称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編

第一部・最終話 明日を望む男

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 騒々しい屋敷も夜になれば、静かになる。
 サヴィラは、勢いよく水の流れる噴水の縁に腰掛けて、辺りを見回す。
 広い庭は、まだまだ殺風景で寂しい。ルーカスという名の庭師が、毎日、楽しそうに大勢の弟子たちとこの庭の手入れをしている。枯れた枝を切り落とし、伸び放題の枝葉を整えて、枯れた草や雑草を抜き取り、余分なものを間引く。今はまだ庭を作るための下準備なんだと教えてくれた。チビたちは、それでも楽しそうにルーカスに言われた草を抜いたり、弟子の兄さんたちに鋏を持たせてもらって一緒に枝を切ったり、休憩の合間に弟子の兄さんたちに遊んでもらったりして、この広い庭を飛び回っている。庭だけじゃない、屋敷の中を走りまわっては、プリシラやクレアに怒られて、けれど反省する素振りなんて一切ない。かくれんぼをしたり、探検をしたりチビたちは忙しない。貧民街に居た頃は、あんなに走り回ることなんてほぼなかった。常にお腹が減っていて、動くと余計に空腹が酷くなるからだ。
 でもここでは、三食ともたっぷりと食べられる上にどれもこれも頬の鱗が落ちそうになるほど美味しい。その上、十時と三時にはおやつまでもらえるのだ。十時のおやつは、クッキー一枚とか小さな一口サイズのカップケーキだけど、三時のおやつはふわふわのシフォンケーキや生クリームたっぷりのケーキや季節のフルーツを使ったパイやタルト、柔らかなプリンにぷるぷるのゼリーと夢みたいなおやつを貰える。
 ここはとてもあったかい場所だ。春の陽だまりみたいに優しくて、あったかくて、心地が良い。
 お行儀が悪かったり、食べもので遊んだりすると容赦なく怒られるけれど、それは怒鳴るのではなくて、怒るのでもなくて、叱るという言葉がぴったりで、そこに多分、愛ってものがある。チビたちが抱き着いたって嫌な顔をしない。抱き締めて、笑いかけてくれる人がいる。それはきっと、サヴィラやネネでは与えきれなくて、でも、チビたちが綺麗な服やふかふかのベッド、パンやスープよりも強く強く望んでいたものだ。それでいて普通の子どもが当たり前のように与えられているものだ。
 沈んだ思考を揺らすようにドスンドスンと重い足音が聞こえて、凶悪な顔に似合わないテディという愛らしい名前を貰ったキラーベアが目の前にちょこんと座った。ちょこんというよりは、どっすんかもしれない。

「テディ、まだ起きてたのか? というかお前は夜行性? 昼行性?」

 サヴィラの問いの意味などテディは分からないのだろう。代わりに器用に茎の部分を口で咥えていた林檎を前に突き出す。サヴィラが首を傾げているとまた、ぐいっと顔を前に出してくる。なんとなく手を出すとぽとんと手の上に林檎が落とされた。確か、ここのところ彼の餌は安売りしている林檎がメインだ。あとは雑草と残飯と背中の苔のお礼にと治癒術師たちがくれた色んな果物だった。

「……くれるのか?」

 テディはぐいっと身を乗り出すとサヴィラの膝の上に顎を乗せた。とは言っても、テディの頭は大人の男が腕を回しきれないほどに大きく、重い。だから程良い重さしか感じないそれにテディが加減してくれているのが伝わってきて、サヴィラは真っ黒な鼻先を擽るように撫でた。テディは、気持ちよさそうに目を細めると顔を戻す。けれど、どこへ行くでもなくサヴィラの目の前に座ったままだ。
 キラーベアなんて図鑑でしか見たことが無かった。それもずっと昔、まだこの町へ来る前の話だ。魔の森の湖より奥の深い所に生息しているとても狂暴な魔獣だと書かれていたけれど、テディはとても大人しい。正直、顔は怖いし背中の岩はごついし、牙や爪もかなりのものだがテディの円らな黒い目は優しい光を宿しているのだ。これまでサヴィラが見て来た汚い大人の方がもっとずっと怖い目をしていた。
 でも、ここの大人はこのキラーベアと同じように優しい目をしているように思う。
 特にあの神父様は、銀に蒼の混じる月夜色の瞳がとびきり優しい光を湛えている。
 市場通りであの糞婆を怒ってくれた時、一瞬だけ見えたその瞳は底冷えするほど冷たかったし、彼の声も言葉も雰囲気もまるで知らない人のようで酷く恐ろしく思えたのに、その背が自分に向けられて、その言葉が自分やミアの為に紡ぎ出されているのだと気付けば、びっくりするほど呆気無く、安心に変わった。

「……神父様って不思議な人だよな」

 サヴィラは赤く熟れた林檎を眺めながらぽつりと呟いた。
 魔石を交換してもらい、透明で澄んだ水をざばざばと零す噴水の音にかき消されそうな小さな呟きだ。

「頭も良いし、凄く強いし、魔法も上手だ。それに仕事もできるんだぞ、毎日、騎士とか冒険者とかギルド職員とかがひっきりなしに来て、神父様、神父様って引っ張りだこだもんな。それでさ、一番年下なのに、すごく大きく見えるんだよ。ああいうの威厳って言うのか知んないけど、ああ、この人には逆らえない、って相手が思うんだ。あのイチロのヴェルデウルフだって、別に従魔でも何でもないのに神父様の言うことは絶対に聞くんだ。……テディも、そうだろ? お前、従魔契約してないのに……何でここに居るんだ?」

 聞いたって返事が無いことは分かっていたが聞いてみたくなったのだ。
 テディは、ぐいっと首を伸ばして顔を上に向けた。つられるように空を見上げれば、二つの月と無数の星が浮かんでいる。
 神父様の目みたいだ、とサヴィラは呟いた。
 こんな風にゆっくりと空を見上げたのは、いつ以来だろうか。いや、これまでの人生で空を見上げたことがあっただろうか。天を仰ぐとか睨むとか羨むとかじゃなくて、ただ綺麗だな、とこんな風に空を見上げたことがあっただろうか。
 サヴィラは貰った林檎を噴水の縁に置いて立ち上がり、テディの隣に立った。
 夜空に瞬く星は、青白く光っているものが多いけれど中には薄紅い光を帯びていたり、柔らかな金色に輝いたり、眩い白に輝いているものもあった。両手を伸ばせば月にすら手が届くのではないかと錯覚して、サヴィラは天に向かって両手を伸ばした。勿論、届かないけれどそれでも何だか楽しくて、自分でも気づかぬ内に唇に小さな笑みが浮かぶ。
 不意にテディに鼻でつつかれて振り返れば、テディが体を低くした。どうやら上に乗れと言っているようだ。サヴィラはテディの背中に乗る。するとテディが後ろ足で立ち上がって、危うく落ちそうになり慌ててその首にしがみついた。テディがサヴィラを真似して太い両腕を空に伸ばす姿にサヴィラは、くすりと笑って立ち上がったテディの背中の岩を足場にして立ち上がり、再び星を掴もうと空を伸ばす。

「やっぱり、届かないな、テディ」

「ぐー」

 地響きみたいな声で返事が返って来た。それが拗ねているようにも聞こえてサヴィラは笑ってしまう。よしよしと慰めるようにその大きな頭を撫でた。ヴェルデウルフと違ってテディの毛はごわごわしている。
 テディは首を傾げて自分の両手を見ている。魔獣はサヴィラが思っているよりもずっと賢くて、面白い。
 前足を降ろして再び四つん這いになったテディの首に跨ってサヴィラは星空を見上げる。月の光が少し眩しくて、紫紺の瞳を細めた。

「サヴィ、まだ起きていたのか?」

 はっとして振り返れば、毛布に包まれたものを大事そうに抱えたマヒロがそこに立っていた。

「し、神父様こそ、夜中にどうしたんだよ……」

 気配も音もなく現れたマヒロに驚きながら質問を投げ返した。
 マヒロは、抱えていたそれに視線を落とした。もぞりと動いた毛布の塊にサヴィラは、ああ、と納得した。そこにいるのが誰かすぐに分かった。

「ミアが眠れないというから、外に出て来たんだ。夜風が気持ち良いし、月が綺麗だからな」

 ひょっこりと白い兎の耳が覗いて砂色の髪がさらりと夜風に揺れる。顔を出したミアの珊瑚色の瞳は、何だか酷く心細く不安そうで白い頬に涙の痕があった。

「……サヴィも、眠れないの?」

 か細い声が夜風に乗ってサヴィラの鼓膜を揺らす。
 サヴィラは、テディの頭を撫でて、その背から降りてミアの下に行く。背の高いマヒロに抱えられているので下から見上げる格好になった。サヴィラは手を伸ばしてミアの頬の涙を拭おうとして触れる寸前で手を止める。

「サヴィ?」

 ミアが小さな声で名前を呼ぶ。

「俺の手……冷たいんだよ、それでもいい?」

 有隣族は基本的に体温が低い。だから、夏でもサヴィラの手はひんやりとしている。夏場はこぞって人に張り付いてくるくせに冬になるといつもチビたちに「冷たい!」と理不尽に怒られるのだ。
 ミアの小さな手が伸びて来て中途半端に固まっていたサヴィラの手を引き寄せて自分の頬に当てた。泣いた後だからかサヴィラの冷たい手にミアの頬はやけに熱く感じた。

「サヴィの手、つめたくてきもちい」

 手の中でミアが、ふんわりと笑う。それにつられて、サヴィラも小さく笑った。
 サヴィラの知る限り、ミアはあそこでは珍しく無邪気な笑みを絶やさない子どもだった。いつも優しく笑うミアは、サヴィラには少しだけ眩しい存在だ。それは太陽みたいな強烈なものではなくて、例えるなら夜空に浮かぶ月みたいなものだった。

「サヴィは、なにしてたの?」

「……ミアと同じだよ。眠れなくて、なんとなく外に出たんだ」

 そう、とミアは言った。
 サヴィラは自分の意思で手を動かしてミアの頬を拭い、小さな頭を撫でた。
 ノアが空の向こうに行ってしまってから、まだ一週間と三日だ。ミアは、普段通りに振る舞ってはいるし、以前と同じように笑ってはいるけれど、時折、その愛らしい顔に落ちる陰に気付かないでいられるほどサヴィラは、鈍感ではなかった。
 でも、なんと声を掛けたら良いのかが分からなくて、気付かなかったふりをしていつもと同じように接することしかできないのだ。

「今夜は静かで気持ちがいいな」

 そう言ってマヒロは、先ほどサヴィラが座っていた噴水の縁に腰掛け、ミアを膝に座らせる。ミアはぴったりと背中をマヒロにくっつけて座る。なんとなくサヴィラもその隣に腰掛けて、置いたままだった林檎を手に取った。テディはサヴィラのすぐ近くに座って、噴水の中に手を入れて遊び始めた。ここには魚はいないが、テディは魚も採ったりするのだろうか。

「サヴィラは、よく図書室に行くそうだな」

 徐にマヒロが言った言葉にサヴィラは肩を揺らす。

「ご、ごめんなさい……っ」

 咄嗟に出た言葉がそれだった。
 だが、マヒロはこちらを振り返り、月夜色の瞳を優しく細めるとくしゃくしゃとサヴィラの髪を撫でた。

「怒ってなどいない。危ないことさえしなければ、好きに過ごして良いんだ。ただジョンとミアには言ってあったが、お前には梯子を使う時は気を付けるようにと言ってなかったと思ってな。他のチビたちには危ないから入らせないようにとプリシラたちに言ってある。あの梯子は古いから危ないんだ」

 穏やかに紡がれる言葉と低く柔らかいその声がサヴィラの胸の内に瞬く間に巣食った不安をあっという間に解いていく。
 やっぱり、この神父様は不思議だ。

「梯子より……神父様は、少し床の上の本を片付けた方が良いよ。あっちの方が危ない」

 試すように生意気なことを言ったのにマヒロはバツが悪そうに明後日のほうに顔を向けた。

「……あれは、俺なりに整理して、片付けている最中なんだ。ただ、ちょっと忙しいし、量が多いから終わらんだけで」

 いつも自信に満ちている彼らしくない言い訳交じりの歯切れの悪い言葉にサヴィラは、ぷっと吹き出した。

「ふふっ、イチロが言ってた、あれが片付くのを待ってたらサヴィラくんがお爺さんになっちゃうよって」

「……あいつはお国柄、皮肉だけは一丁前なんだ」

 マヒロがむっとしたように言った。
 するとミアがふふっと笑う。

「パパはね、お片付けができないの……お洋服もいつも脱ぎっぱなしだし、上手にたためないから、ミアがたたんであげてるの」

 ミアが言った。ちらりと片付けが出来ないパパを見れば、そのパパは何故か誇らしげだ。

「ミアは本当に良い子でな。いつもパパの服を上手に片付けてくれるから、助かる。おかげで一路に怒られないしな」

 反省が全く見られない言葉にこの人はきっと一生、片付けが出来無いままなのだろうと思った。
 一緒に暮らしていると分かることがたくさんある。この美しい神父様は一見、どこまでも完璧なように見えるが実際はその真逆でずぼらで適当でかなり大雑把だということだ。家事の類が一切出来ない。いっそ壊滅的と言っても良い。それに神父の癖に酒と煙草が大好きで、毎日、かなりの量を消費している。煙草は子供の前では吸わない人なので詳しくは分からないが、イチロやリックによく怒られている。但し、反省はしていない。
 それに無表情で何を考えているのかさっぱりと分からないが、子どもと接する時の彼はいつも優しい顔をしているし、分かりやすく笑う。特にミアといるときはとびきり優しい笑みをそこに浮かべていて、あまりの綺麗さにびっくりする時がある。

「サヴィラは、読み書きが得意だそうだな。結構、難しい本まで読んでいるそうじゃないか、プリシラが感心していたぞ」

「……うん」

「ところで魔術学に興味はあるか?」

 どうしてか聞かれるかと思ったのにマヒロは、月夜色の瞳をきらきらと輝かせてこっちを見ていた。そのことに拍子抜けしてサヴィラは、うん、と思わず返事をしてしまった。

「どの辺に?」

「……自分の属性以外の魔法も使えるようになるところ、とか。術式と紋様の組み合わせによっては未知の可能性があるところ。魔術言語は難しいし、ここ数年はそんなものから遠ざかってたからあれだけど……いつかまた勉強が出来たらと思う。俺、勉強自体は嫌いじゃなかったから。自分の知識が増えていくのは面白かったよ、俺の知らない世界がいつだってそこにあったから」

「すればいいじゃないか」

 マヒロは何でもないことのように言った。
 サヴィラは、ぱちりと目を瞬かせて顔を上げる。マヒロは、ふむ、と顎を撫でながら何かを考えているようだ。

「サヴィの学力レベルなら、手習所よりも学校だな、入るには二年程遅いが、その辺はどうなんだ?」

「え、し、知らないけど……」

「まあ駄目なら駄目で俺と一路で家庭教師という手もある。勉強というのはな、して損することは絶対にない。知識を得るということは、将来の選択肢が増えるということだ。こうなると明日、クロードに会う約束があるからその辺も聞いて、あれば資料を貰ってこよう」

「神父様、俺、金とかないよ」

「金は俺が出すんだから心配ないに決まっているだろう」

 胸が詰まるって、こういうことかも知れないと思った。

「学校に行けば、お前が将来、なりたいものになれる可能性が大きくなるぞ」

 ねえ、神父様、それは俺が将来の夢を持っていいってことなの。

「だから、好きなだけ図書室で本を読むといい。おすすめがあったら教えて欲しいくらいだ」

 ねえ、神父様、それはここにいていいってことなの。

「明日、誰かに頼んで勉強道具を買ってきてもらおう。無論、ミアのもな」

 ねえ、神父様、俺はもうあそこには戻らなくてもいいの。

「……さて、そろそろ眠るか。ミアも船を漕ぎ始めたし、明日も仕事が山積みだ。サヴィも部屋に戻ろう」

 片腕でミアを抱えて立ち上がり、ほら、ともう片方の手を当たり前のように差し出してくれたマヒロの手をサヴィラは、そっと握りしめて立ち上がる。

「ねえ、神父様」

 顔を上げてその造りものみたいに美しい顔を見つめる。

「神父である貴方は、孤児院を開けないんでしょ。新しい法がそれを定めて、それを破れば神父様はどうなるか分からないんでしょ。俺、神父様がイチロと話しているの聞いたんだよ。ここへ来る大人がそう話しているのも聞いたんだよ」

 そう聞けたら、きっと、この胸の不安はなくなるのに。
 喉元までせり上がるようにして溢れそうになった言葉は、どうしてかそれ以上は出て来てはくれなくて、聞きたいことが沢山あるのに、肯定して欲しい想いがあるのに声すら出ない。
 怖いのだ。
 サヴィラは、優しいこの人に「だから、そのうち出て行ってくれ」と言われるのが、このあったかい場所に慣れてしまったから、薄暗くて寂しいあそこへ帰るのが怖くて仕方が無いのだ。
 急かすこともなく、じっとサヴィラの言葉を待ってくれている彼の手は、とても温かい。
 ぱくぱくと酸欠の魚みたいに唇が震えるのに、どうやっても言葉が出て来なくて、サヴィラは逃げるように顔を俯けた。その手を離そうとしたのに、逆に強く握りしめられる。

「……仕方がないな、サヴィは。お前は変に意地っ張りで、恥ずかしがり屋だからな……一緒に寝たいなら寝たいと言えばいいだろう」

 顔を上げれば、びっくりするほど美しくて優しい微笑がそこにある。
 もしかしたら、いや、絶対にこの人は、サヴィラがもっと別のことを口にしようとしていたと気付いていたのだろうけれど、サヴィラが知る中で一番、優しい神父様は、サヴィラの弱さをそうやって包み込んでしまう。

「但し、ミアの隣は駄目だ。俺の隣だ、いいな?」

「……親馬鹿」

「ありがとう、最高の褒め言葉だ。ほら、行くぞ。夜風に当たりすぎると体に良くない。テディ、庭に不審者が入っても食べるなよ、腹を壊すからな」

 ぐいっと手を引かれて歩き出す。テディが、ぐーと鳴いて、のしのしとどこかに戻っていく。多分、いつもの木の下に帰るのだ。
 その晩、サヴィラは生まれて初めて大人の腕の中で眠った。隣にぬくもりがあることは不思議で仕方なかったけれど、抱き寄せてくれる腕が一本あるだけで、こんなにも安心して眠れるなんて知らなかった。
 けれど、その安心が強くなればなるほど、比例するようにサヴィラの中で迷いと不安だけが、じわじわと色を濃くしていくのだった。









 日々はめまぐるしく過ぎていく。
 騒々しく雨ばかり降っていた水の月が終われば、日本でいうところの七月の気候にあたる一年で五番目の火の月になる。とはいえ、日本とは違って湿度はさほど高くは無く、暑いが過ごしやすい。
 
「なら、この件はこれで関係各所と連携して話を進めるわ」

 書類に目を通したアンナが、軽やかに笑って頷き、隣に居たキャサリンにそれを手渡した。キャサリンが銀縁眼鏡をくいっと押し上げて書類に目を通す。
 ごついオカマのギルドマスターの部屋は、目に痛いほどのピンクや赤、白という苺のムースケーキみたいな色で構成され、添えられた生クリームがわりのレースやフリル、リボンで彩られた乙女趣味全開の部屋だった。センスが悪いわけでは無いが、組み合わせが悪い。
 ここに住んでいるのが例えば、ティナとかミアとかだったら分かるが、ここの住人は今日もその筋骨隆々の逞しい体を繊細なレースとフリルで彩られたどぎついピンクのドレスを着ていて、オフショルダーのドレスは分厚い胸板を覗かせている。ツインテールの彼の金髪頭には赤いリボンが飾られているし、その顔も分厚い化粧で覆われている。それにどこからともなくクッキーが焼けるような甘ったるい匂いまでして、正直、視界と匂いの暴力で気分が悪くなってくる。猛烈に煙草が吸いたい。というか、早く出たい。ミアとジョンを抱き締めたい。
 一方のキャサリンは、今日もグレーのスーツのような服をびしっと着こなして、いかにもキャリアウーマンという雰囲気を漂わせている。実は二人ともハーフエルフで見た目は若いがかなり年上らしいのだが、キャサリンは兎も角、隣の化け物は年齢不詳どころか人間かどうかも怪しいレベルだと真尋は思っている。一路に至ってはこの部屋の前まで来て、ドアが開いた瞬間「あ、ティナちゃんに頼まれていたことがあったんだ!」とほざいて逃げ出した。今頃絶対に下でティナとイチャイチャしているに違いない。薄情な親友である。

「神父様もレイちゃんの一言があったとは言え、よく一週間でこれだけのものが用意できたわね」

 アンナがキャサリンの手元にある書類を見ながら言った。

「俺一人でどうこうしたわけでは無い。一路やリックにエディには走り回ってもらったし、とくにクロードにはかなり知恵を貸してもらった。それに期限はすぐに迫っていたからな。でも、アンナが早く動いてくれたし、冒険者たちも理解が早くて助かった」

「あたしは、仕事は出来る男なのよ、ね、キャシー」

「ええ、アンは最高に仕事の出来る素敵な男よ」

 そこは男という認識なのか、と真尋は妙なところに感心する。オカマだと真尋は思っているが、そういえばキャサリンはアンナの嫁だということを今更、認識する。もしやオカマでなく、ただの化け物なのだろうか。

「あの事件からもう二週間と少し、か。何だか眩暈がしそうなほど忙しかったわぁ。でも神父さんは、あたしたちの倍は忙しかったんでしょう? うちの職員が「捕まらない!」ってしょっちゅう泣いてるもの。今じゃブランレトゥ一忙しいのは、ナルキーサスじゃなくて神父様だって言われてるのよ」

「……不名誉だ。騎士団が俺をこき使い過ぎなんだ。俺は一般平民だというのに」

「神父さんが一般平民なんて誰も信じやしないわよ。王家の落胤とか言われるほうが、いっそ真実味があるわ」

 アンナがけたけたと笑って、マニキュアの塗られた太い指でクッキーを摘まみ上げた。

「リヨンズ、かなり上手に手なづけているそうじゃない。今じゃ貴方のこと「神父様」って呼ぶんですって?」

 紅い唇が愉しそうに弧を描く。真尋は足を組み直して、肩を竦めた。

「……気色悪いことこの上ないがな。俺の靴を舐めるくらいには、従順になった。まあ俺が望んだようにべらべらと喋ってくれる。とはいえ、あれも所詮は捨て駒。本当に重要なことは教えられていないみたいでな。そろそろ片付けてしまおうと思っている。あれが片付けば、俺も随分と身軽になって休みが取れる」

 キャサリンがくすくすと笑って、エメラルド色の瞳を猫のように細める。

「随分と物騒な神父様ね。どうやって片付ける気なの? 神父様が出したブラックスネイクの捕獲クエストには関係があって?」

 食えない女だ、と真尋は微かに口端を持ち上げる。
 だが、嫌いでは無い。寧ろ、媚びを売って擦り寄ってくるものに比べれば好ましい部類と言える。

「……あれは、俺の娘に耐えがたい悲しみと苦しみを与えて、我が友を侮辱し、命を軽んじた。とはいえ本元には逃げられてしまったから、俺の大人げない八つ当たりを受けている憐れな男だ。……だからそのまま最期まで苦しんでのたうち回らせて、そして壊してしまおうと思ってな」

「本当に物騒な神父さんね」

 アンナが呆れたように言った。

「俺が聖人君子に見えるようなら、治癒術師に診てもらうんだな」

 真尋は腕時計に視線を落としながら言った。そろそろ次に行かねばならない時間だ。

「それでは、アンナ、キャサリン、俺はこれで……」

「神父さん、話は変わるけど貴方の冒険者ランク、まだEだから早くクエストを受けて下さいね。今回は事件のことがあったので、特別猶予期間として、クエスト遂行義務期間を二か月延長しましたのでその間に一つでも良いので該当ランクのクエストを何か受けて下さい。無論、見習いくんも」

 キャサリンが書類をとんとんとテーブルの上で整えながら事務的な口調で言った。
 真尋は上げかけていた腰を下ろすことはなく、ああ、と返事をする。

「どうせだから雑務系のクエストを受けようと思っている。町の人々とも交流したいし、元々はそれが目的で冒険者ギルドへ登録したんでな」

 真尋は鞄から取り出した白手袋を嵌めて、ソファの背もたれに掛けていた神父服の上着に袖を通す。夏の盛りが近づく今、この格好は見ているだけで暑いと言われるがティーンクトゥス製の神父服は着ているほうが快適なのである。

「あらそうなの?」

「俺は強さを追い求めに来たわけでも一攫千金を狙っていたわけでもない。そもそも一路にいたっては荒事は好まんし、あれは未だに魔獣の解体が出来ん。グリースマウスすら解剖するだけで泣いて逃げるから、多分、冒険者には向いてない」

「Bのウォルフちゃんを蹴り飛ばしていた人と同一人物だとは思えない言葉ね」

 アンナがくすくすと笑った。
 そのウォルフちゃんは、この間、仲間と一緒に一路を自分たちのパーティーに誘いに来た。狼系の獣人族で構成されたパーティーだ。彼らは一路の強さが目当てではなかった。困難な討伐を終えた後、一路に頭を撫でて褒めて欲しいという欲望に塗れた理由だった。何が怖いってそれが彼らのパーティー内で満場一致の意見だったことだ。一路は「僕、忙しいからねぇ」と断ったが、彼が屋敷か教会に来れば、幾らでも褒めてあげると約束したら意気揚々と帰って行った。我が友は「僕って本当、犬に好かれやすよね」と暢気に笑っていたが。

「あ、そうそう、レイちゃんに宜しくね、神父様のところに住みついちゃったんでしょ?」

 小指をピンと立てて花柄のティーカップでミルクティーを飲むアンナが言った。
 真尋は出された紅茶は一口でギブアップした。一路なら嬉々として飲めただろうが甘いものが苦手な真尋には耐えがたい甘いミルクティーだったのだ。

「夕食は必ずサンドロの飯だし、ソニアがしょっちゅう来るし、大好きなジョシュアが居るからな、勝手に部屋を使って勝手に住んでる。まあ、今は屋敷に居ると各所からの連絡や報告が来るから、あいつも俺も周りも便利だから構わんがな」

 ジョシュア親子は、ジョシュアの「冒険者の宿は武骨な男共が居てプリシラが心配だから長期滞在はやだ」という理由で屋敷に住んでいる。その気持ちはよく分かる。それにプリシラが子どもたちの面倒を見てくれているので、本当に助かっている。
 では、と真尋は逃げるように愛らしい花柄のカバーが掛けられたドアノブに手を掛け、そそくさと部屋を後にしたのだった。
 廊下に出た瞬間、真尋は煙草に火を点けて、苦い煙の味を噛み締めて、その匂いに一息入れる。まだこの後、騎士団に行って仕事があるのだ。

「……次から別の部屋を用意してもらおう」

 そうぼやいて真尋は、紫煙を吐き出す。
 一介の神父、ともすればただの平民だというのに仕事が多すぎる。真尋には色々したいことがあるのだ。ミアとゆっくり過ごすとか魔術学の研究とかミアとピクニックに行くとか、教会の掃除とか、ミアと買い物に行くとか、あとは、サヴィラと話しをする、とか。
 一週間ほど前の夜、庭に出るとサヴィラがテディと一緒にいた。そんなに多くの言葉を交わした訳ではないが、なんだか様子がおかしくて、心配だったので少々強引に一緒に眠った。翌日は元気そうだったが、あの日以来、避けられているのか二人で会話をする機会が無い。今までの生い立ち故にサヴィラは一人で抱え込んでしまう癖があるから心配だ。それとなくネネやプリシラ、ジョンに探りを入れて貰っているが、なんとなく元気が無いだけで理由を教えてはくれないそうだ。

「あの晩、きちんと聞いてやれば良かった」

 そう零しながら階段では無く、吹き抜けになっている梁のほうへ出て一気に下へと飛び降りる。真尋に気付いた冒険者たちが声を掛けてくれるのに、挨拶を返し、受付カウンターの傍でティナと談笑している一路の下へ向かう。
 受付の傍の特別に作られたスペースにはロビンとブランカがいる。毎日、ブランカはティナと一緒に出勤して彼女を見守っているのだ。ロビンは一路か両親のどちらかにその日の気分でくっついている。今では冒険者たちの間でブランカを撫でてからクエストに行くと無事に帰って来られるという謎のジンクスが生まれつつある。だが、クエストが無事に成功した場合、ウルフ系の魔獣以外の肉をお礼にとくれるので一路はにこにこ笑うだけだ。

「この裏切者」

「だってさぁ、僕、どうしても生理的に無理なんだもん。ほら、こっちのお酒は返してあげるから、ね?」

 いつぞや一路が没収していった赤ワインを取り出して言った。真尋はそれを渋々受け取りながら、どうせなら一番高いのを返せと文句をつける。だが一路は「一番高いのは度数も高いからだめ」と軽く笑って返してくれない。

「それで話はどうだったの?」

「滞りなく進んでいる」

「そ、良かった。じゃあね、ティナちゃん。夕方、また迎えに来るから」

 一路はウィンクをするとティナに手を振り、受付から離れる。
 一路は事件解決後もティナを愛馬で毎日送り迎えしている。

「あ、あのイチロさん、もう事件も解決しましたし、屋敷はすぐそこですよ? それにブランカさんも居ますから……イチロさん、忙しいのに無理して来なくても」

 ティナが気遣うように一路を見上げて言った。
 すると一路はカウンター越しにティナの両手を握りしめて、縋るような目を向ける。

「目と鼻の先っていう油断が一番危ないんだよ?」

 いや、ヴェルデウルフに守られている人間を襲うやつはいねぇよ、とギルド内の誰もが思った。

「ティナちゃんはとびきり可愛い子だから、それに僕、ティナちゃんに傷が一つでもついたらなんて想像しただけで胸が痛くて痛くて張り裂けそうだもの。いつも言っているけれど、これはティナちゃんのためというより、我が儘な僕のためなの、だから、遠慮しないで? 僕の我が儘聞いてくれる? ね? お願い」

 ちゅっと握りしめていたティナの手にキスをする。
 ティナの顔は真っ赤だ。隣の受付でクイリーンが遠い目をしている。

「それに家までの短い時間でも僕は、君と二人きりで過ごせる貴重な時間だって思っているんだけど、僕だけ?」

「そ、そ、そんな、ことは……わ、わたしもです、イチロさん」

 羞恥に俯きながらティナが蚊の鳴くような声で告げた。

「なら今日は、ちょっと遠回りして帰ろ」
 
 一路は輝くような笑みを浮かべて身を乗り出し、ティナのつむじにキスを落とす。
 こいつ、やりたい放題だな、と思ったが振り返ってみれば自分と雪乃のイチャイチャを十三年間、傍で見て来たのが一路である。ストレートな物言いは間違いなく真尋の影響を受けているし、そもそも彼は皮肉も言うがストレートに感情を表現するお国の出身だ。その上、一路は弟体質で甘えるのが上手だ。これはティナに頑張ってもらうしかないが、そのティナが赤くなって困ってはいるが幸せそうなので、まあいいかと真尋は納得する。面倒になったとも言うが。

「……敬虔な神父さんがギルド内の風紀を著しく乱すのですが、人の心にモヤモヤを抱かせ、いっそ砂吐きそうなんですが」

 クイリーンが片手で口元を抑えながら言った。

「…………あいつはまだ、見習い、だ」

 なんとなくそうとしか返せない真尋であった。







「おかえりなさい、パパ!」

「おかえり、お兄ちゃん!」

 駆け寄って来たミアを抱き上げて、抱き着いて来たジョンの頭を撫でる。愛娘の頬にただいまのキスをすれば、おかえりのキスをしてくれる。ジョンも無邪気な笑顔でじゃれついてくるので、それだけで冒険者ギルドの乙女部屋でギリギリと削られた精神とむさくるしい元騎士共の相手をして疲れた心が癒えていく。
 最初の取り調べから一週間以上が経った今も、取り調べは続いている。元騎士たちは、騎士籍を剥奪され、貴族階級の騎士の中には実家から勘当された者までいる。そんな彼らに救いの手を差し伸べたのが、他ならないウィルフレッドだった。ウィルフレッドは、まだやり直せると判断した者に五級騎士からのやり直しと領都から遠く離れた地でこのアルゲンテウス領を護る師団への異動の道を提示し、多くの元騎士たちがそれに涙を零して、感謝した。もう二度と裏切らないと血を用いた契約まで交わし、彼らは再起を決意した。この契約は破るとその場で死ぬらしい。
 まあそれ以外にアーロンのようにどうにもならない馬鹿がいるが、そこはウィルフレッドたちが決めることであって、真尋には関係ない。真尋はリヨンズ以外の元騎士には興味が無い。
 ミアを右腕に抱っこし、左手をジョンと繋いで寝室へと向かう。三階の一番広い客間が真尋の部屋だ。二階の主寝室は一路が使っている。この一番広い客間は隣に書斎があり、その隣には図書室があるという優れた位置にあるのだ。書斎は、魔術学の研究室にするつもりだ。ミアは今のところ真尋から離れないので、ミアが欲しいと言ったら彼女の部屋を用意するつもりだ。
 寝室で神父服から、この間、プリシラが見繕ってきくれたラフな綿のシャツと黒のトラウザーズに着替えて、再びミアを抱っこし、ジョンと手を繋いで二階の食堂へと向かう。
 食堂は二階の奥、丁度、厨房の真上にあり、厨房から料理を専用の昇降機で運べるようになっているのだ。昇降機も風の魔石を取り換えたら問題なく動くようになった。
 食堂に入れば賑やかな声が迎えてくれる。
 食堂は、三十人以上が座れるのではないかという無駄に大きく長いテーブルが置かれている。多分、大きすぎて売れなかったのだろう。真正面の上座に真尋の席が用意されている。

「おかえり、真尋くん、お疲れ様」

 子供たちを席に着かせながら一路が顔を上げれば「おかえりなさい!」と子供たちの元気な声が響く。真尋は、ただいま、と返して自分の席に向かう。
 今夜はサンドロ一家の姿もあって、ますます賑やかだ。
 真尋は席について、膝にミアを座らせる。ジョンは真尋の隣だ。斜め左手前には、ジョシュア一家、反対側には一路たちの席が有る。リックとエディはそれぞれの列の末席に座る。最初は一緒に食事なんて、と遠慮した二人だがプリシラが「仕事なら仕方がないけどそれ以外で時間差の食事は片付けも準備も面倒くさいのよ?」と一刀両断し、一緒に食事をしている。
 それ以外は基本的に自由に皆座っているが、大人たちの間に子供たちの席が用意されていて、食事の面倒が見られるように気配りがされている。子どもたちは現在、フォークとスプーンの練習の真っ最中だ。基本的にサヴィラの稼ぎでは人数分のパンを買うのがやっとで、いつもパンと運が良ければスープだったためにスプーンやフォークを使うという発想が彼らには無かった。それはミアも一緒で真尋が毎日、手取り足取り教えている。上手にスープが飲めるようになったミアは、嬉しそうで可愛い。

「今夜は総勢二十七名か、賑やかだな」

「本当にねぇ」

 一路がくすくすと笑う。
 真尋とミアと一路とティナの他に居候のレイとジョシュア一家とサンドロ一家、サヴィラ一家とルーカスとクレアにリックとエドワードだ。大きな長テーブルが大活躍である。
 皆が席に着いたのを見計らい、真尋は両手を合わせる。すると皆、真尋と同じように両手を合わせた。

「命の糧に感謝して、いただきます」

「いただきます!!」

 その挨拶を合図に賑やかな夕食が始まる。
 ティーンクトゥス教会の食前のお祈りは「いただきます」にした。無論、「ごちそうさま」もセットになっている。短いし、誰にでも出来るし、命をもらうことに対する感謝と作ってくれた人に対する感謝も含められた素晴らしい挨拶だと思うので一路も賛成してくれた。
 今日の夕ご飯も美味しそうだ。メインは、彩野菜の添えられたデミグラスソースのハンバーグだ。ナイフで切り分けると中からトロトロのチーズが出て来る。それに焼き立てのバケットにコーンスープ、夏野菜のピクルスという献立だった。子どもたちは皆、サンドロが市場通りで見つけて来たプレートにまとめられていて、ナイフで切り分ける必要のないミートボールサイズのハンバーグが年齢や食欲に合わせて乗っている。スープもスプーンの練習に飽きたら、そのまま飲めるようにマグカップにいれられている。子どもたちは、美味しそうにハンバーグを食べてスープを飲んでいる。特に小さいチビ達は、口の周りが凄いことになっていて、周りがせっせと世話を焼いている。
 ミアやノアと共にサヴィラとその家族を保護して早三週間以上が経つ。痩せ細っていた子供たちは、だんだんと肉付きが良くなり始めて、ばさばさだった髪も子供特有の柔らかな艶が出始めている。何より、毎日、庭を駆けまわったり、テディやロボと戯れたり、屋敷の中で遊んでいる彼らの表情は随分と明るくなって実に可愛らしく、微笑ましい。
 真尋は、ミアの話に耳を傾けながらワイングラスを傾ける。真尋がいつも飲むので用意してくれているのだ。今日は、庭でテディとジョン達とお昼寝をしたのが楽しかったらしい。ジョンも時々、話題に入って来てミアがああしていた、こうしていたと教えてくれる。最後には、今日は僕も一緒に寝たいと言われ、ミアが頷いてしまったので三人で眠ることになった。何はどうあれジョンは可愛いので仕方がない。

「へへっ、今日の食後のデザートは、イチロが水の魔石を交換してくれて直った冷凍庫で作ったアイスだぞ!」

 食後にサンドロが立ち上がってどこかに行ったかと思えば、そんな言葉と共に戻って来て、食堂の片隅にある昇降機からカートに乗せたそれを運んで来る。
 子どもたちが歓声を上げて、サンドロとソニアとティナとローサが手際よく配っていく。

「チビ共は、ミルクアイス。大人はさっぱりとオレンジのシャーベットにした。このミルクもな、ちょっと奮発し」

「いたらきまーす!」

「いらーきます!」

 とりあえずそう言えばいいと思っているチビ達が待ちきれずにアイスにスプーンを入れて食べ始めてしまう。ハンバーグをおかわりしてたくさん食べていたのにそれは別腹のようだ。サンドロはやれやれと肩を竦めて説明を諦め席に戻る。
 甘党の一路は二種類とも貰えたようで、彼が幸せそうにアイスを頬張っているのを横目に真尋もオレンジシャーベットを口に運ぶ。オレンジそのもののような甘酸っぱさと皮の苦さが大人の味だ。真尋でも食べられる。

「お兄ちゃん、一口!」

「大人の味だぞ」

 そう言ってジョンの口にシャーベットを運べば、ジョンは「すっぱい!」と口を手で押さえてミルクアイスを慌てて頬張った。それに笑って真尋もまた一口食べる。ふと視線を感じて顔を向ければ、ミアがじっと真尋を見つめている。

「ミアも食べるか? 代わりにパパにも一口くれ」

 ミアは、ぱぁと顔を輝かせると「あーん」と口を開けた。可愛さに胸がキュンキュンする。真尋は、騒ぐ胸を抑えてミアにもシャーベットを上げるとやっぱり大人の味だったのか、ジョンと同じようにミルクアイスを慌てて口に入れた。

「……すっぱいし、ちょっとにがいの」

 白い兎の耳をぺたんとさせてミアが言った。

「大人の味だからな」

 よしよしと小さな頭を撫でるとミアが、ミルクアイスをスプーンで掬って振り返る。

「パパもあーん」

 ああ可愛い。本当に可愛い。絶対に嫁にはやらん。ジョン、欲しければ婿に来い、と念じながら真尋もミルクアイスを食べる。濃厚な甘さが舌の上に広がって、ミルクの香りがふわり鼻に抜けていく。美味しいが真尋には甘すぎる。

「……甘いな」

「パパは甘いの好きじゃない?」

「そうだな、パパはどちらかというと、こっちの苦い方が好きだな。ミアがあーんしてくれたら、もっと美味しくなる気がする」

「じゃあ、パパもミアにあーんして?」

 こてんと小首を傾げての上目遣いとはにかむその笑顔が可愛いと性懲りもなく思いながら、二人でアイスを食べさせ合う。最近、娘が可愛くて生きるのが楽しくて仕方がない。

「ミア、明日はな、パパ、朝ごはんを食べたらちょっとだけお仕事行ってくる。でも代わりに午後はお休みにしたから、一緒にいよう」

 アイスを食べ終わったあと告げた言葉に一瞬、しょぼくれたミアだが続いた言葉にぱぁっと輝く笑みを浮かべて頷いた。
 間が悪く皿を引きに来たリックとエドワードは、明日のちょっとした・・・・・・お仕事が、本日、真尋へ隠し事をしようとしたリヨンズの奥歯を抜くことだと分かっているので、遠い目をしていたが、そんなことは知らないミアは約束ね、と無邪気に笑っていた。






 夕食を終えれば、子どもたちを風呂に入れて寝るだけだ。屋敷の二階には大きなバスルームがあり、一路の部屋にも専用の広いバスルームがる。三階には各客間にシャワールームがあって真尋の部屋にはほどほどの広さのバスルームがあるのだ。
 アイスの器が引かれ、そろそろ皆が席を立とうとしたころでサヴィラがこちらにやって来た。隣には何だか浮かない顔をしたネネが居る。今朝までネネは元気だったのにどうかしたのだろうか。

「あのな、神父様、話があるんだ」

 やけに強張った声が口火を切る。

「何だ?」

 風呂が沸くまでジョシュアと酒を飲もうとしていた真尋はワイングラスを片手に首を傾げる。サヴィラはやけに真剣な顔をしている。こんなふうに面と向かって話すのは、庭で会った夜以来、一週間ぶりだ。
 真尋がワイングラスを唇につけて傾けたところでサヴィラが口を開いた。

「そろそろ……家に戻ろうと思うんだ」

 予想外の言葉に真尋は目を瞬かせる。
 ワイングラスをテーブルの上に置いた。周りの大人たちも手を止めて、驚きを露わにしている。エドワードに至っては「何言ってんだ、こいつ?」みたいな顔をしている。

「服とか、食事とかすごく世話になって、本当に有難いと思ってる。チビたちも見たことがないくらいに元気だし、楽しそうだ。だけど、いつまでもここに居る訳にはいかないだろ? ずっと迷惑なんてかけらんないし、お金だって掛かるだろ? だから、明日にでも俺達は家に戻るよ」

 ネネが何か言いたげにサヴィラを見つめるが、サヴィラはその視線に気づいているだろうに振り返ろうとはしない。
 事前にネネに言うようになっただけ、成長したと言えばいいのだろうかと思いながら真尋はサヴィラの目をじっと見つめる。

「……お前の目には、俺が迷惑そうに見えたか?」

 真尋は、殊更、穏やかな声で問いかける。
 サヴィラは服の裾を握りしめて顔を俯けた。ネネの顔は今にも泣き出しそうで、ネネのスカートに張り付いているおチビさんたちも泣きそうな顔をしている。

「そんなことない、けど……でも、」

 具合が悪くて嘔吐してしまったことを必死に詫びて、自分で片付けるから怒らないでと怯えていた少年を思い出す。庭であった晩も、真尋は図書室の梯子について話そうと思って切り出したのに、サヴィラの口から出て来たのは「ごめんなさい」という謝罪あの言葉だった。彼の言葉の端々に滲むのは、怯えや恐怖といったものだ。サヴィラは確かに大人が嫌いなのだろうけれど、その根底にあるのは大人への恐怖なのだと真尋はその時に気が付いたのだ。昔、そんな顔をしていた男を真尋はよく知っていた。この国へ、いや、この世界に来る前の話だけれど。
 サヴィラは、出会った当初に比べれば随分と丸くなって、穏やかな顔をするようになったけれど、ネネや他の子どもたちと違って、いつもどこかで何かに怯えているような表情を本人も無意識の内に浮かべる時がある。それは本当にふとした瞬間のことで、楽しい食事の最中や庭でチビ達と遊んでいる最中のほんの一瞬だけ、そんな顔をする。夜の庭で会った時もそうだった。
 真尋は、ミアの頭を撫でて、娘をジョンの膝に預けると椅子から立ち上がってサヴィラの前に膝をついた。下から覗き込んだ顔は、やっぱりあの夜と同じような怯えた表情を浮かべていた。

「お前、俺と一路の会話でも聞いたんだろう。或はここに出入りする大人の話でも聞いてしまったんだろう。俺達では孤児院を開けないって話を」

 サヴィラが小さく息を飲んだ。
 一路とその話をした夜、報告書類を届けに来てくれたリックが部屋の前でサヴィラが思いつめた顔をしていたと教えてくれた。一路と真尋は、バルコニーで話していたし、別にひそひそ話していた訳でも、周りを気にしていた訳でもない。サヴィラがどこかで聞いていたとしてもおかしくは無かった。

「……俺、あの時、図書室で本、読んでて……っ、窓、開いてたから全部じゃないけど、聞こえた、んだ……。それに、この間、ここへ来た騎士と、ギルド職員が、その話をしてるのを、聞いたんだ」

 サヴィラが途切れ途切れに言った。

「確かに俺や一路では、孤児院は作れない。今月の半ばに施行される法のせいで教会関係者である俺では、孤児院を創設、運営することが出来ない。それで頭の良いお前のことだ、俺のことやミアのこと、一路のこと、色々と考えてくれたんだろう。お前たちがここにいれば、それが法に触れることになるかも知れないと」

「だってさ……初めてだったんだよ……っ」

 彼のシャツを握りしめる手にますます力が籠もる。
 それに気づいて真尋は、その手に自分の手を重ねて包み込んだ。

「こんなに優しくてもらうの、初めて、だったんだ……っ」

 サヴィラの紫紺の瞳から零れたそれが真尋の手を濡らした。真尋の手から抜け出した右手が、ごしごしと目元を擦ってそれを無かったことにしてしまう。

「俺、爺さんのとこに来るまでは、裕福な生活をしてたよ。でも、そこに愛とか、優しさとかそういうあったかいものは一つもなくて、爺さんとの暮らしは嫌じゃなかったけど俺、爺さんの優しさが信じきれなくて居心地が悪かったんだ……爺さんとこ飛び出して始めたネネたちとの暮らしだってあの家の中に比べたら二倍も三倍も、ううん、百倍くらいは幸せだったし、事実、ネネたちは俺の大事な家族だけど……でもさ、ここ……ここにはさ、不安がひとつも、ないんだ……っ」

 真尋は黙ってサヴィラの言葉に耳を傾けていた。

「一日に三回もご飯が食べられるし、墓地でいつアンデットに襲われるかなんて心配しなくていいし、ベッドだってふかふかで温かくて、本だっていっぱいある。……それで明日の心配を、明日も皆で生きていられるかなんて心配をしなくていいんだ……でも、それだってきっと永遠じゃないから、いつか終わりが来るのを、俺はちゃんと知ってるんだ」

 顔を上げたサヴィラと目が合った。
 紫紺の瞳は、哀し気に歪んでその唇が不恰好な笑みを模る。
 真尋は、ふっと苦笑交じりに笑ってその頬を両手で包み込んだ。

「馬鹿は休み休み言え。俺がお前たちを放り出す訳が無いだろう」

「でも、俺達がここに居たら……」

「そうだな、確かにお前たちがここに居ると少しだけ俺には不利なことになる。この間の事件を解決したからこの町の人々は神父や教会に関してイメージを変え始めてくれている。だがここは領都で東の交易の拠点だ。それこそ多くの人々がここを訪れ、去っていく。その中にはやっぱり教会を良く思わない人がいて、孤児院を見つけたら嬉々として王家や力のある貴族に告げ口する奴だって出て来るだろう。そうなれば俺だけではなく、領主様にも迷惑が掛かってしまう」

 サヴィラは、賢い。だから真尋は、包み隠さずに事実を話す。
 貴族の落胤だという彼は、おそらくそれ相応の英才教育を受けていたのだろう。生活の所作やふとしたときの仕草や言葉にそれは出る。だからそこいらの子供や下手をすると大人よりも国の仕組みや貴族の在り方についてきちんと理解している。

「でも、だからといって、俺はお前たちを捨てたりしない」

 きっぱりと言い切った。
 それでも紫紺の瞳が不安そうに揺れる。

「正直、色々と手を考えたがお前たちの安全を思うとなかなかに難しくてな……そうしたら、そこの木偶の坊、いや、レイが自分に任せてくれないかと言ったんだ」

 レイが立ち上がり此方にやって来ると真尋の隣にしゃがみ込んでサヴィラを見上げる。

「俺も貧民街で生まれて、八歳まではそこにいた。三つの頃から毎日毎日、町角で靴を磨いた。一度は幸福を手にしたけど、十三歳から孤児になってがむしゃらに金を稼いだ。でも俺には、ソニアやサンドロにジョシュアっていう頼れる大人が沢山いて、おかげで俺はAランクの冒険者になる夢を掴めた。貧民街に光を入れることは俺にとって、ミモザが元気になることとはまた別の目標だったんだ。今回、貧民街で炊き出しをしたとき、そのことを思い出したんだ。人っていうのはさ、一杯の温かいスープがあれば、貧富も種族も性別も年齢も職業も関係なく、笑い合えるんだって」

 レイが穏やかな声で言葉を紡ぐ。

「本当は俺の家を改装して、孤児院にするつもりだったんだけど……それは無理だって、ソニアと神父に怒られてな」

「そりゃあそうよ。あんたの家は、アンディが建てた立派な家だけど、狭すぎるんだもの」

 ソニアがレイの後ろにやって来る。ソニアはレイの背中に手をつくとサヴィラと目線を合わせる。

「だからね、うちの宿を使うことにしたんだよ。といっても山猫亭の隣の建物なんだ。隣は金の豚亭っていう冒険者向けの大きな宿だったんだけど、亭主夫婦が高齢でね、後継ぎもいないから店を畳むことになっちまったんだ。その時、丁度、うちも店の拡大を考えていたから、一年以上前から話し合いをして、半年前に商業ギルドを通して買い取る契約をしていたんだ。それで、先月末に金の豚亭は営業を終えて、今月の頭から山猫亭のものになったんだけど、マヒロから話を聞いて、そこの一部を孤児院にしちゃおうと思ってね。金の豚亭の夫婦も、それならって、ベッドとか宿で使っていた備品をほとんど残してくれたんだ。これが自分たちからの寄付だよってね」

 サヴィラもネネも話についていけていないようだった。

「サヴィラ、人ってものは一人では生きていけない。でも、家族がいるからこそ、護りたいものがあったからこそ、お前が怖さを我慢して墓場で必死に金を稼いでいたように、一人じゃなければ、案外、何だって出来るんだ」

 真尋は、アイテムボックスから一冊の冊子を取り出してサヴィラにその表紙に書かれた文字を見せる。

「……企画書……? 孤児院の? な、何で? 教会はだって……」

 文字を辿った紫紺の瞳が動揺の色を覗かせる。

「教会が開くんじゃない。この孤児院を開くのは、冒険者ギルドだ」

 真尋はふっと笑って言った。
 サヴィラの開いた口が塞がらない。

「色々と調べて分かったんだが、孤児院は教会以外なら誰だって開ける。それに今までこの町にも孤児院というものがあったようだ。それはずっと昔、この町の教会の活動が盛んだったころ、教会の運営する孤児院があった。だが教会の衰退とともに孤児院は消え、個人で立ち上げられた孤児院も結局は資金繰りが上手くいかずに消えていった。孤児は貧民街に限らず、病や事故でいつ誰の身に訪れるとも限らないし、永遠になくなるものではないからな」

「だからそれが何で、冒険者ギルドに……」

「冒険者ギルドは、創設からずっと各地で運営され、この町でも千年以上、安定して運営されている。この国に魔獣が居る限り、冒険者はいなくならないからな。それにブランレトゥは近くにダンジョンがあるから他よりも多くの冒険者が訪れる。そこに目を付けて、アンナに冒険者ギルドの収入の一部を孤児院の運営費に回すような仕組みを提案したんだ。アンナがこれに賛成してくれて、冒険者たちの殆どが賛成してくれた。何故か分かるか? 冒険者ギルドは、アーテル王国国民全てにその門を開いて、年齢さえ満たせば割と誰でもなれる。だからこそ他の職業に比べて貧しい家庭やレイのような孤児出身のものが少なくないからだ。それにレイのような権力と実力のある冒険者の庇護下にあるものを襲う馬鹿はいない」

 サヴィラは、なんともいえない複雑な表情で真尋を見つめている。喜んでいいのか、信じていいのか、でも、希望を持ちたいと強く願うその表情に真尋は穏やかな笑みを浮かべる。

「運営元が教会では無いから、寄付だって自由に募れるし、冒険者ギルドが後見になるから身元が保証されて養子縁組だって出来るようになる。これには商業ギルドも協力してくれることになっていてな、孤児たちのギルドカードの作成、寄付や養子縁組希望者の適正審査や書類作成、説明なんかを請け負ってくれることになっている。ジルコンが職人ギルドにも提案してくれて、孤児たちが将来、職に困らないように、或は、新たな才能の発掘のためにスキルや才能があれば弟子として働ける制度も今後導入できるようにと皆が動いている。それにこうすることで俺も一路も関われるようになるんだ」

「何で……?」

「俺も一路もEランクの下っ端だが、一応、冒険者の末席に名を連ねているからだ。寄付し放題だし、冒険者としてならいくら協力したって誰に咎められることもない。住む場所こそ違ってしまうが、ここから山猫亭は目と鼻の先だ、お前やネネくらいになれば徒歩でだって十分に遊びに行けるし、来られる。幾らでも図書室の本を読みに来ればいいし、借りて行っても良い。だから、なあ、サヴィラ、俺達に協力してくれないか?」

「協力? 俺が……?」

 真尋は、じっとその目を見つめる。

「お前は、孤児たちのリーダー的存在で、今も貧民街にいる孤児たちのことに詳しいし、彼らからの信頼も厚い。だから、孤児院に来るように説得して欲しいんだ。大人嫌いで有名なお前がこっちの味方になってくれれば、警戒心の強い孤児たちも理解を示してくれると思ってな。とはいえ、始動したばかりでもう少し実現には時間がかかるが、その間も俺が責任を持ってお前たちを預かるから心配しなくていい」

 その肩に手を置くとサヴィラの体が強張っているのに気付いた。
 この子は、ここにいる孤児の誰よりも他人に触れられることに慣れていない。

「……なんで……なんで、そこまでしてくれるんだ?」

 最後の最後で信じきれないサヴィラを真尋は有無を言わさず抱き締めた。抱き締められることに慣れていない細い体は、真尋の腕の中で怯えたように強張る。

「大人は本来、子どもを護るための存在なんだ。そこに理由なんて必要ない」

 サヴィラの手が躊躇うような仕草を見せつつもゆっくりと真尋の背中に回される。真尋は、それに応えるようにぎゅうとサヴィラを抱き締めた。背中に回された細い腕が縋るように真尋の綿のシャツを握りしめる。
 抱き締めた細い体の強張りがだんだんと解けていくのを感じる。

「……これまでよく頑張ったな、サヴィラ」

 はっと息を飲む音が耳元で聞こえた。

「もう大丈夫、お前の大事な家族は明日も明後日もその先も笑顔を絶やさず、生きていけるよ」

「…………ほんと、に?」

 弱々しく震えた声が問うてくる。

「もう一人で頑張らなくていい。お前の大事なものは、俺が絶対に護るから」

 真尋は、抱き締める腕に力を込めて、その淡い金色の髪にキスをする。
 サヴィラの腕にますます力が籠もって、少し苦しいくらいだ。

「ふっ、ううっ、うわぁぁあああ!」

 声を上げて泣き出したサヴィラの頭に頬を寄せ、淡い金髪をあやすように優しく撫でる。

「じ、じんぶさまぁ!」

 ネネまで飛びついてきて、真尋は片腕を広げてネネも受け入れる。サヴィラとネネが泣き出すとよく分からないが不安になったらしいチビたちがつられて泣き出し、大人たちが優しく笑いながらあやす。ジョンとミアがこちらにやってくると背伸びをして、サヴィラやネネの頭を撫でたり、背中をさすったりする。その手の温もりにサヴィラとネネがますます泣いてしまったのは、仕方がないと言えるだろう。
 サヴィラとネネは、ずっと、とくに日々、必死に金を稼いでいたサヴィラは十三歳の子どもが背負うにはあまりに重いものを漸く、下ろすことが出来たのだから。










 寝室に置かれたベッドの中、真尋の右側にはミアがいて、反対側にはジョンが居る。二人とも真尋にぴったりと張り付いて眠っていて本当に可愛い。ミアが娘になってからというもの、不眠症気味な真尋もそれなりに眠れるようになった。とはいえ、やっぱり深い睡眠となると話は別なのだが。
 あの後、泣き疲れたチビたちが寝落ちしてしまい、緊張の糸が切れたのかサヴィラやネネまで真尋の腕の中で寝てしまい、割と大変だった。女性陣がベッドや布団を慌てて仕度し、男たちはせっせと眠ってしまった子供たちを運び、総出でパジャマに着替えさせて寝かしつけた。何せチビ達の服は前掛けをしてなお、デミグラスソースで汚れていたから着替えが必須だったのだ。その後も明日、瞼が腫れないようにと目元を冷やしたり、途中で起きて眠いとぐずった子供をあやしたりとてんやわんやだった。
 ミアとジョンは、幼いがお姉ちゃんとお兄ちゃんで、真尋たちと一緒に世話を手伝ってくれた。特にミアは、泣き虫だったノアをあやしていたからか、泣いてぐずるアビーをあっという間に寝かしつけていて、プリシラが感心していた。
 そうして一度、場が落ち着いたのでプリシラたちにあとは任せて、真尋はミアと風呂に入り、一路と風呂に入ったらしいジョンと共にベッドに入った。流石にミアも疲れたのか今日は絵本を読んでいる途中で眠ってしまった。ジョンもミアよりは頑張ったが最後までは起きていられなかった。
 一週間ほど前、レイが徐に「話がある」と言って告げたのが「孤児院を開きたいと思っている」という言葉だった。
 貧民街をどうにかしたい、自分と同じ孤児に未来を開きたいと彼は昔から考えていたらしく、旅に出ていた三年間に貯めた金で孤児院を開こうと思っていると教えてくれたのだ。とはいえ、個人で孤児院を経営するのは難しい。それは本人も分かっているようで、教会と孤児院の関係に頭を悩ませていた真尋に相談してきたのだ。そこで話を聞いたソニアが、ならうちの宿を使えばいいと提案してくれて、なんなら冒険者も子守に使えると言い切った彼女の潔い言葉に、真尋は今回の発想を得たのだ。
 そこからは面白いように話は進んだ。
 冒険者ギルドで孤児院を、という真尋の提案は、あっと言う間に広がりブランレトゥの主要機関全てが関わる一大プロジェクトになっている。無論、最高責任者は発案者のEランク冒険者の真尋だ。神父ではないところが重要なのである。
 この件に関しては領主様も快く許可をくれた。魔導院も積極的に賛同してくれていて、治療院では孤児院に治癒術師を常に一人は常駐させてはどうか、と提案してくれているし、職人ギルド同様、新しい才能の発掘への期待も大きい。現にナルキーサスがサヴィラに興味を示している。
 多くの人々は賛成してくれているし、実際に動いてくれている。とはいえ、中には異議を唱える人もいて、孤児院が開いた後だって問題が出て来るだろう。だが、それはどんなことにでも当たり前についてまわることだ。皆で悩んで皆で案を出して考えていけばいい。色々なことを申請したり、許可を貰ったり、町の人々への説明会だって必要で、準備することは山ほどあるのでまだ時間はかかるだろうが、真尋は時期が来るまで教会を開く許可を公式に出さないようにジークフリートに頼んだ。教会を開いてしまうとサヴィラたちがここにいられなくなるからだ。
 とはいえ、どうせ掃除も修補もまだで開いたとしても正式にはすぐに動けないのだから、と真尋も一路も急いではいない。そもそも布教だって一朝一夕で出来るものでは無い。また忙しい日々になるだろうが、騎士団のむさい元騎士の取り調べやインサニアに関する仕事よりもずっとずっとやりがいもあるし、楽しみだ。

「明後日から、また頑張らんとな」

 明日はミアと過ごすので、明後日からだ。真尋は公私はきっちり別けられる男であるし、休みの日は仕事は全てシャットアウトを決められる男である。周りが騒ごうが喚こうが関係ない。
 真尋は、ミアの寝顔に目を向ける。
 すーすーと聞こえて来る吐息は穏やかだが、いつもミアは眠くなると不安そうな顔をする。きっと夢を見るのが怖いのだろう。
 リラックスをかけてやってもあまり効果が無い。リックが暗闇に怯えていた時もそうだったが、リラックスは心の中の不安までは和らげてくれないのだ。

「……ずっと一緒に居るからな、愛しいミア」

 真尋はミアの小さな頭を抱き寄せるように撫でて白い耳にキスを落とした。
 ミアのお蔭で、真尋は望外の幸せを得ることが出来ている。雪乃を失ってしまった真尋にとって、ミアは本当に掛け替えのない存在になりつつある。
 雪乃を失った穴は、真尋自身が思っているよりもずっと大きく深く、真尋の心に空いている。まるで大きな虚穴のようだ。ミアの存在はその穴を完璧には埋めてはくれないけれど、そこに溢れる痛みや悲しみや寂しさを和らげて真尋に温かいものを与えてくれる。
 今もこれからも真尋は、雪乃を想い続けるであろうし、彼女以外を女性という意味で愛することは出来無いだろうけれど、愛を注ぐ相手が出来たことは奇跡とも呼べる幸福なのだ。少しだけ首を伸ばしてミアの額にキスをして、真尋も目を閉じる。
 ミアとジョンの穏やかな寝息を聞きながら、ゆっくりと睡眠の世界へと落ちていったのだった。










 次に目を開けた時、真尋は、おや、と目を瞠った。
 瞼から差し込む眩しさに、朝かと思って目を開けたのだが、目の前に広がっていたのはどこまでも遠く続く青空だった。大小様々な白い雲がたくさん浮かんでいて、余計にその広さを実感する。
 不意に足にしがみつかれて視線を下に向ければ、半べそをかくミアがいた。

「ミア」

「パパっ」

 伸ばされた腕を受け止めていつものようにミアを抱き上げた。しっかりと感じる重さとぬくもりに夢では無いのだろうかと首を捻る。
 辺りを見まわすが一緒に眠っていたはずのジョンの姿は無い。

「パパ、ここどこ? 起きたら、ひとりでびっくりしたの」

「ずっと一人だったのか?」

 その問いにミアは首を横に振った。

「すぐにパパが来てくれたの」

「そうか、なら良かった」

 どうやら真尋がいないことが不安だったらしく、真尋が抱っこした途端にミアは、ほっとしたように笑っている。
 ミアがきょろきょろと辺りを見回し、真尋もつられて周囲を見渡す。
 やはり何度見てもどこまでも青い空が広がっていて、白い雲がふわふわと浮かんでいる。真尋とミアは、真っ白な雲の上に立っていて、心地よい風が二人の髪を揺らす。雲の上は昼下がりの午後のように柔らかで温かな光に照らされている。
 真尋は、少し歩いてみようと一歩を踏み出す。雲の上は広く、縁まで行くにはかなりの距離がありそうだ。

「夢のなかかな?」

「どうだろうな……怖くないか?」

 真尋の問いにミアは、ううん、と首を横に振った。

「パパが一緒だから、へーき。……それになんかね、ここは優しいばしょってかんじがする」

「……確かにな」

 真尋はふっと目を細めて足を止め、ミアの額にキスを落とす。
 空の上は心地よい風と温かな日差しに照らされて、穏やかな時間が流れている。ここにはきっと悲しみも不安もない。平和で穏やかな優しい空気が流れている。時折、吹く風は柔らかで心地よい。
 真尋は、この空気を知っているような気がした。この風を知っている、と思った。 

「真尋様」

 名前を呼ばれて真尋はゆっくりと振り返る。
 そこに襤褸を纏った銀色の長い髪の男が立っていた。
 ああ、やっぱりそうか、と真尋は声を掛けようとしたのに、声が出ないことに気付いた。その名を呼びたいのに声が出ない。その上、体まで動かなくなっている。どうやらそれはミアも同じだ。
 何が、どうしてと戸惑いながら真尋は男を見つめる。
 男は――ティーンクトゥスは、長い前髪の向こうで美しい銀の瞳を柔らかに細めて一言も発することなく、体を斜めにずらして後ろを手で示した。
 思わず真尋は、息を飲んだ。
 そこに、背に白い翼を持ったミアとよく似た小柄で可愛らしい兎の獣人族の若い女性がいた。
 すぐに分かった。それがミアの母親のオルガだと。ミアとよく似た顔立ちだけではない。だって、彼女の後ろにはノアが居るのだ。愛らしい笑顔を浮かべるノアが彼女の背からひょっこりと顔を覗かせている。
 あの日、真尋があげた飴に喜んでいた時と同じ無邪気で愛らしい笑みを浮かべて手を振っている。
 オルガはこちらにやって来て、真尋ごと娘を抱き締めた。
 温度なんかあるのかどうかも分からないのに、そこに溢れる優しさとぬくもりが心を包み込む。体を動かせないミアの目からぽろぽろと涙が零れる。オルガは真尋の腕の中のミアの額にこつんと額を当てて、華奢な手で娘の頬を包み込む。

『……ミア、ノアのこと最期まで守ってくれてミアは本当に優しいお姉ちゃんだわ』

 柔く響く優しい声だった。

『ずっと一緒にいてあげられなくて、ごめんね。寂しかったでしょう? 怖かったでしょう? でも、ノアのこと守ってくれてありがとう、本当に頑張ってくれて、ありがとう』

 オルガの珊瑚色の瞳からも透明な涙がぽろりと落ちていく。

『だから、ミア……誰よりも幸せになって。お母さんの分もノアの分も、ミアは幸せになって。お母さんもノアも、ミアの笑顔がなによりも大好きなの。お母さんはずっとずっとミアを愛してる。お母さんはずっとミアのことをお空から見守っているから』

 ミアは、母親に抱き着きたいのだろうけれど体がどうやっても動かないのだ。
 オルガはミアの額にキスをして、名残惜しむように頬を撫でると体を離す。するとノアが母の背の向こうから小さな白い翼をはためかせ、ミアの目の前にやって来る。
 ノアがミアの涙を小さな両手で一生懸命に拭う。ノアはもう痩せ細ってなどいなかった。ふっくらとした頬も手足も健康そのもので、左脚だってちゃんとそこにある。ミアと同じ白い兎の耳が砂色の髪の間でぴょこぴょこ揺れる。

『ノアね、もういたいのね、ないないしたよ。ミアが、ないないしたからね、もういたいたいのないの!』

 そう言ってノアは笑った。
 翡翠色の大きな目を細めて、眩しいくらいに可愛くて愛おしい笑顔だと思った。

『ミア、ありがと。ミア、だいすき!』

 ノアがミアの鼻にキスをして、ミアにぎゅっと抱き着くと母の腕の中に戻って、手を振る。
 それを目で追えば、ミアと同じ珊瑚色の瞳と目が合った。

『神父様、サヴィラにもありがとう、と。そして、どうか……私の娘をよろしくお願いします』

 オルガは深々と頭を下げると、最後にもう一度だけミアにキスをして離れていく。そして、力強く翼をはためかせるとふわりと飛び上がって、空高くへ飛んでいく。二人が手の届かないところまで離れると体が動くようになって、真尋は上を見上げる。

「おかあさん!! ノア!!」

 ミアが叫ぶように名前を呼んだ。
 二人は見下ろして手を振った。

「ミアもずっとずっと、だいすき!!」

 ミアが精いっぱい笑って両手を振った。

「オルガ! ノア! ミアは必ず幸せにする!! 安心してくれ!!」

 真尋の言葉にオルガはとても嬉しそうに頷くとミアにキスを投げるような仕草をして、ノアを抱きかかえて遥か高くに浮かぶ雲の向こうへと飛んでいく。
 二人の姿が見えなくなるとミアが真尋の肩に顔を埋めた。

「パパ……おかあさんとノア、笑ってた」

「そうだな」

 ミアを抱き締めて砂色の髪に鼻先を埋める。
 零れる嗚咽が真尋の肩を濡らす。

「……ノア、もう痛いのないって、足もちゃんとなおってた……っ、おかあさんがいっしょだから、だいじょうぶだねっ」

「ああ。もうノアは、大丈夫だよ」

 うん、とミアは頷いた。零れる小さな泣き声を聞きながら、真尋はミアの背を撫でて、愛おしむように髪を撫でる。
 涙を零して震えているミアの背を撫でているとふと、一瞬だけミアの体が石のように固くなって、すっと消えた。流石の真尋もぎょっとする。

「安心してください。先に現世に戻しただけです。ここは私が空間を調整した場所です。真尋様は今、意識だけの存在で、向こうでちゃんとミアちゃんを抱き締めているので安心してください。その代わり、一路様に来ていただきました」

 下から聞こえてきた声に、真尋はティーンクトゥスに改めて顔を向ける。
 すると彼は、いつの間にか素晴らしい土下座を決めていた。その隣に「ティナちゃんは?」と首を傾げる一路が立っていて、ティーンクトゥスと真尋に気付いて目を丸くする。

「え? え?」

「一、こっちだ」

 真尋が手招きすれば、一路はすぐに真尋の隣にやって来て首を傾げる。

「何で、ティーンさんが? これ夢? 僕、ティナちゃん抱き締めて寝てたはずなんですけど」

 どうやらこいつは最近、しっかりティナを部屋に連れ込んでいるようだ。

「俺も知らん」

 そう返して真尋と一路はティーンクトゥスに顔を向ける。

「お二人のお蔭で私の力が大分戻ってきました。お二人がこの町に入ってから、徐々に私の力が戻り出したのです。そして、インサニアを浄化する時、二人に力を貸すようにと祈る多くの人々の声が聞こえました。私は本当に久しぶりにそちらの世界に手を貸すことが出来たのです。本当に本当に、ありがとうございます」

 額を雲にこすりつけるようにしてティーンクトゥスが言った。
 ぐすん、と鼻を啜る音が聞こえて来て、真尋と一路は顔を見合わせる。一路は苦笑を零すとティーンクトゥスの前にしゃがみ込んだ。真尋もその隣にしゃがみ込む。

「髪、やっぱり銀色だったんですね」

 ティーンクトゥスがこくんと頷いた。

「少しは肉付きが良くなったじゃないか」

 また、こくんと頷く。

「……顔を上げろ、馬鹿者」

 びくんとまだまだ細い肩が揺れてティーンクトゥスがおずおずと顔を上げた。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔に真尋と一路は思わず笑ってしまう。

「酷い顔だな」

「もうそんなに泣かないでくださいよ、一応、神様なんだから」

 一路が服の袖でティーンクトゥスの涙を拭う。すると遂にこらえきれなくなったのか、ティーンクトゥスが真尋と一路に飛びついてくる。思わず尻餅をついたが、お構いなしにティーンクトゥスはその両腕を目一杯に広げて、真尋と一路にしがみつくようにして抱きついてくる。

「まひろさまぁぁ、いちろさまぁぁ、うっ、うっ、本当に、ほんとう、に、ありがどうございまずぅぅっ」

 わーわーといっそ潔く泣き出したティーンクトゥスに彼の腕の中で真尋と一路はやれやれと肩を竦めて、その背に腕を回す。

「……まだ教会も開いて無いぞ」

「そうですよ、信者だって正式にはまだ一人も居ないんですよ、気が早すぎますよ」

「でも、でもっ、声が聞こえて……っ、私、嬉しくて……嬉しくてぇっ! 挨拶っ! あいさつをしてくれた子もいて、それでっ、うれじくでぇっ!」

 兎にも角にも嬉しかったんだな、と真尋はあやすようにその背を撫でながら息を吐きだす。

「何か恩返しがしたくて、オルガさんとノアくんをここに呼んで、二人には特別に会話を許可したんです……っ、ミアちゃんと真尋様の体を動かなくしたのは、オルガさんの未練にならないようにするためでっ、それで力を結構消費して、あんまり、時間は無いんですけど……っ、でも、どうしてもお礼が言いたくてっ」

 相変わらず力の配分はド下手くそのようだ。
 誰かのために一生懸命になりすぎる彼らしいと言えばらしいのだけれど。

「ティーンさん、ずっと見守っていてくれたでしょう。約束、守ってくれてありがとうございます」

「これからも頼むぞ」

「はいっ、勿論ですっ!」

 泣きながらも器用にティーンクトゥスは笑った。
 一度、お互いに強く抱き締めて、ティーンクトゥスが体を離す。ぐずぐずと鼻を啜って、涙を拭って必死に泣き止もうとするティーンクトゥスの頭を一路がよしよしと撫でた。真尋も一度、その頭を撫でて、ふと、あることに気付いて顎を掴んで顔を上げさせ、前髪をもう片方の手で持ち上げる。突然のことにティーンクトゥスがぱちりと目を瞬かせる。

「真尋くん? 一体、何を?」

「おい、ティーン。お前、無表情になってみろ」

「へ?」

 間抜け面を浮かべたティーンクトゥスを睨み付けて「早くしろ」と急かせば、ティーンクトゥスはごしごしと服の袖で顔を拭って、無表情になるがどうにもへにょっとしている。

「お前、もっと顔を引き締めろ、ほら、もっと、いっそ、俺を睨んでみろ」

「は、はい!」

 ティーンクトゥスが全力で表情筋を引き締めると、それに気づいた一路が息を飲んだ。
 真尋も呆然と顎を掴んでいた手を離して、自分の口元を覆う。

「……何故、ザラームはお前と全く同じ顔をしているんだ」

 無表情になったティーンクトゥスのその顔は、ザラームと全く同じだった。整った人形のような目鼻立ち。銀色の瞳は優しい光が溢れているから一瞬、惑わされそうになるけれど、ザラームとティーンクトゥスは全く同じ顔をしていた。

「ザ、ザラームとは?」

「エイブだかモルスだかサウロンだか名前のいっぱいある男と一緒に居た真っ黒な男だ。その男が今回、お前が風で散らしたインサニアを生み出した。あいつは自らの魔力を糧にインサニアを生み出すんだ」

「え? ……で、ですが私の見ていた限り、あれは……あれれぇ?」

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「おかしい、私の記憶が捻じ曲げられて、る? ん? 何で? あのインサニアは本物だけど偽物だった? 待って下さい、そうですよ、そうです! あの時、姿は見えないのに、隣に何かいました! え? 世界の記憶に矛盾が生じています、えっと、なぜ!?」

「知るか! 俺が聞いてるんだ!」

「ひぃぃ、すみませぇぇん!!」

 怒った真尋にティーンクトゥスは反射的に土下座を繰り出す。
 思わず真尋は額に手を当ててため息を零す。何と阿呆な神だろうと頭を抱えたくなる。一路に至っては、両手で顔を覆ってしまっている。言葉も無いようだ。
 そんな一路の体が足元から徐々に透け始めた。見れば真尋の体も同じように透け始めている。多分、時間切れ、というやつだろう。

「ああ! まだ行かないでください! 私、何でか分かってないのにぃっ!」

「馬鹿は休み休み言え! いいか? 次に力が戻って俺達とこうして接触できるようになるまでにザラームのことをしっかりと調べておけ! そして最初に言った通り、簡潔に、分かりやすく纏めてから報告しろ!」

「は、はい!」

「それ、どれくらい時間かかります?」

 半透明の一路が問う。

「ええっと、はい、あの、分かりません!」

 キリっとした顔で言うようなことじゃないと真尋はついに頭を抱えた。

「ああ、すみません! すみません!! 私、今回かなり無理したんですぅぅ!! で、でもお二人が頑張ってくれれば、力が戻るので、あの!! 頑張ってください!! 応援してます!!」

 土下座の体勢で手だけを伸ばしてティーンクトゥスが真尋の手を握って叫ぶ。

「ティーンさんは真尋くんのファンなの?」

 一路が呆れたように言った。真尋はもう言葉も無い。

「はぁ、まあいや、とりあえずザラームもモルスもかなりの深手を負っているから、すぐにはどうやっても動けないだろうし、僕と真尋くんは地道に頑張るよ」

「すみませぇえん!」

「次に会うまでに力配分をきちんと学んで来い。それと……ノアのこと、頼んだぞ」

 真尋がティーンクトゥスの手を撫でれば、ティーンクトゥスは、顔を上げて、はいと頷いた。

「そこはご心配なく!!」

「ご心配しかないんだが……まあいい……、ああは言ったが、お前も無理はするな。まだまだ細い、もっと肉を付けろ」

 座ったままだったティーンクトゥスを立ち上がるついでに立たせて、腕をひっぱり抱き締める。一路がぽすんとティーンクトゥスに抱きついて笑う。

「じゃあね、僕の大好きな神様!」

「は、はいっ!」

 にこっと笑った一路が手を振って、すうっと先に消えていった。

「あの、真尋様、私も色んなこと頑張ります!! 真尋様と一路様にはたとえ依怙贔屓と言われても幸せになって欲しいので!! 真尋様に教わった土下座を武器に、私、頑張りますよっ!!」

 拳を握って闘志を漲らせるティーンクトゥスに神が土下座を武器にしてどうする、と思ったがこの神ならそれも有りかと納得してしまうし、そもそもこいつに拳で相手を黙らせるような猛々しさとか頼もしさは見当たらないので、土下座くらいが丁度良いのかもしれないと思った。
 真尋の体ももう殆ど透明に近い。撫でようとしたティーンクトゥスの頭を通り抜けた手に少しだけ驚く。

「前に言ったとも思うが、俺は自分の下僕は大事にする男だ。報告が出来ずとも、寂しくなったらまた会いに来い。お前は、馬鹿で臆病で弱虫で愛しい俺達の大事な神様だからな」

 真尋はティーンクトゥスに向けて、ふわりと優しく笑った。
 薄れゆく意識の中で最後に見たのは、ティーンクトゥスの下手くそで、けれど、酷く幸せそうな笑顔だった。









 ゆっくりと瞼を持ち上げれば、見慣れた自室の天井があった。
 月光の差し込む部屋の中、浮かべた光の玉がふよふよとベッドの周りを漂っている。
 左を見ればジョンがすよすよと眠っていて、反対側を見ればミアがぴったりと真尋にくっついて眠っている。顔を隠していた髪をそっと払えば、あどけない寝顔があった。涙の痕があるけれど、そこに浮かぶ寝顔は昨夜までとは全く違って、淡く微笑んですらいた。
 きっともうミアが悪夢に泣くことはないのだろうとそれだけで真尋の口元にも自然と笑みが浮かぶ。
 ミアとジョンの頭を撫でながら真尋は、天井を見上げる。
 この国へ、この世界へ来て漸く一か月が過ぎたばかりだ。だというのに本当に色々なことがあった。
 当初の目的は、様子を見つつ、実力は控えめにして冒険者家業の傍ら町に馴染んで教会を開くという予定だったのに、気が付けば、こんな大きな屋敷に住んでいて、町の危機を救って、町の実力者たちと肩を並べ、領主から酒と煙草を貰う仲になっている。
 そして何より、腕の中に愛おしい娘がいる。
 正直、まだ帰りたいと思うし、雪乃に会いたいとも思う。世界で唯一、真尋が心を注ぎ全てを望んだ女性なのだからそう簡単に諦められる訳もないし、一生、諦められないだろう。でももう真尋は躊躇いなく彼女たちを選ぶことが出来無い。
 守りたいものが、大切なものが、沢山できてしまったのだ。
 そんな真尋を雪乃はどう思うだろうか。
 
「……本当に俺は、この世界で、この国で――そして、この町で生きていくんだな」

 誰にともなく吐き出した言葉が自分の心に降って来る。
 目を閉じて、ちくりと胸に感じた痛みが消えるのを待って、真尋はゆっくりと息を吐きだして目を開ける。なんとなく答えを求めてロケットを手に取り、ぱちりと開ければ雪乃の微笑みが真尋を迎えてくれる。

――貴方の想うままに生きて、それが私の大好きな真尋さんだもの。

 そう告げる柔らかな声が聞こえた気がして、小さな写真にキスを落とす。

「……ならやはり、俺は俺の想うままに、俺らしく生きていくよ、雪乃」

 あの泣き虫で阿呆な優しい神様も居ることだしな、と呟いて真尋はロケットを閉じて戻し、ミアとジョンを抱き寄せて目を閉じる。
 考えなければならないことは山のようにある。孤児院のことも、教会のことも、屋敷や庭のことも、サヴィラの学校の件や冒険者としてクエストもしなければならないし、騎士団で書類の山も片付けなければならない。そして、ティーンクトゥスと同じ顔をしているザラームとそれを従えるモルスのことも。
 だが明日は、ジョンも誘って三人でミアの服でも買いに行こう。カフェにでも寄って甘いものを食べる二人を眺めれば間違いなく癒されるし、活力を貰えるだろう。そして、子どもたちにお土産を買って、この屋敷に帰って来よう。
 サンドロの美味しい夕食を皆で食べて、色々な話をして聞いて、賑やかに風呂を済ませて、そしてまた愛娘を腕に抱き締め、眠るのだ。そうやって重ねていく日々に感じる幸せは間違いなく、真尋が日本にいた頃に感じていたものと同じ本物の幸せなのだ。
 明日も明後日も、その先も、泣き虫で愛おしい神様と大切な人々の笑顔と愛しい娘の幸福を護るために、真尋は愛する人が望んだように真尋らしく、この町で生きていくのだから。




称号は神を土下座させた男。
第一部 完

――――――――――――
ここまでお付き合いください、本当に本当にありがとうございました!!
多くの方々の応援や励ましがあったからこそ、ここまで来られました。
いつも閲覧、感想、お気に入り登録、心より御礼申し上げます。

ここだとあとがきが長くなりすぎる気が致しますので、本編のあとがきは別に書いておこうと思います。興味のある方は後程、覗いてみてください。
第二部に移行するまでに色々としたいことがあるので、こちらは番外編の更新が中心になると思います。
番外編は、残念な執事の園田さんが主役のシリーズと本編終了後の真尋と一路の日々を色々な脇キャラ視点の新シリーズを予定しております。

これからも「称号は神を土下座させた男」を作者共々宜しくお願い致します。
次のお話も楽しんで頂ければ、幸いです。

本当に本当に、ほんっっっっっとうに
ありがとうございました!!
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