後宮生活困窮中

真魚

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第八章 もちろん愛はあったさ 2

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その場で開かれた即席の軍議の結果、月牙は勅使の印である白馬に乗って、王宮の表玄関たる昇陽門から外へ出ることになった。
 身繕いのためにもう一度客殿へ戻り、案じ顔の雪衣と小蓮に事情を説明してから、ようやく返してもらえた箙と弓と刀を帯び、紫英の案内で昇陽門の前へと急ぐ。

 門前には白装束の延尉が率いる御史台の武官が十名と、藍の衣の兵衛が十名、それから美しい白馬が一頭いた。
「柘榴庭どの、お乗りなされ」
 促されるままにひらりとまたがると、延尉は意外そうな表情をした。
「では開門いたす。――昇陽門、開門せよ!」
 延尉が命じるなり頭上から銅鑼の音が響いた。
 ぐわああん、ぐわああんと残響を引きずる打音が七回続く。
 最後の余韻が滅えきる前に、両開きの朱赤の扉がゆっくりと開いていった。



 門を出れば目の前は城隍廟広場だ。
 王宮自体が微高地の上に立っているため、石畳の地面は幅広い七段の石段の下だ。ちょうど柘榴庭ほどの広さの方形の広場の真ん中に台形の石積みがあって、その上に赤い瓦で葺かれた八角堂が建っている。
 堂の周りにはかなりの数の人が群がっていた。
 銅鑼の音が合図になったのだろう。殆ど誰もが昇陽門を仰いでいる。

 月牙は自分の心臓がどくどくと高鳴るのを感じた。
 初めて感じる種類の緊張のために口の中が乾いていく。


 ――ああ、あの朝の正后さまもこんな緊張をお感じだったのだろうか?


 月牙はふとそんなことを思った。

 シャルダン領事の話では、正后さまはよるべない孤児だったのだという。たった十六、七の孤児の娘が、言葉の通じない異邦で、急に正后様として振る舞えと強いられたのだ。
きっとさぞ恐ろしかったに違いない。


「みな見よ! 当代の外宮妓官の頭領を連れてまいったぞ!」
 延尉がよく通る声で呼ばわる。

 途端、思いがけない罵声が返ってきた。
「馬鹿野郎、大嘘つきやがって!」


「――え?」
 延尉がぎょっとした顔で月牙を仰いでくる。
「御身は、その、」
「本物ですよ!」
 月牙は慌てて否むと、精一杯背筋を伸ばして馬上から叫んだ。
「みな見てくれ! 御史台のお方の仰せの通り、私が外宮外砦門警衛の妓官の頭領、世にいう柘榴庭だ!」
「嘘つけその女――!」と、今度は甲高い女声が怒鳴り返してくる。「あたしら馬鹿にするんじゃないよ! 武芸妓官の頭領さまがそんなちゃらちゃらした踊り子みたいななりぃしているもんかい!」
「そうだ、そうだ!」と、景気のよい合いの手が入る。
 今や広場の群衆は、怒りに両目をギラつかせながら門前に集結しようとしていた。
「そいつはどこの官妓だよ! 一人前に羽矢なんぞ背負いやがって!」
「本物の頭領さまはもっとキリッとしていなさるんだ!」
「頭領さまを出せ! 判官様を出せ!」


「ざ、柘榴庭どの――」
 延尉が戦く声で呼ぶ。「これはどういう事態なので?」
「忘れていました」
 月牙は冷や汗をかきながら応じた。「我々は外へ出るときにはいつも男装しているのでした」
「では、今のお姿では」
「ええ。たぶん誰にも分からないでしょうね」
「羽矢を背負っていても?」
「たぶんアヒルの羽だと思われているんじゃないかな」
 答えながら月牙は必死で頭を絞った。
 頼みの箙さえ証にならないとしたら、どうしたらいい?


 ――私が私である証――いや違う、私が柘榴庭である証か――



 そこまで考えたとき、はっと思いついた。
 

 ――そうだ。簡単じゃないか。


「延尉、申し訳ない」
「?」
「抜け駆けをさせていただきますよ」
 言い置くなり、月牙は白馬の腹を蹴って、七段の石段を翔ぶように駆け下りた。
「みなどけ! 蹴り殺されたくなければな!」
 蹄の音も高らかに一気に段を駆け、悲鳴をあげて左右へ分かれる群衆のあいだを抜けて、電光石火の早駆けで城隍廟を一周してやる。
 まわりながら声を限りに叫ぶ。
「聞け! 私が柘榴庭だ! 心あるものは共をしろ! 新梨花宮の身中の虫を退治にいくぞ!」
すると、どこかから思いもかけない声が返ってきた。
「月牙、もちろんついて行くよ!」 
 その声はどことなく聞き覚えのある女声だった。
 たぶん宿下がりをしたかつての同輩たちの誰かだろう。
「みんな、あの人は柘榴庭だよ! 間違いなく本物だよ!」
 明るい声が保証するなり広場を歓呼が満たした。
「柘榴庭さま! 柘榴庭さま! お供いたします!」
「法狼機女を殺せ――!」


 ――嬉しげに叫びながら群衆が白馬を追う。
 延尉は門前で茫然としていたが、ややあって我に返ったように命じた。

「み、みな追うぞ! 急げ、新梨花宮だ!」

 チーク材の逆茂木に囲まれた新梨花宮の門前には人がひしめき合っていた。
 殆どが市井の者のようだが、マスケットを担った下級武官も所々に混じっている。 
 彼らは熱に浮かされたように、
「法狼機女を殺せ!」
 と、叫んでいるのだった。
 逆茂木の真ん中にしつらえられた歩廊に、法狼機風の軍服をまとった竜騎兵の将校とおぼしき男たちが七人並んで、熱狂する群衆に銃口を向けている。
 月牙は駆けながら持ち前の鋭い視力で竜騎兵たちの顔かたちを見てとった。
 カジャール系が二人と双樹下系が五人。
 見たところリュザンベール人やタゴール人はいないようだ。
 

 ――よし。これならいける。


 月牙は腹を決めた。

 いよいよ最初の大ばくちだ。

「――竜騎兵、竜騎兵、王宮からの使いだ! 開門せよ、開門せよ――!」
 呼ばわりながら馬を進めるうちに視線が集まってくる。
「お、おい、あの箙――」
「当代さまか?」
 少しずつざわめきが大きくなる。
 人垣が二つに分かれる。


 ――今だ。
 ――私が私である証――
 ――武芸に秀でる妓官の頭領である証をその目に見せてやる!


 月牙は歩廊の真下まで一気に駆けると、馬の背に立ち上がり、膝をぐっと折り曲げるなり、渾身の力を込めて歩廊へと跳躍した。
「だれか馬を頼む!」
 叫びながら腕を伸ばして歩廊の手すりをつかみ、懸垂の要領で体を持ち上げ、手すりの上に両足をつくなり歩廊へと飛び降りる。
「おおおお――――!」
 群衆が歓喜と驚愕の入り交じった声をあげる。

「すげえ、みたか今の?!」
「武芸妓官さまだ! 芝居で見るよりずっとすごい! 本物の武芸妓官さまだよ!」

「そうだ! 私が武芸妓官だ!」
 叫びがてら脚を回して、右手に立った竜騎兵の手元からマスケットを蹴り落とし、はっしとつかんで銃口を真上へと向ける。
「みな聞け! 私はこれからこの宮に巣くうよこしまな法狼機を捕らえに向かう! そなたらは橋を護れ! 洛中に入る三橋を確実に守っていろ! ――わが氏族アガールのものたち! サルヒに手柄を独占させるな! お前たちが指揮を執るんだ!」
 途端に随所からうれしげな声が返る。
「当代さま、どうかお任せあれ!」
「おいみな我らに続け!」
「右京の者は北大橋だ! 左京は南大橋!」
「嶺西の衆は西大橋を護れ!」
 マスケットを担った下級武官たちが、いかにも熟練の武官らしい手際のよさで群衆を率いていく。
 しばらくすると歩廊の前には殆ど誰もいなくなってしまった。


  白馬は後からやってきた紫英が捕まえていた。
 そばに栗毛馬に騎乗した延尉もいる。

「御史台の方々、いらせられよ! 竜騎兵、見ての通り、我々は勅使だ。目的はあくまでも法安徳の捕縛。それ以上の他意はない。案じず開門せよ」
 先ほど奪ったマスケットを差し出しながら告げると、カジャール系の竜騎兵は戸惑いと感嘆の入り交じった表情で月牙を見つめながら答えた。
「あ、ああ。承った」


 歩廊をまっすぐ左手に進めば門櫓に突き当たる。まだ新しい木製のはしごを下りると、開いた門の内側に白馬が待っていた。もちろん引き手の紫英も一緒だ。
「どうぞアガールの姫御よ」
「かたじけないゲレルトの若子よ」
 互いにわざと古雅な口調で挨拶をしあってから、目を見合わせてくすりと笑う。後から入ってきた栗毛馬の背から、延尉が妙にしみじみとした声をかけてきた。
「いやお見事。たいした手際だ。熱狂する暴徒を鎮めるには分散させるにしくはない」
「お褒めにあずかって光栄です」
「何というか、御身は、わりあい普通の将なのだな。歌うとか舞うとか物語るとか、そういうやり方で鎮めるのかと思っていた」
「武辺一辺倒の妓官の頭領になにを仰るやら! 我々が日々鍛錬しているのは弓馬と刀ですよ」と、月牙は白馬の背に戻りながら肩をすくめた。「将というお言葉は光栄です。まだ二十名の部下しか束ねたことのない身としては」
「御身はまだお若い。おいおい精進なされよ」
 延尉は年長の同業者らしい気安げな口調で言った。


「さて竜騎兵たちよ――」と、延尉が門の内に居並ぶ法狼機風の装束のマスケット兵たちを見回す。
「そなたらずいぶん少ないの! 何人が北へ出ている?」
「二〇〇人です」
「では、今この宮にいるのは?」
「すべてで一〇〇のみです」
「では、呼べる者をすべて呼べ。勅により法安徳、あるいはアルマン・ル・フェーヴルを御史台に召す故」
「は!」
 指揮官とおぼしき一人が恭しく応じるなり、馬に乗り、左手の馬場の向こうの兵舎へと馳せていった。

 
 やがて集った竜騎兵の半分を伴って右手へ進むと、まだ植えたばかりのような梨の並木の向こうに、海都租界の領事館を囲んでいた柵とよく似た鉄製の柵が伸びていた。柵の内は狭い前庭で、すぐ先に法狼機風の白い館が建っている。
 建物は二階建てで、横に長く伸び、屋根が鮮やかな碧い瓦で葺かれていた。一階にも二階にもずらりと白い柱が並んで、正門とおぼしき真ん中が庭へ向けて四角く突き出している。その上が平たく広い四角い露台になっているようだ。
「あれがパレ・ド・ラ・レーヌです」
 竜騎兵の指揮官が延尉に告げる。
「法安徳はあの館に?」
「ええ。おそらくは」
「正后様も?」
「ええ」
「――では宋麗明は?」と、月牙が思わず訊ねると、カジャール系に見える竜騎兵はぐしゃりと顔をゆがめた。
「あれはいつも法安徳のいるところにおります」
 あれ、という言葉の響きに月牙は聞き覚えを感じた。
 ――あの北塞の蕎月牙、義理の息子を誑かした野蛮な北夷女。
 男たちがそう誹るとき、必ず口にする響きだ。


 ――まさか、麗明は……


 そこまで考えかけてから、月牙は必死で自分の思いつきを頭から追い払った。


 ――まさかそんなはずはない。あの麗明が、公金横領なんていうせせこましい罪に手を染めるつまらない法狼機男なんかと懇ろになるはずがない。そんな理由で私たちを裏切るはずがない。


「当代どの――」
 背後から紫英が囁いてくる。
「裏切り者のサルヒ女になど、いつまでも心をおかけなさるな。同族の竜騎兵さえも軽蔑の目で見ているようではありませんか」
 黙れゲレルトの若造、と月牙は心の中でだけ言い返した。
 お前に麗明の何が分かる。
 男に何が分かる――


「柘榴庭どの。進みますぞ」
 延尉が揺るぎない声で促し、竜騎兵に命じて鉄柵の扉を開けさせると、悠々とした並足で館へと進んでいった。
 月牙は慌てて続いた。
 

「法安徳よ! 王勅によって参った! ただちに武具を下ろし御史台へ上がられよ!」
 延尉が門前で三度呼ばわっても、露台の下の黒い扉はピクリとも動かなかった。
「応えはなし、か。――よし皆、扉を破れ!」
「は!」
 徒歩で従う白装束の武官たちが、慣れた様子で二人組になり、勢いをつけて扉に体当たりをする。
 柵の外で待機する竜騎兵の指揮官が、馬上から後ろを顧みながら命じる。
「援護するぞ、構え筒だ!」
「はい!」
 皆がそれぞれ自分の役割を果たしているようだ。
 月牙は白馬の背でぼーっとしていたが、不意に妓官らしいところを見せてやりたくなった。
「紫英どの、またちょっと馬を頼みますよ」
「え?」
 戸惑う若者を尻目に、再び馬上に立ち上がり、勢いをつけて露台へと跳躍する。
「延尉、またも抜け駆けを失礼! わたくしは上から参ります!」
 スタッと手すりの上に降り立つなり、露台へと飛び降り、柱のあいだの華奢な扉を回し蹴り一発で破る。
「おおおおお!」 
 下からまたしても驚きの声があがった。
「ではお先に!」
 月牙は一声言い置いて建物の中に入った。



「何というか――」
 白馬を捕まえながら紫英が呟いた。
「身軽ですねえ」
「ああ」
 延尉があきれ顔で応じる。
「身軽だな」
「鶴のように優美なお姿をして、意外と蹴りがお強いのですね」
「脚が長いからな」
「長いと強いのですか?」
「ああ。はるか南方にはキリンという生き物がおるときく。とても優美な動物だが、脚が長いからとても強いのだそうだ」
「そうなのですか」
 会話はそこで終わった。
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