『遥かなる遥かなる遥かなる現在（いま）此処へ』中篇小説

第十話

　わたしは狐こ疑ぎ逡しゆん巡じゆんしていた。
　斯か様ような契約がおのれの希望だったのかと。
　無論無む知ち蒙もう昧まいなるわたしの頭脳では曖あい昧まい模も糊ことして認識できぬほどの魁かい偉いなる陰謀に――それも現世を超越して神々や悪魔の世界までをも範はん疇ちゆうとする陰謀に――捲まき込こまれていることは覚悟していたが最大の目的である一いち蓮れん托たく生しようのあなたとの邂かい逅こうのために無む辜この人間を――人間の生命を差別化したいわけではないが――人類史を磐ばん石じやくたらしめた聖者たちを殲せん滅めつしてゆくという姦かん佞ねい邪じや智ちの条件はいまだに毅き然ぜんとして諒りよう承しようするわけにはゆかなかった。四し面めん楚そ歌かのわたしは所詮羸るい弱じやくなる肉にく軆たいを所有する人間でしかないため獰どう猛もうなる霊威を誇示するベルゼブブの魔術からは遯とん竄ざんできずまた魔術に嚮きよう導どうされるがままに連綿たる歴史を超越して無む辜この聖者たちを勦そう滅めつしてゆく運命であることは明瞭たる真実であった。肉にく軆たいの自由を剥はく奪だつされたわたしは悪魔の傀かい儡らいとしてふたたび九きゆう竅きよう百ひやく骸がいの自由を簒さん奪だつする爾じ時じを窺うかがうしかなかった。悪魔ベルゼブブにも毫ごう釐りの人間性が垣かい間ま見みれ三人の聖者孔子老子仏ぶつ陀だを湮いん滅めつさせたのち跼きよく天てん蹐せき地ちのわたしにこの陰謀の理由を慇いん懃ぎん無ぶ礼れいなる態度ながら説明してくれた。爾じ時じは紀元前五九九年のネパール――前述のとおり紀元前五六二年の魯ろ国こくは縹ひよう渺びようたる曠こう野やにて羈き旅りよ中の孔子の父親を暗殺しつづいて紀元前六五三年の楚国は僻へき陬すうの陋ろう屋おくに闖ちん入にゆうし熟睡中の老子の父親を縊殺し紀元前五九九年のネパールは絢けん爛らん豪ごう華かなる城郭の界かい隈わいにて陋ろう巷こうを視察していた浄飯王を刺殺したのちわたしは悪魔ベルゼブブの霊威によって露命をつなぎとめネパールの僻へき陬すうにて逼ひつ塞そくしていた――暗あん澹たんたる陋ろう巷こうの片隅にてベルゼブブとともに浄飯王麾き下かの追跡をまぬかれていたわたしはベルゼブブがまた灰褐色のマルボロを喫煙しているあいだなかば九きゆう竅きよう百ひやく骸がいの自由が挽ばん回かいされていることを認識し毅き然ぜんとして尋問した。曰いわくこんな愚行を繰返して人類の歴史を豹ひよう変へんさせたところでおまえたち悪魔になんの利益があるのかと。豊ほう饒じようなる片腕で漆黒のネクタイを弛し緩かんさせたベルゼブブは微笑を迸ほとばしらせながら囁しよう嚅じゆした。曰いわくあんたは現世はともかく天国や地獄の歴史には疎いようだな。嘗かつてわれらが魔王ルシファーは天国でもっとも美麗且かつ最強の天使だった。真実の自由を冀き求きゆうした魔王は巨億の人類に自由を奪還させるため全知全能の神霊に叛はん逆ぎやくし地獄に堕天した。この『計画』はふたたび巨億の人類に自由をさずけるための最終手段なのだと。巍ぎ然として反はん駁ばくせんとしたわたしはふたたび獰どう猛もうなる霊威によって肉にく軆たいを嚮きよう導どうされていることを認識した。
　かくしてわたしは最大之の罪へと驀ばく進しんした。
　つづいてわたしが邁まい進しんするのは紀元前五年の邃すい古こ羅ろー馬ま帝てい國こくの僻へき陬すうであった。そもそも邃すい古こネパールで偉大なる浄飯王を暗殺したのち狂きよう瀾らん怒ど濤とうの麾き下かによる追跡から遯とん竄ざんしたのは旗き幟し鮮せん明めいたる理由があった。霊威を誇示する悪魔ベルゼブブとはいえ天てん壌じよう無む窮きゆうの時空を超越するためには漆黒の魔法陣と巨億の銀ぎん蠅ばえの存在を必要とし浄飯王を暗殺したのち四し面めん楚そ歌かのわたしたちが邃すい古こネパールから羅ろー馬ま帝てい國こくへと邁まい進しんするには毫ごう釐りながら時間を必要とするのであった。無論のことベルゼブブの『現世における肉にく軆たい』であるわたしが殺害されてはこの巍ぎ峨がたる陰謀も泡ほう沫まつとなってしまうために一時的ながら黄こう塵じんの陋ろう巷こうへと逼ひつ塞そくしなければならなかった。獅し子し奮ふん迅じんの浄飯王の麾き下かによる追跡をまぬかれベルゼブブの魔術も遂行しうる環境に遯とん竄ざんし漸ようやく摩ま訶か不ふ思し議ぎなる運命のわたしたちは紀元前五年の羅ろー馬ま帝てい國こくへと翺こう翔しようすることとなった。僥ぎよう倖こうにも九きゆう竅きよう百ひやく骸がいの自由は獰どう猛もうなるベルゼブブの霊威によって剥はく奪だつされていたが脳髄――或あるいは肉にく軆たいを抱擁する唯一無二の精神――は巍ぎ然としてベルゼブブの魔力からまぬかれ自由意志のもとに這しや般はんの状況を揣し摩ま憶おく測そくする能力は継続されていた。ゆえに暗あん澹たんたる運命の悪戯いたずらで孔子老子仏ぶつ陀だの存在を殲せん滅めつしてきた経過とつづいて紀元前五年の羅ろー馬ま帝てい國こくへと邁まい進しんするという獰どう猛もうなるベルゼブブの『計画』から須しゆ臾ゆもなくさらなる犠牲者を――おそらく今回の羈き旅りよでもっとも重要となるべき犠牲者を――沈思黙考すべきだったかもしれない。蠢しゆん愚ぐなることに人類史に無む知ち蒙もう昧まいなわたしは紀元前五年の翌年紀元前四年に邃すい古こ羅ろー馬ま帝てい國こくにて如い何かなる人物が生誕していたかを忘却していたのである。獰どう猛もうなるベルゼブブが喫煙を中断しわたしに肉薄してきたときにはすでに運命は濫らん觴しようしていた。邃すい古こネパールの僻へき陬すう溟めい濛もうたる砂さ塵じんが渦巻く廃はい墟きよに遯とん竄ざんしていたわたしたちはやはり摩ま訶か不ふ思し議ぎなるベルゼブブの霊威によって刹那連綿たる歴史を超越した。廃はい墟きよのなかで漆黒の魔法陣を描破したベルゼブブが蠱こ惑わく的てきに明滅する魔法陣の中枢で奇妙奇き天て烈れつなる呪文を読どく誦しようするとくだんのとおり巨億の銀ぎん蠅ばえが颱たい風ふう状となって渦巻きわたしともども完璧なる暗黒の世界へと嚮きよう導どうされた。また万ばん斛こくの銀ぎん蠅ばえが穹きゆう窿りゆうへと雲散霧消すると磅ほう礴はくたる景色は豹ひよう変へんしおそらく紀元前五年の邃すい古こ羅ろー馬ま帝てい國こくの僻へき陬すうであろう巍ぎ峨がたる山脈の片隅に建築された山小屋の裏手にベルゼブブとわたしは彳てき亍ちよくしていた。溟めい濛もうたる山小屋の陰いん翳えいのなかで静せい謐ひつとして佇ちよ立りつしているとベルゼブブは悪戯いたずらに微笑しながら解説した。曰いわく此こ処こは大工ヨセフと聖処女マリアの住すみ処かだと。
　わたしは運命を呪じゆ詛そした。
　またベルゼブブは豪ごう放ほう磊らい落らくなる態度で解説した。曰いわく宗教に疎いあんたでもこの説明でさとったようだなと。ヨセフとマリアはナザレのイエスの両親だ。伝説によればマリアはヨセフではない父親の子供を孕はらみ激げつ昂こうしたヨセフは離婚を蹶けつ起きするんだが天啓によりマリアが処女懐胎したことをさとると聖者たる子供の生誕をともに祝福したそうだ。ナザレのイエスが誕生したのが翌年の紀元前四年おれたち悪魔の世界でそんな茶番を信しん憑ぴようしているやつなんていない。いいか聖母マリアは大工ヨセフのほかに不倫相手が存在しこの不倫相手畢ひつ竟きよう羅ろー馬ま帝てい國こくの軍人と密会をすることによって糊こ口こうを凌しのいでいたわけさ。無論ナザレのイエスはヨセフではないこの羅ろー馬ま帝てい國こく軍人の息子ってわけだ。いうまでもないことだがこれからあんたには――いままさにこの山小屋でマリアと密会している――羅ろー馬ま帝てい國こくの一軍人を暗殺してほしい。これでナザレのイエスの存在は湮いん滅めつされ未み来らい永えい劫ごう基き督りすと教きようというものはこの世界から消滅すると。激げつ昂こうしたわたしは毅き然ぜんとして抵抗せんとした。それは唯一自由なる脳のう裡りの出来事であって九きゆう竅きよう百ひやく骸がいを傀かい儡らいとされているため最も早はやベルゼブブの嚮きよう導どうするがままにくだんの羅ろー馬ま帝てい國こく軍人を暗殺せざるをえなかった。旗き幟し鮮せん明めいたる自由意志では巍ぎ然として基き督りすとの存在を湮いん滅めつしたら巍ぎ峨がたる世界史が阿あ鼻び叫きよう喚かんの地獄絵図となることを認識していたが矢や張はり獰どう猛もうなるベルゼブブの霊威によってわたしは山小屋へと闖ちん入にゆうしていった。跼きよく天てん蹐せき地ちのわたしは驍ぎよう毅きなる片手に豊ほう饒じようなるベルゼブブが摩ま訶か不ふ思し議ぎなる魔術によって出現させた短剣を掌握し静せい謐ひつなる足取りで山小屋の内部を蠢しゆん動どうしてゆく。まさに恋人同士として抱擁しあっているマリアと軍人を発見しベルゼブブの魔力に嚮きよう導どうされたわたしは不自由なる両手を掲揚して鋭利なる短剣により驍ぎよう毅きなる岩肌のような軍人の背中を剔てつ抉けつした。
　窈よう窕ちようなるマリアがわたしを睥へい睨げいした。
　鬱うつ勃ぼつたる絶望感のなかわたしは遯とん竄ざんした。