後宮生活困窮中

真魚

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第七章 ついに最後の謎解きを 1

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さて、嵐門から南香波まではそれほど遠くない。

 蘭門都督の強権によってことなく船に乗せられたル・フェーヴル大尉の手紙は、桂花が海都租界に向かうのと大体前後して、南シャンパー随一の国際港湾都市たるクラナダマールに所在するリュザンベール王国東方領土管轄総領事館へと届けられた。


〈閣下、サールーンから速達です。首都のル・フェーヴル大尉からです〉
〈ふんふん。となると、例の王妃毒殺未遂事件の犯人がようやく捕まったのかな?〉
 封書の署名の筆跡は間違いなくアルマン・ル・フェーヴル当人のそれである。赤い封蝋に押された印章も間違いない。
〈やれやれ、これでようやく連日の胃痛から解放されるよ〉
 銀製のペーパーナイフで封書を開いて便箋を開くなり、総領事はウゲ、と潰れたカエルのような声をあげた。背後に影のように控えていた秘書役の二等書記官が心配そうに訊ねる。
〈犯人が国外に逃亡でも?〉
〈いや、一応まだサールーン内にはいるみたいだ。つまり、なんでだかさっぱり分からないけど、海都のリュザンベール租界に〉
〈――――は?〉
 書記官が絶句する。
 同じく茫然としていた中尉が気を取り直して訊ねる。

〈ええと、閣下、失礼ながら状況を確認したいのですが〉
〈うん。僕もしたいよ〉
〈今お話しなさっているのは、例の、リュザンベール人の王妃を毒殺しようとした後宮ハレムの美人女官三人組のことですよね?〉
〈そうだね。美人かどうかは知らないけど〉
〈東方のハレムの女官といったら妖艶な美人に決まっているでしょう。しかも二人は例の有名な男装の女兵士だとか――ああいや、それはいいのですが、つまりですね、リュザンベール人王妃を毒殺しようとして王宮に追われている後宮女官の三人組が、領事裁判権での保護を求めて、当のリュザンベール租界に逃げ込んでいると?〉
〈うん。そう書いてある〉
〈ええと――何で?〉
 中尉が礼節を忘れて訊ねる。総領事はとがめるのを忘れて答えた。
〈ル・フェーヴル大尉の主張では、ラウル・シャルダンがそもそもの黒幕だったからだそうだ〉


〈さすがにその説はあまりに荒唐無稽すぎるのでは?〉
 常識人の二等書記官があきれ顔で応じる。
 総領事も頷いた。
〈僕もそう思うよ。とにかく事実関係を確かめなくちゃね。中尉、君、ちょっといって波止場から、このごろ海都の租界から来た船客を探してきてくれ〉
〈承りました〉


 中尉はすぐに戻ってきた。
 恰幅のよい体を新調らしいつやつやした緑の厚絹のスタンドカラーのドレスに包んで、秋期とはいえ亜熱帯性気候の南シャンパーで着るには暑苦しすぎる気がする黒テンの毛皮のケープをまとった年配のご婦人である。
 総領事は慌てて立ちあがった。

〈これはマダム・ベルトラン。こちらにおいででしたか〉
 ご婦人はこの近隣で最も有力な大商会の当主の奥方だった。中尉がすぐさま円テーブルと一人がけのソファを部屋の真ん中に引っ張り出す。
〈およびだてしてすみません。どうぞおかけください〉
 マダムは鷹揚に頷いてかけた。間髪入れずに二等書記官が最上級の寧南緑茶と胡桃入りの月餅を運んでくる。マダムはゆっくり一服してから煙管も要求した。
〈早々に失礼いたします。実はひとつ伺いたいことが〉
〈何です?〉
〈この頃海都租界に妙な噂が流れていませんでしたか?〉
〈妙な、とは?〉
〈まあその、何ですか、領事の女性関係で〉
 総領事が口を濁しながら訊ねたとたん、それまで気だるげだったマダムの両目がカッとばかりに見開かれた。
〈あらあらまあまあ、あの噂がもう南香波(こちら)にまで届いていますの!〉
〈では、やはり何か噂が?〉
〈ええ、そうなんですのよ――〉と、マダムは夢見る少女みたいに頬を染めた。〈夏の末からマダム・ル・メールの親戚だというサールーン人の貴族の娘が滞在していましてね。ちょっと古いけど仕立てのよいリュザンベール風のドレスを見事に着こなして、かわいい小間使いを二人も連れた、そりゃきれいな娘だったんですよ! サールーン娘にしちゃすらっと背が高くてねえ。あのの着ていた古風な緑の絹のドレスが、海都あっちじゃこの秋から大流行りしそうなんですのよ〉
 御年六十二歳のマダムにとって二十七の月牙は女の子である。
〈そ、そうですか。そのきれいなサールーン娘は、やはり領事館に?〉
〈え、何を言っているんですの? マダム・ル・メールの親戚なんですからル・メール家にいたに決まっているでしょ?〉
 マダムはあきれ果てたように応じて月餅を口に放り込んでから、またきらきらと目を輝かせて話し始めた。
〈それでですね、その娘がル・メール家にいる間中、シャルダン領事が何かと訪問してはお花だのお菓子だの届けていたのですって! 海都じゃもうずっとその噂でもちきりでしたよ。きっとそろそろ本気で求婚をしているころじゃないですかねえ〉
 総領事は困惑した。
 租界にサールーン女性がいることはいるようだが、首都からの報告とはなんとなく毛色が違っている気がする。

 マダムはうっとりと両手を組み合わせてから、寧南緑茶の残りを無造作に飲み干し、あっちの最新流行らしい緑のドレスのスカートにこぼれた月餅の皮の屑を豪快に床へと払い落としてから、しずしずと立ち上がった。
〈それではわたくしはこれで。ああそうだ、忘れていました。こっちの総領事館に届けて欲しいって、玉夏から手紙を預かっていたんでした〉
〈玉夏とは、そのきれいなサールーン娘ですか?〉
〈いやですねえ、何をいっているの! 玉夏はマダム・ル・メールでしょう?〉
 マダムは世界の常識のように言い、ドレスと共布のポシェットからひょいと取り出した封書を無造作に手渡してきた。
 差出人の名は「華玉夏」だ。封蝋に印はない。


 再び銀のペーパーナイフで封書を開けた総領事は、またしても潰れたカエルのような声をあげた。
〈閣下、今度はどうなさいました?〉
 二等書記官が嫌そうに聞く。
〈今度は当のラウル・シャルダンからの密書だ。空恐ろしく面倒なことが書いてある〉
〈では、先ほどマダムがお話だったきれいなサールーン娘というのが、本当に例の後宮女官だったと?〉
〈どうもそういうことらしい。シャルダン君が言うには、彼女は後宮の経理を担当する有能な実務官で、職務上たまたま、王宮の上層部が絡んだ公金横領の証拠をつかんじまったんだそうだ〉
〈ああ、それで、王宮から追われる羽目になって、マダム・ル・メールの縁故を頼って租界に逃げ込んだと。そういう成り行きなんですね?〉と、中尉がほっとしたように訊ねる。
 総領事は頷いた。
〈そういうことなんじゃないかな〉
〈では、毒殺未遂云々というのは〉
〈そっちについては何も書いていないが、順当に考えて口封じのための冤罪なんだろう。シャルダン君の主張が本当ならばね。彼はどうも相当その経理官に肩入れしているらしく、証拠をそろえた彼女が首都に戻って公式の裁判で横領犯を訴える手助けをしたいと言っている。そのために、租界にも多少の探索を入れる許可が欲しいとさ。彼自身の潔白を晴らしたいんだそうだ〉
〈許可なさるのですか?〉
〈事件があの国の王宮の内部抗争だったら、別段構わないさ。ともかくもう少し様子を見よう。本当に彼が捕らえられるような事態になったら――〉
 と、総領事はチェスを楽しむ少年のような顔で笑った。〈そのときは、本国に要請して救援の軍勢を侵攻させればいい。あの国を完全に支配下に置きたがっている歴々にとっては渡りに船ってものさ〉



 半月後――



 リュザンベール人たち呼ぶところの「サールーン王国の首都」、双樹下国京洛の西大橋の前である。
 洛中を囲む大環濠に架かる石橋を渡った先の門前で、女ばかりの旅芸人の一座が衛士に足止めを食らっていた。

「お役人さん、なんで入れてくれないんだよう。この通りちゃあんと通行手形を持っているのにさ。ごらんよこのお印! これが偽物に見えるか、え?」
 控え、控えい、この印籠が目に入らぬのか――といった口ぶりで、粗末な白っぽい衣で男装した背の高い女芸人が衛士の鼻先に手形を突きつける。
 やや離れた後ろに並んで行儀よく順番待ちをしていたご婦人は、その芸人の背中に革製の箙を認めて一瞬だけ「おや?」と思った。
 箙に収まっているのは白い羽根つきの矢だ。
 見るからにカジャールの血の混じっていそうな長身痩躯と、背中に負った羽矢の箙。
 その姿がよく知るとある人物を彷彿とさせたのだ。


 ――いや、まさかね。いくら五年ぶりだからって、さすがに見間違えないでしょ。


 ご婦人は内心で苦笑した。
 よく見れば女芸人の背負う矢の羽はアヒルのそれのようだった。右隣に並んだ痩せっぽちの小娘も同じ箙を背負っている。
「あ、どうなんだい木っ端役人! ごらんよこのお印! 嶺西の駅長様の官印だろ? こいつに何の間違いがあるっていんだい!?」
「いや、だからな大姐、印に問題はないんだが」と、これも見るからにカジャール系の衛士がたじたじとなりながら止める。「いけないのはあんたらのその羽矢なんだよ。羽矢を背負った芸人は今日から三日絶対に洛中に入れちゃいかんのだ。お上からそういうお達しなんだよ」
「なんだよそれ、明日からあの名高いお裁きが始まるっていうから、あたしらはるばる嶺の関を超えて稼ぎに来たっていうのにさ! 洛中に入れないんじゃ路銀で足が出ちまうよ」
「すまんな大姐、これも決まりだ。箙を預けてくれりゃ入れてやれるんだが」
「なんだ、それなら早くそう言いなよ。きちんと返してくれるんだろうね?」
「もちろんだ。これが引き換え札だ」
「えらく支度がいいね」
「今日でもう七個目なんだよ」
 女芸人たちが意外にあっさりアヒルの羽の矢の箙を衛士に預けて門を抜ける。衛士はふうっとため息をつき、懐から取り出した白い羽――こちらは間違いなく白鷺の尾羽だ――と手元のアヒルの羽とを丁寧に見比べてから、そばに控える部下らしき若者にひょいと手渡した。
「札をつけてしまっておいてくれ。次の女――」
 順番待ちのご婦人に目を向けるなり、衛士は気まずそうに頭をかいた。

「ああ太太おくさん、こりゃ失礼。今日は女といったら芸人ばかりでねえ」
 ご婦人は簡素ながらも上等そうな濃紺色の裳衣すがたで、造りのしっかりした編み笠を被り、籐の梱をくくった小馬を引く僕童までつれているのだった。年の頃は二十六、七。どこから見ても京洛近郊の富裕な農家か中級官吏の若奥様の風情だ。
「いえいえ、おつとめご苦労様です」
 ご婦人は世慣れた笑みを浮かべて手形を差し出した。
「西岡宿駅の主典どのの奥方で、お名前は蘇銀児さま――洛中にはどのようなご用で?」
「右京の旅籠に嫁いだ妹に会いに来ました。もうじきに子が生まれるというのでね」
「それはおめでとうございます。洛中は、今日はいろいろと騒がしいですから、どうぞお気をつけて」
 衛士は礼儀正しく送り出した。


 
 双樹下の京洛は東西を基軸として東に王宮を配する造りになっているため、右京区とは北半分を指す。旭日と東華の国々を背にした国王が玉座についたときの右側だ。
 銀児はこの右京区に向かい、北大橋の近くの旅籠「清風楼」へと急いだ。

 正門が表通りに面した大きな旅籠である。
 門前に一対の赤い提灯を吊しているのは、宮に許可された公の遊女である官妓を置いている宿の印だ。
 銀児は門番に馬を預けながら尋ねた。
「ねえおじいさん、この宿に牡丹って女(ひと)はいる?」
 途端、門番の顔に緊張が走るのが分かった。
太太おくさま、牡丹姐さんに何のご用で?」
「たいした用ではないのよ。ただちょっと渡したいお金があるだけ。私の名前は――」銀児は一瞬ためらってから告げた。「孫小蓮。そう伝えてくだい」
 そう告げた瞬間、門番の顔に驚愕と歓喜が浮かんだ。
 銀児は安堵した。
 官妓は宿駅には必ずいる。あのひとたちの話していた噂はどうやら本当だったらしい。


「太太、こちらでお待ちください」
 可愛らしい侍女が母屋の裏手の離れのような棟に導いてくれる。
 すぐに運ばれてきた茉莉花茶を啜っていたとき、むせかえるほど濃厚な麝香の匂いとともに、鮮やかな深紅の裳衣をまとった女が入ってきた。
 年頃は銀児より少し上か。昼だというのに濃く紅白粉を塗り、豊かすぎるほど豊かな黒髪を背に解き流している。この宿で一番売れっ子の官妓だ――と、一目で分かる装いである。きっともう二、三年で盛りはおしまいになるのだろうが。


 ――そういうところは私たちと同じだね。


 銀児は内心で微苦笑した。
 女は胡乱そうな顔で銀児を眺め回した。
「太太、あんた何しにきたの? どこであたしの娘の名前なんか知ったのさ」
「どこってそりゃ、あなた自身があちこちに吹聴したのでしょ? 捜されているって聞いたから、夫と水杯で別れて西岡からはるばる来たっていうのにずいぶんなご挨拶ですね!」

「え?」
 女が目を見開く。「じゃ、あんたが蘇銀児さま? 西岡から来たたちが噂していた、とってもご親切でめっぽう腕が立つっていう、あの武芸妓官あがりの太太なの?」
「今もめっぽう腕が立つかまでは分かりませんけどね。私が蘇銀児ですよ。月牙とは――当代の柘榴庭とは同時期に庭に入って二年も一緒に寝起きした仲です」
「嘘みたい。あんたどう見てもそのへんにいそうな普通の太太なのに」
 牡丹が床に片膝を立てて座りながら意外そうに言う。銀児は苦笑した。「武芸妓官の大半は、宮を退いたらごくごく普通の妻女になりますよ。あなたの娘さんだってそうなるかもしれません」
「あの跳ねっ返りのちびが? それはないよ。あの子は客に来る男が大っ嫌いで、いつも泥団子なんかぶつけていたんだから」
 牡丹は喉を鳴らして嗤い、やおらがばりを頭をさげて、額を床にこすりつけた。

「銀児さま、お願いだよ。もし死罪なんてことになっちまったら、殺される前にあの子を助けてやって。あたしがあの子を手放したのは縛り首にさせるためじゃないんだ。あの子はきっと父親の家で虐め抜かれてあたしを怨んでいるんだろうけどさ――」
 と、牡丹が肩をふるわせる。
「七つのとき、あの子はすごく喜んで媽祖大祭の行列を見ていたんだ。きっとものすごく頑張って本物の妓官さまになったんだ。それがたったの十四で殺されちまうなんてあんまりだよ! ねえ、お願いだよ銀児さま。あの子を――小蓮を助けてやって!」
「頭をあげてください牡丹さん」と、銀児は静かな怒りをたたえた顔で答えた。
「頼まれなくたって助けますとも。柘榴の妓官は姉妹です。あの忌々しい法狼機女なんかのために、大事な姉妹を殺されてなるものですか」
 床に膝をついて牡丹を助け起こしながら、銀児は見えない敵を睨みつけるように唇をゆがめて虚空を睨んだ。


 ――月牙。大丈夫だよ。もしも死罪なんてことになったら、護送行列を襲撃して必ず逃がしてあげるからね。

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