称号は神を土下座させた男。

春志乃

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番外編 2

僕と君の恋患い 俺の主の悩みごと

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 今夜は珍しく広い屋敷に四人きりだった。いや、これでは語弊がある。もふもふ部隊は御在宅だ。
 ジョシュアさんとレイさんは冒険者の仕事で町の外へ出かけていて、プリシラさんと息子たちはジョシュアさんの実家にお泊り(じいじの希望)、ティナはミアを連れてローサのところにお泊り(女子会)、サヴィはルイスたちにたまには一緒にお泊りしようと誘われ孤児院に、庭師夫妻は既に庭にある家に帰ったので、広い屋敷は静かだった。
 夕食は、クレアさん一人では仕度も大変だろうと(何せ食い盛りの若い男ばかりだから量が半端じゃないのだ)今日は近所の食堂で済ませて家に帰り、風呂を済ませてさあ寝ようかという頃だった。

「明日は休みだし、子どもたちもいない。好きなだけ酒を飲む日があってもいいと思うんだ」

 そう言い出したのは、他でもないマヒロさんでいつもは口うるさいイチロとリックも「まあ、たまには」と許可を出し、マヒロさんがどこに隠していたのか美味しいワインやウィスキーを用意してくれて、俺とリックはおつまみを近所の食堂に行って買って来た。
 美味しそうなおつまみと沢山の酒をサロンに整えて、酒宴は開催された。
 俺は、ワインとチーズってなんでこんなに合うんだろうかと思いながらグラスを傾ける。
 美食家のマヒロさんの秘蔵のお酒だけあってワインもウィスキーも今までに飲んだことがないくらいに美味しかった。普段飲んでいる安酒とは比べ物にならない。
 イチロからマヒロさんの美食家具合は聞いていたがマヒロさんは本当に食事にうるさかった。不味いと絶対に食べない。騎士団の食堂の食事はどうにも口に合わなかったようで初日に一口食べて以来、絶対に食べようとしない。ただ厄介なことに腹が減ると普通に機嫌が悪くなるので、それに怯えた団長が自分の家のお抱えの料理人に毎日、料理を届けさせているほどだが、マヒロさんに料理を提供するようになってからその料理人の腕はかなり上がったらしく、今では領主様の家の料理人までマヒロさんに食事を提供しに来ている。自分は料理が全くできないのに、味にだけはうるさいのだ。この上なく面倒くさいよね、と以前イチロが呆れていた。

「マヒロさんって……酔うんですか?」

 ウィスキーのロックを飲みながらリックが尋ねる。
 ローストしたボヴィーニの肉のスライスがたっぷり挟まれたサンドウィッチを食べていたマヒロさんが指についたソースを舐めながら、考えるようなそぶりを見せた。最近、少しずつこの無表情の化身みたいな神父様の表情が読み取れるようになった気がする。気がするだけでまだ九割読めない。

「酔ったことは無いな。イチロは酔うと面倒だが」

「イチロは弱いんだったっけ?」

 エドワードが問いかけるとブランカをソファにしてケーキを食べていたイチロが顔を上げる。ちなみに俺とリックのソファはロボだ。ヴェルデウルフをソファにするなんて王族でも出来ない贅沢だと思う。あったかいしふわふわだし凄い。ちなみにマヒロさんは普通のソファに座っている。とはいえ、そのソファだって「座り心地が良いほうが良いに決まっている」というマヒロさんの考えで最高級品なのだが。基本、マヒロさんは金遣いが荒いというか大胆だ。貴族の俺よりずっと貴族の生活が似合っているし、板についている。

「僕はお酒は弱いですよ。それにお酒の味?っていうんですか? 苦みみたいのがあんまり好きじゃなくて」

「飲まないなら飲ませないほうが良いさ。酔うとこいつは只管に笑いながら人どころか犬にまで絡むし、多分、故郷の言葉を喋り出すからお前らとの会話は不能になるな」

「真尋くん、うるさいよ」

 イチロが顔を顰めるがマヒロさんは相変わらずの無表情でお構いなしだった。ロビンがマヒロさんの食べる肉をどうにかこうにか貰いたくて彼の目の前でお座りして、その膝に顎を乗せておこぼれを待っている。言っておくとテディだけが庭なんてことは無く、テディはジョシュアさんとレイさんの討伐クエストにお供していて不在だ。運動不足みたいだからとテディを押し付けられた二人の目は死んでいたが、彼らの身の安全の保障レベルが高くなったことは言うまでもない。

「お前たちは案外、強いな」

「まあ、騎士って結局、男ばっかりですから飲む機会も多いんで鍛えられるんですよ。でも俺よりリックの方が強いですよ。あんまり酔ったところは見たこと無いです。酔ってもちょっと顔が赤くなる位で、面白くないですよね」

「エディは泥酔するとキス魔になるんで気を付けて下さいね」

「エディさん、近寄らないでください。あとティナちゃんに今後一切絶対に近寄らないでください」

「ちょっ、本当に、本当にべろんべろんに酔っぱらった時だけだから! ゴミを見るような目で見るの止めよ!? ね! お願い!」

 俺は慌てて言い募る。リックは可笑しそうに笑っていてイチロは冷たい目を止めてくれない。マヒロさんを振り返ったが彼の表情からは何も読み取れなかった。

「ところでマヒロさん、三日か四日ほど前、領主様が真っ青な顔で廊下を走り去っていったんですが、何か心当たりはありますか?」

 リックが俺の慌てぶりなど無視してさっさと話題を変える。最近、相棒が冷たい。
 そういえばそんなことがあったな、と俺は「本当に大丈夫だから」ともう一度、イチロに念を押してマヒロさんに顔を向ける。マヒロさんは徐に煙草を取り出して火を点ける。

「ああ、あれか……あれは領主様が、」

 マヒロさんが息を吸えば煙草の先が赤白く光る。

「領主様が?」

「俺に再婚を勧めて来たから、少々、先日仕入れた領主様の弱みについてお話させて頂いただけだが?」

 ふっとマヒロさんが微笑った。
 あれだ。領主様はまたとんでもない失言をなさったようだ、と俺は相棒と共に頬を引き攣らせた。

「あれはヤバかったねぇ。僕、遂に領主交代かと思ったよ」

 あはは、と相変わらずイチロは暢気に笑いながらオレンジジュースを飲んでいる。

「ミアが駄目なら俺自身をと思ったんだろうな。生憎とここに俺の妻の姿はどこにも無いからな。領主様からすると善意だったんだろうが俺にとっては迷惑以外の何物でもない」

 ものすごくはっきりと言って、マヒロさんが紫煙を吐き出した。

「それは……領主様が悪いですね」

 我が相棒はにっこり笑って領主様を捨てた。残念ながら俺もマヒロさんのほうが絶対に(色んな意味で)強いので領主様の味方は出来ないかもしれない。俺と相棒は、他ならない神父様たちの護衛騎士だからな。……そもそもこの麗しの神父様は、一体、どんな弱みをどういった方法で入手したのだろう。怖くて聞けない。いや、これはあれだ。聞いちゃいけない奴だ。

「奥様といえば、先日、サヴィラが父様の奥様はとても美人だったと教えてくれたのですが、一度でいいからお姿を見せてくれませんか? 見てみたいです」

「俺は男には見せない主義だ」

 ぶれない。本当にこの人はぶれない。
 きっぱり言い切ったマヒロさんにリックが、そんなぁ、と声を上げた。

「マヒロさん、俺も! 俺も一度でいいんで見てみたいです!!」

 騎士団はマヒロさんが既婚だと知っている。だが、誰もその姿を見たことがないため、どんな人なのかと度々話題に上がっているのだ。今のところ絶対に美人で料理上手であのマヒロさんの妻になれるくらいだから器の大きな素晴らしい女性だろうと噂されている。

「マヒロさん、ちょっとだけ、ちょっとでいいですから、ね?」

 顔の前で手を合わせて前のめり気味にお願いする。リックもそんな俺を真似て同じように「お願いしますっ」と両手を合わせた。

「見せてあげなよ。エディさんとリックさんなら悪いようにはしないよ」

 見かねたイチロがそっと加勢をしてくれる。
 マヒロさんはあからさまに顔を顰めたが俺たちとイチロを交互に見た後、俺たちが引き下がらないと分かると、はぁぁと大きくため息を零してワイシャツの胸元に手を突っ込み、中から銀色のロケットを取り出した。

「……五秒な」

 至極嫌そうに言って、マヒロさんがぱちりとロケットを開いて俺たちに見せてくれた。
 俺とリックは与えられた五秒を無駄にすまい、と慌てて覗き込む。
 ロケットの中にいた女性は、まるでその姿をそのまま映しとったかのような緻密な絵の中で淡く微笑んでいた。
垂れ目がちの黒い大きな瞳、左の目元には色っぽい泣き黒子がある。すっと通った鼻筋に淡いピンク色の形の良い唇。小さな卵型の顔は、艶やかな長い黒髪に縁どられている。
 きっちり五秒後、ぱちんと音を立ててロケットは閉じられ、あっという間にそれはマヒロさんの胸元に隠すように戻された。

「めっちゃ綺麗」

「美人ですね」

 俺とリックは、いっそ感動すら覚えながら体を起こして、ロボに寄り掛かるようにして座り直す。ロボは、くぁ、と大きな欠伸を一つ零した。

「いつもニコニコ笑っている穏やかで優しい人でね、その上、すーっごく料理上手なんだよ。この人が食にうるさいのは雪ちゃんの手料理が原因だからね」

「雪乃の料理は世界一美味い。サンドロや料理長の飯も美味いが、愛という点において彼女の料理以上に美味いものはないだろうな」

 そう言ってマヒロさんは誇らしげに紫煙を吐き出した。
 マヒロさんは奥様の話をする時、いつも愛おしそうな表情をその美しい顔に浮かべる。ミアやサヴィラに向けられるものに似ているけれど、それとは少し違う愛しさが込められている。

「俺も料理上手な可愛い奥さんと結婚したい……っ」

「だったらお前はとりあえずデートの度に馬を連れて行くのを止めろ」

 そう言ってマヒロさんは酒を煽る。

「本当にそれね」

 イチロがうんうんと頷く。

「見目も良いし、今では憧れの護衛騎士、内情を知らなければ由緒ある貴族の三男ということで多くの女性に声を掛けられるんですが、やっぱり結局、馬への愛が過ぎてフラれるんですよね」

 リックがしみじみと言った。

「だ、だって! 休みの日に愛馬と一緒にいたいと思うのは仕方が無いだろ!?」

「じゃあ、ハリエット事務官との乗馬デートはどうなったんだ? カロリーナ小隊長に聞いて来いって言われたんだよ」

 リックが言った。

「え? 乗馬デート? え?」

 俺は心当たりがなくて首を捻る。
 すると三人が、うわぁとか最低とか言い出した。リックが蔑みの目を俺に向ける。

「お前、地下牢に捕まっている時にハリエット事務官に「ここを出て雨期が過ぎたら乗馬を教える」って約束したらしいじゃないか。雨期なんてとっくに終わってもう音の月だぞ?」

「……あ!」

「うわぁ、最低、ほんっと最低!」

 イチロが汚物を見るかのような眼差しを向けてくる。女の子みたいに可愛い顔をしているイチロだが言動は割と辛辣である。

「いやっ、あの、ほら! 仕事が忙しくて……!」

「僕とティナちゃんのデートについて来る暇はあったじゃないですか」

 イチロの言葉にマヒロさんとリックがうんうんと頷く。

「ハリエット事務官がお前の姿を見かける度にそわそわしているし、わざわざ乗馬服も仕立てたというのにあいつから誘いが来ないとしょんぼりしているとハリエット事務官過激派過保護騎士のカロリーナ小隊長がお前をシバき倒そうとしてるぞ」

 俺は血の気が引く音を確かに聞いた。
 俺たちの元・上司のカロリーナ小隊長は血気盛んな獅子系の獣人族でめっちゃ強い。女性って何だっけ?となるくらいには強い。ちょっと短気だけど勇ましく男ですら憧れてしまう格好いい女性だが、可愛いものが大好きで自分の事務官のハリエット事務官を我が子のようにも可愛がっている。ハリエット事務官に不埒な真似をしでかそうものなら血祭りに上げられることを覚悟しなければならないし、既に何人か鍛錬の場において公式にボコボコにされた。普通の母親ですらそうなのに獅子系の女性は我が子を害そうとするものに特に容赦がない。

「マ、マ、ママ、マヒロさん! 小鳥を!! 伝言用の小鳥を俺に貸してください!!」

「落ち着け馬鹿者。こんな夜遅くに女性に伝言を飛ばすな。明後日、カロリーナ小隊長と次の訓練計画の話をする予定があるからその時にきちんと誘え」

「は、はいっ!」

 俺は力いっぱい、頷いた。

「それでリック、エディを茶化すのは構わんが、お前には相手の一人二人いないのか? 一週間前は香水の店の看板娘に告白されていたし、その前は食堂の女性から恋文を貰っていたし、この間は酒場のお姉さんから誘われていただろう?」

「ごふっ、ごほごほっ」

 ウィスキーが器官に入ったのかリックが咽る。

「なぁ! 香水の店って、スッゲー可愛いって話題のレイラちゃんだろ!?」

「えー、僕もこの間、リックさんが中庭で治癒術師の女の子に告白されてるの見たけど?」

「マジかよ!?」

「ゴホゴホゴホッ、な、な、何で知ってるんですか!?」

「お前、全部断ったそうだな。男としてどうなんだ?」

「何で私の返事まで把握済みなんですか!?」

 咽たせいか、それ以外のせいか、リックが真っ赤な顔で叫ぶ。

「噂というのは、どこにでも転がっているものだからな」

「僕はぐうぜーん。食堂におやつを貰いに行った時に見ちゃったんだよね」

「相棒、何で一人だけそんなにモテてるんだよ!!」

「お前はうるさいっ!」

 ゴツンと拳が落とされた。普通にめっちゃ痛い。俺は、ううーと呻きながら頭を抱えて蹲る。

「それで何で断ったんだ? 好みじゃなかったのか?」

 マヒロさんが容赦なく追及する。流石のリックもマヒロさんには逆らえない。

「わ、私は護衛騎士になってまだ日も浅いですし、今は恋愛に重きを置くより、魔法や剣術の腕を更に磨いて騎士として成長していくことに重きを置いているからです!」

「真面目か。つまらん」

 マヒロさんは、間髪を入れずにきっぱり言い捨ててソファに身を沈め、短くなった煙草に火を点けて燃やした。そして指を振ってワインボトルを浮かびあがらせ自分のグラスに並々と注ぐ。

「俺はお前たちの結婚式を教会の宣伝に使う気満々なんだぞ。さっさと嫁を見つけて来い」

「もうちょっと言い方ってものがありません!?」

 リックが抗議の声を上げるが、彼の主は素知らぬ顔だ。

「それに結婚だったらイチロさんの方が早いでしょう!? 毎日、こっちが砂吐くほどイチャイチャしてるじゃないですか!」

「そうだそうだ! 護衛騎士の俺の身にもなれよ! チクショウ!」

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「……僕だって出来るもんなら今すぐにでもしたいけどねぇ」

 イチロが、苦笑を零しながらケーキの上の苺を頬張る。

「ティナちゃん、まだ十六歳の未成年だし」

「あ」

 そう言えばそうだった、と俺とリックは納得する。
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「それに僕たち、キスもまだだからね」

「はぁあああ!?」

「嘘です、絶対に嘘です!!」

 俺は思わずロボから体を起こして声を上げ、リックは「詐欺罪でしょっぴきますよ!」と混乱している。あのマヒロさんですら、驚きに目を瞬かせて固まっていて、衝撃発言をかましたイチロは、胡乱な目を俺たちに向けている。

「未成年の子にそうおいそれと手を出す訳ないでしょ。僕、見習いだけど聖職者だよ?」

「毎晩、寝室に連れ込んでるくせに!」

 俺は指差して叫ぶ。
 イチロが「失礼だなぁ」と目を細めて眉を寄せた。

「一緒に寝てるだけ。キスだって挨拶の範囲内で唇にはまだ一度だってしたことないからね」

「えっ? えっ? そ、それは宗教上の理由か何かで?」

 リックが大分混乱している。

「そんな教えはティーンクトゥス教にはない。何だ、お前不能なのか? 大丈夫か?」

「ロボ、マヒロくん食べて良いよ」

 のっそりと立ち上がったロボがマヒロさんの下へ歩き出す。ぶんぶん左右に揺れる尻尾が逆に怖い。マヒロさんが「冗談だ」と言って、おすわりをさせるがロボはぶんぶんと尻尾を振ったまま、マヒロさんをじっと見ている。流石のマヒロさんも困っているように……見えなくもない。

「僕だって健康で健全な十八歳の男の子だよ? そういう欲求なんかありまくるに決まってるじゃん」

 イチロが不貞腐れたように言った。なんだろう、その稚く可愛い顔と言動が一致しなくて混乱する。
 マヒロさんの足にじゃれついていたロビンが、不貞腐れる主人の下に行けば、そんな主人にぎゅうと抱き締められる。

「なんかティナちゃん、昔、怖い目にあったことがあるらしくてさ、キスしようとすると震えだすんだよねぇ」

「ティナはいつも震えてないか?」

 ロボの口にサンドウィッチを放り込みながらマヒロさんが言った。確かにいつも羞恥でプルプルしている愛玩魔物的なイメージがある。

「それとは全然違うの。初めてキスしようとした時に泣かしちゃって……ティナちゃんは大丈夫だって言うんだけど、キスしようとすると怖がるし……やっぱり、泣かしちゃったのは結構、僕もショックだったって言うか」

「お前のことだから無理矢理しようとしたわけじゃないんだろ?」

 どうしても尻尾を振るのを止めないロボにどこからか取り出したなんかの肉をやりながらマヒロさんが問いかける。

「当たり前でしょ。ベッドの上とかだと流石の僕だって我慢できるかちょっと自信なかったからさ、町の外の花畑に行った時にそれっぽいムードになったから、キスしてもいい?って聞いて、うん、って言ってくれたから、出来る限り優しく抱き締めて、ゆっくり焦らずって必死に心の中で念じながらしようとしたんだけど、する寸前でティナちゃんがめっちゃ震えてることに気付いて、あ、と思った時には泣いてたんだよねぇ」

 あーあとイチロがしょげたような情けない声を出してロビンに顔を埋めた。

「泣きながら、ごめんなさい、大丈夫って言われちゃって……怖い思いをしたからって教えてくれたんだけど、何がどう怖かったのかは教えてくれなかったからさ……そっから出来なくなっちゃったんだよねぇ」

 ロビンに顔を埋めたままイチロがふごふごと言った。ロビンは、主人の複雑な心中を察したのか、一生懸命、主人の腕の中でもがいてその顔を覗き込もうとしている。

「僕だって家族とのキスを除けば、初めてだからもう余計にどうしたらいいか分かんないんだもん。唇以外になら同じキスでも簡単に出来るのにね」

 すっげー、甘酸っぺぇっ!と俺はニヤける口元を片手で覆って顔を背けた。

「イチロさん、モテそうなのに恋人とかいなかったんですか?」

 リックが生暖かい目をしながら問いかける。

「いないよ」

「なら、初恋なんですね」

 するとロビンに顔を埋めたままだったイチロがのっそりと顔を上げる。

「……僕の初恋は真尋くんのお嫁さん」

「ごふっ」

 マヒロさんがワインを噴き出した。リックが慌てて立ち上がり、その背を擦りに行く。傍にいたロボまでびっくりしているが、こっちだってびっくりしている。マヒロさんが動揺しているのなんて初めて見た。バーサーカー化したヴェルデウルフが現れようと、町がインサニアで覆われようと冷静だった人だ。冷静に「俺の一刻も早い帰宅」を押し通した人だぞ。
 ごほごほっと酒が気管に入ったのか咽るマヒロさんにリックが水を差しだし、それを飲んで呼吸を落ち着けるとマヒロさんは一度、大きく息を吸ってゆっくりと吐き出してからイチロに向き直った。

「初耳なんだが」

 咽たせいでちょっと掠れた声がイチロに向けられる。

「言ったこと無いからねぇ」

 イチロがくすくすと笑いながら言った。
 マヒロさんは、(多分)困惑顔でイチロを見ている。
 そうだよな、確かマヒロさんとイチロとマヒロさんの奥さんは幼馴染だもんな。そりゃあびっくりだわ。俺もあのマヒロさんがワインを吹き出してむせ返っていることが今年一番の驚きかもしれない。

「あんだけ可愛いくて優しい子がいたらそりゃあ、好きーってなるでしょ? でも、安心してよ。それって僕が七歳くらいの頃の話だし、兄ちゃんとかママたちも知ってるし、そもそも当の本人である雪ちゃんも知ってるし」

「何で俺だけ知らないんだ」

「君に言うとうるさいからだよ。まあ幼かったし、子どもだったし、今考えると好きって言ってもティナちゃんに向ける好きとは全然違うんだけどね」

 イチロはそう言って懐かしむように目を細めて笑った。

「僕は、雪ちゃんに大好きとか愛してるってよく言ってたけど、それは家族に向ける愛してると同じなんだよ。真尋くんやエディさんやリックさんにも言えるし、ミアちゃんやサヴィにだって言えるよ。でも、ティナちゃんは特別。好きなんて言葉じゃ足りないんだもん。好きなんて陳腐な言葉じゃ表現しきれないのに、愛してるでも足りないかもしれない」

 盛大に惚気られたような気がするのは気のせいだろうか。

「なんていうかさぁ……大事にするって難しいね」

 力なく笑ってイチロがロビンに突っ伏した。彼に抱き締められるロビンもソファになっていたブランカも心配そうにしている。

「……一路、俺と雪乃は彼女が産まれてからの長い付き合いだったからお互いが何を考えているかは手に取るように分かった。だが、それでも言葉は必要だった。ティナの性格を考えれば、お前に色々我慢させていることだって気付いているだろうし、キスすら出来ない自分を恥じているかもしれない」

「それはティナちゃんが悪いわけじゃ……っ」

 イチロが慌てて顔を上げた。マヒロさんは、新しい煙草に火を点けながら頷く。

「勿論、その通りだ。でも、大事なことはきちんと言葉にしなければ正確には伝わらない。君が大好きだから我慢できるよ、大丈夫になるまで待つよという言葉だって大事なものだ。だが、……本当はキスもしたいし、それ以上のこともしたいと伝えることだって大事なんだ。男だって女だって、恋人に求められれば嬉しいだろう?」

「それは、そうだけど」

 イチロは歯切れの悪い返事をした。
 
「大事であればあるほど、人は臆病になる。踏み込んだ一歩のせいで嫌われたくはないからな……でも踏み込んでみないと分からないことだってあるんだぞ」

 そう言ってマヒロさんは、ふーと紫煙を吐き出した。
 既婚者が言うと言葉の重みが全然違う気がする、と俺はマヒロさんの言葉を手帳に書き込みながら思った。

「僕さあ、綺麗な顔には正直、慣れちゃってたわけ」

 ロビンに半分顔を埋めたまま徐に一路が言った。

「真尋くんが最たるもんだったけど、僕の兄ちゃんもイケメンの部類だし、雪ちゃんも美女だし、真尋くんの弟たちもそうだし、基本、周りの人間が皆綺麗な顔してたからさ、美人って言われても真尋くんほどの美人はいなかったし……」

 俺とリックは思わず、成程、と頷いてしまった。
 俺だってマヒロさん以上の美しい人は知らない。そんなマヒロさんの弟だったら絶対に美少年だし、先ほど、見せてもらったマヒロさんの奥様も間違いなく美女だった。それにイチロだって整った目鼻立ちをしているのだからその兄がイケメンでも納得だ。

「だからティナちゃんを初めて見た時、可愛いなとは思ったけど別にそれだけだったんだよ。人並みの審美眼はあると思うけど、だからって別にどうこうなろうとか、自分のものにしたいとかは思わなかったの。でも、一緒に過ごしていく内にティナちゃんのぽわんとしてるのにちゃんと自分を持っているところとか、家族想いなところとか、すごく素敵だなって思うようになったの」

 くしゃりとイチロが髪を掻き上げる。柔らかな癖っ毛は、イチロの指の間からふわふわと顔を出した。形の良い額が露わになって、彼の琥珀に緑の混じる森色の瞳は、隠すものもなく良く見えた。

「……あの日、ティナちゃんは僕のために泣いてくれた。それがどれだけ僕の心を救ってくれたかなんて、彼女には分からないかも知れないけど、でも、あの瞬間、僕は恋に落ちたんだと思う」

 森色の瞳には、柔らかな愛情がそこに浮かんでいる。

「恋に落ちるっていう言葉の意味なんてさっぱり分からなかったけど、あの時、成程、落ちるもんだって納得しちゃった。恋なんて落ちたら最後だよ、這い上がろうともがいたところで無駄。自分と同じだけの深み引きずり込んでしまいたくなる」

「随分と恐ろしいな」

 マヒロさんがクツクツと喉を鳴らして笑った。

「でも、大事にしたいよ。怖いものも不安もないように、とてもとても大事にしてあげたいと思うんだ。不思議だよねぇ、恋には正反対の感情がこれでもかっていうくらいに詰め込まれているんだから」

 それはまだ恋なんてものに落ちたことも無い俺には分からない感覚の話だった。イチロはなんだか少し苦しそうに見えて、マヒロさんはそんなイチロを相変わらずの無表情で見下ろしていたけれど、その月夜色の双眸はなんだか優しいような気がした。

「……僕、ちょっと散歩行って来る」

 イチロがふらりと立ち上がって、ブランカの頭を撫でると部屋を出て行った。ロビンがその後について行き、俺は護衛騎士として追いかけようとしたがマヒロさんに止められる。

「一人にしてやれ。雪乃が初恋云々言っていたがあいつにとって多分、ティナは初めて本気で好きになった人なんだ」

「イチロもモテそうですけど、彼女とか本当にいなかったんですか?」

「あれは鈍いからなぁ……そもそもイチロはあまり執着というものをしない奴だからあんな風にティナのことで本気で悩んでいるのは良い傾向だ」

 そう言ってマヒロさんは、テーブルの上の料理に手を伸ばすがすぐにリックが皿に料理を取り分けて彼に渡す。
 俺は、なんとなくイチロがあんなに「鈍感」になったのは、マヒロさんの傍に居たからなのだろうな、と思っている。こんな何もかもが出来過ぎる人間の傍になんかいたら、そりゃあ鈍くもなるだろう。寧ろ、ずっとそばに居続けられるイチロが凄い。俺だったら思春期辺りで限界を迎えて、距離を置いただろう。

「大丈夫ですかね、イチロさん」

 リックが心配そうに言った。

「大丈夫だろう。あれは外見こそ少女のように可愛らしいが、ヴェルデウルフを三頭も従える男だぞ?」

 マヒロさんがグラスを傾けながら言った。
 少女のようだってマヒロさんも思っているんだなって少し可笑しくなった。でも確かにイチロはああ見えて、森の王者を三頭も従えている男だ。ソファになってくれる優しいロボだから忘れそうになるが、ロボが本気を出せばこの町は呆気無く壊滅に追い込めるほど強い魔獣だ。

「それに今のはただの惚気だ」

 ミートボールを突き刺したフォークをマヒロさんが小さく揺らす。

「心配する方が馬鹿らしい」

 そう言ってマヒロさんは、ミートボールを口に放り込んだ。
 俺とリックは顔を見合わせて、言われてみるとそうかもしれない、と笑ってしまったのだった。





――――――――――――――
ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
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一路くんも男の子なんだよって話ですね☆
このお話はまだ続きます!

次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
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SOU 5月17日10作同時連載開始❗❗
ファンタジー
400倍の魔力ってマジ!?魔力が多すぎて範囲攻撃魔法だけとか縛りでしょ 25歳子供部屋在住。彼女なし=年齢のフリーター・バンドマンはある日理不尽にも、バンドリーダでボーカルからクビを宣告され、反論を述べる間もなくガッチャ切りされそんな失意のか、理不尽に言い渡された残業中に急死してしまう。  目が覚めると俺は広大な領地を有するノーフォーク公爵家の長男の息子ユーサー・フォン・ハワードに転生していた。 ユーサーは一度目の人生の漠然とした目標であった『有名になりたい』他人から好かれ、知られる何者かになりたかった。と言う目標を再認識し、二度目の生を悔いの無いように、全力で生きる事を誓うのであった。 しかし、俺が公爵になるためには父の兄弟である次男、三男の息子。つまり従妹達と争う事になってしまい。 ユーサーは富国強兵を掲げ、先ずは小さな事から始めるのであった。 そんな主人公のゆったり成長期!!

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