称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第三十九話 動揺する男

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「……いい湯だな」

「ええ、そうねぇ」

 マヒロとユキノが並んで座り、浸かっているのは、足湯だ。地下の大浴場の一部が足湯になっているのだ。
 リックは仲良く足湯を楽しむ夫婦を見守る係に徹している。
 さすがにいくら怪我に良いとはいえ、まだろくに歩けもしない状態で、マヒロが全身お湯につかるのは危険だ。なのでまずは、いざという時、魔法を使わずともマヒロを運べるリックの監視付きで足湯からということになったのだ。
 マヒロが買ったグラウのこの家は、地下一階は温泉施設がメインになっていて、大浴場の中にこの足湯がある。庭の片隅には植物の天蓋に覆われた露天風呂があり、二階の主寝室にもお風呂がある。
 ここへ来て早いもので三日が経った。マヒロの状態は相変わらずだが、昨日の夜、顔の包帯が外された。痣がようやく治ったのだ。

「きゅいきゅい~」

 タマが気持ちよさそうに足湯を泳いでいる。まだ小さなタマなら泳げるのだ。

「ドラゴンも温泉につかるんだな」

「ええ、好きみたいよ。しょっちゅう温泉にいるってサヴィやちぃちゃんが言っていたもの」

「へぇ。……まあ、もう一匹、温泉から出ようとしないのがいるがな」

 マヒロが顔を向けた先を辿れば、茶色の巨体が湯につかっている。言わずもがな、テディだ。
 大浴場には大きな浴槽の他に小さなものと小さくて少し深めのものがそれぞれ一つずつあるのだが、この小さくて深めの風呂にテディは暇さえあれば浸かっているのである。もはやテディ専用と言ってもいいかもしれない。

「クマさんは冬眠の季節だから、温泉から離れがたいのねぇ」

 ユキノがぽやぽやと笑いながら言った。
 テディは縁に顎を乗せて実に気持ちよさそうだ。

「……あら?」

 最初に気付いたのは、ユキノだった。テディはちらりと出入り口を一瞥しただけだったが、脱衣所のドアの隙間をすり抜けるようにして黄色の小鳥が入って来て、リックの差し出した指に着地した。
 一体誰からだろう、と首をかしげていると小鳥が伝言を喋り出す。

「『マヒロ、生きておるか? わしじゃ! 明日、家内と一緒にそっちに行くから、しばらくよろしくな!』」

「……オレオレ詐欺か。全く、いつも名を名乗れと言っているのに」

「お知り合い?」

 ユキノが誰か問いかける横で、オレオレ詐欺が何の詐欺なのかは分からずリックは首をかしげる。

「例のドワーフ族の爺さんだな」

「ジルコンさん?」

「ああ」

 マヒロが頷いて「おいで」と言えば小鳥は、真尋が差し出した指に移動して、擬態を解いて紙へと戻る。マヒロが中身を検めれば、角ばったお世辞にも上手とは言えない文字が、概ね伝言と同じことを綴っていた。最後に「ジルコン」と署名がしてあった。

「ジルコンさんがいらっしゃるんですか?」

 リックの問いにマヒロが「そのようだ」と頷いた。

「おい、園田!」

 マヒロが声を張り上げれば、やはりすぐにミツルが姿を見せた。彼はどこにいたってマヒロが呼べばやって来る。

「明日、客人が来る。ドワーフ族の老夫婦で、ジルコンとマイカ。前に話した鍛冶だ。ジョンとそう変わらん小柄な二人だから、それに合わせて部屋を用意してやってくれ。足腰はしっかりしているから二階でも一階でも、どこでもかまわん」

「かしこまりました。やはり領主夫人と同じ階というのは憚られますので、この地下にレストルームがございます。空堀りされていて、地下ですがきちんと日光が差し込む作りになっております。おそらくは温泉で疲れた体を休める休憩のみに使われる部屋でございますが、暖炉やベッドなどは完備してございますし、食事は全員、共通して一階のダイニングになりますので、問題ないかと」

 ミツルは悩むそぶりすらなく、マヒロの要望にそつなく答える。

「ああ、確かにそんな部屋があったな。ちゃっかりした爺さんだから、温泉を堪能しつつ、宿代を浮かせる魂胆だろう。眠れれば十分だ」

 記憶にはあるのだろうが、何分、大雑把な主は執事に言われてその部屋の存在を思い出したようだ。

「レストルームは二部屋ほどございますので、階段に近いほうをご用意させて頂きます」

「ああ、頼む」

「ジルコン様、マイカ様に何か特別にご用意するものはございますか?」

「あの爺の好みは珍しい鉱物か希少な鉱石だ。それ以外は知らん。マイカ夫人には二度、会ったきりで挨拶くらいしかしていないからな」

「かしこまりました。では、失礼いたします」

 ミツルは一礼し、颯爽と去っていく。やはり彼は優秀だ、とリックは感心する。
 そもそもがマヒロというのは、はっきり言って気難しい。ほんの数か月前、護衛騎士になったばかりの頃は、彼が望むものを完璧には読み切れず、一瞬なのだが眉を寄せられた回数は計り知れない。それとなくイチロがフォローしてくれたおかげで、彼の要望に応えることはできたが、イチロがいなかったらマヒロの眉間には深々とした渓谷が築かれていただろう。
 今度、ミツルにはその辺のこともあれこれ教えてもらおう、とリックは意気込む。

「ふふっ、ドワーフ族の方には会ったことがないから、楽しみだわ」

「屋敷の中にはいないからな。土地柄、ブランレトゥは妖精族やエルフ族は多いが、ドワーフ族はちらほらいるがそれほど多いわけではないし」

「ドワーフ族の里は、王国の北西の地域にあるので、王都より西や北の地域に多いです。とはいえ、妖精族とは違い、強くたくましい一族ですからどこの土地でも生きていけるので、数に差は有れど王国全体で見かけますよ。アルゲンテウス領も鉱山が近い町のほうに行けば、大勢のドワーフ族が暮らしています」

 リックの説明に夫婦は揃って「へぇ」と頷いた。

「あら? また来たみたい」

「なにか言い忘れか?」

 もういちど脱衣所のほうを振り返ったユキノにつられてマヒロもリックも顔を向ける。
 すると今度は二回りほど大きな鳥が、にゅっと隙間を掻い潜り、こちらへ飛んで来てリックの差し出した腕に止まった。超速達用の美しいハヤブサは、最近、ようやく窓ガラスを割らずに帰って来られるようになった。

「ああ、シケット村のほうか」

 マヒロが自由の効く左手でハヤブサが咥えていた手紙を受け取る。
 片手では不便なので、ユキノが封を開けて中身をマヒロに渡してくれる。

「なかなかに順調のようだが……一路が少し体調を崩したらしいな」

「一くんが? 大丈夫かしら」

「疲労だそうだ。日付は……二日前だな。倒れた翌日には元気だったそうだから、大丈夫だろう。あれは色々と悩み過ぎなんだ」

「真尋さんと違って、一くんは繊細なのよ。心配だわ」

 頬に手を当て溜め息を零す妻に、マヒロは不満げな視線を向けている。
 だがユキノのいう通り、イチロはマヒロと違って繊細なので、心配だ。リックは相棒に頑張れよと心の中で応援を送った。なにかと怒られることの多いエドワードだが、頼りにはなるのだ。

「……ほう」

 二枚目の便せんに視線を落とした真尋が興味深そうな声を上げた。

「どうしたの?」

「アゼルの一族は気の良い人たちでな。そこで一人、二人、うちで使えそうなの見つけるように頼んだんだ。アゼルの甥で、ヴァイパーという青年がフットマンに立候補してくれたんだそうだ」

「ああ、彼ですね」

 リックの脳裏に眼鏡をかけた青年の姿が浮かぶ。

「知っているのか?」

 マヒロが振り返って首を傾げた。

「シケット村の襲撃事件の際、彼らと一緒に私は聖水を配っていましたから。非常に気の利く青年で、助かりました。有鱗族で背は真尋さんより少し低いくらい、緑がかった黒髪に青い目、眼鏡をかけていた青年です」

「ああ……顔は浮かんだが、関わる暇はなかったな」

 マヒロが顎を撫でながら言った。

「あの晩、マヒロさんは怪我人の治療に徹していましたからね」

「アゼルさんって、あの鼬の方よね? 成人済みの甥御さんがいるなんて、見た目よりずっと年上なの?」

 ユキノが不思議そうに首を傾げた。

「アゼルは田舎の大家族の出身で、十人兄弟だそうだ。上のほうの兄姉とは親子ほども年が離れていて、甥や姪のほうが年が近くて兄弟のように育ったと言っていたぞ」

「そうなのね。すごいわぁ……十人」

 ユキノが驚きに目を丸くしている。
 獣人族は体が頑丈なので、余裕があれば子どもがたくさんいる家庭も多いが、それでも十人兄弟というのは確かに珍しかった。

「海斗と一路が推薦しているということは、間違いないだろうな。リック、あとで採用の返事をするから代筆を頼む」

「はい」

「……もう一人いたようだが、こちらは……うちでは雇えんな」

「そうなの? …………あら、これは難しいわねぇ」

 眉を寄せた夫にユキノが首をかしげ、マヒロが長い指で、便箋の一部をとんとんと指でしめした。そこを読むとユキノも眉を下げた。リックも後ろからそれを覗き込み「なるほど」と納得する。

「未成年は確かに難しいですね」

「サヴィラのように事情があれば別だが、家庭は円満のようだしな。可哀想だが……成人するか、せめて十六歳になったらだな」

 そう言いながら、マヒロは次の便せんへと視線を落とす。

「ふむ、あいつは余程、あちらのレーズンが気に入ったようだ」

「お土産で頂いたけど、とても美味しかったわ」

「あれは確かに、美味しかったです」

 顔をほころばせたユキノにリックも頷く。
 シケット村の特産の葡萄で作ったレーズンは、粒が大きくジューシーでとても美味しかった。

「ねえ、真尋さん。一くんか海斗くんに、あのレーズンを買って来てほしいってお願いしてほしいの」

「それは構わんが……一路がとにかく気に入って、流通経路を確保しようとしている」

「ですが、シケット村のワインは有名ですが、レーズンは私も知りませんでしたし、村の新たな収入になるのではないでしょうか」

「あいつは、ただ単に自分が食べたいだけだな。ここに後日、レーズンを送るから、お前の実家でレーズンパンを試作してほしいと書いてある」

「え」

 思いがけないところで名前が出て来て、リックは慌ててその手紙を覗き込む。
 確かに見慣れた一路の筆跡でマヒロが言ったとおりのことが書かれていた。

「リックさんのご実家のパン、美味しいものねぇ。私、あそこのジャムパンが好きなの。色んな種類があって、さらに季節ごとに変わるらしいから楽しみにしているのよ」

「リック、ジャムパンを定期的に届けるように言っといてくれ」

「はい。それは構いませんが……」

「あらだめよ。ミアと買い物に行く約束をしているんだもの」

「だそうだ。やっぱりさっきの話は無しだ」

「ふふっ、はい。分かりました」

 リックはくすくすと笑いながら頷く。
 マヒロは基本的に身内に甘いが、ユキノにはとくに甘いように感じる。
 ガストンも言っていたが、ユキノが来てからマヒロは格段に表情というか雰囲気が柔らかくなった。彼にとって、本当にユキノが特別な存在なのだと言葉にされずとも伝わって来る。

「さて、マヒロさん。そろそろ上がりましょうか。キース先生と約束した時間です」

「ああ、分かった」

 ナルキーサスに「ユキノの料理(固形物)を食べたいなら言うことを聞け」と言われたマヒロは、とても素直に言うことを聞いてくれる。どれだけ食べたいんだと思わないでもないが、確かにユキノの料理は最高に美味しい。

「タマちゃん、私たちはもう出るわよ?」

 ユキノがそう声をかけると仰向けになって、ぷかぷかと浮いていたタマは少しだけ顔を上げ「きゅ~」と鳴いてまた顔を戻した。どうやらまだ出る気はないようだ。

「じゃあ、先に出るわね。テディ、タマちゃんをよろしくね」

  ぐーというテディの返事を聞いて、ユキノは先に上がって、長いスカートを下ろすと脱衣所へ行く。その間、リックは目をそらしている。彼女の生足をみるとマヒロがうるさいのだ。お湯の中だと歪んで形しか分からないのと、リック無しでまだ足湯に入れないので渋々了承している。(正確にはユキノが笑顔で了承させた)
 リックはマヒロがなんとかお湯から足を上げるのを手伝い、彼が座っている間に足を拭く。そして、立ち上がるのを補助して、彼を横から支えながら脱衣所へ向かう。
 使用者か介助者の魔力で動く魔力利用型車輪付き椅子――通称、車椅子という便利なものがあるのだがナルキーサスが「そんなものに乗せたらあいつはどこへ行くか分からん」と存在を秘匿している。
 ユキノと合流して、螺旋階段をあがり一階へと向かい、予備のベッドが置かれているリビングへと向かう
 マヒロをベッドに座らせ、サイドテーブルに置かれた水差しの中身をグラスへ注ぎ、彼に渡す。中に入っているはハーブ水だ。さっぱりして美味しいとマヒロのお気に入りだ。

「ありがとう。お前も水分補給はしっかりとな……早速、代筆を頼む」

「はい。こちらで失礼しますね」

 リックはアイテムボックスから小さなテーブルと椅子、筆記具を一式取り出して準備を整える。書き始める前に伏せてあったグラスにハーブ水を注いで、自分も喉を潤した。

「仕事はさっさと済ませてしまおう。午後は、可愛い来客があるからな」

 どことなく無表情が楽しみに綻んでいるような気がして、リックは「はい」と頷き、気合を入れてペンを握るのだった。








「なんて可愛いのかしら」

 ベッドに腰かける真尋の隣に同じように腰かける雪乃の腕の中で、赤ん坊はにこにこしながらこちらを見ている。
 可愛い来客――真尋の名づけ子は、想像していた以上に可愛かった。

「大きくなったな、ダニエル。雪、俺も抱っこしたい」

「ふふっ、はいはい」

 自由の効く左腕に雪乃がダニエルを抱かせてくれる。
 むっちりとしたぬくもりを左腕に感じる。
 初めて抱いたのは、決まった名前を伝えに見舞いを兼ねてガストンの家に行った時だ。あの時はまだ生まれて一週間ほどで、もっとか細く軽かった。だが、たった二カ月の間に、ダニエルはずしりと重くなっていて、むちむちのもちもちだ。
 ケイティの言う通り、ガストンにそっくりで体格が大きいのも父親の遺伝子を譲り受けているのだろう。

「ケイティ、体は大丈夫か?」

「おかげさまで、元気です。母も来てくれましたし、メイドさんもとてもよくしてくださって。それにガストンが、今回、私の母を労いたいって一緒に連れて来てくれて……おかげで母は毎日、温泉を楽しんでいます」

 リビングのソファでガストンと並んで座るケイティが頷く。

「それはなにより。産後の体はとても繊細だからな。ガストン、よくよく気遣ってやれ」

「はい。もちろんです」

 ガストンの真っ直ぐな返事にケイティは、嬉しそうに目を伏せた。夫婦仲が良好なようで何よりだ。

「ふふっ、どこもかしこももちもちで、ちぎりパンだわぁ」

「可愛いですわねぇ」

 雪乃が細い指でダニエルのちぎりパンのような肉付きの良い腕を撫で、アマーリアはきらきらと顔を輝かせて細い髪を指先で優しく梳く。

「パパ、赤ちゃん、可愛いね」

「ちいさいですわ」

「リースもこの間まで赤ちゃんだったよ」

「俺もアビーやアナが小さかった頃を思い出すなぁ」

 ミアとシルヴィアがベッドによじ登って覗き込んで来て、ジョンの隣でサヴィラがしみじみと呟いた。

「まだミルクの間隔が短いから大変でしょ」

 サヴィラがケイティに尋ねる。

「え、ええ。でもミルクバターも使っているから、それに夜中は夫が世話をしてくれるから」

 十三歳の少年にそぐわない問いにケイティは驚きながらも答える。だが、事実、サヴィラは、目の前のケイティとガストン夫妻より子育て経験が豊富だ。
 ちなみにミルクバターとは現代日本でいうところの粉ミルクだ。乳牛の魔物であるボヴァンの上位種にバター・ボヴァンと名付けられている家畜魔物がいるのだが、それが出すミルクは濃厚で栄養価が高い。ミルクというか練乳のような状態で出て来て、常温で固まるそうで、それを薄めて赤ん坊に与えるのだそうだ。
 粉ミルクは各企業が研究に研究を重ねて、母乳に近い成分になっている。その点、魔物の乳であるミルクバターはどうなのだろうと思わないでもないが、百年以上昔から使われていて、元気に子どもたちが育っているのでいいものなのだろう。

「赤ん坊も産後の体も繊細だからな。何かあればすぐに私を呼ぶといい」

「あ、ありがとうございます、ナルキーサス先生」

「心強いです」

 夫婦の向かいのソファに座るナルキーサスの言葉にガストンとケイティがぺこぺこと頭を下げた。

「お兄ちゃん! 手、洗ってきた!」

「綺麗にしてきたよ!」

「俺も見る!」

 三つの足音に顔を向ければ、外で遊んでいたため洗面所に放り込まれた弟たちとレオンハルトがやって来た。
 雪乃が真尋の腕からダニエルを抱き上げ、ケイティに渡す。するとケイティは彼らに見えるように少し腕を下げた。すると三人は一斉に覗き込んで「うわぁ」「ちいさい」「かわいいね」とひそひそと囁き合いながら赤ん坊を見つめる。

「誰か、抱っこしてみますか?」

 ケイティがそう声をかけると、真っ先にレオンハルトが手を挙げた。
 レオンハルトが誰か知らない(アマーリア親子は、最初に決めた家出親子だと伝えられている)ケイティは、丁寧に抱き方を教え始めた。一方、レオンハルトが領主の息子だと知るガストンははらはらしている。
 レオンハルトは、その短い腕に更に小さな命を抱くと、ふっと息をつめた。父親譲りの紅い瞳は、その小さな命を見つめて、キラキラと穏やかに輝いている。

「ちいさいな」

「坊ちゃまもほんの六年前はこのようにお小さかったのですよ」

 リリーがそう告げるとレオンハルトは「俺は、すっごく大きくなったな」と感心したように言った。それが可愛らしくもおかしくて、大人たちはくすくすと笑い合う。

「ふふふっ、でも本当に、大きくなりましたわ。あなたは夜泣きが酷くて、大変だったのよ」

 アマーリアが愛おしむように息子の頭を撫でた。
 領主夫人として何もさせてもらえなかったので、息子と娘を育てるにあたり、乳母ではなくアマーリア本人が中心となって育てたのだと前に聞いたことがあった。

「今はもう泣かないぞ!」

「ふふっ、そうね。ケイティさん、わたしも抱いてもいいかしら?」

「もちろんです」

 アマーリアが息子の腕からダニエルを受け取る。
 ダニエルはじっとアマーリアを見つめて、にこっと笑った。アマーリアもつられて笑みを浮かべる。

「本当に、こうやって、ちいさなあなたたちを抱いていたのが昨日のことのようだわ」

「お母様、わたくしは、もう赤ちゃんじゃないわ!」

 シルヴィアがぷっと頬を膨らませた。ミアが面白がって、つんつんする。

「ヴィーは、とにかくミルクを嫌がって大変でしたわ。母乳もミルクバターも嫌だと……離乳食は好きみたいで食べてくれた時はほっとしましたわ。ねえ、リリー」

「はい。ミルクを飲まないので、なかなか大きくならず、心配いたしました」

「……なんでかしら、わたくし、ミルク好きなのに」

 シルヴィアが不思議そうに首を傾げた。

「赤ん坊のころと今では嗜好も変わるものさ」

 真尋の言葉にシルヴィアが振り返る。

「しこうってなんですの?」

「好きなもの、という意味ですよ」

 雪乃が答えると、シルヴィアは「また一つおべんきょうしましたわ」と笑った。

「ねえ、もう一度、抱いてもいいかしら」

 立ち上がった雪乃がそう声をかけると、ケイティが「もちろん」と頷き、アマーリアの腕から雪乃の腕にダニエルが再び移動する。
 雪乃はダニエルを抱えて、真尋の隣に戻って来る。指を差しだせば、まだ真尋の指を握りきれないような小さな手は、ぎゅうっと想像以上の強さで握りしめて来る。

「あと三カ月もすれば人見知りが始まって、泣かれてしまいそうだな」

「……それを考えると憂鬱なんです。遠征とか入って帰って来て泣かれたらどうようかと」

 真尋の言葉にガストンが頭を抱えてしまった。家でもそんな心配をしているのだろう。ケイティが苦笑を浮かべて、夫の背を撫でている。
 
「まあ、それは仕事だからなぁ……」

 ダニエルが真尋の指を握るのをあやしながら、そうとしか言えないので困った。
 護衛騎士であるリックとエドワードは別だが、そうでなければ普通の騎士は訓練として一週間ほどどこかで野営をしたり、あるいは何か災害が起ったりすれば応援として地方に派遣されることもある。

「でも、神父様が進言して下さった、育児休暇。結構人気なんですよ……」

「ああ、そうなのか? それはよかった」

 頭を抱えたままガストンが言った。
 育児休暇は、ガストンに無理矢理取らせたもので、ダニエルが産まれた翌日にウィルフレッドに直談判してそういう制度を作らせた。女性騎士には出産休暇があるのだが、この世界では当たり前のように男性の育児休暇はなかった。
 騎士が多忙であることは、致し方ない事実なので一週間という僅かな期間だが、子どもが誕生した日から休暇を取るよう制度を作らせたのだ。

「出産した日からたった一週間ですけど、傍に居られて、彼女やダニエルの世話をできて本当によかったと思っています。でなければ、俺は今頃、自分が父親だという自覚もなく、メイドや義母に丸投げして育児を手伝うとかほざいてたかもしれません」

「育児は手伝うものじゃないからな」

「本当にその通りです。俺はダニエルの唯一の父親で、ケイティが選んでくれた夫なのだと自覚を持てました。金を稼いで生活を保障するだけじゃ、別に俺じゃなくても、誰でもいいという恐ろしい事実に気付いたんです。離縁されている仲間を見て、とくに実感しました」

 騎士の離縁率は残酷なことに高いらしい。
 リックが何とも言えない顔をしている。

「ですが、その自覚を持てたおかげで、より一層、騎士としての職務に誇りを持てました。今は何が何でも騎士として、領地も領民も守りきるぞ、という強い気持ちがあります」

「それは重畳。にしても休暇はそれなりに取得者がいるんだな。渋られるかと思ったが」

「もちろん、嫌な顔をする上司も同僚もいますよ。忙しいですからね。第二小隊にはそんなやつはいませんし、カロリーナ小隊長には快く送り出してもらえましたが……それに嫌な顔をする上司も同僚も発案者が神父様なので逆らってはいけないと思っているようです。それに取らないやつは取りませんしね。そういうやつは後々、帰ったら家が空っぽになっているだけです」

 ガストンはやけにきっぱりと言い切った。
 女性が一番根に持つのは、妊娠中や出産時の出来事だと日本時代に何かの記事でちらと読んだことがあった。嘘か本当かはさておき、命懸けで出産に挑んでいるのだから、その際の夫の蛮行は確かに通常より許しがたいものだろう。

「羨ましいですわ。わたくしの夫は……子どもたちが生まれた時も、一瞬、顔を見に来ただけでしたの。お仕事が忙しいから、仕方ないですけれど」

 アマーリアが寂しそうにぽつりと零した。
 やっぱりジークフリートの味方になれないなぁ、と真尋は天井を見上げた。隣で雪乃が「……愚かだこと」と呟いた。それが聞こえた真尋は絶対にジークフリートの味方にはならない、と強く意志を固めた。

「ふにゃ、ううっ、にゃぁぁ……っ」

 不意にダニエルが泣き出した。

「あらあら、どうしたの?」

「そろそろミルクの時間なんです……あまり泣かない子なのですが、ミルクの時間だけはとても正確に泣くんですよ」

 ケイティがリビングの柱時計を見て言った。
 ガストンが立ち上がり雪乃からダニエルを受け取る。父親の腕に移ると、ミルクの気配をより強く察知したのかますます泣き出した。

「でしたら、私たちの寝室を使って下さいな。キッチンの隣ですから、そちらもご自由に使ってください。案内しますわ」

 雪乃がそう言って立ち上がり、園田を伴いリビングを出ていく。ガストンとケイティが恐縮しながらその背について行った。
 赤ん坊の泣き声が遠退いていくとミアが真尋を振り返る。

「パパ、赤ちゃん小さかったね」

「ああ。そうだな。ミアだって小さかったんだよ」

「ノアが小さかったのはおぼえてるけど、ミアのことはおぼえてないわ」

 ミアが真剣に言うのが可愛らしくて、その頭を撫でる。

「ミアは覚えていなくても、オルガがちゃんと覚えているから大丈夫だ」

「お母さんが?」

 不思議そうにミアが瞬きを一つした。
 するとアマーリアが「そうですよ」と頷く。

「わたくしも、レオンハルトとシルヴィアが産まれた日のことも、小さく頼りない存在だった頃も、昨日のことのように思い出せます。ミアちゃんのお母様も天国に行ったって、ちゃんと覚えていますわ」

「そっかぁ。お母さんが、ミアが赤ちゃんだったこと知ってるの、なんかうれしいね」

 ミアがくふくふと笑った。
 うちの娘は今日も可愛いな、と目を細める。手を伸ばせばミアは素直に頭を差し出して来る。砂色の髪を優しく梳くように撫でれば、甘えるように頭を押しつけて来る。なんて可愛いのだろう。絶対に嫁にはやらん。
 リビングは、和やかな空気に包まれていて、心地よい。案内を終えた雪乃も戻って来て、この後、ガストンたちが戻って来たら、もう一度、抱っこさせてもらえるだろうか、と頬を緩ませたところに爆弾は落とされた。

「ねえ、

「ん? なん、だ?」

 聞きなれた弟の声に反射的に返事をして、その違和感に返事が一瞬つまずいた。
 微笑ましい間違いだ、ときっと誰もが思っただろう。学校の女性教師をお母さんと呼んでしまうような、そんなありきたりな間違いだと真尋も思った。
 だが、真智と真咲はなんの陰りも迷いもなく、真っ直ぐに真尋を見ていた。

は、僕たちが産まれた時、抱っこしてくれた? 嬉しかった?」

 その「お父さん」が指すのは、真琴ではなく、真尋だと彼らの色違いだが自分と同じ銀の眼差しが訴えかけて来る。
こちらへ来ようとしていた雪乃が、双子の異変に入り口で足を止めている。
 真咲が雪乃の下へ行き、抱き着いて彼女を見上げる。

「ねえ、は、僕たちを産んだ時のこと、覚えてる? 痛かった? 大変だった?」

 雪乃が言葉を詰まらせ、目を見開く。その背後で園田が片手で口元を覆った。

「ねーえ、、覚えてないの?」

 しびれを切らした真智が真尋の下にやって来る。空気を呼んだサヴィラがミアを抱き上げ、リリーがシルヴィアをベッドから降ろした。そして、真智が今度はベッドに腰かけた。

『そのまま話に乗れ。絶対に否定するな』

 聞こえて来たナルキーサスの声が操っていたのは隣国の言語だった。片手間に勉強しておいてよかったと、混乱する頭で真尋はナルキーサスに目配せし、真智の頭を撫でた。

「嬉しかったよ。妊娠がわかったのが三カ月ごろで、それから七カ月近く、会えるのを楽しみにしていたんだ」

 真智が嬉しそうに笑ったことに、真尋も笑みを返す。

「そうよ。真尋さんったら、抱っこしたまま離してくれないんだもの。あなたたちが双子じゃなかったら、取り合いで喧嘩になっていたかも」

 ほんの僅かにこわばりを残した雪乃の声が優しく真咲に向けられる。真尋の真智に対する言葉から意味をくみ取ってくれたのだろう。
 彼女が言っていることは嘘じゃない。真尋は弟たちが可愛くて可愛くて、母と――真奈美と競い合うように抱っこしていたのだ。

「痛かった?」

「……とても、ね。双子だから、お腹が大きくて重たくて。早産になりそうで一カ月前から入院していたの……だから、無事に生まれた時、本当に本当に神様に感謝したわ」

「痛くしてごめんね」

 真咲の言葉に雪乃は首を横に振った。
 子どもたちも双子の異変を感じ取ってはいるのだろう。皆、神妙な顔で口をつぐんでいる。

「そういえば、レオンハルト様は先程までお外で何をされていたんですか」

 リックがおもむろにレオンハルトに問いかけた。
 茫然としていたレオンハルトがはっと我に返り、リックを見上げる。

「あ、ああ、うん。ミツルと一緒に市場で買った花の苗をチィとサキと花壇に植えていたんだ」

「そうだった! あと三つだけなんだ」

 真智がぴょんとベッドから降りる。

「お母さん、赤ちゃんのごはんどれくらい時間かかかる?」

 真咲が雪乃に問う。

「三十分くらいかしら」

「じゃあ、植えて来てもいい? すぐだから!」

「ええ。もちろんよ」

「ちぃ、レオン、行こ!」

 真咲が振り返り、真智がその手を当たり前のように取った。レオンハルトは「うん」と返事をしながら不安そうにしている。するとサヴィラが、抱えていたミアを下ろし、レオンハルトの背に手を添えた。

「俺も行くよ。どんな花壇になったか見せて」

「うん!」

 レオンハルトがほっとしたように頷いた。
 サヴィラがマヒロを振り返り、一つ頷いて、弟たちを連れてリビングを出ていく。

「園田、お前も傍に」

「かしこまりました」

園田がしかと頷いて、その背を追って行く。笑顔で彼らを見送った雪乃が、ドアが閉まると同時に駆け寄って来た。

「……あなた……っ」

 縋るように呼ばれて、しかし真尋は答えをもっておらずに左手で口元をおおい首を横に振った。
 双子は、ふざけていたようにも、冗談を言っているようにも見えなかった。真智と真咲は、間違いなく真尋と雪乃を自分たちの両親だと信じて疑っていなかった。

「パパ、ママ、だいじょうぶ?」

 ミアが掛けてくれる声に応える余裕がない。
 かろうじてなんとか微笑んで頷き返す。

「ミアちゃん、よければわたくしに、お茶の淹れ方をおしえてくださいな。彼らが戻って来たら、丁度、お茶の時間ですもの。シルヴィアも一緒に行きましょう」

 アマーリアが気を利かせて、ミアとシルヴィアを連れ出してくれる。
 ミアが心配そうに振り返りながらも雪乃に「教えてあげてね」と言われると、うん、と頷いてシルヴィアと手を繋いで出て行った。リリーも一礼して彼女たちについていく。
 子どもたちがいなくなって気が抜けたのか、雪乃の体がぐらりと揺れた。

「雪乃!」

「ユキノさん!」

 思わず手を伸ばした真尋だったが、それより早くリックが咄嗟に支えて、ベッドに腰かけさせてくれた。真尋は礼を言って、雪乃の肩を抱き寄せる。

「昼食の時は普通だったよな」

 ナルキーサスが立ち上がり、こちらにやって来ながら尋ねて来る。
 真尋と雪乃は揃って頷く。
 昼食の時はいたっていつも通りだった。お兄ちゃん、雪ちゃんと呼ばれていた。

「リビングに入って来た際は、確かに『お兄ちゃん』と呼んでいましたよ」

 リックが言った。

「……故郷を出る際、実の両親と揉めたんだったか?」

 ナルキーサスが躊躇いがちに問うて来る。雪乃が、こくり、と頷いた。

「断定ではないが……それも一因かもしれない。心というものは、とても繊細だ。大丈夫そうに見えても、目に見えていなかった小さなヒビが突然、何かをきっかけに大きくなることもある。あの子たちは、まだ幼い。自衛のために記憶を置き換えてしまっているのかもしれない。あの子たちは嘘を言っている自覚はないだろうな。だって本人は本気でそう思っているのだからな」

 ナルキーサスの言葉はあまりに衝撃的で、どう受け止めるべきかが分からなかった。

「キース、俺たちはどうすれば……」

 自分でも驚くほど情けない声が出た。
 ナルキーサスが真尋たちに前にしゃがみこみ、祈るように握りしめられている雪乃の手を包み込んだ。

「否定だけはしていけない。肯定してやれ。もしかしたらまた兄と呼ぶかもしれないし、また父に戻るか、そのままか……その時、その時に合わせて、付き合ってやれ。彼らの心に寄り添うことを常に心がけるんだ。そうだな……二人だけと怪しまれるから、あとで、一斉に子どもたちの検診をしよう。その時、少し診てみるよ」

「……ああ」

「難しいかもしれないが、気を強く持て。あの子たちは大丈夫だ。な?」

 ナルキーサスの励ましに、真尋も、雪乃も、力なく頷くことしかできなかったのだった。




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次回の更新は、
2月4日(土)、5日(日) 19時を予定しております。
直前で変更になる恐れもありますが……(ストックZEROなので……)

次回のお話も楽しんで頂けますと、幸いです。
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