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本編 2
第二話 悩める男
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「……やはり、人を雇うべきか」
ミアのスカートの最終調整をしながら真尋はぽつりと呟いた。
ここは騎士団にある真尋の執務室だった。今現在は、真尋と一路、護衛騎士のリックとエドワードが居た。
今回のミアのスカートは、先に仕立てたサヴィの服と色と刺繍をお揃いにした。秋の紅葉を意識した深いワインレッドのスカートは腰で茶色の大きなリボンを結ぶ。スカートの裾には秋の花々を刺繍してみた。ミアのものは可愛いさを意識した刺繍、サヴィラのベストとジャケットもモチーフは同じだが糸の色を変えて男向けの色合いにしてある。
「ふむ、いい出来だな」
宙に浮かせたスカートをくるくると回す。ふわりとスカートの裾は理想的に広がる。ミアがくるくる回ったら可愛いのは間違いない。このスカートに合わせるブラウスは控えめなフリルをあしらった丸襟のものを仕立てた。羽織るようにくすんだピンクのカーディガンを薄手の生地で仕立てた。ミアは寒さや暑さに強い獣人族なのでまだ今の季節に厚着をする汗を掻いて逆に風邪を引くのだ。一方、暑さ寒さにめっきり弱いサヴィラの服は厚手の生地を選んでいる。
「どうだ、一路。可愛いだろ?」
「ミアちゃんに似合いそうだね、でも、その茶色のリボンがなぁ、可愛いんだけど……あ。ベージュとか濃い目のピンクとかどう?」
「ふむ、確かに色合いが重くなりがちだな、ベージュはいいかもしれん」
一路の的確なアドバイスに真尋は指を振って腰のリボンを解く。デスクの背後に置いたチェストの引き出しを開けるが、理想的なベージュ色は見当たらなかった。あとで買いにいかなければならない。その時に濃い目のピンクも探そうと心にメモしておく。ちなみにこのチェストの整理整頓は、裁縫を教える代わりに一路がしてくれている。一路が真尋に裁縫を教わっている理由は、ティナに服を作って贈りたいからだ。
「あの、マヒロさん。お話し中すみませんが……人を雇うって何をなさる気ですか?」
真尋の左斜め前にデスクを構える真尋の護衛騎士のリックが不安そうに首を傾げた。その向こうで一路の護衛騎士であるエドワードまで不安そうにこちらを見ている。
どうやら彼らは真尋が何気なく零した呟きをしっかり聞いていたらしい。
「何でそんな不安そうな顔をするんだ」
「君がなにかをしようとすると色々と厄介だからでしょ」
一路がケラケラと笑いながら言った。
「失礼な。俺は家のことについて頭を悩ませているんだ」
「増築でもするんですか?」
羽ペンを手にエドワードが首を傾げる。
「違う。メイドの話だ」
「ああ、そっちね」
一路が頷き、リックとエドワードも、その話か、と納得の表情を見せた。
これまで家のことはジョシュアの妻のプリシラと庭師の妻のクレアに任せていた。二人は基本、家に居るので食事の仕度や掃除、洗濯などを請け負ってくれていたのだ。ティナも勿論、あれこれとしてくれているが彼女の本業は冒険者ギルドの受付嬢なので、プリシラとクレアほど家事に割ける時間はない。ティナが一路の世話だけをしていればいいならそれも可能だろうが、真尋と一路が買った屋敷は兎に角大きくて広くて無駄に部屋数がある。元々二世帯の家族が暮らすように作られていたので、三階は真尋が二階は一路がそれぞれの住居として使っている。サヴィラとミアは三階、ティナ、リック、エディは二階に自室があり、ジョシュア親子は、それとは別に屋敷の西側にある使用人たちが暮らしていたと思われる棟の家族向けの部屋に住んでいた。レイは一階の客間にいつの間にか住み着いていた。
「屋敷を買った当初は、まさかこんなに人が増えるとは思ってなかったもんねえ」
一路が立ち上がり、部屋の隅の小さなキッチンへと足を向けた。紅茶を淹れてくれるようだ。一路の足もとに寝ていたロビンがおやつを貰おうとその背について行く。
「お前と俺の二人暮らしの予定だったし、そうなれば俺はお前に面倒を見てもらおうと思っていたからな」
「そういう潔いとこは流石だと思うよ」
一路が肩を竦める。リックが立ち上がり、手伝いますと一路の下へ行った。
「でも君がそんなことを言い出すなんてどうしたの? 実家に居た頃だって執事以外は雇わなかったじゃん」
「……プリシラとプリシラの胎の子に何かあったら困るからな」
真尋は刺繍針の始末をつけて手を離し、ぐーっと伸びをした。
プリシラの妊娠が発覚したのは先月の終わりだ。現在、丁度、つわりの時期でプリシラは以前のようには家の仕事が出来ず、自室のベッドで横になっていることが多い。そのこと自体は無理もないことであるし、寧ろ、ベッドで横になって安静にしてくれているほうがこちらとしても安心だ。お腹の子に万が一のことがあっては困るし、プリシラ自身に何かあっても困る。プリシラのつわりには波があるようで、酷いと食事がほとんどできない。五日ほど前も治癒術師に来てもらって、様子を診てもらったばかりだ。
しかし、これまでプリシラとクレアに頼りきりだったために家のことが徐々に回らなくなりつつある。時折、ジョシュアの姉や母、ソニアが応援に来てくれるが彼女たちにもそれぞれ仕事がある。
基本的に真尋以外は自分の部屋の掃除は自分でする。それ以外の食堂とサロン、キッチンと風呂やトイレはプリシラとクレアが毎日、丁寧に掃除をしてくれているし、無駄にある他の部屋も順番に適度に掃除をしてくれている。洗濯に関してもリックやエディは自分でするし、一路は自分でしたり、ティナに頼んだりしている。真尋の分はサヴィラとミアがしてくれる。以前、真尋も自分でしてみようと思い、頑張ってみたのだが樽型自動洗濯魔導具に投入する洗剤の量を間違えて泡が溢れ出して洗濯部屋を泡だらけにしてしまった。以来、出入り禁止命令を下されている。干すことは出来るだろうと思ったのだが、ワイシャツの袖を三着ほど引きちぎったところでサヴィラに止められた。
だが、一番の問題は食事だった。昼は男たちは仕事に行っているので子どもたちと自分たちの分だけでいいのだが、朝と夜は十四人分の食事の支度をしなければならないのだ。その上、我が家にいるのは食欲旺盛な若い男ばかりできっちり十四人前では到底足りないため三十人前くらいは作っている筈だ。ここでも真尋は役立たずなので、リースの面倒を見ていることしか出来ない。とはいえ真尋だって最新の魔導具を購入してプリシラたちを手助けはしているつもりだ。向こうで言えばハンドミキサーの機能を持つ魔導具なんてプリシラもクレアもティナも大はしゃぎだった。
しかし、家事というものはやり出すと終わりがないらしい。真尋には分からないが、他にも細々とした雑事が山のようにあるのだそうだ。
「そうですね、今は私たちも多少の余裕がありますのでお手伝いも微力ながら出来ますが……感謝祭が近くなれば、そうもいかないでしょうし」
「屋敷の規模と仕事内容からして、家畜の世話番と料理人とその手伝いが数名、メイドは五人以上は居ていいし、他に執事とフットマンも二、三人は必要ですね」
エドワードが指折り数えながら言った。
真尋は煙草を取り出して火を点けながら首を横に振る。
「そんなにはいらん。必要最低限で良い」
「だから今のが必要最低限ですよ」
エドワードが苦笑を零す。
「普通なら自意識過剰が過ぎるとかも言えるけど、君の場合は自意識過剰じゃなくて自己防衛だからねぇ」
はい、と目の前に紅茶が置かれる。ふわりと香る豊かな茶葉の匂いにカップに手を伸ばす。
「……この顔は便利には便利だが、その分、厄介事も多く引き寄せてくれる。俺が害を被る分には構わん。対処も対策も出来るからな、だが、ミアやサヴィラに何かされては堪らないだろう? 昔、弟達を利用して俺に近付こうとした馬鹿もいたからな」
「でも、早急に対処しないと、プリシラさんはこれからお腹だって大きくなって大変だろうし」
「掃除と洗濯はどうにかなると思うんだが、家畜の世話と料理が問題だな。ジョシュアも最近、冒険者稼業が忙しいようだし」
「そりゃあ三人目も出来たんだからお父さんは稼がないとねえ」
自分の席に戻った一路がしみじみと呟く。ロビンはなんかの骨をおやつに貰ったのか執務室のど真ん中で楽しそうにしゃぶっている。
屋敷の西側に元々あった家畜小屋には、現在、ボヴァンが二頭とプーレが八羽、そして、馬が全部で七頭ほどいる。馬は増えに増えたので、厩舎を新しく作り直した。ジョシュアのところの馬が二頭、真尋と一路とリックとエドワードの馬がそれぞれ一頭ずつで四頭、そして、サヴィラに贈った馬が一頭だ。リックの馬も真尋が昇級祝いに贈ったものだ。馬は各自で世話をしているが、ボヴァンはジョシュアとプリシラ、プーレは子どもたちが世話をしていた。プーレは良いとして、ボヴァンはきちんと世話番を雇ったほうが良いだろう。
「料理は最悪、外に食べに行くかサンドロに出来合いを届けてもらうとして……家畜の世話番は早めに手配したい」
ふーっと吐き出した紫煙がデスクの上にふわりと広がる。
「そうだねえ。あ、なら、カマルさんに相談してみれば?」
「それは良いですね、カマルさんの紹介なら間違いな……い?」
一路の提案に賛同したリックの話を遮るようにコンコンとノックの音が執務室に落ちた。ロビンがぴんと耳を立てて顔を上げた。
「どうぞ」
一路が返事をすればドアが開いて、クラージュ騎士団団長のウィルフレッドが顔を出した。灰皿に伸ばした手を止める。彼は煙草を消さなくていい相手だからだ。
彼は領主の実の弟で有り、先にも述べた通り、騎士団の団長という肩書を持つ男だ。少々、胃腸が弱いのがあれだが団長としては十分な素質を持った男だった。ただ書類仕事より体を動かす方が好きで、ちょいちょい団長室から逃げて来ることがあるので今日もそれかと思ったが、何やら様子がおかしい。顔だけをドアの隙間から出して中に入ってこようとしないのだ。いつものように彼の分の紅茶の仕度をしようと腰を上げた一路も訝しむように首を傾げている。ロビンは一路に呼ばれて、骨を咥えて彼のデスクのほうへ行った。
「あのー、暇か?」
「丁度、休憩をしていたところですが……閣下、中へ入ったらどうですか?」
「いや、お構いなく。あの、その、それより、その……神父殿に折り入って相談があって、ってっ、あ、こら! レオン! シルヴィア!」
なにやらもにょもにょ言っていたウィルフレッドが慌てた瞬間、ひょっこりと子供が二人、顔を出して部屋に飛び込んでくる。
ウィルフレッドと同じ蜂蜜色の髪の六歳くらいの少年と銀髪の五歳くらいの少女だった。少年は、きょろきょろと部屋の中を見回したあと、真尋に目を付けると弾丸の如き勢いで部屋に飛び込んで来て、真尋のデスクの前に立った。銀髪の少女も少年の隣に並ぶ。二人とも随分と仕立ての良い服を着ている。
「お前が神父か!」
「……この礼儀知らずの生意気なクソガキはなんだ?」
「なっ、お前、オレに向かってクソガキとは失礼だぞ! このオレが誰か知らないのか!」
クソガキはやけに生意気な口調でのたまった。
真尋は最後の紫煙を吐き出しながら、生意気なガキでも子どもは子どもだと灰皿に煙草を押し付けて火を消す。
「レオン! 大人しくしろとあれほど!」
ウィルフレッドが慌てて部屋に飛び込んで来て、少年の口を塞いで抱き上げた。もごもごと何か文句を言って手足をばたばたさせているがウィルフレッドは鍛えられた騎士だ。びくともしない。
銀髪の少女は少年を「お兄様はばかね」と鼻で笑うとスカートの裾を摘まんで拙いながらもきちんと淑女の礼をする。
「神父さま、はじめまして。わたくしは、シルヴィア・アマーリア・フェン・アルゲンテウスよ!」
だが、少女が名乗った名前に真尋は、納得する。そういえば領主の子どもがレオンハルトとシルヴィアという名前だった気がするし、これくらいの年齢だった筈だ。
真尋は立ち上がり、シルヴィアの前に片膝をついて目線を合わせて頭を下げる。
「初めまして小さなレディ。俺は神父の真尋と申します」
真尋が挨拶をするとシルヴィアは、すっと手袋の嵌められた小さな右手を真尋に差し出した。小さくともご令嬢はご令嬢なのだな、と感心しながらその手を取り、手の甲に口づけるふりをする。すると少女は、満足げに笑った。
「気にいったわ。わたくしのことは、ヴィーとよんでいいわよ」
「それは光栄で御座います、小さなレディ。……で、閣下、その暴れ馬がレオンハルト様ですか?」
「ああ、そうっ、こら!」
ウィルフレッドの腕から抜け出したレオンハルトが真尋の前に仁王立ちする。
「そうだ! オレがレオンハルト・ジークフリート・フォン・アルゲンテウスだ! しっかりと覚えておけよ!」
「あんまり生意気な口を利くとお前の叔父様の胃が破裂するぞ、クソガキ」
真尋は立ち上がり、デスクに寄り掛かりながら言った。
クソガキなどと呼ばれたこともないのだろうレオンハルトは紅い瞳を眇めて頬を膨らませた。その仕草はまだまだ可愛い子供で可笑しくなる。
「それで閣下、職場見学ですか?」
「そ、そのことなんだが、あのだな、まあ、あれだよ。あの、神父殿の実力を買ってな、その……ほら」
多分、何か面倒事を持って来たのだろうと言われなくとも分かる。内容によっては全力でお断りだと思いながら言葉の先を待った。
「お母さま、リリー、ダフネ、なんでかくれてるの?」
シルヴィアがドレスの裾を揺らしながらドアの方へと戻って行き、廊下に顔を出して、何かを掴んで引っ張っている。「や、やめなさい、ヴィー」と焦る女性の声と共にシルヴィアの小さな手が水色のドレスの裾を掴んでいるのが見えた。
「……お母様?」
領主の娘のお母様ということは領主夫人、或は辺境伯夫人ということになる。
思わず一路を振り返れば一路もこちらを見ていて、二人して首を傾げ、ウィルフレッドに視線を向けた。リックとエドワードも自分の席で直立不動になっている。
「まあ、もうあれだ。うん、義姉上、こちらへどうぞ」
ウィルフレッドが胃を擦りながら言った。ドアに一番近いエドワードが慌てて開けたドアから姿を見せたのは、銀髪に青い瞳、一見質素だがそこかしこに丁寧な仕事が窺えるドレスを身に纏った美しく若い貴婦人だった。彼女の後ろには白いフリルのエプロンにロングスカートに詰襟の黒のメイド服を着た侍女が控えていて、その横には騎士の制服を身に纏い紅のマントを身に着けた護衛騎士の女性がいた。
ドレスの裾をそっと揺らしながら女性は部屋に入って来た。シルヴィアが「お母さまよ」と真尋の下に来て教えてくれた。
「あ、あの……神父様、そちらの見習い神父様も初めまして。わたくし、アマーリア・エルヴィラ・フェン・アルゲンテウスと申します」
手本のような淑女の礼だった。
真尋は一路と共に深々と頭を下げて最高礼を取り、敬意を表す。すっと差し出された手袋の嵌められた左手を一言断ってからそっと取り、手の甲に口づけるふりをする。一路も同じようにその左手に口づけるふりをした。身分の高い未婚の貴族女性は右手、既婚の貴族女性は左手を差し出し、キスを許す。もっとも男性にはフリしか許されていない。実際にしていいのは家族と婚約者だけだ。
「こちらはわたくしの侍女のリリーです」
紹介された侍女がスカートを摘まんで礼をする。
「神父様のご活躍はわたくしも耳にしております。その節はこの町と大切な領民、そして辺境伯を助けて頂いて、辺境伯夫人として直接お礼をと思っておりましたがこんなに遅くなってしまって、その上、突然の訪問になってしまって申し訳ありません」
「私も一路見習い神父も、神父としての務めを果たしだけのことです。それに領主様には色々と便宜を図って頂いて、こちらこそお礼を申し上げる立場でございます」
とりあえず営業用のスマイルを浮かべて、角が立たないようにと言葉を選ぶ。侍女の後ろでドアを押さえたままのエドワードが人の顔を見て顔を引き攣らせている。失礼極まりないので明日の朝の鍛錬で伸す。
「あ、あの、神父様」
「はい」
「神父様はとてもお優しい方だとお聞きしております。そこで折り入ってご相談があるのです。……わたくし……わたくしっ」
青い瞳がみるみると涙に潤み始めた。
「お、奥方様?」
一路がおどおどしながら声を掛ける。
アマ―リアは、一度顔を俯けて自分を落ち着かせたかと思えば、真尋の手を取り顔を上げた。
「神父様、わたくし、メイドでも皿洗いでも何でも致しますから、神父様のお屋敷においてくださいませ! 息子と娘もおりますし、処女ではありませんが教会に入って修道女になり、神に仕えさせて頂きたいのです!」
「…………はい?」
「つまり結論をまとめて簡潔に申し上げると、奥方様は領主様と喧嘩をして家出をしてきたわけですね」
執務室のソファに場所を移して、真尋はウィルフレッドとアマーリアから話を聞いた。その結果、アマーリアが夫のジークフリートと喧嘩をして子どもと侍女を連れて家出してきたということが分かった。
前にウィルフレッドが領主夫妻がややこしいことになっていて頭が痛いと言っていたが、どうやら彼の頭痛の種は見事に芽吹いて成長し花を咲かせて、彼の胃痛も加速させることになったようだ。
「先ほど、本部に直接いらっしゃったんだ。門番が蒼い顔をして私のところに来た」
ウィルフレッドは話の途中でやってきたレベリオから胃薬を受け取りながら言った。
レオンハルトとシルヴィアは、パーテーションの向こうでロビンと遊んでいて、アマーリアの護衛騎士であるダフネ騎士がお守をしている。
アマーリアは、大分落ち着いた様子だった。彼女の後ろには侍女が控えていて、自分の女主人を心配そうに見つめている。
「わたくしは所詮、お飾りの妻なのです。妻としての最も重要な役目は既に果たしました。だとすればもうわたくしはジークフリート様にとって何の用もない女です」
アマ―リアが徐々に俯いてしまう。侍女がすっと差し出したハンカチを礼を言って受け取ると、細い手はそれを目元へと運んだ。彼女の隣のソファに座るウィルフレッドは困り果てた様子で義姉を見ていた。
「アルゲンテウス辺境伯家に嫁いで今年で十年になります。ですが結婚して初めてジークフリート様と共に出席した夜会で粗相をして以来、子を成すこと以外の妻としての役目をジークフリート様は与えては下さいませんでした。ですから、わたくしは神に仕えようと……っ」
ハンカチを握りしめて睫毛を涙に濡らすアマーリアに流石の真尋も対応に困る。これが男だったら「ごちゃごちゃ言うな、話し合って来い。駄目なら拳で語れ」と追い出すところだが、相手は見るからに繊細でか弱そうな貴婦人である。カロリーナとかソニアなら拳で解決してくるかもしれないが、まずもって彼女には無理だろう。
「奥方様、生憎と教会が開くのは来月の頭で、まだ教会としては機能しておりません。それに私も一路見習い神父もまだまだ修行中の身ですので修道女や見習い神父を受け入れる体制も整っていないのです」
「そ、そんな……っ」
アマ―リアが顔を覆って項垂れてしまう。侍女がおろおろして、ウィルフレッドまでおろおろしている。レベリオだけは相変わらず冷静だった。
教会は現在、多くの職人の手によって長い年月の間に傷んだ箇所を修復中だ。今月の終わりにはその修復作業も終わる予定なので、領主様や関係各所との話し合いの結果、ティーンクトゥス教会は来月の風の月の一日に教会としての一歩を踏み出すことになっている。
「ですが……まあ、私の経験上、夫婦喧嘩というものは多少の距離を置いて、お互いの頭を冷やし、心を落ち着かせる期間も必要です」
真尋の言葉にアマーリアが顔を上げた。
夫婦喧嘩というものはしたことがないが、雪乃に怒られることは多々あった。普段怒らない妻が怒るとその怒りは長引くので冷却期間を設けることも必要だというのは身に染みて知っている。
「それに私は神父です。悩めるご婦人に手を貸さない訳にはいきません。我が親愛なるティーンクトゥス神も貴女に手を差し伸べるでしょう」
「まあ、神父様、何とお礼を申し上げたら良いか……っ!」
アマーリアが両手を祈るように握りしめて顔を輝かせた。二人の子の母だというのになんだか少女みたいなあやうさと愛らしさのある女性だ。侍女のリリーはそんなアマーリアの様子にほっとした表情を浮かべている。
「ですが、私と一路見習い神父の屋敷には私の子どもたちは勿論ですが一路見習い神父の恋人に私たちの護衛騎士、友人一家、庭師の夫婦に居候の冒険者が一人、それ以外にも一路見習い神父の従魔のヴェルデウルフの親子に私のペットのキラーベアが一頭、他に馬とボヴァンとプーレもいます。庭は現在、多くの庭師が出入りしていますし、私の立場上、様々な人々が出入りします。それに我が家には我が家のしきたりやルールがあります。そして最も困ったことに訳有って、メイドや料理人などの使用人はいません。これまで、奥方様が過ごしておられた日々のように何不自由ない生活をお約束することは出来ませんが、それでも宜しいですか?」
「構いません」
アマーリアは一拍の間も置かずに頷いた。
どうやらその意思は強固なもののようだ。
「では、私たちは奥方様を歓迎いたします」
真尋の言葉にアマーリアは幼い少女のように顔を輝かせ、安心したように息を吐いた。
「一路、当家の規則について奥方様にお話ししておくように」
「はい。分かりました」
「それでは奥様、私は少々、ウィルフレッド団長閣下とお話がありますので席を外させて頂きます」
真尋は、そう断ってからウィルフレッドに目配せをし、席を立ってパーテーションの向こうへ出る。ウィルフレッドも立ち上がり、こちらにやって来た。
「レオン、ヴィー、話が終わったぞ。お母様のところにロビンを連れて行ってやると良い」
ウィルフレッドがそう声を掛けると二人の子どもはすぐにロビンを母に見せるべく、パーテーションの向こうに行った。リリーの驚いた声が聞こえて来た。リリーはロビンの好きそうな巨乳の美人だったので真っ先に飛んでいったのだろう。一路がロビンを窘める声が聞こえる。
真尋は、リックとエドワードも連れて廊下へと出る。ウィルフレッドが声を掛けたので、レベリオとダフネ護衛騎士も一緒に廊下へと出て、隣の部屋へと移動する。
執務室の隣も真尋たちに与えられた部屋だが、こちらは繁忙期に寝泊まりが出来るようにと用意された部屋でベッドが二台とソファセットがあるのみのシンプルな部屋だ。
真尋は一人掛けのソファにウィルフレッドはその向かいに置かれた二人掛けのソファに腰を落ち着ける。リックは真尋の右側に控え、エドワードは真尋の後ろに、ダフネとレベリオはウィルフレッドの後ろに控える。
「すまないな、神父殿。義姉上が何を言っても戻らないの一点張りで……兄上も視察に出かけてしまったから明後日にならないと帰って来られなくてな」
「私もリリーも止めたのですが、今回は積もりに積もったものが爆発してしまったようで……」
ダフネ護衛騎士は、二十代後半くらいの背の高い女性だった。赤い髪をポニーテールにしていて、吊り目がちのハシバミ色の瞳が印象的な美女だ。女性らしい曲線を残しながらも騎士らしく鍛えられた体をしているのが見て分かる。腰には細身のレイピアを下げていた。
「あまりに強固に反対し過ぎるとお一人で抜け出してしまいそうでしたので、どうにか言い包めてここへ来たんです。前々から奥様は、神父様にお礼を申し上げたいと常々言っておられたので、神父様にお会いするのならと納得してくれたんです」
「流石の私も修道女になるというのは驚きました」
くくっと喉を鳴らして笑うとウィルフレッドとダフネも苦笑を零した。
「奥様は王都の屋敷でお育ちになられましたので、嘗て、教会に修道女がいたことを屋敷の老執事から教わったそうです」
「現在はいませんからね。とはいえ、私どもは別に構いませんが、本当に当家でお預かりしてよろしいのですか?」
「下手な家には預けられんし、私の家は立場上、厄介だ。それにキースが神父殿の屋敷は、ドラゴンが襲撃して来たとしても安全だと言っていたから頼めないかと……兄上は、少々、人の気持ちに疎いところがあってアマーリア義姉上とすれ違い気味なんだ。だから神父殿には悪いが私は夫婦仲を修復する良い機会だと思っている」
ウィルフレッドの群青の瞳が懇願の色を濃くして真尋を見つめる。レベリオもウィルフレッドの言葉を肯定するように頷いている。
「……良いでしょう。ほとぼりが冷めるまでお預かりいたします。その代わり、領主夫人というと私にとっても領主様ご夫妻にとっても外聞が悪いので別の身分を用意しようと思いますが宜しいですか?」
「勿論。兄上は義姉上や子供たちを殆ど外に出していないから、騎士でも近衛以外は知らない者が多い。故に町民の殆どは結婚した時の姿絵しか知らない筈だから問題ないだろう。義姉上も甥たちも珍しい色では無いからな」
「生憎と私と一路は故郷を捨てて来た身ですから後ろ盾にはなれませんし……ああ、そうだ。カマルの知り合いの娘にしましょう」
「カマル? ロークのか?」
「ええ。それでアマーリア様の家出の理由はそのままにして、困り果てたカマルが私に諭すように頼み込んできたので預かることになったということにしたらどうでしょう?」
「ほぼその通りだからいいと思うが、カマルの意見は?」
「あれは一路がお願いすれば砂の中から砂すら見つけ出す男ですから問題はありません。エディ、そういう訳でカマルを呼んで来てくれ」
「はい。騎士団の馬車で行きますか?」
「いや、俺の馬車を使え。俺の愛馬が急病になったからとでも門番に言っておけばいいだろう」
「了解です。では、行ってまいります」
エドワードは、真尋とウィルフレッドに頭を下げるとすぐに手配をしに行く。
「良い所の奥様なら侍女や護衛がいても不思議ではない。ただダフネ騎士は、騎士服ではなく私服が良いだろうが……」
「アマーリア様を護るのが私の役目ですのでその為ならば異論はありません」
ダフネ騎士は迷いなく頷いてくれた。
「では、ウィル、私は身分をでっちあげる書類とギルドカードを用意する準備をしてきますので、一度、部屋に戻ります」
レベリオがそう言って、彼もまた忙しそうに去っていく。
「では問題はうちの部屋だな、一階は安全面で良くない。リック、エディ、しばらく一階か三階に移れ、二階を使う。一路が居るが、あれはティナがいるから良いだろう」
「ですが、客間は殆ど何もないですけど……」
リックが戸惑い気味に言った。
自分たちの部屋や普段から使う部屋以外では応接間は家具を揃えて、いつでも使えるだけの体裁は整えてあったが客間は何もない。辛うじて絨毯やカーテンが整えてあるだけだ。使用人の棟には家具が残されていたが、とてもではないが領主夫人向けではない。
「まあいい、とりあえずカマルの到着を待って話を決めましょう。幸いまだ昼前ですし、時間はたっぷりとあります」
「すまないな、神父殿」
「私の故郷にはこんな言葉があります。情けは人の為ならず、巡り巡って己が為。これもまあ……そういうことですよ、閣下」
「……神父殿はどこまでも神父殿だな」
ウィルフレッドは曖昧な表情を浮かべて沈黙した後、ため息交じりに肩を竦めた。
いいか、と聞かれて、どうぞ、と答えればウィルフレッドは胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。真尋も自分のそれを取り出して一本咥えて火を点けた。ふーっと二人分の紫煙が、空気を濁らせる。
「……それで、閣下」
真尋はゆっくりとウィルフレッドに目だけを向ける。ウィルフレッドが訝しむように眉を寄せて用件を問う。
「……奥方様に毒を盛ったのが誰か分かったのですか?」
次の瞬間、ダフネのレイピアが真尋の喉を狙って迫って来た。真尋が魔法で適当にあしらうよりも早く右側で殺気が爆発的な勢いで一気に膨れ上がり、鉄と鉄のぶつかり合う甲高い音がした。
リックが瞬時にダフネのレイピアを弾き飛ばし、テーブルから生えた蔓がダフネを捕らえ、その細い首をへし折ろうと巻き付いた。その蔓をウィルフレッドが切り捨て、ダフネを後ろへと引っ張り自分が間に入るようにして振り下ろされた剣を己の剣で受け止めた。
「かはっ! ひゅっ、はっ、ごほっごほごほっ!」
ウィルフレッドの背後でダフネが膝から崩れ落ちて、苦しそうにむせ返っている。
「リック二級騎士、剣を収めろ」
ウィルフレッドが唸るように言った。
リックは酷く冷たい深緑の瞳を僅かに細めただけで剣を収める気配は微塵もなかった。彼の意識はダフネにしか向けられていない。
真尋は目の前にある黒いマントに、やれやれと肩を竦めて紫煙を吐き出した。
「リック、死ぬほどのことじゃない。許してやれ」
「承服いたしかねます」
「…………またお前の実家に行ってお前がいかに素晴らしい護衛騎士なのか演説するぞ、親子で」
そう付け加えるとリックは大袈裟に肩を揺らして瞬時に剣を腰の鞘に納めた。そして、勢いよくこちらを振り返る。心なしか頬が赤い。
「そ、それはもうしないって約束した筈です!!」
「したのは、サヴィとミアだろ? 俺はしてない」
ふっと笑って紫煙を吐き出し、リックに脇に下がるように手を振った。ウィルフレッドがやれやれとため息を零しながら鞘に剣を戻して、ダフネを立ち上がらせて隣に座らせた。
「リック、水を持ってきてやれ。やり過ぎだ」
「その命令にも従いかねます」
何だこいつは反抗期か、と胡乱な目を向けるがリックは素知らぬ顔をしている。まだ彼の纏う空気はピリピリとして普段の穏やかな彼らしくない雰囲気を湛えていた。真尋の命を狙ったダフネに対して相当の怒りを覚えているようだ。
「すまない。ダフネ騎士。俺が迂闊な言葉を口にしたばかりに」
背中を丸めて、ゼーハーと荒い呼吸を繰り返していたダフネのハシバミ色の瞳が真尋を睨み付けるように向けられる。リックがまたピリピリしだす。
「そ、れは……っ、ごほっ、今朝のこと、極秘、案件をなぜ、貴殿がそれを、はぁ、知っている、のです?」
「リック、水を持ってきてやれ。女性に優しくあるのも騎士だぞ。お前が行かんのなら、俺が」
真尋が立ち上がろうとすると漸く、渋々、本当に渋々、リックが部屋を出て隣の執務室に水差しとコップを取りに行ったのだった。
バタン、とドアが閉まるとウィルフレッドが、はぁぁと大きく息を吐きだして緊張を解き、ソファに身を沈めた。真尋は吸いかけの煙草を灰皿の縁に置いて立ち上がり、そんなウィルフレッドに向かって頭を下げる。
「閣下、失礼を致しました」
「いや、あれは神父殿の護衛騎士だ。顔を上げて座ってくれ」
ウィルフレッドが力なく笑って言った。真尋は、礼を言ってソファに座り直す。
「ダフネ騎士がリックの護衛対象である神父殿に危害を加えようとした以上、理由はどうあれリックの行動は正しい。……ただ随分とこの短期間であれは剣の腕も魔法の腕も上げたな。見違えた」
「お褒めに与り光栄です。リックには有事の際、私の大事な大事な娘と息子を護らせるために私が稽古をつけておりますので、その成果が出たのでしょう」
「……カロリーナが躍起になって、神父殿に鍛錬を申し込むわけだ」
ウィルフレッドは新しい煙草に火を点けながら肩を竦めた。
そして、ウィルフレッドが紫煙を吐き出すのと同時にリックが部屋に戻って来たのだった。
戻って来たリックは、水の入ったグラスをダフネの前に無言で差し出した。
ダフネは、それを渋々受け取り、口へと含んだ。リックは真尋の右側へと控えて涼しい顔をしている。多少は頭が冷えたのか、先ほどよりは幾分かピリピリが治まっている。
「ダフネ騎士、大丈夫か? 怪我は?」
「いえ。大丈夫です」
水を飲んで落ち着いたのか、ダフネが先ほどよりもしっかりと答えて立ち上がろうとしたが、ウィルフレッドに座ったままでいるように促されて、ソファに座り直した。
「神父殿、私も気が張っていたとはいえ、領主様の大事な客人である貴方に無礼を」
「いや、構わん。俺も碌に人払いもせず、口にしてしまったのは迂闊だった。もう少し配慮して口にすべきだった。これだからよく妻に怒られていたんだ」
真尋の言葉にダフネが少しだけ表情を緩めて、こちらを睨むのを止めてくれた。
「しかし、神父殿。どこでその情報を得たんだ?」
「黙秘します」
ウィルフレッドの問いに笑顔で返して、足を組んだ。ウィルフレッドの頬が盛大に引き攣る。
「というのは冗談で、ナルキーサスですよ」
「キースが?」
「丁度、騎士団に出仕する前、解毒剤の材料になる薬草を一路に貰いに来たんです。あの温室では、貴重な薬草が育てられていますからね。その時、多分、団長閣下が私を頼るだろうからと助言を頂いたんです」
「神父殿は意地が悪いな。こうなることが最初から分かっていただなんて」
「いえ、奥方様が私の家に避難するかもとは思っておりましたが、その可能性は限りなく低いだろうと思っていたので準備はしていなかったんです。ですがまさか別件の夫婦喧嘩で家出をして、修道女になりたいと言われることまでは予見できませんでした」
「……それは私だって予定外だったんだ」
ウィルフレッドがやれやれと肩を竦めて短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「兄上は義姉上が毒を盛られたことを知らない。夜明けとともに視察に出てしまっているし、喧嘩をしたのは出かけ際だからな。毒が盛られたのは朝食だ。毒見をしたメイドが倒れたんだ。幸い、死に至るような毒ではなかったし、アイリス護衛騎士がすぐに毒を吐かせたので軽症で済んだ」
「アイリスは、私の相棒です。毒を吐かせたときに指に毒が付着し、彼女も今は治療を受けているんです。奥様には、風邪だと言ってありますし、そもそも奥様にも毒の件は話しておりません」
ダフネがウィルフレッドの言葉を補足する。
「その毒は、どんな症状をもたらすのですか?」
「魔の森の南の方に生えている植物から採れる毒だ。皮膚についただけで毒が沁み込み、老人や病人、赤ん坊以外は死ぬことは殆どなく、酷い眩暈と吐き気をもたらす。アイリス護衛騎士はメイドよりずっと症状が軽いので、明日には復帰できるだろう。毒について詳しく知りたければ、キースに資料を貰うと良い」
「犯人は、分かったのですか?」
「毒はスープに混入していたが、レオンハルト様やシルヴィア様のスープを毒見したメイドは無事だった。毒が塗られたのは、皿だ」
「では、誰が?」
ウィルフレッドが表情を曇らせた。
「……裏庭でハビーという十七歳の少年が死んでいた。二年ほど前から厨房で雑用をこなしながらシェフを目指していた使用人だ。今朝、義姉上の使う皿を用意したのが彼だった」
「自殺、ですか?」
「恐らくはな。今、治療院で検死の真っ最中だ。事が事だからキースとアルトゥロが担当してくれている」
「黒幕は誰です? リヨンズ派の報復ですか?」
ウィルフレッドとダフネの纏う空気がだんだんと重苦しくなってくる。
「現在、王国の貴族たちは王弟派と第一王子派、二つの派閥があるが、第一王子がまだ若いため静観という立ち位置を貫いている家も多い。リヨンズ伯爵家は王弟派、我がアルゲンテウス辺境伯家を始めとした四大辺境伯家は今のところ表面上は静観の姿勢を貫いているが、教会に依存する王家の改革を望んでいるから、どちらかと言えば、第一王子派だ。辺境伯家は、広大な領地と恵まれた土地が齎す豊かな財源。そしてとくに東と西は国境を護るが故に軍事力において王国騎士団を脅かすほどの力を持っている。だから、王弟派は、西と東を落としたいんだ」
「南と北は?」
「北は極寒の地で他の家に比べると土地は貧しい。国境は険しい山々に護られているから騎士団の規模もそれほど大きいわけではない。南は土地こそ豊かだが国境に竜人族の村があるため、うちほどの騎士団は必要ないし、竜人族の怒りを買いたくないからあそこには手を出し辛いんだろう。だが、西のカエルレウス辺境伯家は現領主様の母君が王宮内で一大勢力を築く侯爵家の出身でな……強力な後ろ盾がある西と違い、うちにはこれといった後ろ盾がない」
だから、西と東ではザラームが与えた被害が違うのか、と真尋は納得する。ザラームの背後にいるのは、おそらく王弟派の流れを汲む誰かだろうがその誰かは西の後ろが怖い故に隣国との関係を悪化させて辺境伯を領地に押し込むだけに留めている。だが、このアルゲンテウス領は危うく領都が丸ごと無くなるところだった。
「とはいえ、情勢がどう転ぶかは分からんから兄上も私も王弟派とも第一王子派とも一切関係の無い家と縁を結んでいる。リヨンズ伯爵家を通して人を送り込みアルゲンテウス家を乗っ取ろうとしていた王弟派にしてみれば面白くないだろう。更にリヨンズ伯爵家は今やその名を記憶に残すのみ。その上、兄上は側室を取らないと宣言されている。正室のアマーリア義姉上が産んだレオンハルトが居る以上、側室は必要ない」
「ならば、向こうは奥方様とレオンハルト様を殺せばいいわけですね」
「ああ。まだ私は婚約の段階で正式に結婚はしていない上、子はいないし、そもそも私は婿入りが決定している。私の従兄弟やその子どもにもアルゲンテウス家を継ぐことの出来る者はいない。そうなれば一番手っ取り早い方法が義姉上とレオンを殺し、新たな正室を兄上に娶らせ、それに男児を産ませることだ。そうなれば、シルヴィアとてどう扱われるか分からん」
「……私は、一介の神父で王国の派閥争いには、全く興味はないのですけどね」
ふっと苦笑を零して、真尋は膝の上で手を組んで天井を見上げた。横目で此方を見るリックと目が合って、小さく肩を竦めて返す。
「確かに神父殿を巻き込んでしまうことにはなるが……権力云々の前にレオンハルトとシルヴィアは私の可愛い甥と姪だ。義姉上とて私の大事な家族だ。助けてもらえないだろうか?」
ウィルフレッドの声はどこまでも真摯な響きを持っていた。こういうところが彼はずるいと思うのだ。
「……得体の知れない神父だった私を最初に受け入れてくれたのは、ジョシュア親子でした。私と一路にとって、それがどれほどの救いだったか……一悶着ありましたが、故郷を永遠に失ってしまった私たちをこの町は受け入れてくれた。閣下も領主様も、そしてこの町に暮らす人々が私と一路に生きる居場所を与えてくれた。一路は心を預けることのできる恋人を得て、私は愛おしくてたまらない息子と娘を得た。そして何より、この町の朽ち果てた教会には我らの親愛なるティーンクトゥス神がいた」
顔を戻してウィルフレッドの顔を見つめる。
「神がこの地を選んだことにも何かの理由があるのでしょう。この地で生きていくと決めた以上、私も出来得る限り手を貸しましょう」
「……ありがとう。心から礼を言う」
「但し、これは貸しですからね」
真尋はにっこりと笑って返す。ウィルフレッドが数拍遅れて「へ?」と間抜けな声を漏らした。
「言ったでしょう? 情けは人の為ならず、巡り巡って己が為、と。先に申し上げておくと私は、アルゲンテウス辺境伯家も領地も騎士団も地位も金も権力も全く興味はありませんのでご安心ください。どうしても欲しければ王国丸ごと貰います。私はこれまでそうやって生きてきましたから」
ウィルフレッドとダフネの頬が盛大に引き攣っている。リックは「マヒロさんらしいですね」とうんうんと頷いていた。
「まあ、面倒くさいことこの上ないだろうから玉座などいりませんけどね」
「でも、マヒロさんが王になれば多くの孤児は助かるかもしれませんよ」
リックがぼそっと言った。
その言葉に確かにな、と頷いて腕を組み、顎を撫でる。
「……ふむ、それは一考すべき利点だな。確かに玉座につくのは面倒くさいかもしれんが、王となればティーンクトゥス教を広めるのも簡単なことだし。がやがや五月蠅い貴族連中など潰せば良い、一路はああ見えて、情報を抜き取って来るのも操作するのも得意でな」
「名案ですね」
リックが良い笑顔で頷いた。
「マヒロさん、王になれば各地の貧民街に関することや、まあ多少手を汚しても裏社会の統制など様々なことに関して融通が利くようになるかと」
「王になる以上、綺麗なままではいられまい。王が豪奢な衣服を纏うのは、その身の汚れを誤魔化すためだ」
「あ、神父殿、私の胃が……胃がっ」
「だ、団長、お気を確かに! 私を置いて行かないでください! 団長!!」
胃を押さえて背中を丸めたウィルフレッドの背を高速で撫でながらダフネが必死に懇願する。
するとノックの音がして、どうぞ、と声を掛ければ一路がひょっこりと顔を出した。
そして、一路は呆れたようなジト目をこちらに寄越し、まるでこの場で見聞きしていたかのようにこう言った。
「真尋くんさあ、そうやって団長さんで遊ぶの止めなっていつも言ってるでしょ? リックさんもちょっと真尋くんに危害を加えられたからって加担しないの。真尋くんを殺せるのなんてミアとサヴィくらいのもんなんだから」
「確かにな。俺はその内、息子と娘の可愛さに殺されそうだ」
愛らしい子供たちの笑顔を瞼の裏に浮かべて、真尋はうんうんと頷いた。
「はいはい。団長さん、ダフネさん、うちの神父がすみません」
真尋の頭をぺしりを叩いて苦笑を零す一路にウィルフレッドとダフネがまた別の意味で頬を引き攣らせたのだが、やっぱり一路は気付かないのだった。
「命の恩人であらせられる、神父様の頼みと伺い、この不肖カマル! 商談すら放り投げて馳せ参じました次第でございます!! それで私は何をすれば宜しいのでしょうか!?」
疲れた顔のエドワードがドアを開けて中に入って来たと思ったら、ハイテンションのカマルがそう叫びながら並んで座る真尋と一路の足元に傅いた。そして瞬きをした間に一路の手を握っている。敵意が一切なく、百パーセント好意なのでリックとエドワードも咄嗟に反応できないのだ。会うたびにこのテンションで待ち構えているので、サヴィラはカマルを少し苦手としている。
「カマルさん、お忙しいな、か!? ぐっ」
「ああ、なんとお優しいイチロ神父様!! 私の身を心配して下さるなんて、そのお慈悲に私は! 私はっ!」
頬を引き攣らせながらカマルに声を掛けた一路を感極まったカマルが抱き締めて涙を流す。
向こうに居た頃、似たようなのがうちにもいたなと真尋は紅茶を飲みながら思った。リックは困ったような顔をしているが助けに入るべきなのは一路の護衛騎士であるエドワードなので真尋の後ろから動かない。エドワードは、主人をどう助けに入るべきか考えあぐねて妙な動きをしている。絶対的な味方で敵ではないというのは、ある意味厄介だ。
「カマル殿、お忙しいところ御足労頂き有難く存じます。そちらにお席を用意させて頂きましたので、どうぞ」
呆然としているウィルフレッドの背後に控えていたレベリオがカマルに声をかけて、着席を促した。カマルは、そこで漸くウィルフレッドとレベリオの存在に気付いたのか、イチロから離れて優雅な礼を取る。
「これはこれは団長閣下様、そして、コシュマール子爵様、お見苦しい所をお見せいたしました」
「いや、こちらこそ急に呼び立ててしまってすまない。勝手なのは承知の上だが、時間も余り無いのでなすぐに話にはいりたいので座ってもらえると有難い」
ウィルフレッドに促され、カマルは「それでは失礼して」と一路の左斜め横に置かれたソファに腰を下ろした。リックがカマルの前に一路が淹れた紅茶を置く。
七人がいるのは、ウィルフレッドの執務室だ。件の領主夫人御一行は真尋の執務室に居る。ダフネの他にロビンと一路が呼んだロボがいるので安全面に問題はない。
「カマル殿、こちらが一方的に呼びつけておきながら、こういうことを言うのも憚られるのだが、今回のことは例え家族であろうとも内密にしてほしい。辺境伯家の存亡に係わることなんだ」
ウィルフレッドの言葉にカマルは、ラクダ顔をきょとんとさせたあと、隙の無い笑顔を浮かべて頷いた。
「畏まりました。このカマル、イチロ神父様に誓って誰にも漏らさないとお約束いたします」
「ありがとう。では、簡単に説明するが……」
ウィルフレッドはカマルにアマーリアの毒の件は伏せ、領主と喧嘩して家出して来て、夫婦間の修復をするためにも神父様の家に暫く居候することになるという旨を伝えた。カマルは、ほうほう、ふむふむ頷きながら聞き、最後に可笑しそうに笑った。まるで子供に向けるような、苦笑交じりの笑みである。
「夫婦間のことほど周囲からは分からぬことの方が多いものですが……人生の先輩として失礼を承知で申し上げれば、領主様と奥方様は圧倒的に会話が足りていないような気がなんとなくいたしますねぇ」
「兄上は忙しい身の上だからなかなか時間がな……」
ウィルフレッドが兄を庇うように言葉を濁した。
「そんなことを仰られているから、このようなことになったのではないですか?」
カマルの厳しい返しにウィルフレッドは、うっと言葉を詰まらせた。
毒の件を夫婦は知らないのだから、アマーリアの家出は起こるべくして起こったのだ。
「カマルの言う通り、夫婦というものの始まりは所詮は赤の他人です。領主様はお戻りになったら、まずは一度、ゆっくりとアマーリア様とお話をする機会を設けなければなりません。そうしなければ、幾ら私が家を貸そうが、カマルが身分を貸そうが、二度、三度と同じことが起きますよ。そして、最後には離縁です」
「……兄上の側近や執事と話し合って、必ず時間を設ける」
しょんぼりと頷くウィルフレッドの後ろで、珍しくいつも飄々としているレベリオがバツの悪そうな顔をしている。
聞いたところによれば、ナルキーサスは金の地区にある屋敷に帰ることは滅多になく、子爵家夫人として夜会に出ることもなく、更には、仕事以外でこの夫婦が顔を合わせることも滅多にないらしい。詳しくは知らないし、興味も無いがレベリオにも耳に痛い話だったのだろう。
「まあお節介はここまでにして、私は協力することに異論は御座いません」
カマルの言葉にウィルフレッドが、ありがとう、と表情に安堵を滲ませて顔を上げた。
「奥方様は王都でお育ちになられたのですよね?」
「ああ。十五で結婚はしたが……レオンハルトが産まれてからこちらに来たからな、向こうで暮らした年月の方が長い」
「……私は四六時中、妻と一緒にいたいし、妻に触れていたい派の人間だったので領主様の感覚は理解いたしかねますね」
真尋の心からの言葉にウィルフレッドは、そうか、と乾いた笑いを一つ零した。けれど、一路は「分かるー、僕もティナを膝に乗せて仕事したいもん」と頷いてくれている。流石は親友。可愛い恋人が出来てから一路はこの辺をよく理解してくれるようになった。
「さて、ではそろそろこれからのことについて話し合いましょう。部屋の仕度も整えて、家の者にもあれこれ伝えて準備しなければなりませんから」
「そうですね、早ければ早い方がいいですし、さっさと決めましょう」
真尋の言葉にレベリオが用意してくれていた書類をテーブルの上に広げた。
警備計画、ギルドカード申請書、緊急事態の連絡体系、身元保証人書、誓約書、あれやこれやと並べられていく書類に赤の他人でただの神父である自分がどうしてこうも悩まなければならないのか、と紅茶のカップの中にため息を吐き出した。
「夫婦喧嘩は犬も食わんというのにな……」
それから小一時間ほど話し合いは続き、真尋たちは一度解散して、各々の準備のために動き出したのだった。
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厄介事はまたも勝手に転がり込んで来てしまいました!
次のお話もまた楽しんで頂ければ幸いです♪
ミアのスカートの最終調整をしながら真尋はぽつりと呟いた。
ここは騎士団にある真尋の執務室だった。今現在は、真尋と一路、護衛騎士のリックとエドワードが居た。
今回のミアのスカートは、先に仕立てたサヴィの服と色と刺繍をお揃いにした。秋の紅葉を意識した深いワインレッドのスカートは腰で茶色の大きなリボンを結ぶ。スカートの裾には秋の花々を刺繍してみた。ミアのものは可愛いさを意識した刺繍、サヴィラのベストとジャケットもモチーフは同じだが糸の色を変えて男向けの色合いにしてある。
「ふむ、いい出来だな」
宙に浮かせたスカートをくるくると回す。ふわりとスカートの裾は理想的に広がる。ミアがくるくる回ったら可愛いのは間違いない。このスカートに合わせるブラウスは控えめなフリルをあしらった丸襟のものを仕立てた。羽織るようにくすんだピンクのカーディガンを薄手の生地で仕立てた。ミアは寒さや暑さに強い獣人族なのでまだ今の季節に厚着をする汗を掻いて逆に風邪を引くのだ。一方、暑さ寒さにめっきり弱いサヴィラの服は厚手の生地を選んでいる。
「どうだ、一路。可愛いだろ?」
「ミアちゃんに似合いそうだね、でも、その茶色のリボンがなぁ、可愛いんだけど……あ。ベージュとか濃い目のピンクとかどう?」
「ふむ、確かに色合いが重くなりがちだな、ベージュはいいかもしれん」
一路の的確なアドバイスに真尋は指を振って腰のリボンを解く。デスクの背後に置いたチェストの引き出しを開けるが、理想的なベージュ色は見当たらなかった。あとで買いにいかなければならない。その時に濃い目のピンクも探そうと心にメモしておく。ちなみにこのチェストの整理整頓は、裁縫を教える代わりに一路がしてくれている。一路が真尋に裁縫を教わっている理由は、ティナに服を作って贈りたいからだ。
「あの、マヒロさん。お話し中すみませんが……人を雇うって何をなさる気ですか?」
真尋の左斜め前にデスクを構える真尋の護衛騎士のリックが不安そうに首を傾げた。その向こうで一路の護衛騎士であるエドワードまで不安そうにこちらを見ている。
どうやら彼らは真尋が何気なく零した呟きをしっかり聞いていたらしい。
「何でそんな不安そうな顔をするんだ」
「君がなにかをしようとすると色々と厄介だからでしょ」
一路がケラケラと笑いながら言った。
「失礼な。俺は家のことについて頭を悩ませているんだ」
「増築でもするんですか?」
羽ペンを手にエドワードが首を傾げる。
「違う。メイドの話だ」
「ああ、そっちね」
一路が頷き、リックとエドワードも、その話か、と納得の表情を見せた。
これまで家のことはジョシュアの妻のプリシラと庭師の妻のクレアに任せていた。二人は基本、家に居るので食事の仕度や掃除、洗濯などを請け負ってくれていたのだ。ティナも勿論、あれこれとしてくれているが彼女の本業は冒険者ギルドの受付嬢なので、プリシラとクレアほど家事に割ける時間はない。ティナが一路の世話だけをしていればいいならそれも可能だろうが、真尋と一路が買った屋敷は兎に角大きくて広くて無駄に部屋数がある。元々二世帯の家族が暮らすように作られていたので、三階は真尋が二階は一路がそれぞれの住居として使っている。サヴィラとミアは三階、ティナ、リック、エディは二階に自室があり、ジョシュア親子は、それとは別に屋敷の西側にある使用人たちが暮らしていたと思われる棟の家族向けの部屋に住んでいた。レイは一階の客間にいつの間にか住み着いていた。
「屋敷を買った当初は、まさかこんなに人が増えるとは思ってなかったもんねえ」
一路が立ち上がり、部屋の隅の小さなキッチンへと足を向けた。紅茶を淹れてくれるようだ。一路の足もとに寝ていたロビンがおやつを貰おうとその背について行く。
「お前と俺の二人暮らしの予定だったし、そうなれば俺はお前に面倒を見てもらおうと思っていたからな」
「そういう潔いとこは流石だと思うよ」
一路が肩を竦める。リックが立ち上がり、手伝いますと一路の下へ行った。
「でも君がそんなことを言い出すなんてどうしたの? 実家に居た頃だって執事以外は雇わなかったじゃん」
「……プリシラとプリシラの胎の子に何かあったら困るからな」
真尋は刺繍針の始末をつけて手を離し、ぐーっと伸びをした。
プリシラの妊娠が発覚したのは先月の終わりだ。現在、丁度、つわりの時期でプリシラは以前のようには家の仕事が出来ず、自室のベッドで横になっていることが多い。そのこと自体は無理もないことであるし、寧ろ、ベッドで横になって安静にしてくれているほうがこちらとしても安心だ。お腹の子に万が一のことがあっては困るし、プリシラ自身に何かあっても困る。プリシラのつわりには波があるようで、酷いと食事がほとんどできない。五日ほど前も治癒術師に来てもらって、様子を診てもらったばかりだ。
しかし、これまでプリシラとクレアに頼りきりだったために家のことが徐々に回らなくなりつつある。時折、ジョシュアの姉や母、ソニアが応援に来てくれるが彼女たちにもそれぞれ仕事がある。
基本的に真尋以外は自分の部屋の掃除は自分でする。それ以外の食堂とサロン、キッチンと風呂やトイレはプリシラとクレアが毎日、丁寧に掃除をしてくれているし、無駄にある他の部屋も順番に適度に掃除をしてくれている。洗濯に関してもリックやエディは自分でするし、一路は自分でしたり、ティナに頼んだりしている。真尋の分はサヴィラとミアがしてくれる。以前、真尋も自分でしてみようと思い、頑張ってみたのだが樽型自動洗濯魔導具に投入する洗剤の量を間違えて泡が溢れ出して洗濯部屋を泡だらけにしてしまった。以来、出入り禁止命令を下されている。干すことは出来るだろうと思ったのだが、ワイシャツの袖を三着ほど引きちぎったところでサヴィラに止められた。
だが、一番の問題は食事だった。昼は男たちは仕事に行っているので子どもたちと自分たちの分だけでいいのだが、朝と夜は十四人分の食事の支度をしなければならないのだ。その上、我が家にいるのは食欲旺盛な若い男ばかりできっちり十四人前では到底足りないため三十人前くらいは作っている筈だ。ここでも真尋は役立たずなので、リースの面倒を見ていることしか出来ない。とはいえ真尋だって最新の魔導具を購入してプリシラたちを手助けはしているつもりだ。向こうで言えばハンドミキサーの機能を持つ魔導具なんてプリシラもクレアもティナも大はしゃぎだった。
しかし、家事というものはやり出すと終わりがないらしい。真尋には分からないが、他にも細々とした雑事が山のようにあるのだそうだ。
「そうですね、今は私たちも多少の余裕がありますのでお手伝いも微力ながら出来ますが……感謝祭が近くなれば、そうもいかないでしょうし」
「屋敷の規模と仕事内容からして、家畜の世話番と料理人とその手伝いが数名、メイドは五人以上は居ていいし、他に執事とフットマンも二、三人は必要ですね」
エドワードが指折り数えながら言った。
真尋は煙草を取り出して火を点けながら首を横に振る。
「そんなにはいらん。必要最低限で良い」
「だから今のが必要最低限ですよ」
エドワードが苦笑を零す。
「普通なら自意識過剰が過ぎるとかも言えるけど、君の場合は自意識過剰じゃなくて自己防衛だからねぇ」
はい、と目の前に紅茶が置かれる。ふわりと香る豊かな茶葉の匂いにカップに手を伸ばす。
「……この顔は便利には便利だが、その分、厄介事も多く引き寄せてくれる。俺が害を被る分には構わん。対処も対策も出来るからな、だが、ミアやサヴィラに何かされては堪らないだろう? 昔、弟達を利用して俺に近付こうとした馬鹿もいたからな」
「でも、早急に対処しないと、プリシラさんはこれからお腹だって大きくなって大変だろうし」
「掃除と洗濯はどうにかなると思うんだが、家畜の世話と料理が問題だな。ジョシュアも最近、冒険者稼業が忙しいようだし」
「そりゃあ三人目も出来たんだからお父さんは稼がないとねえ」
自分の席に戻った一路がしみじみと呟く。ロビンはなんかの骨をおやつに貰ったのか執務室のど真ん中で楽しそうにしゃぶっている。
屋敷の西側に元々あった家畜小屋には、現在、ボヴァンが二頭とプーレが八羽、そして、馬が全部で七頭ほどいる。馬は増えに増えたので、厩舎を新しく作り直した。ジョシュアのところの馬が二頭、真尋と一路とリックとエドワードの馬がそれぞれ一頭ずつで四頭、そして、サヴィラに贈った馬が一頭だ。リックの馬も真尋が昇級祝いに贈ったものだ。馬は各自で世話をしているが、ボヴァンはジョシュアとプリシラ、プーレは子どもたちが世話をしていた。プーレは良いとして、ボヴァンはきちんと世話番を雇ったほうが良いだろう。
「料理は最悪、外に食べに行くかサンドロに出来合いを届けてもらうとして……家畜の世話番は早めに手配したい」
ふーっと吐き出した紫煙がデスクの上にふわりと広がる。
「そうだねえ。あ、なら、カマルさんに相談してみれば?」
「それは良いですね、カマルさんの紹介なら間違いな……い?」
一路の提案に賛同したリックの話を遮るようにコンコンとノックの音が執務室に落ちた。ロビンがぴんと耳を立てて顔を上げた。
「どうぞ」
一路が返事をすればドアが開いて、クラージュ騎士団団長のウィルフレッドが顔を出した。灰皿に伸ばした手を止める。彼は煙草を消さなくていい相手だからだ。
彼は領主の実の弟で有り、先にも述べた通り、騎士団の団長という肩書を持つ男だ。少々、胃腸が弱いのがあれだが団長としては十分な素質を持った男だった。ただ書類仕事より体を動かす方が好きで、ちょいちょい団長室から逃げて来ることがあるので今日もそれかと思ったが、何やら様子がおかしい。顔だけをドアの隙間から出して中に入ってこようとしないのだ。いつものように彼の分の紅茶の仕度をしようと腰を上げた一路も訝しむように首を傾げている。ロビンは一路に呼ばれて、骨を咥えて彼のデスクのほうへ行った。
「あのー、暇か?」
「丁度、休憩をしていたところですが……閣下、中へ入ったらどうですか?」
「いや、お構いなく。あの、その、それより、その……神父殿に折り入って相談があって、ってっ、あ、こら! レオン! シルヴィア!」
なにやらもにょもにょ言っていたウィルフレッドが慌てた瞬間、ひょっこりと子供が二人、顔を出して部屋に飛び込んでくる。
ウィルフレッドと同じ蜂蜜色の髪の六歳くらいの少年と銀髪の五歳くらいの少女だった。少年は、きょろきょろと部屋の中を見回したあと、真尋に目を付けると弾丸の如き勢いで部屋に飛び込んで来て、真尋のデスクの前に立った。銀髪の少女も少年の隣に並ぶ。二人とも随分と仕立ての良い服を着ている。
「お前が神父か!」
「……この礼儀知らずの生意気なクソガキはなんだ?」
「なっ、お前、オレに向かってクソガキとは失礼だぞ! このオレが誰か知らないのか!」
クソガキはやけに生意気な口調でのたまった。
真尋は最後の紫煙を吐き出しながら、生意気なガキでも子どもは子どもだと灰皿に煙草を押し付けて火を消す。
「レオン! 大人しくしろとあれほど!」
ウィルフレッドが慌てて部屋に飛び込んで来て、少年の口を塞いで抱き上げた。もごもごと何か文句を言って手足をばたばたさせているがウィルフレッドは鍛えられた騎士だ。びくともしない。
銀髪の少女は少年を「お兄様はばかね」と鼻で笑うとスカートの裾を摘まんで拙いながらもきちんと淑女の礼をする。
「神父さま、はじめまして。わたくしは、シルヴィア・アマーリア・フェン・アルゲンテウスよ!」
だが、少女が名乗った名前に真尋は、納得する。そういえば領主の子どもがレオンハルトとシルヴィアという名前だった気がするし、これくらいの年齢だった筈だ。
真尋は立ち上がり、シルヴィアの前に片膝をついて目線を合わせて頭を下げる。
「初めまして小さなレディ。俺は神父の真尋と申します」
真尋が挨拶をするとシルヴィアは、すっと手袋の嵌められた小さな右手を真尋に差し出した。小さくともご令嬢はご令嬢なのだな、と感心しながらその手を取り、手の甲に口づけるふりをする。すると少女は、満足げに笑った。
「気にいったわ。わたくしのことは、ヴィーとよんでいいわよ」
「それは光栄で御座います、小さなレディ。……で、閣下、その暴れ馬がレオンハルト様ですか?」
「ああ、そうっ、こら!」
ウィルフレッドの腕から抜け出したレオンハルトが真尋の前に仁王立ちする。
「そうだ! オレがレオンハルト・ジークフリート・フォン・アルゲンテウスだ! しっかりと覚えておけよ!」
「あんまり生意気な口を利くとお前の叔父様の胃が破裂するぞ、クソガキ」
真尋は立ち上がり、デスクに寄り掛かりながら言った。
クソガキなどと呼ばれたこともないのだろうレオンハルトは紅い瞳を眇めて頬を膨らませた。その仕草はまだまだ可愛い子供で可笑しくなる。
「それで閣下、職場見学ですか?」
「そ、そのことなんだが、あのだな、まあ、あれだよ。あの、神父殿の実力を買ってな、その……ほら」
多分、何か面倒事を持って来たのだろうと言われなくとも分かる。内容によっては全力でお断りだと思いながら言葉の先を待った。
「お母さま、リリー、ダフネ、なんでかくれてるの?」
シルヴィアがドレスの裾を揺らしながらドアの方へと戻って行き、廊下に顔を出して、何かを掴んで引っ張っている。「や、やめなさい、ヴィー」と焦る女性の声と共にシルヴィアの小さな手が水色のドレスの裾を掴んでいるのが見えた。
「……お母様?」
領主の娘のお母様ということは領主夫人、或は辺境伯夫人ということになる。
思わず一路を振り返れば一路もこちらを見ていて、二人して首を傾げ、ウィルフレッドに視線を向けた。リックとエドワードも自分の席で直立不動になっている。
「まあ、もうあれだ。うん、義姉上、こちらへどうぞ」
ウィルフレッドが胃を擦りながら言った。ドアに一番近いエドワードが慌てて開けたドアから姿を見せたのは、銀髪に青い瞳、一見質素だがそこかしこに丁寧な仕事が窺えるドレスを身に纏った美しく若い貴婦人だった。彼女の後ろには白いフリルのエプロンにロングスカートに詰襟の黒のメイド服を着た侍女が控えていて、その横には騎士の制服を身に纏い紅のマントを身に着けた護衛騎士の女性がいた。
ドレスの裾をそっと揺らしながら女性は部屋に入って来た。シルヴィアが「お母さまよ」と真尋の下に来て教えてくれた。
「あ、あの……神父様、そちらの見習い神父様も初めまして。わたくし、アマーリア・エルヴィラ・フェン・アルゲンテウスと申します」
手本のような淑女の礼だった。
真尋は一路と共に深々と頭を下げて最高礼を取り、敬意を表す。すっと差し出された手袋の嵌められた左手を一言断ってからそっと取り、手の甲に口づけるふりをする。一路も同じようにその左手に口づけるふりをした。身分の高い未婚の貴族女性は右手、既婚の貴族女性は左手を差し出し、キスを許す。もっとも男性にはフリしか許されていない。実際にしていいのは家族と婚約者だけだ。
「こちらはわたくしの侍女のリリーです」
紹介された侍女がスカートを摘まんで礼をする。
「神父様のご活躍はわたくしも耳にしております。その節はこの町と大切な領民、そして辺境伯を助けて頂いて、辺境伯夫人として直接お礼をと思っておりましたがこんなに遅くなってしまって、その上、突然の訪問になってしまって申し訳ありません」
「私も一路見習い神父も、神父としての務めを果たしだけのことです。それに領主様には色々と便宜を図って頂いて、こちらこそお礼を申し上げる立場でございます」
とりあえず営業用のスマイルを浮かべて、角が立たないようにと言葉を選ぶ。侍女の後ろでドアを押さえたままのエドワードが人の顔を見て顔を引き攣らせている。失礼極まりないので明日の朝の鍛錬で伸す。
「あ、あの、神父様」
「はい」
「神父様はとてもお優しい方だとお聞きしております。そこで折り入ってご相談があるのです。……わたくし……わたくしっ」
青い瞳がみるみると涙に潤み始めた。
「お、奥方様?」
一路がおどおどしながら声を掛ける。
アマ―リアは、一度顔を俯けて自分を落ち着かせたかと思えば、真尋の手を取り顔を上げた。
「神父様、わたくし、メイドでも皿洗いでも何でも致しますから、神父様のお屋敷においてくださいませ! 息子と娘もおりますし、処女ではありませんが教会に入って修道女になり、神に仕えさせて頂きたいのです!」
「…………はい?」
「つまり結論をまとめて簡潔に申し上げると、奥方様は領主様と喧嘩をして家出をしてきたわけですね」
執務室のソファに場所を移して、真尋はウィルフレッドとアマーリアから話を聞いた。その結果、アマーリアが夫のジークフリートと喧嘩をして子どもと侍女を連れて家出してきたということが分かった。
前にウィルフレッドが領主夫妻がややこしいことになっていて頭が痛いと言っていたが、どうやら彼の頭痛の種は見事に芽吹いて成長し花を咲かせて、彼の胃痛も加速させることになったようだ。
「先ほど、本部に直接いらっしゃったんだ。門番が蒼い顔をして私のところに来た」
ウィルフレッドは話の途中でやってきたレベリオから胃薬を受け取りながら言った。
レオンハルトとシルヴィアは、パーテーションの向こうでロビンと遊んでいて、アマーリアの護衛騎士であるダフネ騎士がお守をしている。
アマーリアは、大分落ち着いた様子だった。彼女の後ろには侍女が控えていて、自分の女主人を心配そうに見つめている。
「わたくしは所詮、お飾りの妻なのです。妻としての最も重要な役目は既に果たしました。だとすればもうわたくしはジークフリート様にとって何の用もない女です」
アマ―リアが徐々に俯いてしまう。侍女がすっと差し出したハンカチを礼を言って受け取ると、細い手はそれを目元へと運んだ。彼女の隣のソファに座るウィルフレッドは困り果てた様子で義姉を見ていた。
「アルゲンテウス辺境伯家に嫁いで今年で十年になります。ですが結婚して初めてジークフリート様と共に出席した夜会で粗相をして以来、子を成すこと以外の妻としての役目をジークフリート様は与えては下さいませんでした。ですから、わたくしは神に仕えようと……っ」
ハンカチを握りしめて睫毛を涙に濡らすアマーリアに流石の真尋も対応に困る。これが男だったら「ごちゃごちゃ言うな、話し合って来い。駄目なら拳で語れ」と追い出すところだが、相手は見るからに繊細でか弱そうな貴婦人である。カロリーナとかソニアなら拳で解決してくるかもしれないが、まずもって彼女には無理だろう。
「奥方様、生憎と教会が開くのは来月の頭で、まだ教会としては機能しておりません。それに私も一路見習い神父もまだまだ修行中の身ですので修道女や見習い神父を受け入れる体制も整っていないのです」
「そ、そんな……っ」
アマ―リアが顔を覆って項垂れてしまう。侍女がおろおろして、ウィルフレッドまでおろおろしている。レベリオだけは相変わらず冷静だった。
教会は現在、多くの職人の手によって長い年月の間に傷んだ箇所を修復中だ。今月の終わりにはその修復作業も終わる予定なので、領主様や関係各所との話し合いの結果、ティーンクトゥス教会は来月の風の月の一日に教会としての一歩を踏み出すことになっている。
「ですが……まあ、私の経験上、夫婦喧嘩というものは多少の距離を置いて、お互いの頭を冷やし、心を落ち着かせる期間も必要です」
真尋の言葉にアマーリアが顔を上げた。
夫婦喧嘩というものはしたことがないが、雪乃に怒られることは多々あった。普段怒らない妻が怒るとその怒りは長引くので冷却期間を設けることも必要だというのは身に染みて知っている。
「それに私は神父です。悩めるご婦人に手を貸さない訳にはいきません。我が親愛なるティーンクトゥス神も貴女に手を差し伸べるでしょう」
「まあ、神父様、何とお礼を申し上げたら良いか……っ!」
アマーリアが両手を祈るように握りしめて顔を輝かせた。二人の子の母だというのになんだか少女みたいなあやうさと愛らしさのある女性だ。侍女のリリーはそんなアマーリアの様子にほっとした表情を浮かべている。
「ですが、私と一路見習い神父の屋敷には私の子どもたちは勿論ですが一路見習い神父の恋人に私たちの護衛騎士、友人一家、庭師の夫婦に居候の冒険者が一人、それ以外にも一路見習い神父の従魔のヴェルデウルフの親子に私のペットのキラーベアが一頭、他に馬とボヴァンとプーレもいます。庭は現在、多くの庭師が出入りしていますし、私の立場上、様々な人々が出入りします。それに我が家には我が家のしきたりやルールがあります。そして最も困ったことに訳有って、メイドや料理人などの使用人はいません。これまで、奥方様が過ごしておられた日々のように何不自由ない生活をお約束することは出来ませんが、それでも宜しいですか?」
「構いません」
アマーリアは一拍の間も置かずに頷いた。
どうやらその意思は強固なもののようだ。
「では、私たちは奥方様を歓迎いたします」
真尋の言葉にアマーリアは幼い少女のように顔を輝かせ、安心したように息を吐いた。
「一路、当家の規則について奥方様にお話ししておくように」
「はい。分かりました」
「それでは奥様、私は少々、ウィルフレッド団長閣下とお話がありますので席を外させて頂きます」
真尋は、そう断ってからウィルフレッドに目配せをし、席を立ってパーテーションの向こうへ出る。ウィルフレッドも立ち上がり、こちらにやって来た。
「レオン、ヴィー、話が終わったぞ。お母様のところにロビンを連れて行ってやると良い」
ウィルフレッドがそう声を掛けると二人の子どもはすぐにロビンを母に見せるべく、パーテーションの向こうに行った。リリーの驚いた声が聞こえて来た。リリーはロビンの好きそうな巨乳の美人だったので真っ先に飛んでいったのだろう。一路がロビンを窘める声が聞こえる。
真尋は、リックとエドワードも連れて廊下へと出る。ウィルフレッドが声を掛けたので、レベリオとダフネ護衛騎士も一緒に廊下へと出て、隣の部屋へと移動する。
執務室の隣も真尋たちに与えられた部屋だが、こちらは繁忙期に寝泊まりが出来るようにと用意された部屋でベッドが二台とソファセットがあるのみのシンプルな部屋だ。
真尋は一人掛けのソファにウィルフレッドはその向かいに置かれた二人掛けのソファに腰を落ち着ける。リックは真尋の右側に控え、エドワードは真尋の後ろに、ダフネとレベリオはウィルフレッドの後ろに控える。
「すまないな、神父殿。義姉上が何を言っても戻らないの一点張りで……兄上も視察に出かけてしまったから明後日にならないと帰って来られなくてな」
「私もリリーも止めたのですが、今回は積もりに積もったものが爆発してしまったようで……」
ダフネ護衛騎士は、二十代後半くらいの背の高い女性だった。赤い髪をポニーテールにしていて、吊り目がちのハシバミ色の瞳が印象的な美女だ。女性らしい曲線を残しながらも騎士らしく鍛えられた体をしているのが見て分かる。腰には細身のレイピアを下げていた。
「あまりに強固に反対し過ぎるとお一人で抜け出してしまいそうでしたので、どうにか言い包めてここへ来たんです。前々から奥様は、神父様にお礼を申し上げたいと常々言っておられたので、神父様にお会いするのならと納得してくれたんです」
「流石の私も修道女になるというのは驚きました」
くくっと喉を鳴らして笑うとウィルフレッドとダフネも苦笑を零した。
「奥様は王都の屋敷でお育ちになられましたので、嘗て、教会に修道女がいたことを屋敷の老執事から教わったそうです」
「現在はいませんからね。とはいえ、私どもは別に構いませんが、本当に当家でお預かりしてよろしいのですか?」
「下手な家には預けられんし、私の家は立場上、厄介だ。それにキースが神父殿の屋敷は、ドラゴンが襲撃して来たとしても安全だと言っていたから頼めないかと……兄上は、少々、人の気持ちに疎いところがあってアマーリア義姉上とすれ違い気味なんだ。だから神父殿には悪いが私は夫婦仲を修復する良い機会だと思っている」
ウィルフレッドの群青の瞳が懇願の色を濃くして真尋を見つめる。レベリオもウィルフレッドの言葉を肯定するように頷いている。
「……良いでしょう。ほとぼりが冷めるまでお預かりいたします。その代わり、領主夫人というと私にとっても領主様ご夫妻にとっても外聞が悪いので別の身分を用意しようと思いますが宜しいですか?」
「勿論。兄上は義姉上や子供たちを殆ど外に出していないから、騎士でも近衛以外は知らない者が多い。故に町民の殆どは結婚した時の姿絵しか知らない筈だから問題ないだろう。義姉上も甥たちも珍しい色では無いからな」
「生憎と私と一路は故郷を捨てて来た身ですから後ろ盾にはなれませんし……ああ、そうだ。カマルの知り合いの娘にしましょう」
「カマル? ロークのか?」
「ええ。それでアマーリア様の家出の理由はそのままにして、困り果てたカマルが私に諭すように頼み込んできたので預かることになったということにしたらどうでしょう?」
「ほぼその通りだからいいと思うが、カマルの意見は?」
「あれは一路がお願いすれば砂の中から砂すら見つけ出す男ですから問題はありません。エディ、そういう訳でカマルを呼んで来てくれ」
「はい。騎士団の馬車で行きますか?」
「いや、俺の馬車を使え。俺の愛馬が急病になったからとでも門番に言っておけばいいだろう」
「了解です。では、行ってまいります」
エドワードは、真尋とウィルフレッドに頭を下げるとすぐに手配をしに行く。
「良い所の奥様なら侍女や護衛がいても不思議ではない。ただダフネ騎士は、騎士服ではなく私服が良いだろうが……」
「アマーリア様を護るのが私の役目ですのでその為ならば異論はありません」
ダフネ騎士は迷いなく頷いてくれた。
「では、ウィル、私は身分をでっちあげる書類とギルドカードを用意する準備をしてきますので、一度、部屋に戻ります」
レベリオがそう言って、彼もまた忙しそうに去っていく。
「では問題はうちの部屋だな、一階は安全面で良くない。リック、エディ、しばらく一階か三階に移れ、二階を使う。一路が居るが、あれはティナがいるから良いだろう」
「ですが、客間は殆ど何もないですけど……」
リックが戸惑い気味に言った。
自分たちの部屋や普段から使う部屋以外では応接間は家具を揃えて、いつでも使えるだけの体裁は整えてあったが客間は何もない。辛うじて絨毯やカーテンが整えてあるだけだ。使用人の棟には家具が残されていたが、とてもではないが領主夫人向けではない。
「まあいい、とりあえずカマルの到着を待って話を決めましょう。幸いまだ昼前ですし、時間はたっぷりとあります」
「すまないな、神父殿」
「私の故郷にはこんな言葉があります。情けは人の為ならず、巡り巡って己が為。これもまあ……そういうことですよ、閣下」
「……神父殿はどこまでも神父殿だな」
ウィルフレッドは曖昧な表情を浮かべて沈黙した後、ため息交じりに肩を竦めた。
いいか、と聞かれて、どうぞ、と答えればウィルフレッドは胸ポケットから煙草を取り出して火を点ける。真尋も自分のそれを取り出して一本咥えて火を点けた。ふーっと二人分の紫煙が、空気を濁らせる。
「……それで、閣下」
真尋はゆっくりとウィルフレッドに目だけを向ける。ウィルフレッドが訝しむように眉を寄せて用件を問う。
「……奥方様に毒を盛ったのが誰か分かったのですか?」
次の瞬間、ダフネのレイピアが真尋の喉を狙って迫って来た。真尋が魔法で適当にあしらうよりも早く右側で殺気が爆発的な勢いで一気に膨れ上がり、鉄と鉄のぶつかり合う甲高い音がした。
リックが瞬時にダフネのレイピアを弾き飛ばし、テーブルから生えた蔓がダフネを捕らえ、その細い首をへし折ろうと巻き付いた。その蔓をウィルフレッドが切り捨て、ダフネを後ろへと引っ張り自分が間に入るようにして振り下ろされた剣を己の剣で受け止めた。
「かはっ! ひゅっ、はっ、ごほっごほごほっ!」
ウィルフレッドの背後でダフネが膝から崩れ落ちて、苦しそうにむせ返っている。
「リック二級騎士、剣を収めろ」
ウィルフレッドが唸るように言った。
リックは酷く冷たい深緑の瞳を僅かに細めただけで剣を収める気配は微塵もなかった。彼の意識はダフネにしか向けられていない。
真尋は目の前にある黒いマントに、やれやれと肩を竦めて紫煙を吐き出した。
「リック、死ぬほどのことじゃない。許してやれ」
「承服いたしかねます」
「…………またお前の実家に行ってお前がいかに素晴らしい護衛騎士なのか演説するぞ、親子で」
そう付け加えるとリックは大袈裟に肩を揺らして瞬時に剣を腰の鞘に納めた。そして、勢いよくこちらを振り返る。心なしか頬が赤い。
「そ、それはもうしないって約束した筈です!!」
「したのは、サヴィとミアだろ? 俺はしてない」
ふっと笑って紫煙を吐き出し、リックに脇に下がるように手を振った。ウィルフレッドがやれやれとため息を零しながら鞘に剣を戻して、ダフネを立ち上がらせて隣に座らせた。
「リック、水を持ってきてやれ。やり過ぎだ」
「その命令にも従いかねます」
何だこいつは反抗期か、と胡乱な目を向けるがリックは素知らぬ顔をしている。まだ彼の纏う空気はピリピリとして普段の穏やかな彼らしくない雰囲気を湛えていた。真尋の命を狙ったダフネに対して相当の怒りを覚えているようだ。
「すまない。ダフネ騎士。俺が迂闊な言葉を口にしたばかりに」
背中を丸めて、ゼーハーと荒い呼吸を繰り返していたダフネのハシバミ色の瞳が真尋を睨み付けるように向けられる。リックがまたピリピリしだす。
「そ、れは……っ、ごほっ、今朝のこと、極秘、案件をなぜ、貴殿がそれを、はぁ、知っている、のです?」
「リック、水を持ってきてやれ。女性に優しくあるのも騎士だぞ。お前が行かんのなら、俺が」
真尋が立ち上がろうとすると漸く、渋々、本当に渋々、リックが部屋を出て隣の執務室に水差しとコップを取りに行ったのだった。
バタン、とドアが閉まるとウィルフレッドが、はぁぁと大きく息を吐きだして緊張を解き、ソファに身を沈めた。真尋は吸いかけの煙草を灰皿の縁に置いて立ち上がり、そんなウィルフレッドに向かって頭を下げる。
「閣下、失礼を致しました」
「いや、あれは神父殿の護衛騎士だ。顔を上げて座ってくれ」
ウィルフレッドが力なく笑って言った。真尋は、礼を言ってソファに座り直す。
「ダフネ騎士がリックの護衛対象である神父殿に危害を加えようとした以上、理由はどうあれリックの行動は正しい。……ただ随分とこの短期間であれは剣の腕も魔法の腕も上げたな。見違えた」
「お褒めに与り光栄です。リックには有事の際、私の大事な大事な娘と息子を護らせるために私が稽古をつけておりますので、その成果が出たのでしょう」
「……カロリーナが躍起になって、神父殿に鍛錬を申し込むわけだ」
ウィルフレッドは新しい煙草に火を点けながら肩を竦めた。
そして、ウィルフレッドが紫煙を吐き出すのと同時にリックが部屋に戻って来たのだった。
戻って来たリックは、水の入ったグラスをダフネの前に無言で差し出した。
ダフネは、それを渋々受け取り、口へと含んだ。リックは真尋の右側へと控えて涼しい顔をしている。多少は頭が冷えたのか、先ほどよりは幾分かピリピリが治まっている。
「ダフネ騎士、大丈夫か? 怪我は?」
「いえ。大丈夫です」
水を飲んで落ち着いたのか、ダフネが先ほどよりもしっかりと答えて立ち上がろうとしたが、ウィルフレッドに座ったままでいるように促されて、ソファに座り直した。
「神父殿、私も気が張っていたとはいえ、領主様の大事な客人である貴方に無礼を」
「いや、構わん。俺も碌に人払いもせず、口にしてしまったのは迂闊だった。もう少し配慮して口にすべきだった。これだからよく妻に怒られていたんだ」
真尋の言葉にダフネが少しだけ表情を緩めて、こちらを睨むのを止めてくれた。
「しかし、神父殿。どこでその情報を得たんだ?」
「黙秘します」
ウィルフレッドの問いに笑顔で返して、足を組んだ。ウィルフレッドの頬が盛大に引き攣る。
「というのは冗談で、ナルキーサスですよ」
「キースが?」
「丁度、騎士団に出仕する前、解毒剤の材料になる薬草を一路に貰いに来たんです。あの温室では、貴重な薬草が育てられていますからね。その時、多分、団長閣下が私を頼るだろうからと助言を頂いたんです」
「神父殿は意地が悪いな。こうなることが最初から分かっていただなんて」
「いえ、奥方様が私の家に避難するかもとは思っておりましたが、その可能性は限りなく低いだろうと思っていたので準備はしていなかったんです。ですがまさか別件の夫婦喧嘩で家出をして、修道女になりたいと言われることまでは予見できませんでした」
「……それは私だって予定外だったんだ」
ウィルフレッドがやれやれと肩を竦めて短くなった煙草を灰皿に押しつけた。
「兄上は義姉上が毒を盛られたことを知らない。夜明けとともに視察に出てしまっているし、喧嘩をしたのは出かけ際だからな。毒が盛られたのは朝食だ。毒見をしたメイドが倒れたんだ。幸い、死に至るような毒ではなかったし、アイリス護衛騎士がすぐに毒を吐かせたので軽症で済んだ」
「アイリスは、私の相棒です。毒を吐かせたときに指に毒が付着し、彼女も今は治療を受けているんです。奥様には、風邪だと言ってありますし、そもそも奥様にも毒の件は話しておりません」
ダフネがウィルフレッドの言葉を補足する。
「その毒は、どんな症状をもたらすのですか?」
「魔の森の南の方に生えている植物から採れる毒だ。皮膚についただけで毒が沁み込み、老人や病人、赤ん坊以外は死ぬことは殆どなく、酷い眩暈と吐き気をもたらす。アイリス護衛騎士はメイドよりずっと症状が軽いので、明日には復帰できるだろう。毒について詳しく知りたければ、キースに資料を貰うと良い」
「犯人は、分かったのですか?」
「毒はスープに混入していたが、レオンハルト様やシルヴィア様のスープを毒見したメイドは無事だった。毒が塗られたのは、皿だ」
「では、誰が?」
ウィルフレッドが表情を曇らせた。
「……裏庭でハビーという十七歳の少年が死んでいた。二年ほど前から厨房で雑用をこなしながらシェフを目指していた使用人だ。今朝、義姉上の使う皿を用意したのが彼だった」
「自殺、ですか?」
「恐らくはな。今、治療院で検死の真っ最中だ。事が事だからキースとアルトゥロが担当してくれている」
「黒幕は誰です? リヨンズ派の報復ですか?」
ウィルフレッドとダフネの纏う空気がだんだんと重苦しくなってくる。
「現在、王国の貴族たちは王弟派と第一王子派、二つの派閥があるが、第一王子がまだ若いため静観という立ち位置を貫いている家も多い。リヨンズ伯爵家は王弟派、我がアルゲンテウス辺境伯家を始めとした四大辺境伯家は今のところ表面上は静観の姿勢を貫いているが、教会に依存する王家の改革を望んでいるから、どちらかと言えば、第一王子派だ。辺境伯家は、広大な領地と恵まれた土地が齎す豊かな財源。そしてとくに東と西は国境を護るが故に軍事力において王国騎士団を脅かすほどの力を持っている。だから、王弟派は、西と東を落としたいんだ」
「南と北は?」
「北は極寒の地で他の家に比べると土地は貧しい。国境は険しい山々に護られているから騎士団の規模もそれほど大きいわけではない。南は土地こそ豊かだが国境に竜人族の村があるため、うちほどの騎士団は必要ないし、竜人族の怒りを買いたくないからあそこには手を出し辛いんだろう。だが、西のカエルレウス辺境伯家は現領主様の母君が王宮内で一大勢力を築く侯爵家の出身でな……強力な後ろ盾がある西と違い、うちにはこれといった後ろ盾がない」
だから、西と東ではザラームが与えた被害が違うのか、と真尋は納得する。ザラームの背後にいるのは、おそらく王弟派の流れを汲む誰かだろうがその誰かは西の後ろが怖い故に隣国との関係を悪化させて辺境伯を領地に押し込むだけに留めている。だが、このアルゲンテウス領は危うく領都が丸ごと無くなるところだった。
「とはいえ、情勢がどう転ぶかは分からんから兄上も私も王弟派とも第一王子派とも一切関係の無い家と縁を結んでいる。リヨンズ伯爵家を通して人を送り込みアルゲンテウス家を乗っ取ろうとしていた王弟派にしてみれば面白くないだろう。更にリヨンズ伯爵家は今やその名を記憶に残すのみ。その上、兄上は側室を取らないと宣言されている。正室のアマーリア義姉上が産んだレオンハルトが居る以上、側室は必要ない」
「ならば、向こうは奥方様とレオンハルト様を殺せばいいわけですね」
「ああ。まだ私は婚約の段階で正式に結婚はしていない上、子はいないし、そもそも私は婿入りが決定している。私の従兄弟やその子どもにもアルゲンテウス家を継ぐことの出来る者はいない。そうなれば一番手っ取り早い方法が義姉上とレオンを殺し、新たな正室を兄上に娶らせ、それに男児を産ませることだ。そうなれば、シルヴィアとてどう扱われるか分からん」
「……私は、一介の神父で王国の派閥争いには、全く興味はないのですけどね」
ふっと苦笑を零して、真尋は膝の上で手を組んで天井を見上げた。横目で此方を見るリックと目が合って、小さく肩を竦めて返す。
「確かに神父殿を巻き込んでしまうことにはなるが……権力云々の前にレオンハルトとシルヴィアは私の可愛い甥と姪だ。義姉上とて私の大事な家族だ。助けてもらえないだろうか?」
ウィルフレッドの声はどこまでも真摯な響きを持っていた。こういうところが彼はずるいと思うのだ。
「……得体の知れない神父だった私を最初に受け入れてくれたのは、ジョシュア親子でした。私と一路にとって、それがどれほどの救いだったか……一悶着ありましたが、故郷を永遠に失ってしまった私たちをこの町は受け入れてくれた。閣下も領主様も、そしてこの町に暮らす人々が私と一路に生きる居場所を与えてくれた。一路は心を預けることのできる恋人を得て、私は愛おしくてたまらない息子と娘を得た。そして何より、この町の朽ち果てた教会には我らの親愛なるティーンクトゥス神がいた」
顔を戻してウィルフレッドの顔を見つめる。
「神がこの地を選んだことにも何かの理由があるのでしょう。この地で生きていくと決めた以上、私も出来得る限り手を貸しましょう」
「……ありがとう。心から礼を言う」
「但し、これは貸しですからね」
真尋はにっこりと笑って返す。ウィルフレッドが数拍遅れて「へ?」と間抜けな声を漏らした。
「言ったでしょう? 情けは人の為ならず、巡り巡って己が為、と。先に申し上げておくと私は、アルゲンテウス辺境伯家も領地も騎士団も地位も金も権力も全く興味はありませんのでご安心ください。どうしても欲しければ王国丸ごと貰います。私はこれまでそうやって生きてきましたから」
ウィルフレッドとダフネの頬が盛大に引き攣っている。リックは「マヒロさんらしいですね」とうんうんと頷いていた。
「まあ、面倒くさいことこの上ないだろうから玉座などいりませんけどね」
「でも、マヒロさんが王になれば多くの孤児は助かるかもしれませんよ」
リックがぼそっと言った。
その言葉に確かにな、と頷いて腕を組み、顎を撫でる。
「……ふむ、それは一考すべき利点だな。確かに玉座につくのは面倒くさいかもしれんが、王となればティーンクトゥス教を広めるのも簡単なことだし。がやがや五月蠅い貴族連中など潰せば良い、一路はああ見えて、情報を抜き取って来るのも操作するのも得意でな」
「名案ですね」
リックが良い笑顔で頷いた。
「マヒロさん、王になれば各地の貧民街に関することや、まあ多少手を汚しても裏社会の統制など様々なことに関して融通が利くようになるかと」
「王になる以上、綺麗なままではいられまい。王が豪奢な衣服を纏うのは、その身の汚れを誤魔化すためだ」
「あ、神父殿、私の胃が……胃がっ」
「だ、団長、お気を確かに! 私を置いて行かないでください! 団長!!」
胃を押さえて背中を丸めたウィルフレッドの背を高速で撫でながらダフネが必死に懇願する。
するとノックの音がして、どうぞ、と声を掛ければ一路がひょっこりと顔を出した。
そして、一路は呆れたようなジト目をこちらに寄越し、まるでこの場で見聞きしていたかのようにこう言った。
「真尋くんさあ、そうやって団長さんで遊ぶの止めなっていつも言ってるでしょ? リックさんもちょっと真尋くんに危害を加えられたからって加担しないの。真尋くんを殺せるのなんてミアとサヴィくらいのもんなんだから」
「確かにな。俺はその内、息子と娘の可愛さに殺されそうだ」
愛らしい子供たちの笑顔を瞼の裏に浮かべて、真尋はうんうんと頷いた。
「はいはい。団長さん、ダフネさん、うちの神父がすみません」
真尋の頭をぺしりを叩いて苦笑を零す一路にウィルフレッドとダフネがまた別の意味で頬を引き攣らせたのだが、やっぱり一路は気付かないのだった。
「命の恩人であらせられる、神父様の頼みと伺い、この不肖カマル! 商談すら放り投げて馳せ参じました次第でございます!! それで私は何をすれば宜しいのでしょうか!?」
疲れた顔のエドワードがドアを開けて中に入って来たと思ったら、ハイテンションのカマルがそう叫びながら並んで座る真尋と一路の足元に傅いた。そして瞬きをした間に一路の手を握っている。敵意が一切なく、百パーセント好意なのでリックとエドワードも咄嗟に反応できないのだ。会うたびにこのテンションで待ち構えているので、サヴィラはカマルを少し苦手としている。
「カマルさん、お忙しいな、か!? ぐっ」
「ああ、なんとお優しいイチロ神父様!! 私の身を心配して下さるなんて、そのお慈悲に私は! 私はっ!」
頬を引き攣らせながらカマルに声を掛けた一路を感極まったカマルが抱き締めて涙を流す。
向こうに居た頃、似たようなのがうちにもいたなと真尋は紅茶を飲みながら思った。リックは困ったような顔をしているが助けに入るべきなのは一路の護衛騎士であるエドワードなので真尋の後ろから動かない。エドワードは、主人をどう助けに入るべきか考えあぐねて妙な動きをしている。絶対的な味方で敵ではないというのは、ある意味厄介だ。
「カマル殿、お忙しいところ御足労頂き有難く存じます。そちらにお席を用意させて頂きましたので、どうぞ」
呆然としているウィルフレッドの背後に控えていたレベリオがカマルに声をかけて、着席を促した。カマルは、そこで漸くウィルフレッドとレベリオの存在に気付いたのか、イチロから離れて優雅な礼を取る。
「これはこれは団長閣下様、そして、コシュマール子爵様、お見苦しい所をお見せいたしました」
「いや、こちらこそ急に呼び立ててしまってすまない。勝手なのは承知の上だが、時間も余り無いのでなすぐに話にはいりたいので座ってもらえると有難い」
ウィルフレッドに促され、カマルは「それでは失礼して」と一路の左斜め横に置かれたソファに腰を下ろした。リックがカマルの前に一路が淹れた紅茶を置く。
七人がいるのは、ウィルフレッドの執務室だ。件の領主夫人御一行は真尋の執務室に居る。ダフネの他にロビンと一路が呼んだロボがいるので安全面に問題はない。
「カマル殿、こちらが一方的に呼びつけておきながら、こういうことを言うのも憚られるのだが、今回のことは例え家族であろうとも内密にしてほしい。辺境伯家の存亡に係わることなんだ」
ウィルフレッドの言葉にカマルは、ラクダ顔をきょとんとさせたあと、隙の無い笑顔を浮かべて頷いた。
「畏まりました。このカマル、イチロ神父様に誓って誰にも漏らさないとお約束いたします」
「ありがとう。では、簡単に説明するが……」
ウィルフレッドはカマルにアマーリアの毒の件は伏せ、領主と喧嘩して家出して来て、夫婦間の修復をするためにも神父様の家に暫く居候することになるという旨を伝えた。カマルは、ほうほう、ふむふむ頷きながら聞き、最後に可笑しそうに笑った。まるで子供に向けるような、苦笑交じりの笑みである。
「夫婦間のことほど周囲からは分からぬことの方が多いものですが……人生の先輩として失礼を承知で申し上げれば、領主様と奥方様は圧倒的に会話が足りていないような気がなんとなくいたしますねぇ」
「兄上は忙しい身の上だからなかなか時間がな……」
ウィルフレッドが兄を庇うように言葉を濁した。
「そんなことを仰られているから、このようなことになったのではないですか?」
カマルの厳しい返しにウィルフレッドは、うっと言葉を詰まらせた。
毒の件を夫婦は知らないのだから、アマーリアの家出は起こるべくして起こったのだ。
「カマルの言う通り、夫婦というものの始まりは所詮は赤の他人です。領主様はお戻りになったら、まずは一度、ゆっくりとアマーリア様とお話をする機会を設けなければなりません。そうしなければ、幾ら私が家を貸そうが、カマルが身分を貸そうが、二度、三度と同じことが起きますよ。そして、最後には離縁です」
「……兄上の側近や執事と話し合って、必ず時間を設ける」
しょんぼりと頷くウィルフレッドの後ろで、珍しくいつも飄々としているレベリオがバツの悪そうな顔をしている。
聞いたところによれば、ナルキーサスは金の地区にある屋敷に帰ることは滅多になく、子爵家夫人として夜会に出ることもなく、更には、仕事以外でこの夫婦が顔を合わせることも滅多にないらしい。詳しくは知らないし、興味も無いがレベリオにも耳に痛い話だったのだろう。
「まあお節介はここまでにして、私は協力することに異論は御座いません」
カマルの言葉にウィルフレッドが、ありがとう、と表情に安堵を滲ませて顔を上げた。
「奥方様は王都でお育ちになられたのですよね?」
「ああ。十五で結婚はしたが……レオンハルトが産まれてからこちらに来たからな、向こうで暮らした年月の方が長い」
「……私は四六時中、妻と一緒にいたいし、妻に触れていたい派の人間だったので領主様の感覚は理解いたしかねますね」
真尋の心からの言葉にウィルフレッドは、そうか、と乾いた笑いを一つ零した。けれど、一路は「分かるー、僕もティナを膝に乗せて仕事したいもん」と頷いてくれている。流石は親友。可愛い恋人が出来てから一路はこの辺をよく理解してくれるようになった。
「さて、ではそろそろこれからのことについて話し合いましょう。部屋の仕度も整えて、家の者にもあれこれ伝えて準備しなければなりませんから」
「そうですね、早ければ早い方がいいですし、さっさと決めましょう」
真尋の言葉にレベリオが用意してくれていた書類をテーブルの上に広げた。
警備計画、ギルドカード申請書、緊急事態の連絡体系、身元保証人書、誓約書、あれやこれやと並べられていく書類に赤の他人でただの神父である自分がどうしてこうも悩まなければならないのか、と紅茶のカップの中にため息を吐き出した。
「夫婦喧嘩は犬も食わんというのにな……」
それから小一時間ほど話し合いは続き、真尋たちは一度解散して、各々の準備のために動き出したのだった。
―――――――――――――
ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
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厄介事はまたも勝手に転がり込んで来てしまいました!
次のお話もまた楽しんで頂ければ幸いです♪
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