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第四章 身を持ち崩した娘たち 5
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小蓮はすぐに帰ってきた。
興奮のためか汚した頬が紅潮して、目がキラキラと輝いている。
「判官様、いらっしゃいましたよ。たぶんご一族です。お顔の感じからして」
「そうか。じゃあ早速――」
「いや、待って待って雪」
月牙は慌てて止めた。「その浮街というのは、何というかこう、わりあい荒んだ街区なんでしょう?」
「控えめな表現だね。まさにその通りだよ」
「なら、まずは私が偵察に行って、その石竹団とやらと接触してみるよ。状況も分からないままいきなり行くのは危なすぎる。もしも相手が多勢だった場合、私ひとりじゃ守り切れないかもしれない」
「頭領、一人ってどういう意味ですか?」と、小蓮が不服そうに口を尖らせた。
大まかな話し合いの結果、浮街にはやはりまず月牙だけが行ってみることになった。
箙も弓も背負わず、刀は腰に吊るし、老李に借りた編み笠で顔を隠し、ぼろ布に包んだ緑の法狼機服を携えて堂々と路地裏を出る。
その姿は一見宿駅の武官のように見えたため、近隣住民の大半は単に宿駅の武官だと思った。月牙はそのまま堂々と河津門前の市場をよぎり、外壁添いの街路を南へ進んで木場門へと向かった。
木場門の周りは喧騒に満ちていた。上半身は裸で袴だけを履いた筋骨たくましい若い男たちが、やいのやいのと怒鳴りあいながら、門柱の間に縄を張って赤い提燈をぶらさげている。露台で指揮を執っている翠の袍の若者は何となく見覚えのある肉厚の丸顔をしていた。
小連の報告通り、あの宴席に加わっていた若い趙氏のようだ。
――小蓮、よくやったな。
月牙は内心で讃嘆した。
月牙は露台の下に立つと、一瞬の緊張をやり過ごしてから、できる限り低めの声を拵えて呼ばわった。月牙の声は女声としては低い。声で露見するかどうかは――五分五分の賭けといったところだ。
「小趙、通してくれ、木場に用があるんだ!」
「ん、誰だい?」
若い趙氏が訝しそうに顔を向け、月牙の姿を見とめて首を傾げる。
「ええと――宿駅の武官どのですか?」
「見れば分かるだろう!」月牙はいかにも苛立ったような声で応え、ええいままよと覚悟を決めて編み笠を外してみせた。
途端、若い趙氏の黒目がちの目が見開かれる。
「え――」
「――さっさとしろ!」
余計なことを口走られる前に月牙が怒鳴りつけた。「若造、お前は中南門筋の趙家の一族だろう? 官の威光に逆らって〈雪姉さん〉をかばい立てする気か?」
趙家で耳にした呼称をわざと声高に告げるなり、提灯を釣る手をとめて耳をそばだてていた若い衆たちがいきり立った。
「おい余所者、義春さんになんて口ききやがる!」
「若旦那、この北夷やっちまいますか?」
「いや駄目だ。役人は役人だからな」
若い趙氏--名は義春というらしい――が、ぎこちない声で制止すると、月牙をつくづくと眺めてから、きっと唇を引き結び、こちらも覚悟を決めたような声音で命じた。
「通してやれ」
若者たちの焼けるような敵意をはらんだ視線を感じながらアーチ状の門を抜けると、外は方形の広場だった。ジメジメとした土のままの広場の左右に高床小屋が並んで、階の下に褐色の膚を晒した半裸の男たちが腰掛けている。むっと鼻を突く異臭は腐った材木の臭いだろうか? 心持ち笠を深くして広場を抜ければ、左手に広がる水面の一面をチーク材の筏が埋め尽くしているのが見えた。
こちらが木場だろう。
そして右側は――
「……浮街か」
月牙は口の中で呟いた。
右手に見えるのはドロッと淀んだ赤土色の濠のような水面だ。
小舟の上に板を被せた浮橋が三か所に掛かっている。橋の向こうに見えるのは、橋の向こうに見えるのは板屋根が無秩序に重なり合う貧し気な街区だ。それぞれの橋の左右に赤っぽい燈が見える。提灯が吊るされているようだ。
月牙がとりあえず真ん中の橋へと向かっていると、背後から女が声をかけてきた。
「お兄さん、浮街へ行くのかい?」
「ああ」
答えながら振り返れば、丸顔に厚化粧を施した小柄な小娘が立っていた。色あせた赤い衣の合わせ目からまだ小さな乳房がのぞいている。
小娘は痩せた腕に花かごを抱えていた。薄暗がりでよく見えないが、様々な色合いの花が収められているようだ。
「花は要らないの?」
「そうだな、石竹はあるか?」
「あるよ。もちろん。銀一匁だよ」
「ずいぶん高いな」
「いらないの?」
「いや、もちろんいるさ」
趙大人が壺に収めて持たせてくれた虎の子の路銀の一粒と引き換えに、萎れかけた赤い石竹の花を手に入れる。そして改めて浮橋へと向かった。
この先が浮街だ。
雪衣の説明によると、この場所はもともと材木商の行が共同で出資して開削を進めていた新しい大溜池だったのだという。
河上から運ばれてくるチーク材の筏を一時的に係留しておくための真四角の池である。
しかし、完成間近になって、海側の大波止の管理権を有する船主たちが「その土地は我々の管理下だ」と横やりを入れてきたのだそうだ。
「あれは全く酷いやり方だったよ!」
と、材木商の趙大人は七十年前の事件を見てきたように語ったものだった。「船主たちはね、結局のところ、あの立派な大溜池を自分たちの船渠として使いたかったのさ。だからわざわざ完成するまで黙っていたんだよ」
「伯父さま、悪辣なやり方だなあ!」と、少女時代の姪は一緒になって憤った。「それで、溜池は結局とられてしまったの?」
「いやいや雪、取られなかったんだ。材木商と船主が争っている間に、浮浪人どもが筏を拵えて住みついちまったのさ!」
「溜池に? 人間が? どうやって住み着いたの?」
「だから、筏を拵えてだってば」
そう。
浮街に土地はない。
浮浪人たちはかつての四角い溜池だった水面に筏をびっしり並べ、互いを縄で連結しあって、七十年間地代を払わず不法占拠を続けているのだった。
さて、その浮街の入口である。
月牙は長い浮橋を一人で歩いていた。
胸元には萎れかけた石竹の花が縫い針で止めてある。
ギシギシと軋む浮橋は足を進めるたびに揺れた。
時折前から酔漢が来るが、月牙の襟元の石竹を見るなり首を竦める。
じきに一対の赤い提燈の間を抜けると、左右に低い軒が並び始めた。
屋内から嬌声や怒声が聞こえる。弦楽器の音も聴こえる。扉の隙間からは、魚醤に浸した肉を焼くような香ばしい匂いが漂ってくる。
筏と筏を連結する狭い橋をそろそろ渡っていると、後ろから女に声をかけられた。水白粉を分厚く塗った胸の豊かな女だ。近づかれると腐った魚の臭いがした。
――もし翠玉がこの街にいたとしたら、今頃何をしているのだろうか?
想像すると胸が苦しくなった。
――あの子はまだ男と一緒にいるのだろうか? その男はあの子を利用するために恋を仕掛けたのだろうか? 私はそいつを捕らえるのだろうか? あの子が今も恋しているかもしれない男を。
考えれば考えるほど気が重くてならない。できるだけ暗い路を選んで歩いていても、話しかけてくるのは娼婦ばかりだ。
今日はそろそろ帰ろうかと諦めかけたとき、右手の建物の蔭から掠れ気味の小声で訊ねられた。
「兄さん、綺麗な花だね。そいつは石竹かい?」
「ああ」
月牙はできるだけ低めの声で答えた。
物陰から姿を現したのは十一、二に見える少年だった。
ボロボロの短い袍の裾から骨ばった素足が覗いている。
「船に乗りたいの?」
「ああ、まあそうだ」
「行き先は」
「ハルサーバード」
「へええ西域か。ずいぶん遠くだね」
「無理か?」
「いいや、大丈夫さ。カピタンに取り次いでやる。手間賃は?」
「絹製の法狼機服の上下だ」
「女物かい?」
「ああ」
「へえ」
少年は何とも言えない顔で嗤い、尖った顎をひょいとしゃくっていった。
「来いよ。根城に案内してやる」
そこからの道順は複雑だった。
幾つもの角を折れ、左右の軒が被さり合って隧道のようになった暗く細い路地を抜けると、目の前にやや広い空間が現れた。
四方を二階屋に囲まれた四角い露天の広場だ。
広場といっても勿論筏の上で、足元は丸太の上に板を被せてあるだけだ。
「ここか?」
「うん。入りなよ」
少年に促されて正面の建物に入るなり、むっと強烈な生臭が襲ってきた。魚油を燃やす臭いだ。
匂いの源は板の間の真ん中の油火の皿だった。ゆらゆらと揺らめく光の丸みを囲んで、上半身裸の男が五人車座になっている。賽子賭博に興じているようだ。
奥の壁際に人数分の半月刀が立てかけてある。
どれも抜き身のままだ。研きが甘いなと月牙は思った。よく見ると壁の上部に張り紙がしてあった。へたくそな筆跡で「石竹団呉一派」と書かれている。
「兄貴たち、客だよ。西域へ行く船に乗りたいんだってさ」
「へえ」
手前の男が顔をあげる。月牙は驚いた。
膚が白く髪の色が明るい。
そして目が青かった。
「法狼機人、か?」
「たぶん親父がな」
青い目の男が嗤って答える。
ずいぶん若々しい声だ。色彩が珍しいために分かりにくいが、せいぜいが十七、八。男というより少年の年頃だろう。ほかの四人もよく見たら皆十五、六のようだ。
「どこへ行きたいんだ?」
「ハルサーバード」
「本物の客みてえだな。取次の代価は?」
「これだ」
月牙の差し出した包の中身は例の緑の法狼機服だった。青い目の少年が熟練商人の手つきで縫い目を検める。
「ちっと古いが上物だ。乗るのはあんただけか?」
「いや、連れが二人いる」
「男か?」
「女だ」
「二人とも?」
「ああ」
答えるなり少年が声を立てて笑い、壁際によって半月刀を取りながら怒鳴った。
「おいお前ら獲物だぞ! この色男の身ぐるみはいじまえ!」
「おう天翔兄貴!」
四人の少年が一斉に応じて半月刀をとる。
「おい、どういうことだ、私が何をしたんだ!?」
月牙は狼狽しながらも刀を抜いて、横合いから振り下ろされる半月刀を薙ぎ払いながら訊ねた。
渾身らしい一撃を払われた少年がチッと舌打ちをしながら叫ぶ。
「知らねえなら教えてやるがな、俺たちの今のお頭は女衒が大っ嫌えなんだよ!! 世間知らずの娘っ子を騙して異国へ売るような手前みてえな色男がな!」
「待ってくれ、誤解だ、私はそんな非道は!」
「黙れ女衒! 商売道具のその顔切り刻んで魚の餌にしてやる!」
青い目の少年が正面から半月刀を振りかざしてくる。
月牙は咄嗟にかがんで足を払い、倒れた相手を踏みつけてから、襟首をつかんで無理やりに立たせ、喉に刃先を突き付けながら命じた。
「刀を下ろせ!」
「天翔兄貴!」
「――阿祥、女らンとこからお頭呼んで来い!」
少年の一人が戸口へ向けて命じるなり、ずっと見ていたらしい小さな影が外へと駆けだしていった。
「待て、この者の命が――」
月牙がそこまで口にしたとき、外からパン、と乾いた爆音が響いたかと思うと、耳元を一陣の鋭い風がかすめた。
「へへ」
青い目の天翔が上目遣いで嗤う。
「どうする兄さん。お頭が来たみたいだぜ?」
少年の言葉が終わるか終わらないかのあいだに、外から女の声が響いた。
「おいそこの色男、このマスケットが見えないのかい? 法狼機渡りの新兵器だ! 脳天撃ち抜かれたくなかったら今すぐそいつを放しな!」
「お頭!」
少年たちが歓声をあげる。
月牙は目を疑った。
口から微かに煙を発する銃を構えて戸口に立っていたのは、袖なしの赤い上着に短い白いくくり袴を合わせ、艶やかな黒髪を高く束ねたとびきりの美人だった。
猫みたいに大きな目と赤い唇。
つんと尖った鼻。
そのとびきりの美人の顔を月牙は嫌と言うほど知り尽くしていた。
相手のほうも気づいたらしく、猫目を幾度もパチパチさせ、更にはちょっと可愛らしく小首まで傾げてみせた。
「え、頭領?」
「え、じゃない、おい翠玉!」
月牙は脱力しながら怒鳴った。「何やっているんだ一体!? お頭って、お頭ってお前のことなのか!?」
「ははははは、ま、いろいろありましてね!」
上ずった声で笑いながら気まずそうに眼を逸らすのは見まがいようもなく呉翠玉だった。
月牙は向かい壁の張り紙を改めて注視した。
へたくそな字で黒々と書かれている。
石竹団呉一派
興奮のためか汚した頬が紅潮して、目がキラキラと輝いている。
「判官様、いらっしゃいましたよ。たぶんご一族です。お顔の感じからして」
「そうか。じゃあ早速――」
「いや、待って待って雪」
月牙は慌てて止めた。「その浮街というのは、何というかこう、わりあい荒んだ街区なんでしょう?」
「控えめな表現だね。まさにその通りだよ」
「なら、まずは私が偵察に行って、その石竹団とやらと接触してみるよ。状況も分からないままいきなり行くのは危なすぎる。もしも相手が多勢だった場合、私ひとりじゃ守り切れないかもしれない」
「頭領、一人ってどういう意味ですか?」と、小蓮が不服そうに口を尖らせた。
大まかな話し合いの結果、浮街にはやはりまず月牙だけが行ってみることになった。
箙も弓も背負わず、刀は腰に吊るし、老李に借りた編み笠で顔を隠し、ぼろ布に包んだ緑の法狼機服を携えて堂々と路地裏を出る。
その姿は一見宿駅の武官のように見えたため、近隣住民の大半は単に宿駅の武官だと思った。月牙はそのまま堂々と河津門前の市場をよぎり、外壁添いの街路を南へ進んで木場門へと向かった。
木場門の周りは喧騒に満ちていた。上半身は裸で袴だけを履いた筋骨たくましい若い男たちが、やいのやいのと怒鳴りあいながら、門柱の間に縄を張って赤い提燈をぶらさげている。露台で指揮を執っている翠の袍の若者は何となく見覚えのある肉厚の丸顔をしていた。
小連の報告通り、あの宴席に加わっていた若い趙氏のようだ。
――小蓮、よくやったな。
月牙は内心で讃嘆した。
月牙は露台の下に立つと、一瞬の緊張をやり過ごしてから、できる限り低めの声を拵えて呼ばわった。月牙の声は女声としては低い。声で露見するかどうかは――五分五分の賭けといったところだ。
「小趙、通してくれ、木場に用があるんだ!」
「ん、誰だい?」
若い趙氏が訝しそうに顔を向け、月牙の姿を見とめて首を傾げる。
「ええと――宿駅の武官どのですか?」
「見れば分かるだろう!」月牙はいかにも苛立ったような声で応え、ええいままよと覚悟を決めて編み笠を外してみせた。
途端、若い趙氏の黒目がちの目が見開かれる。
「え――」
「――さっさとしろ!」
余計なことを口走られる前に月牙が怒鳴りつけた。「若造、お前は中南門筋の趙家の一族だろう? 官の威光に逆らって〈雪姉さん〉をかばい立てする気か?」
趙家で耳にした呼称をわざと声高に告げるなり、提灯を釣る手をとめて耳をそばだてていた若い衆たちがいきり立った。
「おい余所者、義春さんになんて口ききやがる!」
「若旦那、この北夷やっちまいますか?」
「いや駄目だ。役人は役人だからな」
若い趙氏--名は義春というらしい――が、ぎこちない声で制止すると、月牙をつくづくと眺めてから、きっと唇を引き結び、こちらも覚悟を決めたような声音で命じた。
「通してやれ」
若者たちの焼けるような敵意をはらんだ視線を感じながらアーチ状の門を抜けると、外は方形の広場だった。ジメジメとした土のままの広場の左右に高床小屋が並んで、階の下に褐色の膚を晒した半裸の男たちが腰掛けている。むっと鼻を突く異臭は腐った材木の臭いだろうか? 心持ち笠を深くして広場を抜ければ、左手に広がる水面の一面をチーク材の筏が埋め尽くしているのが見えた。
こちらが木場だろう。
そして右側は――
「……浮街か」
月牙は口の中で呟いた。
右手に見えるのはドロッと淀んだ赤土色の濠のような水面だ。
小舟の上に板を被せた浮橋が三か所に掛かっている。橋の向こうに見えるのは、橋の向こうに見えるのは板屋根が無秩序に重なり合う貧し気な街区だ。それぞれの橋の左右に赤っぽい燈が見える。提灯が吊るされているようだ。
月牙がとりあえず真ん中の橋へと向かっていると、背後から女が声をかけてきた。
「お兄さん、浮街へ行くのかい?」
「ああ」
答えながら振り返れば、丸顔に厚化粧を施した小柄な小娘が立っていた。色あせた赤い衣の合わせ目からまだ小さな乳房がのぞいている。
小娘は痩せた腕に花かごを抱えていた。薄暗がりでよく見えないが、様々な色合いの花が収められているようだ。
「花は要らないの?」
「そうだな、石竹はあるか?」
「あるよ。もちろん。銀一匁だよ」
「ずいぶん高いな」
「いらないの?」
「いや、もちろんいるさ」
趙大人が壺に収めて持たせてくれた虎の子の路銀の一粒と引き換えに、萎れかけた赤い石竹の花を手に入れる。そして改めて浮橋へと向かった。
この先が浮街だ。
雪衣の説明によると、この場所はもともと材木商の行が共同で出資して開削を進めていた新しい大溜池だったのだという。
河上から運ばれてくるチーク材の筏を一時的に係留しておくための真四角の池である。
しかし、完成間近になって、海側の大波止の管理権を有する船主たちが「その土地は我々の管理下だ」と横やりを入れてきたのだそうだ。
「あれは全く酷いやり方だったよ!」
と、材木商の趙大人は七十年前の事件を見てきたように語ったものだった。「船主たちはね、結局のところ、あの立派な大溜池を自分たちの船渠として使いたかったのさ。だからわざわざ完成するまで黙っていたんだよ」
「伯父さま、悪辣なやり方だなあ!」と、少女時代の姪は一緒になって憤った。「それで、溜池は結局とられてしまったの?」
「いやいや雪、取られなかったんだ。材木商と船主が争っている間に、浮浪人どもが筏を拵えて住みついちまったのさ!」
「溜池に? 人間が? どうやって住み着いたの?」
「だから、筏を拵えてだってば」
そう。
浮街に土地はない。
浮浪人たちはかつての四角い溜池だった水面に筏をびっしり並べ、互いを縄で連結しあって、七十年間地代を払わず不法占拠を続けているのだった。
さて、その浮街の入口である。
月牙は長い浮橋を一人で歩いていた。
胸元には萎れかけた石竹の花が縫い針で止めてある。
ギシギシと軋む浮橋は足を進めるたびに揺れた。
時折前から酔漢が来るが、月牙の襟元の石竹を見るなり首を竦める。
じきに一対の赤い提燈の間を抜けると、左右に低い軒が並び始めた。
屋内から嬌声や怒声が聞こえる。弦楽器の音も聴こえる。扉の隙間からは、魚醤に浸した肉を焼くような香ばしい匂いが漂ってくる。
筏と筏を連結する狭い橋をそろそろ渡っていると、後ろから女に声をかけられた。水白粉を分厚く塗った胸の豊かな女だ。近づかれると腐った魚の臭いがした。
――もし翠玉がこの街にいたとしたら、今頃何をしているのだろうか?
想像すると胸が苦しくなった。
――あの子はまだ男と一緒にいるのだろうか? その男はあの子を利用するために恋を仕掛けたのだろうか? 私はそいつを捕らえるのだろうか? あの子が今も恋しているかもしれない男を。
考えれば考えるほど気が重くてならない。できるだけ暗い路を選んで歩いていても、話しかけてくるのは娼婦ばかりだ。
今日はそろそろ帰ろうかと諦めかけたとき、右手の建物の蔭から掠れ気味の小声で訊ねられた。
「兄さん、綺麗な花だね。そいつは石竹かい?」
「ああ」
月牙はできるだけ低めの声で答えた。
物陰から姿を現したのは十一、二に見える少年だった。
ボロボロの短い袍の裾から骨ばった素足が覗いている。
「船に乗りたいの?」
「ああ、まあそうだ」
「行き先は」
「ハルサーバード」
「へええ西域か。ずいぶん遠くだね」
「無理か?」
「いいや、大丈夫さ。カピタンに取り次いでやる。手間賃は?」
「絹製の法狼機服の上下だ」
「女物かい?」
「ああ」
「へえ」
少年は何とも言えない顔で嗤い、尖った顎をひょいとしゃくっていった。
「来いよ。根城に案内してやる」
そこからの道順は複雑だった。
幾つもの角を折れ、左右の軒が被さり合って隧道のようになった暗く細い路地を抜けると、目の前にやや広い空間が現れた。
四方を二階屋に囲まれた四角い露天の広場だ。
広場といっても勿論筏の上で、足元は丸太の上に板を被せてあるだけだ。
「ここか?」
「うん。入りなよ」
少年に促されて正面の建物に入るなり、むっと強烈な生臭が襲ってきた。魚油を燃やす臭いだ。
匂いの源は板の間の真ん中の油火の皿だった。ゆらゆらと揺らめく光の丸みを囲んで、上半身裸の男が五人車座になっている。賽子賭博に興じているようだ。
奥の壁際に人数分の半月刀が立てかけてある。
どれも抜き身のままだ。研きが甘いなと月牙は思った。よく見ると壁の上部に張り紙がしてあった。へたくそな筆跡で「石竹団呉一派」と書かれている。
「兄貴たち、客だよ。西域へ行く船に乗りたいんだってさ」
「へえ」
手前の男が顔をあげる。月牙は驚いた。
膚が白く髪の色が明るい。
そして目が青かった。
「法狼機人、か?」
「たぶん親父がな」
青い目の男が嗤って答える。
ずいぶん若々しい声だ。色彩が珍しいために分かりにくいが、せいぜいが十七、八。男というより少年の年頃だろう。ほかの四人もよく見たら皆十五、六のようだ。
「どこへ行きたいんだ?」
「ハルサーバード」
「本物の客みてえだな。取次の代価は?」
「これだ」
月牙の差し出した包の中身は例の緑の法狼機服だった。青い目の少年が熟練商人の手つきで縫い目を検める。
「ちっと古いが上物だ。乗るのはあんただけか?」
「いや、連れが二人いる」
「男か?」
「女だ」
「二人とも?」
「ああ」
答えるなり少年が声を立てて笑い、壁際によって半月刀を取りながら怒鳴った。
「おいお前ら獲物だぞ! この色男の身ぐるみはいじまえ!」
「おう天翔兄貴!」
四人の少年が一斉に応じて半月刀をとる。
「おい、どういうことだ、私が何をしたんだ!?」
月牙は狼狽しながらも刀を抜いて、横合いから振り下ろされる半月刀を薙ぎ払いながら訊ねた。
渾身らしい一撃を払われた少年がチッと舌打ちをしながら叫ぶ。
「知らねえなら教えてやるがな、俺たちの今のお頭は女衒が大っ嫌えなんだよ!! 世間知らずの娘っ子を騙して異国へ売るような手前みてえな色男がな!」
「待ってくれ、誤解だ、私はそんな非道は!」
「黙れ女衒! 商売道具のその顔切り刻んで魚の餌にしてやる!」
青い目の少年が正面から半月刀を振りかざしてくる。
月牙は咄嗟にかがんで足を払い、倒れた相手を踏みつけてから、襟首をつかんで無理やりに立たせ、喉に刃先を突き付けながら命じた。
「刀を下ろせ!」
「天翔兄貴!」
「――阿祥、女らンとこからお頭呼んで来い!」
少年の一人が戸口へ向けて命じるなり、ずっと見ていたらしい小さな影が外へと駆けだしていった。
「待て、この者の命が――」
月牙がそこまで口にしたとき、外からパン、と乾いた爆音が響いたかと思うと、耳元を一陣の鋭い風がかすめた。
「へへ」
青い目の天翔が上目遣いで嗤う。
「どうする兄さん。お頭が来たみたいだぜ?」
少年の言葉が終わるか終わらないかのあいだに、外から女の声が響いた。
「おいそこの色男、このマスケットが見えないのかい? 法狼機渡りの新兵器だ! 脳天撃ち抜かれたくなかったら今すぐそいつを放しな!」
「お頭!」
少年たちが歓声をあげる。
月牙は目を疑った。
口から微かに煙を発する銃を構えて戸口に立っていたのは、袖なしの赤い上着に短い白いくくり袴を合わせ、艶やかな黒髪を高く束ねたとびきりの美人だった。
猫みたいに大きな目と赤い唇。
つんと尖った鼻。
そのとびきりの美人の顔を月牙は嫌と言うほど知り尽くしていた。
相手のほうも気づいたらしく、猫目を幾度もパチパチさせ、更にはちょっと可愛らしく小首まで傾げてみせた。
「え、頭領?」
「え、じゃない、おい翠玉!」
月牙は脱力しながら怒鳴った。「何やっているんだ一体!? お頭って、お頭ってお前のことなのか!?」
「ははははは、ま、いろいろありましてね!」
上ずった声で笑いながら気まずそうに眼を逸らすのは見まがいようもなく呉翠玉だった。
月牙は向かい壁の張り紙を改めて注視した。
へたくそな字で黒々と書かれている。
石竹団呉一派
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