称号は神を土下座させた男。

春志乃

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第三十三話 沈む男

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 真尋の服を小さな手で掴んで胸に顔を埋めるようにしてミアが眠っている。真尋は、かれこれ三時間はこうしてミアに寄り添い、小さな背を撫でて、時折子守唄を口ずさんで少女を寝かしつけていた。深く眠れないのか、思い出したように飛び起きては必死に真尋にしがみついてくるミアが真尋は不憫でならなかった。その度に真尋は、ミアの背や頭を優しく撫でることしか出来ないのだ。
 主が留守にしているにも関わらず、プリシラやクレアは毎日、この屋敷を掃除してくれていた。お蔭で家具こそまだ無いが、何かしらを持ち込めばこうして機能するほどには屋敷は保たれている。それにソニアやサンドロが宿屋からベッドを運んでくれたのも本当に助かった。
 南側の大きな窓の外に見える空は、少しずつ日が傾き始めている。
 一路たちが出かける頃には小雨になって、暫くすると雨は止んで、久々に太陽が顔を出したのだ。
 正直、流石の真尋にもこの国や大陸、世界そのものを照らす太陽がどのように毎日、東から顔を出して、西へ沈んでいるのかは分からない。夜になれば、二つの大小の月が並ぶ夜空には星も輝いているが、地球のように宇宙と呼ばれるものがあるのかどうかも真尋には分からなかった。そもそもプルウィウス大陸がある場所が地球のような惑星なのかどうかも分からない。
 空を見上げる度に思う。
 随分と遠くへ来てしまったものだと、青く晴れ渡る空を見る度に、星の輝く空を見る度に思うのだ。
 浮かぶ雲も輝く星も、あの頃、彼女の隣で見ていたものと劇的に変わる訳では無いのに、太陽は地球のものよりオレンジ色に輝いていて、月など大小二つも夜空に並んでいる。その度にここが日本どころか地球ですらないことを実感する。
 もうそろそろ夜が東の空からやってきて窓の向こうにも青白く光る月が二つ、顔を出すだろう。
 真尋は、ミアに視線を落とす。三十分ほど前に起きたきり、漸く、深い眠りに入れたようで微かな寝息が聞こえてくる。触れた頬は微かに熱いがゆっくりと熱は下がっている。
 ミアは、基本的には、ゴミ捨て場を漁って生きていたらしい。花売りをするのはそんなに多くは無かった様だ。
 真尋の腕の中でミアは、これまでの暮らしをぽつぽつと教えてくれた。貧民街の孤児だけではなく、老人たちも同じようにゴミ捨て場を漁って生きているものもいるのだという。短くなって捨てられた蝋燭や古釘、古着がミアの主な収入源で、それを古着屋や回収屋に持ち込んで幾許かの金に替えてもらって日々を過ごしていたという。いつもノアを優先するからミアは毎日はご飯を食べられなかったが、時折、ゴミ捨て場で見つける瓶の底に残ったジャムがご馳走だと言っていた。ミアもノアもそれが好きで、ミアはそれが見つけられた日は、とても嬉しい日なんだと教えてくれた。
 ミアのこけた頬を撫ぜる。砂色の髪は艶も無く、ぱさぱさしている。栄養が行き届いていないせいだろう。
 こんこん、と控えめなノックの音が聞こえて真尋は顔を上げる。薄く開いたドアから顔を出したのは、ナルキーサスだった。
 ナルキーサスは、ジェスチャーで入っていいか、とミアを指差しながら訪ねて来て、真尋が頷くと音を立てないように慎重にドアを閉めながら部屋の中へと入って来た。真尋が起き上がろうとすると、首を横に振って寝ているように手で制し、サヴィラの向こうのベッドに腰掛けた。
 ナルキーサスは、白衣を着ておらず、黒の詰襟の上着も着ていなかった。白いワイシャツ姿の彼女は、ベッドで眠るサヴィラに視線を落とすと優しい笑みを浮かべた。先ほど、別れた時より疲れているように見えた。
 
「薬は?」

「言われたとおりに一時間後に飲ませました。その時にスープを器に半分と補水液を飲ませて、またそこからずっと眠っています。サヴィラは一度も起きていません」

 真尋の報告に、ナルキーサスは、そうか、と頷いてサヴィラのステータスを開いて確認し、首筋に触れて熱を見ると腋を冷やしていた皮袋を抜き取って、枕元に置いて、ベッドに腰掛けた。その手は、優しくサヴィラの前髪を目の上からそっと払う。

「…………小さなレディはなかなか眠れなかったそうだな」

 囁くような小さな声が問いかけて来る。

「さきほど漸く深い眠りに入れたみたいです。それまでは浅い眠りを繰り返していましたが」

 そうか、とナルキーサスは頷いて窓の外に顔を向けた。真尋もその視線の先を追う。先ほどよりまた少し日が暮れた空が広がっている。黒い鳥の影がどこかへと飛んでいった。
 
「…………正直に、単刀直入に言おう」

 ナルキーサスの重苦しい声が落ちた。
 真尋は窓から彼女へと視線を映す。その横顔は苦しいという感情を押し殺しているように見えた。

「弟君は、おそらく……助からないだろう」

 彼女の唇がその言葉をなぞった時、微かに震えた。
 真尋は、その言葉をどこか冷静に受け止めている自分がいることに気付いた。

「回復薬を服用させたが回復が一切見られない。壊死した左脚が体中を巡る毒の根源だ。だが、切断することは衰弱しきったあの子にとって死ぬことを意味している。切断しないこともまた同様だ。腐った肉を抱えて、生きていくことは出来ない。だからせめて傷口周辺だけでも壊死した部分の切除をと試みたが予想以上に壊死した部分が広く骨にまで達していた。それにあの子を襲った死の痣は、酷い熱と苦痛を齎すと言われている。それがあの子から体力と魔力を根こそぎ奪い、あの怪我を最悪の状態にまで悪化させた。ノアの臓器はもうろくすっぽ機能していないと思われる。サヴィラが助かったのは、この子に体力が有って、魔力の基礎値がそもそも高いお蔭だ」

 サヴィラの頬を撫でていた手を離して、膝の上で握りしめる。

「ノアは……ノアは、あの子は、いつ死んでもおかしくない」

 ナルキーサスが強く唇を噛み締めて顔を俯けた。その拍子に、ぽとりと黄色の花びらが彼女の膝の上に落ちた。不思議なことに彼女はエルフに見えるのに、時折、花びらを落とす。
 膝の上で組まれて握りしめられた両手には込められるだけの力が込められていて、そこに治癒術師としての歯痒さが見て取れた。

「見習い君の治癒魔法も噂に違わず正確で強力で本当に素晴らしいものだった。けれど……死滅した部分はやはりどうにもならなかった。体中を巡る毒も治癒魔法ではどうにもならない。治癒魔法は結局、魔力というものを媒介に患者本来の治癒能力を向上させて傷を再生させ、治癒へと導く魔法だ。故に傷口を塞ぐことはできても、失われた血液は戻らないし、失われた手足を再生することも出来ない。……死者を蘇らせることが出来ない様に」

 魔法は決して万能では無い、とナルキーサスは呟くように言った。
 少しずつ傾いて行く太陽の光が赤く赤く染まり始めた。

「本当にままならんよ、世の事と言うのは」

 ナルキーサスは顔を上げて、笑った。端正な顔に広がった皮肉な笑みが淡い夕陽に照らされている。
 彼女が治癒術師として、救った命はたくさんあっただろう。だが同時に救えなかった命もたくさんあって、それを彼女は割り切っている。割り切っているけれど、諦められない部分が、どうやっても割り切れない心があるのだろう。そうでなければ、そんな言葉は出てこない。
 彼女はそういう治癒術師としての葛藤も苦悩も全てを受け入れてそれでも治癒術師として生きているのだ。

「神父殿」

 黄色の眼差しが鋭いものを帯びる。

「私は正直、神父のことはあまり良く思って居ない。……それに君たちは、いや、君達のその能力は、はっきり言って異質だ」

 真尋はミアの髪を撫ぜながらその言葉に耳を傾ける。

「団長閣下の隠蔽解除魔法に打ち勝ったと言うことは、君は閣下の魔力を軽く凌ぐほどの魔力量を誇る訳だ……それにあの魔石に込められた魔力の密度は何だ?」

「何だ、とは?」

 真尋は目を少しばかり細めて見せた。
 ナルキーサスが黄色の瞳に警戒を滲ませる。

「我々の魔力の十倍は濃い神父殿の魔力だ。それでいて、MPの基礎値が知れない。この町を火の海にすることなど容易いだろうな」

「何故、俺がそんなことをしなくてはならないのです?」

「……君が、神父、だからだよ」

 ナルキーサスは淡々と告げた。
 真尋は、この人もか、と辟易しつつ、顔に面倒だという感情が出ない様に務める。尤もそんなのはいらぬ心配で、ナルキーサスにしてみれば、真尋の表情はこの部屋に入った当初からぴくりとも変わっていないように見えているのだが。

「王都の教会で神父たちは、こう嘯く。……偉大なるコロル神の加護有れば、如何なる病も怪我もたちどころに治癒する、と」

「おかしな話ですね」

 真尋の返しにナルキーサスがいぶかしむ様に眉を寄せた。

「治癒魔法は決して万能ではない……病をどうやって治すのか、詳しくお聞きしたいほどですよ」

「神父殿なら知っているのでは?」

 ありありとした皮肉の滲んだ声に真尋はため息を零して、癒しを求めてミアを抱き寄せる。

「貴女は、何かを勘違いしておられる。我々はティーンクトゥス神を祀るティーンクトゥス教会の者、王都のコロル神を祀るパトリア教とは全く別の存在です」

「祀る神は違えども、同じように神に助けを乞い、奇跡を祈り願うのだろう?」

 皮肉交じりな笑みを浮かべてナルキーサスが小首を傾げた。
 敵意という訳ではない。ただ、治癒術師として彼女は、神父を良く思って居ないようだった。

「治癒術師は、奇跡なんてものに縋ってはならないんだよ。願うことすら愚かだ。奇跡など怪我や病を前にして幾ら祈ったところで、薬の足しにもならん」

 吐き出された言葉は、酷く乾いて棘すら孕んでいる。

「神は、助けてはくれませんよ」

 真尋は、身動ぎしたミアの髪を撫でながら言った。

「神には神の、人には人の領分がある。人が神の領分に立ち入れぬように神もまた人の領分には立ち入れないのですよ、ナルキーサス殿」

「……どういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ」

「んー」

 ミアが目を開けて、ぐずり始めてしまった。小さな顔をぐりぐりと真尋に押し付けてくる。真尋は起き上がってミアを抱えなおした。

「起こしてしまったか、すまない」

 あまりに素直にナルキーサスは言って、こちらにやって来た。

「小さなレディ、触るぞ」

 ナルキーサスが声を掛けてミアの額に触れた。ミアは、それも嫌がるようにむずがって真尋の首に腕を回して抱き着いて来る。どうにもこうにも離れる気は無いようだ。最も、剥がそうという気も無いのだが。ミアは寒いのか、カタカタ震えて真尋にしがみついている。

「ミア、寒いのか?」

 真尋の問いにミアはこくりと頷いて鼻を啜った。どうやら再び熱が上がり始めたようだ。ベッドの足元でくしゃくしゃになっていた自分の神父服の上着を手繰り寄せてミアを包み込み、更にその上から毛布でくるむ。

「ナルキーサス殿、申し訳ないのですがそこのポットからカップに中身を注いでいただけますか?」

「先ほどから言おうとは思っていたんだが、そのように畏まる必要はない。私は堅苦しいのは嫌いでね、これだな?」

 ナルキーサスが立ち上がって、ベッドとベッドの間にある小さな丸テーブルの上に有ったポットを手に取り、傍に有ったカップに中身を注ぐ。

「これは? ただの水じゃ無いな。レモンの香りがする」

 差し出されたカップを礼を言って受け取り、ミアの口元に運ぶ。ぐずるミアは、嫌がったが優しく声を掛ければ素直にそれを口にした。

「経口補水液、というものだ」

 何度かに分けて飲ませてやりながらナルキーサスの問いに答える。

「経口補水液? 何の効果があるのだ? 一口飲んでも?」

「そっちのカップが未使用だから、好きに」

 ナルキーサスはトレンチの上に伏せて有ったカップに中身を注いで、何やら呪文を唱え、首を傾げてから口を付けた。

「……む、美味いな、爽やかな口当たりだ。蜂蜜を使っているのか? 魔法の類は掛かっていないようだが」

「水分補給を効率的にするためのただの飲み物だ。水と塩と今回は砂糖の代わりに蜂蜜を使っている。それとは別にレモンの果汁も入れてもらった」

「ただの水よりいいということか? 治療院では、基本的に白湯を患者に飲ませているのだが」

「水よりは断然、こちらだ。レモンには疲労回復の効果があるし、蜂蜜もより吸収を高めてくれる効果がある」

「神父殿、これは立派な薬だ。どうやって作る? 我が治療院でも是非とも利用したい」

 ナルキーサスが言った。その目は真剣そのものだ。

「サンドロにレシピが渡してあるから、好きにするといい。割合を間違えると吸収率が下がるから気を付けるように。だがレシピ通りに作ればこの俺ですら作れる素晴らしい代物だ。但し、一歳児未満の乳幼児には蜂蜜は厳禁だ。だから砂糖を使わなければならないから、治療院では子供から大人まで誰でも使えるように安全面を考慮して、砂糖のレシピを使ったほうが良い。砂糖の方が安価だしな」

 ミアがカップの三分の二を飲み干したところで、真尋はカップをナルキーサスに渡した。ナルキーサスがそれを丸テーブルの上に置く。

「神父云々の話を差し置けば、神父殿は素晴らしい治癒術師になれると思う。子どもが懐いて、ジョシュアやウィルまで信を置くんだからな」

 唐突にナルキーサスが言った。

「私もこの町を守る者の一人だ。何でもかんでも信じる訳にはいかないし、信じるより先に疑わねばならん時の方が多い。だが……小さなレディがそうして縋りつく相手は、どう考えてもこの町を火の海に変えるような奴だとは思えない」

「買いかぶり過ぎだ。俺は人として正しくあろうとは思っているが、決して、善だけを心に宿している訳じゃない。その証拠にいつか王都の教会を潰してやろうとは思っているしな」

 真尋は僅かに口端を吊り上げて笑った。ナルキーサスは、黄色の瞳をぱちりと瞬かせた後、ははっと声を上げて笑った。

「神父殿は食えん男だな。どうだ、神父の副業で魔導師にでもならないか? アルトゥロに寄越したあの小鳥の魔導具は類まれなる出来だった。実に素晴らしい、神父殿の治癒の腕があれば、治癒術師としても大成するだろう。悪い話じゃないと思うが?」

 ナルキーサスが楽しそうに首を傾げる。
 まるでおもちゃを見つけた子供のようだと真尋は肩を竦めて、少し落ち着きを取り戻したミアの背を撫でながら口を開く。

「俺達の故郷では治癒術師を医者と呼ぶ」

「イシャ?」

 ナルキーサスが初めて聞く言葉に首を傾げた。

「俺も十四の頃、医者を目指した。今から四年前だな。日々、そのための勉強に明け暮れたが……諦めたんだ」

 真尋は、自嘲交じりに目を伏せた。

「……何故か聞いても?」

 気使いが含まれた声が尋ねて来る。

「俺の最愛の妻は生まれつき体が弱くて、俺が十四、彼女が十三の時に酷い発作を起こして入院した。今夜が峠だと言われて、絶望にも似た恐怖と不安を抱えて過ごしたあの夜に俺は医者になる決意をして、勉強に明け暮れた。だが、一路に言われたんだ」

「イチロとはあの見習い君だったな」

「ああ。幼馴染なんだ……あいつは俺にこう言ったんだ「君は彼女が倒れた時に冷静でいられるの?」と……」

 うとうとし始めたミアの背中をとんとんとゆっくりとしたリズムで叩く。

「俺は、無理だなと思った。酷い話、一路や父や母が相手なら、俺はいくらでも冷静になれただろうが……彼女に対してだけは無理だと思った。無理だと知ったんだ。俺は、名医にはなれただろうが、最愛の人は助けられない医者になるとその時に知った。いつだって俺は……彼女の眠るベッドの傍で祈るしか能の無い男だった」

 真尋が腕を伸ばして皮袋を取ろうとすれば、ナルキーサスがすかさず渡してくれた。どうも、と返してミアの額に当てる。

「つめたいの、やだぁ」

 ぐすぐすと鼻をすすりながらミアが言った。
 本格的に熱でぐずり始めてしまったな、と真尋は苦笑を零して立ち上がる。皮袋はまた後でいいと枕元に置いて神父服と毛布に包まれたミアを抱えて窓際へと歩き出す。

「……ナルキーサス殿の言う通りの力が教会にあるのなら、俺は貴女もアルトゥロも呼ばずにノアを治して、今頃、ノアとミアの笑顔を独り占めにして、この腕に二人を抱き締めていたよ」

 窓から見上げた空は、藍色が濃くなって西の空に僅かな茜色が残るばかりだった。また雨でも降ろうと言うのか、東の空には重たそうな雲が広がっていた。

「それが出来ないから、やはり祈るしか能が無いんだ、俺は」

「……では、なぜ、神父殿は願いも叶えてくれぬ神に祈る?」

 ナルキーサスの声は静かに凪いでいた。
 真尋は空を見上げたまま暫し黙考する。
 太陽が完全に沈んで、部屋は暗くなる。ナルキーサスが呪文を唱えて光の球をいくつか浮かべた。するとガラスに相変わらず何を考えているかも分からない自分の顔が映った。ガラス越しにナルキーサスと目が合った。

「我が親愛なるティーンクトゥス神は、何時如何なる時も深い慈愛を持って愛しき我が子らを見守って下さっている。善行を働こうとも、悪行を働こうとも見守り続けて下さってる。だからこそ、祈りを捧げることでその眼差しを欲するのかも知れない。あの美しい銀色の眼差しが深い慈愛を持って我等を見守っていることを知るだけで……人は孤独から救われる。だからきっと、俺は祈るんだ」

「……見守るだけの神か」

 ナルキーサスがぽつりと呟いて、何とも言えない顔をしてその顔に浮かびそうになった感情を誤魔化す様にサヴィラを振り返った。ガラス越しに彼女を目で追えば、ナルキーサスはまた熱会が有ったらしいサヴィラに氷水の入った革袋を当てる。

「でも、その方がいいかもしれないな」

「どうして、そう思う?」

 ナルキーサスはその横顔に寂し気な微笑を浮かべる。

「願いを叶えてくれる神が居たとして、人は失望しないでいられるだろうか? 星の数ほども居る人々の願いを一つでも取りこぼさない様に聞いてくれる神など居るまいよ。神の手から願いが零れ落ちて、壊れてしまったら……理不尽に人は神を罵るだろう。願うだけですべてが上手くいくなら、人は怠惰になるだろう。だからきっと、見守ってくれているくらいが丁度良いと思ったまでだ」

「……その通りかもな」

 真尋はミアを抱えなおして頷いた。
 ナルキーサスは、どこか感傷染みた笑みともいえない様なものを一瞬だけ、その顔に浮かべたが全てをかき消すようにぐっと伸びをした。

「さて、神父殿。私はベッドを借りて、仮眠を取らせてもらうよ」

「魔導院には帰らないのか?」

 真尋は振り返って尋ねる。
 ナルキーサスはサヴィラの向こうのベッドに腰掛けてブーツを脱ぎながら頷いた。

「私がブランレトゥで一番、忙しいのは知っているか?」

「ああ」

「それはな、貴族共の相手をする時間が長いからだ。ブランレトゥは大きな町で、領主様に仕官する貴族の邸宅が金の地区に山ほどある。私の一日の大半は、そこの往診で終わる。どれもこれも大した病ではないのに、彼らは一番腕のいい治癒術師では無いと嫌だと駄々を捏ねるのだ。だから、私が行かねばならん。領主様の為には仕方がないことだが、そうはいっても無益な時間だ。だが、インサニアともなれば、こちらを優先するに決まっているだろう」

 脱げた、と言ってナルキーサスはシャツの襟もとのボタンを二つ外した。

「……男が居る部屋で、無防備すぎないか?」

「ははっ、神父殿が私を襲うとは露ほども思って居ない」

「確かに俺は妻以外の女性に興味は毛ほども無いが……」

「それを真顔で言う神父殿は大した男だよ。まあ、この見てくれの私と神父殿では男色を疑われそうだな」

 ナルキーサスはケラケラと笑ってベッドに寝ころんだ。

「夜更けにアルトゥロと弟君の看護を変わる。だが何かあればすぐに起こしてくれて構わん。寧ろ、起こせ」

「分かった」

 真尋が返事をするとすぐにナルキーサスは目を閉じて、寝息をたてはじめた。羨ましい程の寝つきの良さだが、多分、疲れてもいるのだろう。よく見ると目の下に隈がある。
 真尋はミアを片腕で抱えてナルキーサスの元へ行き、足元でくしゃくしゃになっていた毛布をそっと彼女に掛けて、額に手を翳す。

「《リラックス》」

 淡い光が手から零れて、ナルキーサスの寝顔が心なしか穏やかになったような気がした。

「しんぷ、さま……」

「どうした?」

 再び窓際へと戻りながらミアに顔を向ける。
 熱に潤んだ珊瑚色の瞳が真尋を捉える。

「しんぷさま、しんぷさま」

「ああ、ここに居る、ミア。神父様は、君の傍にいるよ」

 しんぷさま、と何度も真尋を呼ぶミアに、その度に返事をしてやる。するとミアは、次第にまた眠りの中へと落ちて行く。
 真尋は再び、緩やかに体を揺らしてミアをあやしながら、遠い故郷の子守唄を口ずさむのだった。










 一路は、額に掻いた汗を拭って、ふぅと息を吐きだした。
 布と棒だけで作られた簡易式のテントの下に座り込み、一路は漸くひと段落着いた治療にほっと胸を撫で下ろす。

「怪我はもう大丈夫そうですが、後はあっちで治癒術師さんに診て貰って下さいね」

「ありがとう、神父さん」

 肩を押さえながら冒険者の男が立ち上がり、仲間がそれを支えて、貧民街の広場に張られた救護テントの方へ歩いて行く。広場の真ん中ではまるでキャンプファイアーのような大きな火が焚かれ、グリースマウスの死骸が次々に放り込まれて焼かれている。
 辺りはすっかり暗くなり、焚火の煌々とした灯り以外に冒険者たちの持つ松明や火の玉が辺りを照らしている。時刻はもう夜更けに近い。
 あの後、一路は下でカマラたちの手当てをしたが、カマラもグリースマウスに噛まれていて、すぐに浄化をすることになった。だが、彼女たちのパーティーで二人がアンデットの毒に中って倒れ、詰所に運ばれた。ウォルフは彼が言っていた通り、その辺は抜かりなかったようですぐに復活して一路たちと共に討伐に精を出していた。
 トニー曰く、壁際は廃墟が多くしょっちゅう色々と崩れて危ないので殆ど住人が寄り付かないから遺体の発見が遅れてアンデット化したのではないか、とのことで、カロリーナやジョシュア、レイも多分、そうだろうと言っていた。
 バーサーカー化したグリースマウスは、インサニアが出現した場所で数匹出て来たが、そこ以外には発見の声は上がらなかった。だが、そこかしこでグリースマウスの死体が発見され、中にはアンデット化していたものもいて、一路たちはその殲滅に追われたのだ。ここで初めて知ったのだが、浄化の光を帯びた矢は、アンデットを元の死体に戻す効果があるらしいということだった。ジョシュアたちが驚いていたが、真尋の光の力を帯びた彼らの剣も同じようにアンデットをただの死体に戻すことが可能で、更にバーサーカー化したグリースマウスにも有効だった。
 その後は、詰所に待機していたエドワードが治療院に走り、ギルドマスターのアンナ名義で治癒術師を呼び出し、貧民街のど真ん中の広場に救護テントが張られた負傷した冒険者や住人たちが手当てを受けている。一路も怪我人の治療をしているのだが、アンデットの毒はどうしてやることも出来ないので、怪我を治癒することだけに専念している。とはいえ、治癒術師たちの魔法を見ていたら傷は全て治していなかった。治せなかったのか、そうしているのかは分からないが、何となく全部治してしまうと後々厄介そうだったので、他の治癒術師と同じレベルの治癒魔法を心掛けた。
  
「ほれ、イチロ、アンナからの差し入れだ」

「わ、冷たい! ありがとうございます」

 ひやっと頬に触れたそれに肩を竦める。
 ジュースの入った瓶を持ったジョシュアがそこにいた。一路はそれを受け取りコルクを外して、口を着ける。オレンジと思われる果実の爽やかな酸味と甘みが口いっぱいに広がり、一気に半分ほど飲み干した。

「はぁ、染み渡るぅ」

 一路は、ふぃーと息を吐きだした。ジョシュアが、くくっと横で笑って同じように瓶を傾けた。
 何となく辺りを見回せば、アンナが指示を出して、負傷した冒険者を運び出したり、報告を受けたりしている。隣でキャサリンやレイも忙しそうだ。

「緊急クエストにして正解だったな」

「ええ、本当に……まさかこんなにアンデットが居るとは思いませんでした。グリースマウスは小さい分、すばしっこさが異常ですね」

「でも、一路は一度も狙いを外さなかったじゃないか。覚悟しとけよ? 事が落ち着いたら弓使いたちが「弟子にしてくれ」と押しかけて来るぞ」

「そうなったらまずは、ティーンクトゥス教に入信してもらいますよ」

 一路は、ふふっと笑って返す。ジョシュアは、ぱちりと目を瞬かせた後、肩を揺らして笑った。

「そういう所は、マヒロよりちゃっかりしてるな」

「よく言われます」

 一路はアイテムボックスからクッキーを取り出して、一枚をジョシュアに渡す。ジョシュアは、嬉しそうに受け取ってそれを齧る。

「だが、やっぱり何だかんだ言って、ロビンは森の王者なんだな」

 ジョシュアがしみじみと言った。彼の視線の先を追えば、冒険者たちの従魔たちを従えて、ロビンが帰って来るところだった。
 冒険者の中にも調教師が十数名ほどいたのだ。従魔たちは、魔獣としての嗅覚や能力を生かして、グリースマウスの死骸の発見に尽力してくれた。その指揮を取ったのが何と、ロビンなのだ。
 インサニア発見後、一路が何となく冗談半分でロビンに「グリースマウスの死体を見つけるように皆に言ってくれない?」と言ったところ、ロビンが遠吠えを一つしたのだ。その遠吠えは、ブランレトゥの町中に聞こえたのではないかというぐらいに大きく響き渡り、強い魔力を纏って居て驚いた。そして途端に、貧民街に散らばっていたありとあらゆる種類の従魔がロビンの元に集まって、ロビンに従ったのだ。一路がロビンに伝言を頼むとロビンが「わんわん」と吼えて、従魔たちに伝えて、従魔たちは主の元に戻って死体発見に繰り出したのだ。あの「わんわん」という短い声にどれほどの言葉が詰め込まれていたかは流石の一路も分からない。ちなみに人間への伝令は、貧民街の住人たちが買って出てくれた。

「わんわん!」

 一路を見つけたロビンが嬉しそうに駆け寄って来る。

「どうだった、ロビン。死体はもうなさそう?」

 ロビンが嬉しそうに飛びついて来るのを受け止める。なんとなく、もう大丈夫、と言って居るのが伝わって来て、一路はアイテムボックスからロビン用のクッキーを取り出して、ご褒美だよ、と告げてロビンに上げた。
 従魔たちはロビンに頭を垂れるとそれぞれ主の元へと戻って行く。

「イチロ、本当に大丈夫か?」

「大丈夫ですよ。僕は怪我も無いですし、死の痣の浄化も初期だと負担は殆ど無かったですし」

 一路はジュースを飲んだ。クッキーを食べた後だから酸っぱさが増しているが、それはそれで美味しい様な気がした。

「今夜は、ここで一晩過ごすことになるな。アンデットは夜に動きを活発にするから油断は出来ない」

「昼でもアンデットが襲って来るとは思いませんでした」

「此処は薄暗いし、壁際は特に日が当たらない。それに時間的にアンデットが動き出す夕暮時だったしな、色々と悪条件が重なったんだろう」

 ジョシュアの言葉に一路は、成程、と頷いた。

「でも、ジョシュアさん、明日はカマルさんのお店の護衛ですよね?」

「三徹くらいなら余裕だし、交代で仮眠をとることになってるからな、大丈夫だよ」

「あんまり無理しないで下さいね」

「イチロもな。でも、イチロは、一度、屋敷に戻るんだろう? マヒロに報告しないと」

「そうですね、インサニアについては真尋くんの意見を聞きたいので……でも、朝陽が上る頃に戻ろうと思います。何かあっては困りますから」

 一路はロビンの頭を撫でながら立ち上がる。ぐっと伸びをすれば、筋が伸びて気持ち良かった。

「マヒロがここに来られればいいんだがなぁ」

「ミアちゃんが離さない限りは、真尋くんは来ないですよ。ああ見えて子どもには、特別甘い人ですから」

「確かにな、そういえばマヒロは歌も上手いんだな。ミアに子守唄を歌ってんのを聞いたんだが、凄く上手かった。良い声してるんだよなぁ、あいつ」

「真尋くんは、楽器も得意ですよ。出来ないのは、本当に家事だけなんです」

 一路は苦笑交じりに告げて肩を竦めた。

「イチロ神父殿、ジョシュア殿」

 カロリーナがこちらへとやって来た。彼女の後ろには、ガストンとジェンヌが居る。

「遺体の身元が判明した」

「どこの誰だったんだ?」

「持っていたギルドカードから元ガラス職人の男だった。多額の借金で破産して貧民街に五年前に移り住んだ男だ。あまり近所付き合いは無かった様だが、一週間ほど前から姿を見ていないと周辺住民が言っていた」

「湿度も高いし、暑いしあの腐敗具合から言って、死後四日から五日は経過しているし、丁度、アンデットになる頃合いだなぁ」

 ジョシュアがそうぼやいてクッキーの残りを口の中へと放り込んだ。一路は、彼らの話を聞きながら、あの遺体のことを思い出す。
 脳裏に浮かんだのは、黒ずんだ肉、酷い腐敗臭、苦悶に満ちた顔と胸に残る酷い傷痕。
 つん、と冷たい鼻先で手をつつかれて、無意識のうちに手を握りしめて、唇を噛み締めていることに気付いて一路は、目を瞬かせてロビンを振り返る。心配そうに一路を見上げるロビンと目が合った。

「ごめんね、ありがとう」

 ぽそりと呟いて一路は、わしわしとロビンの頭を撫でた。

「イチロ神父さーん!!」

 威勢の良い声が聞こえて振り返れば、ウォルフとカマラが駆け寄って来る。

「ああ、おかえりなさい。ウォルフさん、カマラさん」

「おう! 言われた通りに聖水を撒いてきたぞ!」

 嬉しそうに報告するウォルフのふさふさの尻尾が左右に激しく揺れている。
 キラキラ輝く瑠璃色の眼差しがじっと一路を見つめて来るのに、これが正解だろうかと思いながら手を伸ばせば、ウォルフははち切れそうな程尻尾を振って頭を下げた。濃い灰色に白のメッシュが一房混じるウォルフの頭をよしよしと撫でる。隣のカマラがそわそわしているので、もう片方の手を伸ばせば、彼女までぱぁっと顔を輝かせて一路に向かって頭を下げた。カマラの蜂蜜色に茶色のメッシュが入った髪もよしよしと撫でる。
 一頻り撫でれば、満足したのか二人は揃って体を元に戻す。

「神父さん、まだ何かすることはある?」

 カマラが首を傾げる。

「神父さんは俺とカマラの命の恩人だからな、何でもするぞ!」

「いえ、今のところは特にないので……明日もありますから体を休めて備えて下さい。明日も頼りにしてますよ」

 一路がふふっと笑いながら言えば、ウォルフとカマラは、はい!と元気の良い返事をして尻尾を振り、なら寝ます、と告げてたくさんのテントの張られた方へと走り去っていく。

「ウォルフ! カマラ!! 報告!!」

 レイが怒鳴れば二人は足を止めたが、何故か一路を振り返った。

「ちゃんとレイさんに報告してから寝ましょうね」

 一路がそう告げると二人は素直にレイの元へと行って報告を始めた。報告が終わると一路にぺこりと頭を下げて今度こそ、テントの方へと去って行った。

「……あからさまだなぁ」

 ジョシュアがしみじみと言った。

「獣人族の中で狼は特に強さを重要視して群れを成すからなぁ」

 カロリーナが言った。

「それに狼系は特にリーダーだと認識して懐くと非常に忠実で良い戦士になるぞ」

「僕、昔から凄く犬に懐かれるんですよねえ。ロビンもそうだけど……」

 ロビンはぶんぶんと尻尾を振りながら擦り寄って来る。

「っていうか、狼系の獣人族も撫でられるの好きなんですね」

「あれはな神父殿、自分より上だと認めた者にのみ許す行為だ。それ以外の者がやろうものなら、手を噛まれても致し方ない」

「案外、野性的な部分が残っているものなんですねぇ」

「それはそうさ。我々の血の中には色濃くそういった本能的な部分が残っているんだよ」

 カロリーナが笑いながら言った。
 一路は、成程、と頷いて返す。周りを見回せば、冒険者の中には獣人族が大勢いるが肉食系の獣人族が多いのに気付く。鷹や鷲のような翼を持つ者、豹や熊なんかも居る。

「イチロ神父殿、大丈夫か? 何だか気分が悪そうだが……」

 カロリーナに声を掛けられて一路は顔を上げる。

「大丈夫です。少し休めば良くなると思うので、すみませんが休憩を頂いても宜しいですか?」

「勿論だ。神父殿にしか出来ないことが多くて、負担を掛けてしまったからな、あっちに仮眠テントが有る。ガス、案内して差し上げろ」

「はっ。イチロ神父、こちらです」

「ありがとうございます。すみませんが、少し失礼しますね」

 一路はぺこりと頭を下げて、ガストンの背について行く。隣を歩くロビンがすりすりと寄り添って来るのに、心配をかけてしまって居るなと眉を下げた。
 辿り着いた先には小さなテントがたくさん張られていた。冒険者たちの自前のものもあれば、ギルドの支給品もあるようだった。

「このテントにどうぞ。就寝中は、私が護衛で立っておりますので、何かあればお声かけ下さい」

「そ、そんなお気を使わず……」

「いえ、小隊長に厳命されておりますので、どうぞ、お休みください」

 ガストンは一歩も引いてくれそうになく、一路は「ありがとうございます」と頭を下げて、引き下がるほかなかった。
 空間魔法が施されたテントは、ティーンクトゥスがくれたものに比べると質素だったが、一路が三人くらいなら余裕で眠れる広さだった。神父服の上着を脱いで、壁のハンガーにかけ、布団の上に寝ころぶ。すぐにロビンが一路に寄り添って来た。

「大分、大きくなったね……」

 ロビンは、今はもう大型犬くらいはあるほど成長していた。毎日、真尋が森で仕留めた魔獣の肉をたらふく食べているお陰だろう。
 抱き着く様に擦り寄れば、艶々とした心地良い毛並みに包まれる。

「おやすみ、ロビン」

 ふさふさと揺れる尻尾を感じながら、一路は目を閉じたのだった。









 コン、コン、と控えめなノックの音がして真尋は読んでいた本から顔を上げる。
 ちらりと真尋の膝を枕に眠るミアに視線を向けるが起きる気配はない。

「どうぞ」

「マヒロさん、夕ご飯、持って来たよ」

 ひょっこりと顔を出したのは、ローサだった。

「ああ、もうそんな時間か。ありがとう」

 真尋は本を閉じて枕元に置く。

「ねえ、マヒロさん」

「ん?」

「ネネがサヴィラたちの様子を見たいって言うんだけど、良い?」

 ローサが後ろに首を捻れば、ローサの影からひょっこりと黒い猫の耳が覗いて、長い黒髪が揺れた。薄紫の瞳が不安そうにこちらを窺っているのを見つけて、真尋はふっと微笑む。

「おいで、ネネ。サヴィラもミアも眠っているけど、顔くらい見て行くといい」

 ネネはぴんと尻尾を立てるとすぐにこちらに駆け寄って来た。

「サヴィラもミアも今は薬を飲んで眠っている。ミアは、他に怪我は無い。サヴィラは、腕の怪我が少し化膿してしまって居るが、薬を飲んで大人しく眠っていれば何の問題も無い」

 サヴィラの顔を覗き込んだ後、今度は、ミアの寝顔を覗き込むネネの頭をぽんぽんと撫でた。ネネの尻尾がぴんと立って居るので、嫌がられてはいないようだ。
 ネネは襤褸切れのようなワンピースから淡い水色に白のブラウス、黒のボディスというこの町で最もよく見かける服を着ていた。髪もポニーテールになっているが瞳の色と同じ薄紫のリボンが飾られている。こうやってみれば、どこにでもいるような幼い少女だ。けれど、いつもネネは、アナという小さな赤ん坊を背に背負って、子どもたちの面倒を見ているのだ。

「他の子ども達はどうした?」

「リビングで遊び疲れて皆でくっついて眠ってる」

 ローサが言った。どうぞ、と渡されたプレートを傍らに置いた。美味しそうなクリームシチューとパンだった。真尋はミアを退かそうか、と視線を下げるが真尋の太ももに頭を乗せて丸まって眠るミアを退かす気にはなれなくて、まあいいか、とそのまま食事をとることにした。パンをちぎってシチューにつけ、口へと運ぶ。バターがたっぷりと使われたパンとクリーミーなシチューの相性は抜群だった。
 不意に、きゅーとお腹の鳴る音が聞こえて顔を向ければ、真っ赤になったネネが慌てたように顔を俯けた。

「ご飯、食べなかったのか?」

「……サヴィ達が心配だったから」

 ネネがもごもごと言った。隣に立つローサが、ぽんぽんとあやすようにネネの頭を撫でた。

「そうか、なら半分こしよう」

 ほら、と真尋はパンを一つ、ネネに渡した。ネネは、ぱちりと目を瞬かせて、パンと真尋を交互に見る。シチューも美味いぞ、と進めれば、空腹には敵わなかったのか、ネネはパンをちぎってシチューに着けると小さな口の中に迎え入れた。美味しかったのか長い尻尾と耳がぴんと立って、可愛らしい。
 ネネにベッドに座るように言えば、ネネは真尋の隣に座った。ローサは隣のサヴィラのベッドに腰掛けて、額の布を氷水に浸して乗せ直してくれた。

「サヴィラ、冷たくなってないか?」

「んー、まだ熱いよ。有隣族は、すぐに冷たくなっちゃうからマヒロさん、気を付けてね」

 ローサがサヴィラの首筋に手を当てながら言った。
 サヴィラの向こうでは、ナルキーサスがすやすやと眠っている。余程深く眠っているようで、目覚める気配が無い。相当、疲れていたところに真尋がリラックスを掛けたので、眠りが深くなってしまったのだろう。体に害がある訳でも、患者達に異変があった訳でもないので問題は無い。

「ネネの服はね、あたしのお下がりなんだ。あたしと同じ猫系だから、尻尾穴の位置とかも同じで良かったよ。やっぱり尻尾は出しとかないと変な感じするし」

 ローサが言った。
 真尋には尻尾が無いのであれだが、どうやら獣人族系の服にはやはり穴が空いているようだ。

「あ、そうだ。マヒロさん、何か用がある? ママに聞いて来いって言われたの」

「なら、そのポットの中身を補充して来てくれ。サンドロに言えば分かるから」

「分かった。じゃあ、行ってくるね」

 ローサは、サイドテーブルに置かれたポットを持つと、また来るね、とネネに声を掛けて部屋を出て行った。
 部屋の中は、静かになる。ナルキーサスが寝返りを打ってベッドの軋んだ音がやけに大きく響いた。真尋は、余ったシチューをネネに食べるように言って、ぐっと伸びをした。
 ネネは、一口一口をしっかりと味わう様に大事そうに口へと運ぶ。

「……こんな、美味しいの初めて食べた」

 ネネがぽつりと言った。

「サンドロの料理は美味いからな。ネネはローサに似てるから、強請れば何でも作ってくれると思うぞ、顔が怖いかもしれないが、サンドロは優しい男だからな」

 真尋は再び読みかけの本に手を伸ばす。

「……私、貧民街で生まれたの」

 ネネがぽつりと言った。
 真尋は、そうか、と相槌を打って本を開く。

「お母さんは、私が二つの時に死んじゃったんだって。それで、お父さんに育ててもらったけど、お父さんは私の事が、あんまり好きじゃなかったみたい。殴られたり、ご飯もらえなかったりしたんだ」

 ネネは、空になった皿をサイドテーブルに置いて淡々と告げる。

「でもね、四年くらい前にサヴィが助けてくれたの。それで、サヴィ達と一緒に暮らすようになったんだ」

「サヴィラは、凄いな」

 真尋の言葉にネネは、にぱっと笑った。猫らしい鋭い犬歯が口から覗く。

「うん、サヴィは、凄いの。魔法も上手だし、読み書きだって出来るし、大人相手にだって負けないくらいに強いんだよ。本当は危ないからやめて欲しいんだけど……お金をいっぱい貰えるからって、墓守の仕事をしてて、私やチビ達にご飯を買ってきてくれるの」

 真尋は、僅かに眉を動かす。
 寂しく哀しい墓地の事を思い出した。そういえばジョシュアが、危険故に誰もやりたがらないから貧民街の住人を葬儀屋が雇うとかなんとか言っていたが、サヴィラもその中の一人だったのだろう。

「サヴィは、時々、どこかから私みたいな子供を拾って来るの。うちのチビ達は、みーんなサヴィがどこかから拾って来たんだよ。サヴィは私に家族をくれたの。お父さんみたいに、怒ったりしないし、殴ったりもしない。騒がしくて、ちょっと大変だけど、私の大事な家族なの。でも、」

 ネネの表情が曇った。

「私、サヴィラが怪我してるの気付かなかった……エドワードっていう騎士さんが教えてくれたの。サヴィは酷い怪我をしていたって……」

 潤んだ目からぽとりと涙が落ちた。真尋は、開いただけだった本を閉じて、傍らに置いた。

「ネネ」

 そっと指の腹で涙を拭えば、ネネの手が真尋の手を握りしめた。少女の小さな手には、真尋の大きな手は余る。だが、握りしめられてしまっては、ぽたぽた零れるネネの涙を拭ってやれない。
 おいで、と声を掛ければ、思ったよりも素直にネネは真尋の胸に倒れ込んで来た。真尋の手を離したネネの手は、真尋のシャツをぎゅうと握りしめる。零れる嗚咽に耳を傾けながら、真尋はネネの背をあやす様に撫でる。

「……サヴィラが元気になったら、ボロクソ文句を言ってやれ。ネネは、あいつの家族なんだからその権利がちゃんとある」

「……う、んっ」

「男って言うのはな、面倒くさい生き物で、どうしても格好つけたくなってしまうものなんだ。サヴィラもネネに心配を掛けたくなかったんだろう。ノアのこともミアのこともあったから、余計にな」

「でもっ、死んじゃったら、元も子もないもん……っ」

 ネネがしゃくり上げながら言った。
 真尋は、その通りだな、と頷いて小さく笑う。

「その辺は、起きたら懇々と説教してやれ。それでサヴィラが文句を言ったら、泣き落としに掛かれ」

「……それで、サヴィが言うこと、聞くの?」

 顔を上げたネネと額をこつんとくっつける。潤んだ紫の瞳を覗き込んで、真尋は悪戯に笑った。

「サヴィラみたいなのは、女の涙に弱いんだ。守るべき者がある男は、どんな敵にも困難にも立ち向かっていけるけど、守るべき者の涙には総じて弱いんだ」

「神父さんも?」

 ぐすっと鼻をすすりながらネネが言った。

「ああ。俺も妻と弟たちの涙には、頗る弱い。内緒だぞ、俺の唯一の弱点だからな」

 ネネはぱちりと目を瞬かせた。その拍子に長い睫毛に溜まっていた涙がぽろりと落ちた。

「……神父さんにも弱点があるの?」

「ああ。弱点の無い人間なんていないさ。……よし、泣き止んだな」

 真尋はネネの頬を手のひらで拭う。ネネの真尋のシャツを握りしめる手に力がこもる。

「もうちょっとだけ……こうしててもいい?」

 ネネがおずおずと言った。
 真尋は、ぽんとネネの頭を撫でて頷く。

「好きなだけどうぞ」

 真尋の返事にネネは嬉しそうに笑うとゴロゴロと喉を鳴らしながら甘えて来る。猫の獣人族は喉を鳴らすという新しい発見に真尋は感心しつつもネネが抱き着きやすいように少しだけ体をずらした。ミアの頭が落ちないように気を付けながら、ネネの好きなようにさせる。

「……お父さんもね、機嫌の良い時は、こうやって抱き締めてくれることもあったんだよ」

 ネネがぽつりと言った。

「そうか」

「うん」

 それきりネネは何も言わなかった。



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