後宮生活困窮中

真魚

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第一章 ついにわれらは四名に 1

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 目が覚めると薄暗かった。

 壁の外で雀が鳴いているのに、九年間慣れ親しんだ方二丈の板の間の鎧戸が上がっていない。
 月牙は思った。


 ――もしかしたら婢が寝坊をしたのかもしれない。


 そうだったらあまり騒ぎ立てるのはよくない。何しろ今この柘榴庭付きの婢は三人しかいないのだ。

 大膳所から三度の食を運び、食器をかたづけ、洗濯をし、厩の五頭の馬の世話をし、番中の空き房と厠と水場の掃除をする。それを三人でやっているのだからさぞ忙しいはずだ。頭領の朝の世話は最優先の仕事とはいえ、たまには疲れることもあろう。
 さすがにそろそろ婢の補充を上申したほうがいいかもしれない。
 いろいろと限界だ。


 月牙は寝台に横たわったまま苦手な書類仕事の文面を考えていたが、じきに諦めて起きると、とりあえず自分で鎧戸を上げた。
 四年前までは毎日自分でやっていたことなのだから、やってできないことはない。
 敢えてやらないのは面子の問題である。

 途端に燦燦と眩い朝日が射しこんでくる。
 明け方に驟雨が走ったらしく、土の混じった新鮮な水の匂いが、早くも暑さを増した空気とともに室内に流れこむ。

 よく晴れた初夏の朝だ。
 頭領の房の鎧戸が開いていれば、たぶんそのうち誰かが慌てて駆け上がってくるだろう。

 そう期待して待っているのに、いつになっても誰も来ない。
 洗顔用の水もこなければ朝餉の粥もこない。

 顔を洗わずに外へ出るのは気が引けるが、正直尿意が限界である。

 月牙は汗ばんだ寝巻を脱ぐと、筒袖の白麻の上着とふくらみのある浅葱色のくくり袴を身に着け、いつも寝る前に箙と弓と刀の隣に吊るしている緋色の帯を巻いてから、髪を束ね、武芸妓官の身分の証である白鷺の羽矢を収めた籐の箙を背負って外へ出た。

 この宮の部屋持ちの女官の房の造りはすべて同じだ。
 二丈四方の板作り、切り妻屋根の高床小屋の正面に戸口が設えられ、左右に一対の窓が開き、地面まで七段の階が降りている。

 方二丈。 

 それが部屋持ち女官の異称になっているほどだ。


 月牙は四年前から押しも押されぬ方二丈である。
 双樹下国の後宮たる桃梨花宮の外砦門を警備する武芸妓官の頭領として、一人で一間を悠々と占める権利を有している。

 その方二丈の居室から七段の階段を降りると、土のままの方形の庭の真ん中に大きな水たまりができていた。
 竹垣で囲まれた一辺半町〈*50m〉の庭だ。南にあたる向かい側の右手にも、今しがた月牙が出てきたのと同じ造りの小屋が三軒並んでいる。

 外砦門警備の武芸妓官たちが住まうこの柘榴庭には方二丈が八軒ある。
 頭領が一人で一軒、二人使いが五軒と三人使いが三軒。
 総計二〇名分に加えて、東側の長屋に婢が一〇名。
 それが後宮典範に定められた柘榴庭の定員である。

 しかし月牙は知っている。
 今使われている方二丈は北側の三軒だけだ。
 頭領たる月牙が使っている真ん中の一軒と、左右に二人使いが一軒ずつ。定員二〇名いるはずの柘榴庭の妓官は、一年前から一人減り、二人減りして、今やわずかに五名だけになってしまったのだ。
 長屋の婢も今や三人。おかげで雑務が滞って仕方ない。

 それもこれもみなあの法狼機(フランキ)女のせいだ。



 ――いやいや落ち着け蕎月牙。あの方はまがりなりにも当代の正后様。たとえどれほどわがままで、横暴で傲慢で手前勝手であろうと、いやしくも柘榴の妓官たるもの、内心であれ罵倒してはいけない。


 必死で自分に言い聞かせながら厠へ急ぐ。

 用を足してようやく一息つく。
 手水鉢を見れば淀んだ水面に孑孑が浮かんでいた。
 
 孑孑はまずい。
 非常にまずい。
 高温多湿の双樹下京洛地方では、夏季にはよく蚊が媒体する熱病が流行るのだ。どれほど忙しかろうと、これは即刻掃除をさせねばならない。
 月牙は長屋の戸板を叩いた。

「おい皆どうした。具合でも悪いのか?」
 呼ばわっても全く応えがない。
 頭領自ら呼ばわっても婢が出てこないなど前代未聞、驚天動地、平時なら決してありうべからざる事態だ。
 まさか早くも熱病だろうか?
 もしそうなら、大急ぎで薬師たちの住まう杏樹庭へ報せなければ。
「開けるぞ!」
 一声かけて扉を引こうとしたとき、背後から息せき切った声で呼ばれた。


「頭領たいへんだ!」

「どうした麗明、何をそんなに焦っているんだ?」
 声の主は柘榴庭の次官の宋麗明だった。
 黒髪黒目が大半を占める双樹下人には珍しい栗色の髪をふさふさと垂らした、妓官にはきわめて珍しい肉感的な体つきをした女だ。

「翠玉がいないんだ!」
「いないって、外砦門に?」
「そうだ。今しがた門衛の交代のために外砦門へ行ったら、夜番のはずの翠玉がどこにもいなくて、外に箙と刀が置いてあった。そして扉にこの一本が突き刺さっていたんだ」
 麗明が白鷺の羽根矢を差し出してくる。
 矢文である。
 軸に細く折った白い紙片が結び付けてある。
 月牙はほどいて慎重に開いた。


 ――上申蕎月牙師範


 文の初めに丁寧な筆跡で記されている。
 間違いなく翠玉の手だ。


「置手紙か?」
 麗明が心配そうに訊ねる。
 月牙は昂ぶる心を宥めて頷いた。
「どうやら翠玉は自分で逃げたみたいだ。長屋の婢たちも一緒らしい」
「逃げたって、そんなまさか、あの子が」
 麗明がうろたえ切った声をあげる。月牙は眉をあげた。
「落ち着け。今門はどうなっている?」
「閂は掛かっている。初めからずっと掛かってはいたんだ。翠玉たちはどうやって出て行ったのだろう?」
「まず婢たちが出て、そのあとで翠玉が閂をかけて、あの子自身は露台から飛び降りたんだろう。ともかくすぐ戻れ。閂が掛かっていようといまいと、外砦門に妓官がいないのは典範に反する」
「分かった」
 そのとき、北側の方二丈からのんびり眠そうな声が響いた。
「頭領も麗明さまも、朝から何があったんですかあ?」


 見れば、最年少の妓官の孫小蓮が、ボサボサ頭を掻きながら階を下りてくるところだった。
 後から同室者の周桂花まで出てくる。しっかり者の桂花のほうは、もうきちんと髪を髷に結って箙まで背負っていた。

 月牙と麗明は顔を見合わせた。
 小蓮は十四で桂花は十七。
 外なら嫁入り間近の妙齢の娘たちだろうが、妓官としてはまだまだひよっ子だ。


 ――この子らに話していいものだろうか?


 月牙は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに思い直した。
 年少だろうが何だろうが、この二人も柘榴の妓官だ。

「翠玉が逃げたようだ」
「え?」
 小蓮が目を見張った。桂花も絶句している。
「噓でしょそんな。まさか翠玉姉さんが」
「我々も信じたくはないのだが、このとおり置手紙があるからな」
月牙は必死で心を落ちつかせながら命じた。「みな、驚いている暇はないぞ。麗明は今すぐ外砦門へ戻れ。桂花と小蓮は長屋と方二丈すべてを検めろ。何であれ、官給品でなくなっている品があったら報せるように」
「ああ頭領」
「承った」
 麗明と桂花は即答したが、小蓮だけがうつむいたまま答えようとしない。月牙は心を鬼にしてもう一度命じた。
「小蓮。庭を検めろ」
「――じゃ、頭領は翠玉姉さんが泥棒したっていうんですか? 門を放って、官給品を盗んで逃げたって、そう言うんですか?」
 小蓮が顔を真っ赤にして食ってかかるなり、桂花が情け容赦なく後頭部を平手でたたいた。
「小蓮、頭領になんて口きく!」
「だって桂花姉さん!」
「だってじゃない。急ぐぞ。務めだ」
 仮借ない桂花が小柄な小蓮を引きずるようにして長屋へ入っていく。
 月牙は北の木戸を出て厩へ向かった。



 厩の五頭の馬たちはすべて残っていた。
 馬具もみな揃っている。
 隣り合う兵庫の鍵は月牙自身が常に携帯しているから、盗難は考えにくい。念のために開けて入ると、武具も衣装も何一つなくなっていなかった。桂花の報告では、庭からも何一つなくなった品はなかったという。

「長屋の鍋までみんなある。ないのは私物の平服だけだ」
「翠玉姉さんは洛中の生まれでしたよね? きっと寂しくなっちゃって生家に帰っただけですよね?」
「そうだな。きっとそうだ」
 月牙は心にもないことを言った。「官給品が皆あってよかったよ。二人とも朝からよく務めた。ご苦労だが、柿樹庭から朝餉をもらってきてくれ。一人前の妓官にこんなことを頼んですまないね」
「かまいませんよう」と、小蓮が肩をそびやかす。無口な桂花は何も言わなかったが、さほど気を悪くしたようにも見えなかった。
 この頃の若い娘はあまり身分の差というものを気にしないのかもしれない。
 二十七の月牙は自分がどっと齢をとったように感じた。

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