳴る鼓動が落ち着くのを待ってから、おもむろに振り返るなり、平手でぴしりとエリザベスの頬を叩いた。
 途端、子供がかっと目を見開いて怒鳴る。
「なにするのさ使用人のくせに! お母さまにいいつけてやる!」
「ええお好きになさい!」エレンは万感の怒りを込めて怒鳴った。「あなた、自分が何をしたのか分かっているの!? 今のは殺人未遂です。警視庁に訴えたらあなたは逮捕されます! 一瞬の衝動のために、自分自身と家族すべてと沢山の使用人たちの人生、そのすべてを台無しにするつもり?!」
 両手で肩をつかんで揺さぶりながら叱ると、子供は顔を真っ赤に染め、次の瞬間大声で泣き叫び始めた。

「嫌い、嫌い、嫌い、あんたなんか大っ嫌い! シシーに会いたい! シシーに会わせてよー―!」
 泣きじゃくる子供の姿は傷ましかった。
 おさげに編んだ金髪が乱れ、エプロンドレスのフリル付きの袖が肩からずり落ちている。エレンが思わず直すと、エリザベスは忌々しそうに舌打ちをした。
「--へええ、もうご機嫌取り? お母さまに言いつけられるのはやっぱり怖いんだ?」
「いいえ。それはお好きになさい。あなたのお母さまはあなたよりはるかに良識がありますからね。娘の殺人未遂を咎めたという理由で家庭教師を解雇はしないでしょう」
「じゃ、なんで優しくするのさ」
「あなたが気の毒だから。――ミス・シシーとは、もうずっと会っていないの?」
 顔を覗き込むようにして訪ねると、エリザベスはくしゃっと顔を歪め、また新しい涙を零しながら頷いた。
「ジョンがあんまりひどいことをしたから、シシーは病気になっちゃったんだ。ずっと家に閉じこもって一歩も外に出られないんだ。シシーはきっと私のことだって嫌いになっちゃったに決まっている……」
 エリザベスが肩を震わせて泣いていた。
 エレンは思わず小さな体をぎゅっと抱きしめていた。
「大丈夫、大丈夫。そんなに泣かないの。ミス・シシーは優しい善い人だったのでしょう?」
「そうだよ。本当の姉さんみたいだった」
「だったらきっと本当に御病気で寝ているだけよ。良くなったらきっとすぐまた来てくれますよ」
「本当?」
「ええ。きっとね。だから今日のお勉強を始めましょう。ミス・シシーはどんなふうに教えてくださっていたの?」
 エリザベスはしばらくうつむいていたが、そのうちにぽつぽつと話し始めた。
 エレンは家庭教師としては全くの素人である。ここはひとつ有難く、なにからなにまでミス・シシーのやり方を踏襲させて貰うことにした。



 一度机に向かわせることさえできれば、エリザベスはわりと利発で集中力のある子供だった。昼までにすべての課題をここなさせ、子供部屋で一緒に昼食をとってから、哀しげな顔をしたヘスターに引き渡す。

 エレンはそのあとで散歩に出ることにした。
 行き先はもちろん邸の裏手の小湖水の対岸に広がる森だ。


 コートを羽織って帽子もかぶり、両手をマフに埋めて外に出る。
 耳が痛くなるほど凍てついた午後だ。邸の東側をぐるっと廻り、裏庭を囲む柘植の石垣に開いた木戸を出ると、その先はもう水辺だった。
 すぐ左手に桟橋を備えた立派なボート小屋があって、舫われた二艘のボートに、斧を手にしたブリキの自動機械人形が一体ずつ乗せられていた。
 まだ殆ど風雨にさらされていない最新式の自動機械人形だ。
 単なるボートにこれだけの警備をするとなると、クルーニー家の凝石エレクタは、きっとこの小湖水の小島で産するのだろう。
 汀には凝石ではないものの、漣に現れた美しい小石が沢山重なっていた。エレンはできるだけ白っぽい石を拾いながら歩いた。
 そうするうち、じきに湖水の西岸まで出ていた。

 左手の木々の狭間にクルーニー邸の屋根とは濃い青灰色のスレート屋根が垣間見える。牧師館かマイクロフト邸だろう。右手にささやかな小川が流れて湖水へと注いでいる。
 流れには小さな丸太橋が架かっていた。対岸から鬱蒼とした古木のしげる森が始まっている。

 エレンは滑りやすそうな橋をそろそろと渡ると、森の手前で足を止め、素早く左右をうかがってから、マフから右手を引き出して、握っていた拳を開いた。

 中に茶色く干からび切った花びらがある。
 夕べ空気精霊が見つけてきた『怠惰な恋の花』の残骸だ。

 エレンは指先で花びらの木乃伊に触れ、ごく微細な魔力グラマーを注いだ。

「いい、お聞きなさい。あなたはプシューケーです」

 春のシジミチョウを思い浮かべながらひそめた声で囁くと、花弁の残骸が月桂樹を思わせる微かな香を放ちながら浮かび、同じ色調の小さなプシュケーになった。
 エレンの魔力は意識しないと大抵光の形で現れるのだが、今はできるだけ目立ちたくないため、敢えて薫りで現わしている。

「戻りなさい。あなたの在ったところへ」

 囁きかけるなり、朽ちた花びらの蝶は、冬の森にはそぐわない瑞々しい青草のような香りを微かに振りまきながら、よろよろと頼りなく羽ばたき始めた。

 エレンはほっとした。
 昨日の今日ならまだ、己が咲いていたところを憶えているようだ。


 冬の森のなかは静かな聖堂を思わせた。
 あちこちの巨木の根元に古い雪が残っている。
 葉を落とした枝のあいだから澄んだ灰色の陽光が射して、朽ち葉の積もった柔らかな地面に光の斑点を落としている。
 朽ちた花びらの蝶が、よろよろとおぼつかなげな速度でそのなかを飛んでゆく。エレンは後を追いながら、帰路の目印にするために、さっき拾っておいた白っぽい小石を点々と落としておいた。どこで誰が見張っているか分からない以上、目立つ魔術はできるだけ用いたくない。
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