称号は神を土下座させた男。

春志乃

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第三十八話 駆け抜けた男

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「あ、イチロさん」

 リビングのドアを開けて中に入れば、窓際に居たティナがこちらを振り返った。
 一路は布団の上で団子のようにくっついて眠る子供たちを起こさない様に気を付けながら彼女の元へと歩いて行く。
 ティナの腕の中には、アナが居た。ぱっちりと目を開けてティナから落ちる花弁を捕まえては、消えてしまうそれにきゃっきゃっと笑っている。

「……アナ、寝ないの?」

「何だか目が覚めてしまったみたいで」

「そっか、ね、僕にも抱っこさせて」

 一路はティナの腕からアナを受け取る。落とさない様に大事に抱えて、一路が笑い掛ければ、アナは愛らしい笑みを浮かべる。
 何だか真尋の双子の弟達のことを思い出した。年が八つ、離れているから彼らが赤ん坊だったころのこともよく覚えている。一路には弟は居ないが、一路とっては双子は弟のようなものだった。おむつも替えたことが有るし、こうして抱っこしてミルクをあげたこともある。

「可愛いね」

「アナちゃんはあんまり泣かないで、よく笑う子なんですよ。他の子たちも、ちょっとやんちゃだけど良い子ばっかりです」

「……アナは良い子なんだね」

 頬をくすぐるように撫でれば、アナは一路の指をその小さな手でつかんだ。痛い程ぎゅうと握りしめられる。いつの間にか引っ掻き防止用の可愛い手袋をしていた。赤ちゃんの爪は薄くて柔らかい分、引っ掻かれると結構痛いのだ。握られると爪が指に食い込むように刺さることもある。

「…………あの、皆さんの様子は?」

 一路はゆらゆらと体を揺らしてアナをあやしながら目だけをティナに向ける。不安そうなサファイアブルーの瞳とかちあった。

「レイさんは薬が効いたのかぐっすり。ソニアさんも少し微熱があるけど、サンドロさんとローサちゃんが付いているから大丈夫。多分、疲れだろうってロイス先生は言ってたよ。ジョシュアさんは、起きて剣の手入れをしていたし、カマルさんは奥さんとお話をしていたよ。あの鳥の男の子もお母さんと一緒に眠ってる。使用人と従業員の皆さんももう寝たみたい」

 一路は話しながらソファへと向かい、そこに腰を下ろす。ぽんと隣を叩けば遠慮がちにティナが腰掛けた。

「……ノアくんの状態が一番悪いかもしれない。……MPの数値がゼロになったきり、戻らないんだ」

 ティナがきゅっと唇を噛み締めて顔を俯けた。

「僕も何度か魔力を注いだんだ……数値は一時的に上がるけど注ぐのを止めれば、ゼロになっちゃうんだよ。ナルキーサス様があれこれと手を尽くして下さっているけど、多分もう……ノアくんの体が限界なんだ。魔力を留めて置けないほどにね」

 一路はアナを自分の膝に座らせて、ティナの肩を抱き寄せる。ティナは何の抵抗も無く一路の肩にぽすんと寄り掛かってきた。ティナの細い手がアナのお腹に添えられた一路の手に重ねられた。顔をあげたアナがティナの髪を引っ張れば、はらはらと花びらが落ちる。アナはそれを捕まえて口に入れようとするが、それより早く花びらは消えてしまう。

「……ミアちゃんは、どうしていますか?」

「サヴィラくんとネネちゃんが傍に居るよ……でももうずっとなにも喋らないでノアくんの手を握りしめて離さないんだ」

 一路はティナの髪に鼻先を埋める。花の甘くて優しい香りがする。
 ティナはそれ以上はもう何も言わなくて、一路も何も言えなくて、膝の上でアナが笑う小さな声がやけに大きく部屋の中に響いた。









「あいつ、足短いな。ブーツに裾を入れるデザインじゃなかったら俺は無様な姿を晒すことになっていた」

 真尋は襟のスカーフを整えながら同じく騎士服に着替えたリックに言った。二人の制服はそれぞれアーロンとレイバンからはぎ取っ、もとい、拝借したものである。

「そうですね、エディに教えてあげないといけませんね、アーロンの足は短いって」

 リックは良い笑顔で言った。
 アーロンと真尋はそれほど体格に差は無かったし背も向こうの方がほんの僅かに高かったが、トラウザーズの裾が真尋には足りなかったのだ。
 ちなみにこの時リックは、アーロンの足が短いのではなく真尋の足が長いだけだと分かっていたが、面白いので何も言わなかっただけである。

「これが大地下牢の鍵なんだな?」

 真尋はアーロンの制服のポケットに入っていた鍵を取り出す。真鍮製の古くて大きなカギだ。

「はい。間違いありません」

 リックがしかと頷いた。
 二人の足元には下着姿に剥かれたアーロンとレイバンがシーツで作ったロープでぐるぐる巻きになって転がされている。口には猿轡が噛まされて、起きたとしてもくぐもった呻き声しか聞こえないだろう。
 真尋はアーロンの剣を腰に佩いた。リックはレイバンの剣を腰に佩く。

「さて弟よ、憧れの騎士になったし、堂々と行くか」

「はい、アルバート兄さん」

 くすくすと笑うリックを従えて、真尋はリネン室を後にする。
 リックの先導で真尋たちは騎士団本部を抜け出す。何度か騎士とすれ違ったが、制服を着ていることとあまりに堂々としているからか誰にも声を掛けられることは無かった。まあそれどころではないというのもあるだろうが。
 本部の正面から堂々と外に出て、敷地内を横切り牢のある塔のような建物へと向かう。思っていたよりも広い騎士団の敷地は、芝生が敷かれて道も整備されている。
 真尋達は近くに生えていた木の影から様子を窺う。
 夜が深くなり、正面の入り口の両脇に立つ見張りの騎士の横で松明が煌々と燃えている。

「あいつらは、リヨンズ派の騎士ですね……おそらくリヨンズが配置したのでしょう」

「此処を出るまでに色々と手を尽くしたんだろうな」

「そうですね。すれ違った騎士の殆どがリヨンズ派の騎士でしたし……アルバートさん、どうしますか?」

「正面から堂々と行く。あと、お前には生贄になってもらう」

「は?」

 間抜けな声を漏らしたリックに両手を差し出す様に言う。

「これは世界樹に巻き付いていた根性ある蔦植物で作ったロープだ」

 真尋はリックの両手をぐるぐると縄で巻いて拘束し、犬の散歩のリードのようにロープを片手に持って歩き出す。

「へ?」

「よし、行くぞ。お前は精一杯抵抗しておけ」

「はっ、なっ!!」

 ぐいぐいとロープを引っ張り、真尋はずんずんと歩いて行く。
 こちらに気付いた見張りが表情を険しいものに変えて、いつでも剣を抜ける体制に入ったのが分かった。

「お前、何者だ」

 左に立つ騎士が言った。
 真尋は、ただ少し目を細めて見張りの騎士の二人を頭の頂から足の先までじっくりと視線を向けた。

「……お前は誰に向かってそのような口を利いている?」

 真尋の言葉に二人の騎士は顔を見合わせる。

「見ろ」

 真尋は手に持っていたロープをぐいっと引いた。リックが前に出て来て膝をついた。

「殺した筈の第二小隊の生き残りがここに居る。何故だ?」

 これは一種の賭けだった。駄目だったらその時は物理的に落とそうと思っている。
 だが、二人の騎士は顔を青くして固まった。

「あ、貴方はまさか、エイブ殿の……」

 かかった、と心の内で嗤う。

「そうだエイブ様の使いだ。……エイブ様は、全てを殺せと言った筈だ。だというのに何故、ここに最も深い闇を知った者が生きている?」

 真尋はすっと目を細めて二人を睨み付けた。
 二人の騎士が、ごくりと生唾を飲み込む音がする。

「その上、これはこの様に騎士を偽り、ここに侵入していた。まさか他の者も殺し損ねてはいまいな?」

「そのようなことはありません。リヨンズ中隊長が確認しました!」

「はっ、どうだか」

 真尋は鼻で笑って肩を竦めた。

「退け、私がこの目で確実なものだと確認してくる」

「はっ!」

 二人は騎士の礼を取り両開きの扉を開けてくれた。

「立て、行くぞ」

 リックが精いっぱい、此方を睨んで抵抗してくる。

「お前の仲間の屍に合わせてやろうというのだ。優しいだろう?」

 真尋がふっと笑えば、リックがマジな方で体をびくりと揺らして怯えた。一体、どういうことだと思いながらもリックが渋々立ち上がった。そのリックを引きずるようにして中へと入る。見張りの方の一人が、此方ですと案内までしてくれる。
 建物の中は、円形のエントランスが有り、五つのドアが有った。塔のような造りになっていて、左右に上へと上がる階段があった。入ってすぐ真正面に「一時拘束」と札の掛けられたドアがある。右の手前は、取調室、その隣が資料保管室だ。左のドアは「地下牢」その隣が「事務所」だった。
 事務所と資料室以外のドアの前と左右の階段の前に一人ずつ騎士が立って居る。

「生き残りが居た。始末する」

 見張りの騎士が地下牢のドアの前に立つ騎士に言った。
 その騎士は、リックを見ると驚いたような顔をした後、慌てて地下牢の鍵を開けてドアを開けてくれた。壁の燭台の灯りが暗闇を微かに照らしている。深い深い闇がその奥には広がっていた。リックの体が微かに強張ったのがロープ越しに伝わって来る。

「さあ、来い」

 真尋がリックをぐいっと引っ張った時だった。

「待て」

 ぐいっと腕を掴まれた。振り返ったリックの表情が強張る。真尋はゆっくりと目だけを後ろに向けた。

「どうして、神父がここに居る?」

 その一言が聞こえた瞬間、真尋は懐から取り出した大地下牢の鍵をリックの制服のポケットに滑り込ませた。そのままリックを突き飛ばし、ロープをアイテムボックスにしまってドアを閉めた。

「マヒロさん!!」

「行け! お前が救い出してこい! お前の仲間だろう?」

 真尋はドア越しに叫んで、真尋の腕を掴んでいた馬鹿を腕をひょいと回して床に落とした。
 騎士たちが一斉に抜剣する。

「案ずるな、リック。ここの騎士風情に俺は負ける気はしないからな。お前の背に悪の手は届かない。行け、誇り高きクラージュ騎士団の騎士ならば」

「……すぐに仲間を連れて応援に戻ります!」

 リックの駆け出す足音がドア越しに聞こえて来た。それが遠退いていくごとに真尋は自分の魔力をじわじわと滲ませる。圧倒的な強さを誇るそれに騎士たちが後ずさっていく。

「何故、神父のお前がここに居るんだ?」

 真尋の正体を見破った騎士が言った。
 その顔には見覚えがあった。リヨンズの後ろに立って居たもう一人の騎士だ。

「まさか俺の顔を知っている者がここに居るとは思わなかった。とんだ災難だ」

「ああそうだろうとも、今、仲間が応援を呼びに行った。お前はもうすぐここで死ぬことになるんだからな。全員、戦闘態勢に入れ!」

 騎士たちが剣や槍を持つ手とは逆の手に魔力を溜め始めた。
 真尋はやれやれと肩を竦めて、これ見よがしにため息を零した。

「お前は何を勘違いしているんだ? 災難だと言ったのは、お前たちの方だ」

「……?」

 騎士たちが訝しむ様に眉を寄せた。
 真尋は右手をゆっくりと彼らに向かって翳し、ふっと笑う。

「不機嫌この上ない俺の相手をしなければならないのだからな」

 真尋の手から巻き起こった風が騎士たちを一気に建物の外へと吹き飛ばした。入り口の扉を少し破壊してしまったが御愛嬌だ。リヨンズに請求するようにウィルフレッドには言おうと思いながら、真尋はアーロンの剣を鞘ごと抜いて悠然と外へと歩いて行く。転がる騎士たちのその向こうから次から次へと湧く蛆虫たちのように騎士たちが集まって来る。
 止んでいた筈の雨がまたぽつぽつと降り始めた。









 背後から何かが吹き飛ぶような大きな音が聞こえて、リックは足を止める。
 戻ろうとして手に持った燭台の炎が揺れる。

「……マヒロさんなら、大丈夫だ」

 自分に言い聞かせるように言って、リックは再び顔を前に向ける。
 普段は賑やかな地下一階の地下牢の中には、一番手前の牢にぼろい身形の男が一人、入っているだけだった。この間、犯罪者を鉱山生活に送り出したばかりだからだろう。
 リックは燭台の灯りだけを頼りに闇を濃くしていく地下牢を進んでいく。
 地下二階への階段は、一階の地下牢の一番奥にある。地下牢は馬の蹄と同じ形をしていて両側に牢がある。
 リックは、気を抜けば震えてしまいそうな足を叱咤して、地下牢の中を進んでいき、漸く、地下二階への階段へと辿りついて階段を降りて行く。カツン、カツン、とブーツの足音が大きく響く。地下二階の地下牢も使われることは殆ど無い。地下一階の方に入りきらなくなった時だけ使われる。
 地下二階は一階よりもずっとずっと闇が濃い様に思えた。目と頭がおかしくなりそうなほど濃い闇が目の前に広がっている。手を伸ばせば、手が闇の中に消える。燭台を前に押し出しても闇を薄くするには足りない。
 リックは、額に滲む冷汗を拭ってポケットに手を伸ばす。真尋の魔力の込められた光の魔石を取り出して握りしめた。
 再びゆっくりと慎重に足を進めていく。
 心臓の音がだんだんと早くなっていき、指の先から冷えて行く。手に持った燭台の灯りが揺れているのは、自分の手が震えているからだと気づいて、大きく息を吸って吐き出した。

「大丈夫、大丈夫だ……っ」

 念じるように言ってリックは足を速める。牢に沿うように歩いているが、自分がどこに居るのか分からなくなってしまいそうだった。
 聞こえる筈がないのに、雨の音が聞こえて来る。風が鳴っているような気がする。誰かの悲鳴が聞こえて来たような気がする。

「違う、違う、違うっ! 囚われるな、進め、――あっ!」

 リックは囁くように吐き出して足を進めたが何かに足を取られて転ぶ。手から離れた燭台がカーンと大きな音を立てて手から離れてどこかへ消えた。蝋燭の灯りが消えれば、辺りは右も左も分からぬ闇に覆われる。

「ぁ……あ、あぁぁっ」

 リックは咄嗟に耳を両手で塞いで体を丸めて目を閉じる。
 風雨の唸る音が聞こえる。悲鳴が聞こえる。煙と火と血の臭いがする。声が聞こえて来る。
『やめてぇえええええ!!』
『リック、ここに隠れているんだ』
『声を出しちゃだめよ、いいわね?』
『助けて、助けてっ!』
『いやぁぁぁあああ!!!』
『苦しい、苦しいよ、助けてぇええ!!!』
『リック、こっちだっ』
『助けて、痛いよぉぉぉ!』
 黒い霧に呑まれて聞いた声が耳を塞いでいるのに聞こえて来る。あの夜の父と母の声が聞こえて来る。助けを求める苦悶に満ちた悲鳴が耳の奥からあふれ出るように聞こえて来て、リックは息も上手く出来なくなる。

「た、たすけっ、助け……マヒロさ、っ」

 縋るように伸ばした手が、温かなものに触れた。思わず顔を上げれば、淡い金の光が、闇の中に有っても消えることなく輝いている。リックは両手でそれを握りしめた。溢れ出る温かさに心が包まれて行く。乱れていた呼吸が落ち着いて、破裂しそうな程脈打っていた心臓が落ち着きを取り戻し始める。
 何度か深呼吸を繰り返して顔を上げる。
 闇だ、どこを見回しても闇だった。彼らは本当に生きているのだろうかという不安がじわりじわりと胸の内を侵食していく。自分はどちらに向かえばいいのか、闇が濃すぎて方向感覚が掴めない。

「……ィ、エディ、エディ!! どこだ!! 居るなら返事をしてくれ!!」

 叫んだ自分の声が幾重にも広がって闇の中に反響する。

「…………だ! …………よ! …………リック!!」

 リックは、咄嗟に顔を上げて、声が聞こえた方へと駆け出した。

「今度こそ、助けて見せるんだっ! 私はもうあの時の子供じゃないっ!!」

 手に握り秘めた魔石から感じる温かさを頼りに、リックは何度もエドワードを呼びながらひた走る。だんだんと自分を呼ぶ声がはっきりと聞こえてくる。その声も数が増えて大きくなって、今は地下中に響き渡っている。カロリーナやガストンの声もする。リックは階段を見つけて飛び降りる様な勢いで駆け下りる。

「エディ! エディ!!」

「こっちだ! リック!!」

 灯りが零れていた。仲間たちがファイアボールで生み出した灯りが、大地下牢へと続く緩く曲がる廊下の奥から零れている。
 リックは魔石を握りしめたまま駆けて行く。

「エディ!!」








「どれくらい、時間が経った?」

「あの小鳥ちゃんを見送って早一日だ」

 カロリーナの問いに答えたのは、向かいの牢に寝ころぶフィリップだった。カロリーナが、ぎろりとそちらを睨むが、フィリップはどこ吹く風でカロリーナよりも鬣っぽい赤い髪をがしがしと掻いた。雄だからか、カロリーナよりも牙が鋭く爪も鋭いし、大柄だ。

「なあ、リーナ、やっぱり無謀だったんじゃねぇのか?」

「神父殿なら絶対に気付いてくれるはずだ。黙ってろ、ハゲ」

「ハゲてねぇわ! このブス!」

「ああ? なんだと貴様!」

 何度目とも分からぬ口喧嘩が始まった。
 普段のカロリーナとフィリップなら「体力は温存しておけ!」くらい言うものだがどうにこうにも喧嘩は止まない。三回目まで止めていた仲間たちももう面倒になって放置している。
 エドワードは隣に座るハリエットに顔を向ける。

「大丈夫か、ハリエット事務官」

「ハリエットちゃん、中で休んでも良いのよ?」

 ジェンヌがテントを指差して言った。
 ハリエット以外は、皆、普段から鍛えている騎士たちだ。フィリップの事務官も騎士から登用されたので同様だ。三日四日、何も食べなくても生きて行けるし、水さえあれば一週間はいけるしそれだけの体力もあるが、ハリエットは身体能力的にはその辺の町娘と同じだ。だんだんと不安が重く彼女にのしかかってきているのかもしれない。顔色があまり良くなかったし、心なしかその小さな体が震えている。

「だ、大丈夫ですっ、あの、すみません」

 瓶底眼鏡でその目はよく分からないが、小さな唇は笑おうとして失敗している。
 ジェンヌが大丈夫よ、と告げてハリエットの小さな肩を撫でる。

「ハリエット事務官は、何が好き?」

 エドワードは出来るだけ明るい声でハリエットに尋ねる。
 ハリエットが顔を上げる。

「好きなもの、ですか?」

「そう、好きなもの。俺はね、馬が好きだよ。今日は神父さんの屋敷に預けて来ちゃったけど、シルフって言うそりゃあ可愛い子なんだ」

「ハリエットちゃん、エディはな馬好きを拗らせすぎて「私と馬とどっちが大事なのよ!」って言って彼女に振られたほどなのよ」

「……ジム、余計なこと言うなよ」

 エドワードはぎろりと睨むがジムはどこ吹く風でハリエットの隣に座る。

「あ、あの、私……馬には乗ったことが無くて、なんか大きいから怖いんです」

「えー、それは人生損してるよ。馬に乗って走るととっても気持ちいいんだ。俺の故郷は自然豊かな場所でね、草原をシルフに乗って駆け抜けると気持ちいいのなんのって! それに馬は優しい魔物だよ。マヒロさんの馬は気難しいけど、シルフとかイチロの馬は人懐こくて優しいんだ」

「そうなんですか?」

「馬によって個性があるのよ。ガスの馬は、奔放で気まぐれだし、カロリーナ小隊長の馬は豪快な性格をしてるわ」

 ジェンヌが言った。

「あ、そうだ。ハリエット事務官、ここを出てさ、雨期が終わったら俺が乗馬を教えてやるよ。すっげー楽しいし、気持ちいいぜ。事務官だから必要ないかもだけど、覚えておいて損は無いからさ。な?」

 エドワードは、にこにこと笑ってハリエットの顔を覗き込んだ。ハリエットが、はい、と嬉しそうに笑って口元をほころばせたのに気付いてほっと胸を撫で下ろす。ジェンヌも安心したように笑って、良かったわね、とハリエットの頭を撫でた。

「それにしてもカロリーナ小隊長たちもよくやるわ」

「昔っからああなのか?」

 すぐ傍で寝転んでいるガストンに尋ねる。

「ああ、昔っからああだな。顔を合わせりゃ喧嘩で、まだ中隊長だったラウラス殿に良く叱られてたが治らんな、ありゃ」

 ジェンヌがハリエットの耳を塞ぎながら、そうね、と頷いた。
 今や純粋な少女には聞かせられない様な罵詈雑言の嵐である。終いには指まで立てはじめた。この牢の格子が魔法を無効にしてくれなかったらファイアボールが飛び交っていただろう。

「ん? ルシアン、どうした?」

 不意にガストンが言った。彼が視線を向けたほうに顔を向ければ、豹の獣人族であるルシアンが耳をぴくぴくさせていた。緊張に彼の縦長の瞳孔が細くなっている。

「今、何か金属が床に落ちるような音が聞こえた気がする」

「マジかよ?」

「ちょっと小隊長たちを黙らせて!!」

 ジェンヌの声に周りの騎士たちがカロリーナとフィリップの口を塞ぎにかかる。

「なっふごふご」

「もがもが!」

「静かに、ルシアンが何か聞こえたって!!」

 ジェンヌの言葉にカロリーナとフィリップが耳をそばだてる。他の獣人族の騎士たちも同じように耳をそばだてた。地下牢がしんと静まり返る。手に何か触れて振り返れば、ハリエットが不安そうにエドワードの小指に自分の小指をこそそっと重ねている。躊躇いがちな小指だけのそれにエドワードはふっと笑って小さな手を握り返した。ハリエットが驚いて顔を上げる。

「大丈夫、きっと助けに来てくれたんだ」

 そう勇気づけるように言えば、ハリエットはこくりと頷いてエドワードの手をぎゅうと握りしめた。

「何か……いるな。音からして恐らく、一人だ」

 カロリーナが言った。ほかの獣人族も頷く。人族である自分たちには分からないが、彼女たちには何かが聞こえているらしい。
 エドワードはそれでも耳を澄ませる。

「皆、戦闘態勢に入れ。エドワードはハリエットを守れ、ジェンヌもだ」

 寝転がっていた騎士たちも起きあがり、剣を構えて魔力を手に溜め始める。エドワードも立ち上がり背にハリエットを庇う。ハリエットの背を守るようにジェンヌが後ろに着く。向かいの牢でも同じように騎士たちが戦闘態勢に入る。
 緊張感が地下牢の中に満ちて空気がぴりぴりする。エドワードは、目を閉じて耳を澄ませる。

「………………ィ、エディ!」

 暗闇の中で確かに自分を呼ぶ相棒の声が聞こえてエドワードは顔を上げる。

「リック!! リックだ!! リックの声がした!!」

「リック? あいつは暗闇が駄目だろう?」

 ガストンが言った。

「あいつは仲間のために強くなれる奴だ! リック! ここだ! こっちだよ! リック!!」

 エドワードは前に出て格子にへばりつくようにしてリックを呼んだ。

「足音が聞こえた! 誰か来るぞ!」

 フィリップが言った。エドワードは、リック、と友を呼ぶ。
 だんだんと声がエドワードの耳にも拾えるようになる。間違いなく聞こえて来るのはリックの声だった。カロリーナやガストンたちもリックを呼び始める。

「エディ! エディ! エディ!!」

「こっちだ! リック!」

 暗闇の名からリックが現れた。
 目が合った瞬間、リックが膝から崩れ落ちた。

「お、おい! リック、大丈夫か!?」

「リック、大丈夫か?」

「す、すみませっ、膝から力が抜け、て……っ、鍵、鍵を持って来ました……っ」

 リックが制服のポケットに手を入れて鍵を取り出した。這いずるようにリックがこちらにやって来て、鍵を差し込もうとするが、ガタガタと震えて狙いが定まらない。エドワードは、格子から腕を出してリックの腕を掴んだ。リックの体はがたがたと震えっぱなしだ。
 リックにとっての暗闇は、エドワードが暗闇に抱く恐怖とはきっと全く違うのだ。彼は闇の中で全てを失ったのだ。夜も灯りが無いと眠れないのを同室なのだから当たり前のように知っている。そんな彼が、この暗闇を一人で駆け抜けて来たのだ。

「一人で来たのか? あの暗闇を」

 カロリーナが問う。

「マヒ、マヒロさんが、上で一人で戦ってるんです、私は応援を連れて戻ると、約束、したん、です」

 ガタガタと唇を震わせながらリックが言った。
 漸く差し込まれた鍵が回されて、ガチャリと鍵の外れる音がした。ギギィッと嫌な音を立てて牢が開く。エドワードは、一番に飛び出して座り込んだリックを抱き締めた。

「よくやった! 流石は俺の相棒だよ!! お前は暗闇に勝ったんだ!!」

 震える腕が背中に回されてぎゅうと抱き着かれる。

「ははっ、そう、だといいな」

「そうだといいなじゃねえよ、そうなんだ」

 ガストンがくしゃくしゃとリックの髪を撫でてから鍵を手にフィリップ達の牢を開けに行く。

「良くやった、リック。私はとても誇らしいよ、お前は暗闇の中に有ったって、顔を上げて走り出せる。そして、大事なものを助け出せる。お前は間違いなくこの誇り高きクラージュ騎士団の騎士だ」

 カロリーナがリックの肩をぽんぽんと叩いた。リックは、感極まった様子で唇を噛み締めて頷いた。でなければきっと泣いてしまいそうだったのだ。リックが立ち上がろうとしているのに気付いて、エドワードは先に立ち上がり、友に手を貸す。リックは立ち上がると深呼吸を二、三度繰り返して気持ちを落ち着けると顔を上げた。

「上でマヒロさんが一人でリヨンズ派と戦っています」

「それだけの騒ぎを起こせば他の騎士が駆け付けるだろう。そうではないということは、上で何かあったな?」

 カロリーナが問う。

「クルィークの従業員と使用人、そしてマノリスが殺され、それに伴い、エイブとザラームが緊急指名手配されました。ラウラス副大隊長指揮の下、ブランレトゥ全体に緊急配備が敷かれ、殆どの騎士が出払って居ます。リヨンズが最後までここに残っていたので、おそらく本部内は向こうの騎士ばかりだと」

「分かった。すぐに助けに行こう、着いて来い!! エディはハリエットを担いで来い!」

「え!? 俺も戦いま」

「うるせぇ、一般貴族!」

 一喝されてエドワードは、はいと素直にハリエットの元に戻りハリエットを片腕に抱き上げた。ハリエットが軽くて小さくて良かったと思いながら、もう片方の手には剣を構えて走り出したカロリーナに続いて駆け出す。

「第二小隊に続け! 俺達も行くぞ!」

 後方でフィリップが声を上げた。
 力強い足音が地下牢の中に響く。リックはエドワードの隣をしっかりとした足取りで走っている。

「お前、その制服どうした? お前らの制服は俺が預かってるんだが……」

 ガストンが走りながら問う。

「話すと長くなりますが、小一のレイバンから借りました。マヒロさんも騎士服着てますよ、アーロンからはぎ取った」

「は?」

 リックは、くすくすと可笑しそうに笑った。
 一体、神父様は何をやらかして下さったんだろうとエドワードたちは頬を引き攣らせながらも地下二階を駆け抜け、地下一階から地上へと出る。カロリーナを先頭にそのまま外へと出るが外は異様な程に静かで雨の音がざあざあと響いている。

「なっ……」

 腕に抱っこしていたハリエットがずるずると落ちて行く。着地したハリエットは目の前に広がる光景に両手で口元を覆ってエドワードの腕に顔を押しつけるようにして目を背けた。後から出て来た騎士たちが何事かと騒ぐがそれを目にして押し黙る。
 吐き出された紫煙が雨に消されて散っていく。銀に蒼の混じる美しい月夜色の瞳がこちらに向けられる。

「……弟よ、遅いじゃないか」

 折り重なった屍の山に腰掛けて、水で出来た傘を差し、マヒロが煙草をふかしていた。辺りには騎士たちが無造作に転がっている。その数は五十弱といったところか。味方と思われる騎士がぽつぽつと転がる騎士たちの様子を見ている。

「し、神父殿、まさかこれ全部、殺し……」

 カロリーナが問う。
 マヒロは、無表情のまま首を傾げて紫煙を吐き出した。リックの言う通り、マヒロは確かに騎士の制服を着ていた。一分の乱れも無くきっちりとその制服を着こなしている。平騎士だというのにその佇まいは幹部に相応しい。

「馬鹿を言うな。全部生きている。まあ……全員、どこかしらの骨は折れているが」

 煙草を咥えたままマヒロが椅子代わりにしていた山から下りてくる。踏まれて痛かったのか、確かに呻き声が聞こえた。

「カロリーナ中三第二小隊長、フィリップ中二第五小隊長、無事だったか!」

 キアランがぱっと安堵の表情をその顔に浮かべてこちらに駆け寄って来る。

「キアラン中二第三小隊長、これは一体……」

「ラウラス副大隊長の指示で、俺がここに神父殿とリックを連れて来たんだ。いや、うん、まさか騒ぎが聞こえて駆け付けたらこんなことになっているとは思いもしなかったけど」

 キアランがそっと目を逸らした。カロリーナが前に出て、キアランの肩を慰めるように、ぽん、ぽんと叩いた。キアランの隣で当人は何を考えているか分からないいつも通りの無表情で煙草をふかしている。正直、年下だというのにそれが絵になっているのが悔しい。

「マヒロさん、その煙草は?」

 リックが駆け寄って行き、尋ねる。

「これか? どいつだったか忘れたが落としたやつがいてな。なかなかお前らが出て来なくて暇だったから、吸ってみたんだ。ここじゃ成人してるしな。なかなか美味いもんだな、これは」

 マヒロはふーっと紫煙を吐きだして短くなった煙草に火を点けて燃やしきった。

「さて、怪我人はいるか? 具合の悪い者も手を挙げろ」

 騎士たちは呆然としていて手を挙げる余裕も無いのだが、マイペースの化身みたいな麗しい神父様は、皆元気だな、と満足そうに頷いた。








「全員、仲良く地下牢にでも入れておけ」

 真尋の出した指示の下、騎士たちが次々に転がっている騎士たちを地下牢へと運んだ。無論、地下三階の大地下牢だ。
 それから真尋は、地下牢に見張りを立たせて、リックとエディ、カロリーナと彼女の事務官だというハリエット、そして、もう一人、一緒に捕まっていた第五小隊のフィリップという騎士を連れて本部の建物へと戻る。
 真尋は、どんどんと上へと上がる。

「あのマヒロさん、どこへ?」

「どこってリヨンズの執務室だが?」

 リックに問われて真尋は当たり前のように答える。

「どうしてマヒロさんがリヨンズの執務室の場所を知っているんですか?」

「簡単だ。見たからな。この間、団長閣下のところに来た時に仕掛けておいたんだ、色々と……そう、色々とな」

 ふっと真尋は口端を吊り上げた。何故かリック達の表情が引きつって、カロリーナが頭を抱えていたが、真尋は構うことなく中隊長たちの執務室が並ぶ階へと出る。
 真尋は、迷うことなく廊下の突き当りから三番目のリヨンズの執務室のドアの前で足を止め、そして、そのままドアを蹴破った。吹っ飛んだドアが部屋の中にいた何かにぶつかって、奇妙な悲鳴が聞こえた。

「なっ、し、神父殿!?」

「マ、マヒロさぁん!?」

「リック、エディ、覚えておくといい。世の中の悪事というものはな、大きな騒ぎの裏でもみ消されるものなのだ」

 真尋は中へと足を踏み入れた。

「なぁ、アーロン?」

 デスクの背後の本棚の裏に設えられた隠し棚からせっせと書類を運び出していたアーロンがその姿勢のままで固まっていた。蹴破ったドアの下にはレイバンが居て、伸びている。二人ともあのリネン室で真尋とリックが置いて行った服を着ていた。
 真尋はデスクの上に積み上げられた帳簿を手に取り、中を見る。帳簿は、たくさんの数字が並んでいて収支について書かれているが、少々、計算の合わない部分が多々ある。
 それ以外にもいろいろと様々な契約書が出て来た。

「貴様ッ! どうしてここにっ!」

「リック、エディ、不法侵入者だ、捕らえろ」

 真尋はデスクによりかかってそれらを見ながら言った。

「はい!」

 エドワードが嬉々としてアーロンに飛び掛かかっていった。リックがドアの下敷きになっていたレイバンを立たせて呪文を唱えて蔓で拘束する。カロリーナとフィリップ、ハリエットがこちらにやって来て真尋の手元を覗き込む。

「長年、随分と色々なものを溜め込んできたようだな、この男は」

 真尋は見ていた帳簿をカロリーナに渡してデスクから離れて部屋を散策し、カーテンの影にいたそれに手を差し伸べる。

「何でここにブラックスネイクが!?」

 フィリップが目を白黒させながら言った。
 真尋の腕にするすると這い上がって来たのは、長さ四十センチほどの細長い黒い蛇だ。その目は美しいルビーのように赤く、漆黒の鱗に覆われている。ここら一帯の林や平原に生息する猛毒の蛇だ。

「そう焦るな、魔導具だ。俺がいつも使って居る小鳥の蛇型だな」

「は?」

「リヨンズは蛇が大嫌いだという情報をとある筋から仕入れてな、図鑑で見たこの猛毒の蛇をこの部屋に潜り込ませたんだ。とはいえ本物じゃないから毒は無いが、良い脅しにはなるだろう? ついでに部屋の中の会話や様子を見聞きさせてもらったんだがな」

 真尋が呪文を唱えれば、黒い蛇はただの紙へと戻り真尋の手の中に納まった。

「小隊長殿、後は任せた。伝令はクルィークに出すと良い。そこを拠点にラウラス殿が指揮を執っておられる」

紙の蛇をアイテムボックスにしまって、真尋はアーロンをふんじばって楽しそうにしているエドワードとあきれ顔のリックを振り返る。

「リック、エディ、屋敷が心配だから俺は帰るが、お前たちは……どう、する……」

 勢いを失った言葉が墜落していく。リック達が不思議そうに首を傾げている。
 真尋は窓辺に駆け寄り、窓を開け放った。雨に濡れた風が入り込んでくるのと同時に白い紙の小鳥が真尋が差し出した手の中に落ちる。

『……真尋くん。今すぐに屋敷に戻って』

 聞こえて来たのは固く強張った親友の声だった。

『ノアくんの容体が急変したんだ』





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