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番外編 2
中編
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孤児院の開院から一週間後、真尋は一路と共に冒険者ギルドに顔を出した後、騎士団へ戻る前に孤児院へと顔を出した。
開けっ放しの入り口から中へと入る。
「おや、マヒロ、イチロ、様子を見に来てくれたのかい?」
背中にアナを背負うソニアが顔を上げる。ソニアと話しをしていた冒険者が「神父さん、どうも」会釈をする。
元・金の豚亭は、山猫亭と違って一階はカウンターのようなものがあって、二階までは吹き抜けになっている。カウンターの左右に上へと伸びる階段がある。一階は、カウンターの左手奥にはナルキーサスが紹介してくれた治癒術師が常駐する癒務室がある。二階には厨房と食堂があり、三階から上が客室になっているが今は、三階と四階は孤児院になり子供たちの部屋や談話室などが設けられた。五階から上はこれまで通り冒険者たちの客室だ。
二階の食堂のドアが開かれていて、賑やかな声が聞こえて来ていた。ちょうど、三時のおやつだからだろう。
「こんにちは、ソニアさん。順調ですか?」
「勿論、絶好調さ。既に別の子どもたちが生活を始めていたからね。もともと、同じ貧民街の子どもたちだから、喧嘩することもなく仲良くしてるよ。こいつらも良く面倒見てくれてね、クリフなんかは開院前から手伝ってくれてるんだ」
ソニアがカウンターの傍にいた冒険者を指差して笑う。
確か彼はCランク、人族のクリフだ。インサニアの討伐の時にジョシュアが率いる隊にいたと記憶している。
「俺も実家で弟と妹の面倒見てたから、少しは手伝えればいいな、と思って」
クリフが照れくさそうに言った。
「そうか、ありがとう。是非ともこれからも協力してくれ、運営の為にクエストも頑張ってくれよ?」
「はい、勿論っす」
人の好い笑みを浮かべて、二階に上がっていく青年に、一路が「良い人そうだねぇ」と呟いた。
孤児院のある此方の宿に泊まれる冒険者は、限られている。まずブランレトゥ支部に所属するCランク以上の冒険者であることが前提条件で、冒険者ギルドで宿泊希望を出して許可証を貰わなければならない。無論、人柄や性格が重要視され、子どもに対して寛容で孤児院の運営に理解がある者だけが利用できる。D以下及び他の支部の冒険者は基本的に宿泊不可だが、何れ人柄最優先で何らかの形で許可が出せればと思っている。
もっとも夜間を除いてクエストを受けていない時はAランクのレイとジョシュアが孤児院か山猫亭のどこかしらに居るので、馬鹿をやらかす者もいない。
ジョシュアは、事件以降も村に帰らずにこの町に留まっている。真尋たちの屋敷の一室に親子で住んでいるのだ。
その最大の理由はリヨンズ派の連中の所為で町を護る騎士が処罰対象になり、警備が手薄になったからだ。引退という形はとってあったがAランク冒険者であるジョシュアは、町の緊急時にAランク冒険者は町に滞在するというギルドの掟によって、カロル村に帰れなくなってしまった。それも数日とか数週間とかではなく年単位である。つまり騎士団の新人が成長してものになるまでの期間ということだ。
Aランクともなれば、団長クラスの実力を持つ。それは大事な戦力に違いなし、Aランク冒険者が町に居るというだけで町の人々は安心して日々を過ごすことができて、それだけで治安維持に繋がる。とはいえ、カロル村には、月に一度は様子を見に帰る許可が出ているし、村にはジョシュアが育てた自警団もあり、プリシラの両親も現役で人も雇っているから農場や牧場のほうも問題はないそうだ。本人も「町に居る間に、もう一人作るか」と明るい家族計画を計画していた。
「本当は毎日来たかったんだが、すまないな。一週間も間が開いてしまって」
「いいよいいよ、クルィークの倉庫が見つかったんじゃ、そっちの方が大ごとだよ。こっちも今のところ、子どもたちがおやつの取り合いでちょっと喧嘩するくらいで大きな問題は無いしね」
ソニアは顔の前で手を振って軽く笑うが少し不安そうな表情を浮かべる。
「……インサニアの影響はあるのかい?」
「いいや、明日の新聞に出ると思うがインサニアの心配はしなくていい。念のために丁寧に浄化してきたが、元々、インサニアの痕跡は無かったからな」
「空の檻があるばかりで、生きた魔獣も魔獣の死体も無かったので安心してください」
一路が、にこにこと笑って言えば、なら良かった、とソニアが笑った。
一週間前、丁度、孤児院の開院を祝うパーティーの最中にその一報は入った。クルィークの倉庫がブランレトゥの南にある森の奥で見つかったというのだ。討伐クエストの最中に冒険者が見つけて、騎士団に通報した。
倉庫があったのは、馬を走らせて一時間ほどのところにある森の奥だ。木々をなぎ倒す様にして、まるでいきなりそこに現れたかのような様子で倉庫は森の中に鎮座していた。倉庫を見つけた冒険者は、ブランレトゥ支部の冒険者でインサニアの騒動も知っていたため、賢明にも近寄ることはなかった。
彼らからの通報を受け、真尋と一路はパーティーを抜け出し、カロリーナとキアラン率いる小隊と共に愛馬へ跨り従魔たちと共に森へと走ったのだ。
そこから三日、真尋と一路は家に帰れなかった。
一路が先ほど口にした言葉に嘘は無い。
魔獣の死体は出なかったが、人の死体が出たのだ。アンデット化して、倉庫の中で蠢いていた。そのアンデットも含め、倉庫そのものにも捜査で運び出される証拠品や押収品全てに浄化をかけなければならなかったし、詳しい現場検証中に万が一、インサニアの欠片のような黒い靄一つでも出れば大ごとだった。何せ、倉庫があったのは魔獣蠢く森の中だ。それに少々、厄介なものも見つかってしまった。それ故に森でのテント生活である。これに喜んでいたのは、一路の従魔である父子と真尋が連れて来たテディだけだ。だが魔獣が彼らを警戒し、夜間ですら見張りを立てる必要が無いほど安全だけは確保されていた。
四日目の夕方には安全が確保されたとして現場を引き上げ、真尋と一路は町へ戻り、深夜に帰宅。結局、その日は仮眠を取ってそのまま夜も明けきらぬ内に騎士団へ戻った。
それからも毎日、騎士団に拘束され続けている。一応、意地で家には戻っているがミアと過ごせる時間は、起きてから朝食までの僅かな時間だけだった。
「ジョシュから聞いたけど、あんたもイチロも深夜に帰って、仮眠して朝飯食べてすぐに仕事に行ってるんだって? 疲れた顔してるわよ」
「まあな、あれから碌に休む暇がなくてな……もう少しすれば落ち着くとは思うんだが、こればかりは仕方がない」
「領主様直々にお願いされちゃってますからねぇ。神父という立場上、インサニア関連となれば避けては通れないし」
「とはいえ、あんまり無理すんじゃないよ?」
ぽんぽんとカウンター越しにソニアに頭を撫でられた。真尋は苦笑を返し、一路は照れくさそうな笑みを返す。
「ところでサヴィラは居るか? 屋敷には来てくれたようだが、そんな訳で会えなくてな……ミアがサヴィの元気がないと言っていたから様子を見に来たんだが」
真尋の言葉にソニアが、困ったような表情を浮かべた。
ソニアが口を開こうとした丁度、その時、長男・ヴィートの嫁のエレナが顔を出す。長い胡桃色の緩い癖っ毛にオレンジ色の瞳の可愛らしい女性だ。
「ソニアさん、何かすること……あ! 神父様、こんにちは!」
「こんにちは。エレナ。どうだ、こちらでの生活には慣れたか?」
エレナは、はい、と快活な笑みを浮かべる。
「妹たちも毎日、楽しそうだし、私も楽しいので幸せってやつです!」
「なら良かった」
エレナには妹が二人いて、両親を病で立て続けに失った後、通っていた学校を辞めてウェイトレスの仕事で稼いで養っていたらしい。ヴィートは、エレナの妹二人も連れてこちらに戻って来たのだ。上が十三、下が八歳で二人も山猫亭を手伝ったり、こっちを手伝ったりしてくれているらしい。忙しくてまだ会ったことがないのだ。
「エレナ、丁度良かった。マヒロと話があるから、暫く、ここを頼めるかい?」
「はい、勿論」
快く頷いてくれたエレナに礼を言って、ソニアがカウンターから出て来る。こっちだよ、と促されるまま階段の奥にあるドアの向こうへと入る。ドアの向こうの廊下はコの字型になっていて、休憩室や仮眠室、倉庫などの部屋があるのだ。ソニアは「休憩室」と札の掛けられた部屋のドアを開け、中で待っててくれ、と告げるとどこかに行った。
真尋と一路は言われた通り、先に部屋の中へと入る。珍しく靴を脱ぐ仕様になっていて、一段高くなっているフローリングへと靴を脱いで上がる。質の良い絨毯が敷かれ、ローテーブルと座布団代わりのクッションが幾つか転がっていた。
真尋と一路は、ローテーブルの前に並んで座る。一路はきちんと正座したが、真尋は胡坐を掻いた。
少しするとソニアが、涼し気な氷の浮かぶグラスを三つと茶菓子と共に戻って来た。ミントの浮かぶミント水は、爽やかで暑い夏にはぴったりの飲み物だ。
ソニアは、二人の前に腰を下ろすと一番大きなクッションの上にアナを寝かせた。ふくふくしているアナは、実に可愛らしい。ご機嫌な様子でソニアが渡したぬいぐるみを振り回す。
「アナは、本当にあんまり泣かない良い子なんだよ。ヴィートもそうだったけど、いっつもにこにこしてるんだ」
ソニアがアナの頬を擽るように撫でながら言った。
アナがきゃっきゃっと声を上げて笑う。その様子に真尋も一路も思わず表情を緩める。立ち上がった一路が四つん這いのままアナの傍に行き、ソニアに断りを入れてから抱き上げた。
「久々に抱っこしたら、重くなってるねぇ」
「アナはご飯も良く食べるからね」
ソニアの言葉に一路が、良い子だね、とアナの頬を撫でた。アナは、もうずっとソニアが世話をしてくれている。それでなくとも小さな子どもたちが多く、プリシラとクレアだけでは手が足りなかったのでソニアが家に連れ帰り、仕事中もずっと背負いながら面倒を見てくれていたのだ。ソニアの四人の子どもたちの時もこうして背負って仕事をしていたから懐かしいとソニアは笑う。「レイなんかあたしの背中でお漏らししたんだから」と笑うソニアの横でレイが「黙れ、まな板ババア!」と照れて怒って、笑顔のソニアにぶん殴られていたのは記憶に新しい。ソニアは強い。
「……さて、それでサヴィラのことだけどね」
ソニアがこちらを振り返る。その表情は、やっぱり少し困っている。
「サヴィラが何か問題でも?」
「まさか、あの子は一番手が掛からないよ。十三歳っていうのもあるだろうけど……でも、ここのところ、どうにも調子が悪そうで、夜、あんまり眠れていないみたいだって同室のルイスとレニーが言うんだよ。それにこの三日、食も細くなってきちまって」
「具合でも悪いのか?」
「それがねぇ、本人は、なんでもない、ってそればかりさ。あたしたちじゃダメかと思って、ネネが聞いても結果は同じ。なんでもない、大丈夫、少し疲れてるだけ、とそればっかりなんだけど、無理して笑ってるのが丸わかりさ。でも……あたしたちじゃ、踏み込ませてくれないんだよ」
ソニアが憂い気にため息を零す。
「繊細な子だから、あんまり強引に踏み込むと逆効果になっちゃうだろうし……」
「サヴィは、貧民街にたどり着くまでに色々と苦労したらしくてな……詳しくは俺も言えないが、酷い目に遭ったのは確かだ。あの子は、大人が嫌いだ。それは嘘では無いだろうが、その根底にあるのは大人への恐怖なんだ」
「なんとなくそれは分かるよ……男も女も大人ってだけであの子は、怖がっている。一応ね、冒険者たちにもリズたちにも気を付けるように声を掛けてはいるんだけど。あたしたちが当たり前だと思っていることが、例えばお手伝いをしてくれたから褒めるとか、頭を撫でるとかそういうことにすらサヴィラは戸惑っているし、特に触ろうとすると怯えたような顔をするんだよ」
ソニアがミント水を飲む。グラスの中で、カランカランと氷が涼し気な音をたてた。
リズ、というのはここを手伝ってくれている新しい女性の従業員だ。他に五名ほどいるが、皆、ソニアと同年代か少し上の女性で子育ての経験者だ。商業ギルドに登録し、子守の仕事をしていた彼女たちをクロードが紹介してくれた。
「サヴィは、どこにいるんだ?」
「ついさっき、気分転換にと思ってお遣いを頼んでレイとネネと一緒に出掛けちまったよ、悪いね、まだ当分帰って来ないと思うけど……」
「そうか……待っていたいのだが、休憩時間にちょっと抜け出して来ただけだから時間がない。この後、領主様と会う約束があって流石にすっぽかす訳にもいかん」
真尋は腕時計に視線を落としてため息を零す。
「本当は僕が代われればいいんですけど、僕もこの後、魔導院の方で立会検分があって、その後、商業ギルドでも会議があるんです」
一路がアナをあやしながら言った。
基本は真尋の補佐を務める一路だが、優秀で有能であることには違い無く、真尋の名代として会議などに出てくれている。
「明日……いいや、明後日のこの時間、意地で時間を空ける。だからサヴィラを捕まえておいてくれ」
「ああ、分かったよ。さっきも言ったけど、あんた達もあんまり無理すんじゃないよ? 何よりも健康があってこそだからね」
ソニアの気遣わしげな言葉と表情に真尋は、ああと頷いて返し、爽やかなミント水を飲み干す。空になったグラスをテーブルの上に置いて立ち上がる。一路もアナの額にキスをして抱き締めてから、ソニアの腕に返して立ち上がる。
ソニアに何かあったら遠慮なく言うように告げ、エレナに挨拶をしてから真尋と一路は外へと出る。長居は出来ないと分かっていたので店の前で待たせていた馬を見ていてくれた青年にチップを渡し、真尋と一路は愛馬に跨る。
「……一、家に戻ってプリシラに今夜はいつもより遅くなるからミアを頼むと言ってから魔導院に行ってくれ。明後日、都合をつけるなら今すぐに調整を始めんとどうにもならん気がする」
「了解。じゃあ立会検分が終わったあと、そのまま商業ギルドに行きたいから、エディさんに書類を持って魔導院に来るように伝えてもらえる?」
「分かった。昨日、お前がまとめていたやつでいいんだな?」
「うん。資料も含めて封筒に入っているから、お願いね。じゃあ、お互い、頑張りましょう」
にこっと笑って一路は馬の腹を蹴ると屋敷の方へと走り出す。真尋も騎士団に戻るために馬の腹を蹴って手綱を握りしめる。
軽快に足を進める愛馬の上で真尋は、今後の予定を組み直す。想像の中で何人か泣き出したが無視することにした。
レイは三歩ほど前をはしゃぐネネに手を引っぱられるようにして歩くサヴィラの後頭部をぼんやりと眺めながら二人の背を追う。
「レイくん、次は何を買うの?」
ネネがくるりと振り返る。黒い髪に黒い猫耳の少女は、ローサの小さい頃によく似ている。あいつもお遣いの度にはしゃいでいたのを思い出す。
レイは、ポケットからソニアに渡されたメモを見る。
「ナスひと箱、トマトひと箱、キュウリひと箱、ミルクひと缶、チーズ五キロ、……あいつは俺を何だと思ってるんだ?」
ひと箱って木箱だぞ、ひと缶って四十キロはあんだぞ、と思ったがソニアに逆らえるわけもないレイは、自分がアイテムボックスを持っていることにほっとするも、そういえば最近、整理整頓をしていないから果たして入る余裕があるだろうかと考えたくないことを考える。
「……それ、全部持てるの?」
サヴィラが心配そうに尋ねて来る。
「アイテムボックスがあるから多分な。入らなきゃ……仕方がねえ、その辺歩いている冒険者に持たせりゃいい」
まだ午後で日も高い時間だ。市場通りは賑やかで買出しに来ている冒険者も割といる。レイがお願いすれば、きっと皆、快く運んでくれるだろう。
「あ、サヴィ! ネネ!」
「レイお兄ちゃん!」
聞こえて来た賑やかな声に振り返れば、ミアが駆け寄って来てサヴィラに抱き着いた。ジョンはリースの手を引くようにしてこちらにやって来る。その後ろからバスケットを腕に下げたプリシラがやって来る。
「こんにちは、レイ。サヴィとネネも皆でお遣いかしら?」
プリシラがおっとりと微笑む。
「おう」
「ソニアおばちゃんにお遣いを頼まれたのよ」
ネネが答える。
「私達も夕食の買出しに来たのよ」
「今日はね、トマトの冷たいスープなんだよ、僕、大好きなんだ」
ジョンが嬉しそうに言った。ネネが「うちはトマトのキッシュなのよ」と答えていた。同じトマトだね、と笑うジョンは、父親によく似ている。
「ねえ、サヴィ、明日は遊びに来る?」
ミアが甘えるようにサヴィラを見上げる。サヴィラは、抱き留めたミアの頭を撫でて、ふっと表情を緩める。サヴィラは、女みたいに綺麗な顔をしているので笑うと雰囲気が随分と柔らかなものに変わる。
「昨日、遊びに行ったばかりじゃないか」
「だってお話の続きが気になるんだもん。ね、いいでしょ?」
「どうかな……孤児院の手伝いもしなくちゃいけないから、帰ってソニアに聞いてからね」
「……なら、ミアがサヴィのところに行ってお手伝いするわ。サヴィ、いつも本を読んでくれたらすぐに帰っちゃうでしょ、ミアがお手伝いしたらもっといてくれるでしょ?」
「ミア……」
サヴィラが困ったように眉を下げる。
ミアはぎゅうとサヴィラに抱き着いて顔を隠してしまう。サヴィラが細い手で困ったようにミアの小さな頭を撫でた。
「この一週間、マヒロさん、とても忙しくてね。帰って来るのも日付を跨いで大分経ってからだし、朝もご飯を食べたらすぐに出かけてしまうからゆっくり過ごせなくて……マヒロさんもミア不足で干からびそうだって騒いでいたわ」
プリシラが苦笑交じりに言った。
一週間前にクルィークの倉庫が見つかったのはレイも知っているし、発見の翌日には一度、様子を見に行った。マヒロとイチロは神父として、押収品全てに浄化を掛けたり、建物内の検分をしたりと忙しそうにしていた。それでもザラームが齎したインサニアの危険性がゼロとは言えない限り、唯一、浄化の出来る神父である二人を騎士団も手放せないのだろうし、二人もそれを承知しているのだ。インサニアの齎す害を彼らは身をもって知っているのだから。
「魔獣の討伐だったら俺も代わってやれるんだけどな」
「お父さんも同じこと言ってたよ」
ジョンの言葉に、そうか、と返して金茶の髪をくしゃくしゃと撫でた。心なしかジョンも寂しそうだ。
「ソニアが駄目なんて言う訳がないだから、明日はミアのところに行ってやれよ」
レイの言葉にサヴィラは、困ったような顔をしたがミアがぎゅうと抱き着いて離れないことに観念したのか、ミアの頭を撫でると「わかったよ」と頷いた。すると鼻の頭を少し赤くしたミアが顔を上げて、嬉しそうに笑って、それにつられるようにサヴィラも小さく微笑んだ。
「サヴィ、約束よ?」
「ああ、約束……ほら」
サヴィラが差し出した小指にミアが顔を輝かせて、自分の小指を絡めようとした時だった。
――ガシャンパリーンッ!
ガラスか何かが割れるけたたましい音が通りに響き渡って、皆が何事かと足を止める。プリシラが慌てて我が子を抱き寄せ、レイもネネとサヴィラとミアを背に庇う。
「こんの馬鹿息子っ!! 注文の間違え方にも限度ってもんがあんだろ!!」
「凍った肉を投げるな!! 瓶が割れちまったじゃねぇか!! バカ親父!!」
三軒先の肉屋の息子が店の中から飛び出してくる。そこに肉切り包丁を持った親父が後を追いかけて来る。通りに転がる凍った肉が店内で何らかのガラス瓶を割ったらしい。
「おいおい、親子喧嘩は静かにしろよ!」
肉屋の隣の八百屋の親父が呆れたように言った。
レイも通りすがりの人々も、何だ親子喧嘩か、と呆れたように肩を竦める。この肉屋の親子は昔から二か月に一度は、こうして大きな喧嘩をするので有名なのだ。
「この出来損ない!!」
親父が叫んで包丁を放り投げて息子に殴りかかる。
「出来損ないも糞も原材料はオメェだろうが!!」
警邏中だったらしい騎士が二人、またかとぼやきながら親子に駆け寄って仲裁に入る。
「こんなことも出来ねえなんてお前の頭はどうなってんだ!!
「残念ながらオメェ譲りの頭だわ!!」
「夕食は抜きだからな!!」
「はっ、上等だゴラァ!!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて下さい!」
「はいはい、もう殴らない!」
騎士たちが慣れた様子で親子を羽交い絞めにして引き剥がす。
「あんた達ぃ、店先で何やってんだい!! 口がきけないようにただの肉塊にしてミンチにしてやろうか!!」
騒ぎを聞きつけて最強戦士(肉屋の奥さん)が登場した。奥さんは騎士に羽交い絞めにされて尚、お互いを殴ろうとしていた二人の頭に拳骨を落として、黙らせる。怒れる妻、或は母の姿に二人はさぁっと顔を青くして借りてきた猫のように大人しくなった。
Aランクになったって母親という存在には勝てないんだからたかが肉屋が勝てる訳が無いよな、とレイは一人納得する。レイだってソフィにもソニアにも勝てた試しがないのだ。
「サヴィ? どうしたの? 具合悪いの?」
ミアの不安そうな声に振り返るのと、真っ青な顔したサヴィラがずるずると座り込むのは同時だった。ネネとミアが倒れないようにと慌ててサヴィラを支える。サヴィラは片手で口元を覆うようにしてその場にしゃがみ込んでしまった。
「おい、サヴィラ、どうし」
「触るなぁ!」
伸ばした手はバシンと音を立てて払われた。ミアとネネが目を瞬かせる。
サヴィラは、いつぞやのリックのように不規則な呼吸を繰り返しながら、怯えたような顔でレイを見ていた。いや、怯えに染まった紫紺の瞳はレイではない何かを見ている。
「ごめっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、もっと、もっとちゃんと……ちゃんとできるようになります……っ」
「サヴィ? どうしたの」
ネネが声を掛けるがそれにすら怯えてサヴィラは尻餅をついて後退り、自分を何かから庇うように顔の前で腕を交差させる。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
何に怯えているんだ、とレイとプリシラは顔を見合わせるが、誰にもさっぱりと分からない。それにプリシラやレイが手を伸ばしたり、近づこうとしたりするとサヴィラはますます怯えて、呼吸の間隔が短くなる。冷汗まで額に滲ませて、血の気の引いた顔をするサヴィラにどうすればいいのだ、とレイは頭を抱えたくなる。
リックがこうなった時、マヒロはリックを抱き締めて落ち着かせていたが、レイやプリシラでは間違いなく逆効果だ。そもそもリックはここまで取り乱していない。
「どうかしましたか?」
こちらの異変に気付いた騎士が駆け寄って来る。騎士の向こうで先ほどよりも顔がぼこぼこになった肉屋の父子と拳を握りしめたままの奥さんが心配そうにこちらを見ている。
「おや、レイ殿に……そちらは神父殿のお嬢様とお屋敷に居た子では?」
どうやらこの騎士は、ミアもサヴィラも知っているようだ。
「丁度良い、ひとっ走り本部に行って、神父を呼んで来てくれ、な……いか?」
ぐっと腕を掴まれてレイは振り返る。
ひゅーひゅーと息をしながらサヴィラがレイの腕を掴んでいた。筋が浮き立つほど強く、細い手がレイの腕を掴んでいる。
「だ、だいじょ、だいじょうぶ……っ」
「大丈夫ってお前……」
縋るような紫紺の瞳がレイをとらえる。
「大丈夫だからっ……!」
悲鳴のように告げてサヴィラは両手でレイの腕を掴む。騎士も困惑顔でレイとサヴィラを交互に見つめる。
「大丈夫だから、お願いだから……神父様には言わないで……っ、お願い、ちゃんと言うこと聞くから、大丈夫だからっ」
おねがいだから、と囁くように吐き出された言葉は、必死だった。
触っても良いもんだろうか、とレイが悩んでいると、プリシラがサヴィラの隣に膝をついた。
「サヴィ、触っても平気?」
プリシラの穏やかな声が問う。サヴィラは、数拍の間を置いて、微かに頷いた。プリシラが、背中に触るわね、と声を掛けてからサヴィラの背に触れる。びくりと見ているだけでも分かる程、その細い背が強張った。プリシラは、その手を動かさずじっと待って、少しだけサヴィラの体の緊張が解けると、とんとんとあやすように撫でた。
「大丈夫、神父さんには言わないでおくわ。ちょっと具合が悪くなっちゃっただけなのよね」
プリシラはおっとりと笑いながら言葉を紡ぐ。
「サヴィ、会った時から思ってたけど貴方、顔色があんまり良くないわ。お遣いはネネとレイに任せて、私と一緒に先に帰って休みましょう。お屋敷と孤児院、どっちがいい?」
「………………こじいん」
「じゃあ、そうしましょう。騎士さん、すみませんけど、馬車を一台頼めますか?」
「はい。すぐに」
騎士が頷き、馬車を呼びに走っていく。
だんだんとレイの腕を掴んでいた手から力が抜けていく。
「レイも神父さんには言わないわ。ね、レイ。それに騎士さんも」
「ああ。言わねえよ」
「お約束いたします」
レイと騎士が頷けば、サヴィラの手はするりと外れて落ちた。彼の膝の上に落ちた手をミアが握りしめる。サヴィラは、子どもなら平気なのか少し驚いたような仕草は見せたが、大人に触れられるときに比べるとその体に緊張は無いようだ。
「あのね、サヴィ。ノアもこうやって手を握ってあげると泣きやんだのよ、だから、サヴィも大丈夫よ」
ミアがそう言てってサヴィラの頭を撫でた。サヴィラは、眩しいものでも見るかのように目を細めてミアを見つめると、こくりと小さく頷いてその手を握り返した。
丁度、騎士が馬車を連れて戻って来る。サヴィラはふらつきながらも自分で立ち上がり、プリシラに支えられながら馬車へと乗り込んだ。サヴィラの手を握りしめるミアも一緒に馬車に乗り込む。
「ジョン、お遣いを頼んでも良い? 中にメモが入っているから」
「うん、いいよ」
プリシラが手に持っていたバスケットをジョンに渡した。ジョンはそれを受け取り、失くさないでね、と渡された数枚の赤銅貨を腰に身に着けていた革のポーチに入れた。お願いね、と息子の頭を撫でるとプリシラは、リースを抱き上げて馬車に乗り込む。レイがドアを閉めれば、窓からプリシラが顔を出す。
「レイ、ジョンをついでにお屋敷に届けてね」
「おう。ネネも戻るか?」
「ううん。大丈夫」
ネネはふるふると首を横に振った。
じゃあ先に戻るわね、と笑うプリシラが行先を告げれば、御者が鞭を打って、馬が走り出した。
「……サヴィの小さい頃のことは、私、知らないけど」
馬車を見送りながらネネがぽつりと零す。
「多分、大人の男の人の怒鳴り声が苦手なの」
「そうなのか?」
うん、とネネは頷いた。
「時々、誰かがああやって喧嘩するところとかに出くわしたことがあるんだけど、その時、いつも私の手を引っ張って逃げるように走り出すの。最初は、面倒事に巻き込まれないようにしてるのかなって思ってた。確かにそれもあるんだろうけど、私の手を引っ張って走るサヴィの顔が凄く強張ってて、泣いちゃいそうだったから。それに男の人の怒鳴り声が聞こえると、サヴィはいつもビクッとするの」
「そうか……じゃあ、肉屋が全部悪いな」
ぽんぽんとネネの頭を撫でる。
「ねえ、レイお兄ちゃん、ネネちゃん、早くお遣いして帰ろ?」
ジョンにぐいっと手を引かれる。
「サヴィくんも心配だし、万が一、僕のお母さんが自分で先に帰るなんて言い出したらもっと大騒ぎになっちゃう」
ジョンの母親譲りの空色の目は真剣そのものだった。
レイもプリシラとは長い付き合いであるから、彼女の方向音痴に関しては良く知っている。プリシラがギルドの受付嬢だった頃、何度、アンナやジョシュアに頼まれてサンドロと共に町中を探し回ったことか。青の2地区のアパートから中央広場に面する冒険者ギルドに出勤した筈なのにどうして黄の3地区で迷子になっているかがレイには分からなかった。惚れた弱みか下心か切実な問題かジョシュアが送り迎えをするようになったのは割とすぐのことだった。
「……お母さんは、変に自信があるんだ。僕、心配だからお屋敷じゃなくてレイお兄ちゃんたちと孤児院の方に帰って、お母さんと一緒に帰るよ。だから早くお遣いしよ」
「……そうだな」
首を傾げるネネの手を引き歩き出したジョンの背を追うようにしてレイも足を動かす。
肉屋の親子はカンカンに怒っている奥さんに引きずられるようにして、店の中に戻って行く。
「あの、レイ殿」
騎士に呼び止められて折角、歩き出した足を止める。ジョンが「先に八百屋さんに行ってるよ」と言うので、レイは用意を頼んでおいてくれ、とソニアからのメモをジョンに渡した。
「やはり神父殿に報告をした方が良いのでしょうか? 子どもたちのことでしたら他の案件と違って最優先事項に回されますのですぐに直接面会が可能かと」
「……案件によってはどれくらいかかるんだ?」
「優先順位が低いと判断された案件で面会の申し込みをしますと、恐らく……最低でも一日から二日は待っていただくことになるかと。ですが、第一大隊全体にミアお嬢様と孤児院関連は最優先事項として神父殿に報告するようにと命令が下っています」
「あいつ、そんなに忙しいのか?」
「クルィークの事件に関連して、色々と出てきています。別件だと思われていた殺人まで何件か……我々も尽力はしていますが、恥ずかしながら、インサニアとザラーム関連はお手上げでして、我々の常識では、どうして事件がそうなったのか、が分からないのです。今、ここ二、三年で起きた病死、及び事故死、殺人に関する事件を全て洗い直しているんです」
「まだ何か出てきているのか?」
騎士は周囲に視線を走らせると声を潜めた。
「守秘義務がありますので多くは言えませんが、マノリスの体と……倉庫内で見つあったアンデット化していた死体から、禁術の痕が見つかっているです。それと……倉庫内には聖水が入っていたと思われる空の小瓶が」
「聖水って、あいつらの?」
「神父殿ではなく、王都の方です」
「……そりゃあ、帰れない訳だな」
レイはふーっと息を吐きだして腕を組んだ。
それでなくともこの事件の背後には王家と公爵家の思惑が潜んでいると聞いている。そこに王都の糞教会まで関わって来たとなれば、話は余計にややこしく複雑になる。
「忙しいが……夜中には帰って来るからな。俺が話しておく」
「よろしいので?」
「優秀な神父殿が仕事も会議も約束も全部放り投げて孤児院に駆け付けてもいいなら俺は止めねえがな」
「……レイ殿の判断にお任せいたしますっ!」
顔を青くした騎士は潔く騎士の礼を取る。
肝心要の神父殿が抜ければ、一気に色んな仕事が滞ることは間違いない。部外者のレイですら簡単に想像できる。
「まあ、そういう訳だ。孤児院には治癒術師も常駐しているし、ソニアたちがいる……たぶん、ありゃ精神的なもんだろうしな。神父は悪いようにしないだろうし、一晩くらいは時間を置いた方がガキの方も落ち着くんじゃねえか?」
「分かりました。神父殿には内密にしておきますので、では、失礼いたします」
騎士は頭を下げると待たせていた相棒と共に肉屋の中に入る。一応、騒ぎを起こしたので注意をするのだろう。レイは、どうしたもんか、と頭をガリガリと掻きながら、八百屋へと足を向けたのだった。
ゆっくりと目を開けると窓の外は真っ暗だった。
サヴィラは、だるい体を起こして辺りを見回す。時計が無いから何時かは分からないが、夜であることは確かだ。でも二台置かれている二段ベッドにはサヴィラ以外まだいない。ということは夕食の時間か風呂の時間なのだろう。
孤児院は、屋敷と同じくらいに快適な場所だった。ギルドが承認した冒険者しか泊まれないようになっていて、その冒険者たちも孤児院だと理解した上で泊まるので、子どもたちの面倒をよく見てくれる。最初は、体の大きな冒険者を警戒していた子どもたちも今では、その膝の上でご飯を食べたり、遊んでもらったりと良くなついている。それに孤児院専門で雇われた女性の従業員たちは、ソニアと同年代か少し上の子育てのベテランで、子どもたちもとても懐いている。サヴィラが説得して連れて来た貧民街の孤児たちもあっという間に馴染んで、毎日、楽しそうだ。
孤児院は、誰にでもやろうと思えばできることだったけれど、誰もやらないことでもあった。それをこんな風に町中を巻き込んでやり遂げてしまう神父様は、やっぱり凄いのだろう。
マヒロはかなり孤児院に関して心を砕いてくれたようだった。子どもたちを管理する場所でも義務的に預かる場所でも無く、子どもたちの「家」となるように。町の子どもたちと同じように、毎日、遊んだり、手習い所に行ったりして、そして、大勢の大人の愛情に育まれていけるようにと心が尽くされている。
だから、馴染めない自分が異常なのだ。
サヴィラは膝を抱き寄せて、顔を埋める。
ソニアもリズやルーシーといった従業員の女性たちも宿泊客の冒険者たちも本当に良くしてくれて、サヴィラにも声をかけて、気にかけてくれる。
『よく眠れた?』『ちゃんと食べてるか?』『おかわりは?』『今日は何してたんだ?』『お前、本読めんのか、すげぇな!』
掛けられる言葉も声も柔らかで優しいものなのに、サヴィラはそれにどうやって答えれば良いのかが分からなかった。初日には頭を撫でられそうになってあからさまに避けてしまった。以来、気を遣ってくれているのか誰もサヴィラに触れることは無い。それにほっとしている自分がいるのも事実だ。
大人、という存在がどうしても信じられない。触れられるのが怖い。何をされるか分からないという思いがサヴィラの心を支配する。
サヴィラが信じられるのは、この間までダビドだけだった。でも今はもう一人、マヒロが居る。マヒロの言葉は信じられるし、彼に触れられるのは平気だった。彼の手は絶対にサヴィラを傷付けるものではないと信じられるからだ。
屋敷に居る時は良かった。人の出入りはそこそこあったが、図書室に逃げ込んでしまえば何も気にしなくて良かった。声を掛けてくる大人もマヒロに近しい人ばかりだったから平気だった。それになにより夜になればマヒロがいて、一緒に食事をしたり、皆で大きなお風呂に一緒に入ったりもした。
でも、ここへ来てからまだ一度もマヒロには会えていない。
開院祝いのパーティーの真っ最中に騎士がマヒロとイチロを呼びに来て、騎士の話を聞くとマヒロは心なしか面倒くさそうな顔を、イチロは困ったような顔をしていたのを覚えている。詳しい話は知らないが、翌朝の新聞に町から馬で僅か一時間の森の中でクルィークの倉庫が見つかったと書かれていた。
マヒロは去り際、サヴィラの頭を撫でて「また会いに来るから、サヴィも会いに来い」と言ってくれた。
だがあれ以来、マヒロもイチロも多忙を極めているようで、孤児院に顔を出す暇もないらしい。屋敷に行ってもいつも留守で、そもそも娘のミアですら「朝ご飯の時にしか会えないの」と寂しそうにしていた。
だから、自分が呼んでいいわけが無い。彼の娘であるミアが我慢をしているのに、赤の他人であるサヴィラが呼んでいいわけが無いのだ。それもこんなくだらないことで。自分はミアやチビたちと違って、無邪気に甘えることが許されるような年齢でもない。
膝を抱き寄せる腕に力をこめて、ますますベッドの上で小さくなる。
大人の、とくに男性の怒鳴り声がサヴィラは苦手だった。それを聞くと思い出したくないことばかり思い出すからだ。でも、貧民街にいた頃はあんな風に取り乱すことはなかった。
「……神父様のせいだ」
膝に顔を埋めたままぽつりと吐き出した。
マヒロが当たり前のようにサヴィラを守ってくれて、安心ばかり与えるから、とっくの昔に殺したはずのサヴィラの弱い部分が生き返ってしまったのだ。
何だか自分がとても弱くなってしまったように思えて怖くなる。
「……サヴィ、起きたー?」
不意にドアの向こうからルイスの声がして顔を上げる。
「起きたよ」
そう返せば、ドアが開いてルイスとレニーが顔を出した。二人は心配そうにこちらを覗き見る。おいで、と手招きすれば、ほっとしたように表情を緩めてこちらに駆け寄って来る。レニーが靴を脱いでベッドに上がり込みサヴィラの顔を覗き込んでくる。
「サヴィ、元気になった?」
「うん。大分良くなった」
小さな嘘を吐いて、レニーの頭をぽんと撫でた。小さな顔に笑顔が咲く。
だが、ベッドの縁に腰掛けたルイスは心配そうな表情を崩さない。
「もうすぐご飯の時間だよ。ソニアおばちゃんがサヴィは具合が悪かったら食べなくても良いし、特別にお部屋で食べても良いって」
「……下でお前たちと食べるよ」
「でも、サヴィ、無理しなくていいんだよ?」
サヴィラは彼の視界を遮るように手を伸ばし、くしゃくしゃと髪を撫でた。
「大丈夫だよ。ゆっくり休んだから、平気だ。ほら行こう、俺もお腹が減った」
ほら降りろ、とレニーを促しサヴィラもベッドから降りる。ルイスが立ち上がり、何か言いたげにサヴィラを見あげていたがサヴィラが折れないと悟ると、無理しないでね、とだけ言った。
ここにはサヴィラの大事な家族がいる。サヴィ、サヴィ、とサヴィラを頼りにして甘えてくる大事な家族がいるのだ。
だからサヴィラは、努力をすればいい。ここに慣れる努力を誰にも心配をかけない努力を、もっともっとすればいいのだ。
そう決意したサヴィラはレニーに手を引かれるようにして部屋を出て、食堂へと向かったのだった。
ナルキーサスは、孤児院の一階に設けられている癒務室のベッドの上でアルトゥロが担当した検死報告書を読んでいた。
「ナルキーサス殿、また抜け出して来たんですか?」
カーテンが揺れたかと思えば、この孤児院専属の治癒術師であるトマスが呆れたように糸目の目じりを下げた。彼は既に寝間着姿でナイトキャップまで身に着けている。
彼は御年七十五歳の老治癒術師だ。腕も頭も確かだが老体に堪えるから治療院での激務はもう嫌だと嘆いていたので、ここの話をしたら喜んで引き受けてくれた。おじいちゃん先生として子どもたちにも慕われているし、彼の妻であるパルミラも孫が沢山出来たようだとここでの暮らしを楽しんでいるようだ。
もともとこの部屋は宿屋を営んでいた夫婦の住居スペースで癒務室はリビングだったのを改装して、奥にある寝室をトマスとパルミラがそれまで通り寝室として使っているのだ。
「良いじゃないか。向こうは兎角、うるさくて敵わん」
「だからって人が寝室に下がった途端に忍び込むなんて……寝ようと思ったら灯りが見えたから驚きましたよ」
「ちゃんと受付にいた娘に言って、お邪魔している」
読み終えた報告書を足元に放り投げたままだった鞄にしまう。鞄型のアイテムボックスでナルキーサスがいつも持ち歩いているものだ。中に白衣や白手袋、基本的な治癒具に包帯やガーゼ、基礎的な薬など様々なものが入っている。
トマスは、やれやれと肩を竦めると顔を引っ込め、暫くして、マグカップを両手に持って戻って来る。どうぞ、と差し出されたマグカップを起き上がって受け取り覗き込めば、ポヴァンのミルクの甘い香りに仄かにブランデーの匂いが混じっている。
「パルミラは?」
「もう寝ましたよ……こんな夜中にやって来て、お忙しいんでしょう?」
トマスが隣のベッドに腰掛けながら言った。
「色々と見つかってしまったからな。だがご令嬢の恋煩いを診に行くよりはマシな仕事だ。……こちらはどうだ?」
「皆、元気で良い子ですよ。僕もミラも何だか若返ったような気がするくらいに」
「ははっ、それは良かった」
「ですが……」
トマスの穏やかな笑みが曇ったのに気付いてナルキーサスはカップを傾けながら首を傾げる。
「どうした」
「一人だけ心配な子がいましてね。サヴィラという子なんですが」
「ああ、あの子か」
死の痣を腕に受け、暫くナルキーサスも様子を診ていた淡い金髪の少年の顔が浮かぶ。治療以外ではあまり関わることもなかったので、多くの言葉を交わした訳ではないが、受け答えのしっかりした子だ。孤児だというのに属性を三つも持ち、魔力量は平均よりかなり上だった。貴族の落胤だというから、その所為だろう。優秀な血統を尊ぶ貴族は、一般人よりもずっと魔力量が多い。
「あの子がどうかしたのか?」
「どうにもここに馴染めないようでしてね。今日の夕方も具合が悪くなったらしくてね。夕食に降りて来たから声を掛けたんですけど、大丈夫の一点張りで……そもそもあの子は、子どもは平気だけど大人に触られるのは苦手なようでね。手を伸ばすとびくっとね怯えるんですよ」
「……ふむ」
ナルキーサスはブランデーの落とされたミルクを飲みながら首を捻る。
ナルキーサスが診た時は、緊張こそしていたがそれほど怯えていたような記憶はない。だが、とナルキーサスは考える。
あの時は、マヒロが側にいたのだ。それにここが開く前にマヒロに用事があって屋敷を訪れた時、サヴィラはマヒロの傍で本を読んでいたが随分と落ち着いて居たし、表情も穏やかだった。
「あの子は……大人に何か酷いことをされたのかも知れませんねえ」
「まあ、貴族の御落胤という噂のある子が貧民街に居ただけでその人生は壮絶なものだったろうさ」
ナルキーサスの言葉にトマスが糸目を瞬かせた。
「真実の程は知らんが、魔力量や普段の様子から見て間違いないだろう。あの子は実に聡明な子だよ、水、火、地の三属性持ちなのもいい。魔導師にはなれんが、魔術師としては十分だ。私の下に欲しいんだが、マヒロがくれないんだ」
「神父様が?」
「石膏像にはさせないからな、と言われた」
「……ああ」
トマスは何とも言えない顔でその喉まで出かかった言葉をまるで誤魔化すかのようにマグカップに口をつけた。口ひげがミルクで濡れる。
「そういえばマヒロもなかなか石膏像の型を取らせてくれん。そもそも最近のあいつは忙しすぎて雑談する時間も無い」
「私は二、三度お会いしただけですが、まあ、確かにお美しい御仁ですよねぇ……いっそ怖いくらいに」
部屋の中がしんと静まり返った。
ナルキーサスは、ふっと笑ってマグカップの中身を飲み干す。
「……人という生物は、完璧なものを恐れる生物だからな」
「あの方がこの町を覆ったインサニアを祓ったと聞きました……あの方は孤児院の開院にも尽力し、子どもたちからも好かれていますが、本当に……信頼に足る人物なのですか? あれがもし身の内に潜り込んだ虫だとすれば厄介でしょう?」
「ははっ、厄介どころではない。あれが私たちに牙を剥いたとすれば、この町は簡単にマヒロの手に落ちるだろう。あれはそれだけの実力を兼ね備えている。領主殿も今のところは信を置いておられるようだが、害があると見なせばすぐに追放なさるだろう……だが、あれが他所の手に渡るのも脅威になる」
空になったマグカップをベッドとベッドの間に置かれていたサイドボードに置いた。
「だが、マヒロもそれを分かっている。でなければ、あの男が騎士団の言いなりになって大人しく執務室に籠っている訳がない。領主殿も団長閣下もギルマスたちも分かっているのさ、あの男が自分達などに支配できるような可愛らしい存在ではないと」
ナルキーサスは足を組んでその上に肘をつき、手の上に顎を乗せて微笑う。
「あの男は、支配する側の人間だ」
くすくすと笑うナルキーサスにトマスは、はぁと疲れたようなため息を吐き出す。
「……貴女と彼は似ていますよ。昔から何を考えているのかさっぱりと分からない」
「マヒロは分かりやすいと思うぞ? あいつは愛娘を溺愛しているからな、基本、一秒でも早く家に帰りたいと考えながら仕事を片付けている。白い兎の耳のとても愛らしい娘でな、何故かマヒロは私が近づくのをなかなか許してくれん」
「賢明な判断ですね」
「……失礼なクソ爺だ」
真顔で言い放ったトマスをじとりと睨む。
しかし、トマスは飄々と笑って自分の分を飲み干すとナルキーサスのカップを手に立ち上がる。
「僕がクソ爺なら、貴女だってクソババアでしょう。僕より大分年上なんだから」
「……はぁ、あの頃のお前は、もう少し可愛げがあったし、石膏像のお前はもっと可愛い」
ナルキーサスは両手を後ろについて唇を尖らせる。
「それ、僕が七歳の時のでしょう……まだ持ってたんですか?」
「私はコレクションを一つだって損なっていない」
ナルキーサスは得意げに言って、シャツのボタンをいくつか外す。今夜はここに泊まるつもりで出て来たのだ。あそこは騒がしくていけない。
「屋敷には帰らないんですか? レベリオ殿が心配なさるのでは?」
「心配も何も、夫くんはここ一か月、騎士団に泊まり込みだ。私がどこでなにをしていようが気に掛ける暇もないだろうさ」
「……そうですか。まあなんでもいいですけど、急患が来たら診て下さいよ。それが宿泊代ってことで手を打ちますから」
「……疲れているというのに、お前は悪魔か?」
「忍び込んだのは貴女でしょう? さて、僕は寝ます……よ?」
バタバタと騒がしい足音が聞こえて、トマスが首を傾げる。
「先生! おじいちゃん先生!」
ドンドンと勢いよくドアが叩かれる。ナルキーサスも何事かと脱ぎっぱなしにしていたブーツに足を入れて立ち上がり、慌ててドアに駆け寄るトマスの後についていく。
トマスがドアを開ければ、ルイスが泣きだしそうな顔で立っていた。
「ルイス、こんな夜中にどうしたんだい?」
「サ、サヴィが! サヴィがトイレで吐いててっ! 顔が真っ白なの! 先生、早く来て!」
トマスとナルキーサスは顔を見合わせる。ルイスは、早く、とトマスの皺だらけの骨ばった手を引く。
「トマス、私が行く。お前はソニアを呼んで来い。ルイス、案内してくれ」
ナルキーサスは指を振って自分の鞄を呼び寄せると、こっち、と走り出したルイスを追って駆け出す。
光の玉を手の上に出して、暗い階段を三階まで一気に駆け上がる。トイレはナルキーサスたちが上った階段とは正反対のもう一つの階段の奥にあるようだが、何やら戸惑う声と叫ぶような声が聞こえて来て目を瞬かせる。
トイレの前には、レニーが居て駆け付けたルイスに抱き着く。
トレイは男女で二手に分かれていて、ナルキーサスは躊躇いなく男子トイレに踏み込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、いわ、いわないで……っ!」
「お、おい、どうしたんだ?」
個室の前にオロオロしている冒険者と思われる男が居て、個室の中から怯えきったサヴィラの声が聞こえて来る。
「貴様、何をしたんだ!?」
思わずナルキーサスが叫べば、こちらに気付いた男がぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違う! 俺は声を掛けただけで……!」
「声を掛けただけで何故こんなに怯えているんだ!」
言いながらナルキーサスは男を退かして個室の入り口に膝をつく。
サヴィラはトイレの個室の中で必死に男から距離を取ろうとしていた。便器から吐しゃ物の臭いがして、間に合わなかったのか床や縁を汚し、サヴィラ自身の口の周りや胸の辺りも汚れてしまっている。ここから見る限り、夕食と思われるものが全く消化されていない。
サヴィラは、完全に怯えきってガタガタと震えて自分を庇うように両手を顔の前で交差させている。そして、何度も何度も「ごめんなさい」「言わないで」を繰り返している。
「サヴィラ、私だ、ナルキーサスだ、分かるか?」
「いやだ! くるなっ! やだっ!! さわるなぁっ!!」
叫ぶようにサヴィラが言ってますます奥へと逃げようとする。
明らかな異常事態だ。見た所、とんでもなく顔色が悪く、嘔吐したことからもかなり具合が悪いのだろうと予想できる。下手に魔力暴走でも起こされれば溜まったものでは無い。ナルキーサスは鞄から白衣を取り出して着込み、白手袋を嵌めて、注射器と鎮静作用もある睡眠薬を取り出す。それを注射器に移して、左手に構えて背に隠す。そして、聞こえぬように呪文を唱えれば、サヴィラの背後の壁から蔦が生える。それはそろそろと壁を伝ってナルキーサスの手元に伸びて来る。
「サヴィラ、何を怖がっているんだ? 大丈夫、私はお前に酷いことはしない、ああ、そうだ。なんだったらすぐに神父様を呼ぼう」
「……し、しんぷさ、ま?」
神父、という言葉にサヴィラが反応を見せた。
蔦はナルキーサスの手から注射器を受け取り、再びそろそろと戻っていく。
「ああ、神父様に来てもらおう」
虚ろだった紫紺の瞳がぐらりと揺れる。
「だ、だめっ、呼ばないで、だめ!」
予想外の反応にナルキーサスは目を瞠る。
「神父様に、こ、これ以上迷惑かけたら、嫌わ、嫌われちゃうっ!」
がたがたと震えが酷くなる。これは不味った、とナルキーサスは内心で舌打ちをする。
「神父様がサヴィラを嫌う訳がないだろう。私と彼は友人だから、よく分かる。あの男は、野郎共には厳しいが女子供にはどこまでも優しい男だ。サヴィラだって知っているだろう?」
「だめ、だめ、いわないで……っ、俺、ちゃんとする、ちゃんとするから、大丈夫だから、言わないで、お願い、いわないで……っ!」
サヴィラがこちらに手を伸ばすと同時にナルキーサスの操る蔦が彼の首筋に注射を打った。サヴィラはよほど錯乱しているのか、それにも気付かずナルキーサスの両腕を掴んで、泣き出しそうな顔でこちらを見上げる。
「いわないで、言わないで……っ、おれ、神父様に嫌われたら……っ、いくところがなくなっちゃう、もう、やだ、それはやだっ……神父様に嫌われたくない……いらないって言われたくないっ! お、俺ができそこない、だから……おれがおかしい、だけ、だ……から…………いわな、で」
サヴィラの体がナルキーサスの腕の中に倒れ込み、だんだんと言葉が勢いを失っていく。即効性の薬だから、すぐに効果が出るのだ。ナルキーサスは完全に意識を失ったサヴィラの口元を手袋を嵌めた手で拭ってやる。これだけ騒いで怯えていたのに、サヴィラは涙も零していなかった。吐いた時に出た生理的な涙の痕はあるのに、怯えている間、紫紺の瞳からは一滴たりとも涙は零れていなかった。
「何があったんだい?」
やけに明るいなと思いつつ顔を上げれば、まだ普段着のソニアとサンドロが心配そうにこちらを見ていた。ルイスはサンドロに抱き着いていて、レニーはソニアに抱っこされている。トイレが明るいのはどうやら冒険者の男が幾つか火の玉を出してくれたからのようだった。
「話は後だ。とりあえず、この子の着替えとお湯と清潔な布を用意してくれ」
「分かった。レニー、大丈夫だから手伝っておくれ」
ソニアが頷いてレニーをあやしながらトイレを出ていく。
「クリフ、階段脇の空き部屋に灯りを入れて、どっかからベッドを持ってきてくれ」
「分かった。俺の部屋のを持ってくるよ、片方は空いてるから」
クリフという名らしい冒険者の男は、サンドロの言葉に頷いてトイレを出ていき、とりあえず吐しゃ物まみれの服を脱がせたサヴィラをサンドロがそっと抱き上げて、ナルキーサスたちはトイレを後にしたのだった。
ベッドに寝かされたサヴィラは、額に冷たく冷やした布を乗せて荒い呼吸を繰り返している。
体を拭いている最中に気付いたのだが、サヴィラの有隣族であるが故に冷たい筈の体がやけに熱くなっていたのだ。胃腸炎か、と思ったがあの様子から見るに精神的なもののほうが可能性が高いだろう。
ナルキーサスは、ベッド脇に置いた点滴台の調子を見てから、一通りの診察と処置を終えて一息入れる。
空き部屋にはクリフが運び込んだベッドしかなく、皆、少し離れた所で邪魔にならないようにと立っている。
「それで、お前はこの子に何をしたんだ?」
ナルキーサスはベッドの縁に腰掛けてクリフを睨み上げた。
「だから違いますって……俺は、さっきまで山猫の方で飲んでて、んで、帰って来て自分の部屋に行こうと階段を上ってたらレニーが泣きながら、こっちに来てっていうから行っただけっす」
「……そうなのか、レニー」
ソニアに抱っこされたまま、ぐずぐずと鼻を啜るレニーを振り返る。レニーは、こくりと頷いた。
「ルイス、どっか行っちゃって……クリフくんが、来て、くれたから」
レニーがしゃくりあげながら言った。ソニアが「目が溶けちまうよ」とレニーの目元にキスをして、背中を撫でてあやす。レニーはソニアの肩に顔を埋めて、えぐえぐとしゃくり上げる。
「それで、俺が駆け付けた時には、サヴィラくんは既に吐いてる最中で、俺が「大丈夫?」って声を掛けた途端にあの状態っす。俺、ソニアさんに言われてるから、サヴィラくんには触ってないっすよ?」
「どういうことだ?」
レニーをあやすために体をゆらゆらと揺らしながらソニアが口を開く。
「サヴィラはね、マヒロと子ども以外に触られるのが駄目なんだよ。マヒロが居れば、あたしたちにも触らせてくれてたんだけどね、こっちに来てから全部だめになっちゃって、だから冒険者たちにもリズたちにもサヴィラには無暗に触らないようにって言ってあったんだ。クリフはアンナからちゃんと承認されてこの宿を利用している冒険者だから子供に変なことはしやしないよ、それはあたしが保証する」
「……そうか。疑って済まなったな」
「いえ。それより、俺、ひとっ走り行って神父さん、呼んできましょうか?」
「そうだね、そうしてくれるかい? このままじゃサヴィラが駄目になっちまう」
「いや、待て」
ソニアの言葉に頷き、部屋を出ようとしたクリフを引き留める。
「マヒロは、明後日……もう日付を跨いだから明日か……明日をまるまる休みにするために今は騎士団に詰めている。夜には、とりあえず仕事に蹴りを着けると言っていたから、今、呼ぶよりも夜に呼んだほうが良い。その方がゆっくりとサヴィラと過ごすことが出来るし、屋敷に連れ帰ったとしてもマヒロがずっと傍に居られる」
「確かに時間を作るとは言っていたけど、まさか休みになんて出来るのかい? とても忙しいんだろ?」
「三倍の速度で仕事をこなしているからな……私も無茶を言われたので頭に来て夕刻、文句を言いに執務室に押し掛けたんだがな、すごかったぞ。デスクの前に三人ずつ並ばせて、同時に報告させるんだ。手元で別の書類を捌きながら、それら全ての報告を聞いて、適切な指示を与えていく姿は、なかなかのものだった。イチロは、何でも無い顔をしてそのマヒロをフォローしていた。凄いぞ、あの二人、「おい」「はい、これ」「あれは?」「処理済み」と最低限の単語だけでやり取りしていてな。エディとリックと臨時の事務官三名は、正直、死にそうな顔をしていた」
神父二人の異常な処理速度に必死で食らいつく彼らが余りにも憐れだったので、回復薬を分けてやったほどだ。流石のナルキーサスも文句を言う気も殺げて、魔導院に戻って早急に報告書を仕上げて提出した。
「団長閣下もマヒロに笑顔で「俺が三日行方不明になるのと、丸一日だけ休むのどっちがいい?」と聞かれて、青くなって休みを許可したから、休みは確実に貰えるだろう。マヒロはそれを最初、事務局で聞いたものだから何人かそれだけはやめてくれと泣いて懇願し、一人は三日不在の恐怖に気絶してうちに運ばれて来た」
「……あいつは、魔王か何かか?」
「否定は出来んな」
ナルキーサスは、くくっと喉を鳴らして笑い、サヴィラを振り返る。
熱があるというのにサヴィラは、青白い顔で荒い呼吸を繰り返している。
「それにもう少し安定するまでは、この子を動揺させないほうが良い。トマスに言って薬を調整させて夜まで寝かせておこう。ステータスの数値が大分低くなっているからな、この子の魔力量は既にその辺の大人と同じだけある。魔力暴走を起こせば厄介だ」
ナルキーサスは枕元にあったカルテを手に取り、治療方針を書き込んでいく。
「……キース様」
目に一杯涙をためたルイスが目の前にやってくる。
ナルキーサスは、どうした?と優しく問いかける。
「サヴィ、死なない?」
その言葉にナルキーサスは、少し躊躇ってからカルテを置いて両手をのばしてルイスの頬を包み込む。手袋をしていないから、濡れた柔らかな頬の感触が手のひらに広がる。
「絶対に死なないとも。ただ、一日、ゆっくりと眠る必要がある。とっても良く効く薬も用意してあるから、安心するといい」
な?と微笑めば、こらえきれなかった涙がぽろぽろと落ちて、ナルキーサスの手を濡らした。
「無理しないでって言ったのに……サヴィ、ご飯も無理して食べてて……っ、ぼく、僕、心配で起きてたら……サヴィ、急に部屋を飛び出してトイレに、いったから……びっくりしてっ、サヴィも死んじゃうかとおもった……っ」
ナルキーサスは両手を離して、ルイスを抱きしめる。細く小さな体はナルキーサスの腕の中にすっぽりと納まった。顔を押しつけた肩でサヴィラを気遣ってか、押し殺した嗚咽が聞こえて来る。サラサラの茶色の髪を撫でて、ナルキーサスはその背を擦る。
ついこの間、彼らは顔見知りの孤児の小さな男の子を亡くしたばかりだ。六歳と八歳のレニーやルイスは他の子どもたちよりも永遠の別れを告げたノアの死を哀しく、そして、恐ろしいものだと記憶していたようだ。それにサヴィラ自身も死の痣に侵されて何日か寝込んでいたから尚更だろう。
ナルキーサスにとっては、救えなかった多くの命の一つだが、それでも遺されたミアの表情も声も言葉も、その泣き声も鮮明にナルキーサスの心に焼き付いている。ベッドの中、一度も目を覚まさなかった小さな兎の男の子の声すらナルキーサスは知らないというのに。
「大丈夫、サヴィラは死なない。約束する」
うん、と頷く声が耳元でした。一度、ぎゅうと抱き締めから体を離し、その頬を濡らす涙を拭ってやる。
「さあ、ルイス、おいで。二人とも今夜は特別にあたしたちの部屋においで、皆には内緒だよ」
そう言ってソニアが声を掛け、サンドロがひょいとルイスを抱き上げる。
サンドロに促されクリフも部屋を出て行く。
「あんた、レニーも先に連れて行っておくれ。エレナとルイーザに事情を話してくるから」
「おう。よし、レニーもおいで」
サンドロがルイスを片腕で抱え直し、もう片方の腕にレニーを抱えて部屋を出ていく。ソニアが、落とすんじゃないよ、とその背に声を掛けてこちらにやって来る。
「ナルキーサス様、息抜きに来たんだろう? なのに悪いね」
ナルキーサスが時折、マヒロの屋敷や本格的な運営を開始する前のここに来て勝手に泊っていたのを知っているからだろう。ソニアが申し訳なさそうに言った。
「治癒術師の務めだ。それより悪いが、横になれるソファかベッドを用意してもらえるか? トマスより顔見知りの私がいるほうが良いだろう」
「分かった。すぐに用意するよ、本当にありがとう」
そう言ってソニアは、頭を下げると急いで部屋を出て行った。
途端、静かになった部屋の中にサヴィラの荒い呼吸の音が響く。ナルキーサスは、額の上の手ぬぐいを氷の浮かぶ桶に浸して絞り、そっとその額に戻す。
「君を救ってくれる神父様が一刻も早く来られるように私も尽力しよう」
ナルキーサスは眉間に皺を寄せて安らかとは言い難い寝顔を浮かべるサヴィラに約束するのだった。
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ここまで読んで下さってありがとうございました!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、本当に光栄で、嬉しいですっ!!
サヴィラには幸せになって欲しいと思う今日この頃です。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
開けっ放しの入り口から中へと入る。
「おや、マヒロ、イチロ、様子を見に来てくれたのかい?」
背中にアナを背負うソニアが顔を上げる。ソニアと話しをしていた冒険者が「神父さん、どうも」会釈をする。
元・金の豚亭は、山猫亭と違って一階はカウンターのようなものがあって、二階までは吹き抜けになっている。カウンターの左右に上へと伸びる階段がある。一階は、カウンターの左手奥にはナルキーサスが紹介してくれた治癒術師が常駐する癒務室がある。二階には厨房と食堂があり、三階から上が客室になっているが今は、三階と四階は孤児院になり子供たちの部屋や談話室などが設けられた。五階から上はこれまで通り冒険者たちの客室だ。
二階の食堂のドアが開かれていて、賑やかな声が聞こえて来ていた。ちょうど、三時のおやつだからだろう。
「こんにちは、ソニアさん。順調ですか?」
「勿論、絶好調さ。既に別の子どもたちが生活を始めていたからね。もともと、同じ貧民街の子どもたちだから、喧嘩することもなく仲良くしてるよ。こいつらも良く面倒見てくれてね、クリフなんかは開院前から手伝ってくれてるんだ」
ソニアがカウンターの傍にいた冒険者を指差して笑う。
確か彼はCランク、人族のクリフだ。インサニアの討伐の時にジョシュアが率いる隊にいたと記憶している。
「俺も実家で弟と妹の面倒見てたから、少しは手伝えればいいな、と思って」
クリフが照れくさそうに言った。
「そうか、ありがとう。是非ともこれからも協力してくれ、運営の為にクエストも頑張ってくれよ?」
「はい、勿論っす」
人の好い笑みを浮かべて、二階に上がっていく青年に、一路が「良い人そうだねぇ」と呟いた。
孤児院のある此方の宿に泊まれる冒険者は、限られている。まずブランレトゥ支部に所属するCランク以上の冒険者であることが前提条件で、冒険者ギルドで宿泊希望を出して許可証を貰わなければならない。無論、人柄や性格が重要視され、子どもに対して寛容で孤児院の運営に理解がある者だけが利用できる。D以下及び他の支部の冒険者は基本的に宿泊不可だが、何れ人柄最優先で何らかの形で許可が出せればと思っている。
もっとも夜間を除いてクエストを受けていない時はAランクのレイとジョシュアが孤児院か山猫亭のどこかしらに居るので、馬鹿をやらかす者もいない。
ジョシュアは、事件以降も村に帰らずにこの町に留まっている。真尋たちの屋敷の一室に親子で住んでいるのだ。
その最大の理由はリヨンズ派の連中の所為で町を護る騎士が処罰対象になり、警備が手薄になったからだ。引退という形はとってあったがAランク冒険者であるジョシュアは、町の緊急時にAランク冒険者は町に滞在するというギルドの掟によって、カロル村に帰れなくなってしまった。それも数日とか数週間とかではなく年単位である。つまり騎士団の新人が成長してものになるまでの期間ということだ。
Aランクともなれば、団長クラスの実力を持つ。それは大事な戦力に違いなし、Aランク冒険者が町に居るというだけで町の人々は安心して日々を過ごすことができて、それだけで治安維持に繋がる。とはいえ、カロル村には、月に一度は様子を見に帰る許可が出ているし、村にはジョシュアが育てた自警団もあり、プリシラの両親も現役で人も雇っているから農場や牧場のほうも問題はないそうだ。本人も「町に居る間に、もう一人作るか」と明るい家族計画を計画していた。
「本当は毎日来たかったんだが、すまないな。一週間も間が開いてしまって」
「いいよいいよ、クルィークの倉庫が見つかったんじゃ、そっちの方が大ごとだよ。こっちも今のところ、子どもたちがおやつの取り合いでちょっと喧嘩するくらいで大きな問題は無いしね」
ソニアは顔の前で手を振って軽く笑うが少し不安そうな表情を浮かべる。
「……インサニアの影響はあるのかい?」
「いいや、明日の新聞に出ると思うがインサニアの心配はしなくていい。念のために丁寧に浄化してきたが、元々、インサニアの痕跡は無かったからな」
「空の檻があるばかりで、生きた魔獣も魔獣の死体も無かったので安心してください」
一路が、にこにこと笑って言えば、なら良かった、とソニアが笑った。
一週間前、丁度、孤児院の開院を祝うパーティーの最中にその一報は入った。クルィークの倉庫がブランレトゥの南にある森の奥で見つかったというのだ。討伐クエストの最中に冒険者が見つけて、騎士団に通報した。
倉庫があったのは、馬を走らせて一時間ほどのところにある森の奥だ。木々をなぎ倒す様にして、まるでいきなりそこに現れたかのような様子で倉庫は森の中に鎮座していた。倉庫を見つけた冒険者は、ブランレトゥ支部の冒険者でインサニアの騒動も知っていたため、賢明にも近寄ることはなかった。
彼らからの通報を受け、真尋と一路はパーティーを抜け出し、カロリーナとキアラン率いる小隊と共に愛馬へ跨り従魔たちと共に森へと走ったのだ。
そこから三日、真尋と一路は家に帰れなかった。
一路が先ほど口にした言葉に嘘は無い。
魔獣の死体は出なかったが、人の死体が出たのだ。アンデット化して、倉庫の中で蠢いていた。そのアンデットも含め、倉庫そのものにも捜査で運び出される証拠品や押収品全てに浄化をかけなければならなかったし、詳しい現場検証中に万が一、インサニアの欠片のような黒い靄一つでも出れば大ごとだった。何せ、倉庫があったのは魔獣蠢く森の中だ。それに少々、厄介なものも見つかってしまった。それ故に森でのテント生活である。これに喜んでいたのは、一路の従魔である父子と真尋が連れて来たテディだけだ。だが魔獣が彼らを警戒し、夜間ですら見張りを立てる必要が無いほど安全だけは確保されていた。
四日目の夕方には安全が確保されたとして現場を引き上げ、真尋と一路は町へ戻り、深夜に帰宅。結局、その日は仮眠を取ってそのまま夜も明けきらぬ内に騎士団へ戻った。
それからも毎日、騎士団に拘束され続けている。一応、意地で家には戻っているがミアと過ごせる時間は、起きてから朝食までの僅かな時間だけだった。
「ジョシュから聞いたけど、あんたもイチロも深夜に帰って、仮眠して朝飯食べてすぐに仕事に行ってるんだって? 疲れた顔してるわよ」
「まあな、あれから碌に休む暇がなくてな……もう少しすれば落ち着くとは思うんだが、こればかりは仕方がない」
「領主様直々にお願いされちゃってますからねぇ。神父という立場上、インサニア関連となれば避けては通れないし」
「とはいえ、あんまり無理すんじゃないよ?」
ぽんぽんとカウンター越しにソニアに頭を撫でられた。真尋は苦笑を返し、一路は照れくさそうな笑みを返す。
「ところでサヴィラは居るか? 屋敷には来てくれたようだが、そんな訳で会えなくてな……ミアがサヴィの元気がないと言っていたから様子を見に来たんだが」
真尋の言葉にソニアが、困ったような表情を浮かべた。
ソニアが口を開こうとした丁度、その時、長男・ヴィートの嫁のエレナが顔を出す。長い胡桃色の緩い癖っ毛にオレンジ色の瞳の可愛らしい女性だ。
「ソニアさん、何かすること……あ! 神父様、こんにちは!」
「こんにちは。エレナ。どうだ、こちらでの生活には慣れたか?」
エレナは、はい、と快活な笑みを浮かべる。
「妹たちも毎日、楽しそうだし、私も楽しいので幸せってやつです!」
「なら良かった」
エレナには妹が二人いて、両親を病で立て続けに失った後、通っていた学校を辞めてウェイトレスの仕事で稼いで養っていたらしい。ヴィートは、エレナの妹二人も連れてこちらに戻って来たのだ。上が十三、下が八歳で二人も山猫亭を手伝ったり、こっちを手伝ったりしてくれているらしい。忙しくてまだ会ったことがないのだ。
「エレナ、丁度良かった。マヒロと話があるから、暫く、ここを頼めるかい?」
「はい、勿論」
快く頷いてくれたエレナに礼を言って、ソニアがカウンターから出て来る。こっちだよ、と促されるまま階段の奥にあるドアの向こうへと入る。ドアの向こうの廊下はコの字型になっていて、休憩室や仮眠室、倉庫などの部屋があるのだ。ソニアは「休憩室」と札の掛けられた部屋のドアを開け、中で待っててくれ、と告げるとどこかに行った。
真尋と一路は言われた通り、先に部屋の中へと入る。珍しく靴を脱ぐ仕様になっていて、一段高くなっているフローリングへと靴を脱いで上がる。質の良い絨毯が敷かれ、ローテーブルと座布団代わりのクッションが幾つか転がっていた。
真尋と一路は、ローテーブルの前に並んで座る。一路はきちんと正座したが、真尋は胡坐を掻いた。
少しするとソニアが、涼し気な氷の浮かぶグラスを三つと茶菓子と共に戻って来た。ミントの浮かぶミント水は、爽やかで暑い夏にはぴったりの飲み物だ。
ソニアは、二人の前に腰を下ろすと一番大きなクッションの上にアナを寝かせた。ふくふくしているアナは、実に可愛らしい。ご機嫌な様子でソニアが渡したぬいぐるみを振り回す。
「アナは、本当にあんまり泣かない良い子なんだよ。ヴィートもそうだったけど、いっつもにこにこしてるんだ」
ソニアがアナの頬を擽るように撫でながら言った。
アナがきゃっきゃっと声を上げて笑う。その様子に真尋も一路も思わず表情を緩める。立ち上がった一路が四つん這いのままアナの傍に行き、ソニアに断りを入れてから抱き上げた。
「久々に抱っこしたら、重くなってるねぇ」
「アナはご飯も良く食べるからね」
ソニアの言葉に一路が、良い子だね、とアナの頬を撫でた。アナは、もうずっとソニアが世話をしてくれている。それでなくとも小さな子どもたちが多く、プリシラとクレアだけでは手が足りなかったのでソニアが家に連れ帰り、仕事中もずっと背負いながら面倒を見てくれていたのだ。ソニアの四人の子どもたちの時もこうして背負って仕事をしていたから懐かしいとソニアは笑う。「レイなんかあたしの背中でお漏らししたんだから」と笑うソニアの横でレイが「黙れ、まな板ババア!」と照れて怒って、笑顔のソニアにぶん殴られていたのは記憶に新しい。ソニアは強い。
「……さて、それでサヴィラのことだけどね」
ソニアがこちらを振り返る。その表情は、やっぱり少し困っている。
「サヴィラが何か問題でも?」
「まさか、あの子は一番手が掛からないよ。十三歳っていうのもあるだろうけど……でも、ここのところ、どうにも調子が悪そうで、夜、あんまり眠れていないみたいだって同室のルイスとレニーが言うんだよ。それにこの三日、食も細くなってきちまって」
「具合でも悪いのか?」
「それがねぇ、本人は、なんでもない、ってそればかりさ。あたしたちじゃダメかと思って、ネネが聞いても結果は同じ。なんでもない、大丈夫、少し疲れてるだけ、とそればっかりなんだけど、無理して笑ってるのが丸わかりさ。でも……あたしたちじゃ、踏み込ませてくれないんだよ」
ソニアが憂い気にため息を零す。
「繊細な子だから、あんまり強引に踏み込むと逆効果になっちゃうだろうし……」
「サヴィは、貧民街にたどり着くまでに色々と苦労したらしくてな……詳しくは俺も言えないが、酷い目に遭ったのは確かだ。あの子は、大人が嫌いだ。それは嘘では無いだろうが、その根底にあるのは大人への恐怖なんだ」
「なんとなくそれは分かるよ……男も女も大人ってだけであの子は、怖がっている。一応ね、冒険者たちにもリズたちにも気を付けるように声を掛けてはいるんだけど。あたしたちが当たり前だと思っていることが、例えばお手伝いをしてくれたから褒めるとか、頭を撫でるとかそういうことにすらサヴィラは戸惑っているし、特に触ろうとすると怯えたような顔をするんだよ」
ソニアがミント水を飲む。グラスの中で、カランカランと氷が涼し気な音をたてた。
リズ、というのはここを手伝ってくれている新しい女性の従業員だ。他に五名ほどいるが、皆、ソニアと同年代か少し上の女性で子育ての経験者だ。商業ギルドに登録し、子守の仕事をしていた彼女たちをクロードが紹介してくれた。
「サヴィは、どこにいるんだ?」
「ついさっき、気分転換にと思ってお遣いを頼んでレイとネネと一緒に出掛けちまったよ、悪いね、まだ当分帰って来ないと思うけど……」
「そうか……待っていたいのだが、休憩時間にちょっと抜け出して来ただけだから時間がない。この後、領主様と会う約束があって流石にすっぽかす訳にもいかん」
真尋は腕時計に視線を落としてため息を零す。
「本当は僕が代われればいいんですけど、僕もこの後、魔導院の方で立会検分があって、その後、商業ギルドでも会議があるんです」
一路がアナをあやしながら言った。
基本は真尋の補佐を務める一路だが、優秀で有能であることには違い無く、真尋の名代として会議などに出てくれている。
「明日……いいや、明後日のこの時間、意地で時間を空ける。だからサヴィラを捕まえておいてくれ」
「ああ、分かったよ。さっきも言ったけど、あんた達もあんまり無理すんじゃないよ? 何よりも健康があってこそだからね」
ソニアの気遣わしげな言葉と表情に真尋は、ああと頷いて返し、爽やかなミント水を飲み干す。空になったグラスをテーブルの上に置いて立ち上がる。一路もアナの額にキスをして抱き締めてから、ソニアの腕に返して立ち上がる。
ソニアに何かあったら遠慮なく言うように告げ、エレナに挨拶をしてから真尋と一路は外へと出る。長居は出来ないと分かっていたので店の前で待たせていた馬を見ていてくれた青年にチップを渡し、真尋と一路は愛馬に跨る。
「……一、家に戻ってプリシラに今夜はいつもより遅くなるからミアを頼むと言ってから魔導院に行ってくれ。明後日、都合をつけるなら今すぐに調整を始めんとどうにもならん気がする」
「了解。じゃあ立会検分が終わったあと、そのまま商業ギルドに行きたいから、エディさんに書類を持って魔導院に来るように伝えてもらえる?」
「分かった。昨日、お前がまとめていたやつでいいんだな?」
「うん。資料も含めて封筒に入っているから、お願いね。じゃあ、お互い、頑張りましょう」
にこっと笑って一路は馬の腹を蹴ると屋敷の方へと走り出す。真尋も騎士団に戻るために馬の腹を蹴って手綱を握りしめる。
軽快に足を進める愛馬の上で真尋は、今後の予定を組み直す。想像の中で何人か泣き出したが無視することにした。
レイは三歩ほど前をはしゃぐネネに手を引っぱられるようにして歩くサヴィラの後頭部をぼんやりと眺めながら二人の背を追う。
「レイくん、次は何を買うの?」
ネネがくるりと振り返る。黒い髪に黒い猫耳の少女は、ローサの小さい頃によく似ている。あいつもお遣いの度にはしゃいでいたのを思い出す。
レイは、ポケットからソニアに渡されたメモを見る。
「ナスひと箱、トマトひと箱、キュウリひと箱、ミルクひと缶、チーズ五キロ、……あいつは俺を何だと思ってるんだ?」
ひと箱って木箱だぞ、ひと缶って四十キロはあんだぞ、と思ったがソニアに逆らえるわけもないレイは、自分がアイテムボックスを持っていることにほっとするも、そういえば最近、整理整頓をしていないから果たして入る余裕があるだろうかと考えたくないことを考える。
「……それ、全部持てるの?」
サヴィラが心配そうに尋ねて来る。
「アイテムボックスがあるから多分な。入らなきゃ……仕方がねえ、その辺歩いている冒険者に持たせりゃいい」
まだ午後で日も高い時間だ。市場通りは賑やかで買出しに来ている冒険者も割といる。レイがお願いすれば、きっと皆、快く運んでくれるだろう。
「あ、サヴィ! ネネ!」
「レイお兄ちゃん!」
聞こえて来た賑やかな声に振り返れば、ミアが駆け寄って来てサヴィラに抱き着いた。ジョンはリースの手を引くようにしてこちらにやって来る。その後ろからバスケットを腕に下げたプリシラがやって来る。
「こんにちは、レイ。サヴィとネネも皆でお遣いかしら?」
プリシラがおっとりと微笑む。
「おう」
「ソニアおばちゃんにお遣いを頼まれたのよ」
ネネが答える。
「私達も夕食の買出しに来たのよ」
「今日はね、トマトの冷たいスープなんだよ、僕、大好きなんだ」
ジョンが嬉しそうに言った。ネネが「うちはトマトのキッシュなのよ」と答えていた。同じトマトだね、と笑うジョンは、父親によく似ている。
「ねえ、サヴィ、明日は遊びに来る?」
ミアが甘えるようにサヴィラを見上げる。サヴィラは、抱き留めたミアの頭を撫でて、ふっと表情を緩める。サヴィラは、女みたいに綺麗な顔をしているので笑うと雰囲気が随分と柔らかなものに変わる。
「昨日、遊びに行ったばかりじゃないか」
「だってお話の続きが気になるんだもん。ね、いいでしょ?」
「どうかな……孤児院の手伝いもしなくちゃいけないから、帰ってソニアに聞いてからね」
「……なら、ミアがサヴィのところに行ってお手伝いするわ。サヴィ、いつも本を読んでくれたらすぐに帰っちゃうでしょ、ミアがお手伝いしたらもっといてくれるでしょ?」
「ミア……」
サヴィラが困ったように眉を下げる。
ミアはぎゅうとサヴィラに抱き着いて顔を隠してしまう。サヴィラが細い手で困ったようにミアの小さな頭を撫でた。
「この一週間、マヒロさん、とても忙しくてね。帰って来るのも日付を跨いで大分経ってからだし、朝もご飯を食べたらすぐに出かけてしまうからゆっくり過ごせなくて……マヒロさんもミア不足で干からびそうだって騒いでいたわ」
プリシラが苦笑交じりに言った。
一週間前にクルィークの倉庫が見つかったのはレイも知っているし、発見の翌日には一度、様子を見に行った。マヒロとイチロは神父として、押収品全てに浄化を掛けたり、建物内の検分をしたりと忙しそうにしていた。それでもザラームが齎したインサニアの危険性がゼロとは言えない限り、唯一、浄化の出来る神父である二人を騎士団も手放せないのだろうし、二人もそれを承知しているのだ。インサニアの齎す害を彼らは身をもって知っているのだから。
「魔獣の討伐だったら俺も代わってやれるんだけどな」
「お父さんも同じこと言ってたよ」
ジョンの言葉に、そうか、と返して金茶の髪をくしゃくしゃと撫でた。心なしかジョンも寂しそうだ。
「ソニアが駄目なんて言う訳がないだから、明日はミアのところに行ってやれよ」
レイの言葉にサヴィラは、困ったような顔をしたがミアがぎゅうと抱き着いて離れないことに観念したのか、ミアの頭を撫でると「わかったよ」と頷いた。すると鼻の頭を少し赤くしたミアが顔を上げて、嬉しそうに笑って、それにつられるようにサヴィラも小さく微笑んだ。
「サヴィ、約束よ?」
「ああ、約束……ほら」
サヴィラが差し出した小指にミアが顔を輝かせて、自分の小指を絡めようとした時だった。
――ガシャンパリーンッ!
ガラスか何かが割れるけたたましい音が通りに響き渡って、皆が何事かと足を止める。プリシラが慌てて我が子を抱き寄せ、レイもネネとサヴィラとミアを背に庇う。
「こんの馬鹿息子っ!! 注文の間違え方にも限度ってもんがあんだろ!!」
「凍った肉を投げるな!! 瓶が割れちまったじゃねぇか!! バカ親父!!」
三軒先の肉屋の息子が店の中から飛び出してくる。そこに肉切り包丁を持った親父が後を追いかけて来る。通りに転がる凍った肉が店内で何らかのガラス瓶を割ったらしい。
「おいおい、親子喧嘩は静かにしろよ!」
肉屋の隣の八百屋の親父が呆れたように言った。
レイも通りすがりの人々も、何だ親子喧嘩か、と呆れたように肩を竦める。この肉屋の親子は昔から二か月に一度は、こうして大きな喧嘩をするので有名なのだ。
「この出来損ない!!」
親父が叫んで包丁を放り投げて息子に殴りかかる。
「出来損ないも糞も原材料はオメェだろうが!!」
警邏中だったらしい騎士が二人、またかとぼやきながら親子に駆け寄って仲裁に入る。
「こんなことも出来ねえなんてお前の頭はどうなってんだ!!
「残念ながらオメェ譲りの頭だわ!!」
「夕食は抜きだからな!!」
「はっ、上等だゴラァ!!」
「まあまあ、二人とも落ち着いて下さい!」
「はいはい、もう殴らない!」
騎士たちが慣れた様子で親子を羽交い絞めにして引き剥がす。
「あんた達ぃ、店先で何やってんだい!! 口がきけないようにただの肉塊にしてミンチにしてやろうか!!」
騒ぎを聞きつけて最強戦士(肉屋の奥さん)が登場した。奥さんは騎士に羽交い絞めにされて尚、お互いを殴ろうとしていた二人の頭に拳骨を落として、黙らせる。怒れる妻、或は母の姿に二人はさぁっと顔を青くして借りてきた猫のように大人しくなった。
Aランクになったって母親という存在には勝てないんだからたかが肉屋が勝てる訳が無いよな、とレイは一人納得する。レイだってソフィにもソニアにも勝てた試しがないのだ。
「サヴィ? どうしたの? 具合悪いの?」
ミアの不安そうな声に振り返るのと、真っ青な顔したサヴィラがずるずると座り込むのは同時だった。ネネとミアが倒れないようにと慌ててサヴィラを支える。サヴィラは片手で口元を覆うようにしてその場にしゃがみ込んでしまった。
「おい、サヴィラ、どうし」
「触るなぁ!」
伸ばした手はバシンと音を立てて払われた。ミアとネネが目を瞬かせる。
サヴィラは、いつぞやのリックのように不規則な呼吸を繰り返しながら、怯えたような顔でレイを見ていた。いや、怯えに染まった紫紺の瞳はレイではない何かを見ている。
「ごめっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、もっと、もっとちゃんと……ちゃんとできるようになります……っ」
「サヴィ? どうしたの」
ネネが声を掛けるがそれにすら怯えてサヴィラは尻餅をついて後退り、自分を何かから庇うように顔の前で腕を交差させる。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
何に怯えているんだ、とレイとプリシラは顔を見合わせるが、誰にもさっぱりと分からない。それにプリシラやレイが手を伸ばしたり、近づこうとしたりするとサヴィラはますます怯えて、呼吸の間隔が短くなる。冷汗まで額に滲ませて、血の気の引いた顔をするサヴィラにどうすればいいのだ、とレイは頭を抱えたくなる。
リックがこうなった時、マヒロはリックを抱き締めて落ち着かせていたが、レイやプリシラでは間違いなく逆効果だ。そもそもリックはここまで取り乱していない。
「どうかしましたか?」
こちらの異変に気付いた騎士が駆け寄って来る。騎士の向こうで先ほどよりも顔がぼこぼこになった肉屋の父子と拳を握りしめたままの奥さんが心配そうにこちらを見ている。
「おや、レイ殿に……そちらは神父殿のお嬢様とお屋敷に居た子では?」
どうやらこの騎士は、ミアもサヴィラも知っているようだ。
「丁度良い、ひとっ走り本部に行って、神父を呼んで来てくれ、な……いか?」
ぐっと腕を掴まれてレイは振り返る。
ひゅーひゅーと息をしながらサヴィラがレイの腕を掴んでいた。筋が浮き立つほど強く、細い手がレイの腕を掴んでいる。
「だ、だいじょ、だいじょうぶ……っ」
「大丈夫ってお前……」
縋るような紫紺の瞳がレイをとらえる。
「大丈夫だからっ……!」
悲鳴のように告げてサヴィラは両手でレイの腕を掴む。騎士も困惑顔でレイとサヴィラを交互に見つめる。
「大丈夫だから、お願いだから……神父様には言わないで……っ、お願い、ちゃんと言うこと聞くから、大丈夫だからっ」
おねがいだから、と囁くように吐き出された言葉は、必死だった。
触っても良いもんだろうか、とレイが悩んでいると、プリシラがサヴィラの隣に膝をついた。
「サヴィ、触っても平気?」
プリシラの穏やかな声が問う。サヴィラは、数拍の間を置いて、微かに頷いた。プリシラが、背中に触るわね、と声を掛けてからサヴィラの背に触れる。びくりと見ているだけでも分かる程、その細い背が強張った。プリシラは、その手を動かさずじっと待って、少しだけサヴィラの体の緊張が解けると、とんとんとあやすように撫でた。
「大丈夫、神父さんには言わないでおくわ。ちょっと具合が悪くなっちゃっただけなのよね」
プリシラはおっとりと笑いながら言葉を紡ぐ。
「サヴィ、会った時から思ってたけど貴方、顔色があんまり良くないわ。お遣いはネネとレイに任せて、私と一緒に先に帰って休みましょう。お屋敷と孤児院、どっちがいい?」
「………………こじいん」
「じゃあ、そうしましょう。騎士さん、すみませんけど、馬車を一台頼めますか?」
「はい。すぐに」
騎士が頷き、馬車を呼びに走っていく。
だんだんとレイの腕を掴んでいた手から力が抜けていく。
「レイも神父さんには言わないわ。ね、レイ。それに騎士さんも」
「ああ。言わねえよ」
「お約束いたします」
レイと騎士が頷けば、サヴィラの手はするりと外れて落ちた。彼の膝の上に落ちた手をミアが握りしめる。サヴィラは、子どもなら平気なのか少し驚いたような仕草は見せたが、大人に触れられるときに比べるとその体に緊張は無いようだ。
「あのね、サヴィ。ノアもこうやって手を握ってあげると泣きやんだのよ、だから、サヴィも大丈夫よ」
ミアがそう言てってサヴィラの頭を撫でた。サヴィラは、眩しいものでも見るかのように目を細めてミアを見つめると、こくりと小さく頷いてその手を握り返した。
丁度、騎士が馬車を連れて戻って来る。サヴィラはふらつきながらも自分で立ち上がり、プリシラに支えられながら馬車へと乗り込んだ。サヴィラの手を握りしめるミアも一緒に馬車に乗り込む。
「ジョン、お遣いを頼んでも良い? 中にメモが入っているから」
「うん、いいよ」
プリシラが手に持っていたバスケットをジョンに渡した。ジョンはそれを受け取り、失くさないでね、と渡された数枚の赤銅貨を腰に身に着けていた革のポーチに入れた。お願いね、と息子の頭を撫でるとプリシラは、リースを抱き上げて馬車に乗り込む。レイがドアを閉めれば、窓からプリシラが顔を出す。
「レイ、ジョンをついでにお屋敷に届けてね」
「おう。ネネも戻るか?」
「ううん。大丈夫」
ネネはふるふると首を横に振った。
じゃあ先に戻るわね、と笑うプリシラが行先を告げれば、御者が鞭を打って、馬が走り出した。
「……サヴィの小さい頃のことは、私、知らないけど」
馬車を見送りながらネネがぽつりと零す。
「多分、大人の男の人の怒鳴り声が苦手なの」
「そうなのか?」
うん、とネネは頷いた。
「時々、誰かがああやって喧嘩するところとかに出くわしたことがあるんだけど、その時、いつも私の手を引っ張って逃げるように走り出すの。最初は、面倒事に巻き込まれないようにしてるのかなって思ってた。確かにそれもあるんだろうけど、私の手を引っ張って走るサヴィの顔が凄く強張ってて、泣いちゃいそうだったから。それに男の人の怒鳴り声が聞こえると、サヴィはいつもビクッとするの」
「そうか……じゃあ、肉屋が全部悪いな」
ぽんぽんとネネの頭を撫でる。
「ねえ、レイお兄ちゃん、ネネちゃん、早くお遣いして帰ろ?」
ジョンにぐいっと手を引かれる。
「サヴィくんも心配だし、万が一、僕のお母さんが自分で先に帰るなんて言い出したらもっと大騒ぎになっちゃう」
ジョンの母親譲りの空色の目は真剣そのものだった。
レイもプリシラとは長い付き合いであるから、彼女の方向音痴に関しては良く知っている。プリシラがギルドの受付嬢だった頃、何度、アンナやジョシュアに頼まれてサンドロと共に町中を探し回ったことか。青の2地区のアパートから中央広場に面する冒険者ギルドに出勤した筈なのにどうして黄の3地区で迷子になっているかがレイには分からなかった。惚れた弱みか下心か切実な問題かジョシュアが送り迎えをするようになったのは割とすぐのことだった。
「……お母さんは、変に自信があるんだ。僕、心配だからお屋敷じゃなくてレイお兄ちゃんたちと孤児院の方に帰って、お母さんと一緒に帰るよ。だから早くお遣いしよ」
「……そうだな」
首を傾げるネネの手を引き歩き出したジョンの背を追うようにしてレイも足を動かす。
肉屋の親子はカンカンに怒っている奥さんに引きずられるようにして、店の中に戻って行く。
「あの、レイ殿」
騎士に呼び止められて折角、歩き出した足を止める。ジョンが「先に八百屋さんに行ってるよ」と言うので、レイは用意を頼んでおいてくれ、とソニアからのメモをジョンに渡した。
「やはり神父殿に報告をした方が良いのでしょうか? 子どもたちのことでしたら他の案件と違って最優先事項に回されますのですぐに直接面会が可能かと」
「……案件によってはどれくらいかかるんだ?」
「優先順位が低いと判断された案件で面会の申し込みをしますと、恐らく……最低でも一日から二日は待っていただくことになるかと。ですが、第一大隊全体にミアお嬢様と孤児院関連は最優先事項として神父殿に報告するようにと命令が下っています」
「あいつ、そんなに忙しいのか?」
「クルィークの事件に関連して、色々と出てきています。別件だと思われていた殺人まで何件か……我々も尽力はしていますが、恥ずかしながら、インサニアとザラーム関連はお手上げでして、我々の常識では、どうして事件がそうなったのか、が分からないのです。今、ここ二、三年で起きた病死、及び事故死、殺人に関する事件を全て洗い直しているんです」
「まだ何か出てきているのか?」
騎士は周囲に視線を走らせると声を潜めた。
「守秘義務がありますので多くは言えませんが、マノリスの体と……倉庫内で見つあったアンデット化していた死体から、禁術の痕が見つかっているです。それと……倉庫内には聖水が入っていたと思われる空の小瓶が」
「聖水って、あいつらの?」
「神父殿ではなく、王都の方です」
「……そりゃあ、帰れない訳だな」
レイはふーっと息を吐きだして腕を組んだ。
それでなくともこの事件の背後には王家と公爵家の思惑が潜んでいると聞いている。そこに王都の糞教会まで関わって来たとなれば、話は余計にややこしく複雑になる。
「忙しいが……夜中には帰って来るからな。俺が話しておく」
「よろしいので?」
「優秀な神父殿が仕事も会議も約束も全部放り投げて孤児院に駆け付けてもいいなら俺は止めねえがな」
「……レイ殿の判断にお任せいたしますっ!」
顔を青くした騎士は潔く騎士の礼を取る。
肝心要の神父殿が抜ければ、一気に色んな仕事が滞ることは間違いない。部外者のレイですら簡単に想像できる。
「まあ、そういう訳だ。孤児院には治癒術師も常駐しているし、ソニアたちがいる……たぶん、ありゃ精神的なもんだろうしな。神父は悪いようにしないだろうし、一晩くらいは時間を置いた方がガキの方も落ち着くんじゃねえか?」
「分かりました。神父殿には内密にしておきますので、では、失礼いたします」
騎士は頭を下げると待たせていた相棒と共に肉屋の中に入る。一応、騒ぎを起こしたので注意をするのだろう。レイは、どうしたもんか、と頭をガリガリと掻きながら、八百屋へと足を向けたのだった。
ゆっくりと目を開けると窓の外は真っ暗だった。
サヴィラは、だるい体を起こして辺りを見回す。時計が無いから何時かは分からないが、夜であることは確かだ。でも二台置かれている二段ベッドにはサヴィラ以外まだいない。ということは夕食の時間か風呂の時間なのだろう。
孤児院は、屋敷と同じくらいに快適な場所だった。ギルドが承認した冒険者しか泊まれないようになっていて、その冒険者たちも孤児院だと理解した上で泊まるので、子どもたちの面倒をよく見てくれる。最初は、体の大きな冒険者を警戒していた子どもたちも今では、その膝の上でご飯を食べたり、遊んでもらったりと良くなついている。それに孤児院専門で雇われた女性の従業員たちは、ソニアと同年代か少し上の子育てのベテランで、子どもたちもとても懐いている。サヴィラが説得して連れて来た貧民街の孤児たちもあっという間に馴染んで、毎日、楽しそうだ。
孤児院は、誰にでもやろうと思えばできることだったけれど、誰もやらないことでもあった。それをこんな風に町中を巻き込んでやり遂げてしまう神父様は、やっぱり凄いのだろう。
マヒロはかなり孤児院に関して心を砕いてくれたようだった。子どもたちを管理する場所でも義務的に預かる場所でも無く、子どもたちの「家」となるように。町の子どもたちと同じように、毎日、遊んだり、手習い所に行ったりして、そして、大勢の大人の愛情に育まれていけるようにと心が尽くされている。
だから、馴染めない自分が異常なのだ。
サヴィラは膝を抱き寄せて、顔を埋める。
ソニアもリズやルーシーといった従業員の女性たちも宿泊客の冒険者たちも本当に良くしてくれて、サヴィラにも声をかけて、気にかけてくれる。
『よく眠れた?』『ちゃんと食べてるか?』『おかわりは?』『今日は何してたんだ?』『お前、本読めんのか、すげぇな!』
掛けられる言葉も声も柔らかで優しいものなのに、サヴィラはそれにどうやって答えれば良いのかが分からなかった。初日には頭を撫でられそうになってあからさまに避けてしまった。以来、気を遣ってくれているのか誰もサヴィラに触れることは無い。それにほっとしている自分がいるのも事実だ。
大人、という存在がどうしても信じられない。触れられるのが怖い。何をされるか分からないという思いがサヴィラの心を支配する。
サヴィラが信じられるのは、この間までダビドだけだった。でも今はもう一人、マヒロが居る。マヒロの言葉は信じられるし、彼に触れられるのは平気だった。彼の手は絶対にサヴィラを傷付けるものではないと信じられるからだ。
屋敷に居る時は良かった。人の出入りはそこそこあったが、図書室に逃げ込んでしまえば何も気にしなくて良かった。声を掛けてくる大人もマヒロに近しい人ばかりだったから平気だった。それになにより夜になればマヒロがいて、一緒に食事をしたり、皆で大きなお風呂に一緒に入ったりもした。
でも、ここへ来てからまだ一度もマヒロには会えていない。
開院祝いのパーティーの真っ最中に騎士がマヒロとイチロを呼びに来て、騎士の話を聞くとマヒロは心なしか面倒くさそうな顔を、イチロは困ったような顔をしていたのを覚えている。詳しい話は知らないが、翌朝の新聞に町から馬で僅か一時間の森の中でクルィークの倉庫が見つかったと書かれていた。
マヒロは去り際、サヴィラの頭を撫でて「また会いに来るから、サヴィも会いに来い」と言ってくれた。
だがあれ以来、マヒロもイチロも多忙を極めているようで、孤児院に顔を出す暇もないらしい。屋敷に行ってもいつも留守で、そもそも娘のミアですら「朝ご飯の時にしか会えないの」と寂しそうにしていた。
だから、自分が呼んでいいわけが無い。彼の娘であるミアが我慢をしているのに、赤の他人であるサヴィラが呼んでいいわけが無いのだ。それもこんなくだらないことで。自分はミアやチビたちと違って、無邪気に甘えることが許されるような年齢でもない。
膝を抱き寄せる腕に力をこめて、ますますベッドの上で小さくなる。
大人の、とくに男性の怒鳴り声がサヴィラは苦手だった。それを聞くと思い出したくないことばかり思い出すからだ。でも、貧民街にいた頃はあんな風に取り乱すことはなかった。
「……神父様のせいだ」
膝に顔を埋めたままぽつりと吐き出した。
マヒロが当たり前のようにサヴィラを守ってくれて、安心ばかり与えるから、とっくの昔に殺したはずのサヴィラの弱い部分が生き返ってしまったのだ。
何だか自分がとても弱くなってしまったように思えて怖くなる。
「……サヴィ、起きたー?」
不意にドアの向こうからルイスの声がして顔を上げる。
「起きたよ」
そう返せば、ドアが開いてルイスとレニーが顔を出した。二人は心配そうにこちらを覗き見る。おいで、と手招きすれば、ほっとしたように表情を緩めてこちらに駆け寄って来る。レニーが靴を脱いでベッドに上がり込みサヴィラの顔を覗き込んでくる。
「サヴィ、元気になった?」
「うん。大分良くなった」
小さな嘘を吐いて、レニーの頭をぽんと撫でた。小さな顔に笑顔が咲く。
だが、ベッドの縁に腰掛けたルイスは心配そうな表情を崩さない。
「もうすぐご飯の時間だよ。ソニアおばちゃんがサヴィは具合が悪かったら食べなくても良いし、特別にお部屋で食べても良いって」
「……下でお前たちと食べるよ」
「でも、サヴィ、無理しなくていいんだよ?」
サヴィラは彼の視界を遮るように手を伸ばし、くしゃくしゃと髪を撫でた。
「大丈夫だよ。ゆっくり休んだから、平気だ。ほら行こう、俺もお腹が減った」
ほら降りろ、とレニーを促しサヴィラもベッドから降りる。ルイスが立ち上がり、何か言いたげにサヴィラを見あげていたがサヴィラが折れないと悟ると、無理しないでね、とだけ言った。
ここにはサヴィラの大事な家族がいる。サヴィ、サヴィ、とサヴィラを頼りにして甘えてくる大事な家族がいるのだ。
だからサヴィラは、努力をすればいい。ここに慣れる努力を誰にも心配をかけない努力を、もっともっとすればいいのだ。
そう決意したサヴィラはレニーに手を引かれるようにして部屋を出て、食堂へと向かったのだった。
ナルキーサスは、孤児院の一階に設けられている癒務室のベッドの上でアルトゥロが担当した検死報告書を読んでいた。
「ナルキーサス殿、また抜け出して来たんですか?」
カーテンが揺れたかと思えば、この孤児院専属の治癒術師であるトマスが呆れたように糸目の目じりを下げた。彼は既に寝間着姿でナイトキャップまで身に着けている。
彼は御年七十五歳の老治癒術師だ。腕も頭も確かだが老体に堪えるから治療院での激務はもう嫌だと嘆いていたので、ここの話をしたら喜んで引き受けてくれた。おじいちゃん先生として子どもたちにも慕われているし、彼の妻であるパルミラも孫が沢山出来たようだとここでの暮らしを楽しんでいるようだ。
もともとこの部屋は宿屋を営んでいた夫婦の住居スペースで癒務室はリビングだったのを改装して、奥にある寝室をトマスとパルミラがそれまで通り寝室として使っているのだ。
「良いじゃないか。向こうは兎角、うるさくて敵わん」
「だからって人が寝室に下がった途端に忍び込むなんて……寝ようと思ったら灯りが見えたから驚きましたよ」
「ちゃんと受付にいた娘に言って、お邪魔している」
読み終えた報告書を足元に放り投げたままだった鞄にしまう。鞄型のアイテムボックスでナルキーサスがいつも持ち歩いているものだ。中に白衣や白手袋、基本的な治癒具に包帯やガーゼ、基礎的な薬など様々なものが入っている。
トマスは、やれやれと肩を竦めると顔を引っ込め、暫くして、マグカップを両手に持って戻って来る。どうぞ、と差し出されたマグカップを起き上がって受け取り覗き込めば、ポヴァンのミルクの甘い香りに仄かにブランデーの匂いが混じっている。
「パルミラは?」
「もう寝ましたよ……こんな夜中にやって来て、お忙しいんでしょう?」
トマスが隣のベッドに腰掛けながら言った。
「色々と見つかってしまったからな。だがご令嬢の恋煩いを診に行くよりはマシな仕事だ。……こちらはどうだ?」
「皆、元気で良い子ですよ。僕もミラも何だか若返ったような気がするくらいに」
「ははっ、それは良かった」
「ですが……」
トマスの穏やかな笑みが曇ったのに気付いてナルキーサスはカップを傾けながら首を傾げる。
「どうした」
「一人だけ心配な子がいましてね。サヴィラという子なんですが」
「ああ、あの子か」
死の痣を腕に受け、暫くナルキーサスも様子を診ていた淡い金髪の少年の顔が浮かぶ。治療以外ではあまり関わることもなかったので、多くの言葉を交わした訳ではないが、受け答えのしっかりした子だ。孤児だというのに属性を三つも持ち、魔力量は平均よりかなり上だった。貴族の落胤だというから、その所為だろう。優秀な血統を尊ぶ貴族は、一般人よりもずっと魔力量が多い。
「あの子がどうかしたのか?」
「どうにもここに馴染めないようでしてね。今日の夕方も具合が悪くなったらしくてね。夕食に降りて来たから声を掛けたんですけど、大丈夫の一点張りで……そもそもあの子は、子どもは平気だけど大人に触られるのは苦手なようでね。手を伸ばすとびくっとね怯えるんですよ」
「……ふむ」
ナルキーサスはブランデーの落とされたミルクを飲みながら首を捻る。
ナルキーサスが診た時は、緊張こそしていたがそれほど怯えていたような記憶はない。だが、とナルキーサスは考える。
あの時は、マヒロが側にいたのだ。それにここが開く前にマヒロに用事があって屋敷を訪れた時、サヴィラはマヒロの傍で本を読んでいたが随分と落ち着いて居たし、表情も穏やかだった。
「あの子は……大人に何か酷いことをされたのかも知れませんねえ」
「まあ、貴族の御落胤という噂のある子が貧民街に居ただけでその人生は壮絶なものだったろうさ」
ナルキーサスの言葉にトマスが糸目を瞬かせた。
「真実の程は知らんが、魔力量や普段の様子から見て間違いないだろう。あの子は実に聡明な子だよ、水、火、地の三属性持ちなのもいい。魔導師にはなれんが、魔術師としては十分だ。私の下に欲しいんだが、マヒロがくれないんだ」
「神父様が?」
「石膏像にはさせないからな、と言われた」
「……ああ」
トマスは何とも言えない顔でその喉まで出かかった言葉をまるで誤魔化すかのようにマグカップに口をつけた。口ひげがミルクで濡れる。
「そういえばマヒロもなかなか石膏像の型を取らせてくれん。そもそも最近のあいつは忙しすぎて雑談する時間も無い」
「私は二、三度お会いしただけですが、まあ、確かにお美しい御仁ですよねぇ……いっそ怖いくらいに」
部屋の中がしんと静まり返った。
ナルキーサスは、ふっと笑ってマグカップの中身を飲み干す。
「……人という生物は、完璧なものを恐れる生物だからな」
「あの方がこの町を覆ったインサニアを祓ったと聞きました……あの方は孤児院の開院にも尽力し、子どもたちからも好かれていますが、本当に……信頼に足る人物なのですか? あれがもし身の内に潜り込んだ虫だとすれば厄介でしょう?」
「ははっ、厄介どころではない。あれが私たちに牙を剥いたとすれば、この町は簡単にマヒロの手に落ちるだろう。あれはそれだけの実力を兼ね備えている。領主殿も今のところは信を置いておられるようだが、害があると見なせばすぐに追放なさるだろう……だが、あれが他所の手に渡るのも脅威になる」
空になったマグカップをベッドとベッドの間に置かれていたサイドボードに置いた。
「だが、マヒロもそれを分かっている。でなければ、あの男が騎士団の言いなりになって大人しく執務室に籠っている訳がない。領主殿も団長閣下もギルマスたちも分かっているのさ、あの男が自分達などに支配できるような可愛らしい存在ではないと」
ナルキーサスは足を組んでその上に肘をつき、手の上に顎を乗せて微笑う。
「あの男は、支配する側の人間だ」
くすくすと笑うナルキーサスにトマスは、はぁと疲れたようなため息を吐き出す。
「……貴女と彼は似ていますよ。昔から何を考えているのかさっぱりと分からない」
「マヒロは分かりやすいと思うぞ? あいつは愛娘を溺愛しているからな、基本、一秒でも早く家に帰りたいと考えながら仕事を片付けている。白い兎の耳のとても愛らしい娘でな、何故かマヒロは私が近づくのをなかなか許してくれん」
「賢明な判断ですね」
「……失礼なクソ爺だ」
真顔で言い放ったトマスをじとりと睨む。
しかし、トマスは飄々と笑って自分の分を飲み干すとナルキーサスのカップを手に立ち上がる。
「僕がクソ爺なら、貴女だってクソババアでしょう。僕より大分年上なんだから」
「……はぁ、あの頃のお前は、もう少し可愛げがあったし、石膏像のお前はもっと可愛い」
ナルキーサスは両手を後ろについて唇を尖らせる。
「それ、僕が七歳の時のでしょう……まだ持ってたんですか?」
「私はコレクションを一つだって損なっていない」
ナルキーサスは得意げに言って、シャツのボタンをいくつか外す。今夜はここに泊まるつもりで出て来たのだ。あそこは騒がしくていけない。
「屋敷には帰らないんですか? レベリオ殿が心配なさるのでは?」
「心配も何も、夫くんはここ一か月、騎士団に泊まり込みだ。私がどこでなにをしていようが気に掛ける暇もないだろうさ」
「……そうですか。まあなんでもいいですけど、急患が来たら診て下さいよ。それが宿泊代ってことで手を打ちますから」
「……疲れているというのに、お前は悪魔か?」
「忍び込んだのは貴女でしょう? さて、僕は寝ます……よ?」
バタバタと騒がしい足音が聞こえて、トマスが首を傾げる。
「先生! おじいちゃん先生!」
ドンドンと勢いよくドアが叩かれる。ナルキーサスも何事かと脱ぎっぱなしにしていたブーツに足を入れて立ち上がり、慌ててドアに駆け寄るトマスの後についていく。
トマスがドアを開ければ、ルイスが泣きだしそうな顔で立っていた。
「ルイス、こんな夜中にどうしたんだい?」
「サ、サヴィが! サヴィがトイレで吐いててっ! 顔が真っ白なの! 先生、早く来て!」
トマスとナルキーサスは顔を見合わせる。ルイスは、早く、とトマスの皺だらけの骨ばった手を引く。
「トマス、私が行く。お前はソニアを呼んで来い。ルイス、案内してくれ」
ナルキーサスは指を振って自分の鞄を呼び寄せると、こっち、と走り出したルイスを追って駆け出す。
光の玉を手の上に出して、暗い階段を三階まで一気に駆け上がる。トイレはナルキーサスたちが上った階段とは正反対のもう一つの階段の奥にあるようだが、何やら戸惑う声と叫ぶような声が聞こえて来て目を瞬かせる。
トイレの前には、レニーが居て駆け付けたルイスに抱き着く。
トレイは男女で二手に分かれていて、ナルキーサスは躊躇いなく男子トイレに踏み込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ、いわ、いわないで……っ!」
「お、おい、どうしたんだ?」
個室の前にオロオロしている冒険者と思われる男が居て、個室の中から怯えきったサヴィラの声が聞こえて来る。
「貴様、何をしたんだ!?」
思わずナルキーサスが叫べば、こちらに気付いた男がぶんぶんと首を横に振った。
「ち、違う! 俺は声を掛けただけで……!」
「声を掛けただけで何故こんなに怯えているんだ!」
言いながらナルキーサスは男を退かして個室の入り口に膝をつく。
サヴィラはトイレの個室の中で必死に男から距離を取ろうとしていた。便器から吐しゃ物の臭いがして、間に合わなかったのか床や縁を汚し、サヴィラ自身の口の周りや胸の辺りも汚れてしまっている。ここから見る限り、夕食と思われるものが全く消化されていない。
サヴィラは、完全に怯えきってガタガタと震えて自分を庇うように両手を顔の前で交差させている。そして、何度も何度も「ごめんなさい」「言わないで」を繰り返している。
「サヴィラ、私だ、ナルキーサスだ、分かるか?」
「いやだ! くるなっ! やだっ!! さわるなぁっ!!」
叫ぶようにサヴィラが言ってますます奥へと逃げようとする。
明らかな異常事態だ。見た所、とんでもなく顔色が悪く、嘔吐したことからもかなり具合が悪いのだろうと予想できる。下手に魔力暴走でも起こされれば溜まったものでは無い。ナルキーサスは鞄から白衣を取り出して着込み、白手袋を嵌めて、注射器と鎮静作用もある睡眠薬を取り出す。それを注射器に移して、左手に構えて背に隠す。そして、聞こえぬように呪文を唱えれば、サヴィラの背後の壁から蔦が生える。それはそろそろと壁を伝ってナルキーサスの手元に伸びて来る。
「サヴィラ、何を怖がっているんだ? 大丈夫、私はお前に酷いことはしない、ああ、そうだ。なんだったらすぐに神父様を呼ぼう」
「……し、しんぷさ、ま?」
神父、という言葉にサヴィラが反応を見せた。
蔦はナルキーサスの手から注射器を受け取り、再びそろそろと戻っていく。
「ああ、神父様に来てもらおう」
虚ろだった紫紺の瞳がぐらりと揺れる。
「だ、だめっ、呼ばないで、だめ!」
予想外の反応にナルキーサスは目を瞠る。
「神父様に、こ、これ以上迷惑かけたら、嫌わ、嫌われちゃうっ!」
がたがたと震えが酷くなる。これは不味った、とナルキーサスは内心で舌打ちをする。
「神父様がサヴィラを嫌う訳がないだろう。私と彼は友人だから、よく分かる。あの男は、野郎共には厳しいが女子供にはどこまでも優しい男だ。サヴィラだって知っているだろう?」
「だめ、だめ、いわないで……っ、俺、ちゃんとする、ちゃんとするから、大丈夫だから、言わないで、お願い、いわないで……っ!」
サヴィラがこちらに手を伸ばすと同時にナルキーサスの操る蔦が彼の首筋に注射を打った。サヴィラはよほど錯乱しているのか、それにも気付かずナルキーサスの両腕を掴んで、泣き出しそうな顔でこちらを見上げる。
「いわないで、言わないで……っ、おれ、神父様に嫌われたら……っ、いくところがなくなっちゃう、もう、やだ、それはやだっ……神父様に嫌われたくない……いらないって言われたくないっ! お、俺ができそこない、だから……おれがおかしい、だけ、だ……から…………いわな、で」
サヴィラの体がナルキーサスの腕の中に倒れ込み、だんだんと言葉が勢いを失っていく。即効性の薬だから、すぐに効果が出るのだ。ナルキーサスは完全に意識を失ったサヴィラの口元を手袋を嵌めた手で拭ってやる。これだけ騒いで怯えていたのに、サヴィラは涙も零していなかった。吐いた時に出た生理的な涙の痕はあるのに、怯えている間、紫紺の瞳からは一滴たりとも涙は零れていなかった。
「何があったんだい?」
やけに明るいなと思いつつ顔を上げれば、まだ普段着のソニアとサンドロが心配そうにこちらを見ていた。ルイスはサンドロに抱き着いていて、レニーはソニアに抱っこされている。トイレが明るいのはどうやら冒険者の男が幾つか火の玉を出してくれたからのようだった。
「話は後だ。とりあえず、この子の着替えとお湯と清潔な布を用意してくれ」
「分かった。レニー、大丈夫だから手伝っておくれ」
ソニアが頷いてレニーをあやしながらトイレを出ていく。
「クリフ、階段脇の空き部屋に灯りを入れて、どっかからベッドを持ってきてくれ」
「分かった。俺の部屋のを持ってくるよ、片方は空いてるから」
クリフという名らしい冒険者の男は、サンドロの言葉に頷いてトイレを出ていき、とりあえず吐しゃ物まみれの服を脱がせたサヴィラをサンドロがそっと抱き上げて、ナルキーサスたちはトイレを後にしたのだった。
ベッドに寝かされたサヴィラは、額に冷たく冷やした布を乗せて荒い呼吸を繰り返している。
体を拭いている最中に気付いたのだが、サヴィラの有隣族であるが故に冷たい筈の体がやけに熱くなっていたのだ。胃腸炎か、と思ったがあの様子から見るに精神的なもののほうが可能性が高いだろう。
ナルキーサスは、ベッド脇に置いた点滴台の調子を見てから、一通りの診察と処置を終えて一息入れる。
空き部屋にはクリフが運び込んだベッドしかなく、皆、少し離れた所で邪魔にならないようにと立っている。
「それで、お前はこの子に何をしたんだ?」
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「だから違いますって……俺は、さっきまで山猫の方で飲んでて、んで、帰って来て自分の部屋に行こうと階段を上ってたらレニーが泣きながら、こっちに来てっていうから行っただけっす」
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レニーをあやすために体をゆらゆらと揺らしながらソニアが口を開く。
「サヴィラはね、マヒロと子ども以外に触られるのが駄目なんだよ。マヒロが居れば、あたしたちにも触らせてくれてたんだけどね、こっちに来てから全部だめになっちゃって、だから冒険者たちにもリズたちにもサヴィラには無暗に触らないようにって言ってあったんだ。クリフはアンナからちゃんと承認されてこの宿を利用している冒険者だから子供に変なことはしやしないよ、それはあたしが保証する」
「……そうか。疑って済まなったな」
「いえ。それより、俺、ひとっ走り行って神父さん、呼んできましょうか?」
「そうだね、そうしてくれるかい? このままじゃサヴィラが駄目になっちまう」
「いや、待て」
ソニアの言葉に頷き、部屋を出ようとしたクリフを引き留める。
「マヒロは、明後日……もう日付を跨いだから明日か……明日をまるまる休みにするために今は騎士団に詰めている。夜には、とりあえず仕事に蹴りを着けると言っていたから、今、呼ぶよりも夜に呼んだほうが良い。その方がゆっくりとサヴィラと過ごすことが出来るし、屋敷に連れ帰ったとしてもマヒロがずっと傍に居られる」
「確かに時間を作るとは言っていたけど、まさか休みになんて出来るのかい? とても忙しいんだろ?」
「三倍の速度で仕事をこなしているからな……私も無茶を言われたので頭に来て夕刻、文句を言いに執務室に押し掛けたんだがな、すごかったぞ。デスクの前に三人ずつ並ばせて、同時に報告させるんだ。手元で別の書類を捌きながら、それら全ての報告を聞いて、適切な指示を与えていく姿は、なかなかのものだった。イチロは、何でも無い顔をしてそのマヒロをフォローしていた。凄いぞ、あの二人、「おい」「はい、これ」「あれは?」「処理済み」と最低限の単語だけでやり取りしていてな。エディとリックと臨時の事務官三名は、正直、死にそうな顔をしていた」
神父二人の異常な処理速度に必死で食らいつく彼らが余りにも憐れだったので、回復薬を分けてやったほどだ。流石のナルキーサスも文句を言う気も殺げて、魔導院に戻って早急に報告書を仕上げて提出した。
「団長閣下もマヒロに笑顔で「俺が三日行方不明になるのと、丸一日だけ休むのどっちがいい?」と聞かれて、青くなって休みを許可したから、休みは確実に貰えるだろう。マヒロはそれを最初、事務局で聞いたものだから何人かそれだけはやめてくれと泣いて懇願し、一人は三日不在の恐怖に気絶してうちに運ばれて来た」
「……あいつは、魔王か何かか?」
「否定は出来んな」
ナルキーサスは、くくっと喉を鳴らして笑い、サヴィラを振り返る。
熱があるというのにサヴィラは、青白い顔で荒い呼吸を繰り返している。
「それにもう少し安定するまでは、この子を動揺させないほうが良い。トマスに言って薬を調整させて夜まで寝かせておこう。ステータスの数値が大分低くなっているからな、この子の魔力量は既にその辺の大人と同じだけある。魔力暴走を起こせば厄介だ」
ナルキーサスは枕元にあったカルテを手に取り、治療方針を書き込んでいく。
「……キース様」
目に一杯涙をためたルイスが目の前にやってくる。
ナルキーサスは、どうした?と優しく問いかける。
「サヴィ、死なない?」
その言葉にナルキーサスは、少し躊躇ってからカルテを置いて両手をのばしてルイスの頬を包み込む。手袋をしていないから、濡れた柔らかな頬の感触が手のひらに広がる。
「絶対に死なないとも。ただ、一日、ゆっくりと眠る必要がある。とっても良く効く薬も用意してあるから、安心するといい」
な?と微笑めば、こらえきれなかった涙がぽろぽろと落ちて、ナルキーサスの手を濡らした。
「無理しないでって言ったのに……サヴィ、ご飯も無理して食べてて……っ、ぼく、僕、心配で起きてたら……サヴィ、急に部屋を飛び出してトイレに、いったから……びっくりしてっ、サヴィも死んじゃうかとおもった……っ」
ナルキーサスは両手を離して、ルイスを抱きしめる。細く小さな体はナルキーサスの腕の中にすっぽりと納まった。顔を押しつけた肩でサヴィラを気遣ってか、押し殺した嗚咽が聞こえて来る。サラサラの茶色の髪を撫でて、ナルキーサスはその背を擦る。
ついこの間、彼らは顔見知りの孤児の小さな男の子を亡くしたばかりだ。六歳と八歳のレニーやルイスは他の子どもたちよりも永遠の別れを告げたノアの死を哀しく、そして、恐ろしいものだと記憶していたようだ。それにサヴィラ自身も死の痣に侵されて何日か寝込んでいたから尚更だろう。
ナルキーサスにとっては、救えなかった多くの命の一つだが、それでも遺されたミアの表情も声も言葉も、その泣き声も鮮明にナルキーサスの心に焼き付いている。ベッドの中、一度も目を覚まさなかった小さな兎の男の子の声すらナルキーサスは知らないというのに。
「大丈夫、サヴィラは死なない。約束する」
うん、と頷く声が耳元でした。一度、ぎゅうと抱き締めから体を離し、その頬を濡らす涙を拭ってやる。
「さあ、ルイス、おいで。二人とも今夜は特別にあたしたちの部屋においで、皆には内緒だよ」
そう言ってソニアが声を掛け、サンドロがひょいとルイスを抱き上げる。
サンドロに促されクリフも部屋を出て行く。
「あんた、レニーも先に連れて行っておくれ。エレナとルイーザに事情を話してくるから」
「おう。よし、レニーもおいで」
サンドロがルイスを片腕で抱え直し、もう片方の腕にレニーを抱えて部屋を出ていく。ソニアが、落とすんじゃないよ、とその背に声を掛けてこちらにやって来る。
「ナルキーサス様、息抜きに来たんだろう? なのに悪いね」
ナルキーサスが時折、マヒロの屋敷や本格的な運営を開始する前のここに来て勝手に泊っていたのを知っているからだろう。ソニアが申し訳なさそうに言った。
「治癒術師の務めだ。それより悪いが、横になれるソファかベッドを用意してもらえるか? トマスより顔見知りの私がいるほうが良いだろう」
「分かった。すぐに用意するよ、本当にありがとう」
そう言ってソニアは、頭を下げると急いで部屋を出て行った。
途端、静かになった部屋の中にサヴィラの荒い呼吸の音が響く。ナルキーサスは、額の上の手ぬぐいを氷の浮かぶ桶に浸して絞り、そっとその額に戻す。
「君を救ってくれる神父様が一刻も早く来られるように私も尽力しよう」
ナルキーサスは眉間に皺を寄せて安らかとは言い難い寝顔を浮かべるサヴィラに約束するのだった。
――――――――――
ここまで読んで下さってありがとうございました!
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、本当に光栄で、嬉しいですっ!!
サヴィラには幸せになって欲しいと思う今日この頃です。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです♪
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そんな主人公のゆったり成長期!!
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