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番外編 2
僕と君の恋患い あたしの親友の悩みごと
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今夜は、あたしの部屋で女子会なの。
メンバーは、ティナ、ミア、ネネ、クイリーンさんにハリエットさん。
クイリーンさんは、ティナの先輩受付嬢で、ティナを通して仲良くなったの。エルフ族の彼女は年齢不詳でママが子供の頃から受付嬢をしていたし、更に言えば、ママのママ、つまりあたしのおばあちゃんの時代も受付嬢をしていたって言ってたけど、エルフ族だから不思議ではないわね。エルフ族はとっても長命でその分、クイリーンさんみたいに長いこと二十代前半くらいの容姿を保っているんだもの。
ハリエットさんは、水の月の事件の時に知り合って仲良くなったの。あたしとティナより四つ年上のお姉さんだけど、なんていうかティナと同じくらい小柄で可愛いの。カロリーナ小隊長さんって言って獅子系の獣人族の格好いい女性騎士の事務官をしているんだって。
本当は、新しく出来た義姉さんのエレナさんと妹のヘーゼルとアリスも誘ったんだけど、アリスが熱出しちゃってエレナさんたちの参加は次回に延期になっちゃったんだ。ヴィート兄さんとの出会いからプロポーズまでを根掘り葉掘り聞こうと思ってたけど、こればっかりはしょうがないわ。
「ミア、寝ちゃったね」
ベッドの上を覗き込みながらネネが言った。
大きなベッドの隅っこでミアがすーすーと寝息を立てていた。
あたしのベッドは、パパが買ってくれたんだけど、あたしをお姫様か何かと勘違いしている節のあるパパが買ってくれたベッドは大人が四人は余裕で眠れる大きなベッドで、その上レースの天蓋付き。正直、今でもどうかと思っているし、普通のベッドが良いんだけど、あたしを大好きなパパの善意を無下にする訳も行かないので今もそのまま使ってるの。だって拗ねるとすごく面倒だし、仕事も滞るんだもの。
「可愛い寝顔ねぇ。うちのギルドでも人気者なのよ」
クイリーンさんがワイングラスを傾けながら言った。
「そうなんですか?」
ハリエットさんが首を傾げる。ハリエットさんが飲んでいるのは果実水だ。あたしとティナとネネもおなじものを飲んでいる。
クイリーンさんは、ええ、と頷いてクリームチーズの乗ったクラッカーに手を伸ばす。
部屋に敷かれたラグの上、お風呂を済ませて寝間着姿のあたしたちは、ふかふかのクッションに座って自由に過ごしている。真ん中に置かれたお盆の上には、パパに作ってもらったちょっとした軽食がある。
あたしはミアに布団をかけてこっちに戻って来たネネを膝に抱える。ネネは十一歳だけど細っこくて小さいし、あたしは背が高い方なのでまだ膝に抱えられるのだ。あたしはずっと妹が欲しかったから妹が出来たみたいでとっても可愛い。
「神父さんはお忙しい方だから討伐とか採取クエストは受けないでしょ? それで雑務クエストを受けるんだけど、大抵、ミアちゃんとサヴィくんを連れて来て、一緒に行くのよ。雑務クエストは討伐や採取と違ってそこまで厳しい規律は無いし、要は町のお手伝いだからね。ミアちゃんとサヴィくんと神父さんと護衛騎士のリックと一緒にいくことが多いんだけど、仕事も丁寧だし、子どもたちは可愛いしで雑務クエストなのに神父さんに指名がくるのよ」
「特におじいちゃん、おばあちゃんに人気なんです。マヒロ神父さんは、若い女性からの依頼はあまり受けたがらないので」
「あー、前に付き纏いにあったとか、夜這いにあったとか言ってたもんね」
あたしはティナの言葉に頷き、果実水の入ったグラスに口をつける。膝の上のネネが、私も、と強請るので仕方がない、と中身を足してからネネにグラスを渡した。
「神父さんって苦手なこととかなさそうですよね。執務室で仕事の傍ら、ミアちゃんやサヴィくんのお洋服を作ったり、ミアちゃんの玩具を作ったり、片手間に魔導具を作っているんですけど、どれもこれも素晴らしい出来なんですよ。特に今月の頭から導入された小鳥型伝言用魔導具は本当に便利なんですよ」
「あの小鳥さん、本当に便利ですよね。でもマヒロ神父さん、お掃除とお洗濯とお料理の腕は壊滅的だってイチロさんが言ってましたし、事実、先日も色々やらかしてイチロさんに怒られてましたよ」
ティナがくすくすと笑いながら言った。ふわふわと落ちる花びらをピオンとプリムが一生懸命捕まえようとしている。
ハリエットが、そうなんですか?と驚いたような仕草を見せた。彼女は目が悪いので分厚い眼鏡を掛けていて、その表情はよく見えないが、割と感情が色んなところに出るので分かりやすい。
「はい。お屋敷を掃除した時も絨毯を台無しにしてみたり、ハタキでシャンデリアを壊してみたり、教会の鉄門が吹っ飛んでいたのはマヒロ神父さんが蹴り飛ばしたからだそうです」
ティナが苦笑交じりに告げた言葉にあたしもあの顔だけは文句がつけようのないくらいに綺麗な神父様のことを思い浮かべた。
「そういえば、ローサは神父様にお熱だったってソニアが言っていたけれど」
クイリーンさんが突然、そんなことを言い出した。
「そうなの? ローサお姉ちゃん、神父様が好きなの?」
ネネが菫色の瞳を輝かせてあたしを見上げる。
「人としてはね。そりゃあ、あんなイケメン早々いないから、最初は恋しそうになったけど、あの人、既婚じゃない」
「確かに。神父さんの奥様、とってもお綺麗な方なんですよ」
ティナがふわふわ笑いながら言った。
「そうそう、それにあの神父様は、あたしの手には負えないわ。あの人は、観賞用としてキャーキャー言っているほうが幸せよ」
ローサは、降参の意味も含めて両手をひらひらと振った。ティナたちが、確かに、と頷いてくれた。
マヒロはあれもこれも出来過ぎるのだ。料理と掃除と洗濯が出来ないくらいでは、損なわれることのないその魅力は確かに素晴らしいものだけれど、凡人にはちょっと付き合い切れない部分がある。
「あたしはどっちかって言えば、リックさんみたいな人が良いわ。高級取りだし、優しいし、紳士的だし、真面目だし、イケメンだし」
「だ、だめー!」
思わぬところで反対の声が上がって顔を向ける。ネネがあたしを見上げている。ティナたちも、あらあらと可笑しそうに笑っている。
「あら、ダメなの?」
あたしは何となく意地悪な笑みを浮かべてしまう。ネネは、だめ!と首を横に振った。
「ローサお姉ちゃん、可愛いし綺麗だもん。だからお姉ちゃんに、好きって言われたらリックさんも好きになっちゃうもん!」
「あらあらネネは、リックが好きなのねぇ」
クイリーンさんがくすくすと笑いながら言えば、ネネははっと我に返ると真っ赤になって固まってしまった。黒い猫の尻尾がぴんっと伸びて同じように固まっている。
まあ確かにマヒロさんの護衛騎士であるリックさんは、ネネくらいの年齢にしてみれば、幼い少女が呆気無く恋に落ちてしまうにはぴったりの人だ。騎士らしい鍛えられた体躯とすらりと高い背、真面目で誠実で優しい性格、顔も優しげなイケメンだ。その上、護衛騎士というエリートの中のエリートだ。
「リック騎士のどこが好きなんですか?」
ハリエットが穏やかに問いかける。茶化す色の無い言葉にネネは、真っ赤な顔であたしたちを見た後、おずおずと口を開いた。
「……あのね、とっても優しいところ。まだ貧民街にいた時に、助けてって言ったら、守るよって……私の剣もマントもそのためにあるんだよって言ってくれたの。それがね、その言葉がね、とても嬉しかったの」
ネネは恥ずかしそうにぼそぼそと告げた。
「リックさんは大人の騎士様で、私は子どもだから、ぜんぜん、そういう風に見てもらえないけど、でも……すきなの」
十一歳でも女は女だ。
どれだけ幼くたって、恋をすれば少女は女になる。と前にクイリーンさんが言っていたけど、まさにその通りだと思った。
「もう可愛いっ!」
あたしは思わずネネを抱き締めた。ネネが吃驚して黒く細い尻尾がぶわっと大きくなった。
「大丈夫よ、あたしはリックさんに恋をしている訳じゃないから、ネネを応援するわ。でも、パパには内緒にしておきな? パパったらネネがそんなことを言い出したらリックさんに何をするか分かったもんじゃないもの」
「私も応援するわ」
「わ、私も!」
「お姉さんも応援してあげる。お姉さんの仕入れた情報によれば、リックさんは今、モテ期でしょっちゅう告白されているみたいだけど」
「え」
ネネがあからさまにしゅんとしてしまう。だが、クイリーンさんは、でもね、と先を続ける。
「まだ護衛騎士になったばかりで未熟な身だからってぜーんぶお断りしてるんですって。ネネはまだ子供だけどもうすぐ十二歳でしょ? それにあと三、四年すればローサたちと同じ年になるんだもの、チャンスはあるわ。あの真面目さからして、リックさんは本当に今は騎士として成長することに重きを置いているのよ、だから、ネネが十六歳の可愛い盛りに、漸く周りを見る余裕も出来るんじゃないかしら」
「な、なら、それまでにお料理とかお裁縫とかお掃除とか、上手に出来るようになったらリックさん、お嫁さんにしてくれるかな?」
ネネの問いかけにクイリーンさんは、ふふっと優しく笑う。
「それはネネの努力次第ね」
「私、頑張る」
ネネがぎゅっと小さな手で拳を作って言った。
横から覗き込んだ小さな顔には、希望と不安と色んなものが綯い交ぜになっているけれど、リックさんへの一途な愛情がネネをいつもの数倍、輝かせて見せた。これは本当にパパが知ったら厄介そうだから、黙って置こうと思う。でも、ママと義姉さんには教えちゃおう。
「お姉さんたちは見守っていてあげるから、頑張んなさい」
「うん!」
ネネは嬉しそうに頷いた。あたしは、ぽんぽんとその頭を撫でる。妹って可愛い。
「じじ、実は、わ、私も気になっている方が、いて……」
唐突にハリエットさんが真っ赤な顔で口を開いた。
隣に座るティナが、そうなんですか?と顔を輝かせた。女の子は恋の話が大好きなのだ。
「誰だれ? 同じ職場の人?」
私も身を乗り出す勢いで尋ねる。ネネも爛々と目を輝かせてハリエットを見ている。
「き、騎士の方です。あのインサニアの事件の時に、とても優しくしてくださって……」
ハリエットさんは、真っ赤になって顔を俯けてしまった。ネネを見習い自分で言い出したはいいけど、恥ずかしくなっちゃったみたい。ティナが、大丈夫ですか、と彼女に冷たい果実水を差し出す。ハリエットさんは、それを受け取ると頬の熱を冷まそうとそれを飲む。
「前から素敵な方だなって思っていたんです。凄く気さくで、明るい方で……ちょっとそそっかしいところもあるけど、そういう所も含めて魅力的な方なんです」
「……もしかして、エドワードさんですか?」
「ぴゃっ!」
ティナの指摘にハリエットさんが変な鳴き声を上げた。
だが冷たい果実水ではどうにもならないくらいに真っ赤になったハリエットさんは、ティナの言葉を肯定しているのと同じだった。クイリーンさんとあたしは「ふーん」とニヤニヤしてしまう。
「ちがっ、わなくは、ないんですが……っ! あの、その、私は本当に、別にどうなろうとかは考えていなくてですね……っ」
「見ているだけでいいの?」
ハリエットさんは、こくりと頷いた。黒い髪がさらさらと紅い頬を撫でる。
「私は見ているだけで、いっぱいいっぱいなんです」
白い手が赤くなった頬を押さえる。
なんでこう、恋をしている人は可愛くなるのか。
「エドワードさん、デートに必ず愛馬を連れて来ますけど、大丈夫ですか?」
ティナが真剣な顔で言った。ちょっとというか大分天然なところのあるティナだけど、その顔は真剣で冗談を言っている様子ではない。
「エドワード騎士が重度の馬愛好家なのは知っています……しゃ、社交辞令なのは分かっていますが、前に乗馬の練習に誘って下さったんです。その時は暗い地下室に捕まっていて、それで私を元気づける為に色んな話をしてくれて、ご自身も地下に囚われて、その上、理不尽に除籍されていたのに私を気遣ってくれて、守ってくれて……好きに、なってしまったんです」
ハリエットさんは、両手で頬を押さえて消え入りそうな声で言った。
「エドワードさんにハリエットちゃんは勿体無い気がするけど、本人が好きってものは仕方ないわね」
クイリーンさんの言葉にあたしも思わず頷いてしまう。
エドワードさんは、決して悪い人ではない。はっきり言ってイケメンだしリックさん同様、騎士としても素晴らしい人だ。時々、暴走するのがあれだが、性格的にもハリエットさんの言う通り、気さくで明るく元気で人懐こくて問題はない。だが、本当に重度の馬愛好家だ。彼の愛馬のシルフと結婚すると言い出したって誰も驚かないくらいには、愛馬をこよなく溺愛している。
「あーあー、いいなぁ、あたしも恋がしたい……っ!」
あたしは羨ましくなって、ネネを抱き締めながら言った。
「まさかティナに先を越されるなんて思ってなかったもん。いいよねぇ、イチロさん。すっごく優しいし、お金持ちだし! ちょっと背は低いけど、弓の腕前はかなりものでしょ?」
「え、ええ」
急に自分の話題になったティナが、ぎこちなく頷いた。
「彼、凄く感情表現がストレートよね。それに可愛い顔してるけど、流石はあの神父さんの右腕だけあって優秀な人だわ。彼は採集クエストをロボたちの散歩がてら受けてくれるんだけど、確実にこなしてくれるもの」
クイリーンさんがしみじみと言った。するとハリエットさんも、そうなんです、と顔を上げる。
「マヒロ神父様は、とっても優秀な方でお一人で三人、いえ、五人分くらいの働きをなさる方なんです。だから本当に忙しい時は、リック騎士とエドワード騎士だけではサポートしきれなくて、臨時の事務官がつくんです。でも、イチロ神父様もお一人で事務官五人分くらいの働きをなさるので、イチロ神父様がいないとマヒロ神父様をサポートしきれないんです」
恋人が褒められたティナは、どことなく嬉しそうだ。彼女から落ちる花びらの量が少し増えている。
「イチロさんは、努力の人なんです。それをあまり表には出さないだけで、最近はお薬の研究も始めて、温室でも色んな種類の植物を育てているんですよ」
ティナが言った。その顔は恋する乙女そのものだ。彼女から零れる花びらの色がふわりと色を濃くする。
「ねえねえ、ティナ。前から聞こうと思ってたんだけど……」
あたしはネネの猫耳を両手で覆って、話が聞こえないようにして身を乗り出す。「お姉ちゃん、おもいー」とネネが不満げに尻尾を揺らしたが、加減はしているので我慢してもらう。
「エッチはもうしたの? 痛かった?」
あたしの言葉にきょとんとして首を傾げたティナは、数秒後、ぼふんと音でも聞こえて来そうなほど一気に赤くなった。あたしの髪や熟れたトマトよりも赤いかもしれない。何故かとなりのハリエットさんまで同じだけ赤くなって固まっている。
「なっ、ロっ、いっ」
ティナが、羞恥にわなわな震えだす。ネネが、聞こえないーとあたしの手を引っぺがそうとする抵抗は受け入れない。お子ちゃまには早い。
「だって一緒に暮らしてるし、一緒に寝てんでしょ?」
「ね、寝てるだけよっ!」
ティナが真っ赤な顔で叫んだ。ぶわわっと溢れた花びらが辺りに散らばって、ピオンとプリムがその中で転げ回っている。
「き、き、キスだって、唇へのキスは、ま、まだなんだから……っ」
ぷるぷるしながらティナが、小声で言った。その言葉にクイリーンさんとあたしは「はぁあ!?」と驚きの声を上げた。ハリエットさんはまだ真っ赤なまま固まっている。
「もうっ、重いの! 私もティナお姉ちゃんのお話聞きたい!」
ネネが油断したあたしの手をぺっと引っぺがした。尻尾はぶんぶんと不機嫌そうに揺れていたが、真っ赤で固まるティナを見つけて、菫色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「ティナお姉ちゃん、風邪?」
「恥ずかしくて赤くなってるだけ、それより、嘘でしょ? イチロさん、ティナのこと大好きって全身で言ってるし、挨拶のキスはしてるじゃない」
この国では基本的に頬や額、目じりなんかに親愛のキスをするのは家族や恋人、親しい友人間では普通のことで、出身地不明の神父様たちだってそれは同じだ。マヒロさんなんか、可愛いが溢れる度にミアやサヴィラにキスをしていて、二人もそれをくすぐったそうに受け止めて、お返しをしている。あの親子は皆、顔が良いので絵になる光景だ。
いや、違う。混乱のあまり話が逸れた。
「仕事中だってお構いなしに見習い君はティナにキスしてるじゃない。毎日の送り迎えだって甘いのなんの」
クイリーンさんは呪文を唱えて作った氷をグラスにいれて果実水を注いで、ティナとハリエットさんに渡しながら言った。
二人はそれをお礼を言って受け取り、ハリエットさんはこくこくと飲んで、ティナは冷たいグラスを熱を持つ頬に当てた。
そうしてティナが、しょんぼりと肩を落として呟いた。
「……私が、悪いんです」
急に温度の下がった声と言葉にあたしたちは顔を見合わせる。ネネが心配そうにティナを見ている。
ティナは、頬に当てていたグラスを両手でぎゅっと握りしめて顔を俯ける。
「孤児院が開院してから暫くしてお仕事が落ち着いたからってイチロさんが花畑に私を誘って下さったんです。凄く素敵な場所で、私が作ったお弁当も美味しいって言ってくれて、それで……そういう雰囲気になったんですけど私、怖くなってしまって出来なかったんです」
「無理矢理だったの?」
ぶんぶんとティナが首を横に振った。
「違います、全然、そんなことはなくて……イチロさんは凄く優しくて、私が怖がらないようにたくさんの思い遣りを感じました。でも、私……わたしっ、あの時のことを思い出して、怖くなって泣いてしまったんです……っ」
ティナの大きな青い瞳から、ぽろりと涙が溢れて白い頬を濡らした。ティナは、それをすぐに拭って涙を我慢するように一度、唇を噛んだ。
「イチロさんに大丈夫って言ったんですけど、私、涙が止まらなくて、イチロさんに謝らせてしまって……っ、それから、何度かそういう雰囲気になったんですけど、どうしても出来なくて、その度にイチロさんに悲しい顔をさせてしまって」
「……どうしてそんなに怖いの? あの時のことって?」
クイリーンさんが気遣わし気に問いを重ねた。ハリエットさんが、そっとティナの背中を撫でる。
「ティナ、去年、暴漢に襲われたんですよ」
言葉を詰まらせたティナの代わりにあたしが応える。クイリーンさんとハリエットさんがぱちりと目を瞬かせて、ティナを振り返った。ティナが、こくりと頷く。
「そいつ、ずっとティナを狙ってたんです、でもその時はまだフィオナさんがいつも一緒だったからティナがお遣いに出て一人になったのを狙ってティナを自分のものにしようとしたんです」
フィオナはティナのお姉ちゃんだ。
見た目こそティナとよく似たフィオナさんだけど、中身はどっちかっていうと正反対だ。
ティナは誰が見ても正統派の美少女で小さい頃から変な男とか素直になれないクソガキに声を掛けられることが多くて、あたしとフィオナさんで蹴散らしたものだった。
「路地裏に引っ張り込まれて、押さえつけられて色々言われてキスされそうになって……でも、ピオンが男の人の顔を引っ掻いて、それで男の人が悲鳴を上げたから私、その隙に逃げ出したんです。通りに出たら丁度、冒険者さんがいて私の様子と男が喚き散らしていた言葉から、私の味方をして男の人を倒してくれたんです。男の人は、駆け付けた騎士さんに引き取られていきました」
ティナが主を心配して彼女の肩の上に乗ったピオンの小さな頭を撫でた。プリムは反対側の肩で心配そうにしている。
「もしかして、それで冒険者ギルドの受付嬢になったの?」
クイリーンさんが首を傾げた。ティナは、少しだけ笑って、はい、と返事をする。
「実は助けてくれたのが、ウォルフさんとカマラさんでした。それで少しでもお役に立ちたいなと思って受付嬢の採用試験に応募したんです。あれから男の人に迫られるのは怖くて、ちょっと苦手だったんです。でも、いつもピオンが守ってくれていたし、冒険者さんたちはあの男の人みたいに無理強いはしなかったですし、カウンター越しなら全然平気なんです」
ティナに呼ばれたと思ったのか花びらで遊んでいたピオンがティナの膝に乗った。
「ただ声を掛けられているだけなのに怖くて、触られそうになると息が詰まって……だから、私、恋なんてもう出来ないかも知れないって思ってたんです。でも……でも、初めて会ったあの日、イチロさんの笑顔は凄く優しくて」
ティナの頬にまた朱が走る。
「イチロさんの容姿があんまり男性を感じさせないのも良かったんだと思います。でもそれ以上にイチロさんは凄く紳士的で優しくて、あたたかい人なんです。私、イチロさんなら触られても全然、平気なんです。抱き締めてもらえると嬉しいですし、挨拶のキスもドキドキしますけど、怖くはないんです。でも、どうしても唇へのキスをしようとすると、あの時のことを思い出してしまって……」
「あの時のことはイチロさんに話したの?」
あたしの問いにティナは、ふるふると首を横に振った。
「言えないんです……どうしても」
しゅんと肩を落としたティナにあたしたちは顔を見合わせた。
「イチロさんなら、話しても大丈夫だと思うよ?」
あたしの言葉にネネが力強く頷いていた。
でも、ティナの表情は晴れない。
「怖いんです……イチロさんとあの男の人は全然違うのに、重ねて見てしまっているなんて知られたら面倒くさいって思われちゃうかも知れないです。イチロさんは私よりもずっと大人で、なのに私はキス一つ満足にできない子どもなんです」
ティナがくすんと鼻を啜った。ハリエットさんが慰めるようにティナの背中をぽんぽんしている。
「でもね、ティナ。案外、言葉にしたほうが相手を傷付けないこともあるのよ?」
クイリーンさんが言った。
ティナが顔を上げ、皆が彼女を振り返る。
「今の状態だと見習い君は、訳も分からず貴女に拒絶されているってことでしょ? 好きな人に拒絶されるのって悲しいことよ? ティナがそう思っているようにね。ほんの少しの勇気で変わることもあるのよ、ティナ」
ティナは、はい、と心細い声で答えた。
クイリーンさんは、手を伸ばしてティナの頭をぽんぽんと撫でた。
「キスもその先も、焦ることなんて一つもないのよ。結局、全ての負担を請け負うのは女だし、子どもが出来れば命だって危なくなることだってあるの。嫌なものは嫌って言って良いし、無理なものは無理って言って良いの」
あたしはネネの耳を塞ごうかと思ったけどやめた。貧民街で生きて来たネネは、多分、あたしより女の現実を知っている。
「大事なのはそういった場面になったとき、それを相手に言えるだけの信頼関係を築くことよ。それには年月だってもちろん必要だけど、言葉だって必要なの。ただ拒絶するだけじゃだめよ、何がどうして何で駄目なのかを言わなくちゃ。相手は言葉の通じない魔獣じゃないんだからね」
クイリーンさんが少しだけおどけたようにウィンクをする。
「見習い君だってあんなに可愛いけど若い男だもの。我慢していることはあると思うけど、でも何より貴女が大事だから待っていてくれるの。男と女じゃどうやったって腕力じゃ敵わないもの。彼が本気を出したら無理矢理することだってとっても簡単よ? でも、そうしないのは見習い君にとってティナが何より大事な人だからだと私は思うわ」
ふわりと包み込むような優しい笑顔にティナは少しだけ表情を緩めて頷いた。
「一度ゆっくりと話してごらんなさい。悩んでいるよりその方がさっさと解決するのが世の常よ」
「……はい」
ティナは、クイリーンさんの言葉を噛み締めるように頷いた。
「……ふぇっ、ううっ」
その時だった。ベッドから苦しそうに呻く小さな声が聞こえて、あたしとネネは咄嗟にそちらを振り返った。ネネがすぐに立ち上がってベッドに駆け寄る。
「ぅうっ、んー、やだあっ」
ミアの苦しそうな声が今度は、はっきりと聞こえてあたしたちは立ち上がってベッドに駆け寄る。
どうやらミアは、夢に魘されているようだった。小さな体を更に小さくして縮こまり、白い兎の耳はぺたりと伏せられ、愛らしい顔は悲しそうに歪んでいる。
「ミア、ミア、どうしたの?」
ネネがミアを揺さぶって起こす。ティナがベッドに上り、反対側に腰を下ろした。
ミアがゆっくりと目を覚まし、辺りを見回すと体を起こした。ぺたりとベッドに座り込んだミアは、きょろきょろと当たりを見回した後、くしゃりと顔を歪めた。
「パ、パパぁ……っ」
ひっくひっくと泣き出してしまったミアをティナが、よしよしとあやすように抱き寄せた。
「どうしたの、ミア」
「パパ、パパぁっ」
しかし、ミアはティナの問いに答える余裕はないみたいでぽろぽろと涙を零す。ハリエットさんが果実水をグラスに入れて持ってきてくれて、ネネがミアに飲ませようとするが、ミアはいやいやをしてパパを呼ぶ。ネネは果実水を諦めると、傍にあったミアのウサギのぬいぐるみを渡した。ミアはそれをぎゅうと抱き締める。眠る前にミアが自分とお揃いのパジャマに着替えさせたウサギはきつく抱き締められて少し苦しそう。
「怖い夢でも見たのかしら……」
「かもしれません。今も時々、夜中にマヒロさんがミアちゃんを抱えてお庭をお散歩していることがあるので」
ティナがミアの髪を撫でてあやしながら言った。
ミアは、声を上げて泣く訳ではないけれど、しくしくと小さな頬を涙で濡らして、か細い声で何度も何度もパパを呼ぶ。
それから暫く、皆であやしてみたけれど、どうやってもミアは泣き止まない。何度かミアはティナと一緒にこうしてお泊りに来ているけれど、こんなことになったのは初めてだわ。
「そうだ、サヴィ、呼んでこようか?」
そういえば隣にはミアの兄であるサヴィラがルイスたちに強請られて隣の孤児院でお泊りをしているのをあたしは思い出した。
「もう九時過ぎだし、サヴィくんは寝てるわよ」
「な、なら、神父様を呼んできましょうか?」
クイリーンさんが首を横に振って、心配に眉を下げて困り顔のハリエットさんが提案する。
「ミアちゃん、今夜はパパのところに私と一緒に帰ろうか」
ティナがミアを優しく問いかける。ミアは、暫しの間を置いて、こくん、と頷いた。
「ネネちゃん、私、着替えるからちょっとミアちゃんをお願いできる?」
「分かった、ミア、おいで」
ネネが腕を伸ばせば、ミアは大人しくそこに収まった。でも、収まっているだけで抱き着いたりはしない。小さくなってまるで目に見えない何かから自分と腕の中のウサギのぬいぐるみを護ろうとしているように見えた。
ベッドから降りたティナが荷物の中からワンピースを取り出して着替えるとこちらに戻って来て、ミアに自分のカーディガンを着せた。まだ音の月だからカーディガンを着ていれば寒くない。
「ピオン、プリム、おいで、ここに入って」
ティナが呼べば二匹はすぐにティナが口を開けていた鞄の中に飛び込んだ。
「ティナ、一人で帰るのは危ないから私が一緒に行きましょうか?」
クイリーンさんが言ったが、ティナは首を横に振った。
「下で誰かに頼みます」
確かにまだこの時間だったら、一階の食堂で冒険者たちが酒と食事を楽しんでいる。うちに泊まる冒険者はパパとレイ兄さんと何よりママが怖いのでティナを傷付けるような真似は絶対にしない。
「あ、今日なら多分、クリフとかウォルフとかいるはずだけど、あ、なんだったらヴィート兄さんを使いなよ。そこらへんの冒険者より強いし」
「ありがとう、ヴィートさんなら安心ね。さあ、ミア、行きましょ。抱っこする?」
ネネの腕から出て、ベッドから降りたミアはティナのスカートを握りしめてふるふると首を横に振った。ミアは片腕でウサギのぬいぐるみをぎゅうと抱き締めたままだ。
「見送りはいいからね。皆、おやすみなさい。またね」
「うん、おやすみ。気を付けてね」
「ミア、またね!」
「ミアちゃんもおやすみなさい」
「お二人ともお気をつけて」
ティナはひらひらと手を振って鞄を肩に掛け直すとミアの背に手を添えて部屋を出て行った。ドアが閉まれば二人の姿は見えなくなる。
あたしの部屋、というかあたし達家族の家は山猫亭の最上階にある。数年前に昇降機を導入したから階段を使う必要はない。一階の厨房の奥に乗り場があって一気に上まで来られるので便利よ。ただあたしたち家族専用なので他の階には止まらないのがちょっと不便だけどね。
「ミアちゃんもティナも大丈夫かしらねえ」
クイリーンさんが元の場所に戻りながら言った。あたし達もそれに続いて、さっきまで座っていた場所へと戻る。ネネはあたしの隣に座った。
「大丈夫よ、だって神父様はどっちも凄いもん」
ネネが小さな胸を張って、まるで自分のことのように誇らしげにしている。
ネネもそうだけど、孤児院の子どもたちは兎にも角にもマヒロさんとイチロくんが大好きで、彼らが遊びに来ると我先に飛びつきに行く。
ハリエットさんが果実水を飲みながら「そうですね」と頷く。
「そうね、ミアちゃんはパパの腕の中に帰ればそれで万事解決だわ。ミアちゃんにとってパパの腕の中はこの世で一番、安心できる場所だものね」
ワインを飲みながらクイリーンさんが笑う。
「でも、ティナさんは大丈夫でしょうか。随分と思い悩んでいらっしゃったようですけど」
ハリエットさんが心配そうに眉を下げた。
「大丈夫よ。誰が見たって見習い君は、ティナにべた惚れだもの。彼って可愛い顔してるけど男だもの。さっきも言ったけど男としての欲求だって下心だってもちろんあるでしょうに、ティナの前では可愛い男の子のままでいてくれているのよ。まあ彼も少し臆病な所があるのかも知れないけど」
ふふっとクイリーンさんは笑った。それはあたしとハリエットさん、ましてやネネでは絶対にまだ浮かべられない、大人の女っていう感じの笑みだった。
クイリーンさんにしてみれば、ティナもイチロさんもあたしたちもまだ彼女の人生の半分も生きていないもんね。だからあたしたちには分からない心の繊細な機微ってものが分かるのかもしれない。男と女の難しい心もね。
「クイリーンさんは、カロリーナ小隊長と同じくらいに素敵です」
「あら、ありがとう」
うふっとクイリーンさんはウィンクを一つハリエットさんに贈った。
「……クイリーンさん」
ネネが急に真剣な顔になってクイリーンさんににじり寄って行く。クイリーンさんが、どうしたの?と首を傾げた。
「どうやったらお胸は大きくなりますか?」
「あたしも知りたい!」
思わずあたしは手を挙げて、ネネに賛同を示した。
クイリーンさんが自分の胸に視線を落とす。ティナもそうだがクイリーンさんも大きなおっぱいをお持ちだ。
あたしの控えめな胸はママの遺伝かもしれないけど、あたしはまだ十七歳、まだなんとかなるような気がする。いや、してみせる。
「私のは遺伝かしらねえ。ハリエットちゃんもさっきお風呂で見たけど、着やせするタイプで結構あるわよね」
その言葉にネネが猫らしい俊敏さでハリエットさんの胸を掴んだ。
「ひゃっ!」
真っ赤になるハリエットさんを他所にネネが驚愕の顔で振り返る。
「ローサお姉ちゃん、ハリエットさんも大きい……」
「よし、ネネ。今夜はこの二人から、胸を大きくする極意を得るまで寝かせないわよ」
「もちあたぼーよ!」
あたしとネネの決意にハリエットさんは、オロオロしていたけれど、クイリーンさんは、あははっと可笑しそうに笑っていたのだった。
―――――――――――――
ここまで読んで下さってありがとうございました!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、やる気と意欲を頂いております!
恋する乙女は可愛いですよね♪
次回は、一路くん視点でお送りします。(予定)
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
メンバーは、ティナ、ミア、ネネ、クイリーンさんにハリエットさん。
クイリーンさんは、ティナの先輩受付嬢で、ティナを通して仲良くなったの。エルフ族の彼女は年齢不詳でママが子供の頃から受付嬢をしていたし、更に言えば、ママのママ、つまりあたしのおばあちゃんの時代も受付嬢をしていたって言ってたけど、エルフ族だから不思議ではないわね。エルフ族はとっても長命でその分、クイリーンさんみたいに長いこと二十代前半くらいの容姿を保っているんだもの。
ハリエットさんは、水の月の事件の時に知り合って仲良くなったの。あたしとティナより四つ年上のお姉さんだけど、なんていうかティナと同じくらい小柄で可愛いの。カロリーナ小隊長さんって言って獅子系の獣人族の格好いい女性騎士の事務官をしているんだって。
本当は、新しく出来た義姉さんのエレナさんと妹のヘーゼルとアリスも誘ったんだけど、アリスが熱出しちゃってエレナさんたちの参加は次回に延期になっちゃったんだ。ヴィート兄さんとの出会いからプロポーズまでを根掘り葉掘り聞こうと思ってたけど、こればっかりはしょうがないわ。
「ミア、寝ちゃったね」
ベッドの上を覗き込みながらネネが言った。
大きなベッドの隅っこでミアがすーすーと寝息を立てていた。
あたしのベッドは、パパが買ってくれたんだけど、あたしをお姫様か何かと勘違いしている節のあるパパが買ってくれたベッドは大人が四人は余裕で眠れる大きなベッドで、その上レースの天蓋付き。正直、今でもどうかと思っているし、普通のベッドが良いんだけど、あたしを大好きなパパの善意を無下にする訳も行かないので今もそのまま使ってるの。だって拗ねるとすごく面倒だし、仕事も滞るんだもの。
「可愛い寝顔ねぇ。うちのギルドでも人気者なのよ」
クイリーンさんがワイングラスを傾けながら言った。
「そうなんですか?」
ハリエットさんが首を傾げる。ハリエットさんが飲んでいるのは果実水だ。あたしとティナとネネもおなじものを飲んでいる。
クイリーンさんは、ええ、と頷いてクリームチーズの乗ったクラッカーに手を伸ばす。
部屋に敷かれたラグの上、お風呂を済ませて寝間着姿のあたしたちは、ふかふかのクッションに座って自由に過ごしている。真ん中に置かれたお盆の上には、パパに作ってもらったちょっとした軽食がある。
あたしはミアに布団をかけてこっちに戻って来たネネを膝に抱える。ネネは十一歳だけど細っこくて小さいし、あたしは背が高い方なのでまだ膝に抱えられるのだ。あたしはずっと妹が欲しかったから妹が出来たみたいでとっても可愛い。
「神父さんはお忙しい方だから討伐とか採取クエストは受けないでしょ? それで雑務クエストを受けるんだけど、大抵、ミアちゃんとサヴィくんを連れて来て、一緒に行くのよ。雑務クエストは討伐や採取と違ってそこまで厳しい規律は無いし、要は町のお手伝いだからね。ミアちゃんとサヴィくんと神父さんと護衛騎士のリックと一緒にいくことが多いんだけど、仕事も丁寧だし、子どもたちは可愛いしで雑務クエストなのに神父さんに指名がくるのよ」
「特におじいちゃん、おばあちゃんに人気なんです。マヒロ神父さんは、若い女性からの依頼はあまり受けたがらないので」
「あー、前に付き纏いにあったとか、夜這いにあったとか言ってたもんね」
あたしはティナの言葉に頷き、果実水の入ったグラスに口をつける。膝の上のネネが、私も、と強請るので仕方がない、と中身を足してからネネにグラスを渡した。
「神父さんって苦手なこととかなさそうですよね。執務室で仕事の傍ら、ミアちゃんやサヴィくんのお洋服を作ったり、ミアちゃんの玩具を作ったり、片手間に魔導具を作っているんですけど、どれもこれも素晴らしい出来なんですよ。特に今月の頭から導入された小鳥型伝言用魔導具は本当に便利なんですよ」
「あの小鳥さん、本当に便利ですよね。でもマヒロ神父さん、お掃除とお洗濯とお料理の腕は壊滅的だってイチロさんが言ってましたし、事実、先日も色々やらかしてイチロさんに怒られてましたよ」
ティナがくすくすと笑いながら言った。ふわふわと落ちる花びらをピオンとプリムが一生懸命捕まえようとしている。
ハリエットが、そうなんですか?と驚いたような仕草を見せた。彼女は目が悪いので分厚い眼鏡を掛けていて、その表情はよく見えないが、割と感情が色んなところに出るので分かりやすい。
「はい。お屋敷を掃除した時も絨毯を台無しにしてみたり、ハタキでシャンデリアを壊してみたり、教会の鉄門が吹っ飛んでいたのはマヒロ神父さんが蹴り飛ばしたからだそうです」
ティナが苦笑交じりに告げた言葉にあたしもあの顔だけは文句がつけようのないくらいに綺麗な神父様のことを思い浮かべた。
「そういえば、ローサは神父様にお熱だったってソニアが言っていたけれど」
クイリーンさんが突然、そんなことを言い出した。
「そうなの? ローサお姉ちゃん、神父様が好きなの?」
ネネが菫色の瞳を輝かせてあたしを見上げる。
「人としてはね。そりゃあ、あんなイケメン早々いないから、最初は恋しそうになったけど、あの人、既婚じゃない」
「確かに。神父さんの奥様、とってもお綺麗な方なんですよ」
ティナがふわふわ笑いながら言った。
「そうそう、それにあの神父様は、あたしの手には負えないわ。あの人は、観賞用としてキャーキャー言っているほうが幸せよ」
ローサは、降参の意味も含めて両手をひらひらと振った。ティナたちが、確かに、と頷いてくれた。
マヒロはあれもこれも出来過ぎるのだ。料理と掃除と洗濯が出来ないくらいでは、損なわれることのないその魅力は確かに素晴らしいものだけれど、凡人にはちょっと付き合い切れない部分がある。
「あたしはどっちかって言えば、リックさんみたいな人が良いわ。高級取りだし、優しいし、紳士的だし、真面目だし、イケメンだし」
「だ、だめー!」
思わぬところで反対の声が上がって顔を向ける。ネネがあたしを見上げている。ティナたちも、あらあらと可笑しそうに笑っている。
「あら、ダメなの?」
あたしは何となく意地悪な笑みを浮かべてしまう。ネネは、だめ!と首を横に振った。
「ローサお姉ちゃん、可愛いし綺麗だもん。だからお姉ちゃんに、好きって言われたらリックさんも好きになっちゃうもん!」
「あらあらネネは、リックが好きなのねぇ」
クイリーンさんがくすくすと笑いながら言えば、ネネははっと我に返ると真っ赤になって固まってしまった。黒い猫の尻尾がぴんっと伸びて同じように固まっている。
まあ確かにマヒロさんの護衛騎士であるリックさんは、ネネくらいの年齢にしてみれば、幼い少女が呆気無く恋に落ちてしまうにはぴったりの人だ。騎士らしい鍛えられた体躯とすらりと高い背、真面目で誠実で優しい性格、顔も優しげなイケメンだ。その上、護衛騎士というエリートの中のエリートだ。
「リック騎士のどこが好きなんですか?」
ハリエットが穏やかに問いかける。茶化す色の無い言葉にネネは、真っ赤な顔であたしたちを見た後、おずおずと口を開いた。
「……あのね、とっても優しいところ。まだ貧民街にいた時に、助けてって言ったら、守るよって……私の剣もマントもそのためにあるんだよって言ってくれたの。それがね、その言葉がね、とても嬉しかったの」
ネネは恥ずかしそうにぼそぼそと告げた。
「リックさんは大人の騎士様で、私は子どもだから、ぜんぜん、そういう風に見てもらえないけど、でも……すきなの」
十一歳でも女は女だ。
どれだけ幼くたって、恋をすれば少女は女になる。と前にクイリーンさんが言っていたけど、まさにその通りだと思った。
「もう可愛いっ!」
あたしは思わずネネを抱き締めた。ネネが吃驚して黒く細い尻尾がぶわっと大きくなった。
「大丈夫よ、あたしはリックさんに恋をしている訳じゃないから、ネネを応援するわ。でも、パパには内緒にしておきな? パパったらネネがそんなことを言い出したらリックさんに何をするか分かったもんじゃないもの」
「私も応援するわ」
「わ、私も!」
「お姉さんも応援してあげる。お姉さんの仕入れた情報によれば、リックさんは今、モテ期でしょっちゅう告白されているみたいだけど」
「え」
ネネがあからさまにしゅんとしてしまう。だが、クイリーンさんは、でもね、と先を続ける。
「まだ護衛騎士になったばかりで未熟な身だからってぜーんぶお断りしてるんですって。ネネはまだ子供だけどもうすぐ十二歳でしょ? それにあと三、四年すればローサたちと同じ年になるんだもの、チャンスはあるわ。あの真面目さからして、リックさんは本当に今は騎士として成長することに重きを置いているのよ、だから、ネネが十六歳の可愛い盛りに、漸く周りを見る余裕も出来るんじゃないかしら」
「な、なら、それまでにお料理とかお裁縫とかお掃除とか、上手に出来るようになったらリックさん、お嫁さんにしてくれるかな?」
ネネの問いかけにクイリーンさんは、ふふっと優しく笑う。
「それはネネの努力次第ね」
「私、頑張る」
ネネがぎゅっと小さな手で拳を作って言った。
横から覗き込んだ小さな顔には、希望と不安と色んなものが綯い交ぜになっているけれど、リックさんへの一途な愛情がネネをいつもの数倍、輝かせて見せた。これは本当にパパが知ったら厄介そうだから、黙って置こうと思う。でも、ママと義姉さんには教えちゃおう。
「お姉さんたちは見守っていてあげるから、頑張んなさい」
「うん!」
ネネは嬉しそうに頷いた。あたしは、ぽんぽんとその頭を撫でる。妹って可愛い。
「じじ、実は、わ、私も気になっている方が、いて……」
唐突にハリエットさんが真っ赤な顔で口を開いた。
隣に座るティナが、そうなんですか?と顔を輝かせた。女の子は恋の話が大好きなのだ。
「誰だれ? 同じ職場の人?」
私も身を乗り出す勢いで尋ねる。ネネも爛々と目を輝かせてハリエットを見ている。
「き、騎士の方です。あのインサニアの事件の時に、とても優しくしてくださって……」
ハリエットさんは、真っ赤になって顔を俯けてしまった。ネネを見習い自分で言い出したはいいけど、恥ずかしくなっちゃったみたい。ティナが、大丈夫ですか、と彼女に冷たい果実水を差し出す。ハリエットさんは、それを受け取ると頬の熱を冷まそうとそれを飲む。
「前から素敵な方だなって思っていたんです。凄く気さくで、明るい方で……ちょっとそそっかしいところもあるけど、そういう所も含めて魅力的な方なんです」
「……もしかして、エドワードさんですか?」
「ぴゃっ!」
ティナの指摘にハリエットさんが変な鳴き声を上げた。
だが冷たい果実水ではどうにもならないくらいに真っ赤になったハリエットさんは、ティナの言葉を肯定しているのと同じだった。クイリーンさんとあたしは「ふーん」とニヤニヤしてしまう。
「ちがっ、わなくは、ないんですが……っ! あの、その、私は本当に、別にどうなろうとかは考えていなくてですね……っ」
「見ているだけでいいの?」
ハリエットさんは、こくりと頷いた。黒い髪がさらさらと紅い頬を撫でる。
「私は見ているだけで、いっぱいいっぱいなんです」
白い手が赤くなった頬を押さえる。
なんでこう、恋をしている人は可愛くなるのか。
「エドワードさん、デートに必ず愛馬を連れて来ますけど、大丈夫ですか?」
ティナが真剣な顔で言った。ちょっとというか大分天然なところのあるティナだけど、その顔は真剣で冗談を言っている様子ではない。
「エドワード騎士が重度の馬愛好家なのは知っています……しゃ、社交辞令なのは分かっていますが、前に乗馬の練習に誘って下さったんです。その時は暗い地下室に捕まっていて、それで私を元気づける為に色んな話をしてくれて、ご自身も地下に囚われて、その上、理不尽に除籍されていたのに私を気遣ってくれて、守ってくれて……好きに、なってしまったんです」
ハリエットさんは、両手で頬を押さえて消え入りそうな声で言った。
「エドワードさんにハリエットちゃんは勿体無い気がするけど、本人が好きってものは仕方ないわね」
クイリーンさんの言葉にあたしも思わず頷いてしまう。
エドワードさんは、決して悪い人ではない。はっきり言ってイケメンだしリックさん同様、騎士としても素晴らしい人だ。時々、暴走するのがあれだが、性格的にもハリエットさんの言う通り、気さくで明るく元気で人懐こくて問題はない。だが、本当に重度の馬愛好家だ。彼の愛馬のシルフと結婚すると言い出したって誰も驚かないくらいには、愛馬をこよなく溺愛している。
「あーあー、いいなぁ、あたしも恋がしたい……っ!」
あたしは羨ましくなって、ネネを抱き締めながら言った。
「まさかティナに先を越されるなんて思ってなかったもん。いいよねぇ、イチロさん。すっごく優しいし、お金持ちだし! ちょっと背は低いけど、弓の腕前はかなりものでしょ?」
「え、ええ」
急に自分の話題になったティナが、ぎこちなく頷いた。
「彼、凄く感情表現がストレートよね。それに可愛い顔してるけど、流石はあの神父さんの右腕だけあって優秀な人だわ。彼は採集クエストをロボたちの散歩がてら受けてくれるんだけど、確実にこなしてくれるもの」
クイリーンさんがしみじみと言った。するとハリエットさんも、そうなんです、と顔を上げる。
「マヒロ神父様は、とっても優秀な方でお一人で三人、いえ、五人分くらいの働きをなさる方なんです。だから本当に忙しい時は、リック騎士とエドワード騎士だけではサポートしきれなくて、臨時の事務官がつくんです。でも、イチロ神父様もお一人で事務官五人分くらいの働きをなさるので、イチロ神父様がいないとマヒロ神父様をサポートしきれないんです」
恋人が褒められたティナは、どことなく嬉しそうだ。彼女から落ちる花びらの量が少し増えている。
「イチロさんは、努力の人なんです。それをあまり表には出さないだけで、最近はお薬の研究も始めて、温室でも色んな種類の植物を育てているんですよ」
ティナが言った。その顔は恋する乙女そのものだ。彼女から零れる花びらの色がふわりと色を濃くする。
「ねえねえ、ティナ。前から聞こうと思ってたんだけど……」
あたしはネネの猫耳を両手で覆って、話が聞こえないようにして身を乗り出す。「お姉ちゃん、おもいー」とネネが不満げに尻尾を揺らしたが、加減はしているので我慢してもらう。
「エッチはもうしたの? 痛かった?」
あたしの言葉にきょとんとして首を傾げたティナは、数秒後、ぼふんと音でも聞こえて来そうなほど一気に赤くなった。あたしの髪や熟れたトマトよりも赤いかもしれない。何故かとなりのハリエットさんまで同じだけ赤くなって固まっている。
「なっ、ロっ、いっ」
ティナが、羞恥にわなわな震えだす。ネネが、聞こえないーとあたしの手を引っぺがそうとする抵抗は受け入れない。お子ちゃまには早い。
「だって一緒に暮らしてるし、一緒に寝てんでしょ?」
「ね、寝てるだけよっ!」
ティナが真っ赤な顔で叫んだ。ぶわわっと溢れた花びらが辺りに散らばって、ピオンとプリムがその中で転げ回っている。
「き、き、キスだって、唇へのキスは、ま、まだなんだから……っ」
ぷるぷるしながらティナが、小声で言った。その言葉にクイリーンさんとあたしは「はぁあ!?」と驚きの声を上げた。ハリエットさんはまだ真っ赤なまま固まっている。
「もうっ、重いの! 私もティナお姉ちゃんのお話聞きたい!」
ネネが油断したあたしの手をぺっと引っぺがした。尻尾はぶんぶんと不機嫌そうに揺れていたが、真っ赤で固まるティナを見つけて、菫色の瞳をぱちりと瞬かせた。
「ティナお姉ちゃん、風邪?」
「恥ずかしくて赤くなってるだけ、それより、嘘でしょ? イチロさん、ティナのこと大好きって全身で言ってるし、挨拶のキスはしてるじゃない」
この国では基本的に頬や額、目じりなんかに親愛のキスをするのは家族や恋人、親しい友人間では普通のことで、出身地不明の神父様たちだってそれは同じだ。マヒロさんなんか、可愛いが溢れる度にミアやサヴィラにキスをしていて、二人もそれをくすぐったそうに受け止めて、お返しをしている。あの親子は皆、顔が良いので絵になる光景だ。
いや、違う。混乱のあまり話が逸れた。
「仕事中だってお構いなしに見習い君はティナにキスしてるじゃない。毎日の送り迎えだって甘いのなんの」
クイリーンさんは呪文を唱えて作った氷をグラスにいれて果実水を注いで、ティナとハリエットさんに渡しながら言った。
二人はそれをお礼を言って受け取り、ハリエットさんはこくこくと飲んで、ティナは冷たいグラスを熱を持つ頬に当てた。
そうしてティナが、しょんぼりと肩を落として呟いた。
「……私が、悪いんです」
急に温度の下がった声と言葉にあたしたちは顔を見合わせる。ネネが心配そうにティナを見ている。
ティナは、頬に当てていたグラスを両手でぎゅっと握りしめて顔を俯ける。
「孤児院が開院してから暫くしてお仕事が落ち着いたからってイチロさんが花畑に私を誘って下さったんです。凄く素敵な場所で、私が作ったお弁当も美味しいって言ってくれて、それで……そういう雰囲気になったんですけど私、怖くなってしまって出来なかったんです」
「無理矢理だったの?」
ぶんぶんとティナが首を横に振った。
「違います、全然、そんなことはなくて……イチロさんは凄く優しくて、私が怖がらないようにたくさんの思い遣りを感じました。でも、私……わたしっ、あの時のことを思い出して、怖くなって泣いてしまったんです……っ」
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ティナがくすんと鼻を啜った。ハリエットさんが慰めるようにティナの背中をぽんぽんしている。
「でもね、ティナ。案外、言葉にしたほうが相手を傷付けないこともあるのよ?」
クイリーンさんが言った。
ティナが顔を上げ、皆が彼女を振り返る。
「今の状態だと見習い君は、訳も分からず貴女に拒絶されているってことでしょ? 好きな人に拒絶されるのって悲しいことよ? ティナがそう思っているようにね。ほんの少しの勇気で変わることもあるのよ、ティナ」
ティナは、はい、と心細い声で答えた。
クイリーンさんは、手を伸ばしてティナの頭をぽんぽんと撫でた。
「キスもその先も、焦ることなんて一つもないのよ。結局、全ての負担を請け負うのは女だし、子どもが出来れば命だって危なくなることだってあるの。嫌なものは嫌って言って良いし、無理なものは無理って言って良いの」
あたしはネネの耳を塞ごうかと思ったけどやめた。貧民街で生きて来たネネは、多分、あたしより女の現実を知っている。
「大事なのはそういった場面になったとき、それを相手に言えるだけの信頼関係を築くことよ。それには年月だってもちろん必要だけど、言葉だって必要なの。ただ拒絶するだけじゃだめよ、何がどうして何で駄目なのかを言わなくちゃ。相手は言葉の通じない魔獣じゃないんだからね」
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「見習い君だってあんなに可愛いけど若い男だもの。我慢していることはあると思うけど、でも何より貴女が大事だから待っていてくれるの。男と女じゃどうやったって腕力じゃ敵わないもの。彼が本気を出したら無理矢理することだってとっても簡単よ? でも、そうしないのは見習い君にとってティナが何より大事な人だからだと私は思うわ」
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ティナは、クイリーンさんの言葉を噛み締めるように頷いた。
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「パパ、パパぁっ」
しかし、ミアはティナの問いに答える余裕はないみたいでぽろぽろと涙を零す。ハリエットさんが果実水をグラスに入れて持ってきてくれて、ネネがミアに飲ませようとするが、ミアはいやいやをしてパパを呼ぶ。ネネは果実水を諦めると、傍にあったミアのウサギのぬいぐるみを渡した。ミアはそれをぎゅうと抱き締める。眠る前にミアが自分とお揃いのパジャマに着替えさせたウサギはきつく抱き締められて少し苦しそう。
「怖い夢でも見たのかしら……」
「かもしれません。今も時々、夜中にマヒロさんがミアちゃんを抱えてお庭をお散歩していることがあるので」
ティナがミアの髪を撫でてあやしながら言った。
ミアは、声を上げて泣く訳ではないけれど、しくしくと小さな頬を涙で濡らして、か細い声で何度も何度もパパを呼ぶ。
それから暫く、皆であやしてみたけれど、どうやってもミアは泣き止まない。何度かミアはティナと一緒にこうしてお泊りに来ているけれど、こんなことになったのは初めてだわ。
「そうだ、サヴィ、呼んでこようか?」
そういえば隣にはミアの兄であるサヴィラがルイスたちに強請られて隣の孤児院でお泊りをしているのをあたしは思い出した。
「もう九時過ぎだし、サヴィくんは寝てるわよ」
「な、なら、神父様を呼んできましょうか?」
クイリーンさんが首を横に振って、心配に眉を下げて困り顔のハリエットさんが提案する。
「ミアちゃん、今夜はパパのところに私と一緒に帰ろうか」
ティナがミアを優しく問いかける。ミアは、暫しの間を置いて、こくん、と頷いた。
「ネネちゃん、私、着替えるからちょっとミアちゃんをお願いできる?」
「分かった、ミア、おいで」
ネネが腕を伸ばせば、ミアは大人しくそこに収まった。でも、収まっているだけで抱き着いたりはしない。小さくなってまるで目に見えない何かから自分と腕の中のウサギのぬいぐるみを護ろうとしているように見えた。
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ティナが呼べば二匹はすぐにティナが口を開けていた鞄の中に飛び込んだ。
「ティナ、一人で帰るのは危ないから私が一緒に行きましょうか?」
クイリーンさんが言ったが、ティナは首を横に振った。
「下で誰かに頼みます」
確かにまだこの時間だったら、一階の食堂で冒険者たちが酒と食事を楽しんでいる。うちに泊まる冒険者はパパとレイ兄さんと何よりママが怖いのでティナを傷付けるような真似は絶対にしない。
「あ、今日なら多分、クリフとかウォルフとかいるはずだけど、あ、なんだったらヴィート兄さんを使いなよ。そこらへんの冒険者より強いし」
「ありがとう、ヴィートさんなら安心ね。さあ、ミア、行きましょ。抱っこする?」
ネネの腕から出て、ベッドから降りたミアはティナのスカートを握りしめてふるふると首を横に振った。ミアは片腕でウサギのぬいぐるみをぎゅうと抱き締めたままだ。
「見送りはいいからね。皆、おやすみなさい。またね」
「うん、おやすみ。気を付けてね」
「ミア、またね!」
「ミアちゃんもおやすみなさい」
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ティナはひらひらと手を振って鞄を肩に掛け直すとミアの背に手を添えて部屋を出て行った。ドアが閉まれば二人の姿は見えなくなる。
あたしの部屋、というかあたし達家族の家は山猫亭の最上階にある。数年前に昇降機を導入したから階段を使う必要はない。一階の厨房の奥に乗り場があって一気に上まで来られるので便利よ。ただあたしたち家族専用なので他の階には止まらないのがちょっと不便だけどね。
「ミアちゃんもティナも大丈夫かしらねえ」
クイリーンさんが元の場所に戻りながら言った。あたし達もそれに続いて、さっきまで座っていた場所へと戻る。ネネはあたしの隣に座った。
「大丈夫よ、だって神父様はどっちも凄いもん」
ネネが小さな胸を張って、まるで自分のことのように誇らしげにしている。
ネネもそうだけど、孤児院の子どもたちは兎にも角にもマヒロさんとイチロくんが大好きで、彼らが遊びに来ると我先に飛びつきに行く。
ハリエットさんが果実水を飲みながら「そうですね」と頷く。
「そうね、ミアちゃんはパパの腕の中に帰ればそれで万事解決だわ。ミアちゃんにとってパパの腕の中はこの世で一番、安心できる場所だものね」
ワインを飲みながらクイリーンさんが笑う。
「でも、ティナさんは大丈夫でしょうか。随分と思い悩んでいらっしゃったようですけど」
ハリエットさんが心配そうに眉を下げた。
「大丈夫よ。誰が見たって見習い君は、ティナにべた惚れだもの。彼って可愛い顔してるけど男だもの。さっきも言ったけど男としての欲求だって下心だってもちろんあるでしょうに、ティナの前では可愛い男の子のままでいてくれているのよ。まあ彼も少し臆病な所があるのかも知れないけど」
ふふっとクイリーンさんは笑った。それはあたしとハリエットさん、ましてやネネでは絶対にまだ浮かべられない、大人の女っていう感じの笑みだった。
クイリーンさんにしてみれば、ティナもイチロさんもあたしたちもまだ彼女の人生の半分も生きていないもんね。だからあたしたちには分からない心の繊細な機微ってものが分かるのかもしれない。男と女の難しい心もね。
「クイリーンさんは、カロリーナ小隊長と同じくらいに素敵です」
「あら、ありがとう」
うふっとクイリーンさんはウィンクを一つハリエットさんに贈った。
「……クイリーンさん」
ネネが急に真剣な顔になってクイリーンさんににじり寄って行く。クイリーンさんが、どうしたの?と首を傾げた。
「どうやったらお胸は大きくなりますか?」
「あたしも知りたい!」
思わずあたしは手を挙げて、ネネに賛同を示した。
クイリーンさんが自分の胸に視線を落とす。ティナもそうだがクイリーンさんも大きなおっぱいをお持ちだ。
あたしの控えめな胸はママの遺伝かもしれないけど、あたしはまだ十七歳、まだなんとかなるような気がする。いや、してみせる。
「私のは遺伝かしらねえ。ハリエットちゃんもさっきお風呂で見たけど、着やせするタイプで結構あるわよね」
その言葉にネネが猫らしい俊敏さでハリエットさんの胸を掴んだ。
「ひゃっ!」
真っ赤になるハリエットさんを他所にネネが驚愕の顔で振り返る。
「ローサお姉ちゃん、ハリエットさんも大きい……」
「よし、ネネ。今夜はこの二人から、胸を大きくする極意を得るまで寝かせないわよ」
「もちあたぼーよ!」
あたしとネネの決意にハリエットさんは、オロオロしていたけれど、クイリーンさんは、あははっと可笑しそうに笑っていたのだった。
―――――――――――――
ここまで読んで下さってありがとうございました!
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恋する乙女は可愛いですよね♪
次回は、一路くん視点でお送りします。(予定)
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
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※スキルを本格的に使い出すのは二章からです。
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目の前に、女神を名乗る女性が立っていた。
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忙しくて自由のない女神の代わりに、異世界を楽しんでこよう♪
13話目くらいから話が動きますので、気長にお付き合いください!
最初はとっつきにくいかもしれませんが、どうか続きを読んでみてくださいね^^
※お気に入り登録や感想がとても励みになっています。 ありがとうございます!
(なかなかお返事書けなくてごめんなさい)
※小説家になろう様にも投稿しています
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小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。
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お知らせ
「転生者はめぐりあう」 始めました。
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注意
作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。
感想は受け付けていません。
誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。
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