称号は神を土下座させた男。

春志乃

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番外編 2

後編

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 昨夜、ジョシュアと酒でも飲みながら待っていようと思ったのに、夜中に訪れた騎士は「神父殿は本日帰りません」とやけに疲れた青い顔で告げた。
 何事か問題でも起きたのかと思ったが、そうではなく、丸一日を休みにするために普段の三倍の速度で仕事をこなしているらしい。関係各所が悲鳴を上げて、その処理速度に必死に食らいつく事務官は泣いているらしいがその速度は落ちることはなく、いっそ恐ろしいほどの勢いで神父殿は仕事をこなしているそうだ。

「ねえねえ、パパ、何時ごろ帰ってくるかな?」

 朝食の席でミアがウキウキした様子で尋ねる。

「夕食までには帰って来られるって、騎士さんは言っていたわよ。良かったわね、ミア」

「うん!」

 ふふっと笑ってプリシラが答えれば、ミアは、嬉しそうに頷いてニンジンスティックを齧る。ミアは嬉しそうに隣に座るティナに「今日は、パパと一緒にお風呂にはいるのよ」と言って、ティナが「良かったね」とミアの頭を撫でる。
 このところ、朝食の時にしか一緒に居られなかったから一日一緒に過ごせると聞いて嬉しくて堪らないのだろう。ジョンまでにこにこしながら「良かったねぇ」と声を掛けている。

「でも、今日、サヴィ、来られるかな?」

 ミアが心配そうに眉を下げる。

「昨日、とっても具合が悪そうだったもん」

「そうね……もしかしたら今日は来られないかもしれないけど、もしそうだったら夜、パパと一緒にお見舞いに行けばいいわ」

「おみまい?」

「顔を見に行って、早く元気になってねって励ましにいくことよ」

「なら、ミア、パパとサヴィラのおみまい行く」

 ミアは、真剣な様子で頷いている。
 さて、どうしたもんかな、と悩みながらもレイは朝食を食べ終えて立ち上がる。空になった食器類をワゴンの上に乗せて、食堂を出ていく。

「レイ、もう行くのか?」

「ちょっと別のとこ寄ってから顔出すって、ソニアに言っておいてくれ。ジョシュ、馬借りるぞ」

「ああ、分かった、行ってらっしゃい」

「いってらっしゃい!」

 ジョシュアがそう口にすれば、子どもたちも行ってらっしゃいと手を振ってくれる。それに軽く手を振り返してレイは、食堂を出る。一階へ降りて厨房の方から裏に出て、ジョシュアの馬に馬具を付けて跨る。

「さてと、しょうがねえからお忙しい神父様に会いに行くか」

 そう零して馬の腹を蹴り、レイは広い庭を通り抜けて騎士団へと馬を走らせたのだった。









 執務室の前には長蛇の列が出来ていた。
 レイが想像していた五倍くらいは混雑している。
 騎士団の騎士と事務官と治療院の事務官がほとんどを占め、ちらほらと商業と冒険者ギルドの職員が混じっている。皆、その手に報告書や何らかの書類を抱えていて、受付で用件を告げ、神父が処理すべきという案件だという判断が下されると列に並び、それ以外は領主、団長、各隊長、魔導院長、治療院長、各ギルマスに分類されていく。そもそも執務室に入るのに受付があるというのがおかしな話だが、そうでもしなければ捌ききれないのだろう。

「おや、レイじゃないか」

 ハスキーなその声に振り返れば、ナルキーサスが白衣の裾を揺らしながら颯爽と歩いて来る。
 はっきり言って、レイはこの魔導師が苦手だった。男装の麗人であることは兎も角も極度の骨愛好家である彼女は、レイの全身の骨を狙っている。特にレイの頭蓋骨にご執心で、時折、その黄色の瞳が皮膚の下すら見透かすような恍惚の眼差しでレイ(の頭)を見ていることがあって、何度、その視線から逃げ出したか分からない。以前、まだ冒険者として駆け出しの頃、クエストでヘマをして大怪我をして入院した時、あやうく寝ている間に石膏像の型を取られそうになったこともある。

「マヒロに会いに来たのか?」

「あ、ああ」

 レイは一定の距離を保ちながらナルキーサスの言葉に頷き返す。

「もしかしなくともサヴィラのことだろう?」

 ずばり言い当てられて面食らう。何で知っているんだ、という意味を込めて首を傾げれば、ナルキーサスはその中性的な整った顔に苦笑を滲ませた。こっちへ、と言われて次から次へとやってくる事務官たちの群れから少し離れた所へ移動する。
 廊下の柱の影に入り、ナルキーサスが口を開く。

「昨夜、私事で孤児院に訪れた折、サヴィラの具合が悪くなってな。どうやら周りに心配をかけまいと無理して夕飯を食べたようで、夜中にトイレで戻してしまったんだ。その時、サヴィラは取り乱すというか随分と怯えていてな。やむを得ず、鎮静剤を打って眠らせた。今も魔力暴走を起こさないように薬で眠らせている」

「大丈夫なのか?」

「今は熱まで出しているが……おそらく風邪や病の類ではなく、精神的なものだ。……市場通りでも男の大声に驚いて、混乱状態に陥ったと聞いたが?」

「ああ。肉屋の親父の怒鳴り声が切欠になっちまったみたいでな。ネネがサヴィラは怒鳴り声が苦手だと言っていた。……ごめんなさいと何度も口にして、可哀想なほど怯えていた。だが俺が神父を呼ぼうとしたら正気を取り戻して、今度は言わないでくれと懇願された」

「他には何か言っていなかったか?」

 そう問われてレイは首を捻って、昨日のことを思い出す。
 何かに怯えるサヴィラの姿を思い浮かべて、その記憶の中から彼が口にした言葉を呼び起こす。

「……ああ、そうだ。なんか知らんが……ちゃんとするってなことを言ってたな。ちゃんと出来るようになるからって……」

「ちゃんとする、か……」

 ナルキーサスが頷いて腕を組み、難しい顔をする。

「……昨夜、サヴィラはこうも言ったんだ。俺が出来損ないだから、おかしいのは俺だからって……それで、嫌われたくないから、神父様には言わないでくれ、とな。あの子は、どうやら自分の具合が悪いこと、或は、孤児院に馴染めていないことをマヒロに知られるのが怖いらしい。それを知られたら、マヒロに嫌われて、孤児院にも居られなくなると思っているようでな」

「どういうことだ、キース」

 突如として聞こえて来た声にレイとナルキーサスは、驚きながらも振り返る。
 マヒロは、つかつかとこちらにやって来ると「どういうことだ?」と問いを重ねた。彼の後ろにはリックがいて、心配そうな表情をその顔に浮かべている。

「サヴィに何かあったのか?」

「マヒロ、いいのか? 部屋から出てきて」

 ナルキーサスが彼の執務室に視線を向けながら言った。今もひっきりなしに人が出入りしている。

「これからどうしても抜けられなかった捜査会議に行くところだが、お前たちの姿が見えて、さらにサヴィラの名前が出てきたとあっては会議どころではない。リック、先に行ってろ」

「で、ですがもうすぐ会議が始まる時間ですよ、領主様もお待ちですし……」

「構わん。待たせておけ」

「そんな無茶なっ……って、そもそもナルキーサス殿も出席の筈では?」

「ああ、だからここにいる。部屋から出て来たマヒロを捕まえて話をしようと思ってな。歩きながら話そう。レイも来い」

 有無を言わさず歩き出したナルキーサスに続いてマヒロとレイも歩き出す。
 ナルキーサスは、歩きながらマヒロにサヴィラの状態について報告する。レイも自分が市場通りで遭遇したサヴィラの異変について話した。マヒロは眉間に心なしか皺を寄せてじっと話に耳を傾けていた。
 階段を降りて、何度か角を曲がって会議室が近づいて来る。一緒に歩いていて驚いたのは、とりあえず騎士がマヒロを見ると廊下の隅に避けて騎士の礼を取ることだった。ここの団長はマヒロだったかな?と疑わしくなるレベルである。

「……サヴィラは、多分、自分が虐待されていたということに気付いていないんだ」

 マヒロがもどかしそうに口にした言葉にレイは首を傾げる。
 レイもまたサヴィラのあの様子から彼がこの町へ来る前に何らかの虐待を受けていたのではないかと想像していた。大人を恐れて、只管に謝る姿はそれを連想させるには充分であった。

「どういう意味だ?」

「肉屋の親父は、息子に「出来損ない」と言ったんだったな? それも怒鳴りながら」

「ああ」

「サヴィラは、出来損ない、という言葉に反応して錯乱状態になった。それは、サヴィラにとってその言葉がトラウマになっている記憶を呼び起こすものだったからだ。あの子は、町へ来る前は貴族の邸宅で勉強と魔法の練習ばかりの毎日だったと言っていた。その日々の中で、何か一つでも出来ないとそんな風に言われて、殴られたり、怒鳴られたり、飯を抜かれたり、何らかの罰をくらっていたんだろう」

 だからどうして、とレイは最初の言葉に思考が結びつかない。
 するとマヒロではなくナルキーサスが口を開いた。

「……大人であれば、それの理不尽さに気付くことが出来る。それを理不尽だと判断する経験があるからな。だがサヴィラのように産まれた時からそのような環境下にあると、それが「当たり前」だと思ってしまうんだ。自分が出来無いから、自分がおかしいから、だから父や母が怒る、周りが怒るとな」

「ちゃんとするから、というのは、ちゃんとしていれば怒られない、というのをサヴィラはそこで学んだのだろう。だが、八歳の時、正妻の下に弟が産まれたサヴィラは屋敷を追い出された……その上、」

 マヒロは彼にしては珍しくそこで言葉を濁らせて言い淀んだ。

「サヴィは一緒に屋敷を出た乳母に人買いに売られ、どうにか逃げ出してこの町に辿り着いてダビドに出会ったそうだ」

 だが続けられた言葉にレイもナルキーサスも息を飲んだ。リックも驚きに瞠目している。

「……サヴィラの過去は、聞かなかったことにしてくれ。あの子は多分、俺だから話してくれたんだ」

「他言はしないと約束しよう」

 ナルキーサスが言って、レイとリックも頷く。マヒロは、ありがとう、と返して前髪を掻き上げる。

「……やはり、あの時、サヴィラだけは屋敷に残せば良かった」

 マヒロでも、後悔を口にするのかとレイは少々意外に思った。
 常に自信に満ち溢れていて、後悔するような道は選ばないと思っていたのだ。

「これは私の考えだが、サヴィラにとってダビド亡き今、マヒロは唯一信頼出来て、安心できる大人だ。これは間違いない。あの子の大切なものを護ってくれるし、自分自身のことも護ってくれる。サヴィラにとってマヒロは父親に近いのかも知れない。それにダビドと違い、マヒロに金があり、権力があり、地位があり、社会的にも安定している大人である。それはサヴィラの大事なおチビさんたちを守ってくれているという点においても信頼が出来る要素だ。サヴィラにとっては安心できる要素だっただろう。爺さんを頼り切れなかったのは、お互いが貧しかったからだ」

 ナルキーサスは淡々と告げながらもその表情は切なげだ。

「多分、サヴィラはそんなマヒロに愛されるミアが羨ましくもあったんだろう。いつだったか屋敷に行った時、あの子が眩しそうにマヒロに抱っこされるミアを見ていたからな。でも、サヴィラは、それを口には出来なかった。だからこそ、父のようにも想うマヒロの屋敷を出る時、もしかしたらあの子は生家を追い出された時と同じ気持ちになったのかもしれない。勿論、孤児院という新しい居場所のことも、マヒロがサヴィラを疎んでいないことは、あの子はきちんと理解しているだろう。でも本当はマヒロの傍に居たかったんだよ。だが、自分が出来損ないだと心のどこかで信じきってしまっているサヴィラは、その願いや不安や寂しさを疎んだ。自分が望んで良い願いではないと思ってしまったんだろうな」

 レイは何とも言えない気持ちになった。
 自分とて順風満帆な人生とは言えないが、それでも確かに幸せだったし、父や母と過ごせた時間は短いが産まれた時からその愛情をこの身に目一杯受けて育ってきたという自覚はある。レイは産まれた時、金こそなかったが愛情だけはたっぷりとあったのだ。今ですら人の恥ずかしい過去をほじくり返す口うるさい母親がいて、兄のように慕う人がいて、そこからたくさんの愛情が当たり前のように向けられている。
 だが、サヴィラにはそれが無かった。十三年という彼の人生の全ての時間において彼は、親の愛というものを知らずに育った。だからこそ、マヒロが注いでくれる無償の愛は彼にとって衝撃的だっただろう。こんなにも心地よいものがあったのかと驚いただろう。そして本人が意識するよりもずっと貪欲にその愛を欲した。けれど、彼はそれを素直に欲しいと言えるほど無邪気で幼い子どもにもなれなかった。

「……リック」

「会議の欠席だけは、お願いですからしないで下さい。そ、その後は……皆で頑張ってみますからっ!」

 リックが必死の形相で言った。
 握りしめた拳が微かに震えていて、彼らがどれだけの修羅場に置かれているかが鮮明に伝わってくる。

「馬鹿者。あと少し頑張れば、今夜から明日にかけて休みが貰えるんだ。今更、これまでの頑張りを台無しにする訳が無かろう。急がば回れだ。目先の欲に囚われてはならん」

 マヒロの言葉にリックは、ほっと胸を撫で下ろす。
 こいつらも大変だな、とレイは少しだけ同情する。

「もともと考えていて、次に会った時には本人に意思確認をしようと思っていたんだが……ふむ、悪くないな」

 マヒロは腕を組んで暫し何かを考え込むような仕草を見せた後、一人で勝手に納得した。

「……は?」

「よし、こうなったらさっさと会議を終わらせよう。レイ、お前も来い。そろそろお前たちも巻き込、ごほん、情報を公開しようと思っていたところだ」

「お前今、巻き込もうと思っていたって言いそうになったよな!?」

「そういう訳だ、キース。会議はさっさと終わらせるぞ」

「それには同感だ。私も会議は好きじゃない」

「ちょっと待て、腕を離せ! いや、そうじゃねえ! 襟首を掴むな! 俺は行きたくない!!」

「リック、先に行ってこいつの席を追加しておいてくれ、ナルキーサスの隣でいい」

「はい」

 にっこりと笑ったリックは駆け出していく。
 幾ら喚いて騒いだところで神父様は涼しい顔でナルキーサスと議題について話し始めて聞く耳一つ持ってくれやしない。
 結局、数分後、レイは笑顔全開で否を赦さない暴君の如く会議を押し進めるマヒロに怯える騎士団幹部の面々と胃薬漬けになっている団長閣下を目にすることになるのだった。








 予定より一時間も早く仕事の片が付いたことに呆然としながらもリックは、エドワードと共にデスクの上を片付けていた。
 午前中の会議のマヒロは凄かった。
 まず、会議が始まってすぐに開口一番「子どもたちが俺の帰りを待っているので、俺は一刻も早く帰りたい。というわけでご協力、宜しくお願いします」ととびきりの笑顔で宣言した。インサニア殲滅の際にも出陣した彼の目標が「魔獣の殲滅」でも「インサニアの殲滅」でも「主犯の逮捕」でもなく「一刻も早い俺の帰宅」であると知っている面々は盛大に頬を引き攣らせ、あの日、「娘が待ってるんで」という理由で談話を断られた領主様も頬を引き攣らせていた。団長に至っては、蒼い顔をしてずっと胃を押さえていていっそ憐れとしか言いようがない。楽しそうだったのはマヒロと似たような性格をしているナルキーサスだけだった。そういえば彼女はマヒロが「クルィークの倉庫を更地にする」と宣言した時も一人だけ賛成していた。間違いなく類は友を呼んでいる。

「もう本当、ティナちゃん抱き締めたい。ティナちゃん可愛い、ティナちゃんの花の匂いを胸いっぱいに吸いたい」

 イチロがぶつぶつ言いながら、デスクの上を片付けている。
 どうも彼は、疲労や眠気が限界を突破すると欲望をそのまま口にする傾向がある。しかも後日尋ねても本人は覚えていない。
 それにしてもこの一週間は、怒涛の一週間だった。昨日から今日にいたっては、人の六倍の速さで仕事をこなすマヒロとそんな彼を何でもない顔をして完璧にサポートするイチロにリックとエドワードだけではついて行けず、急遽、書類仕事が得意な騎士を事務官として三名、今日はもう二人追加で五名がついたが、それでも置いて行かれないようにするのに必死だった。
 そもそも報告書を読む時間が惜しいと言い出した我らが神父殿は、報告書を持って来た騎士にその場で読み上げるように言った。しかも三人同時である。一番初めにそう指示された二人の騎士とキアラン小隊長の事務官は訳が分からないと言った様子で報告書を読み上げたが、それを聞き終えた途端、マヒロがそれぞれに質問をし、新たに適切な指示を与えたものだから、執務室にざわめきが走った。三人が同時に読み上げる報告書の内容を聞き分けている耳と頭も凄いが、その目と手は別の書類を捌いているのだから、マヒロの能力は計り知れない。そして、それを難なくサポートするイチロも計り知れない。

「さて、帰るか」

 書類や資料を入れた鞄をアイテムボックスに入れて、マヒロが立ち上がる。
 リックは、入り口脇のコート掛けに掛けていたマヒロの神父服の上着を手に取り、ドアの前に立つマヒロが着るのを手伝う。こういう世話をされ慣れている時点で、彼は本当に良い家柄の出なのだろうと実感する。イチロは暑いからいいや、とエドワードから上着を受け取りアイテムボックスに入れた。

「一路、俺は孤児院に顔を出してから帰る」

「僕は久々にティナちゃんのお迎えに行くんだ」

 イチロが嬉しそうに声を弾ませる。

「夕食までには帰るけど、あ、プリシラさんには言ってあるからね。エディさん、ついて来ないでくださいね。じゃあ、お先に」

 そう告げてイチロは、ひらひらと手を振りさっさと部屋を出て行く。エドワードが「俺だって、俺だって……っ」となにか呟いているが聞こえないふりをする。

「リックはついて来るだろ? エディはどうする?」

 マヒロの問いにリックは頷き、打ちひしがれていた相棒を振り返る。

「寂しいのでついて行きます」

 マヒロは、そうか、と可笑しそうに肩を竦めて、部屋の灯りを落とすと廊下に出る。リックとエドワードもその背に続き、マヒロが執務室に鍵を掛けて、三人は歩き出し、リックが手配しておいた馬車に乗る。御者はエドワードだ。馬車を引くのは彼の愛馬とマヒロの愛馬で、エドワードの掛け声に馬車は動き出し、孤児院へと向かう。
 神父様が使うと言ったら、事務局は随分と良い馬車を貸し出してくれて、中は広々としている。

「何だか一雨来そうだな」

 マヒロが小窓の外を見ながら呟いた。対角線上に座るリックは、そうですねと頷く。
 確かに先ほど外に出た時に、空気がひんやりしていたし、だんだんと雲が空を覆い始めていたので夕立が来るのかもしれない。

「……サヴィラの生家を調べようと思うんだが、どう思う?」

 唐突に零された言葉にリックは目を瞬かせる。
 マヒロは、煙草に火を点けていて視線は合わない。

「どうしてか聞いても?」

「念の為、だ。別にサヴィの生家がサヴィを完全に手放したならそれでいい。現にクロードに内密に調べてもらった結果、あの子は既にどこのギルドにも登録されていないし、年齢や種族、見た目などを含めて貴族籍も洗ったがサヴィラという名は無かったそうだ。本人のステータスにも家名の記載は無く、職業欄にも貴族という記載がなかった。隠蔽の可能性も試したが大丈夫だった」

 彼の吐き出した紫煙が開けた小窓から出て行き、呆気無く消える。

「……ただ、もしも後継ぎに何かあって、正当な後継ぎがサヴィラしかいなくなった場合、ややこしいことになりそうだと思ってな。ギルドカードのように形に残らずとも何らかの方法で生死だけは確認する魔法があるかもしれん。そうだとすれば厄介だろう?」

「それはつまり……後継ぎが死んだ時、或は、何らかの理由で後を継げないとなった時、サヴィラを取り戻そうとするかもしれないということですか?」

 リックの問いにマヒロは、ああ、と短い返事をする。
 後継問題は、貴族にとって最も重要な問題であるのは確かだろう。この後継ぎに関して、パン屋の倅でしかないリックには到底理解できないほどの熱情を貴族たちは注いでいる。それはときに恐ろしい結果を招いて家を破滅させることもあるほどだ。
 相棒のエドワードの言う通り、彼らの体に流れる血は、その家が紡いできた歴史の中で繰り返された血生臭い物語すら内包し優秀な血統を尊び、その身に流れる血を何よりの誇りとする。エドワードやウィルフレッドのようにそれを本当の意味で誇りにするならまだいいが、中にはその血に拘り、その血が持つ権力や地位や名誉に溺れる者も少なくない。

「でしたら、エディを使ったほうが良いですよ。あれでも本人が普段から言っている通り由緒はある男爵家の出ですので、貴族関係には詳しいですから。貴族の知り合いもああ見えて多いですし、立ち回り方も心得ています。私を使うよりずっと適当かと」

「ふむ、それもそうだな。イチロに許可を貰って、あいつを使おう」

 マヒロはご機嫌に頷いて、再び紫煙を吐き出した。

「……なんだか機嫌がよろしいですね?」

「何せ愛する我が子と今日は夕食が共にできるからな」

 成程、と頷いてリックは小さく笑う。マヒロのミアの溺愛ぶりは、周知の事実だ。町でも子煩悩の神父様と有名になるほどである。
 それから今後の予定や仕事について話しながら一行は孤児院へと向かうのだった。









 雨だからか普段は開けっ放しのドアも閉まっていた。
 リックとエディに表で待つように告げて、真尋は孤児院のドアを開ける。
 カウンターに居たソニアが顔を上げて驚いたように目を瞬かせる。隣にはヴィートが居て、何かの打ち合わせをしていたようだ。

「なんだ、幽霊でも見たような顔をするな」

「だ、だってまだ夕方だよ? あんた、夜にならないと来れないって今朝、手紙を寄越したじゃないか」

「仕事ならきっちり終わらせてきた。明後日以降からも通常通りに戻す。俺は本来、家に帰れないほど仕事をする主義は無いからな」

 そう返した真尋にソニアはそうかい、と可笑しそうに小さく笑ってカウンターから出て来た。今日も彼女の背中にはアナが居て、小さなウサギのぬいぐるみをご機嫌にしゃぶっている。ソニアは、アナを背中から降ろすとヴィートに抱っこさせる。

「ちょっとサヴィのところに行って来るから、ちゃんと見てるんだよ。あとカウンターもね」

「はいはい、任せといてよ。大丈夫、カウンターはよく分かんないから、来たら待たせとくよー、ふふっ僕もアナみたいに可愛い娘が欲しいなぁ」

 ヴィートはサンドロの大らかさとソニアの理不尽さを兼ね備えたなかなかの男である。熊の獣人族らしく剛腕でサンドロ仕込みの体術はなかなかのものだそうで、こんなのほほんとした森のくまさん顔だが冒険者たちからは一目置かれているらしい。
 ソニアは呆れたようにため息を零すが、文句を言う気は失せたのかこっちだよ、と階段の方へと歩き出し、真尋は会釈をしてソニアの背に続く。
 夕飯にはまだ早い時間だから二階の食堂は静かだったが上に上がれば、子どもたちの賑やかな声が談話室から聞こえて来る。子どもたちの声に混じって、冒険者のものと思われる声が聞こえてくる。聞こえて来る話し声の内容からしてカード遊びが白熱しているようだ。

「サヴィラの様子は?」

 階段を上がりながら問いかける。

「薬のお蔭でずっと寝てる。熱がなかなか下がらなくてねぇ、でも夜中よりは多少下がったよ。ただ時々魘されているみたいで、苦しそうにしている時があってねぇ……声を掛けても何かに耐えるみたいに体を強張らせるだけでどうしたもんかと思って」

 ソニアが憂い気に言った。一つに結ばれた鮮やかな赤い髪とふさふさの長い尻尾が不安そうに左右に揺れている。

「そうか……」

 四階に辿り着くと丁度、ルイスが階段脇の部屋から出て来た。彼は手に水の張られた桶を持っていた。
 真尋に気付いたルイスがくしゃりと顔を歪めると真尋に抱き着いて来る。放り投げられた桶が転がって中の水が廊下を濡らす。真尋は腹に顔を埋めたルイスの茶色の髪をぽんぽんと撫でた。

「どうした、ルイス」

 真尋は穏やかに問う。

「し、神父さまっ、サヴィをたすけて……っ」

 ぐすんと鼻を啜りながらルイスが言った。小さな手に込められるだけの力を込めて、真尋の神父服を握りしめている。真尋はその細い腕と掴んで少しだけ緩めてしゃがみ込み、ルイスを抱き締める。真尋の首にしがみつくように抱き着いたルイスの背をぽんぽんとあやすように撫でた。

「ここへ来てからサヴィはずっと不安そうで、元気が無くて……っ、夜も怖い夢をみているみたいだったの、でも、僕が何を言ってもサヴィは大丈夫しか、言ってくれなくて……全然、大丈夫なんかじゃないのにっ」

「ルイス……」

「ねえ、神父様」

 顔を上げれば部屋の入り口にネネと治癒術師のトマスが立っていた。

「サヴィはね、きっと神父様の傍でなら幸せになれると思うの」

 ネネは今にも泣きだしそうな顔で言った。

「あの大きなお屋敷の中で、サヴィは神父様と一緒に居るとき、一番、優しい顔をしていたもの。私はお屋敷での生活も幸せだったけど、ここでの暮らしだって幸せよ。ローサお姉ちゃんも居るし、チビたちもいるし、皆、優しいもの。ルイスだってレニーだって、他のチビたちだって、皆、幸せよ。だから、だからね、」

 ネネがルイスに覆いかぶさるようにして真尋に抱き着いて来る。

「私の大事な家族にも幸せになって欲しいの……っ」

 囁くように告げられた言葉に真尋はネネの背に腕を回す。

「住んでいるところが違っても私たちとサヴィラは家族だもん。ずっとずっと家族なの。そうでしょう? 神父様っ」

「ああ」

「……今までずっと私達を守ってくれたサヴィに、私は幸せになってほしいの……っ」

 真尋はネネとルイスを抱き締める腕に力を籠める。
 きっと、サヴィラは知らないだろう。自分がこんなにも正しく彼らを愛せていたことを、彼らに愛を与えて、こんなにも深く優しい愛情を捧げられていることをあの子は知らないのだろう。

「ネネ、ルイス。……サヴィラを連れて行ってもいいか?」

 二人の腕の力が強くなって、少しだけ苦しい。

「サヴィのこと、大事にしてね……っ」

 ルイスの言葉に真尋は、ああ、と頷く。

「私達は、もう大丈夫なの。サヴィが今までずっと守ってくれたから、私達はここで幸せになることができたの。だから……神父様、サヴィのためにサヴィを連れて行って……っ」

 ネネが祈るように告げて顔を上げた。涙に濡れた頬にキスをして同じく顔を上げたルイスの瞼にもキスを落とす。抱き締めていた腕を緩めて、手のひらで二人の涙を拭う。優しくて温かな涙が手のひらをじわりと濡らす。

「二人の大事な家族は、絶対に幸せになれると約束しよう」

「うん! 約束!」

「約束破ったら、神父様でも怒るからね」

 二人は泣きながらも、笑って頷いた。そんな二人の頭をくしゃくしゃと撫でて真尋は立ち上がる。

「ルイス、サヴィラの荷物を纏めてくれるか?」

「うん! ネネ、手伝って」

「分かったわ。神父様、すぐに仕度してくるから!」

 ルイスとネネは、服の袖で涙を拭うとネネがルイスの手を取って彼らの部屋へと走っていく。真尋はその背を見送り、指を振って廊下に零れた水を桶の中に戻す。

「……サヴィラは、とても大きな傷をその心に抱えています。なのに未だに血を流し続けていることに本人は気付いていない。貴方が最初に引き取った小さなお嬢さんよりもずっとサヴィラは思考も感情も心も発達している。隠すことに長け、誤魔化す術を知っている。それでも……お若い貴方にその傷を癒すことができますか?」

 糸目がじっと真尋を見つめている。真尋は、ソニアに桶を渡しながらその問いに答える。

「さあな」

 真尋の言葉にトマスが不愉快そうに眉を寄せた。

「俺はあの子を幸せにしたいと思っている。俺を見つけると顔を輝かせて嬉しそうに駆け寄って来るあの子を愛おしく思う心には一つの嘘も無い。だが幸せにすることと、その傷を癒すことは似て非なるものだ。俺はその傷を塞ぐことは出来るだろう。だがその傷を本当に癒すのは、俺の役目ではないかもしれない。それはミアかもしれない、ソニアやジョンかもしれない、もしかしたら、これから先の未来でサヴィラが出会う誰かかもしれない。心についた傷というものは、一生残ってしまうものだ。たかがたった一人の人間が全てを癒しきれるとは俺は思っていない。現に今まであの子の傷を守ってきたのは……あの子が拾ってきた、あの子の家族だった」

 真尋はふっと表情を緩める。

「生きていくために、立ち上がるために無理矢理にあの子自身が縫合した傷が膿まないように、広がらないように守っていてくれたのは間違いなくネネたちだ。俺はその役目の一端を担うことを許されただけに過ぎん。癒してみせるなどと宣ったところでそれは傲慢に過ぎないだろう? 俺が自信を持って出来ると言えるのは、あの子を幸せにすること、そして、鬱陶しがられるくらいには愛を注ぐことぐらいだ」

 真尋は、ふっと笑って小首を傾げた。

「生憎と俺自身、一人で生活の出来ない男だと十三年来の親友に言われているどうしようもない人間だ。目玉焼き一つまともに作れたことがないし、掃除をすると物理的、金銭的な損害が出る。現に家のことはジョシュアの嫁に頼りきりだし、俺の服は愛娘が片付けてくれているし、朝は俺の服をちゃんと用意してくれる。流石は俺の娘だ」

「何を威張ってんだか……」

 ソニアが呆れたようにくすくすと笑った。
 トマスは、なんだか間の抜けたような顔で真尋を見つめている。

「トマス、俺は、貴方が思ってくれているような完璧な男では無いが、サヴィラを任せてはくれないか? 愛娘と同じだけ愛することには自信がある」

 トマスは、暫し、呆然としていたが、ぷっと吹き出すと声を上げて笑った。

「ははっ、ナルキーサス殿が気に入る訳ですねぇ。僕の負けです、負け」

「いつ勝負などしたんだ?」

「こちらの話ですよ、お気になさらず。どうぞ、サヴィラくんの治療記録です。参考までにお持ちください」

 差し出された冊子を受け取って中身を見る。薬を打った時間、投薬の内容など事細かな記録がきちんと書かれている。ざっと斜め読みして、真尋はそれをアイテムボックスにしまった。
 どうぞ、と促されて中へと入る。壁際に置かれたベッドの上にサヴィラの姿があった。真尋は、ベッドの縁に腰掛けて、サヴィラの頬に触れる。確かに熱は下がっているようだがまだ真尋の手のひらの温度より少し低いくらいだ。本来のサヴィラはひんやりしている。
 一週間、会わないだけだったのに随分とやつれているのに気付いて胸が締め付けられるような思いがする。眉間に寄せられた皺と固く閉じられた瞼はサヴィラの心の内の苦しみを表しているようにも見えた。

「サヴィラ」

 声を掛けて目にかかっていた前髪を払う。
 すると瞼がぴくぴくと痙攣して、数拍の間を置き、紫紺の瞳が現れる。ぼんやりとした眼差しは夢と現の間を彷徨うように揺蕩って、漸く真尋を捉える。

「……し、んぷさま?」

「そうだ。漸く、会いに来られたよ、サヴィ」

 真尋はふっと笑って、サヴィラの頬を撫でる。
 伸びてきた手が真尋の頬に触れた。まるでそこに本当に存在しているのを確かめるかのようにサヴィラの温い手が真尋の顎に触れて、鼻に触れて、頬に触れた。

「……しんぷさまが、いるなら……これは、いいゆめだ」

 紫紺の瞳が柔く細められる。
 どうやらサヴィラの意識はまだ随分と朦朧としているようだ。子どもであるからそれほど強い薬は使われていなかったから熱があるのと精神的な疲労が大きいせいだろう。
 真尋の頬に触れていたサヴィラの手を取り、握りしめる。

「迎えに来たんだ、サヴィラ」

「……むかえに?」

「ああ。一緒に帰ろう、サヴィ」

 そう告げるとサヴィラは、嬉しそうに口元を綻ばせて、幼い子供みたいに、うん、と頷いた。そして、またゆっくりと眠りに落ちていく。だが、さっきまでの表情に比べれば、随分とそれは和らいだものに変わっていて、真尋は小さな笑みを落としてサヴィラの額にキスを落とす。
 トマスがサヴィラの腕から伸びていた点滴の針を抜いて、管を外す。真尋はその針の痕に手を当てて治癒呪文を唱えて傷を塞ぐ。そして、毛布でくるんだサヴィラをひょいと抱き上げる。
 十三歳という年齢からみれば、サヴィラは随分と小柄だ。必要な栄養が得られなかったせいだろう。声変りがまだなのも体の成長が年齢に追いついていないからかもしれない。

「安心した顔しちゃって……幸せになるんだよ、サヴィ」

 ソニアが真尋の腕の中で眠るサヴィラの淡い金の髪を撫でて言った。

「神父様、サヴィの荷物、仕度できたよ」

 ネネが小さな鞄を持ってルイスと共に戻って来る。

「ダビドお爺ちゃんの小箱もちゃんと入れてあるからね、サヴィが凄く大事にしてたの」

 ルイスが言った。

「ああ、分かった。下まで持ってきてくれるか?」

「うん。……サヴィ、さっきより優しい顔してる」

「良かったぁ。やっぱり神父様はすごいね」

 サヴィの顔を覗き込んだ二人が嬉しそうに顔を綻ばせる。頭を撫でたいが生憎と腕は塞がっているので、ありがとう、と返す。
 部屋を出て階段を降りる。談話室からは変わらずに楽しそうな笑い声が聞こえてきていた。

「ルイス、ネネ、ここでの暮らしはどうだ?」

 階段をおりながら真尋は尋ねる。

「あのね、すっごく楽しいよ。僕、大人になったらサンドロおじさんみたいなコックさんになりたいの」

「ウェイトレスのお仕事ね、面白いのよ。私、ローサお姉ちゃんみたいな格好よくて素敵な女の子になりたいの」

 どうやら二人は既に将来の夢を見つけたようだ。

「そうか。なら、色んなことを教わって、学んで、楽しく過ごせ」

「うん!」

 階段を降り切って、一階に着く。カウンターの傍には数人の冒険者がいて、ヴィートがアナを見せびらかしていた。どうやら本当に待たせていたようだ。

「母さん、この人たちがチェックインしたいって」

「あんたそれくらいはいい加減、覚えたらどうだい! あんたといいレイといい、ちっともカウンター業務を覚えやしない!」

 ソニアがつかつかと歩み寄って、ヴィートの頭に拳骨を落としだ。あだっ、とヴィートが間抜けな声を上げる。

「レイ兄さんは冒険者だし、俺は料理人だもん」

「うちの息子共とくれば! まったく、うちの子だったら覚えな!」

「まあまあ、そう怒らない、怒らない。あんまり怒ってエネルギー使うと無い胸がもっとなくなっ、ごふっ」

 ヴィートの顔にソニアの拳がめり込んだ。ソニアは息子の腕の中からさっさとアナを取り上げる。
 レイにしろ、ヴィートにしろ母の愛をそんなに拳という形でもって受け取りたいのだろうかと真尋は真剣に首を捻る。ルイスは「この間もヴィート兄ちゃん、殴られてたよ」と可笑しそうに笑いながら教えてくれ、ネネは同じ猫系の獣人族だからか自分の胸を心配そうに見ていた。そういえばローサも無いしなと失礼極まりないことを考えるも流石の真尋もネネに対しては無責任なことは言えないので口を噤む。
 ソニアはアナを背中に背負い直しながらカウンターに入り、サヴィラのギルドカードを取り出すとこちらに戻って来る。ここに入れておくからね、とそれをネネが持っていた鞄に入れた。出かける時などは迷子札代わりに持たせることもあるが、子どもは失くす可能性が高いので基本的に親が管理するのが普通だ。ミアのカードも真尋が持っている。
 ルイスがドアを開けて外へ出れば、リックがすぐに気づいて馬車のドアを開けてくれる。真尋はサヴィラを抱えなおして、馬車に乗り込む。リックも乗り込みドアが閉められた。
 のっそりと出て来たヴィートがひょいとネネを抱き上げ、窓からネネの顔が覗く。

「神父様、サヴィラをよろしくね」

「ああ。サヴィが元気になったら一緒に遊びに来る」

「本当? 楽しみにしてるわ」

 笑顔のネネが引っ込むと今度はルイスがヴィートに抱き上げられて顔を出す。

「サヴィ、早く良くなってね。神父様、遊びに来る時はミアとジョンもイチロお兄ちゃんも一緒に来てね」

「すぐに良くなるさ。そうだな、皆で来るよ」

「マヒロさんの傍に居たらすぐに元気になりますよ。経験者の私が保証します」

 リックの言葉にルイスは、うん、と嬉しそうに頷いた。

「さあ、雨が降る前にお帰りよ、エディ、安全第一だよ」

「勿論です。では、出発します」

「またね、サヴィ、神父様!!」

「早く元気になってねー!」

 賑やかな声に見送られて馬車は走り出す。ガタガタと小さく揺れる馬車の中で真尋は、サヴィラが落ちないようにしっかりと抱える。ふとみればいつの間にか毛布から出ていた手が真尋の神父服をしっかりと握りしめているのに気付く。

「……息子というのもやはり可愛いものだな」

「……まだ気が早いのでは? サヴィラ、寝ているじゃないですか」

 リックが呆れたように言った。

「安心しろ、婿には行かせん。嫁を貰ってこさせるからな。それに息子が出来たからといってミアは嫁にはやらんぞ、婿取り一択だ」

「私が申し上げているのはそこの話じゃないですし、非常に大人げないですよ。……まあ、貴方に捕まった以上、サヴィラはもう逃げられないのでしょうから、幸せな悩みでしょうけれど」

 そう言ってリックは可笑しそうに笑った。











 コンコンとノックをすれば、どうぞ、と返事が聞こえた。
 一路は、三人分の夕食を乗せたワゴンを押しながら中へと入る。
 殺風景な広い部屋は置かれたキングサイズのベッドがぽつんとあるのみだ。外は酷い嵐でガタガタと窓ガラスが揺れる。流石の今日は、庭に出しておくわけにもいかず、テディも中へ入って広い部屋の片隅で丸くなって眠っていた。ロボたちはイチロの部屋に居る。
そのベッドの上にミアがいて、眠るサヴィラの様子を見ていて、真尋はベッドの横に置いた丸テーブルの上で何やら万年筆を走らせている。

「夕ご飯の仕度ができたよ。こっちで食べるでしょう?」

「気が利くな、ありがとう」

「イチくん、ありがとう」

「どういたしまして。テーブルと椅子もついでに持って来たから、ミアちゃん、お手伝いしてもらえる?」

 うん、と素直に頷いたミアがベッドから降りて来る。一路は、アイテムボックスからテーブルと椅子を二脚取り出して部屋に置き、クロスを掛ける。ミアがパパの、ミアのと言いながらフォークやお皿を並べてくれる。一生懸命ちょこちょこと動く度にミアの白い兎の耳が揺れてとても可愛らしい。
 マヒロの夕食はトマトと貝のスープに山盛りのペペロンチーノとサラダ、プーレのハーブソテーにバケット。ミアの夕食は、貝が苦手なのでプリシラが別に作ってくれたトマトスープ、バケット、野菜スティック、プーレのハーブソテーとフルーツの盛り合わせだ。
 兎系の獣人族であるミアは、肉よりも野菜や果物を好む。とはいえ純粋な兎さんではないので、肉も食べるが人族や肉食系の種族に比べると健康に必要な肉の量は圧倒的に少ない。

「サヴィラくんにはチキンスープをプリシラさんが作ってくれたよ。保温しておくから」

 真尋は、ああ、と書類を睨んだまま頷いた。
 一路は、カートの一番下から取り出したそれを一番上に乗せておく。よく鉄板焼きのお店などで料理に被せる銀色のドーム状のカバーが掛けられている。これは保温の魔道具で中の料理を適温に保ってくれるのだ。

「それ騎士団の?」

「……さっき、シャテンが運んで来た。二年前のエルガンの事件は、やはりクルィークの関与の線が濃厚だ」

 そう言って真尋は、ぐっと伸びをすると手に持っていた書類をざっとまとめてアイテムボックスにしまった。彼は片付けというものも苦手である。

「パパ、お休みが終わったら、また、お仕事、いそがしいの?」

 ミアが真尋に尋ねる。

「いいや。パパは、ミアと一緒に居られない仕事をいつまでもする気は無いからな。これからは夕ご飯までに帰って来るし、三日に一度は休みにする」

 何時決めたんだろうなぁ、と思いながらもこの人はやると言ったらやる男なので、休み明けに事務官、いや、騎士団が泣かされるのは間違いないな、と思った。もしかしたらまた誰か気絶して治療院に運ばれるかも知れない。とはいえ一路は真尋に賛成派だ。
 真尋が立ち上がり、ベッドに腰掛けてサヴィラに手を伸ばす。その手が頬に触れて体温を確かめる。

「まだ、熱は下がらない?」

「いや……俺より少し温いくらいだから、大分下がった。俺の魔力がこの屋敷全体を覆っているから、安心しているんだろう。寝顔も安らかだしな」

 そう告げる彼の横顔はとても優しい。ミアが真尋の横からベッドに上り、サヴィラの顔を覗き込む。

「パパ、サヴィ、いつ元気になる?」

「明日ゆっくり休めば、すぐに元気になる。熱も大分下がったし、顔色だって悪くないだろう?」

「そっかぁ、よかった。サヴィ、早く元気になってね」

 ミアの小さな手がサヴィラの頬を優しく撫でた。
 サヴィラの寝顔は穏やかそのものだ。安心しきっているのが分かる。
 保護されて、この屋敷で生活を始めたばかりの頃は、常に周囲を警戒していて、刺々した雰囲気の子だったがインサニアを殲滅して以降は、随分と雰囲気が柔らかくなった。そして、彼の守ってきた家族を真尋が守ると約束し、腕の中で泣いてからは特に真尋にはとても懐いていて、本を読む真尋の横で同じように本を読む姿をよく見かけた。ミアと一緒になって、ちょこちょこと真尋の後をついて回る姿は、とても微笑ましかった。
 サヴィラの生い立ちは、真尋が教えてくれた僅かなことしか知らないけれど、大人を憎み、嫌い、恐怖していたサヴィラにとって、真尋という存在は衝撃的だっただろう。別に何を求めるでもなく、何を強要するわけでもなく、ただ、サヴィラがサヴィラであるというだけで甘えさせてくれて、愛してくれる存在は、サヴィラにとって本当に衝撃的なものだっただろうと思う。それは本来、全ての子どもが親という存在から与えられるはずのものなのだけれど。
 嘗て、真尋がどこからか拾ってきた青年にサヴィラは少し似ていると思う。その名前を出すと「あいつは間違いなく時空を超えて来る」と断言した真尋に怒られるので言わないが。正直、一路も来ちゃいそうだと思っている。

「ほら、二人とも早く食べないと折角の夕ご飯が冷めちゃうよ」

「そうだな、ほら、おいでミア」

 真尋がミアを抱き上げて立ち上がる。何時の間に起きたのか、テディがのしのしと此方にやってきて、ベッドの傍に座り込んだ。どうやら食事の間は自分がサヴィラを見守る気のようだ。

「あのね、イチくん。サヴィはね、テディと仲良しなのよ」

 子供用の椅子の上に下ろされたミアがにこにこと笑いながら言った。真尋はその隣に腰を下ろす。

「そうなの?」

 一路が首を傾げれば、ミアが、うん、と頷く。

「サヴィはいつも本のお部屋にいることが多いけどねぇ、それ以外だとお庭でテディとお昼寝したり、テディと本を読んでいたりするのよ。だからね、お天気の日はいつもテディに寄りかかってサヴィに本を読んでもらうの。サヴィとテディはお友達なの」

「そうなんだ。ああ、そういえばよくお庭で一緒にいるの見たなぁ」

「前は夜中に二人で夜空に手を伸ばして「届かないなぁ」なんて言い合ってて可愛かったぞ」

 真尋がくすくすと笑いながらミアの首元にナプキンを掛ける。大き目のそれは、膝の方まできちんとカバーしてくれる。子どもに前掛けは必須アイテムだ。掛けてもらった後、ちゃんと「パパ、ありがとう」と笑顔で言うミアは、親友が親馬鹿になるのも頷けるほど可愛い。正直、真尋とは兄弟のように育った自覚もあるので、姪っ子が出来たみたいで一路もミアのことが可愛くて仕方がない。
 いただきます、の挨拶をして親子が食事を始める。ミアは、大好物のニンジンスティックを美味しそうに齧る。真尋はそれを愛おしそうに見つめていて、何だかそれが嬉しくて、くすぐったくて、良かったなと心から思う。
 真尋は愛情深い人だ。彼の愛は惜しみなく誰にでも与えられるけれど、雪乃や真智や真咲に与えられていたものはきっと特別なものだった。だからこの遠く離れた世界で、彼がその特別な愛を与えられる相手を得られたことは本当に幸せなことだと一路は心から思う。真尋は雪乃を想う日々も幸せだと言っていたし、事実、それはそれで幸せなのだろうけれど、与えた愛を笑顔と共に返してくれる存在と共に作り出す幸福は、特別なものだと思うのだ。
 
「さて、僕も行くね。食べ終わったらワゴンに乗せて廊下に出しておいてね」

「ああ、分かった」

「またね」

 ミアに手を振って一路は部屋を出る。廊下は雨と風の音がやけに大きく響いている。
 きっと、明日にはもう一人増えるんだろうなぁ、とベッドの上で穏やかに眠る少年を思い浮かべて一路はくすりと笑う。
 だって、先ほど、彼の頬を撫ぜた真尋は、ミアに向ける眼差しと同じものを彼に向けていたのだ。それに多分、真尋は随分と前からそうすることを決めていたのだと思う。ただ一人ぼっちになってしまったミアと違い、サヴィラには、彼の大事な家族がいたから流石に大人げなく彼らからサヴィラを奪うことは真尋には出来なかったのだ。でも、ここへ連れて帰って来たということは、そのネネたちが許可をくれたに違いない。

「甥っ子か、それも可愛いなぁ。……真尋くん『婿にはやらんからな』とか言い出すんだろうなぁ」

 嫁を取れ、嫁をとドヤ顔で言い放つ大人げない親友の姿が容易に想像できて、思わずぷっと吹き出してしまう一路だったが、まさかこの時すでに親友が護衛騎士にドヤ顔で宣言していたとは知らないのだった。










 良い夢だなぁ、とサヴィラは笑う。
 だって、大好きな神父様が、迎えに来たと言う。一緒に帰ろうと言う。
 それに温かくて大きな手がサヴィラの頬を優しく撫でてくれる。もっとずっと撫でていて欲しいと思ったら手が離れてしまったけれど、少しのあと、優しく抱き上げてもらえた。
 サヴィラの細い腕と違って、神父様の腕は男らしく力強い。そのあたたかい体に擦り寄れば、やっぱり煙草の苦い香りがして安心する。
 本当に良い夢だ、とサヴィラは笑う。
 神父様は、不思議だ。
 傍にいるととても安心する。撫でてもらえると胸が温かくなる。抱き締められると何だか、泣いてしまいそうになる。
 それはこれまでサヴィラの知らなかった感情ばかりだ。
 父親の腕の中とは、こんな風に力強く温かくて、聞こえる心臓の音が心地よいものなのだろうか。
 ミアに向けられるものと、自分に向けられるものは、違うだろうけれどその愛というものは、こんなにも優しいものだとサヴィラは知らなかった。
 オルガに出会うまで、サヴィラにとって、子どもを愛する親というのは本の中にしか存在しない架空のものだった。貧民街に来るまでのサヴィラが八年間ほど生きていた世界には存在していなかったからだ。
 生まれたその日に金だけ受け取りサヴィラを捨てた母。
 自分の機嫌が悪い時とサヴィラが何らかの失敗をした時にだけ会いに来て、サヴィラを怒鳴りつけ、否定し、殴る父。
 いつも不機嫌な顔をして、サヴィラが父に怒鳴られて、殴られている時だけ笑う乳母。
 憎しみの籠った目と言葉でサヴィラを疎み続ける奥様。
 サヴィラが失敗するのを嬉々として父に告げ口する使用人たち。
 サヴィラの生きていた世界は、そういうもので構成されていた。だからサヴィラにとって、自分の出生を知り、その意味を理解することは、自分の価値を知ることでもあった。
 サヴィラは魔法も勉強も剣術も努力に努力を重ねた。小さな失敗も些細な躓きもサヴィラには許されない。求められるのは完璧なものだけだった。そうでなければ、自分には何の価値もないのだ。
成功したからと褒めてもらえたことは一度だって無いが、父に怒鳴られないということだけでもサヴィラにとっては素晴らしいことだった。
 魔法と剣術は兎も角、勉強は嫌いでは無かった。家庭教師たちは厳しかったが、サヴィラを怒鳴るようなことはなかったし、各分野においてそれぞれ素晴らしい知識を持ち合わせていて、彼らの話は屋敷を出たことの無いサヴィラにとって未知の世界の話だった。
 特に語学と文学の教師がサヴィラは好きだった。彼は年嵩の男性で淡々としていてにこりともしない人だったが、課題として読んでおくようにと渡してくるたくさんの本の中に毎回必ず子供向けの小説を忍ばせてくれたのだ。乳母の厳しい監視の目も流石にそれには気付けなかったようだった。
 その教師が与えてくれる一冊の小説がいつもサヴィラを色々な世界に連れて行ってくれた。ベッドの布団の中、火の玉の灯りだけを頼りにサヴィラは夢中になって読んだ。ドラゴンと戦う勇者、美しい女神様、陽気な酒場のマスターに謎の貴公子、お転婆なお姫様に、そして、子どもを愛する両親。
 本の中には、サヴィラの知らないものがたくさん溢れ返っていた。
 しかし、そんな世界にも終わりは突然訪れる。
 妊娠していたことすら知らなかったが、父の正妻である奥様が子を産んだ時、王国の法に従い、爵位継承権は生まれて間もない赤ん坊に移行し妾腹の子であったサヴィラの存在価値は失われ、呆気無く屋敷を追い出され、乳母に売られ、ブランレトゥの貧民街に辿り着いた。

『はははっ、出来損ないのクズに居場所なんて最初から無かったの!! これでお前の人生もめちゃくちゃだ!!』

 サヴィラを人買いに売った乳母の言葉は今も脳裏に鮮やかに刻み込まれている。
 貧民街での暮らしは、辛く苦しく哀しいことも多かったけれど、大事な家族が居たし、ダビドもいてくれた。家族を守りながら生きる日々は、初めてサヴィラの無価値な人生に価値を与えてくれた。
 ダビドを失ってしまったあとだってネネたちが居てくれたからこそサヴィラは立っていられた。彼女たちを守らなければという想いだけがサヴィラを支え続けていた。
 でももうネネたちを守る必要はない。ネネもルイスもレニーも、皆、孤児院で幸せそうに暮らしている。大勢の大人たちが自分たちを歓迎し、守ってくれている。チビたちは大人たちの膝の上で嬉しそうに食事をしたり、遊んだりする。
 良かったな、と心から思う。親に捨てられたり、死別したり、そうして孤児になった子どもばかりだったから、大人の愛情に飢えていたのは確かだった。空腹よりも厄介なそれを漸く満たしてもらった彼らは幸せそうに笑う。
 折角、神父様が与えてくれた居場所なのに、サヴィラはどうしても馴染めない。
 頭では分かっている。ここに居る大人たちは、誰一人としてサヴィラを傷付けることはないし、疎むこともない。
 けれど、どうしても心が拒否する。どうしても信じきれない。
 それに、それらはサヴィラが本当に求めているものではないから。

「サヴィ」

 あの低くて優しい声が良い。

「……サヴィラ」

 神父様に名前を呼んでもらえるとそれだけで嬉しくなる。出来損ないで無価値な自分にまた一つ価値が見いだせたような特別な気持ちになる。
 温かい手が髪を撫でてくれる夢を何度も何度も見た。その度に、それは自分には許されない夢だと飛び起きて、朝が来るまで膝を抱えて待った。

「なぁ、サヴィ。何を泣いているんだ?」

 ああ、また夢を見ている。
 温かい手が髪を撫でてくれている。もう少しだけこの夢を見ていたいと強く目を閉じる。夢の中でなら、少しくらいは良いと思った。
 現実の世界ではこの温かい手は、ミアのように母親に愛されて生まれて育った命にこそ相応しいものだ。自分のように誰にも必要とされず、望まれなかった命には、これっぽっちも相応しくない。あの晩、神父様に告げたように、サヴィラの命をノアに渡せればよかったのにと何度も何度も思った。そうすればミアは、大好きな弟と一緒に神父様の腕の中で今以上に幸せに笑っていたような気がするのだ。

「そんな悲しいことを言うな」

 苦しいほどに抱き締められて、大きな手がサヴィラの頭を抱えるように引き寄せた。その固い胸板に顔を埋める格好になって息をすれば、石鹸と煙草の香りがする。
 夢にしてはやけに現実味を帯びているように思えた。
 匂いも、ぬくもりも、その力強さも、夢にしては現実味を帯び過ぎている。心臓がひやりと一瞬で冷えて、息を詰める。瞼を力づくで持ち上げた先で、銀に蒼の混じる月夜色の瞳と目が合った

「な、なんで……」

 最初に出てきた言葉がそれだった。
 咄嗟に押しのけようとしたのに、背中にぴたりと張り付く温もりがあって動けない。首を捻って後ろを見れば、砂色の髪と白い兎の耳が見えた。どうして自分は、孤児院に居る筈のないマヒロとミアの間で眠っているのだろうか。ミアはサヴィラの背中にぴったりとはりついて、すやすやと穏やかな寝息を零している。
 サヴィラはもう一度、正面に顔を向けた。月夜色の瞳がじっとこちらを見ている。

「……なんでって俺がお前をここに連れて来たんだ。言っただろう? 迎えに来たと、一緒に帰ろうと言ったら、お前は頷いたんだから同意の上だぞ」
 
 そう言ってマヒロは、微かに口元に笑みを浮かべてサヴィラの頬を撫でた。鱗の上を長い指が撫でていって、初めて自分の頬が濡れていることに気付いた。

「急に泣き出すから驚いた。……怖い夢でも見たか?」

 彼の向こうには、暗い部屋が広がっている。ベッドの周りには、相変わらず優しい光を零す金色の光の玉が浮かんでいる。ガタガタと窓ガラスを揺らす風の音がして、ざあざあと桶をひっくり返したかのような烈しい雨の音がする。
 まるでこの部屋が世界から切り離されてしまったかのように感じる。凄雨の降る世界の内側に取り残されてしまったかのようだった。遠くで鳴る雷ですらこの世界を現実には戻して呉れそうにないような気がしてサヴィラは酷くそれが怖くなってマヒロのシャツを握りしめる手に力を籠める。

「……神父様の手は、俺には相応しくないよ……」

 囁くように告げた。雨の音に消えてしまえばいいと思ったのに、サヴィラの意思に反してそれはマヒロに届いてしまったようで抱き締める腕の力が強くなる。

「そんなことはない」

「そんなことあるよ……ある。だって、俺……出来損ないだもん」

 口端が勝手に持ち上がって、乾いた笑い声が堕ちる。

「だから父様は、いつも怒っていたんだ。母様は、俺を捨てたんだ……乳母の言う通りだった……っ。出来損ないの俺に、出来損ないの俺なんかが居て良い場所なんて、なかったんだよ……っ」

 乳母の言った通りだ、とサヴィラは嘲笑うように吐き出す。
 サヴィラが人買いに売られたあの日、乳母が狂ったように嗤いながら叫んだ言葉は嘘では無かった。サヴィラが赤ん坊の時からサヴィラを育ててくれたのは、あの乳母だったのだからサヴィラを最もよく知る乳母の言うことは正しくて当たり前だったのかもしれない。

「……サヴィ」

 唇が髪に落とされた。
 全てを隠したくなって顔をその胸に押し付けた。鍛えられた胸板は固くて、痛い。

「孤児院は、とても素敵な場所だったよ……でも、でもさ……おとなが、いっぱいいて……っ、俺、どうしたらいいかわかんなくて……っ。分かってるよ、あの人たちは、みんないい人で、優しい人だって……でも俺は、それを信じきれないんだ……っ。ごめんなさい、神父様……俺、ちゃんとできなくて、ごめんなさい、ごめんなさい、でもっ、でも……おねがいだから、きらいにならないでっ」

 いやだいやだと駄々を捏ねる子供みたいにサヴィラはマヒロの胸に顔を押しつけて、何度も何度も「ごめんなさい」と「嫌いにならないで」という言葉を繰り返した。

「サヴィラ」

 大きな手が優しくサヴィラを抱き寄せる。

「お前の考えている小難しいことはこの際、どこか遠くに放り投げておくとして、俺はサヴィと家族になりたい。俺とミアがサヴィラの居場所になれたらと思ってる」

 そっと与えられた言葉は予想だにしなかったものでサヴィラは弾かれたように顔を上げた。目と鼻の先に月夜色の瞳がある。そこには深い深い優しさがたっぷりと込められている。

「もっと早く言葉にすれば良かった……でもネネやルイスからお前を奪ってしまうことが出来なかった。お前からネネやルイスを奪うことが出来なかった」

「だ、だめだよ……」

 サヴィラは呆然としたまま首を横に振った。
 マヒロは、くすくすと笑って「なぜ?」と首を傾げた。

「俺はサヴィラを息子にしたいし、ミアも「お兄ちゃんができる」と大喜びしていたから問題はないぞ」

「あるよ、だって、俺……俺は、出来損ないで……っ、それにネネたちだってっ」

 サヴィラは逃げ出そうとその胸を押すがサヴィラを抱き締める腕の力はぴくりとも緩まない。それどころかミアが「んー」と眠たげな声を漏らして更にくっついて来て、ミアの細い腕がサヴィラの脇からにゅっと伸びて来てサヴィラの胸辺りで、サヴィラの服を握りしめた。。
 これでは逃げられないと焦るサヴィラを他所にマヒロがくすくすと笑う声が降って来る。

「ネネとルイスがお前をここに送り出してくれたんだ」

「……え?」

 ミアの手をどうにか剥がそうと試みていたサヴィラは間抜けな声を漏らして顔を上げる。

「自分たちは、サヴィラが守り続けてくれたおかげで、孤児院で幸せになることが出来たって……だから今度は、サヴィに幸せになって欲しいって、二人がそう言ったんだ。俺とミアと家族になったとしても、住む場所が違ったとしてもサヴィラとネネ達は家族だ。ただ、幸せになれる場所はネネたちとサヴィラでは違っただけの話だ。言っただろう? 小難しいことは遠くに放り投げておけと」

 伸びてきた手がサヴィラの前髪を払って頬を撫でる。

「なあ、サヴィ。俺をお前の父親にしてくれ。そして、俺の息子になってくれ。年が近いから兄のような父にもなれる、お得だと思わないか? ほら、あとはここにサインするだけだぞ」

 どこからともなく取り出された養子縁組同意書をひらひらと揺らすマヒロは、とびきり優しい顔をしている。
 言ってもいいのだろうかとサヴィラは、揺れる心を悟られまいと唇を噛んだ。サヴィラの本音が口から零れそうになると乳母が嗤う。
『出来損ないのお前に居場所なんてないのよ』
 呪いのように繰り返される言葉。だというのに、目の前の優しい神父様の眼差しにだんだんとその声が遠のいて行くのだ。
 だってそこに、月夜色の瞳の中にサヴィラが求め続けていた「愛」がある。それはただの愛じゃない。サヴィラに、サヴィラだけに向けられて、サヴィラが望めば望むだけ与えれ貰えるとびきりの「愛情」だ。

「俺……なにもできないよ……っ」

「サヴィラは、勉強も出来るし、運動も得意だし、魔法も上手だ。それに掃除も簡単な料理も出来るそうじゃないか、凄いぞ。俺はさっぱり出来ないからな」

「……いばるところじゃないよ」

 神父様の優しい笑顔をずっと見ていたいのにじんわりとぼやけて頬が濡れる。

「……神父様の奥様が、いやがるかもよ……っ」

「雪乃が? そんなこと有る訳ないだろ。彼女は俺と同じくらいにお前とミアを愛してくれる。彼女は俺よりもずっと愛情深く優しい人だからな」

「……俺の出生が、いつか神父様に迷惑を」

「ごちゃごちゃ言うな。答えは「はい」か「うん」のどっちかにしろ、それかここにサインしろ」

「それ、拒否権、ないじゃんっ」

 ぼたぼたと溢れる涙がシーツを濡らす。

「そんなものをこの俺が用意する訳が無いだろう。なぁ、サヴィ、お前はどうしたい? お前の本音を俺に聞かせてくれ」

 涙を拭うようにマヒロの親指がサヴィラの頬を拭う。サヴィラはその手に自分の手を重ねてもう片方の手でミアの小さな手を握りしめた。
 もうどこからも乳母の声が聞こえない。

「俺、俺は……っ、神父様の子どもになりたい……っ、俺も神父様を父様って呼びたい……っ」

 涙を拭っていた指の動きが止まった。
 ふっと柔く笑う声がぼやけた視界の向こうから聞こえて来て、包むように抱き締められる。

「パパ呼び希望だったが、父様呼びも特別に許可しよう。サヴィラ、今日からお前はミアの兄で、俺の愛しい息子だ」

「ほんとっ?」

「ああ。明日、朝一でクロードを呼びつけてあるから、お前がサインすればそれで公式な手続きは完了だ」

「ずっと、ここにいていいのっ?」

「勿論。言っておくが、婿に行くのは認めんからな、嫁を貰え。だがお前が家に残るからとミアを嫁に出す気は毛頭ない。ミアが婿を連れて来たら二人で面接をしよう。そして誰であれ容赦なく一度は一次面接で落とそうな」

「おとなげ、ない、よっ」

 サヴィラはミアの手を握りしめる手とは反対の手をマヒロの背に回す。力強い腕の中は、やっぱり温かくて、聞こえて来る心臓の音に涙が止まらないほど安心する。

「俺はとても幸せな男だ。こんなにも可愛い娘とこんなにも出来の良い息子を得られたんだ」

 つむじにキスが落とされる。ミアを起こさないように嗚咽が零れる口をマヒロの胸に押し付ける。

「サヴィラ、お前は俺の自慢の息子だよ」

 溢れ出した涙がじわじわとマヒロの服やシーツを濡らす。
 本当はずっとずっとずっとその言葉が欲しかった。あの屋敷の中で、唯一、血の繋がった父様に愛して欲しかった。
 勉強を頑張ったら、魔法がもっと上手使えるようになったら、剣術がもっともっと上達したら、いつか、いつかそう言って、笑って頬にキスをして抱き締めてくれるんじゃないかと心のどこかで願っていたのだ。願うことをどうしてもやめられなかった。小さな願いは、あの屋敷の中では一度だって叶うことはなかったけれど、十三年越しの願いが今、叶ったのだ。
 その瞬間、心の奥底から溢れてサヴィラの体を覆った泣きたくなるほどあたたかくて優しい感情を人は、幸せ、と言うのかもしれない。

「しんぷ、さまっ……ありが、ありがとう……っ」

「馬鹿者、違うだろう? 父様だ、父様……パパでもいいぞ?」

「とうさま」

「……パパでも良いと言ったのに」

 悔しそうな声が聞こえて、サヴィラは泣きながら笑った。
 この人は、正直言って変な人だ。造りものみたいに美しくて天才的な頭脳と超人的な運動能力があるのに、図書室は一向に片付かないし、自分の服一つ満足に片付けられないし、キッチンに出入りは禁止されているし、庭ではキラーベアをペットとして飼っているし、ミアのことを溺愛し過ぎだし、こんなサヴィラを自慢の息子だというし、パパ呼びまで希望してくる。
 こんなにも変なのに、何よりも誰よりもこの人は、優しくて愛情深い神父様だ。

「父様……だいすき」

「俺は愛してるぞ。サヴィラとミアを雪乃と同じだけ愛している」

 ふっと笑う声がした。よしよしと子供をあやすように背を撫でられて、涙が溢れるのと同時にだんだんと眠気が忍び寄って来る。サヴィラは、幼い子供のようにマヒロに抱き着いて、心臓の音を聞きながら目を閉じる。
 きっと、幸せの音というのは、こんな風に生命の力を宿した力強い音をしているのだろうと思った。

 



―――――――――――――
ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、励みになっております。
とんでもない大ドスランプに陥って、二進も三進もいかなくなっていたのですが、無事にここまでたどり着けました。

近い内に後日談をこそっと上げようかと思います。
シリアスなんて言葉とはかけ離れた、真尋さんの「息子と娘が可愛すぎて生きるのが楽しすぎる日々」的な内容のやつになると思います。

次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪

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転生チートは家族のために~ユニークスキルで、快適な異世界生活を送りたい!~

りーさん
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 ある日、異世界に転生したルイ。  前世では、両親が共働きの鍵っ子だったため、寂しい思いをしていたが、今世は優しい家族に囲まれた。  そんな家族と異世界でも楽しく過ごすために、ユニークスキルをいろいろと便利に使っていたら、様々なトラブルに巻き込まれていく。 「家族といたいからほっといてよ!」 ※スキルを本格的に使い出すのは二章からです。

悪役令息に転生したけど、静かな老後を送りたい!

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 妹がやっていた乙女ゲームの世界に転生し、自分がゲームの中の悪役令息であり、魔王フラグ持ちであることに気がついたシリウス。しかし、乙女ゲームに興味がなかった事が仇となり、断片的にしかゲームの内容が分からない!わずかな記憶を頼りに魔王フラグをへし折って、静かな老後を送りたい!  剣と魔法のファンタジー世界で、精一杯、悪足搔きさせていただきます!

スキル盗んで何が悪い!

大都督
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"スキル"それは誰もが欲しがる物 "スキル"それは人が持つには限られた能力 "スキル"それは一人の青年の運命を変えた力  いつのも日常生活をおくる彼、大空三成(オオゾラミツナリ)彼は毎日仕事をし、終われば帰ってゲームをして遊ぶ。そんな毎日を繰り返していた。  本人はこれからも続く生活だと思っていた。  そう、あのゲームを起動させるまでは……  大人気商品ワールドランド、略してWL。  ゲームを始めると指先一つリアルに再現、ゲーマーである主人公は感激と喜び物語を勧めていく。  しかし、突然目の前に現れた女の子に思わぬ言葉を聞かさせる……  女の子の正体は!? このゲームの目的は!?  これからどうするの主人公!  【スキル盗んで何が悪い!】始まります!

俺しか使えない『アイテムボックス』がバグってる

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俗にいう神様転生とやらを経験することになった主人公――札月沖長。ただしよくあるような最強でチートな能力をもらい、異世界ではしゃぐつもりなど到底なかった沖長は、丈夫な身体と便利なアイテムボックスだけを望んだ。しかしこの二つ、神がどういう解釈をしていたのか、特にアイテムボックスについてはバグっているのではと思うほどの能力を有していた。これはこれで便利に使えばいいかと思っていたが、どうも自分だけが転生者ではなく、一緒に同世界へ転生した者たちがいるようで……。しかもそいつらは自分が主人公で、沖長をイレギュラーだの踏み台だなどと言ってくる。これは異世界ではなく現代ファンタジーの世界に転生することになった男が、その世界の真実を知りながらもマイペースに生きる物語である。

女神の代わりに異世界漫遊  ~ほのぼの・まったり。時々、ざまぁ?~

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目の前に、女神を名乗る女性が立っていた。 麗しい彼女の願いは「自分の代わりに世界を見て欲しい」それだけ。 使命も何もなく、ただ、その世界で楽しく生きていくだけでいいらしい。 厳しい異世界で生き抜く為のスキルも色々と貰い、食いしん坊だけど優しくて可愛い従魔も一緒! 忙しくて自由のない女神の代わりに、異世界を楽しんでこよう♪ 13話目くらいから話が動きますので、気長にお付き合いください! 最初はとっつきにくいかもしれませんが、どうか続きを読んでみてくださいね^^ ※お気に入り登録や感想がとても励みになっています。 ありがとうございます!  (なかなかお返事書けなくてごめんなさい) ※小説家になろう様にも投稿しています

貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた

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 貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。  僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。  魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。  言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。  この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。  小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。 ------------------------------------------------------------------  お知らせ   「転生者はめぐりあう」 始めました。 ------------------------------------------------------------------ 注意  作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。  感想は受け付けていません。  誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。

フリーター転生。公爵家に転生したけど継承権が低い件。精霊の加護(チート)を得たので、努力と知識と根性で公爵家当主へと成り上がる 

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400倍の魔力ってマジ!?魔力が多すぎて範囲攻撃魔法だけとか縛りでしょ 25歳子供部屋在住。彼女なし=年齢のフリーター・バンドマンはある日理不尽にも、バンドリーダでボーカルからクビを宣告され、反論を述べる間もなくガッチャ切りされそんな失意のか、理不尽に言い渡された残業中に急死してしまう。  目が覚めると俺は広大な領地を有するノーフォーク公爵家の長男の息子ユーサー・フォン・ハワードに転生していた。 ユーサーは一度目の人生の漠然とした目標であった『有名になりたい』他人から好かれ、知られる何者かになりたかった。と言う目標を再認識し、二度目の生を悔いの無いように、全力で生きる事を誓うのであった。 しかし、俺が公爵になるためには父の兄弟である次男、三男の息子。つまり従妹達と争う事になってしまい。 ユーサーは富国強兵を掲げ、先ずは小さな事から始めるのであった。 そんな主人公のゆったり成長期!!

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