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第6話 夜闇を駆け抜ける
6-1
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本日は幕間「魔術師の偏愛」を朝7時に更新しております。
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目を開けると見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上だった。
「……ここは」
「ここは医務室二階の休息室だ」
聞こえてきた声の方に顔を向ければ、書類を手にしているジルベールがいた。どうやら彼はベッド横に椅子とデスクを持って来て仕事をしているようだった。
「し、だんちょ、さま。わたし……」
頭がもやがかかったようにぼんやりしている。どうして自分がここにいるのかが分からない。
「シーツを取り込んできてから、一階の事務で早退届にサインして、その直後、倒れたと聞いている」
ジルベールが手に持っていた書類をデスクの上に置き、そう説明してくれた。
その説明を聞いてようやくグレースもだんだんと頭がはっきりしてきた。彼の言う通りシーツを取り込み、早退届にサインをして、その直後からの記憶がさっぱりとなかった。
「水を飲むか?」
そういってジルベールが起き上がるのを支えてくれ、水の入ったカップを口元まで持って来てくれた。お礼を言って受け取り、なんとか飲み込む。自分で自覚していなかったが随分と喉が渇いていたようで、カップは空になった。
水を飲むとより一層落ち着いた。
「申し訳ありません。ご迷惑……い、今、何時ですか? 帰らないと……っ」
部屋に時計はなく、小さな窓はカーテンが閉められている。
「大丈夫だ。君の家にはきちんと無事を知らせてある」
ジルベールにそっとグレースの肩を押し戻されて、起き上がるのを諦める。
「今夜はここに泊っていくといい。明日の朝、馬車を出そう」
「いえ……帰ります。家族が心配ですから」
グレースは今度こそベッドから起き上がり、足を床に降ろすことに成功した。だが立ち上がったジルベールがベッドに腰かけたグレースの横に両手を着いた。あまりに近い距離にのけぞれば、当たり前のようにグレースの体はベッドに倒れこんだ。
「し、師団長様?」
青い瞳は何を考えているのかさっぱりと分からなかった。
「休め、と言っている」
低く唸るような声に、彼が怒っているのだと気づいてグレースは身を固くする。
「倒れて、事務官に抱えられて運ばれて、医者にまで休めと言われて、どうして休まない?」
「……家で、家族とあるほうが休めます。明日は、大人しく休みますから」
グレースはもっともらしい理由を口にした。
それにグレースはあと二日ほどしか家族の傍にいられないのだ。わずかな時間でも無駄にしたくはなかった。
「……この間、俺に言ったことは本気か?」
「俺に、言ったこと……?」
「俺のそばにいたい、と」
「あ、れは……わ、忘れてくださいませ」
青い瞳から逃げるように顔をそむける。
ジルベールが何をしたいのか、何をグレースに求めているのかさっぱりと分からなかった。どう返していいかも分からず押し黙っているとジルベールが再び口を開いた。
「……本気、だったのか?」
「……だとしたら、どうするのですか?」
この人は本当に何がしたいのだろうと、混乱がますますひどくなる。
「いや、それは……」
ジルベールはそこで言葉を詰まらせ、眉を下げた。青い瞳が逸らされて、考え込むように押し黙る。
本当にこの人は何がしたいのだろう。
こんな雑用係に想いを寄せられて困るのは彼自身だというのにどうしてわざわざ確認などしてくるのだろう。彼が遊び人であれば、火遊びの相手探しと納得もできるが、ジルベールがそんな人ではないことをグレースは知っている。
だから余計にジルベールの意図が読めなかった。
「……あの、帰りたいので、どいてくださいませ」
グレースはそっと手を伸ばして、ジルベールの肩を押してみたがびくともしなかった。
「今夜はここに泊まれと言っているじゃないか」
むっとしたように顔をしかめたジルベールにグレースは、なんだかふつふつと怒りがわいてきた。
グレースの想いを受け止めるでもなく、かといって、拒絶してくれるわけでもない。なのに優しさばかり向けてくる。
「離してください。もう帰らないと……」
「どうしたら君は休むんだ? 家には連絡を入れてあるから、今夜はここに泊まれと言っている」
頑なに退かないジルベールにグレースは、苛立ちと共に口を開いた。
「で、でしたら、キスをしてください」
「……は?」
空気の抜けたような返事が返された。
グレースは、ジルベールを精一杯、睨みつける。
「師団長様の言う通り、私は貴方をお慕いしております……っ。ですから、キ、キスを、してくださったら、今夜はここに泊まります……! ほ、ほっぺや額はだめですからね!」
ジルベールは見たこともないくらいの真顔で固まっていた。
気絶しているのではないかという固まり具合に、グレースは今こそ逃げられる、となんとか彼の腕の檻から逃げ出して、ベッドの上に脱出する。そして、足元側から降りて、そこにあった靴を履き、ドアノブに手をかけた瞬間、腕を掴まれた。
「きゃっ」
腕を引かれて、くるりと体の向きが変えられ。ジルベールと向き合う形になった。大きな手にがしりと両肩を掴まれる。
「できる」
「え?」
真顔で宣言したジルベールの顔が近づいてくる。後ずさろうにも強い力で肩を掴まれていて、身動き一つできない。
鼻先に彼の呼吸が触れた。まつ毛が触れそうなほど近くにジルベールの青い瞳が迫ってきた。綺麗な青だった。まるで春の空のような青く澄んだ色をしていた。
一瞬のことのようにも、何十分のことのようにも思えたその時間は、その青い瞳が離れて行くことで終わりを告げた。
彼の唇がグレースに触れることはなかった。
「すまない、やはり、こういうことはその……」
グレースの肩を掴んでいた手の力が緩んだ。
「明日は休みます!」
その瞬間、グレースは部屋の外へ飛び出し、駆けだした。
「グレース嬢!」
ジルベールの声がして後を追いかけてくるのが分かった。
グレースは階段の一番上から、ためらいなく飛び降りた。ふわりと着地しそのまま走って外へ出る。
「嘘だろ!?」
ジルベールが叫んでいるのが聞こえたが、グレースは立派な「猫系獣人族」である。
外は暗かったが、騎士団の敷地はところどころで松明が燃えている。グレースには十分だ。そのまま駆け抜けていく。
「おい! 捕まえてくれ!」
ジルベールが叫び、騎士たちが驚きながら手を伸ばしてくるので、それもひょいひょいと避けて、くぐって、跳んで、かわしていく。
「門を閉めろ!」
グレースの背丈の三倍はありそうな鉄門が大急ぎで閉められる。
丁度、門の前で立ち往生する馬車がいた。手を伸ばしてきた騎士に「すみません」と謝ってから、彼の肩を踏み台にして馬車の上に音もなく降り立った。
そこからぴょんと飛んで、門の外へ降り立った。
そして、グレースは一度も後ろを振り返ることなく町の方へと駆け出した。
人の間を駆け抜けて、すでに閉店時間をすぎているから静まり返った商店街も駆け抜けて、そして、家の近くまで来て足を止めた。
もう振り返ってもジルベールの気配はなかった、
グレースは、息切れする胸を押さえてしゃがみこむ。いくら何でも無茶をしすぎた自覚はあって、くらくらと眩暈がする。
「ふふ……キス、してほしかったのに……っ」
膝の間に頭をくっつけたままグレースは乾いた笑いを零して、つぶやいた。
一つくらい何か望んで良いのなら、家族と会えなくなっても、あんな男に嫁がなくては行けなくても、初めてのキスくらい、好きな人としたかった。
でもジルベールの好きな人は、グレースではないのだから、仕方がない。
「……かえらなきゃ」
ここまで走れたのは奇跡に近い。だが、起きた時に少し体が軽くなっていたのだ。もしかしたら何か薬を飲ませてくれたか、打ってくれたのかもしれない。
眩暈が治まるのを待って、グレースは立ち上がる。
ゆっくりと家を目指して歩いていくのだった。
角を曲がったところで息を呑む。家の前にリゼルが立っていた。
慌てて駆け寄ると、こちらに気づいたリゼルがノックしようとしていた手を止めて振り返る。
「あら、グレース、今帰ったの? 遅いわね」
「何をしにきたんですか?」
不思議なことにいつもここへ乗りつけてきた馬車はなく、リゼルがただ一人で立っていた。
「あなたの婚約者が、あなたがいつもの時間に帰って来ないから心配だってうるさいのよ」
その言葉に咄嗟に辺りを見回すが、暗い住宅街には野良猫一匹見当たらなかった。
「どうもあの方、あなたのことが心配で心配でたまらないらしいの。愛されてるわね」
そういってわがままな子どもに呆れるように笑ったリゼルの背後に馬車が停まった。
リゼルがドアを開けると、あの男がそこにいた。グレースは思わず後ずさる。ドン、と背中にドアが当たった。
「私の愛しい、婚約者殿」
ねっとりとした声に全身に鳥肌が立つ。
「迎えに来た。一日も早く君と夫婦になりたいのだ」
「あ、あさって、の約束、だったはず、です」
みっともなく声が震えてしまったが、男は意に介した様子もなくあのぎょろぎょろした目でじっとグレースを見つめている。
ジルベールの青い瞳には、どれだけ見つめられたって怖くなかったのに、今はその目が本当に怖くて仕方がなかった。
「グレース、私の婚約者殿。私はコンラート。職業は魔術師だ」
男――コンラートがゆっくりと馬車から降りてきて、グレースの目の前に立った。グレースより頭一つ背が高いが猫背で、下から見上げる顔は、また違った不気味さがあった。
「……お姉ちゃん?」
背中を預けるドアの向こうから弟の声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、なんで入ってこないの? 誰とお話してるの?」
猫系獣人族は鼻も利くし耳も良い。弟に自分がここにいることと、客がいることは誤魔化せない。
「な、なんでもないのよ。お姉ちゃんの職場の人が伝言を届けに来てくれたの」
「でもお姉ちゃん、倒れたって聞いたよ。早くお家に入って、休んでね」
「え、ええ。すぐに行くわ」
ロビンの気配はドアの向こうから離れていかない。
リゼルが馬車に乗り込んだ。そして、コンラートの手がグレースの腕を掴んだ。
「さあ、行こう、花嫁殿」
にぃっと笑ったコンラートにグレースは「ひっ」と悲鳴を漏らした。すごい力で腕を引かれて、馬車に押し込まれそうになる。
「お、お約束が、違います! お迎えは明後日だと……っ!」
「騎士団なんて危ないところにいたらいけない。そうだ、挨拶をしなければ」
コンラートがグレースの腕を掴む手とは反対の手をおもむろにドアに翳した。バタン!と勢いよくドアが開いて、ロビンと、その後ろにミシェルを抱えた母が立っていた。
「お、姉ちゃん?」
「グレース? あなた、うちの娘に何を……っ!」
「ああ、やはり妹も可愛いな」
コンラートがにんまりと笑みを深めた。その笑みの恐ろしさと不気味さに四人の尻尾がぶわりと膨らむ。
「母上殿、此度、あなたの娘を妻に貰うことにした」
「は? あなた、何を言っているの? そんなことを許可した覚えはないわ!」
ミシェルをロビンに託し、セリーヌがグレースに手を伸ばそうとする。だがそれより早くグレースの体は、本人の意思に反してふわりと浮いて馬車の中へと引きずり込まれた。無情にもバタンと勢いよくドアが閉まる。
「グレース!」
「お母さん……っ!」
馬車はゆっくりと走り出す。ロビンが「お姉ちゃんを返せ!」と叫んでドアを叩いている音が聞こえた。母が「グレース!」と呼ぶ声もミシェルの泣き声も聞こえる。
だが馬車が速度を次第に上げていき、ロビンと母の声が遠のいていく。
グレースは呆然と馬車の床に座り込んでいたが、コンラートに名前を呼ばれてか顔を上げる。
「グレース、母上殿はいじわるだ。許してくれなかったが、まあいいだろう。だって僕たちは相思相愛だものな」
「触らないで!」
グレースは咄嗟にコンラートの手を振り払った。パシン、と乾いた音が馬車の中に響く。
「私は! 貴方の下に明後日、嫁ぐと約束したはずよ! それなのにこんな強引なことをするなんて……っ!」
「そ、それは君の具合が悪そうで、騎士は悪い奴らだし、君がいじめられていると思って、だから」
「家族にお別れも言わせてくれないなんて、最低よ…っ! きゃっ!」
ふいにぐいっと髪を引っ張られて、グレースは痛みに顔をしかめた。
「あんた! コンラート様に盾突くんじゃないわよ! たかが猫風情、ぎゃっ!」
今度はジゼルの悲鳴が響いた。
血の臭いがして、グレースは息を吞む。
「痛いじゃない……! 何をするんですの!?」
ジゼルの手の甲に何かで切られたかのように一線が走り、そこから血が滴っていた。
「僕の花嫁に暴力をふるうな!!」
コンラートの怒鳴り声が響いて、グレースは耳を伏せた。
グレースは二人から距離を取るように馬車のドア付近で身を小さくする。
「グレース、怯えることはない、僕の花嫁」
「触らないで!」
シャーっとグレースが威嚇するとコンラートは手を引っ込めた。ジゼルは顔をしかめたが、未だ血の滴る手を抑えながら懸命にも押し黙ることを選んだようだ。
「約束を守らない人は嫌いよ!」
「そ、そんな、僕はただ、君が、君が心配で……ねえ、どうしたら赦してくれるっ? 僕、君のお願いなら何でも聞くから……っ!」
「私は家族をあなたとこの人から守るために、明後日きちんと約束を守るつもりだったわ。だから、最後に愛する家族と過ごしたかったのに……っ。そんなささやかな願いすら叶えてくれない人が何を言うの!?」
グレースは両手で顔を覆って、ぼろぼろと涙を零す。馬車の中にグレースの嗚咽がむなしく落ちていく。
セリーヌが「グレース」と呼ぶひび割れた声、ロビンの悲痛な声、ミシェルの哀れな泣き声。そんなものが家族との最後の思い出だなんてあんまりだった。
グレースはなにもかもに嫌気がさして、嗚咽を隠さず両手で顔を覆ったまま泣いた。何かの言い訳をしているコンラートの言葉なんて一つも耳に入って来なかった。
どのくらいそうしていたのかは分からないが、グレースは父が死んで以来のすべてのうっぷんを晴らすかのように泣き続けた。
この涙が枯れることはないのではないかと思うほど泣いていたその時だった。
「……――ス、グ……ス! グレース!!」
グレースの三角の耳は幻聴を拾った。
ジルベールの声が聞こえた気がして顔を上げた。
「グレース」
コンラートが顔を上げたグレースに安心したように名前を呼んだ。
だが、その次の瞬間、馬車の窓が盛大に割れて破片がグレースの上に降り注ぐ。グレースが驚きに頭を抱えるようにさらに身を小さくしている間にコンラートとリゼルが何かを叫ぶが、鉄が引きちぎれるようなすごい音がして、突然、全身に風を感じたと思えば、再び浮遊感を味わうことになった。
「ああ、よかった! いました! いきますよ、ジルベール!」
混乱するグレースの耳に聞こえてきたのは、ノエルの声だった。
浮遊感はほんの一瞬で、グレースは何か力強いものに抱き止められた。
「グレース、良かった……っ!」
それは間違えようもなくジルベールの声でグレースは固く閉じていた瞼をそっと持ちあげた。
「し、しだんちょうさま?」
なぜかグレースはジルベールの腕の中にいたのだった。
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目を開けると見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上だった。
「……ここは」
「ここは医務室二階の休息室だ」
聞こえてきた声の方に顔を向ければ、書類を手にしているジルベールがいた。どうやら彼はベッド横に椅子とデスクを持って来て仕事をしているようだった。
「し、だんちょ、さま。わたし……」
頭がもやがかかったようにぼんやりしている。どうして自分がここにいるのかが分からない。
「シーツを取り込んできてから、一階の事務で早退届にサインして、その直後、倒れたと聞いている」
ジルベールが手に持っていた書類をデスクの上に置き、そう説明してくれた。
その説明を聞いてようやくグレースもだんだんと頭がはっきりしてきた。彼の言う通りシーツを取り込み、早退届にサインをして、その直後からの記憶がさっぱりとなかった。
「水を飲むか?」
そういってジルベールが起き上がるのを支えてくれ、水の入ったカップを口元まで持って来てくれた。お礼を言って受け取り、なんとか飲み込む。自分で自覚していなかったが随分と喉が渇いていたようで、カップは空になった。
水を飲むとより一層落ち着いた。
「申し訳ありません。ご迷惑……い、今、何時ですか? 帰らないと……っ」
部屋に時計はなく、小さな窓はカーテンが閉められている。
「大丈夫だ。君の家にはきちんと無事を知らせてある」
ジルベールにそっとグレースの肩を押し戻されて、起き上がるのを諦める。
「今夜はここに泊っていくといい。明日の朝、馬車を出そう」
「いえ……帰ります。家族が心配ですから」
グレースは今度こそベッドから起き上がり、足を床に降ろすことに成功した。だが立ち上がったジルベールがベッドに腰かけたグレースの横に両手を着いた。あまりに近い距離にのけぞれば、当たり前のようにグレースの体はベッドに倒れこんだ。
「し、師団長様?」
青い瞳は何を考えているのかさっぱりと分からなかった。
「休め、と言っている」
低く唸るような声に、彼が怒っているのだと気づいてグレースは身を固くする。
「倒れて、事務官に抱えられて運ばれて、医者にまで休めと言われて、どうして休まない?」
「……家で、家族とあるほうが休めます。明日は、大人しく休みますから」
グレースはもっともらしい理由を口にした。
それにグレースはあと二日ほどしか家族の傍にいられないのだ。わずかな時間でも無駄にしたくはなかった。
「……この間、俺に言ったことは本気か?」
「俺に、言ったこと……?」
「俺のそばにいたい、と」
「あ、れは……わ、忘れてくださいませ」
青い瞳から逃げるように顔をそむける。
ジルベールが何をしたいのか、何をグレースに求めているのかさっぱりと分からなかった。どう返していいかも分からず押し黙っているとジルベールが再び口を開いた。
「……本気、だったのか?」
「……だとしたら、どうするのですか?」
この人は本当に何がしたいのだろうと、混乱がますますひどくなる。
「いや、それは……」
ジルベールはそこで言葉を詰まらせ、眉を下げた。青い瞳が逸らされて、考え込むように押し黙る。
本当にこの人は何がしたいのだろう。
こんな雑用係に想いを寄せられて困るのは彼自身だというのにどうしてわざわざ確認などしてくるのだろう。彼が遊び人であれば、火遊びの相手探しと納得もできるが、ジルベールがそんな人ではないことをグレースは知っている。
だから余計にジルベールの意図が読めなかった。
「……あの、帰りたいので、どいてくださいませ」
グレースはそっと手を伸ばして、ジルベールの肩を押してみたがびくともしなかった。
「今夜はここに泊まれと言っているじゃないか」
むっとしたように顔をしかめたジルベールにグレースは、なんだかふつふつと怒りがわいてきた。
グレースの想いを受け止めるでもなく、かといって、拒絶してくれるわけでもない。なのに優しさばかり向けてくる。
「離してください。もう帰らないと……」
「どうしたら君は休むんだ? 家には連絡を入れてあるから、今夜はここに泊まれと言っている」
頑なに退かないジルベールにグレースは、苛立ちと共に口を開いた。
「で、でしたら、キスをしてください」
「……は?」
空気の抜けたような返事が返された。
グレースは、ジルベールを精一杯、睨みつける。
「師団長様の言う通り、私は貴方をお慕いしております……っ。ですから、キ、キスを、してくださったら、今夜はここに泊まります……! ほ、ほっぺや額はだめですからね!」
ジルベールは見たこともないくらいの真顔で固まっていた。
気絶しているのではないかという固まり具合に、グレースは今こそ逃げられる、となんとか彼の腕の檻から逃げ出して、ベッドの上に脱出する。そして、足元側から降りて、そこにあった靴を履き、ドアノブに手をかけた瞬間、腕を掴まれた。
「きゃっ」
腕を引かれて、くるりと体の向きが変えられ。ジルベールと向き合う形になった。大きな手にがしりと両肩を掴まれる。
「できる」
「え?」
真顔で宣言したジルベールの顔が近づいてくる。後ずさろうにも強い力で肩を掴まれていて、身動き一つできない。
鼻先に彼の呼吸が触れた。まつ毛が触れそうなほど近くにジルベールの青い瞳が迫ってきた。綺麗な青だった。まるで春の空のような青く澄んだ色をしていた。
一瞬のことのようにも、何十分のことのようにも思えたその時間は、その青い瞳が離れて行くことで終わりを告げた。
彼の唇がグレースに触れることはなかった。
「すまない、やはり、こういうことはその……」
グレースの肩を掴んでいた手の力が緩んだ。
「明日は休みます!」
その瞬間、グレースは部屋の外へ飛び出し、駆けだした。
「グレース嬢!」
ジルベールの声がして後を追いかけてくるのが分かった。
グレースは階段の一番上から、ためらいなく飛び降りた。ふわりと着地しそのまま走って外へ出る。
「嘘だろ!?」
ジルベールが叫んでいるのが聞こえたが、グレースは立派な「猫系獣人族」である。
外は暗かったが、騎士団の敷地はところどころで松明が燃えている。グレースには十分だ。そのまま駆け抜けていく。
「おい! 捕まえてくれ!」
ジルベールが叫び、騎士たちが驚きながら手を伸ばしてくるので、それもひょいひょいと避けて、くぐって、跳んで、かわしていく。
「門を閉めろ!」
グレースの背丈の三倍はありそうな鉄門が大急ぎで閉められる。
丁度、門の前で立ち往生する馬車がいた。手を伸ばしてきた騎士に「すみません」と謝ってから、彼の肩を踏み台にして馬車の上に音もなく降り立った。
そこからぴょんと飛んで、門の外へ降り立った。
そして、グレースは一度も後ろを振り返ることなく町の方へと駆け出した。
人の間を駆け抜けて、すでに閉店時間をすぎているから静まり返った商店街も駆け抜けて、そして、家の近くまで来て足を止めた。
もう振り返ってもジルベールの気配はなかった、
グレースは、息切れする胸を押さえてしゃがみこむ。いくら何でも無茶をしすぎた自覚はあって、くらくらと眩暈がする。
「ふふ……キス、してほしかったのに……っ」
膝の間に頭をくっつけたままグレースは乾いた笑いを零して、つぶやいた。
一つくらい何か望んで良いのなら、家族と会えなくなっても、あんな男に嫁がなくては行けなくても、初めてのキスくらい、好きな人としたかった。
でもジルベールの好きな人は、グレースではないのだから、仕方がない。
「……かえらなきゃ」
ここまで走れたのは奇跡に近い。だが、起きた時に少し体が軽くなっていたのだ。もしかしたら何か薬を飲ませてくれたか、打ってくれたのかもしれない。
眩暈が治まるのを待って、グレースは立ち上がる。
ゆっくりと家を目指して歩いていくのだった。
角を曲がったところで息を呑む。家の前にリゼルが立っていた。
慌てて駆け寄ると、こちらに気づいたリゼルがノックしようとしていた手を止めて振り返る。
「あら、グレース、今帰ったの? 遅いわね」
「何をしにきたんですか?」
不思議なことにいつもここへ乗りつけてきた馬車はなく、リゼルがただ一人で立っていた。
「あなたの婚約者が、あなたがいつもの時間に帰って来ないから心配だってうるさいのよ」
その言葉に咄嗟に辺りを見回すが、暗い住宅街には野良猫一匹見当たらなかった。
「どうもあの方、あなたのことが心配で心配でたまらないらしいの。愛されてるわね」
そういってわがままな子どもに呆れるように笑ったリゼルの背後に馬車が停まった。
リゼルがドアを開けると、あの男がそこにいた。グレースは思わず後ずさる。ドン、と背中にドアが当たった。
「私の愛しい、婚約者殿」
ねっとりとした声に全身に鳥肌が立つ。
「迎えに来た。一日も早く君と夫婦になりたいのだ」
「あ、あさって、の約束、だったはず、です」
みっともなく声が震えてしまったが、男は意に介した様子もなくあのぎょろぎょろした目でじっとグレースを見つめている。
ジルベールの青い瞳には、どれだけ見つめられたって怖くなかったのに、今はその目が本当に怖くて仕方がなかった。
「グレース、私の婚約者殿。私はコンラート。職業は魔術師だ」
男――コンラートがゆっくりと馬車から降りてきて、グレースの目の前に立った。グレースより頭一つ背が高いが猫背で、下から見上げる顔は、また違った不気味さがあった。
「……お姉ちゃん?」
背中を預けるドアの向こうから弟の声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、なんで入ってこないの? 誰とお話してるの?」
猫系獣人族は鼻も利くし耳も良い。弟に自分がここにいることと、客がいることは誤魔化せない。
「な、なんでもないのよ。お姉ちゃんの職場の人が伝言を届けに来てくれたの」
「でもお姉ちゃん、倒れたって聞いたよ。早くお家に入って、休んでね」
「え、ええ。すぐに行くわ」
ロビンの気配はドアの向こうから離れていかない。
リゼルが馬車に乗り込んだ。そして、コンラートの手がグレースの腕を掴んだ。
「さあ、行こう、花嫁殿」
にぃっと笑ったコンラートにグレースは「ひっ」と悲鳴を漏らした。すごい力で腕を引かれて、馬車に押し込まれそうになる。
「お、お約束が、違います! お迎えは明後日だと……っ!」
「騎士団なんて危ないところにいたらいけない。そうだ、挨拶をしなければ」
コンラートがグレースの腕を掴む手とは反対の手をおもむろにドアに翳した。バタン!と勢いよくドアが開いて、ロビンと、その後ろにミシェルを抱えた母が立っていた。
「お、姉ちゃん?」
「グレース? あなた、うちの娘に何を……っ!」
「ああ、やはり妹も可愛いな」
コンラートがにんまりと笑みを深めた。その笑みの恐ろしさと不気味さに四人の尻尾がぶわりと膨らむ。
「母上殿、此度、あなたの娘を妻に貰うことにした」
「は? あなた、何を言っているの? そんなことを許可した覚えはないわ!」
ミシェルをロビンに託し、セリーヌがグレースに手を伸ばそうとする。だがそれより早くグレースの体は、本人の意思に反してふわりと浮いて馬車の中へと引きずり込まれた。無情にもバタンと勢いよくドアが閉まる。
「グレース!」
「お母さん……っ!」
馬車はゆっくりと走り出す。ロビンが「お姉ちゃんを返せ!」と叫んでドアを叩いている音が聞こえた。母が「グレース!」と呼ぶ声もミシェルの泣き声も聞こえる。
だが馬車が速度を次第に上げていき、ロビンと母の声が遠のいていく。
グレースは呆然と馬車の床に座り込んでいたが、コンラートに名前を呼ばれてか顔を上げる。
「グレース、母上殿はいじわるだ。許してくれなかったが、まあいいだろう。だって僕たちは相思相愛だものな」
「触らないで!」
グレースは咄嗟にコンラートの手を振り払った。パシン、と乾いた音が馬車の中に響く。
「私は! 貴方の下に明後日、嫁ぐと約束したはずよ! それなのにこんな強引なことをするなんて……っ!」
「そ、それは君の具合が悪そうで、騎士は悪い奴らだし、君がいじめられていると思って、だから」
「家族にお別れも言わせてくれないなんて、最低よ…っ! きゃっ!」
ふいにぐいっと髪を引っ張られて、グレースは痛みに顔をしかめた。
「あんた! コンラート様に盾突くんじゃないわよ! たかが猫風情、ぎゃっ!」
今度はジゼルの悲鳴が響いた。
血の臭いがして、グレースは息を吞む。
「痛いじゃない……! 何をするんですの!?」
ジゼルの手の甲に何かで切られたかのように一線が走り、そこから血が滴っていた。
「僕の花嫁に暴力をふるうな!!」
コンラートの怒鳴り声が響いて、グレースは耳を伏せた。
グレースは二人から距離を取るように馬車のドア付近で身を小さくする。
「グレース、怯えることはない、僕の花嫁」
「触らないで!」
シャーっとグレースが威嚇するとコンラートは手を引っ込めた。ジゼルは顔をしかめたが、未だ血の滴る手を抑えながら懸命にも押し黙ることを選んだようだ。
「約束を守らない人は嫌いよ!」
「そ、そんな、僕はただ、君が、君が心配で……ねえ、どうしたら赦してくれるっ? 僕、君のお願いなら何でも聞くから……っ!」
「私は家族をあなたとこの人から守るために、明後日きちんと約束を守るつもりだったわ。だから、最後に愛する家族と過ごしたかったのに……っ。そんなささやかな願いすら叶えてくれない人が何を言うの!?」
グレースは両手で顔を覆って、ぼろぼろと涙を零す。馬車の中にグレースの嗚咽がむなしく落ちていく。
セリーヌが「グレース」と呼ぶひび割れた声、ロビンの悲痛な声、ミシェルの哀れな泣き声。そんなものが家族との最後の思い出だなんてあんまりだった。
グレースはなにもかもに嫌気がさして、嗚咽を隠さず両手で顔を覆ったまま泣いた。何かの言い訳をしているコンラートの言葉なんて一つも耳に入って来なかった。
どのくらいそうしていたのかは分からないが、グレースは父が死んで以来のすべてのうっぷんを晴らすかのように泣き続けた。
この涙が枯れることはないのではないかと思うほど泣いていたその時だった。
「……――ス、グ……ス! グレース!!」
グレースの三角の耳は幻聴を拾った。
ジルベールの声が聞こえた気がして顔を上げた。
「グレース」
コンラートが顔を上げたグレースに安心したように名前を呼んだ。
だが、その次の瞬間、馬車の窓が盛大に割れて破片がグレースの上に降り注ぐ。グレースが驚きに頭を抱えるようにさらに身を小さくしている間にコンラートとリゼルが何かを叫ぶが、鉄が引きちぎれるようなすごい音がして、突然、全身に風を感じたと思えば、再び浮遊感を味わうことになった。
「ああ、よかった! いました! いきますよ、ジルベール!」
混乱するグレースの耳に聞こえてきたのは、ノエルの声だった。
浮遊感はほんの一瞬で、グレースは何か力強いものに抱き止められた。
「グレース、良かった……っ!」
それは間違えようもなくジルベールの声でグレースは固く閉じていた瞼をそっと持ちあげた。
「し、しだんちょうさま?」
なぜかグレースはジルベールの腕の中にいたのだった。
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