称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第四十話 遡った男

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 ナルキーサスは、玄関近くの診察室でカルテを見ながら顎を撫でる。
 時刻は既に子どもたちの就寝時刻を過ぎている。そのため家の中は昼間の賑やかさが嘘のように、しんと静まり返っている。
 デスクに広げられたカルテは、子どもたちのものだ。
『健診はいつだって抜き打ちだ!』と子どもたちの健診をしたのだ。双子だけでなく、他の子どもたちも、そして、たまたま居合わせたダニエルも。ケイティは何だかよくわからなけれど、ナルキーサスほどの名治癒術師に診てもらえたなんて安心すると嬉しそうに帰って行った。
 ノックの音がして「どうぞ」と答える。
 入って来たのはやはりマヒロとユキノ夫妻だ。彼らの後ろにはリックがいる。子どもたちが寝たら、ここへ来るように言ってあったのだ。
 リックがどこからともなく取り出してナルキーサスの前にくっつけるようにして並べて置いた椅子に二人はそれぞれ座り、リックが背後に控えた。

「寝たか?」

「ああ。二人とも子ども部屋で。ミアの傍には園田を置いて来た」

 子どもたちは、ブランレトゥの屋敷と違って一人一部屋というわけにもいかないので双子とサヴィラとレオンハルトとジョンは同じ部屋で寝ている。ミアとシルヴィアはそれぞれの親と一緒だ。

「まず健診の結果だが……ミアとサヴィラは、これまでの生活環境が悪すぎて、少々、種族的な平均値から見ても小柄だな。できるだけサヴィラは肉中心の、ミアは野菜中心の、栄養価の高い食事を心がけるように。それ以外は健康だ」

「ああ」

「分かりました」

 夫婦が揃って頷く。リックが後ろで手帳にメモを取っている。

「……それで、双子だが……身長に対して少しやせているのは事実だ。マヒロがいなくなってから食事を拒んでいたんだったな」

「はい。……ほとんど食べてくれなくて、でも、真尋さんが生きていると教えられてからは、お兄ちゃんに会う旅に出るからってまた食べるようになったんです。徐々にもとに戻って今の食事量は以前と同じか、むしろ少し多いくらいです」

 ユキノが答えてくれたことをカルテに書き足す。

「だとすれば、体重に関しては今のところは問題はないだろう。体や魔力には、とくに異常は見られなかった」

「……そうか」

「寝る前はなんと呼んでいた?」

「お父さん、お母さん、と」

 マヒロが答えるが、その声には覇気がない。ユキノの顔も暗く沈んでいる。
 それもそうだろう。事情など深く知らないナルキーサスから見ても彼らは兄弟というより親子だった。多忙な両親に代わって、マヒロとユキノが深い深い愛情を持って、彼らに接していたの伝わって来るほどだ。
 弟というより我が子に近い存在の異変に、さすがのマヒロもユキノも憔悴しているようだった。

「……人間の記憶というものは、とても脆くて適当だ。自分に都合のいいように置き換えられてしまうことも多々ある」

「それは、分かる。……園田がそうなんだ」

 思いがけない言葉にナルキーサスは眉を寄せる。リックも意味を計りかねているのか、首をかしげている。

「リックには話したが、あれは俺が拾ったと言っただろう?」

 マヒロの言葉にリックが頷く。

「行き付けのお店の人に紹介されて、良さそうだから拾ったんでしたっけ?」

「ああ。正確に言えば……俺があいつに出会ったのは、俺が十三歳、あいつが十八歳の時だった。だが……実際は、あいつは幼い頃に親に捨てられて、親戚をたらい回しにされ、その間、ずっと酷い虐待を受けていたんだ。紹介されたんじゃない。行き付けの喫茶店の奥さんに、あの子を助けてほしいと頼まれたんだ」

 息を飲む音が二つ、静かな治療室に落ちた。

「あれの服の下は古い傷痕と火傷の痕だらけだ。……常に人の顔色を伺っているような男だった。最後の引き取り手となった女に刺されて、死にかけた。さすがにそのことは覚えているようだが……その際に体のあちこちを検査してもらってな。骨が折れた痕なんかもあったんだが、あいつはそんな大けがをどうして負ったのかを覚えていないんだ」

「実のご両親のことも、二人から向けられた言葉や無視されたこと、母親の嘆きなんかは覚えているのに、顔はさっぱりと。充さんがご両親と離れたのは、七歳のころなのに」

「……それもまた自己防衛だな。不要な……心が痛む記憶を、自ら消しているんだろう」

「ああ。向こうの治癒術師にも同じことを言われたよ。一生、そのままかもしれないし、いつ何時、思い出すかもわからないから……よくよく気にかけてやるように、と」

「私の所見だが……双子も同じような状態に陥っている可能性がある。私はそちらの専門ではないから、断定はできないが」

 ナルキーサスの言葉にユキノは、唇を噛みしめた。マヒロは眉間に深く皺を刻み込み、目を伏せている。

「あの場には私もいたが……アマーリア様が子どもたちが小さかった頃のことを昨日のように覚えていると言ったこと、それに対してミアが、自分のお母さんが覚えていてくれるのが嬉しいと言ったこと……それがきっかけになって、自分たちが産まれた時のことを聞きたくなったのではないかと思っている。健診の時にそれとなく聞いたんだが、二人とも『お父さんとお母さんが、ちゃんと覚えていてくれて、それで嬉しかったって言ってくれて、僕も嬉しかった。良かった』というようなことを言っていた。この件について、何か心当たりはあるか? ……ユキノ?」

 見る間に顔色を悪くしたユキノに思わず腰を浮かせる。マヒロが左腕を彼女に伸ばして、その肩を抱き寄せた。ユキノはマヒロの胸に顔をうずめ、かすかに震えていた。
 リックがすぐ横の診察用のベッドから毛布を持って来て、ユキノにかける。

「…………両親に真智と真咲の記憶は、もう……ないんだ」

「どういう意味だ?」

 さっぱりと理解できずにナルキーサスは上げかけた腰を下ろしながら尋ねる。
 マヒロは、ユキノの髪に口づけをしつつ言葉に悩んでいるようだった。

「俺たちの故郷は……この世界にはないんだ」

「は?」

「現実主義者の君が信じてくれるかどうかは知らんが……君とリックのことは信頼している。だから……話そう。俺たちが、どこからやってきたのかを」

 顔を上げたマヒロの、蒼の混じる銀の双眸は、射貫くような真剣さを携えてナルキーサスを捉えていた。
 それからマヒロが話してくれた内容は、にわかには信じがたく、想像もできないような話だった。
 ナルキーサスもリックも黙って聞いていたが、質問するために必要な疑問さえ抱く余裕がなかったと言った方が正しかった。話を聞き終えて、ナルキーサスは椅子に深々と腰かけ、背凭れに身を預ける。

「違う世界、ニホン……神の与えた体……」

 長い話になるからと途中、ベッドへでも座るように言われたリックが呆然としながら呟いた。
 ナルキーサスは、片手を額に当て、深々と溜め息を零す。

「ずいぶんと荒唐無稽な話だ」

「信じろとは言わんさ……だが、あの子たちに起こった出来事は……ただの記憶の置き換えでは済まないかもしれないということを知っていてほしかった。俺の勝手だ」

 マヒロが淡々と告げる。

「私は……むしろ納得しましたよ」

 ちらりと目を向けた先で、苦笑を浮かべたリックがその先を続ける。

「正直、これを言い出したのがエドワードだったら、正気を疑いますし、時間を無駄にしてくれやがったなと殴って済ませます」

 温和な割に、あのカロリーナの下にいただけはあって武闘派なんだよなぁ、とナルキーサスは場違いな感想を抱いた。

「ですが、これだけ規格外なことをなさるマヒロさんですから、ね。いわゆる『だってマヒロだからな』ってやつです」

「喜んでいいのかよくわからんが、礼は言っておこう。ありがとう」

「貴方がなんであれ、私は貴方の護衛騎士ですから」

 リックは嬉しそうにそう告げる。
 随分と懐いたことだ、とナルキーサスはあきれ半分、感心半分でもう一度、ため息を零し、口を開く。

「言った通り、にわかには信じがたい。だが……私も同じだよ。『だってマヒロだからな』と、これで片付いてしまうんだよ。君の場合は」

 ナルキーサスだって、この破天荒で無茶苦茶な男の生い立ちは信じがたいのに、聞いてから妙に納得してしまったのだ。悔しいことに。

「どういう意味だ」

「伝説種のドラゴンをぶん殴って従魔にした男は異世界から来たと言われるほうが、納得できるという意味だ」

 自分で言って、大いに納得できてしまう。
 ナルキーサスが信じるとは思っていなかったのだろう。マヒロのほうが腑に落ちない顔をしているのだから面白い。

「とはいえ、神様とやらまで関わって来るとなぁ。私がいくら優秀とはいえ、管轄外過ぎる……」

 くしゃくしゃとナルキーサスは頭を掻いた。
 百年以上生きているのだから、これまでの治癒術師としての知識や経験はかなりのものだとナルキーサスだって胸を張って言える。しかし、神が作った体など、伝説種のドラゴンより未知のことだった。

「だが……同じく体を作ってもらった君やイチロ、ミツルもユキノもなんともないよな? ミツルとユキノは、種族さえ違うのに。カイトはあんまり長い時間一緒にいたことがないからよくは分からんが、とくに異変はなかったんだろう?」

「……全く同じってわけじゃないんです。あの子たち、三歳ほど若返っているから」

「若返って、いる? あんなに若いのに?」

 ユキノが夫にもたれかかったまま呟いた言葉にナルキーサスは混乱する。
 例えば、口元の皺が気になりだす年齢になっていたりとか、体の衰えを憎々しく思っていたりする年齢だとか、ある一定の年齢数ならば若返りたくなる気持ちも分からないでもない。
 双子は確か八歳と聞いているが、三歳若返ったとするならば実年齢だってまだ十一歳と、そう変わらない子どもではないか。

「そういえば……異世界うんぬんのいざこざは聞いたが、両親とのいざこざは聞いていなかったな。それが関係しているのか?」

「おそらく、ですけれど……」

 ユキノはそう前置きして、ニホンで、マヒロが亡くなった後に彼の両親と双子たちの間で起きたことを、声を震わせ、涙をぽろぽろと零しながら教えてくれた。マヒロがユキノを強く抱き寄せて、髪やこめかみにキスを落とし「大丈夫」「君は悪くない」と声をかけていたが、ユキノの告白からは、途方もない後悔が見て取れた。
 話を聞き終えたナルキーサスは、こめかみが引きつるのを抑えることができなかった。

「君たちの実家が異世界じゃなかったら、申し訳ないが私が君の家に行って、そのクソおやじを八つ裂きにしている」

「先生、その際は私も同行します。得意ですから、拘束」

 リックがにこにこしながら言った。彼は頭にくると笑うタイプだった。
 ナルキーサスは「その時はまかせた」とリックと握手を交わし合った。

「君たちの母君はともかく、なんだその父は……言いたくないがクソだな」

「言ってるじゃないか。まあ、我が父ながら本当に最悪だ。俺があちらにいたら、問答無用であの人が一番大切にしている社会的地位から何から何まで奪ってロシアのオイミャコン……俺たちの世界で人が住んでいる中で最も極寒と呼ばれている場所なんだが、その辺に放りだしていた」

 物騒なことを言う神父は、言葉にそぐわない神妙な顔をしている。

「正直、あの子たちは赤ん坊に戻りたいとまで神に願った。俺と雪乃の子になりたいと……それが無関係だとは思えなくて」

「……確かに、な。……思ったんだが、母親とはそこまで悪い関係ではなかったんだよな?」

「ああ。ほとんど家にはいなかったが……それでも傍に居られない分、会った時には愛情を言葉や行動にしてくれる人で、会えない時もこまめに連絡をくれる人だった。母さんの愛情を真智と真咲だって、ちゃんと受け取っていた」

 ふむ、とナルキーサスは足を組みながら、顎を撫でる。

「やはり、母親とのことはことは少なからず関係がありそうだが……とりあえず今の私に言えることは、辛抱強く、そして細やかに観察を続けるほかないということだ。不安がらせないように子どもたちには私の研究の一環とか理由をつけて、健診を受けてもらおう。……正直、双子には関係ないがサヴィラは受けたほうがいいからな」

「そうなのか? さっき健康だと」

「成長が遅れているからですか?」

 マヒロとユキノが矢継ぎ早に尋ねて来る。
 ナルキーサスは「まあまあ落ち着け」と言ってサヴィラのカルテを二人に渡す。不自由なマヒロにかわってユキノが受け取り、マヒロが横から、リックが後ろから覗き込む。

「サヴィアは、魔力値が同年代の子に比べれば五倍以上高い。大人の、それこそ優秀な魔導師の卵レベルの魔力量だ。貴族の血を引く子だから、持って生まれた才能だな。属性も三つもあるし」

「……確かに。私も騎士ですから、一般人よりは多いですが……サヴィラは私とそう変わりませんね」

 リックが感心したように言った。

「だろ? 貴族の令息によくあるんだが、魔力量が多すぎると体内で飽和状態になって成長を阻害することがあるんだ。君が発症した魔力循環不順症に似ているな。ただ、これには魔獣は関係ないし、幸いサヴィラ自身は魔法が得意で、日常のいたるところで気軽に魔法を使い、子どもたちと遊ぶのにも難なく上級レベルの魔法を使っている。魔力を定期的に発散しているから、今のところは大丈夫だ。現在の成長の遅れは、先ほども言った通り、貧困故の栄養不足だろう。だが、もしこれからも成長が進まず、魔力量ばかり増えるなら、魔力抑制薬を服用するほうがいいだろうな」

「その薬、副作用はあるのか?」

「飲み始めは少々熱が出る。だが、体が薬に慣れればとくに副作用はない。三十五年ほど前に私が開発した薬だから安心してくれ。ただ不調というのはできるだけ発見は早い方がいい、定期的に魔力量の測定と身長と体重の測定はしていくほうがいいだろう。サヴィラは賢いから、この件に関しては私が直接説明しても?」

「ああ、頼む」

 マヒロが即座に頷いた。ユキノから返してもらったカルテをデスクに置く。

「もう一度言うが、子どもたちは皆、健康そのものだ。大きな病気や小さな怪我もない。そこは安心するように。それとユキノ。あまり自分を責めないようにな」

 マヒロに支えらえたままのユキノに声をかける。
 ナルキーサスは立ち上がり、夫婦の前に膝をつく。固く握りしめられているユキノの手を両手で包み込んだ。握りしめられた手は冷え切って、微かに震えている。

「我が子のように想えばこそ、君が君自身を責めるのは、かつて母親だった私にも痛いほどに分かる。だが……責めても何も変わらん。これも私の実体験から基づく事実だ」

「……キース先生」

 涙にぬれた銀の眼差しは、ナルキーサスであっても、ドキッするほど綺麗だ。
 手を伸ばし、その涙をぬぐう。

「大丈夫。あの子たちに、どう寄り添っていくべきか、一緒に考えようじゃないか」

「はい……ありがとうございます、先生」

 微かに笑みを浮かべたユキノに、ナルキーサスも笑みを返して立ち上がる。

「さあ、今夜はもう寝ろ。明日にはジルコン夫妻も来るんだろう?」

「ああ。……ありがとう、キース。それと俺の息子たちをよろしく頼む」

 マヒロが頭を下げ、立ち上がる。ユキノも夫に支えられるようにして、立ち上がりナルキーサスに「お願いします」と告げると、マヒロと共に退出していった。リックが夫妻の座っていた椅子を片付け、それとなく夫婦の様子をうかがいながら、その背について行った。
 一人きりになった治療室で、ナルキーサスは、椅子に腰かけふっと息を吐く。

「異世界、か……他の奴に言われたら私も鼻で笑うところだが…………」

 銀製のブレスレットを撫でながら、苦笑を一つ零す。

「だって、マヒロだからなぁ…………疑いようもない。そう思うだろう、シャマール」

 息子の姿を思い浮かべながら、ぽつりと零す。
 規格外な神父の規格外すぎる理由を知って、正直ちょっとほっとしたくらいだ。
 とはいえ、双子のことはやはり気にかかる。神の作った体の不具合なのか、心の不具合なのか、どちらにしろ日々の観察が重要になってくるのは間違いない。病気の原因を突き止めるには、日々の観察が不可欠なのだ。
 だが、何かもやもやとした不安が胸の奥に残されている。治癒術師の勘なのか、永く時を生きるエルフ族としての勘なのか分からないが、ナルキーサスでは手に負えない何かが、立ちはだかっているように感じるのだ。

「とりあえず……寝るか。私も元気でいないとな」

 ぐーっと伸びをして立ち上がる。
 玄関近くの応接間だった部屋を治療室にしているため、部屋の奥をパーティションで区切って自分の部屋にしたのだ。何かあった時、わざわざ移動する必要もないので、気に入っている。

「さて、シャマール。明日からも忙しいぞ、母上を応援してくれよ」

 ブレスレットに声をかけてキスをして、寝間着の上から着ていた白衣を椅子の背に掛けて、ナルキーサスはベッドへと向かったのだった。






 衣擦れの音に、サイドボードの上で、薄闇を照らしてくれていたろうそくの火を急いで消した。目を向ければ薄明かりの中でユキノが毛布の上に広げていたショールを手繰り寄せていた。彼女は、欠伸を一つ零してそのまま起き上がる。

「おはよう」
 
「おはよう……あなた、何時に起きたの?」

 彼女の目が真尋の手元の本に落とされ、剣呑に細められる。

「ほんの十分前だ」

「一時間も前から起きていたのね?」

「…………はい」

 一瞬で看破され、真尋は素直に負けを認めた。
 どうして彼女には嘘が通用しないのか。真尋にさえ分からない。

「まだ寝ててもいいんじゃないか。太陽だって顔を出していないぞ」

「朝ごはんの仕度があるもの……もうミツルさんもリックさんも……サヴィラも起きているわ」

 白い耳がぴくぴくと辺りの音を拾っている。

「皆、早起きだな」

「あなたはまだここにいてね。ミアが寝ているもの」

 雪乃は二人の間でラビちゃんと一緒に寝ている娘を撫でながら言った。ミアの頭上ではタマが丸くなって眠っている。テディはどこで寝ているのかは分からないが、家の中のどこかにはいるはずだ。初日にあまりに温泉を気に入り過ぎて、ご飯をそこで食べようとして雪乃に怒られたテディは、朝はちゃんと温泉から出て、朝ご飯を食べている。
 飼い主たる真尋が逆らえないのだから、ペットの熊が雪乃に逆らえるわけもない。

「ああ。分かった」

 そうして雪乃が立ち上がろうとしたところで、ノックの音がして顔を向ける。雪乃が答えれば、園田とサヴィラ、そしてレオンハルトが顔を出した。

「雪乃様、本日の朝食は市場で調達してまいります」

「市場?」

「朝市をやっているのだと昨日、市場で教えて頂きまして。食材の調達と併せて、朝食も買ってまいります。ですので、今日はゆっくり過ごされてください」

「俺とレオンとアイリスで行って来るから。留守をよろしくね」

「行ってくるぞ!」

 順に園田、サヴィラ、レオンハルトが告げた。

「じゃあ、お願いしちゃおうかしら。ミツルさん、あれば果物もお願いできるかしら。あとお菓子作りの材料も」

「かしこまりました。では、行ってまいります」

 園田が頭を下げ、サヴィラとレオンハルトが手を振って、ドアがぱたんと閉まる。
 寝室は再び静かになった。
 秋が深まり朝は冷え込むようになった。デザインと型紙は騒動の前に作ってあるので、寒さに弱いサヴィラのコートを発注しなければ。本当は自分で作るつもりだったが、この手では悔しいが無理だ。
雪乃が立ち上がり、暖炉の前に行ってしゃがみこんだ。再び彼女が立ち上がると、ぱちぱちと薪の爆ぜる音ともに赤い炎が揺れている。

「充さんが火をつけるだけにしておいてくれるのよ」

 そう言いながら雪乃が戻ってきて、ベッドに腰かける。

「ちぃちゃんと咲ちゃん、顔を出さないってことはまだ寝ているのね」

「ああ」

「あの子たちの心にもっと寄り添ってあげるべきだったわ……」

 雪乃の声が沈む。
 真尋は、抱きしめたいのに思うように動かない体を恨みながら、その細い背を見つめる。

「二人も気づかないような小さな傷だったのかもしれない。俺の目には、真智も真咲も元気そうに見えていた。……だが、それが正解でなかったとしても、あの子たちが俺と君を父親と母親だと思ってくれたのは、あの子たちにとって信頼できる証拠だと、そう思っている」

「……そうかしら」

 雪乃が俯いた。
 彼女の白い手が横でみつあみにしていた髪をほどく。柔らかくもまっすぐな黒髪は、癖一つなくさらりと背中に流れた。

「俺には分からん感覚だが……父親と母親というのは、安心する存在なんだろう? ミアが俺と君の間で、こうして悪夢一つ見ずに可愛い寝顔を浮かべているように」

「……私も入院する期間がだんだんと短くなって、その分、あの子たちのそばにいる時間も長くなって……二人が私に母親の愛情を求めてくれているの、嬉しかったの。だって、あなたにそっくりで、とても可愛い子たちだもの。でもずっと……お義母様に申し訳ない気持ちもあったの」

「……どうして?」

「だってお義母様が本当のお母様だもの。同じ病院だったから、私、暇を見つけてはお見舞いに行ったの。大変なのよ。早産にならないように、お義母様は絶対安静で、ほとんどベッドから動けないんだもの。話し相手くらいにはなろうと思って……ずっと見ていたわ。二人が産まれるまでの少しの間だけれど……お義母様が、自分のすべてをかけてあの子たちを産むのを、見ていたの。それを、その無償の愛情を私はあの子たちに、もっときちんと伝えるべきだったわ」

 雪乃は真尋が知る中で、もっとも前向きで過去など振り返らない人だ。
 だが、こと双子のことに関しては、そういうわけにもいかないのだと伝わってくる。それだけ彼女が、双子のことを大切に、大切に思っていてくれていることの証明でもあった。

「……朝食の心配はなくなったし、もう少し横になっていたらどうだ?」

 なんと言葉をかければよいかわからず、出てきたのがそれだった。

「そうね、そうしようかしら。朝寝坊なんて贅沢ね」

 細い背にそんな頼りない言葉をかけたのに、雪乃は振り返って微笑んだ。
 しかし、雪乃が横になろうとしたところで、ぴたりと動きを止めた。どうした、と真尋が聞くよりも早く、真尋にも階段を下りてくる一人分の足音が聞こえた。
 この軽い音は子どもの足音だ。サヴィラとレオンハルトは出かけているし、シルヴィアがドタバタと降りてくるのは考えにくいし、真智と真咲は必ず二人一緒だ。だからおそらくジョンだろう。

「お、お兄ちゃん! お姉ちゃん、た、大変!! あ、リックくん! ドア、ドア開けて!」

「え、ジョンくん、それ、え!?」

 足音の主は正解だったが、聞こえてきたのは嫌に焦ったジョンの声だった。ついで、リックの驚きに満ちた声が聞こえて来る。
 ミアが「んー?」と目をこすりながら起き上がったのと同時にドアが開いて、ジョンが飛び込んできた。
 真尋と雪乃は、大きく息を飲み、これでもかと目を見開いた。
 ジョンの腕の中に、小さな黒髪の赤ん坊が二人、納まっていた。
 雪乃が先に立ち上がり、ジョンに駆け寄る。真尋もなんとかベッドから起き上がって、ふらつきながらも彼らの下に行く。騒ぎが聞こえたのだろう。ナルキーサスも寝間着のまま顔を出した。

「……うそ」

 雪乃が両手で口元を覆い、小さく呟く。

「まち、まさき」

 こんなに頼りない自分の声を聞くのは初めてだった。
 ジョンの腕の中にいるのは、間違いなく真尋の最愛の弟たちだった。
 銀に水色、銀に黄緑の混じる眼差しが、それぞれ真尋と雪乃を見つめている。

「雪乃!」

「マヒロさん!」

 雪乃の体が大きく揺れて、咄嗟に腕を伸ばして受けとめるが、今の真尋では支えきれずリックに二人そろって支えられる。
 ナルキーサスが真尋を支えてくれ、リックが気を失った雪乃を抱き上げて、ベッドに運んでくれた。いつの間にか起きたミアが、ジョンから真智を受け取って抱いている。さすがにジョン一人で抱え続けるには、重かったのだろう。
 そのまま真尋もベッドに座らされる。
 ナルキーサスがすぐに雪乃の様子を見てくれ、ただ気を失っただけだ、と教えてくれた。
 二人の赤ん坊がナルキーサスによって雪乃の横に寝かされる。どちらも問題はなそうだ、と赤ん坊の様子を見ながら彼女は告げた。
見たところ、まだ首も据わっていないような月齢だ。二カ月行くかいかないか、というところだろう。弟たちが昨夜着ていた綿の寝間着はぶかぶかで、それにすっぽりと包まれている。のそりと起きたタマが、びくびくしながら赤ん坊を見ている。

「それで……一体、何が?」

 ナルキーサスの問いに、ジョンに皆の視線が向けられる。

「起きたらサヴィとレオンがいなくて。それで、二人はいるかなって、下を見たら赤ちゃんがいたんだ」

 彼らは持ち込んだ二段ベッドで寝ているのだ。

「昨夜から起きるまでに何かおかしなことはあったか?」

「昨日はお兄ちゃんがカグヤ姫っていうお姫様のお話をしてくれて、そのまま寝ちゃったから……あ、でも、僕、夜中にトイレに起きたんだけど、その時はまだ普通に二人とも寝てたよ」

「そうか。ジョン、ありがとう」

 ナルキーサスが、ぽんぽんとジョンの頭を撫で、真尋を振り返る。

「サヴィたちは?」

「園田と一緒に朝市に朝食を買いに……商店が開いたら、赤ん坊のあれこれを揃えなければな。とりあえず、リック。あとでリリーと一緒に買い物に行ってくれ。彼女なら赤ん坊に必要なものが分かるはずだ」

「はい。分かりました」

 リックがしかと頷く。

「パパ、チィちゃんとサキちゃん、赤ちゃんになっちゃったの?」

 ミアが不安そうに真尋を見上げる。おいで、と声をかければミアは真尋の隣に座った。幼い娘を抱き寄せて、真尋は「大丈夫だ」と自分にも言い聞かせるように告げる。
 すると「ん」と声が聞こえて、振り返れば雪乃が目を覚ました。ナルキーサスが彼女が起き上がるのに手を貸してくれた。

「ごめんなさい……私……」

「ほんの十分ほどしか経っていない。……大丈夫か?」

「ママ……」

 靴をぽいっと脱いでベッドに上がったミアが、雪乃の下にいく。雪乃は不安がるミアを抱き締めて、大丈夫、と微笑んだ。

「ごめんなさい、びっくりしちゃって」

「無理をするな。……さすがの俺だって驚いている」

 真尋の言葉に雪乃は「そうよね」と苦笑を零して、双子に顔を向けた。小さな赤ん坊は、いつの間にかすよすよと眠っている。

「リック、一路と海斗に大至急戻るよう伝えてくれ」

「はい。すぐに」

 リックが頷いて部屋を出ていく。彼にはもう一羽、いざという時用に速達便を預けてある。

「ジョン、悪いがそこの水差しから、水をくれるか?」

 真尋は雪乃側のサイドテーブルを指差した。ジョンがすぐにグラスに水を注いで持って来てくれた。礼を言って受け取り、一気に飲み干す。冷たい水が喉を通り過ぎて、体に沁みる。

「お兄ちゃん、大丈夫?」

 ジョンが出してくれた手に空になったグラスを渡す。

「ああ。……ジョン、あれこれ頼んで悪いが、アマーリア様たちを呼んで来てくれるか」

「うん、任せて!」

 そう言ってジョンは真尋から受け取った空のグラスを持ったまま、部屋を出て行った。

「……防御魔法や、タマやテディが何の反応も示していないということは、侵入者の線はないだろう」

「ああ、そうだな」

 ナルキーサスが頷く。

「何かこう……若返る病気とか」

「幼児退行や赤ちゃん返りという症状は有るが、精神的な話で、肉体的なものじゃない。……こんな症例は見たことも聞いたこともない」

「呪い、とか」

「そういう類のものはダンジョン最深部の古代の遺物にあるかどうか、という極めて稀なものだ。この二人がそれに触れている可能性はないだろ。どう考えても」

「生気を吸う魔物とか」

「そんなものが入って来たら、タマとテディが黙っていない。第一、生気を吸われたらむしろ老け込むだろ……言いたくないが、君のとこの神様が何かしら失敗したんじゃないか」

 否めない。否めなさすぎて、真尋は口を噤んだ。
 ナルキーサスが「沈黙は肯定だぞ」と胡乱な目で真尋を見ている。その視線から逃げるように真尋はベッドの上の弟たちを振り返る。すよすよと寝ている姿は、愛らしい以外の何物でもないのに、原因不明という事実が真尋を不安で押し潰そうとしている。

「ミア、パパに赤ちゃんを抱かせてくれるか? 近くにいる真咲を」

「うん」

 ミアが雪乃から離れて、そっと真咲を抱き上げた。ノアの世話をしていたのもあるだろうし、時々、孤児院に遊びに行くためか、ミアは首も据わっていない赤ん坊を上手に抱き上げて、真尋の下に連れて来てくれた。
 左腕に抱えれば、あまりの軽さにめまいがする。昨日まで、確かな重みがあったのに。 
 雪乃がぽつんと残った真智を抱き上げた。

「……初めて抱っこをした時のことを思い出すわ」

「……ああ」

 本当に小さな弟たちだった。
 双生児であったためか、少し早く生まれた二人は二千グラムしかなくて、暫く保育器の中に入っていた。二人が退院してきたのは、誕生から一カ月後のことだった。

「可愛いな」

「本当に……何があっても、可愛いわ」

 少し滲んだ震える声で雪乃が頷いた。
 真尋はそれ以上、何を言うこともできなくて、ただ真咲を抱いてその無垢な寝顔を見つめていたのだった。


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女神の代わりに異世界漫遊  ~ほのぼの・まったり。時々、ざまぁ?~

大福にゃここ
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目の前に、女神を名乗る女性が立っていた。 麗しい彼女の願いは「自分の代わりに世界を見て欲しい」それだけ。 使命も何もなく、ただ、その世界で楽しく生きていくだけでいいらしい。 厳しい異世界で生き抜く為のスキルも色々と貰い、食いしん坊だけど優しくて可愛い従魔も一緒! 忙しくて自由のない女神の代わりに、異世界を楽しんでこよう♪ 13話目くらいから話が動きますので、気長にお付き合いください! 最初はとっつきにくいかもしれませんが、どうか続きを読んでみてくださいね^^ ※お気に入り登録や感想がとても励みになっています。 ありがとうございます!  (なかなかお返事書けなくてごめんなさい) ※小説家になろう様にも投稿しています

貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた

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 貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。  僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。  魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。  言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。  この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。  小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。 ------------------------------------------------------------------  お知らせ   「転生者はめぐりあう」 始めました。 ------------------------------------------------------------------ 注意  作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。  感想は受け付けていません。  誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。

フリーター転生。公爵家に転生したけど継承権が低い件。精霊の加護(チート)を得たので、努力と知識と根性で公爵家当主へと成り上がる 

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400倍の魔力ってマジ!?魔力が多すぎて範囲攻撃魔法だけとか縛りでしょ 25歳子供部屋在住。彼女なし=年齢のフリーター・バンドマンはある日理不尽にも、バンドリーダでボーカルからクビを宣告され、反論を述べる間もなくガッチャ切りされそんな失意のか、理不尽に言い渡された残業中に急死してしまう。  目が覚めると俺は広大な領地を有するノーフォーク公爵家の長男の息子ユーサー・フォン・ハワードに転生していた。 ユーサーは一度目の人生の漠然とした目標であった『有名になりたい』他人から好かれ、知られる何者かになりたかった。と言う目標を再認識し、二度目の生を悔いの無いように、全力で生きる事を誓うのであった。 しかし、俺が公爵になるためには父の兄弟である次男、三男の息子。つまり従妹達と争う事になってしまい。 ユーサーは富国強兵を掲げ、先ずは小さな事から始めるのであった。 そんな主人公のゆったり成長期!!

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