『遥かなる遥かなる遥かなる現在（いま）此処へ』中篇小説

第十二話

　わたしは慙ざん愧き懺さん悔げしていた。
　人類最大規模の愚行を犯してしまったと。
　わたしはいまだ魔王ルシファーや魔王ルシファーの麾き下かたるベルゼブブたちの世界規模の陰謀が如い何かなる目的へと驀ばく進しんしているかを旗き幟し鮮せん明めいとして諒りよう解かいすることができなかった。神しん聖せいなるマリアの不倫相手たる軍人を暗殺しふたたびベルゼブブと遯とん竄ざんしたわたしは巍ぎ然たる態度で豊ほう饒じようなる肉にく軆たいのベルゼブブに詰問せんと蹶けつ起きした。僥ぎよう倖こうにもベルゼブブはまた灰褐色のマルボロはメンソールを喫煙していて須しゆ臾ゆの油断ができていた。巍ぎ峨がたる山さん嶺れいから邃すい古こ羅ろー馬ま帝てい國こくの僻へき陬すうを俯ふ瞰かんしていたわたしは血ち腥なまぐさい短剣を凝視しながら豪放磊らい落らくに仰ぎよう臥がしているベルゼブブに尋問した。曰いわく人類史上最大級に重要な人物である基き督りすとの存在を湮いん滅めつすれば今後人類史上に巨大な悲劇が到来することはわかっている。ベルゼブブおまえたちの『計画』どおりにゆけばこの世界はどうなってしまうんだと。鬱うつ蒼そうたる草原に仰ぎよう臥がしていたベルゼブブは繊細なる煙草《たばこ》を燻くゆらしながら蠱こ惑わく的てきなる口唇の片隅を蠢しゆん動どうさせて返答した。曰いわくあんたにはこの『計画』が完遂された暁あかつきにすべてを諒りよう承しようしてもらおうと考えていた。もはや永えい劫ごう不滅の神霊その三位一体の一端たる基き督りすとが湮いん滅めつされたいまではなかば『計画』は完遂されたにちかい。もうそろそろあんたにも理解してもらおうと。豊ほう饒じようなるベルゼブブは慇いん懃ぎん無ぶ礼れいに煙草《たばこ》を放ほう擲てきし暗あん澹たんたる口こう吻ふんでつづけた。曰いわく基き督りすとが存在しなくなった世界ではこの邃すい古こ羅ろー馬ま帝てい國こくが四十五世紀まで存在することになる。羅ろー馬ま人至上主義を標ひよう榜ぼうして世界最終戦争をはじめるんだがこの戦争は失敗に終わり全人類の総力戦の結果混こん沌とんたる地球上ではあらゆる国家が消滅し完璧なる無政府状態畢ひつ竟きよう自由と闘争の世界が到来することになる。全人類のころしあいによる世界だ。これこそが魔王ルシファーの長年の『計画』でありこの完璧に自由の世界が到来したとき我々地獄の住人は遂ついに永えい劫ごう不滅の神霊YHWHに凱がい歌かをあげるのだと。
　わたしは陰陰滅滅たる感慨になった。
　忸じく怩じたる感慨のわたしは須しゆ臾ゆもなくこの姦かん佞ねい邪じや智ちの悪魔たちとの契約を完遂しベルゼブブの霊威から解放されたとえ阿あ鼻び叫きよう喚かんの世界に改かい竄ざんされていようともおよそ四千五百年後の――おそらく四十六世紀初頭となるだろう――『現代』へと生還し一いち蓮れん托たく生しようのあなたと邂かい逅こうする刹那が到来することを翹ぎよう望ぼうしていた。軈やがて燦さん爛らんたる陽光に明滅する穹きゆう窿りゆうのもとの山さん嶺れいにおいて慇いん懃ぎん無ぶ礼れいなる態度で煙草《たばこ》を燻くゆらせていたベルゼブブは鬱うつ悒ゆうたる顔がん貌ぼうのまま屹きつ立りつし邃すい古こ羅ろー馬ま帝てい國こくの僻へき陬すうを見み霽はるかしていたわたしに囁しよう嚅じゆした。曰いわく閣下の冀き求きゆうするところは旗き幟し鮮せん明めいとして完遂されるわけではない。おそらく全知全能の神霊YHWHは無む知ち蒙もう昧まいなる我々の一歩も二歩も先手を打って魔王ルシファーの『計画』を壅よう塞そく阻止するだろうと。毫ごう釐りとなった煙草《たばこ》を放ほう擲てきし紺こん碧ぺきの穹きゆう窿りゆうを仰視していたわたしに呟つぶやいた。曰いわくそれじゃあ愈いよ々いよ最後の『計画』を完遂しにゆこうかと。するとくだんのとおり巍ぎ峨がたる山さん嶺れいに佇ちよ立りつしているわたしたちの足あし許もとに魁かい偉いなる漆黒の魔法陣が明滅し巨億の銀ぎん蠅ばえの団塊が絢けん爛らんたる太陽にまで到達するほどの轟ごう然ぜんたる颱たい風ふう状となって捲ま興きおった。何い時つもどおり界かい隈わいが暗黒に壅よう塞そくされて視野狭きよう窄さくし羸るい弱じやくなる肉にく軆たいまでもが万ばん斛こくの銀ぎん蠅ばえに囲い繞じようされると須しゆ臾ゆもなく四方八方の景色は豹ひよう変へんし眼前には魁かい偉いなる中世欧よー羅ろつ巴ぱ風の豪邸が出現した。微笑したベルゼブブ曰いわく此こ処こは千九百七十二年の英吉利《いぎりす》はオックスフォードだ。あの悪趣味な大豪邸はウィンストン・チャーチルの父親ランドルフ・チャーチルの邸宅だということであった。最後の『計画』としてランドルフ・チャーチル青年即すなわちヒトラーと対たい峙じして凱がい旋せんしたウィンストン・チャーチルの存在を湮いん滅めつしてもらいたいとつづけた。
　わたしは蹶けつ起きした。
　最も早はや此こ処こまで大罪を犯し須しゆ臾ゆもなく極悪無道の契約から解放される存在としてこの最後の『計画』から遯とん竄ざんすることはできなかった。いずれにせよ九きゆう竅きよう百ひやく骸がいの自由をベルゼブブに剥はく奪だつされていたのだが――ゆえにこそ――無む辜この黎れい民みんを暗殺することに鬱うつ悒ゆうとせざるをえなかったはずが摩ま訶か不ふ思し議ぎなことに――人間とは何処どこまでも利己的なものである――この最後の暗殺については毅き然ぜんとした態度で遂行できそうにおもわれた。豊ほう饒じようなるベルゼブブは白銀の不ぶ恰かつ好こうな拳銃デリンジャーをわたしに譲渡し――過去の暗殺に使用された兇きよう器きも歴史をバタフライ効果で無闇矢や鱈たらに改かい竄ざんしないために当時でも存在しているものを選択していた――いつになく荘厳なる顔がん貌ぼうで囁しよう嚅じゆした。曰いわくランドルフはこれからクラウゼヴィッツの『戦争論』を図書館に返却しにゆくところだ。今回は簡単だおれがあんたの肉にく軆たいを操縦しデリンジャーでランドルフの脳髄を撃ちぬけばいい。これですべての『計画』はおわりだ。さあさっさと遂行してあんたとの契約を果たそうじゃないかと。最も早はや九きゆう竅きよう百ひやく骸がいの自由を剥はく奪だつされているわたしは毅き然ぜんとして首肯することもできなかったが獅し子し奮ふん迅じんの感慨は荘厳なる顔がん貌ぼうのベルゼブブにも伝でん播ぱされていたらしい。街角に佇ちよ立りつしていたわたしは剽ひよう悍かんなる顔がん貌ぼうのランドルフが邸宅から出現したことを察知すると刹那平々凡々たる通行人の風采を装って毅き然ぜんたるランドルフの背後を通過した。獰どう猛もうなる殺気に勘付いたのか一瞬わたしを顧みたランドルフの側頭部を白銀のデリンジャーで銃撃し万ばん斛こくの群衆が嘯しよう聚しゆしてくるまえに颯さつ爽そうとしてベルゼブブの佇ちよ立りつする街角へと遯とん竄ざんした。奇妙に温和なる微笑を迸ほとばしらせたベルゼブブは灰褐色の煙草《たばこ》を咥くわえながら囁しよう嚅じゆした。じゃあいこうかと。須しゆ臾ゆもなく荒縄で纏てん繞じようされていた感覚で自由を剥はく奪だつされていた肉にく軆たいが摩ま訶か不ふ思し議ぎなる浮遊感とともに闊かつ達たつに動作できるようになった。刹那くだんのとおりわたしたちの足あし許もとに漆黒の魔法陣が明滅し巨億の銀ぎん蠅ばえが魁かい偉いなる颱たい風ふう状となって捲ま興きおった。
　ついに『計画』は遂行された。
　いや『契約』はまだ完遂されていなかった。