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第三章 壺を割ったら謝れよ 3
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官船は翌日の午後についた。
一枚甲板に一本帆柱、船首と船尾に二層の楼を備えた船である。
両舷に六本ずつ櫂も備わっている。
主計判官様ご一行は船尾楼内の上船室を割り当てられた。
大河は洛東河津までは潮の影響を受ける。
夕の引き潮に合わせて船出した船は、潮目が変わるたびに河津に寄っては乗客を入れ替えながら六日で下流域まで至った。
大河の下流は黄土色だった。
中洲の島がいくつも散らばって、そこにも人家が立ち並んでいるようだ。
生臭く濃い潮の匂いと頭上を行く鴎の声。
濁った水面をふいに破って跳ね上がる魚の鱗が、燦燦と豊かな陽を浴びて雲母のように輝いてみえる。
北部生まれの月牙にとっては何もかも初めての光景である。
青々とした葦の茂る一対の長い洲のあいだを抜けたとき、船尾楼の上に立って前方を見晴るかしていた雪衣がはしゃいだ声をあげた。
「月、小蓮、おいでよ、海都が見えるよ!」
腕の示す方向を見やると、その先に巨大な三層の塔のような都があった。
低湿地帯のただなかに盛り上がる丘を三重の石壁が取り巻き、壁と壁のあいだで無数の瓦屋根が輝いている。ひときわ目を引くのは丘の頂の右手に見える鮮やかに碧い屋根である。
「懐かしいなあ、九年ぶりだよ。ちっとも変っていない」
「綺麗な町だね」
「だろう?」
「御濠じゃなくて壁に囲まれているんですね。あの碧い屋根が都督府ですか?」
「いや、あれは万神廟だ。海都ではね、地上のどんな神々でもあの廟で一緒に拝むんだ。媽祖様の小堂もあるはずだよ。判官に任じられたとき私が寄進したから」
「へええ。じゃ、あっちの白い屋根が都督府?」
「あれは船主たちの会堂。実は海都に都督はいないんだよ。船主に材木商、両替商に船大工、タゴール商人も西域商人も、壁内に会堂を構えるあらゆる行〈*同業組合〉の頭人が万神廟に集って決め事をするんだ」
雪衣が誇らしそうに教える。
船尾側の乗客たちがいつのまにか周りに集まっていた。
河東風のゆったりとした紺色の袍をまとって傘を被った商人風の男が月牙と小蓮の箙を興味深そうに眺め、思い切ったように声をかけてくる。
「もうし、お尋ねしたいのだが、そちらの太太〈*奥方様〉は後宮のお方か?」
「然様」月牙が代わりに答える。「この方は主計判官様だ」
「すると、もしかして中南門筋の趙家の小姐か?」
「私をご存じなのか?」
雪衣が愕いて訊ねると、男は福々しい顔を綻ばせて頷いた。
「勿論だ。私は河東の江隆という。趙大人とは同業だ。大人ご自慢の姪御さまにお会いできて嬉しい。武芸妓官様がたがお従いということは、お宿下がりではないのだな?」
「ああ。桃果殿様のご用命でいっとき他行している」
「そうか」
江隆は安心したように頷いた。「主上が法狼機の女狐に唆されて後宮を廃されたと聞いたが、やはり埒も無い流言だったのだな」
雪衣は曖昧に笑って答えなかった。
月牙は胸の奥がチリっと痛むのを感じた。
後宮は廃されている。
本当に廃されているのだ。
やがて船は海都の河津へと着いた。
階段状の船着き場の警備をしているのは月牙とよく似た身なりの武官たちだった。
雪衣の手形を見るなりしゃちほこばって挨拶をし、番小屋に通して手ずから茶を運んできた。
「判官様、こちらでお待ちください。今すぐ駅吏を呼んでまいりますゆえ」
じきに白い上着に緑の袴の宿駅付きの文官が現れる。
「王太后様付きの主計判官様でございますね? 遠路ようこそいらせられました。輿の支度をいたしますゆえ、どうぞ駅舎でおくつろぎください」
「いや、輿なんかいらないよ。奥勤めの内侍様ではないんだから」と、雪衣が格下の官吏相手らしい気さくな調子で断る。「梱だけを中南門筋の趙家まで運んでくれればいい。私は海都人だからね。久しぶりに街路を歩いてみたいんだ」
「では護衛の銃士をお付けいたしましょう」
「そちらも大丈夫。この通り、この世で最も信頼でいる護衛を二人も連れているからね」
雪衣が冗談めかして告げるなり、駅吏は忍び笑いを漏らした。
「妓官がたの男装は凛々しい限りですが、なんといっても女の細腕です。あまりご過信なさらず。後ろの愛らしい小姐は別として、判官様もそちらの妓官どのも人買いにかどわかされるという御年でもないでしょうが、万が一ということもありますからね。念のためお気をつけて。寄り道なさらず真直ぐに――ああ、そうそう、法狼機人を見かけたら、くれぐれも道を避けられますようにね?」
駅吏はまるで幼い子どもでも諭すような口ぶりで注意した。
月牙は雪衣が憤るかと思ったが、案に相違して頷くだけだった。
市門へと向かいながら、眉尻をさげて情けなさそうに笑う。
「私はずいぶん齢をとったらしいね。北院だと若手の下っ端扱いなのに」
「あんな無礼な木っ端役人、怒鳴りつけてやればいいのに」
「怒鳴るとよけい嘲られるに決まっている。しかし、どうやら懐かしきわが故郷にまでこの頃は法狼機人が蔓延っているみたいだね」
「昔はあまりいなかったの?」
「九年前にはそれほどいなかったと思うよ。法狼機っていうのはタゴールに住んでいるごく少ない異人で、ごくたまに黒船を寄越しては珍しいものを運んでくるって、そういう感じだったんだけど」
「この頃増えたんでしょうかねえ」
小蓮が言うと雪衣はあからさまに顔を顰めた。
「冗談じゃないよ。あんな連中にこれ以上増えられてたまるもんか」
一枚甲板に一本帆柱、船首と船尾に二層の楼を備えた船である。
両舷に六本ずつ櫂も備わっている。
主計判官様ご一行は船尾楼内の上船室を割り当てられた。
大河は洛東河津までは潮の影響を受ける。
夕の引き潮に合わせて船出した船は、潮目が変わるたびに河津に寄っては乗客を入れ替えながら六日で下流域まで至った。
大河の下流は黄土色だった。
中洲の島がいくつも散らばって、そこにも人家が立ち並んでいるようだ。
生臭く濃い潮の匂いと頭上を行く鴎の声。
濁った水面をふいに破って跳ね上がる魚の鱗が、燦燦と豊かな陽を浴びて雲母のように輝いてみえる。
北部生まれの月牙にとっては何もかも初めての光景である。
青々とした葦の茂る一対の長い洲のあいだを抜けたとき、船尾楼の上に立って前方を見晴るかしていた雪衣がはしゃいだ声をあげた。
「月、小蓮、おいでよ、海都が見えるよ!」
腕の示す方向を見やると、その先に巨大な三層の塔のような都があった。
低湿地帯のただなかに盛り上がる丘を三重の石壁が取り巻き、壁と壁のあいだで無数の瓦屋根が輝いている。ひときわ目を引くのは丘の頂の右手に見える鮮やかに碧い屋根である。
「懐かしいなあ、九年ぶりだよ。ちっとも変っていない」
「綺麗な町だね」
「だろう?」
「御濠じゃなくて壁に囲まれているんですね。あの碧い屋根が都督府ですか?」
「いや、あれは万神廟だ。海都ではね、地上のどんな神々でもあの廟で一緒に拝むんだ。媽祖様の小堂もあるはずだよ。判官に任じられたとき私が寄進したから」
「へええ。じゃ、あっちの白い屋根が都督府?」
「あれは船主たちの会堂。実は海都に都督はいないんだよ。船主に材木商、両替商に船大工、タゴール商人も西域商人も、壁内に会堂を構えるあらゆる行〈*同業組合〉の頭人が万神廟に集って決め事をするんだ」
雪衣が誇らしそうに教える。
船尾側の乗客たちがいつのまにか周りに集まっていた。
河東風のゆったりとした紺色の袍をまとって傘を被った商人風の男が月牙と小蓮の箙を興味深そうに眺め、思い切ったように声をかけてくる。
「もうし、お尋ねしたいのだが、そちらの太太〈*奥方様〉は後宮のお方か?」
「然様」月牙が代わりに答える。「この方は主計判官様だ」
「すると、もしかして中南門筋の趙家の小姐か?」
「私をご存じなのか?」
雪衣が愕いて訊ねると、男は福々しい顔を綻ばせて頷いた。
「勿論だ。私は河東の江隆という。趙大人とは同業だ。大人ご自慢の姪御さまにお会いできて嬉しい。武芸妓官様がたがお従いということは、お宿下がりではないのだな?」
「ああ。桃果殿様のご用命でいっとき他行している」
「そうか」
江隆は安心したように頷いた。「主上が法狼機の女狐に唆されて後宮を廃されたと聞いたが、やはり埒も無い流言だったのだな」
雪衣は曖昧に笑って答えなかった。
月牙は胸の奥がチリっと痛むのを感じた。
後宮は廃されている。
本当に廃されているのだ。
やがて船は海都の河津へと着いた。
階段状の船着き場の警備をしているのは月牙とよく似た身なりの武官たちだった。
雪衣の手形を見るなりしゃちほこばって挨拶をし、番小屋に通して手ずから茶を運んできた。
「判官様、こちらでお待ちください。今すぐ駅吏を呼んでまいりますゆえ」
じきに白い上着に緑の袴の宿駅付きの文官が現れる。
「王太后様付きの主計判官様でございますね? 遠路ようこそいらせられました。輿の支度をいたしますゆえ、どうぞ駅舎でおくつろぎください」
「いや、輿なんかいらないよ。奥勤めの内侍様ではないんだから」と、雪衣が格下の官吏相手らしい気さくな調子で断る。「梱だけを中南門筋の趙家まで運んでくれればいい。私は海都人だからね。久しぶりに街路を歩いてみたいんだ」
「では護衛の銃士をお付けいたしましょう」
「そちらも大丈夫。この通り、この世で最も信頼でいる護衛を二人も連れているからね」
雪衣が冗談めかして告げるなり、駅吏は忍び笑いを漏らした。
「妓官がたの男装は凛々しい限りですが、なんといっても女の細腕です。あまりご過信なさらず。後ろの愛らしい小姐は別として、判官様もそちらの妓官どのも人買いにかどわかされるという御年でもないでしょうが、万が一ということもありますからね。念のためお気をつけて。寄り道なさらず真直ぐに――ああ、そうそう、法狼機人を見かけたら、くれぐれも道を避けられますようにね?」
駅吏はまるで幼い子どもでも諭すような口ぶりで注意した。
月牙は雪衣が憤るかと思ったが、案に相違して頷くだけだった。
市門へと向かいながら、眉尻をさげて情けなさそうに笑う。
「私はずいぶん齢をとったらしいね。北院だと若手の下っ端扱いなのに」
「あんな無礼な木っ端役人、怒鳴りつけてやればいいのに」
「怒鳴るとよけい嘲られるに決まっている。しかし、どうやら懐かしきわが故郷にまでこの頃は法狼機人が蔓延っているみたいだね」
「昔はあまりいなかったの?」
「九年前にはそれほどいなかったと思うよ。法狼機っていうのはタゴールに住んでいるごく少ない異人で、ごくたまに黒船を寄越しては珍しいものを運んでくるって、そういう感じだったんだけど」
「この頃増えたんでしょうかねえ」
小蓮が言うと雪衣はあからさまに顔を顰めた。
「冗談じゃないよ。あんな連中にこれ以上増えられてたまるもんか」
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