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本編 2
第七十一話 打ちのめされた男
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雪乃は兎の耳が拾った音にゆっくりと起き上がる。
今夜は寝室に双子と雪乃だけだった。ミアは、二階のシルヴィアのところにお泊りに行っているのだ。
枕元のランプに明かりを灯せば、ベビーベッドの中では双子たちもすよすよと穏やかな寝息を立てていた。双子の足元ではタマが丸くなって眠っている。テディはどこにいるのだろうと見れば、暖炉の前で丸くなっていた。
布団の上に広げてあったショールを羽織り、ベッドから降りる。子どもたちに布団をかけなおして、テディに「よろしくね」と声をかけてから廊下へ出れば夫とともに出かけていた充が丁度、ドアを開けて中へ入ってきたところだった。続いて、夫も中に入って来る。
「おかえりなさい、あなた、充さん」
「……すまない、起こしたか?」
コートを脱いで充に渡しながら真尋が言った。
「お出迎えしたくて起きたのよ。良いわね兎さんの耳は、愛しの旦那様が帰って来るのがすぐにわかるわ。夕食はちゃんと食べられた?」
「ああ。シチューが好評で、争奪戦だったが俺とカロリーナ小隊長が制した」
「流石でございます!」
ドヤ顔で告げる夫に充が子どもたちが起きないようにエア拍手ともに小声で称賛する。
ちなみに争奪戦を圧倒的実力と気迫で制したカロリーナにウィルフレッド(気迫に負けた)が「昇級試験を受けたほうがいい」と言ったが、カロリーナは「書類仕事を増やしたくないので」と断っていたのを雪乃は知らない。
「お仕事のほうは片が付いたの?」
「全くついてはいないが、今日明日でどうにかなるものでもないので、帰ってきた。リックたちと一路と海斗は帰るのも面倒だからとあっちに泊まるそうだ」
「そうなのね」
「……雪乃、夕食、少し残っていないか? 小腹が空いたんだが……」
「何も残ってないのよ。でも何か軽く作ってあげるわ。温泉でも入ってくる?」
「そうさせてもらう」
「その間に仕度をしておくわね」
地下へ向かった真尋を見送り、雪乃はキッチンへ行く。真尋の着替えなどは充が用意してくれるので、雪乃は夜食の準備だ。
キッチンの時計を見れば、日付を跨いだばかりだった。
アイテムボックスから土鍋を取り出す。
「便利よねぇ」
こんなこともあろうかと炊き立てご飯入りの土鍋をそのままアイテムボックスに入れておいたのだ。
しゃもじ代わりの木べらを水で濡らしてからご飯をすくって、おにぎりを作る。
「あらあら、夜更かしさんがたくさんね」
途中で、それに気づいて廊下のほうに声をかければ、サヴィラとジョン、レオンハルトが顔を出した。
「トイレに起きたんだ」
「そうしたら、炊き立てのおコメのいい匂いがするってサヴィが」
「父様帰ってきたの?」
「ええ、今は温泉に入ってるわ。焼きおにぎりを作ろうと思っているんだけれど、食べる?」
「「「食べる!」」」
小声ながら揃った返事にくすくす笑いながら、手を洗うように言う。
ジョンとレオンハルトがおにぎりを量産してくれるので、雪乃はサヴィラと一緒にフライパンでおにぎりに刷毛でたれを塗って焼いていく。キッチンがたちまち醤油の焦げる香ばしい匂いでいっぱいになる。
「ユキノ、これは普通のおにぎりじゃないな。カラアゲに通ずるにおいがする」
レオンハルトが至極真剣な顔で言った。
おにぎり自体は子どもたちに好評なのでよく作るのだが、焼きおにぎりは初めてかもしれない。おにぎりを一番上手に握るのはレオンハルトで、苦手なのはサヴィラだ。とはいえ、サヴィラは少し形が不格好になるだけだ。ちなみに真尋も火を使わないので、おにぎりを握るのは上手だが、塩加減がとてもへたくそなのはご愛敬だ。
すべてのおにぎりが焼きおにぎりに変身し終えた頃、真尋が寝間着にガウン姿でキッチンへとやってきた。
「おかえり、父様」
サヴィラに続いて、おかえり、とジョンとレオンハルトも声をかける。真尋はキッチンの時計を見た後、ふっと笑って息子の頭を撫でた。
「夜更かしか?」
「だっていい匂いがするから」
「育ち盛りだからな」
そう言いながら真尋がキッチンのテーブルの椅子に腰かける。
「あっちには予定通り帰れそう?」
サヴィラの問いに真尋が頷く。
「ああ。ただ。どうにもこうにもこっちでもむこうでも処理することが多いから、しばらくは忙しいがな」
「お疲れ様。ほうじ茶で良い?」
焼きおにぎりが乗ったお皿をテーブルに置きながら尋ねれば、真尋はまた「ああ」と短く頷いた。
いただきます、と四つの声が挨拶をするのを背に聞きながら、雪乃は急須に茶葉を入れて、沸かしておいたお湯を入れる。いつの間にか充もキッチンにやってきて、マグカップを人数分用意してくれたのでそこにお茶を注ぐ。
キッチンには椅子は二脚しかないので、もう一つのほうに雪乃は座らせてもらう。立ち食いはお行儀が悪い気もするが、夜中の夜食なので気にしないことにする。
「君も食べるか?」
「私は良いわ。充さんもよければ食べてね」
「ありがとうございます。もしよろしければたくさんありますので、門番さんたちにもおすそ分けしてきても?」
「ええ、もちろんよ」
雪乃が頷くと充がおにぎりを四人分、お皿に乗せて夜勤の騎士たちの下へと持って行く。
子どもたちは美味しそうにおにぎりを頬張っている。これからますます食欲が増していくのだろうと思うとなんだか楽しみだ。プリシラやアマーリアと一緒に、作っても作っても足りないわ、なんて言って笑い合う日も近いだろう。
戻ってきた充もいそいそと白手袋を外して手を洗うと焼きおにぎりにかぶりつく。
「そうだわ。あなた、リラとマリーの件、ありがとう。二人とも喜んでいたわ」
「君やプリシラの負担を減らすのが優先だからな」
何個目かも分からない焼きおにぎりを頬張りながら、真尋が言った。
この人の小腹っておにぎり何個分かしら、と雪乃は少し考えてしまう。余ったら朝食にでも出そうかと思っていたのだが、余りそうにない。
子どもたちは早々に食べ終えて、口をすすぐと二階の寝室へと戻って行った。片づけをと言う充を真尋が部屋に下がらせた。
雪乃は子どもたちの分のマグカップと空になったお皿を洗って、お茶を淹れなおして席へと戻る。
「ふふっ、あの子たち、朝は起きて来るのが少し遅いかもしれないわね」
「そうだな」
真尋の口元が小さくほころぶ。
「ねえ、真尋さん」
「ん?」
真尋がマグカップに手を伸ばしながら振り返る。
「カレンがね、言うの。……グラウのオーブでパパとママを待つ約束だったけれど、ここにはいたくないって」
雪乃は両手でもったカップの中に視線を落とす。
「…………カレンのご両親が領地内にいれば、どこへでもポチをやれるんだが」
そう切り出した夫に目だけを向ける。
「カレンのご両親は王都よりはるか遠いところにいる。ここへ帰って来るには、年単位での時間が必要だ。迂闊にポチを他所へやれば、大騒ぎになりかねない。ジークの許可があるから、ポチはアルゲンテウス辺境伯領だけは自由に飛べるんだ」
ずずっとお茶をすすって、真尋は目を伏せた。
「……ああいう傷は、時間に委ねるしかない」
夫は静かに告げて、またお茶をすすった。
雪乃は生まれた時からポンコツな体と付き合ってきた。そういうものだと諦めて受け入れて、一日一日を愛おしむように生きていた。
だが、真尋があの家政婦に襲われた時ばかりは、自分のポンコツな体を憎んだ。傍にいてあげたかったのに、抱きしめてあげたかったのに、それができなかった。
病院のベッドの上で、真尋を心配するしかできなかった。
雪乃はマグカップを置いて真尋の下へ行き、正面から彼を抱きしめた。
「どうした?」
「抱きしめたい気分なだけ」
「そうか。まあ、君ならいつだって歓迎だ」
大きな手が雪乃の背に回される。
甘えるように雪乃の腕の中に納まる夫の髪を優しく撫でる。
「……疲れた」
ぼそっと真尋がこぼす。
普段、こういうことはめったに言わない夫なので、相当に疲れているのだろうと雪乃はぽんぽんと広い背中を叩く。
「明日……もう今日ね。お仕事?」
「いや、明日は午後から出かける。明後日には帰るし、祭りの間は休日にするつもりだから、色々とな」
「そうなの。ならせめて午前中はゆっくりしてね」
「ああ」
「さ、もう寝ましょう?」
「うん」
頷きつつ離れない夫に、本当に疲れているようだ、と眉を下げる。
「……ミアはお泊りでいないから、ベッドでも抱きしめていてあげ、きゃっ」
突然、視界が高くなって思わず真尋の頭に抱き着く。
すたすたと歩き出した真尋はそのまま寝室へ直行していき、雪乃はぽすんとベッドの上に置かれた。
ごろんと横になった真尋がぎゅうぎゅうと抱き着いてきたので、雪乃は少し体をずらして体勢を整えて抱きしめ返した。存外、甘えん坊な夫のことを可愛いと心から思うのだが、この可愛さだけは誰にも秘密だ。
「ふふっ、甘えん坊で可愛いわね、私の旦那様は」
「…………君にだけだ」
「私以外に甘えたら困るわぁ」
くすくすと笑いながら雪乃は、真尋の髪を撫でてあやす。
よほど疲れているのだろう。一度、雪乃にキスをすると雪乃の胸に顔を埋めたまま、あっという間に眠ってしまった。雪乃は指を振って布団を自分たちにかけなおす。幸い、双子たちはぐっすりと深い眠りに付いているようで起きる気配もない。
「おやすみなさい、私の愛しい旦那様:
雪乃は真尋を抱きしめ直して、その髪にキスをして自分も愛しい夫の体温を感じながら眠りの世界に飛び込んで行ったのだった。
「ただいま戻りました」
ヴァイパーが帰ってきたのは、午後のお茶の時間にさしかかるころだった。
庭先に降り立ったポチは、いつものサイズに戻るとどこかへ飛んでいった。おそらく真尋の下だろう。
「おかえりなさい、ヴァイパー」
「ユキノ様、お迎えありがとうございます」
ヴァイパーが目じりを緩める。
「クィリーンさんは?」
「先ほど無事にブランレトゥに。久しぶりの実家でのびのびできたと楽しそうなご様子でしたよ」
急な帰郷となったため、ジークフリートの補佐をしてくれたり、あちらでの冒険者ギルドの仕事をしたりしていたクィリーンも迎えに行ってもらったのだ。彼女はナルキーサスより随分と年上らしいエルフ族の女性で、ティナの先輩だと言うので一度、会ってみたいものだ。
「果物や野菜は手に入ったかしら」
「はい、質の良いものが手に入りました。もちろんユキノ様やお嬢様のお好きなレーズンもつわりのためのハーブティーも」
「ふふっ、良かったわ。荷物はそのままあなたが持っていてちょうだい。明日には帰るから、夕飯の時に必要なものだけだしてほしいの。それと明日、帰るまででいいから茶器の類をどうするか決めておいて。置いて行ってもいいし、持ち帰ってもかまわないわ。貴方の紅茶の棚はそのままだから、そちらもね」
「かしこまりました。明日の帰宅はいつ頃をご予定ですか?」
「昼過ぎに。昼ご飯の支度まで気を回させたら大変だもの」
「分かりました。ではそのように準備いたします」
「でも今はゆっくり休んで」
するとヴァイパーが困ったように笑いながら首を横に振る。
「丸一日、することがほとんどなくて馬車の中で寝ていたんです。もしまた買い出しに行くようなことがあれば、今度は本でも持って行こうと思います」
「ああ、確かにそれは暇そう」
いつの間に出てきたのかサヴィラが苦笑交じりに頷いた。
するとミアやシルヴィア、レオンハルトとジョンも庭へと出て来る。
「ヴァイパーお兄ちゃん、おかえり!」
「おかえり、ヴァイパー!」
レオンハルトが飛びつけば、ひょいと抱え上げて肩車してしまう。細身に見えて、ヴァイパーは力持ちだ。レーズンが詰まった大瓶がいくつも入った木箱も軽々と持ち上げてしまう。サヴィラ曰く、有鱗族も大型の蛇系の種族は割と力持ちらしい。ヴァイパーがなんの蛇なのかは、詳しくないので知らないが。
「大丈夫そうなら、子どもたちの相手をお願いしていいかしら? 夫も出かけてしまって遊び相手を探しているのよ」
「ええ、もちろんです」
「やった! お兄ちゃん、鬼ごっこしよ!」
「今日はかくれんぼがいいわ!」
「えー、ミアちゃんとサヴィとお兄ちゃんが圧勝じゃん」
子どもたちは賑やかに庭の方へと移動していく。
確かにかくれんぼは、五感の鋭い獣人族や有鱗族がどうしても有利になってしまうものだ。
「では、今日は僕の村で流行っていた遊びはいかがですか? 騎士と泥棒って言うんですが……」
ヴァイパーは代替案を出しながら、子どもたちにぶら下がられたり、引っ付かれたりしながら歩いて行った。村で子どもたちの面倒を見ていただけはあって、彼も面倒見がいい。
「サヴィラはいいの?」
玄関先に残った息子を振り返る。
「俺は良いよ。本読みたいし。ちょっと休憩」
「ふふっ、そうね。真尋さんが出かけちゃってから、ミアったらべったりだったものね」
笑いながら告げると息子は苦笑交じりに肩を竦めた。
午前中は休みにすると言っていた真尋だったが、朝ごはんを終えた頃には申し訳なさそうな顔で騎士が迎えに来て、行きたくないと駄々をこねる夫を送り出したのだ。
すると大好きなパパが行っちゃった、とミアが大泣きで(真尋が出て行くまで我慢してくれていた)、雪乃とサヴィラにべったりと張り付いて離れなかったのだ。双子の世話は、嬉々としてアマーリアやリリー、マリーやリラが代わってくれたので、雪乃とサヴィラはミアと一緒に過ごしていた。午後のお茶の時間になって、ミアの機嫌も上向きになったところだったのだ。
「明日から、父様、休暇なんでしょ?」
「ええ。あなたたちとお祭りに行くのを楽しみにしているみたいだから、なにが何でも休みにするそうよ」
「ミア、今度こそ離れなくなりそう」
「いいのよ、どうせあの人も離さないんだから」
冷えるよとショールを直してくれた息子が家の中に戻ろうと促してくるのに素直に従う。
「まあ、そうなんだけど……でも母様が来てくれてよかったよ。将来、ミアがお嫁に行くって言った時、俺とリックじゃどうにもならなそうだったからさ」
くすくすと笑いながらサヴィラが言った。
「あの人ったら本当に大人げないのよねぇ。自分はさっさと私をお嫁さんにもらったのに」
家の中に入ってサヴィラがドアを閉めた。
「母様、今日の夕飯は? 仕度手伝うよ」
「あら、本を読んでいてもいいのよ?」
「仕度が終わったら読むよ。今夜はどうする?」
「そうねえ、何がいいかしら……ヴァイパーに何を買ってきてくれたか聞けばよかったわねぇ。ああ、でもジャガイモがたくさんあるし、ミルクも使っちゃいたいから、ジャガイモのグラタンなんてどうかしら? 個別に出さないで大きなグラタン皿で焼くのよ」
「いいね、美味しそう。ねえ、母様、ミルクは余る? 余るならデザートはプリンが良い」
「いいわよ。卵もあるし……プリンならカレンも食べられるかしら……」
その時、背後の玄関で呼び鈴が鳴らされた。
門番が通したということは知り合いだろうけれど、と首を傾げるが、サヴィラがためらいなくドアを開けた。
「どうしたんですか? 父様に何か?」
どうやら息子は来客が誰か分かっていたようで、開口一番、そう問いかけた。
そこに立っていたのはジークフリートと護衛騎士のオーランドだった。
「マヒロは元気だよ、ただ……少しばかり、機嫌は悪いがな」
「すみません、父が大人げなくて……」
サヴィラが申し訳なさそうに言った。
ジークフリートは「君の方が大人だ」と苦笑を零す。
「急に来てすまないんだが、アマーリアとユキノ夫人はいるだろうか?」
聞こえてきた名前に雪乃はとりあえず「ジークフリート様」と声をかけて、ドアの陰から出て息子の隣に並んだ。
「急にどうされました?」
「すまない。今、大丈夫だろうか?」
この間までの態度が嘘のように下手に出るジークフリートに雪乃は鷹揚に頷く。
「アマーリアは?」
「二階に。お呼びしますか?」
「いや、あの、先に夫人に見てほしいものがあって……」
そう言ってジークフリートが小脇に抱えていた三冊の本を取り出した。
一番上は子猫が箔押しされた可愛らしいもので、その下には剣と盾が箔押しされたもの。一番下は美しい百合の花が箔押しされたものだった。どれもこれも装丁が凝っていて美しい品だ。
「なんの本ですの?」
「いや、本じゃなくて、ノートなんだ」
そう言って彼は、その内の一冊をサヴィラにそれを渡した。サヴィラが開くと中は白紙で、確かにノートのようだった。
「せめてもと、あの、アマーリアや子どもたちを想像して選んでみたんだが……」
ジークフリートが不安そうに言った。
「まあ、領主様自ら?」
「あ、ああ。店はカロリーナに教えてもらった。彼女は可愛いものが好きで詳しいのでな」
雪乃はまじまじと三冊のノートを見つめる。どれもこれも綺麗で素晴らしく凝った品だ。
ジークフリートが大きな背中を丸めて店先でこれらを選んでいる姿を想像すると微笑ましい気持ちになってしまう。
「ふふっ、どれも素敵ですわ。交換日記用のものですか?」
雪乃がそう告げるとジークフリートがあからさまにほっとしたような顔になる。
「ああ。だが、その、情けないが個人的な日記というものを書いたことがなくて、業務日誌なら嫌というほどあるんだが……このままだと業務日誌になりそうで、そうしたらマヒロがそういうことはユキノ夫人に相談したらいいと」
「そうでしたか。では、一旦、お預かりしてもよろしいですか? それで一番最初のページに私がこの日記の簡単な書き方の説明を書いてもよろしいですか?」
「書き方?」
「ええ。アマーリアが日記を書いているかは知りませんが、日記というものは普通は人に見せるものではありませんでしょう? ですから、人に見せるために必要な項目、といいましょうか、領主様がご家族と仲良くなれるために必要な項目を書いておくのはいかがと思いまして」
「必要な項目、例えばどんなものだろうか? 支出とかか?」
「支出って……ヴィーはまだ五歳で自分で買い物もしないのに?」
サヴィラが呆れたように言った。
雪乃も痛む頭を押さえて口を開く。
「それは家計管理帳にでもお書きなさい。……そうではなくて、相手はアマーリアだけではなく、幼いレオンやヴィーも入るのでしょう?」
雪乃の指摘にジークフリートが気まずそうに目を泳がせた。
あまりに情緒がなさすぎるのだが、どういうことなのだろうか。持って生まれたものなのか、彼の生まれ育った環境なのか、おそらく前者なのだろうなと彼のとても繊細で情緒ある弟を思い出して雪乃は溜息を零した。
「嬉しかったことや、悲しかったこと。相手に聞きたいこと、そういう項目です」
「な、なるほど?」
「レオンハルトがサヴィラほどの年になったら、業務日誌でも構わないとおもいます。あの子だっていずれはアルゲンテウス辺境伯領を継ぐのですから、勉強にもなりますでしょうし。でも、レオンハルトはまだ六歳です。シルヴィアは五歳。あなたは、子どもたちに分かりやすく、簡単な言葉で日常を伝える必要があります。間違っても『今日は真尋神父と会談。領地運営に関する問題点の提起と解決策についての話し合いをした』なんて書かないでくださいね」
「……え、じゃ、じゃあ、何を書けばいいんだ? 私の日常何て階段や会議、書類仕事ばっかりだ」
ジークフリートがオロオロしだす後ろで彼の護衛騎士のオーランドは遠くを見つめている。彼らにジークフリートの情緒について文句を言っても仕方ないだろう。ジークフリートよりも年下の彼らが、主の情緒を育てたわけではないのだ。
「貴方、私の夫と同じくらい情緒ってものがないのね……」
「類は友を呼ぶってこういうことを言うんだろうね」
サヴィラが溜息交じりに言った。
雪乃の夫にもそういう繊細な感性は備わっていない。充との交換日記も雪乃が最初に指導を入れたのだ。中学校でも生徒会長だった彼は生徒会活動について書いていたのだが、それをその学校の生徒でもない充にどうしろという話である。とはいえ、彼の場合は家族や友人に対しては愛情深かったので、まだ「私や双子ちゃんたち、一くんや海斗くんとの日々を書けばいいわ」と伝えればなんとかなったのだ。
「分かりました。最初の日は、アマーリアたちに書いてもらいましょう。それで最初の数回は、一路くんか海斗くんに書き方についての指導を入れてもらってください。間違っても私の夫には頼まないように」
「分かった」
ジークフリートが神妙な顔で頷く。雪乃は後ろに控えるオーランドに目くばせをした。彼は深く頷いて決意の表情を浮かべた。
「領主様はいつお帰りになるのですか?」
「……アマーリアが良いと言ってくれたら、明日、共に帰りたいのだが……それを彼女に聞きに来たんだ」
「ではそのようになさいませ。もし、アマーリアが良いと言ってくれたら、明日、帰るときにこれを自ら渡してください。それで交換日記をしようと伝えるのです。それまでに私も先ほどの項目について書いておきますから。分かりましたか?」
「分かった」
「では、アマーリアを呼びましょう。サヴィ、お願いできる?」
任せて、と頷いて息子が二階へ上がって行く。雪乃はその間に日記となるノートたちをアイテムボックスにしまった。
少しして、不安そうな顔のアマーリアとリリー、アイリスが降りてきた。一番最後にサヴィラが降りてきて、息子は既にいっぱいの玄関ホールには降りず、階段の途中で止まった。
「どうなさいました? 何か問題でも……?」
足早に駆け寄ってきたアマーリアが問いかける。
「何も問題も事件も起きていない。君に確認したいことがあってきたんだ」
「確認?」
アマーリアが首を傾げた。長い銀の髪がさらさらと揺れる。
ジークフリートが緊張した面持ちで口を開く。
「明日、ブランレトゥに帰るとき、私も、君たちと同じ馬車に、ど、同乗しても、いいだろうか?」
「は、はぁ。わたくしは神父様所有の馬車にご厚意で乗せて頂く身ですので、神父様に許可をとる方がよろしいのではないでしょうか?」
ジークフリートの勇気はアマーリアの天然に打ち砕かれた。
雪乃は噴き出さなかったことを褒めてほしかった。息子は階段の手すりについた腕に顔を埋めているし、リリーとアイリスは必死に唇を噛みしめている。ジークフリートの後ろでオーランドだけが憐みを込めた目で主を見ていた。
「……そ、そうか、そうだな……マヒロに聞いてみる」
しょんとしてしまったジークフリートにアマーリアが「旦那様?」とオロオロしている。
だが、仕方がないとも思う。だってこれまでジークフリートはアマーリアに有無を言わせなかったのだし、彼女は夫に従うように教育されているのだから、他ならない夫に同乗していいか、と聞かれれば「はい」しか言わないのは分かり切っていることだ。
せめて「気を遣わせてしまうかもしれないが」とか「気まずいかもしれないが」とか、相手を慮る言葉があればよかったのだろうが、緊張のあまりそういうことにジークフリートは気を回すことができないのだろうな、と察せられる。
「アマーリア」
雪乃は、昨夜、疲れ果てていた夫を思い浮かべて、夫のために多少の助け舟を出すことにした。
「領主様は、この間、仲直りをしたばかりだから、貴女が気を遣うんじゃないかって心配してくださっているのよ」
青い瞳がぱちりと瞬く。
「それにほら、レオンハルトは領主様に対して少し緊張してしまうところがあるでしょう? だから、より心配してくださっているのよ」
はっとしたアマーリアが、ジークフリートを縋るように見上げる。
「……ジークフリート様、レオンハルトは優しい子で、わたくしを心配して、守ろうとしてくれているだけなのです。ですから少し態度がそっけなくて、警戒しているように感じるかもしれませんが、どうか叱らないでくださいませ……っ」
アマーリアの天然製のナイフがジークフリートの心を突き刺していることに彼女は気づいていない。
つまるところ、息子に敵認定されていると言われたジークフリートは、虫の息だ。
「こ、この間までジークフリート様のようになると言っていたのですが、話し合いをした日にあの子も色々と思うところがあったみたいで、神父様のような男性になりたいと言い出して……あの、でも、ユキノがそれは止めた方がいいと止めたのですが、ええと」
これは久しぶりの夫に彼女自身、大分混乱しているな、とすでに死にそうなジークフリートにとどめを刺し続けているアマーリアに雪乃は細い肩に触れて彼女を止める。
「アマーリア、大丈夫よ。そういうことは後々ね」
「え、ええ。そうね、こんな玄関先で話すようなことじゃないわね」
アマーリアが少し冷静さを取り戻す。
そして、死にそうな夫に向き直った。
「……もし、ジークフリート様がよければ、レオンハルトとも少しお時間を取って頂ければと思います」
「ああ、分かった……頑張るよ」
ジークフリートの目は死んでいるが、自業自得なのでどうしようもできない。
「では、また明日……急なことにも係わらず、時間をとってくれてありがとう」
お礼を言われたことにアマーリアが驚いて目を丸くしている。
真尋より教育の成果が出るのが早いことに雪乃は満足げに頷いた。
「い、いえ。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
ジークフリートは一つ頷くと雪乃に「妻を頼む」と告げるとドアを閉めて帰って行った。
「なんだったのかしら……?」
心底不思議そうに雪乃を振り返ったアマーリアに、雪乃は苦笑交じりに首を横に振る。
「確認したかったのよ、どうしても」
「でも、馬車は神父様のものですし、ポチちゃんも神父様のものですのに……わたくしに確認してどうなさるのかしら? はっ、もしや私が領主夫人としてユキノや神父様に大きい顔をしていると心配されて……!?」
斜め上すぎるアマーリアの誤解についにアイリスが噴き出した。リリーは天井を仰いで長々と息を吐き出しているし、サヴィラに至っては階段にうずくまってしまっている。
雪乃は自分がある程度、感情をコントロールするのが得意でよかったと、笑い出しそうなのをぐっとこらえて、微笑んだ。
「……いいえ、そうじゃないと思うわ。そうね、それは、ええ、その内、分かると思うわ」
前途は多難そうね、と雪乃は「お茶にでもしましょ」と声をかけて、リビングへと足を向けたのだった。
オマケ
グラウの騎士団での事情聴取から真尋たちが倉庫へ戻るとジークフリートが会議スペースの片隅で膝を抱えていじけていた。
その横で護衛騎士のホレスとオーランドがおろおろしている。書類仕事をしている騎士たちも、心配そうにジークフリートの様子を伺いながら手を動かしているようだった。
「……何がどうしたんだ、あれは」
真尋は留守番をしていた一路に問いかける。
「いや、それが僕もよくわかんなくて……なんか帰ってきたら、ああなっちゃって」
一路が困惑気味に答える。その横で同じく留守番のエドワードも首を横に振っていた。
真尋とともに騎士団に行っていたリック、ウィルフレッド、レベリオは顔を見合わせた。
ウィルフレッドに目で「行け」と言われたジークフリートの乳兄弟のレベリオが膝をかかえた彼の下へ行く。
レベリオが膝に手をついてかがみ、声をかける。
「どうしたんです、ジーク」
「…………アマーリアに」
「はい」
「明日、ブランレトゥに帰るときに私も馬車に同乗してもいいか、と聞きに行った」
「ああ、そういえば昨夜、そんなことを言っていましたね。どうでした?」
「…………馬車は真尋のものだから、真尋に許可をとったほうがいい、と」
ぶふっと海斗が真っ先に噴き出した。
真尋は、意味もなく息を吐き出して天井を仰いだ。
「そ、そうですか……」
「ユキノ夫人が助け舟を出してくれて、アマーリアや子どもたちが気まずくならないようにと言っていると言ってくれたんだが……」
「だが?」
「アマーリアに、レオンハルトが私を警戒しているのは、アマーリアを守ろうとしているだけって言われた」
「…………そう、ですか」
レベリオがもうすでに返答に窮し始めている。
ウィルフレッドは遠くを見つめ始めていた。
「その上」
「まだあるんですか?」
「レオンハルトが、最近、お父様みたいになる、じゃなくて、神父様みたいになるって言いだしたと」
「…………」
レベリオがついに言葉に詰まった。騎士たちも気まずそうにしている。
噴き出したあと、必死に笑いをかみ殺していた海斗があまりに哀れだと思ったのか真顔になっているし、一路はオロオロしている。ウィルフレッドは目を閉じて現実逃避していた。
おそらくジークフリートには言葉と信頼が足りないし、受け取る側のアマーリアがド天然だったのが敗因だろうな、と真尋は深く息を吐きだした。
「まあ……頑張れ」
「お前、神父だろぉ……っ!」
ジークフリートが両手で顔を覆う。
「神父は万能じゃない。救えないものもある」
「そうそう。まずはそうだね、信頼関係を地道に築いていくしかないね」
海斗がうんうんと頷いた。
神父二人に見捨てられたジークフリートが一路を見た。
「僕、まだまだ半人前の見習いなんで~」
そそくさと一路は手元の資料に目を落とした。
「くそ神父共め!!」
盛大に拗ね始めたジークフリートに真尋は「ああ、くそ神父で結構」と返し、海斗は「無理なものは無理だもんね~」と言いながら一路の隣の席に座った。
するとそこに妻子に捨てられた騎士のジョージが歩み出て、ジークフリートの隣に膝をついた。
「妻と息子はあの日も普通でした。今思えば俺が普通だと思っていただけなんでしょうが、最後に一緒に過ごしたあの日だって家族三人仲良く食卓を囲んで、妻も息子も『気を付けてね』と俺を遠征に送り出してくれました。でも……遠征から帰ったら、妻も息子も、いませんでした。俺は気づかなかったんです。彼女や息子のものが家の中から少しずつ消えていることも、彼女が育児に疲れ果てていたことも、何も気づかなかった。今では月に一度、息子に半日だけ会わせてもらうのがやっとです。……でも彼女、再婚するみたいで月一の面会も渋られ始めてて……そうですよね。息子はまだ四歳で、今なら新しい父親に馴染みますもんね。名ばかりの父親だった俺がいたら邪魔になるのは、分かってるんです。……領主様、終わりって突然来るように見えますが、本当はそうじゃない。終わりの予兆は日常に転がってるんです。だから、よーく目を凝らしてみてください。そこに気づけるか否かが今後を左右するんです。本当に、気を付けて下さいね」
ジョージの生々しすぎる体験談にジークフリートの顔から感情という感情が消え失せた。そして、無言でぎゅっと膝を抱えてますます縮こまってしまった。その横でレベリオまで発作を起こして、膝を抱えてイマジナリー雑草を抜き始めてしまった。ジークフリートの護衛騎士二人は真っ青な顔で固まっていた。
しまいには既婚の騎士たちが神に祈り始めているし、数人、小鳥に向かって妻の名前と子どもの名前、そして愛してると吹き込んで飛ばしている。
もはや呪いの怪談である。
「ジョージ、とどめを刺してどうする……」
カロリーナが溜息交じりに言った。
「え!? と、留めなんて、俺は領主様に俺と同じ轍を踏んでほしくなくてですね……!!」
「そうだな、ジョージの話はとても良い薬だと思う」
真尋は頷いて、最近の定位置になりつつある席に腰かける。そこには当たり前のように真尋が目を通さなければならない資料が山積みになっている。これも明日にはブランレトゥの屋敷のデスクに移動するのだ。
「前途が多難だ」
真尋のつぶやきに隣の幼馴染兄弟と護衛騎士、そして、騎士たちが深々と頷いたのだった。
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第二部も次回のお話で最終話となります!
ですので、本日は感想欄を閉じさせて頂き、明日の最終話投稿の際にまた開かせて頂きます。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。
今夜は寝室に双子と雪乃だけだった。ミアは、二階のシルヴィアのところにお泊りに行っているのだ。
枕元のランプに明かりを灯せば、ベビーベッドの中では双子たちもすよすよと穏やかな寝息を立てていた。双子の足元ではタマが丸くなって眠っている。テディはどこにいるのだろうと見れば、暖炉の前で丸くなっていた。
布団の上に広げてあったショールを羽織り、ベッドから降りる。子どもたちに布団をかけなおして、テディに「よろしくね」と声をかけてから廊下へ出れば夫とともに出かけていた充が丁度、ドアを開けて中へ入ってきたところだった。続いて、夫も中に入って来る。
「おかえりなさい、あなた、充さん」
「……すまない、起こしたか?」
コートを脱いで充に渡しながら真尋が言った。
「お出迎えしたくて起きたのよ。良いわね兎さんの耳は、愛しの旦那様が帰って来るのがすぐにわかるわ。夕食はちゃんと食べられた?」
「ああ。シチューが好評で、争奪戦だったが俺とカロリーナ小隊長が制した」
「流石でございます!」
ドヤ顔で告げる夫に充が子どもたちが起きないようにエア拍手ともに小声で称賛する。
ちなみに争奪戦を圧倒的実力と気迫で制したカロリーナにウィルフレッド(気迫に負けた)が「昇級試験を受けたほうがいい」と言ったが、カロリーナは「書類仕事を増やしたくないので」と断っていたのを雪乃は知らない。
「お仕事のほうは片が付いたの?」
「全くついてはいないが、今日明日でどうにかなるものでもないので、帰ってきた。リックたちと一路と海斗は帰るのも面倒だからとあっちに泊まるそうだ」
「そうなのね」
「……雪乃、夕食、少し残っていないか? 小腹が空いたんだが……」
「何も残ってないのよ。でも何か軽く作ってあげるわ。温泉でも入ってくる?」
「そうさせてもらう」
「その間に仕度をしておくわね」
地下へ向かった真尋を見送り、雪乃はキッチンへ行く。真尋の着替えなどは充が用意してくれるので、雪乃は夜食の準備だ。
キッチンの時計を見れば、日付を跨いだばかりだった。
アイテムボックスから土鍋を取り出す。
「便利よねぇ」
こんなこともあろうかと炊き立てご飯入りの土鍋をそのままアイテムボックスに入れておいたのだ。
しゃもじ代わりの木べらを水で濡らしてからご飯をすくって、おにぎりを作る。
「あらあら、夜更かしさんがたくさんね」
途中で、それに気づいて廊下のほうに声をかければ、サヴィラとジョン、レオンハルトが顔を出した。
「トイレに起きたんだ」
「そうしたら、炊き立てのおコメのいい匂いがするってサヴィが」
「父様帰ってきたの?」
「ええ、今は温泉に入ってるわ。焼きおにぎりを作ろうと思っているんだけれど、食べる?」
「「「食べる!」」」
小声ながら揃った返事にくすくす笑いながら、手を洗うように言う。
ジョンとレオンハルトがおにぎりを量産してくれるので、雪乃はサヴィラと一緒にフライパンでおにぎりに刷毛でたれを塗って焼いていく。キッチンがたちまち醤油の焦げる香ばしい匂いでいっぱいになる。
「ユキノ、これは普通のおにぎりじゃないな。カラアゲに通ずるにおいがする」
レオンハルトが至極真剣な顔で言った。
おにぎり自体は子どもたちに好評なのでよく作るのだが、焼きおにぎりは初めてかもしれない。おにぎりを一番上手に握るのはレオンハルトで、苦手なのはサヴィラだ。とはいえ、サヴィラは少し形が不格好になるだけだ。ちなみに真尋も火を使わないので、おにぎりを握るのは上手だが、塩加減がとてもへたくそなのはご愛敬だ。
すべてのおにぎりが焼きおにぎりに変身し終えた頃、真尋が寝間着にガウン姿でキッチンへとやってきた。
「おかえり、父様」
サヴィラに続いて、おかえり、とジョンとレオンハルトも声をかける。真尋はキッチンの時計を見た後、ふっと笑って息子の頭を撫でた。
「夜更かしか?」
「だっていい匂いがするから」
「育ち盛りだからな」
そう言いながら真尋がキッチンのテーブルの椅子に腰かける。
「あっちには予定通り帰れそう?」
サヴィラの問いに真尋が頷く。
「ああ。ただ。どうにもこうにもこっちでもむこうでも処理することが多いから、しばらくは忙しいがな」
「お疲れ様。ほうじ茶で良い?」
焼きおにぎりが乗ったお皿をテーブルに置きながら尋ねれば、真尋はまた「ああ」と短く頷いた。
いただきます、と四つの声が挨拶をするのを背に聞きながら、雪乃は急須に茶葉を入れて、沸かしておいたお湯を入れる。いつの間にか充もキッチンにやってきて、マグカップを人数分用意してくれたのでそこにお茶を注ぐ。
キッチンには椅子は二脚しかないので、もう一つのほうに雪乃は座らせてもらう。立ち食いはお行儀が悪い気もするが、夜中の夜食なので気にしないことにする。
「君も食べるか?」
「私は良いわ。充さんもよければ食べてね」
「ありがとうございます。もしよろしければたくさんありますので、門番さんたちにもおすそ分けしてきても?」
「ええ、もちろんよ」
雪乃が頷くと充がおにぎりを四人分、お皿に乗せて夜勤の騎士たちの下へと持って行く。
子どもたちは美味しそうにおにぎりを頬張っている。これからますます食欲が増していくのだろうと思うとなんだか楽しみだ。プリシラやアマーリアと一緒に、作っても作っても足りないわ、なんて言って笑い合う日も近いだろう。
戻ってきた充もいそいそと白手袋を外して手を洗うと焼きおにぎりにかぶりつく。
「そうだわ。あなた、リラとマリーの件、ありがとう。二人とも喜んでいたわ」
「君やプリシラの負担を減らすのが優先だからな」
何個目かも分からない焼きおにぎりを頬張りながら、真尋が言った。
この人の小腹っておにぎり何個分かしら、と雪乃は少し考えてしまう。余ったら朝食にでも出そうかと思っていたのだが、余りそうにない。
子どもたちは早々に食べ終えて、口をすすぐと二階の寝室へと戻って行った。片づけをと言う充を真尋が部屋に下がらせた。
雪乃は子どもたちの分のマグカップと空になったお皿を洗って、お茶を淹れなおして席へと戻る。
「ふふっ、あの子たち、朝は起きて来るのが少し遅いかもしれないわね」
「そうだな」
真尋の口元が小さくほころぶ。
「ねえ、真尋さん」
「ん?」
真尋がマグカップに手を伸ばしながら振り返る。
「カレンがね、言うの。……グラウのオーブでパパとママを待つ約束だったけれど、ここにはいたくないって」
雪乃は両手でもったカップの中に視線を落とす。
「…………カレンのご両親が領地内にいれば、どこへでもポチをやれるんだが」
そう切り出した夫に目だけを向ける。
「カレンのご両親は王都よりはるか遠いところにいる。ここへ帰って来るには、年単位での時間が必要だ。迂闊にポチを他所へやれば、大騒ぎになりかねない。ジークの許可があるから、ポチはアルゲンテウス辺境伯領だけは自由に飛べるんだ」
ずずっとお茶をすすって、真尋は目を伏せた。
「……ああいう傷は、時間に委ねるしかない」
夫は静かに告げて、またお茶をすすった。
雪乃は生まれた時からポンコツな体と付き合ってきた。そういうものだと諦めて受け入れて、一日一日を愛おしむように生きていた。
だが、真尋があの家政婦に襲われた時ばかりは、自分のポンコツな体を憎んだ。傍にいてあげたかったのに、抱きしめてあげたかったのに、それができなかった。
病院のベッドの上で、真尋を心配するしかできなかった。
雪乃はマグカップを置いて真尋の下へ行き、正面から彼を抱きしめた。
「どうした?」
「抱きしめたい気分なだけ」
「そうか。まあ、君ならいつだって歓迎だ」
大きな手が雪乃の背に回される。
甘えるように雪乃の腕の中に納まる夫の髪を優しく撫でる。
「……疲れた」
ぼそっと真尋がこぼす。
普段、こういうことはめったに言わない夫なので、相当に疲れているのだろうと雪乃はぽんぽんと広い背中を叩く。
「明日……もう今日ね。お仕事?」
「いや、明日は午後から出かける。明後日には帰るし、祭りの間は休日にするつもりだから、色々とな」
「そうなの。ならせめて午前中はゆっくりしてね」
「ああ」
「さ、もう寝ましょう?」
「うん」
頷きつつ離れない夫に、本当に疲れているようだ、と眉を下げる。
「……ミアはお泊りでいないから、ベッドでも抱きしめていてあげ、きゃっ」
突然、視界が高くなって思わず真尋の頭に抱き着く。
すたすたと歩き出した真尋はそのまま寝室へ直行していき、雪乃はぽすんとベッドの上に置かれた。
ごろんと横になった真尋がぎゅうぎゅうと抱き着いてきたので、雪乃は少し体をずらして体勢を整えて抱きしめ返した。存外、甘えん坊な夫のことを可愛いと心から思うのだが、この可愛さだけは誰にも秘密だ。
「ふふっ、甘えん坊で可愛いわね、私の旦那様は」
「…………君にだけだ」
「私以外に甘えたら困るわぁ」
くすくすと笑いながら雪乃は、真尋の髪を撫でてあやす。
よほど疲れているのだろう。一度、雪乃にキスをすると雪乃の胸に顔を埋めたまま、あっという間に眠ってしまった。雪乃は指を振って布団を自分たちにかけなおす。幸い、双子たちはぐっすりと深い眠りに付いているようで起きる気配もない。
「おやすみなさい、私の愛しい旦那様:
雪乃は真尋を抱きしめ直して、その髪にキスをして自分も愛しい夫の体温を感じながら眠りの世界に飛び込んで行ったのだった。
「ただいま戻りました」
ヴァイパーが帰ってきたのは、午後のお茶の時間にさしかかるころだった。
庭先に降り立ったポチは、いつものサイズに戻るとどこかへ飛んでいった。おそらく真尋の下だろう。
「おかえりなさい、ヴァイパー」
「ユキノ様、お迎えありがとうございます」
ヴァイパーが目じりを緩める。
「クィリーンさんは?」
「先ほど無事にブランレトゥに。久しぶりの実家でのびのびできたと楽しそうなご様子でしたよ」
急な帰郷となったため、ジークフリートの補佐をしてくれたり、あちらでの冒険者ギルドの仕事をしたりしていたクィリーンも迎えに行ってもらったのだ。彼女はナルキーサスより随分と年上らしいエルフ族の女性で、ティナの先輩だと言うので一度、会ってみたいものだ。
「果物や野菜は手に入ったかしら」
「はい、質の良いものが手に入りました。もちろんユキノ様やお嬢様のお好きなレーズンもつわりのためのハーブティーも」
「ふふっ、良かったわ。荷物はそのままあなたが持っていてちょうだい。明日には帰るから、夕飯の時に必要なものだけだしてほしいの。それと明日、帰るまででいいから茶器の類をどうするか決めておいて。置いて行ってもいいし、持ち帰ってもかまわないわ。貴方の紅茶の棚はそのままだから、そちらもね」
「かしこまりました。明日の帰宅はいつ頃をご予定ですか?」
「昼過ぎに。昼ご飯の支度まで気を回させたら大変だもの」
「分かりました。ではそのように準備いたします」
「でも今はゆっくり休んで」
するとヴァイパーが困ったように笑いながら首を横に振る。
「丸一日、することがほとんどなくて馬車の中で寝ていたんです。もしまた買い出しに行くようなことがあれば、今度は本でも持って行こうと思います」
「ああ、確かにそれは暇そう」
いつの間に出てきたのかサヴィラが苦笑交じりに頷いた。
するとミアやシルヴィア、レオンハルトとジョンも庭へと出て来る。
「ヴァイパーお兄ちゃん、おかえり!」
「おかえり、ヴァイパー!」
レオンハルトが飛びつけば、ひょいと抱え上げて肩車してしまう。細身に見えて、ヴァイパーは力持ちだ。レーズンが詰まった大瓶がいくつも入った木箱も軽々と持ち上げてしまう。サヴィラ曰く、有鱗族も大型の蛇系の種族は割と力持ちらしい。ヴァイパーがなんの蛇なのかは、詳しくないので知らないが。
「大丈夫そうなら、子どもたちの相手をお願いしていいかしら? 夫も出かけてしまって遊び相手を探しているのよ」
「ええ、もちろんです」
「やった! お兄ちゃん、鬼ごっこしよ!」
「今日はかくれんぼがいいわ!」
「えー、ミアちゃんとサヴィとお兄ちゃんが圧勝じゃん」
子どもたちは賑やかに庭の方へと移動していく。
確かにかくれんぼは、五感の鋭い獣人族や有鱗族がどうしても有利になってしまうものだ。
「では、今日は僕の村で流行っていた遊びはいかがですか? 騎士と泥棒って言うんですが……」
ヴァイパーは代替案を出しながら、子どもたちにぶら下がられたり、引っ付かれたりしながら歩いて行った。村で子どもたちの面倒を見ていただけはあって、彼も面倒見がいい。
「サヴィラはいいの?」
玄関先に残った息子を振り返る。
「俺は良いよ。本読みたいし。ちょっと休憩」
「ふふっ、そうね。真尋さんが出かけちゃってから、ミアったらべったりだったものね」
笑いながら告げると息子は苦笑交じりに肩を竦めた。
午前中は休みにすると言っていた真尋だったが、朝ごはんを終えた頃には申し訳なさそうな顔で騎士が迎えに来て、行きたくないと駄々をこねる夫を送り出したのだ。
すると大好きなパパが行っちゃった、とミアが大泣きで(真尋が出て行くまで我慢してくれていた)、雪乃とサヴィラにべったりと張り付いて離れなかったのだ。双子の世話は、嬉々としてアマーリアやリリー、マリーやリラが代わってくれたので、雪乃とサヴィラはミアと一緒に過ごしていた。午後のお茶の時間になって、ミアの機嫌も上向きになったところだったのだ。
「明日から、父様、休暇なんでしょ?」
「ええ。あなたたちとお祭りに行くのを楽しみにしているみたいだから、なにが何でも休みにするそうよ」
「ミア、今度こそ離れなくなりそう」
「いいのよ、どうせあの人も離さないんだから」
冷えるよとショールを直してくれた息子が家の中に戻ろうと促してくるのに素直に従う。
「まあ、そうなんだけど……でも母様が来てくれてよかったよ。将来、ミアがお嫁に行くって言った時、俺とリックじゃどうにもならなそうだったからさ」
くすくすと笑いながらサヴィラが言った。
「あの人ったら本当に大人げないのよねぇ。自分はさっさと私をお嫁さんにもらったのに」
家の中に入ってサヴィラがドアを閉めた。
「母様、今日の夕飯は? 仕度手伝うよ」
「あら、本を読んでいてもいいのよ?」
「仕度が終わったら読むよ。今夜はどうする?」
「そうねえ、何がいいかしら……ヴァイパーに何を買ってきてくれたか聞けばよかったわねぇ。ああ、でもジャガイモがたくさんあるし、ミルクも使っちゃいたいから、ジャガイモのグラタンなんてどうかしら? 個別に出さないで大きなグラタン皿で焼くのよ」
「いいね、美味しそう。ねえ、母様、ミルクは余る? 余るならデザートはプリンが良い」
「いいわよ。卵もあるし……プリンならカレンも食べられるかしら……」
その時、背後の玄関で呼び鈴が鳴らされた。
門番が通したということは知り合いだろうけれど、と首を傾げるが、サヴィラがためらいなくドアを開けた。
「どうしたんですか? 父様に何か?」
どうやら息子は来客が誰か分かっていたようで、開口一番、そう問いかけた。
そこに立っていたのはジークフリートと護衛騎士のオーランドだった。
「マヒロは元気だよ、ただ……少しばかり、機嫌は悪いがな」
「すみません、父が大人げなくて……」
サヴィラが申し訳なさそうに言った。
ジークフリートは「君の方が大人だ」と苦笑を零す。
「急に来てすまないんだが、アマーリアとユキノ夫人はいるだろうか?」
聞こえてきた名前に雪乃はとりあえず「ジークフリート様」と声をかけて、ドアの陰から出て息子の隣に並んだ。
「急にどうされました?」
「すまない。今、大丈夫だろうか?」
この間までの態度が嘘のように下手に出るジークフリートに雪乃は鷹揚に頷く。
「アマーリアは?」
「二階に。お呼びしますか?」
「いや、あの、先に夫人に見てほしいものがあって……」
そう言ってジークフリートが小脇に抱えていた三冊の本を取り出した。
一番上は子猫が箔押しされた可愛らしいもので、その下には剣と盾が箔押しされたもの。一番下は美しい百合の花が箔押しされたものだった。どれもこれも装丁が凝っていて美しい品だ。
「なんの本ですの?」
「いや、本じゃなくて、ノートなんだ」
そう言って彼は、その内の一冊をサヴィラにそれを渡した。サヴィラが開くと中は白紙で、確かにノートのようだった。
「せめてもと、あの、アマーリアや子どもたちを想像して選んでみたんだが……」
ジークフリートが不安そうに言った。
「まあ、領主様自ら?」
「あ、ああ。店はカロリーナに教えてもらった。彼女は可愛いものが好きで詳しいのでな」
雪乃はまじまじと三冊のノートを見つめる。どれもこれも綺麗で素晴らしく凝った品だ。
ジークフリートが大きな背中を丸めて店先でこれらを選んでいる姿を想像すると微笑ましい気持ちになってしまう。
「ふふっ、どれも素敵ですわ。交換日記用のものですか?」
雪乃がそう告げるとジークフリートがあからさまにほっとしたような顔になる。
「ああ。だが、その、情けないが個人的な日記というものを書いたことがなくて、業務日誌なら嫌というほどあるんだが……このままだと業務日誌になりそうで、そうしたらマヒロがそういうことはユキノ夫人に相談したらいいと」
「そうでしたか。では、一旦、お預かりしてもよろしいですか? それで一番最初のページに私がこの日記の簡単な書き方の説明を書いてもよろしいですか?」
「書き方?」
「ええ。アマーリアが日記を書いているかは知りませんが、日記というものは普通は人に見せるものではありませんでしょう? ですから、人に見せるために必要な項目、といいましょうか、領主様がご家族と仲良くなれるために必要な項目を書いておくのはいかがと思いまして」
「必要な項目、例えばどんなものだろうか? 支出とかか?」
「支出って……ヴィーはまだ五歳で自分で買い物もしないのに?」
サヴィラが呆れたように言った。
雪乃も痛む頭を押さえて口を開く。
「それは家計管理帳にでもお書きなさい。……そうではなくて、相手はアマーリアだけではなく、幼いレオンやヴィーも入るのでしょう?」
雪乃の指摘にジークフリートが気まずそうに目を泳がせた。
あまりに情緒がなさすぎるのだが、どういうことなのだろうか。持って生まれたものなのか、彼の生まれ育った環境なのか、おそらく前者なのだろうなと彼のとても繊細で情緒ある弟を思い出して雪乃は溜息を零した。
「嬉しかったことや、悲しかったこと。相手に聞きたいこと、そういう項目です」
「な、なるほど?」
「レオンハルトがサヴィラほどの年になったら、業務日誌でも構わないとおもいます。あの子だっていずれはアルゲンテウス辺境伯領を継ぐのですから、勉強にもなりますでしょうし。でも、レオンハルトはまだ六歳です。シルヴィアは五歳。あなたは、子どもたちに分かりやすく、簡単な言葉で日常を伝える必要があります。間違っても『今日は真尋神父と会談。領地運営に関する問題点の提起と解決策についての話し合いをした』なんて書かないでくださいね」
「……え、じゃ、じゃあ、何を書けばいいんだ? 私の日常何て階段や会議、書類仕事ばっかりだ」
ジークフリートがオロオロしだす後ろで彼の護衛騎士のオーランドは遠くを見つめている。彼らにジークフリートの情緒について文句を言っても仕方ないだろう。ジークフリートよりも年下の彼らが、主の情緒を育てたわけではないのだ。
「貴方、私の夫と同じくらい情緒ってものがないのね……」
「類は友を呼ぶってこういうことを言うんだろうね」
サヴィラが溜息交じりに言った。
雪乃の夫にもそういう繊細な感性は備わっていない。充との交換日記も雪乃が最初に指導を入れたのだ。中学校でも生徒会長だった彼は生徒会活動について書いていたのだが、それをその学校の生徒でもない充にどうしろという話である。とはいえ、彼の場合は家族や友人に対しては愛情深かったので、まだ「私や双子ちゃんたち、一くんや海斗くんとの日々を書けばいいわ」と伝えればなんとかなったのだ。
「分かりました。最初の日は、アマーリアたちに書いてもらいましょう。それで最初の数回は、一路くんか海斗くんに書き方についての指導を入れてもらってください。間違っても私の夫には頼まないように」
「分かった」
ジークフリートが神妙な顔で頷く。雪乃は後ろに控えるオーランドに目くばせをした。彼は深く頷いて決意の表情を浮かべた。
「領主様はいつお帰りになるのですか?」
「……アマーリアが良いと言ってくれたら、明日、共に帰りたいのだが……それを彼女に聞きに来たんだ」
「ではそのようになさいませ。もし、アマーリアが良いと言ってくれたら、明日、帰るときにこれを自ら渡してください。それで交換日記をしようと伝えるのです。それまでに私も先ほどの項目について書いておきますから。分かりましたか?」
「分かった」
「では、アマーリアを呼びましょう。サヴィ、お願いできる?」
任せて、と頷いて息子が二階へ上がって行く。雪乃はその間に日記となるノートたちをアイテムボックスにしまった。
少しして、不安そうな顔のアマーリアとリリー、アイリスが降りてきた。一番最後にサヴィラが降りてきて、息子は既にいっぱいの玄関ホールには降りず、階段の途中で止まった。
「どうなさいました? 何か問題でも……?」
足早に駆け寄ってきたアマーリアが問いかける。
「何も問題も事件も起きていない。君に確認したいことがあってきたんだ」
「確認?」
アマーリアが首を傾げた。長い銀の髪がさらさらと揺れる。
ジークフリートが緊張した面持ちで口を開く。
「明日、ブランレトゥに帰るとき、私も、君たちと同じ馬車に、ど、同乗しても、いいだろうか?」
「は、はぁ。わたくしは神父様所有の馬車にご厚意で乗せて頂く身ですので、神父様に許可をとる方がよろしいのではないでしょうか?」
ジークフリートの勇気はアマーリアの天然に打ち砕かれた。
雪乃は噴き出さなかったことを褒めてほしかった。息子は階段の手すりについた腕に顔を埋めているし、リリーとアイリスは必死に唇を噛みしめている。ジークフリートの後ろでオーランドだけが憐みを込めた目で主を見ていた。
「……そ、そうか、そうだな……マヒロに聞いてみる」
しょんとしてしまったジークフリートにアマーリアが「旦那様?」とオロオロしている。
だが、仕方がないとも思う。だってこれまでジークフリートはアマーリアに有無を言わせなかったのだし、彼女は夫に従うように教育されているのだから、他ならない夫に同乗していいか、と聞かれれば「はい」しか言わないのは分かり切っていることだ。
せめて「気を遣わせてしまうかもしれないが」とか「気まずいかもしれないが」とか、相手を慮る言葉があればよかったのだろうが、緊張のあまりそういうことにジークフリートは気を回すことができないのだろうな、と察せられる。
「アマーリア」
雪乃は、昨夜、疲れ果てていた夫を思い浮かべて、夫のために多少の助け舟を出すことにした。
「領主様は、この間、仲直りをしたばかりだから、貴女が気を遣うんじゃないかって心配してくださっているのよ」
青い瞳がぱちりと瞬く。
「それにほら、レオンハルトは領主様に対して少し緊張してしまうところがあるでしょう? だから、より心配してくださっているのよ」
はっとしたアマーリアが、ジークフリートを縋るように見上げる。
「……ジークフリート様、レオンハルトは優しい子で、わたくしを心配して、守ろうとしてくれているだけなのです。ですから少し態度がそっけなくて、警戒しているように感じるかもしれませんが、どうか叱らないでくださいませ……っ」
アマーリアの天然製のナイフがジークフリートの心を突き刺していることに彼女は気づいていない。
つまるところ、息子に敵認定されていると言われたジークフリートは、虫の息だ。
「こ、この間までジークフリート様のようになると言っていたのですが、話し合いをした日にあの子も色々と思うところがあったみたいで、神父様のような男性になりたいと言い出して……あの、でも、ユキノがそれは止めた方がいいと止めたのですが、ええと」
これは久しぶりの夫に彼女自身、大分混乱しているな、とすでに死にそうなジークフリートにとどめを刺し続けているアマーリアに雪乃は細い肩に触れて彼女を止める。
「アマーリア、大丈夫よ。そういうことは後々ね」
「え、ええ。そうね、こんな玄関先で話すようなことじゃないわね」
アマーリアが少し冷静さを取り戻す。
そして、死にそうな夫に向き直った。
「……もし、ジークフリート様がよければ、レオンハルトとも少しお時間を取って頂ければと思います」
「ああ、分かった……頑張るよ」
ジークフリートの目は死んでいるが、自業自得なのでどうしようもできない。
「では、また明日……急なことにも係わらず、時間をとってくれてありがとう」
お礼を言われたことにアマーリアが驚いて目を丸くしている。
真尋より教育の成果が出るのが早いことに雪乃は満足げに頷いた。
「い、いえ。お気をつけて、いってらっしゃいませ」
ジークフリートは一つ頷くと雪乃に「妻を頼む」と告げるとドアを閉めて帰って行った。
「なんだったのかしら……?」
心底不思議そうに雪乃を振り返ったアマーリアに、雪乃は苦笑交じりに首を横に振る。
「確認したかったのよ、どうしても」
「でも、馬車は神父様のものですし、ポチちゃんも神父様のものですのに……わたくしに確認してどうなさるのかしら? はっ、もしや私が領主夫人としてユキノや神父様に大きい顔をしていると心配されて……!?」
斜め上すぎるアマーリアの誤解についにアイリスが噴き出した。リリーは天井を仰いで長々と息を吐き出しているし、サヴィラに至っては階段にうずくまってしまっている。
雪乃は自分がある程度、感情をコントロールするのが得意でよかったと、笑い出しそうなのをぐっとこらえて、微笑んだ。
「……いいえ、そうじゃないと思うわ。そうね、それは、ええ、その内、分かると思うわ」
前途は多難そうね、と雪乃は「お茶にでもしましょ」と声をかけて、リビングへと足を向けたのだった。
オマケ
グラウの騎士団での事情聴取から真尋たちが倉庫へ戻るとジークフリートが会議スペースの片隅で膝を抱えていじけていた。
その横で護衛騎士のホレスとオーランドがおろおろしている。書類仕事をしている騎士たちも、心配そうにジークフリートの様子を伺いながら手を動かしているようだった。
「……何がどうしたんだ、あれは」
真尋は留守番をしていた一路に問いかける。
「いや、それが僕もよくわかんなくて……なんか帰ってきたら、ああなっちゃって」
一路が困惑気味に答える。その横で同じく留守番のエドワードも首を横に振っていた。
真尋とともに騎士団に行っていたリック、ウィルフレッド、レベリオは顔を見合わせた。
ウィルフレッドに目で「行け」と言われたジークフリートの乳兄弟のレベリオが膝をかかえた彼の下へ行く。
レベリオが膝に手をついてかがみ、声をかける。
「どうしたんです、ジーク」
「…………アマーリアに」
「はい」
「明日、ブランレトゥに帰るときに私も馬車に同乗してもいいか、と聞きに行った」
「ああ、そういえば昨夜、そんなことを言っていましたね。どうでした?」
「…………馬車は真尋のものだから、真尋に許可をとったほうがいい、と」
ぶふっと海斗が真っ先に噴き出した。
真尋は、意味もなく息を吐き出して天井を仰いだ。
「そ、そうですか……」
「ユキノ夫人が助け舟を出してくれて、アマーリアや子どもたちが気まずくならないようにと言っていると言ってくれたんだが……」
「だが?」
「アマーリアに、レオンハルトが私を警戒しているのは、アマーリアを守ろうとしているだけって言われた」
「…………そう、ですか」
レベリオがもうすでに返答に窮し始めている。
ウィルフレッドは遠くを見つめ始めていた。
「その上」
「まだあるんですか?」
「レオンハルトが、最近、お父様みたいになる、じゃなくて、神父様みたいになるって言いだしたと」
「…………」
レベリオがついに言葉に詰まった。騎士たちも気まずそうにしている。
噴き出したあと、必死に笑いをかみ殺していた海斗があまりに哀れだと思ったのか真顔になっているし、一路はオロオロしている。ウィルフレッドは目を閉じて現実逃避していた。
おそらくジークフリートには言葉と信頼が足りないし、受け取る側のアマーリアがド天然だったのが敗因だろうな、と真尋は深く息を吐きだした。
「まあ……頑張れ」
「お前、神父だろぉ……っ!」
ジークフリートが両手で顔を覆う。
「神父は万能じゃない。救えないものもある」
「そうそう。まずはそうだね、信頼関係を地道に築いていくしかないね」
海斗がうんうんと頷いた。
神父二人に見捨てられたジークフリートが一路を見た。
「僕、まだまだ半人前の見習いなんで~」
そそくさと一路は手元の資料に目を落とした。
「くそ神父共め!!」
盛大に拗ね始めたジークフリートに真尋は「ああ、くそ神父で結構」と返し、海斗は「無理なものは無理だもんね~」と言いながら一路の隣の席に座った。
するとそこに妻子に捨てられた騎士のジョージが歩み出て、ジークフリートの隣に膝をついた。
「妻と息子はあの日も普通でした。今思えば俺が普通だと思っていただけなんでしょうが、最後に一緒に過ごしたあの日だって家族三人仲良く食卓を囲んで、妻も息子も『気を付けてね』と俺を遠征に送り出してくれました。でも……遠征から帰ったら、妻も息子も、いませんでした。俺は気づかなかったんです。彼女や息子のものが家の中から少しずつ消えていることも、彼女が育児に疲れ果てていたことも、何も気づかなかった。今では月に一度、息子に半日だけ会わせてもらうのがやっとです。……でも彼女、再婚するみたいで月一の面会も渋られ始めてて……そうですよね。息子はまだ四歳で、今なら新しい父親に馴染みますもんね。名ばかりの父親だった俺がいたら邪魔になるのは、分かってるんです。……領主様、終わりって突然来るように見えますが、本当はそうじゃない。終わりの予兆は日常に転がってるんです。だから、よーく目を凝らしてみてください。そこに気づけるか否かが今後を左右するんです。本当に、気を付けて下さいね」
ジョージの生々しすぎる体験談にジークフリートの顔から感情という感情が消え失せた。そして、無言でぎゅっと膝を抱えてますます縮こまってしまった。その横でレベリオまで発作を起こして、膝を抱えてイマジナリー雑草を抜き始めてしまった。ジークフリートの護衛騎士二人は真っ青な顔で固まっていた。
しまいには既婚の騎士たちが神に祈り始めているし、数人、小鳥に向かって妻の名前と子どもの名前、そして愛してると吹き込んで飛ばしている。
もはや呪いの怪談である。
「ジョージ、とどめを刺してどうする……」
カロリーナが溜息交じりに言った。
「え!? と、留めなんて、俺は領主様に俺と同じ轍を踏んでほしくなくてですね……!!」
「そうだな、ジョージの話はとても良い薬だと思う」
真尋は頷いて、最近の定位置になりつつある席に腰かける。そこには当たり前のように真尋が目を通さなければならない資料が山積みになっている。これも明日にはブランレトゥの屋敷のデスクに移動するのだ。
「前途が多難だ」
真尋のつぶやきに隣の幼馴染兄弟と護衛騎士、そして、騎士たちが深々と頷いたのだった。
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ここまで読んで下さって、ありがとうございます!
いつも閲覧、お気に入り登録、感想、エール、本当に励みになっております^^
第二部も次回のお話で最終話となります!
ですので、本日は感想欄を閉じさせて頂き、明日の最終話投稿の際にまた開かせて頂きます。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。
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