後宮生活困窮中

真魚

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第三章 壺を割ったら謝れよ 5

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「ねえ月、念のためだけど、今の銀は私の巾着からだからね?」
「分かっていますって」
 群衆の好意的な視線を背後に感じながら、女官三人は市場を抜けて中南門筋へと向かった。

 何しろ丘をそのまま囲った都である。
 中南門筋なる通りはかなり傾斜のきつい石畳の坂道だった。
 上るうちに行く手に長い階段が見え、その先に門が見えた。

「あれが中南門。趙家はこっちだよ」
 材木商の趙家の屋敷は階段の右手にあった。
 入り口を護る年寄りの門番が、雪衣の姿を見とめるなり顔中をクシャクシャにして笑った。
「雪小姐! なんとまあご立派になられて!」
「ありがとう阿馬。お前も元気そうだね」
「それはもう元気ですとも。死ぬ前に雪小姐のご立派な姿を見られて寿命が百年延びました。さあさあお入りください。皆さまお待ちかねですよ!」
「皆さまって、どなたかいらしているの?」
「それはもう小姐、どなたも皆ですよ! ご一族全員お集まりです!」

 門番の阿馬の言葉通り、屋敷には皆似たような顔をした趙一族がびっしりと群れ集っていた。
 赤や緑の絹服できらきらしく装った老若男女の趙氏たちが、手に手に皿だの鉢だの酒壺だのライチーの籠だのを携えて、石灯籠と金魚鉢を据えた狭い前庭にまで溢れている。
 一同は月牙と小蓮の背の羽矢を見とめるなり、寧南渡りの大熊猫の親子が突然現れたみたいな歓声をあげた。

「うわあ武芸妓官だ! 本物の武芸妓官だぁ!」
「あ、こら、お客様に失礼でしょう! まずは雪衣叔母さんにご挨拶なさい!」
 必死で止める母親たちの手を振りほどいてチビどもが突進してくる。手ごろな大きさの小蓮がつかまって羽矢を引っ張られる。
 月牙は咄嗟に一番安全そうな雪衣の後ろに逃れた。
「ねえ雪、同族は多くないんじゃなかったの?」
「九年間で増えたみたいだ。今なら馬五頭分くらいの寄進が募れそうな気がするよ」



 雪衣の伯父の趙大人は恰幅のよい初老の男だった。
 一緒に出てきた奥方のほうは鶴のように瘠せた長身だ。光沢のある緑の絹の袍を纏った趙大人は雪衣の地味な装いを見るなりあからさまにがっかりした。

「なんだい雪、せっかく故郷に錦を飾るんだから、もっと煌びやかな身形をしてくればよいのに!」
「伯父さま、手紙で知らせた通り、宮は今とても困窮しているんだよ。大きな声じゃ言えないけど、私は主命で金策に来たんだ。しばらく宿を貸してもらえるかな?」
「何を他人行儀なことを! お前は大事な亡き弟の娘、私の目が黒い限りここはお前の家だよ。困ったときにはいつでも頼りなさい。お連れの妓官がたも――」
 趙大人は月牙に目を向けるなり、趙一族にあまねく共通するらしい睫の濃い黒目がちの眸を瞬かせた。
 その表情は何とも言えなかった。
 何となく歓んでいるようにも見える。
 極まりが悪くなるほどの凝視の後で、趙大人は分厚い肩を丸め、見えない人目を憚るようなヒソヒソ声で訊ねてきた。
「なあ雪や、悪いようにはしないから、この伯父さんにだけは本当のことを打ち明けてごらん?」
「?」
「金策なんて言っているけど、本当は駆け落ちなんじゃないかい? ほら、芝居なんかでよくあるじゃないか、武芸妓官に身をやつした若い美男の武官と、後宮の判官がこう、さ?」
「…………」
 月牙の後ろで小連がヒグっと喉を鳴らした。
 大人の傍らで奥方が深いため息をついた。
「老翁、その筋がよくあるのは芝居ではなく春画の但し書きでしょう。妓官さまの喉をよく見てさしあげなさい」
趙大人は喉をよく見て、渋々ながら納得したようだった。


 当主への挨拶をしているうちに、止める間もなく中庭で宴会の支度が始まっていた。
 色褪せた朱塗りの円い卓と四角い黒檀の卓。
 どうも本来は文机と思しき地味な白木の卓までが陽の下に引っ張り出され、ありとあらゆる類の小皿にありとあらゆる類の軽食が満載される。
 みな趙一族の持ち寄りである。
 この種の持ち寄り会食は護衛任務の鬼門だ。月牙は念のために雪衣に頼んでおいた。

「雪――いや、判官様。あくまでも念のためだけど、口にするのは私か小蓮が毒見したものだけにしておいてね」
「あい分かったよ柘榴庭」
「悪いね、ご一族に疑いをかけるようで」
「イヤイヤ。これだけ集まっちゃったら、偽のまたいとこの二人や三人紛れ込んでいたって誰にも分からないからね」
「雪姉さん、何してるんだい? 早くおいでよ、乾杯の音頭をとってくれなきゃ宴会が始まらないよ!」
「雪さん、妓官さまがたはお酒をお飲みになるの?」
 中庭の真ん中からよく似た顔の趙氏たちが呼ばわる。雪衣が慌てて駆け寄って杯を受け取った。
「たぶんお顔で分かるんじゃないですかねえ」と、小蓮がひとりごちた。



 宴席には本当にあらゆる料理が揃っていた。
 甘酢に浸した揚げた蟹や芭蕉の葉に包んで蒸しあげた糯米団子といった海都料理はもちろん、豚肉の角煮を挟んだ饅頭や海老入りの茹で餃子のような東華風の料理や、サフランで黄色く色をつけた米を炒めた西域風の料理もある。
なかに変わった菓子があった。
 卵黄のたっぷり入った黄色い揚げ菓子で、表面に氷砂糖の欠片が塗してある。生地そのものにも砂糖が使われているのか、口に含むと強烈な甘みが脳天へと突き抜けるようだった。

「珍しいお菓子ですねえ。さすがに海都です。知らない美味しい食べ物が沢山ありすぎます」
 小蓮が陶然と呟くと、揚げ蟹を手づかみで食べていた福々しい顔の趙氏――雪衣の何にあたるのかは分からないが、顔の系統からして間違いなく趙氏だとは分かる――が嬉しそうに頷いた。
「そうでしょう、そうでしょう。海都は美食の町です。世界中すべての美味しいものが食べられるのですよ。小姐が今召し上がった菓子はカスドースといいましてね、はじめは租界の菓子屋が売り出したのですが、今じゃどこの料理屋でも作ります」
 と、傍で静かにカスドースを口に運ぼうとしていた雪衣が、菓子の一片を手にしたまま微かに眉をよせた。

「叔父さん、その租界というのは、前に手紙でうかがった外北門近くの法狼機人の居住区のことですよね?」
「ああそうだよ。雪がいたころにはまだ無かったのだっけ?」
「なかったはずだよ。できたのは六年前だもの」と、別の若い趙氏が口を挟む。「雪姉さん、租界に行ってみたいの?」
「いや、その租界に住んでいる法狼機人は、双樹下の国の法でも海都の市の法でも裁かれないと小耳にはさんだのだけど、本当の話なの?」
「ああ、領事裁判権というやつだね」と、年かさの趙氏が顔をしかめる。「租界には法狼機人の領事がいてね、法狼機人が犯した罪はみんなそっちで裁くことになっているんだ」
「だから連中やりたい放題だよ」と、若い趙氏が舌打ちをする。「去年来た新しい領事は結構まともな裁きをするらしいけど、前のは酷かった。法狼機が露店からものを盗んでも若い娘に悪さをしても、使用人を殺したときさえほんの少しの罰金で済ませちまったって話だ」
 雪衣が顔をしかめ、一口齧っただけのカスドースを皿に戻してしまった。

「なぜそんな無法がまかり通るんだ? タゴール人だって西域人だって、壁内に会所を置いている限りはみな同じ法を護っているのだろうに、新参者の法狼人だけどうして特別扱いされる?」

「決まっているだろう、マスケットだよ!」と、今度は年かさの趙氏が舌を鳴らす。「法狼機は一部の船主にだけ銃を売るんだ。船主は銃が欲しくてたまらないから何でも言いなりになってしまう」
「それに火薬もね。マスケットを買ったら火薬が要るから、買っちまったら買っちまったで、またずっと言いなりになるしかない。それが奴らの手なんだ。雪姉さんは知らないの? 奴ら、王宮にだって同じことをやっているだろうに。例のあれだよ、左宰相の発案で編成し直されたっていう近衛騎兵部隊。名前は、ええと――」

「竜騎兵、ですか?」
 月牙が思わず口を挟むと、老若の趙氏はギョッと目を見開き、はにかみと好意的な興味の入り混じった目つきで羽矢を見上げながら頷いた。
「ええ妓官様、その部隊です。妓官様は、あの恐ろしい三〇〇のマスケット部隊というのをご覧になったことが?」
「いえ、寡聞にしてまだ」
「そうですか――」と、年かさの趙氏が甘酢に汚れた指を卓の掛け布で拭いながら嘆息する。「噂はこちらにまで届いていますよ。法狼機人の正后が新しい宮殿を造らせて、その周りをマスケット部隊に守らせているのだそうですね」
 そのとき月牙は初めて気づいた。

 右京区の新梨花宮を護っていたあの風変わりな装束の武官――あれが竜騎兵だったのだ。

「なあ妓官さま、内宮仕えの雪姐姉さんがそんな粗末ななりをして金策に走り回るほど後宮が困窮しているのだって、結局はあの法狼機女の我儘のせいなんだろ?」
 若い趙氏が忌々しげに言ってから一息で杯を干し、ふらつく手を酒壺に伸ばしながら続ける。
「法狼機は蛭だよ。この国の生き血を吸って肥え太っている。やつらが肥れば肥るほど俺たちは貧しくなる。今の主上がどうしても法狼機女を傍に置くっていうなら、いっそのこと河東の――」
「――弟弟、それ以上は言うな! 口にするだけで叛逆罪だぞ!」
 雪衣が鋭く咎める。
「正后様が新宮へお移りになられたことと、今の宮の困窮とは、直接には関わりないんだ。新梨花宮の建造費はすべて梨花殿領から出ている。そこのところは肝に銘じておいて欲しい」
若い趙氏は一息に酒を干すと、坐った目で虚空を睨みつけた。「分かったよ雪姉さん。表立っては言わない。姉さんにだっていろいろ立場があるんだろうからさ。だけど覚えておいてくれ。もし後宮があの法狼機女を本気で追い出したいなら、国中に味方はいくらでもいるってことをね」


「ねえ月、さっきの弟弟の放言は酒の上のことだ。できれば聞かなかったことにしてもらえるとありがたいな」
 宴が果てた後で雪衣がそう頼んできた。月牙は心外に思った。
「念を押すまでもないよ。私が雪の身内を告発するとでも?」
 応じると雪衣は情けなさそうに笑った。
「悪いね。あの手の話題に関しては、紅梅殿の者は神経質にならざるをえないんだ」


 河東の――


 若い趙氏が口にしかけた言葉の後がどう続くか、月牙にももちろん分かっていた。
 
 主上がどうしても法狼機女を選ぶというなら、甥御さまたる河東の侯子にご譲位なさればいいんだ。

 大河の東に自治的な所領を有する河東藩侯の夫人は先代国王の公主である。
 今の紅梅殿の督はこの公主の生母なのだ。

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