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本編 2
第六十四話 気づかされた男
しおりを挟むジークフリートの目の前には、穏やかに微笑む執事の青年――ミツルが立っていた。
「マヒロ神父はいるだろうか」
「お約束はございますでしょうか?」
マヒロのグラウの別宅の玄関先で今日も汚れ一つ、シワ一つない燕尾服を着こなした執事は優雅に首を傾げた。
「約束はしていないのだが……彼も私が今日戻ることは知っているだろう? それにユキノ夫人が三日以内に戻れと」
「お約束がないのでしたら、お通しするわけには参りません」
青年はきっぱりと言い切った。
ジークフリートは、思わず自分の後ろを振り返る。護衛騎士は困惑の表情を浮かべている。その向こう、ポーチの柱に腕を組んで寄りかかっていたカイトは胡乱な目をしていて、助けてくれる気がないのだけが伝わってくる。
「何か伝言などありましたら、伝えることは可能で御座います。ですが、主人は忙しく、お返事には些かのお時間を頂戴いたします」
「いや、マヒロは会えなくてもこの際、大丈夫だ。私が本当に会いに来たのは、私の妻なのだが。ここでは仕事もないのだから、会えるだろう?」
「五十点減点」
おっとりとした女性の声がミツルの背後から聞こえた。
ドアが開き、メイドを二人連れたユキノがやってきて、ミツルが横へ退く。
「ユキノ夫人、君が言う通りに戻った」
「挨拶ができない。十六点減点。見たところ……手ぶらだわぁ。四点減点」
にこにこしながらユキノが告げる。すると彼女の後ろにいる妖精族のメイドが手帳に何かを書き留める。ジークフリートは、自身の頬が引くつくのを感じた。
「……ごきげんよう、ユキノ夫人」
「ごきげんよう」
ユキノはスカートをつまんで軽く一礼する。
「……」
「……」
ユキノは微笑むばかりで何も言わない。
「妻に、会いに来たのだが……」
「どうしてお会いになりたいのかしら」
「それは、そろそろ城館に帰るためにも、その説得を、だな。私を呼び戻したということは、妻も帰る気になったのだろう? それにもう城も安全だ」
「十二点減点」
また妖精族のメイドがペンを動かす。
「私、そんな伝言頼んだかしら?」
ユキノが不思議そうに首を傾げた。
「帰って来いと言ったのは、君だろう?」
「やだわぁ、この方、頭が悪いのかしら。私は、領主を続けたいなら帰ってきてとお伝えしただけですけれど」
はぁ、とわざとらしいため息を吐かれる。
ぴくぴくっとジークフリートの頬が痙攣する。
「土下座の準備はしてらしたの?」
見下すような微笑みにこめかみに青筋が立つ。
「こちらが下手に出ていれば……! 人を馬鹿にするもいい加減にしないか!!」
「お黙りなさい」
思わず張り上げた声に帰ってきたのは、鋭いナイフのような凛とした声だった。鼓膜を破りかねないような大声ではない。だが、大きな声ではないはずなのに確かな威圧感があった。
銀に紫の混じる眼差しが、真っ直ぐにジークフリートを見据える。
「貴方こそ女を馬鹿にするのをいい加減になさって? 十七点減点」
真顔でユキノが首を傾げた。
「家の中にいるから仕事がない? 馬鹿おっしゃらないで。仕事というのは、外で働くだけじゃないの。そうでしょう? 執事もメイドも家の中にいるだけで仕事をしていないのかしら? それに……アマーリアは、子育てをしているわ。これこそ立派なお仕事の一つだわ。貴方は子育てにはほとんど関わらなかったようだけれど」
「私だって、レオンハルトやシルヴィアが不自由のない生活ができるように心を砕いているし、最高の講師を用意してだな……!」
「この人、本当に馬鹿なのかしら」
心底呆れたように告げてユキノが肩を落とした。
「……レオンハルトやシルヴィアが、その優秀な講師の話を聞くまでに成長したのは誰のおかげかしら。ひとりで歩けるようになったのは、着替えを自分でできるようになったのは、食事を自分でできるようになったのは、一体、誰のおかげなの? 貴婦人としての仕事を取り上げられたアマーリアが、心血を注いで子育てに向き合った結果が、今、元気で立派に生きているあの子たちでしょう? それを『不自由のない生活』? 『講師を用意』? 自分の子どもに向き合う時間も設けず人任せにしておいて、自分でやった気になるなんて、随分と滑稽ね。そもそも貴方がおっしゃる『子育て』。それ、貴方じゃなくても誰だってできるでしょう?」
ユキノだけでなく、その後ろにいるメイドたちまで、人を蔑むような目をしているではないか。
だが、ジークフリートは言い返すことはおろか、指一本、動かすことができなくなっていた。
「子育てってね、第三者に感謝されることはまずないの。だけど、一人だけ絶対に感謝をしなければならない人がいる。それが、父親であり夫よ。貴方はアマーリアにレオンハルトとシルヴィアが真っ当に育っていることに関して、きちんと感謝をしたことがあって?」
かろうじてかすかに首を横に振ることができた。
「……黙って俺について来いとでも思っているのか知らないけれど、私たちはお人形じゃないのよ。思考する頭があって、意思があって、心があるの。感謝の言葉もなければ、説明というものまで省いておいて、理解しろなんて馬鹿げているにもほどがあるわ。貴方の乳兄弟もそうだけれど、言葉にしないと他人には伝わらないのなんて、私の娘だって知っていることだわ」
ジークフリートの脳裏に息子と同い年の兎の少女が浮かぶ。
「貴方が真っ先にすべきことは、私に『アマーリアに会わせてください』と頭を下げることだわ。アマーリアは追い詰められて、追い詰められて、ここに逃げてきたの。実家は遠く、知らない土地で頼る人もいない彼女が、どんな思いで私の夫のところに家出したと思っているの。何もさせてもらえなくても、辺境伯夫人という矜持をもっているわ。……物心ついたときには辺境伯夫人になるための教育を受けて育ったアマーリアは、それ以外の生きる道を知らない。なのに貴方は何も言わないまま、それを奪った」
「そ、れは……」
「アマーリアは、覚悟を決めてあなたと向き合うつもりでいるのに、どうして貴方は逃げることばかり考えているの。二人の間をなあなあにして、ブランレトゥに帰って、誰が幸せになれるの?」
銀に紫の混じる眼差しは、ジークフリートの心の中を見透かしているかのようだった。
「……貴方、私の夫に会う時は、どんな手順を踏むの」
唐突な問いかけに戸惑いながらもなんとか答える。
「まずは……予定の確認をして、会う日時を決める」
「だったら自分の妻にも同じことしなさい。彼女がいるのは貴方の城じゃないの。ここは私たち家族の家よ」
ドのつく正論に返す言葉もない。
「誠意を見せなさい。妻は貴方の所有物じゃないの。自分の妻一人大事にできない人が、領主として成功するわけがないわ。自分のご家庭を平和に治めてから、他所を治めなさい」
「……はい」
「今、貴方がすべきことくらいは分かるわね?」
「出直して参ります」
「よろしい」
ユキノが鷹揚に頷くと妖精族のメイドが手帳のページを破ってユキノに差し出す。それを受け取って彼女は一つ頷くとまたジークフリートに向き直る。
どうぞ、と差し出された紙を受け取る。そこには百からどんどん数字が引かれている。
「採点結果よ。百点満点中一点。首の皮一枚つながったわね。この一点に免じて、一日だけ領主交代への期限を延長してあげましょう」
ゼロかそれ以下になっていたらどうなっていたのだろう、と微笑むユキノに背筋に冷たいものが走った。
冗談か大げさな脅しだと思っていた領主交代は、もしかしたら雪乃の気分一つで決まってしまうほど、もろいものだったのかもしれないと今更ながらにカイトの忠告が身に染みる。
「マリー、リラ、行きますよ。充さん、お客様を見送って差し上げて」
「はい」
メイドたちに声を掛けユキノは優雅に去って行く。
パタンと静かにドアがしまり、そのドアの前にまたミツルが立つ。
「……だから、言ったじゃん」
カイトが心底呆れたように言った。
「雪乃を甘く見過ぎ」
ジークフリートは採点結果の紙を指に挟んだまま両手で顔を覆いながら頷いた。
「今までジークがどんな女を相手にしてきたか知らないけど、雪乃に挑むんだったら筋を通したほうがいい。ちゃんと事前に連絡を入れて、身なりを整えて、手土産の一つも持って、誠心誠意謝罪と感謝を述べて、おそらくそれなら多分、家に入れてくれる、はず。きっとね」
「不確かすぎないか……」
「だって、君ときたら雪乃の怒りの巣穴を悉く踏み抜くから……真尋によく似てるよ。さすが、友達。類は友を呼んでいるどころか呼びつけてる」
パチパチと乾いた拍手が送られる。ちっとも嬉しくない。
「昨日も真尋様はここで土下座をなさっていたのですが、例のごとく言い訳をしたものですから、お説教が三十分ほど延長されました」
ミツルの言葉にカイトが「あいつも懲りないねぇ」と苦笑をこぼした。
「ジーク様、いかがいたしますか」
ホレスがおずおずと問いかけてくる。
「一度、帰ろうにも……どこか宿をとるか」
「領主様は、第二小隊の宿の庭先に馬車とともに宿泊をとのことでございました」
「そうだよ、ジーク。そこで今から、決戦に向けて作戦会議だ。今度はちゃんと俺の話を聞くこと。いいね?」
カイトがまるで弟を嗜めるように言った。彼よりジークフリートのほうが随分と年上なのだが、彼の言葉に従わずに痛い目を見たのは自分自身なので反論はできない。
「帰る前に、このマヒロ夫妻に仕える執事さんにお願いすることは?」
カイトの言葉に数瞬悩んで、ジークフリートは口を開く。
「君の主人夫妻と、私の妻の予定を確認して、空いている時間があったら教えてほしい」
「かしこまりました。こちらがその時間でございます」
流れるように差し出されたメモを受け取る。
呆気にとられて固まっているとカイトが横からそのメモを受け取り、開いた。
「あー、明日か明後日か、どっちがいいかな。決戦は早めがいいな。明日の午前、だと……手土産の準備がいるな。この午後二時、ここにしよう。マヒロには俺が伝えておくよ。そういえば、レベリオは? まだ草むしり?」
「マヒロ様と一緒に指揮をとられております」
「その事件についても詳しく知りたいのだが……」
「夫婦間の問題が決着したら教えてやる、というのが真尋様からの伝言でございます」
「…………」
やはり何も言えなくて押し黙るほかなかったのだった。
「ユキノ、お客様はお帰りになった?」
二階のアマーリアの部屋を訪れれば、ひょっこりと彼女が顔を出す。
彼女の存在は、安全のために基本的に隠されているので、客が来る気配をミツルが察知したら二階に行くようにしているのだ。
そうはいっても我が家で働くことになるマリーとリラには隠せないので、今朝、紹介した。自分の家の騎士団の不始末を詫びるアマーリアに二人は驚いていたが、アマーリア様は悪いわけではありませんから、と逆に彼女を慰めていた。
「ええ。真尋さんに用だったみたい」
「神父様、随分とお忙しいようだけれどお体は大丈夫かしら……」
「大丈夫よ。丈夫なのが取り柄ですもの。それより下でお茶にしましょう? ミアとヴィーも一緒に。ティナもここ?」
「ええ。あ、まだユキノは入っちゃだめよ。完成していないんだもの」
部屋を覗こうとするとうふふっと笑ったアマーリアが通せんぼする。
彼女は雪乃の可愛い赤ちゃんのための服を作ってくれているのだ。ミアとシルヴィア、そして、ティナも何やらそれを手助けしているのだ。
「あらあら、ますます楽しみだわ」
ふふっと笑って一歩下がる。アマーリアが、後ろを振り返って子どもたちとティナを呼び、一緒に下へと降りる。
「ママ、今日のおやつはなぁに?」
「今日はパンケーキよ。生クリームと果物を好きなようにのせるの」
ミアと手をつないでダイニングへと歩きながら答えれば、ミアはぱぁぁぁと効果音が聞こえてきそうなほど顔を輝かせた。
振り返れば、シルヴィアとアマーリアとティナも同じ顔をしていて、雪乃はくすくすと笑いながら、ヴァイパーがドアを開けてくれたのに礼を言ってダイニングへ入る。
「ミアちゃん、こっちこっち!」
ジョンが手招きするとミアはユキノを見上げる。「行ってらっしゃいな」と手を離せば、同じくアマーリアに送り出されたシルヴィアとともにジョンとレオンハルト、サヴィラがいるほうへかけて行く。
「私もお手伝いします」
そう言ってティナもマリーとリラの下へ行き、子どもたちのお皿にパンケーキを乗せてくれる。
テーブルの上には、小さなパンケーキが山積みになっていて、そのまわりに生クリームの入ったボウルや色々な果物のジャムの瓶、リンゴにナシ、ブドウにオレンジといった果物が載せるだけの状態になってお皿に並んでいる。
子どもたちは、思い思いにパンケーキにトッピングをして楽しそうだ。
「母様、差し入れに行ってくるよ」
「ええ、お願いね」
我が家を警備してくれている騎士たちにもおやつを差し入れているのだ。
「サヴィ、ミアも行く! だってミアが、かざったんだもん!」
ミアが椅子からぴょんと降りて、兄について行く。そのほほえましい姿を見ているだけで笑みがこぼれる。
雪乃は、雪乃の席の隣に置かれたゆりかごをのぞき込む。双子は起きていて、真智は手足をばたばたさせながら、上の子どもたちと作ったベッドメリーの我が家のペットたちをイメージした馬やドラゴン、クマの人形に手を伸ばしている。一方の真咲はじっと自分の手を見たり、隣で動いている真智を見ていた。
どちらもご機嫌なようで、のぞき込んだ雪乃を見つけると、にこっと笑った。
「ふふっ、私の可愛い赤ちゃんたち、ご機嫌ね」
それぞれの頬を撫でると嬉しそうに手足をバタバタさせている。
「やっぱりいつ見ても赤ちゃんは可愛いですわ」
アマーリアが横からのぞき込む。
「お母様! わたくしがもりつけましたのよ!」
シルヴィアがお皿を手にやって来る。受け取ったアマーリアは嬉しそうに目を細める。
「ありがとう、シルヴィア。上手ですわね。お母様の好きなリンゴにブドウものってるわ」
「とうぜんですわ! それでね、こっちはイチゴのジャムにしましたの。生クリームとまぜるとピンク色になるんですの!」
シルヴィアが得意げに説明するのをアマーリアは楽しそうに聞いている。
そうしているうちにサヴィラとミアも戻ってきて、ミアもシルヴィアを真似して、雪乃のパンケーキにデコレーションを施してくれた。
「リラ、マリーも、好きに食べてね」
「はい、ありがとうございます!」
ジークフリートが来るまで、マリーとリラもパンケーキの準備を手伝ってくれていたのだ。
今日の朝から二人ともメイド見習いとして働いている。二人のメイド服は真尋が持っていたものだ。我が家で雇うメイドの制服を考えるために中古で買ったものらしく、それを昨夜の内に雪乃が手直ししたのだ。もともと中古とはいえ美品だったので、それほど手間はかからなかった。
たぶん、二人も家族からの許可が出れば、我が家で採用となる。そうなったらメイド服は、彼女たちと一緒に考えたい。やっぱり着る人の意見は大事だ。それに真尋がメイド長は、クレアに任せたいと言っていたので、彼女の意見も聞きたいところだ。
「あの、ユキノ様、よろしければ私たちはカレンのところで食べてもいいですか?」
「果物ならあの子も食べられるかと思って、少し取り分けてあるのです」
「ええ、もちろん。私もあとで顔を出すわ」
ありがとうございます、と二人は頭を下げて、手にあれこれもってダイニングを出て行く。
「二人ともカレンさんが心配で仕方ないのね」
隣に座るアマーリアが憂うように眉を下げる。
「大丈夫。カレンは快方に向かっているわ。今夜からパン粥にだって挑戦するのよ」
彼女の背に手を添えて雪乃は告げる。騎士団の怠慢の被害者であるカレンたちにアマーリアは、申し訳ない気持ちでいっぱいのようなのだ。
「私たちに胸につかえていたことを話せたからか、ぐんぐん回復しているの。だから大丈夫よ」
「わたくしにも何かできることがあったら、遠慮なく教えてね」
「分かったわ。さあ、今はおやつを楽しみましょう。せっかく、娘たちが作ってくれたんだもの」
雪乃とアマーリアは、ナイフとフォークを手に取り、パンケーキに手を付ける。
もっちりしたパンケーキはバターで焼いたので香りが良い。そこに甘い生クリームと甘酸っぱい果物が加わって、口の中が幸せだ。ヴァイパーが淹れてくれた紅茶が口の中をさっぱりとさせてくれるので、より美味しさが引き立つ。
子どもたちも嬉しそうにパンケーキを頬張っている。サヴィラやヴァイパーは、生クリームではなく、チーズやハムを乗せていた。二人とも十代の食べ盛りなので、甘いものよりしょっぱいものがいいのかもしれない。
「そういえば、ジョン。今日のお手紙には、何か書いてあった?」
今朝、ジョン宛に両親から手紙が届いたのだ。
「うん。あのね、お母さんのつわりがとてもよくなったんだって。今は元気にご飯食べてるってお父さんが教えてくれたんだ」
「まあ、本当に? よかったわ」
「ヴァイパーお兄ちゃんがくれたハーブティーがすごくつわりによかったって。あの……僕のお小遣いで買えるかな? またお母さんに贈りたいんだけど……」
ジョンがサヴィラの隣にいるヴァイパーにおずおずと問いかける。
ヴァイパーは、ジョンのお願いを受け止めると眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めた。
「ジョン、あのハーブは実家に頼めばいくらでも届けてもらえるから。それにこれからプリシラさんたちにお世話になるのは、きっと僕なんだから遠慮しないで。また用意しておくから、お返事を出すときに教えて」
「ありがとう!」
ヴァイパーの言葉にジョンが嬉しそうに笑った。ミアが「よかったねぇ」と声をかける。
プリシラのつわりが酷いとぽろっと漏らしたら、ヴァイパーが良いものがあります、とハーブティーを用意してくれたのだ。
なんでも彼の故郷であるシケット村では妊婦はつわりの時好んでにこれを飲むらしい。雪乃も飲んだのだが、柑橘のようなさわやかな香りとそれに反した穏やかな口当たりのハーブティーだった。胸がむかむかしている時にはすっきりするだろう味わいだった。
「なら、ポチちゃんが帰ってきたら、補充を頼みましょう。レーズンもそろそろなくなってしまいそうだし……ヴァイパー、貴方が適任だろうから、買い付けをお願いね」
「かしこまりました」
「きっと、ヴァイパーさんの故郷であるシケット村は、世界樹の魔力の恩恵を受けているから、ハーブや野菜、果物がより美味しいのでしょうね」
アマーリアが言った。
「そういうものなの?」
「わたくしの侍女の一人がエルフ族なのだけれど、そう言っていたわ。でも、ポチちゃんがいない限り、短時間での輸送が難しいでしょう? アイテムボックスの容量は限られているし……」
雪乃たちがティーンクトゥスからもらったアイテムボックスは、無限に収納できるような代物だが、一般的にはそうではないらしい。
「確かに……日持ちするワインはともかく、新鮮な野菜や果物は周辺の村や町にしか届けられないんです。それに輸送費がかかるので、保存食の類も遠くの町に着くまでには、高額になってしまうんですよ。でもだからと言って、こちらの懐が潤うわけではないんです」
「それに世界樹の魔力は王国全土をめぐっているそうだけれど、やっぱりシケット村のように近い場所はよりその影響が強いのね。村の作物の種を分けてもらって土壌や気候の問題を解決すれば、違う場所でも作れるのでしょうけれど、やはり世界樹の魔力はどうにもならないもの。同じようにエルフ族や妖精族の里で栽培されている薬草も薬にした際に全然効果が違うので、買うとなるととても高いのですよ」
「私はあちらでお仕事をしている時に食事はシケット村の食堂でとっていたんですが、やっぱりお野菜や果物が本当に美味しかったです」
ティナが言った。
「なるほど。ポチちゃんに感謝しないといけないわねぇ」
そんな会話をしながらおやつの時間は過ぎて行き、食べ終わるころにはマリーたちも戻ってきて、手際よく食器が片づけられていく。
子どもたちは庭へと遊びに行き、ダイニングにアマーリアと雪乃、いつの間に眠っていた双子とそして、充だけになる。
先ほどまで賑やかだったのが嘘のようにしんとダイニングは静まり返る。
静寂が訪れたのを見計らって、充が口を開く。
「雪乃様、アマーリア様、先ほど連絡がありまして……ジークフリート様が明日の午後二時、お会いできないかと」
アマーリアが息を吞む。
「私はかまわないわ。……アマーリア、大丈夫?」
雪乃は固まる親友のティーカップに添えられていた手に手を重ねる。
アマーリアは、そっと雪乃の手を握り返す。
「……ええ。大丈夫ですわ」
「でしたら了承のお返事をしておきます。失礼いたします」
ミツルが一礼し、ダイニングを出て行く。
「…………」
強張った表情でティーカップを見つめるアマーリアに、雪乃はどう声をかけるべきか思いあぐねる。
ジークフリートは、まだ逃げ腰だった。目の前の問題を避け続けている。あれこれ言ったが、正直なところ、明日、ジークフリートがどう出てくるかは分からなかった。彼に必要なのは、反省ではない。覚悟だ。
妻と向き合う覚悟が、彼には必要なのだ。
「ねえ、ユキノ。……ユキノは神父様の好きなものや嫌いなもの、知っているでしょう?」
「ええ、それはまあ……」
唐突な問いに戸惑いながらも頷く。
「わたくしね、こちらにきてから、ジーク様の好きなものや、嫌いなもの。考えてみたけれど、分からないの。人づてに書類仕事はお嫌いだと聞いたけれど……何が好きなのか、分からないの。……レベリオ様は、間違えてしまったけれど、ちょっと昔だったかもしれないけれど、キース先生の好きなものや嫌いなもの、ちゃんと知っていたでしょう?」
「そうね」
「あの人も、きっとわたくしの好きなものも、嫌いなものも、知らないわ。わたくしたちは、そういう初歩的な部分から、つまずいてしまっていたのね。わたくし、あの方の子どもまで産んでいるのに、なにも知らないの」
「夫婦はもとは他人だもの。知らないところからみんな、始めるのよ。私たちがちょっと特殊なだけよ」
「ふふっ、そうね。赤ちゃんの時から一緒ですものね」
アマーリアが小さく笑った。
「いらないと、言われたら……どうしようかしらって、ずっと考えているの。実家には戻れないわ。遠いのもあるけれど、お父様は許してくださらないでしょうから。レオンハルトとシルヴィアを連れて行きたいけれど、あの子たちは領主家の大事な宝物だもの。だったらせめて、ブランレトゥに住むのは許してくれるかしら。あの子たちに会えなくなっても、できるだけそばにいたいの。リリーがね、わたくしなら針子やデザイナーとして生きていけるって」
「確かに貴女の腕は一流だもの。大丈夫、そうなったら我が家に住めばいいわ。知っているでしょう? 部屋が有り余っているの。それに我が家だったら、貴女の子どもたちだって遊びに来られるもの」
雪乃の言葉にアマーリアが穏やかに目を細めた。
「……心が軽くなりましたわ。ありがとう、ユキノ」
「貴女は私の大事な親友だもの」
重ね合った手を、優しく撫でる。
アマーリアは嬉しそうに目を細め、そして、俯いた。
「でも、もし……まだ妻としておそばにおいてくれるなら、あの方の好きな色が知りたいわ」
ささやくように告げられた言葉に雪乃は黙って耳を傾ける。
「あの人の好きな色のマフラーを……ユキノが神父様に編むように、編んであげたいわ。視察に出かけるあの方が、凍えないように温かいマフラーを……っ」
ほんの少し震えた語尾に雪乃は、手を放してアマーリアを抱きしめた。アマーリアは、雪乃の腕の中に大人しく収まる。
明日のジークフリートの返答によっては、絶対に領主をうちの夫に交代させよう、と心に誓ったのだった。
ガチャリと玄関でドアの開く音がして、ホレスといオーランドが即座に反応するが、目の前の席に座るカイトとポチは気にした様子もなく、明日の手土産について頭を悩ませていた。
足音が三人分、こちらに近づいてきてジークフリートも聞こえてきた声にその正体が分かった。ホレスたちも剣にかけた手を下ろす。
「雪乃に追い返されたそうじゃないか」
無表情のくせに楽しそうというのが伝わってくる
マヒロとリック、そして、レベリオがやってきたのだ。
「海斗、茶」
「ったく、お前はさぁ……」
文句を言いながらも海斗が立ち上がり、キッチンへ行く。
マヒロがカイトが座っていたソファに座り、隣にレベリオが座った。リックは「手伝います」と告げてキッチンへ行った。
「それで、いつ夫婦喧嘩の決着をつけるんだ?」
「明日の午後二時だ。……それよりレベリオ、本当か?」
ジークフリートの問いかけにレベリオは、静かに頷いた。
「カロリーナ小隊長に背中を押されて……いや、むしろ突き飛ばされて、ようやく私はキースと向き合いました」
レベリオが静かに告げる。
「いつか、訪れるべきだった結果を、私は私の弱さでずっと先延ばしにしていただけです。本当は私が言うべき言葉を、結局、臆病な私は口にできなくて、彼女に言わせてしまった……、だから、私は、ううっ、僕は、ぼくは、庭で草を毟っているしか能のない男なんですぅ……っ」
「だめだ、発作が出た」
両手で顔を覆ってうなだれたレベリオの背を隣に座るマヒロが子どもでもあやすように撫でる。
「まだ離縁が決まって日が浅いからな。油断するとアルトゥロみたいになってしまうんだ」
マヒロが真顔で解説してくれた。
なんと言葉をかけたらよいかわからず、曖昧に頷く。乳兄弟なので付き合いは年の数と同じなのだがこんなにアルトゥロとそっくりだと思ったのは初めてだった。
「リック、宿に連れて行ってくれ。仕事をさせれば元に戻るはずだ」
「はい。……さ、行きましょう、レベリオ殿」
「ううっ、キースぅぅぅ……っ」
気のせいでなければ泣いているレベリオを同じく子どもをあやすかのようにリックが立たせて連れて行く。少しして玄関のドアが開閉する音が聞こえた。
「ほら、茶」
カイトがマヒロの前に取っ手のないカップを置いた。そこには淡い薄緑の茶が入っている。紅茶ではなさそうだ。
「これ、真尋たちの故郷で飲まれてるお茶で緑茶っていうんだ」
三人分のカップが置かれる。この馬車の中では基本的に毒見をしないので、三人とも初めて飲むそれに、おそるおそる口をつける。
「……苦い、な。だが、とてもさわやかな香りで、私は好きだな」
ジークフリートは水色の綺麗さに感嘆しながら感想を告げる。
「私は少々苦手です……」
「私は好きです」
ホレスは眉を下げ、オーランドは美味しそうに二口目を飲んだ。
「じゃあ、ホレスにはいつもの紅茶」
あらかじめ、用意してあったのだろう。カイトが紅茶のカップを渡すとホレスは、恐縮しながらお礼を言って受けとる。
カイトがマヒロの隣に腰かける。
「で、何を話していたんだ?」
「明日の手土産について、だ。ユキノと子どもたちはお菓子で良いとして……アマーリア様にはなにがいいかな」
カイトの答えにマヒロが顎を撫でる。
「下手なものを持って行くと雪乃に家に入れてもらえなくなるな。……まず高価なものは却下だし、そもそもアマーリア様単体に何かを持って行くのは、あまりいい案ではないかもしれんな。媚びを売っている、あるいは物で釣ろうとしている、何かを誤魔化そうとしている、と捉えられかねない」
「さすが、雪乃に土下座し続けて十年以上経つ男の助言は信ぴょう性が他の比じゃないね」
カイトの皮肉にマヒロは彼を睨むが、カイトはどこ吹く風だ。
「では、どうすれば……ここは平等に全員分のお菓子が妥当だろうか」
ジークフリートの言葉にカイトを睨むのを止めたマヒロが頷く。
「ただ、できればアマーリア様のお好きなものがいいだろうな」
「そうだね、今回は子どもたちではなく、彼女の好きなものを優先させるのがいいだろうね」
カイトが頷き、二人が同時にこちらを振り返る。
「アマーリア様は何が好きなんだ? 物が分かれば一路にでも買ってこさせよう。あいつは菓子には詳しいからな」
マヒロの問いかけにジークフリートは答えようと口を開いて、正解を知らずに、そのまま口を閉じた。
「……まさか、妻の好物も知らないのか」
「え、だって子どもだっているじゃん。好きな色とか宝石とか花とか……」
「……ご存じないかと」
ジークフリートではなく後ろのオーランドが答える。
目の前の友人二人のドン引きしている視線が痛い。
「夫婦になって何年だ?」
マヒロの問いに自分と妻の年齢を思い浮かべる。
「彼女は十五で嫁いできて、今、二十四だから、九年だ」
「それで九年もの時間があって、好きなもの一つ知らんとは……君、まさかと思うが、レオンハルトとシルヴィアの好物も知らないとか言い出さないよな」
「…………」
「やはりそれもご存じないかと」
今度はホレスが答えた。
二人の視線が氷のように冷たくなっている。
「俺たちでさえ、レオンやシルヴィアの好きなものは知ってるって言うのにね。マヒロ、やっぱりこれはお前が領主になるしかないんじゃない?」
「雪乃がなれというならなるつもりだが……このままだとそうなるな」
「頼む、待ってくれ! 私に機会を与えてくれ!」
ジークフリートはなりふり構わずテーブルに手をついて頭を下げた。
「君は今、俺が最後まで和解できなかった、俺の父親そっくりだ。仕事仕事仕事で家庭を顧みず、俺はあれと親子として過ごしたこともない。頭を撫でられたこともなければ、抱きしめられたことも、褒められたこともない。何もないない尽くしだが、唯一、あの父親は、母のことは愛していたし、大事にしていた。それがなければ、俺たち兄弟は、いくら同じ顔をしていてもあれを父親と思い込むのにも限界があったと思う」
淡々とマヒロが告げる。
「明日、君が失うのは妻だけでは済まないかもしれないぞ。俺が領主になれば、レオンハルトは領主候補から外れる。俺の息子であるサヴィラが優先されるからな。そうなれば、アマーリア様はレオンハルトとシルヴィアをひきとって、共に暮らすことも可能だ」
「飛躍し過ぎじゃないか……」
「君は九年という時間が合って、レオンハルトは六歳、シルヴィアは五歳だ。それだけの時間が合って、何もしなかったんだ。飛躍した話ではないと思う。俺も妻と同じ考えで、家庭をまともに治められないやつが、人の上に立つことはできないと思っている。自分を一番大事にしてくれる存在を大事にできないやつは、後々、誰からも大事にされなくなるぞ」
「…………どうしていいか、分からなかったんだ」
銀に蒼の混じる眼差しから逃げるように俯いた。
「正直、アマーリアとの結婚は想像したことさえもなかった。私には別の婚約者候補がいたからな。だが、兄が突然死んだ。アマーリアは、兄と結婚するのではなく、アルゲンテウス辺境伯と結婚するために育てられた娘だ。例えば結婚前に兄も私も死んだとすれば、必然、家を継ぐのはウィルフレッドになるわけだから、弟と結婚することになっていただろう」
「だが、彼女が結婚したのは何がどうあれ、君だ、ジークフリート」
「ああ、そうだ。だが……兄の死も、彼女との結婚も突然で、私は……正直、誰を信じていいか分からなかった。家の中は兄の味方ばかりで、気の休まらない日々だった。彼女は貴族として成人していたとはいえ、十五歳だった。それでも、彼女だけは信じられるような気がして、これから穏やかな関係を築いていければと願っていた。……だが、ともに出席した夜会で、彼女は伯爵夫人にワインをかけてしまった」
「それはわざとでは……」
「そうだ。わざとではない。彼女が故意にやったんではない。……彼女のそのワインに、毒が盛られていたんだ」
息を吞む音が聞こえた。
「あの日、前日に念のためにと彼女に贈った口紅は、魔法薬の一種でね。毒に触れると、赤から緑へと変色するようになっていて、その時、彼女の唇は緑だった……。伯爵夫人は、本当に良い人で品と良識のある方だ。まだ年若い私の妻のうっかりとしてその場を収めてくれ、蒼白になってしまった妻にも声をかけてくれた。毒と言っても命にかかわるようなものではない、ほんの少し、手指がマヒするんだ。例えば、緊張すると手がうまく動かなくなるだろう? その程度で、盛られた本人は緊張のせいだと思い込む程度の微毒だ」
「だが、本当の脅威は……そこで毒が盛られたことだな」
「ああ。不特定多数の人間が大勢いて、他の誰でもないアマーリアが、アルゲンテウス辺境伯夫人が狙われた。十五歳の、まだ少女と言って差し支えない子が、だ」
「それで……アマーリアを自分から遠ざけたのか。やつらは試したかったんだろうな。アマーリアを害することで、君がどう出るか」
「そうしなければ、守れなかった。アマーリアがまだ、王国の一般年齢では成人していないのを盾に実家で花嫁修業を続けるように言った。実家にいれば安全だからな。辺境伯家は、誰が味方か敵かも分からない。そんな中で、彼女を連れ帰るわけにはいかなかったんだ」
「結婚して、三年。ようやく、見通しがついてきて、彼女もこの国の成人を迎えた。……初夜を迎えた結果、まさかのその一回でレオンハルトが誕生した」
わーお、とカイトが声を漏らした。
「嬉しかったよ、それはとても。驚いたが、家族ができることが嬉しかった」
「そこが何一つ伝わってないんだ。君の喜びも幸福も、愛情も。……だが、レオンハルトは言う。俺はいつか、お父様みたいになるのだ、と。君が見せ続けている背中を、あの子は必死に追いかけているんだ」
「……私は……、どうすればいい? あの子たちのことは、大事だ。妻も……私の命よりも大事だ」
「だったらそれをそのまま伝えればいいじゃないか。君も、アマーリア様も生きていて、言葉を交わせる。それが贅沢であるということを、君は知らないだけだ」
「贅沢……」
「俺も母には二度と会えない。海斗と一路も雪乃も、大事な家族にも友人も会うことはできない。言葉さえも交わせない。だが、それは俺たちだけじゃない。リックも実の両親と兄に会えない。レイも、ミアも、サヴィラも、ソニアもサンドロも、ジョシュアもプリシラも、会えない大事な人がいる。彼らには触れることは愚か、言葉だって交わせない。彼らは皆、神の御胸に還ってしまった……君の、兄上も」
ジークフリートの脳裏にブランレトゥの外壁の外にある墓地の光景が浮かんだ。
マヒロの働きかけで今では午前と午後に往復便が一便ずつ出ている。冒険者ギルドの冒険者たちが護衛をしてくれて、大型の馬車で遺族たちが墓地へ行くのだ。墓地の周りも徐々に整備されている。
そこには骨と苔むした墓石しかない。それでも定期便は盛況だと報告があった。アンデットという上級魔物が出るような危険場所に、それでも彼らは会いに行くのだ。言葉を交わすことも、抱きしめることも、キスをすることも出来なくても、そこへ会いに行く。
語り掛ける声に返事はないのに、皆、言葉を紡ぐ。
「ジーク。……美味しいか、お茶」
「あ、ああ。美味しい」
突飛な問いかけに戸惑いながらも答える。
「美味しい、と共有できることは決して当たり前じゃないんだ。そうだろう? だって俺はつい先日、君の目の前で、一度、心臓も呼吸も全てを止めた」
頭を鈍器で殴られたかのような衝撃に唇を噛む。
「生きていることは奇跡だ。君がどれほどの想いでアマーリア様達を守ろうとしていたのかは、分かる。俺にだって俺の命より大事な妻と子どもたちがいる。だが……だがな、病気や事故は待ってはくれない。君が逃げ続けた九年、アマーリアは二度、子どもを産んだ。出産は命がけだ。もしかしたらその時に死んでもおかしくなかった。レオンハルトやシルヴィアだって、風邪を引いたことも怪我をしたこともあっただろう。運よく治っただけで、悪化してそのままということだってあったかもしれない。あそこまで大きく育ったのは、ただ運が良かっただけかもしれない。この世には、当たり前のことなど、一つもないんだ」
「…………君が、ドラゴンに挑んだ時」
ジークフリートは呆然とマヒロを見つめながら口を開く。
「君は、ドラゴンの首の一つも引っ提げて、けろりと帰って来ると思っていたんだ」
マヒロは黙ってジークフリートの言葉の先を待つ。
「だが、実際、君は瀕死の重傷で、君たちの馬やロボが、ぼろぼろの体で、さらにボロボロの君たちを背負って帰ってきた。君は意識がなく、生きているのが不思議なほどの出血量だった」
「俺は、執念で生きていたんだ。限界だったことはとうに自覚している。あの時、俺は死んでもおかしくなかった。だが……エドワードが機転を利かせてくれたことで、俺は呼吸を取り戻した。だが、何より幸運だったのは、神様が俺の下に雪乃を連れてきてくれたことだ。彼女がいなければ、俺は結局、治療ができずに死んでいた」
「生きているということは……奇跡なんだな」
「『大事な人が生きている喜びは、いつだって最上級の贅沢だ』」
聞こえてきた声に顔を上げれば、リックがリビングに入ってきて、マヒロの後ろに立った。
深緑の優しげな目が、穏やかに細められる。
「……ナルキーサス先生が、私に教えてくださったことです」
「……キースが」
彼女とレベリオは、二人にとって自分たちの命よりも大事だったものを喪ってしまったのを知っている。
それにナルキーサスは、治癒術師で多くの命と向き合ってきた。救えた命もあれば、同じだけ救えなかった命もある。百年以上、治癒術師として生きている彼女が告げたというその言葉には、たかが四十年くらいしか生きていないジークフリートには想像もできない重みがあった。
「ジーク、俺はさ、思うんだよ。生きていることは最上級の贅沢で、さらに言葉を交わせるなんて、この上ない幸福だって。だからせめて、これ以上、隠すことはしないでくれ。当たって砕けても、俺たちが拾い集めてやるから」
「君は言ったじゃないか。友になってくれ、と友とはそういうものなのだろう?」
優しい言葉にジークフリートは鼻の奥がつんとするのを感じて、誤魔化すようにお茶を飲んだ。
「ありがとう。私は……もう逃げない。ちゃんとアマーリアと向き合って、必ずや君直伝の土下座を決めるよ」
「土下座の効果は絶大だが、誠心誠意の謝罪も大事だ。適当に反省しているフリをしていると妻にはすぐばれるからな」
「あと理由をきちんと話すのと自己保身の言い訳は違うからね。言い訳ばっかりしてるとこいつみたいに、説教が延長されるのが当たり前になるからね」
「お前は一言も二言も余計なんだ」
マヒロが眉を寄せて睨むがカイトは「事実だろ」とすげなく返す。十数年幼馴染をやっているそうだから、彼らの間には遠慮がないのだ。ジークフリートとレベリオを見ているようだ。
「そういえば、レベリオは」
「ああ、宿のほうで仕事を少々な。それより君は、明日の手土産と服装とあれこれ完ぺきにしなければな。俺の妻はその辺にとても厳しいんだ」
「わ、分かった」
神妙な顔で告げたマヒロにジークフリートも、真剣に頷くのだった。
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