称号は神を土下座させた男。

春志乃

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第三十一話 明らかにする男

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「お兄ちゃん、おかえりなさい! お母さんが、けが人の傷に触るから、汚れた格好は駄目だって! だから汚れ物は、ぜーんぶその籠に入れてだって!」

 ドアを開けると同時にジョンが駆け寄って来て、玄関脇に置かれた大きな洗濯籠を指差した。
 真尋は、抱えていたミアを一路に預けて、雨に濡れてずしりと重くなったローブを脱いだ。ズボンに泥が跳ねていたので、全身にクリーンを掛けてミアを受け取り、ミアにもクリーンを掛けた。一路も同じようにローブを脱いで神父服にクリーンを掛け、ついでにジョシュアとサヴィラ、エドワード、レイにもクリーンを掛けていく。びしょ濡れだったミアとサヴィラには温風の魔法を掛けて、髪や服を乾かしてやる。

「真尋くん、レイさんの服を乾かして上げてよ」

「あ? ちっ、仕方がない」

 ミアの様子を窺っていた真尋はレイに向けておざなりに手を振った。ぶわりと熱布が吹き抜けてレイの長い灰色の髪が揺れたかと思えば、濡れ鼠だったレイは綺麗さっぱり乾いて居た。レイの顔に驚愕が浮かんでいるが構っている暇はない。

「ミア? ミア?」

 声を掛けるが反応は無い。荒い呼吸の音だけが繰り返される。真尋の服を握りしめていた手はだらりと落ちていて、意識が無いことが分かる。額に触れれば、先ほどよりも熱が上がっている様に感じた。

「マヒロ、サヴィラも様子がおかしい」

「真尋くん、サヴィラくん、意識が混濁し始めてる」

 ジョシュアの声にすぐに一路が反応し、彼に抱えられたサヴィラに駆け寄った。サヴィラも自分で歩けぬほどぐったりとしていて、紫紺の瞳が虚ろに宙を見つめている。

「マヒロさん、戻られたんですね!」

 リックの声が聞こえて顔を上げる。

「三階の客間にノアくんとプリシラさんがいます」

「分かった。ジョン、頼みごとをしてもいいか?」

 濡れた洗濯物の入った籠をどこかへ引きずって行こうとしていたジョンがこちらに駆け寄って来る。

「治癒術師のアルトゥロという男がここへ来るんだ。眼鏡を掛けた優しそうな男だから、来たらすぐに三階の客間に案内してくれるか?」

「その子、病気なの? あっちのお兄ちゃんも」

 ジョンの視線がミアと父の腕に抱かれるサヴィラに向けられた。一路がくしゃくしゃとジョンの頭を撫でた。

「優秀な治癒術師さんが来るから、大丈夫だよ。だから、アルトゥロさんが来たらすぐに連れて来てね」

「うん、分かった!」

「流石だ。頼もしいぞ、ジョン」

 ジョシュアが声を掛ければ、ジョンは照れくさそうに笑った。真尋も「頼むぞ」と声を掛けて、階段を駆け下りて来たリックの案内の下、三階の客間へと向かった。

「ノアくんは、こちらに。プリシラさんが側に居ます。他の子どもたちは、ネネさんとクレアさんと一緒に二階のリビングに居ます」

 三階の階段の脇にある客間のドアをリックが開けて、中へと入る。
 真尋達が宿泊している部屋の倍は軽くある客間の片隅のソファにノアは寝かされていた。

「ジョシュ、マヒロさん、良かった……!」

 振り返ったプリシラが安堵の表情を浮かべた。
 真尋達はプリシラの元に駆け寄り、ソファに寝そべるノアを目に映して息を呑む。一路が片手で口元を覆った。

「……これは、酷いな」

 そんな言葉が自然と零れ出た。
 痩せ細ったノアの左脚の状態は最悪という言葉だけでは片付けられない状態だった。
 真尋は、ミアをもう一つ、用意されていたソファの上に下ろし、ノアの元へと戻る。ノアは服を全て脱いだ状態で、ソファの上に寝かされていた。骨の浮いた胸が苦しそうに上下していて、血の気を失った顔は青白い。頬に触れると酷い熱を帯びているのが分かった。問題の左脚は大人の男の腕程に腫れ上がっているが、足先の方は完全に壊死して干からびてしまって居る。しかし問題は、右脚の膝上からへその下までに広がった黒い痣だった

「傷口は?」

「左のふくらはぎよ。膿が酷くて、それに何か黒いものが溢れていて、指先について離れなかったけれど、マヒロさんがくれた石を握ったら消えちゃったわ」

 その言葉に真尋は慌ててプリシラの手を取った。プリシラの華奢な指先に黒い霧は無い。もう片方の手も見てから、安堵の息を零し、念のためプリシラの手からその体全体を光属性を付加した魔力で包み込んで浄化を掛けておく。

「プリシラ、これは君は触っては駄目だ。具合が悪くなる」

「そうなの?」

「ああ。リックを襲ったり、ダビドを殺したりしたものに関係が有る恐ろしいものだからな」
 
 プリシラは空色の瞳を瞬かせて、ノアを振り返った。

「そんな恐ろしいものがこの子を蝕んでいるの?」

「ああ」

 真尋は頷いてノアに意識を戻す。
 いつの間にかリックとエドワードがカウチを運んで来て、サヴィラがその上に寝かされた。一路とリックがサヴィラのだぼだぼの長袖の服を脱がせる。

「プリシラ、お湯が欲しい。それもたっぷりとだ。一番大きな鍋に沸かしておいてくれ」

「分かったわ」

 プリシラはすぐに立ち上がって、部屋を出て行った。
 真尋はアイテムボックスから白手袋を取り出して手に嵌める。
 ジョシュアが入れ替わりにやって来て後ろから覗き込んでくる。

「……痣も酷いが、足の壊死もかなりのものだな」

 ああ、とその言葉に頷く。
 真尋は、知識はあるが素人だ。それでも、そんな真尋が見ても、いや、誰が見てもノアの左脚の壊死は、どうにもならないところまで進行しているのは確かだ。

「おそらく、この痣が壊死を加速させたんだ。ジョシュア、今すぐにジルコンを呼んで来てくれ、この痣が死の痣かどうか確認してもらいたい」

「分かった」

 ジョシュアが頷いて部屋を出て行った。

「木偶の坊、プリシラが厨房に居る筈だから、そこから盥を持ってきてくれ、あと綺麗な布類が欲しいが……プリシラに無いか聞いてみてくれ」

「盥の大きさは?」

「大きいほうが良い。厨房は一階の奥だ。温室がある方だからな」

 レイは、無言のまま頷いて部屋を出て行く。
 真尋は、ノアの様子を見ながら足の傷を見る。黄ばんだ膿が覆う傷口から黒いそれが溢れている。ここをグリースマウスに噛まれたのだ。

「……しんぷ、さま……ノアは?」

 か細い声に呼ばれて真尋は振り返る。意識を取り戻したミアがじっとこちらを見ている。真尋は、ノアに用意されていた毛布を掛けて、リックにノアを見ているように言い、ミアに体を向ける。

「ミア、ノアにいつ、どこで、何が有ったか話せるか?」

 ミアは真尋の肩越しにノアを見ながら、こくりと頷いた。珊瑚色の瞳がこちらに向けられる。

「井戸の傍で……ノアが遊んでたら、グリースマウスに噛まれたの……」

「それは何時頃のことだ?」

「ずっと前……」

 ミアの答えは酷く曖昧だった。真尋は少し悩んで質問を変える。

「雨は降っていたか?」

 ミアは少し悩んだ後、首を横に振った。

「夕焼け……夕焼けだった……」

 真尋は、ということはと記憶を掘り起こす。
 教会掃除の一日目の帰りは、鮮やかな夕焼けが西の空に広がっていたのを思い出した。あの日以降はずっと曇り空か雨が続いている。そうなると一週間以上も前のことになる。

「ノアを噛んだグリースマウスに石をなげたら私も引っ掻かれたの……」

「どこを?」

「ここ……わたしのはすぐに治ったのに、ノアのは全然、治らなくて……だんだん黒いのが広がって、サヴィのところに行ったの」

 ミアが自分の左腕を指差した。そこには傷痕一つなく、黒い痣の気配はない。真尋はミアの手を握りしめて、プリシラにしたように自分の魔力でミアの小さな体を包み込んで浄化する。

「……ミアが、来たのは、四日前、くらい……つっ」

 途切れ途切れの声が間に入って来て、痛みに歪む。

「サヴィラくん、腕が痛む?」

 一路の問いにサヴィラが冷汗を滲ませながら頷いた。
 不意に何かが手に触れて顔を向ければ、ミアが泣きそうな顔で真尋の手を掴んでいた。真尋はその手を握り返して、そっと頬を撫でて、大丈夫だ、と声を掛ける。

「真尋くん、すぐに死の痣をどうにかしないと、サヴィラくんのステータス、どっちも下がってる」

 ヒアステータスで開いたそれを見ながら一路が言った。

「……分かった。専門家の到着を待ちたかったが……先にサヴィラの浄化をする」

「おい、持って来たぞ」

 ドアが開いてレイが大きな盥と桶、それに綺麗な布を抱えて戻って来た。その後ろからローサとティナが顔を覗かせた。不安そうにこちらを見ている。

「ローサ、ティナ、ありがとう」

「ロビン、君は入って来ちゃだめだよ」

 一路の言葉にロビンがしょんぼりと尻尾を落とす。ティナが苦笑を浮かべてロビンの頭を撫でた。

「マヒロさん、様子はどう?」

「まだ何とも言えん。治癒術師は?」

「来てない。あたし達も今、戻ったところなの……」

「下でプリシラが風呂の仕度をしてたぞ。ガキどもを風呂に入れたいらしいからそっちを手伝ってやれ」

 レイが言った。真尋も頷くと二人は、分かったと頷いて去って行った。
 真尋はレイから金属製の盥を受け取る。洗濯に使うらしい盥は直径が一メートル、深さは三十センチほどだ。他にも三つほど風呂桶くらいの大きさの木製の桶を持ってきてくれた。

「お前にしては気が利くな」

「……一言余計だ」

 ぎろりと睨まれたのをさらっと流して、真尋はアイテムボックスからティーンクトゥスのくれた取り扱い説明書を取り出して、床に置き、ページをめくる。
 目次を辿り、浄化の手順、という章を見つけた。そのページを開いて目を通す。最近、気付いたのだがこの取り扱い説明書は、アイテムボックスに入れておくと勝手にページを増やしていることが有る。おそらく、ティーンクトゥスが力を取り戻しているのだろう。元々これは彼が作ったものであるし、そもそも真尋と一路が神に作られた存在だから、干渉が出来るのかもしれない。

「一路、一番、大きいのに聖水の仕度をしてくれ」

「了解」

 一路が盥の前に立って、呪文を唱えて盥を水で満たしていく。

「リック、エディ、どっちか火の魔法を使えるか?」

「すみません。私は属性は地のみで、エディは風と水しか……」

 二人が申し訳なさそうに眉を下げた。
 するとレイが「使える」とぶっきらぼうに言った。

「俺の属性は風と火だ」

「そうか。それは助かった。なら、エディと協力して小さい桶二つにお湯を沸かしてくれ。リックは俺を……」

「マヒロ! 何事じゃ?」

 真尋の指示にレイとエディが頷き、リックがこちらを振り返った時、賑やかな声が聞こえて振り返る。

「ジョシュ、ジルコン、随分早かったな」

 ドアの所にジョシュアが立って居て、その背にはジルコンが居る。階段が結構あるからジョシュアが負ぶって駆け上がって来たのだろう。ジョシュアは、額に汗をにじませながらこちらにやって来る。

「丁度、お前に用があってこっちに来る途中だったのじゃ。それよりも死の痣とはどういうことじゃ?」

 駆け寄って来たジルコンとジョシュアにクリーンを掛ける。

「ジルコンは、現物を見たことがあるんだったな?」

「二百年も前の話じゃがのう」

 ジョシュアの背から降りながらジルコンが言った。
 真尋の手を握りしめるミアの手に力がこもったのに気付いて、真尋は大丈夫だと声を掛ける。

「ミア、このドワーフの爺さんは、ジルコンと言って俺の友人だから怖がることは無い」

 ミアはこくりと頷いたが真尋の手を離そうとはしない。

「ジルコンさん、この子の腕を見て頂けますか?」

 一路が作業の手を止めてジルコンに声を掛けた。振り返ったジルコンは、カウチに横になるサヴィラの黒い痣に支配された腕を見た途端、小さな目を限界まで見開いた。
 
「これ、は……っ」

 ジルコンが息を飲んで固まり、その黒い靄を零す傷口にごつい手を伸ばすのを一路がやんわりと制す。ジルコンは、その手を引っ込めると自分の口元を覆い、呆然とそれを見ていた。
 部屋の中を沈黙が覆って、ミアが不安に表情を曇らせて起き上がり、真尋の腕に抱き着いて来る。真尋はミアをもう片方の腕で抱き寄せた。

「……マヴェト・シャホル」 

 やんわりと裂かれた静寂に緊張が走る。
 それはドワーフ族の古い言葉で「死の黒」を意味し、人族が「死の痣」と呼ぶものの異称だ。

「間違いない、この深い黒……そして、傷口から溢れる禍々しいもの、二百年前にヴェールムースで見たものと同じじゃ」

 部屋の中に重い沈黙が降り立つ。
 言葉の意味は分からずも大人たちの表情に何かを察知したのだろう。ミアが恐怖を紛らわそうと真尋の首に腕を回してしがみついてくる。真尋はミアを抱えて、ミアが横になっていたソファに座る。
 ジョシュアやジルコン、レイ、リックにエドワード、皆が真尋の言葉を待っているのが分かった。真尋は震えるミアの背を撫でながら、窓へと顔を向ける。どんよりとした曇り空は相変わらずで強くなった雨が窓を叩いていた。







「お兄ちゃん! 治癒術師さんが来たよ! 二人も!」

 ジョンの声が重く立ち込めていた沈黙を破る。
 顔を出したジョンの後ろにアロトゥロともう一人、見知らぬ人が立って居る。

「おお! これはこれは、真に人形のようだな!」

 ハスキーな声と共に爛々と輝く黄色の瞳が真尋に向けられた。真尋と同じくらい背の高い中世的な顔立ちの麗人が立っていた。短く切り揃えられ丁寧にセットされた深い緑の髪と男らしい服装に一瞬、男かとも思ったがその線の細さや手を見れば、女だと分かった。耳が尖っているからエルフだろうか。
 彼女の横でアルトゥロは疲れ切った顔をしている。

「入っていいか?」

「ああ。ジョン、ありがとう。下のお手伝いに戻ってくれ」

 ジョンが、うん、と頷いて手を振った。ジョンを見送り、アルトゥロたちが中へと入って来る。

「マヒロ。ええっと彼女は、魔導院の院長でこのアルゲンテウス領最高の治癒術師で子爵夫人でもあるナルキーサス・コシュマール様だ」

 ジョシュアが妙に歯切れ悪く、そして何故か彼女から距離を取るように後ずさりながら言った。レイはジョシュアを盾にして同じように距離を取っている。
 真尋がそれを訝しむ様に片眉を上げるが、それより早く白手袋に包まれた手が真尋の頬を撫でた。その手付きがねっとりと舐めるようで真尋は思わず体をのけぞらせた。ぞわぞわとしたものが背筋を駆け上がっていった。。

「嗚呼、本当に美しい! 骨にしてしまうのが勿体ないと思ったのはこれが初めてだ!! その珍しい黒の神父服は実にけしからん色気に溢れているな!!」

 黄色の瞳を爛々と輝かせ、恍惚に浸りながら物騒な言葉を吐きだし、ついで黄色い花を幾つも落とした彼女に真尋は、ドン引きした。こんなにドン引きしたのは人生で三人目のストーカーの家に踏み込んだ時以来だ。壁中に真尋の着替えシーンを盗撮した写真が貼られていた男の部屋にドン引きした時と同じくらいの危機感を感じた。

「義姉上、今は職務中です。それと神父殿の腕の中にいる子が怯えていますよ。控えて下さい!」

 アルトゥロが器用にも小声で怒鳴る。
 両手をワキワキさせながら真尋に飛び掛かろうとしていたナルキーサスは、む、と声を漏らすと仕方がないと言わんばかりに居住まいを正した。

「マヒロ神父さん、本当にすみません。こちらはナルキーサスは私の兄の嫁、義理の姉に当たる方なんです。見た通り変わり者で、非常に変わった性癖の持ち主ですが腕と頭脳は確かですのでご安心ください。ですがもし、お困りでしたらすぐに私にお知らせください、対処いたします」

 アルトゥロの目は至極真剣だった。真尋は、分かったと頷いて返す。

「それで、患者は?」

 ナルキーサスががらりと雰囲気を真面目なものに変えて尋ねて来る。

「この子とこの子の弟、そしてあの少年です」

 ミアがおずおずと顔を上げる。

「この子は? どんな具合だ?」

「おそらく雨に濡れて風邪を引いたのかと……それ以外には今のところ異常はありません」

 ナルキーサスの細い手がミアの首筋に触れた。ミアがびくりと首を竦ませるが真尋がその背を擦るとほっとしたように力を抜く。
 ナルキーサスはお構いなしにヒアステータスを唱えて、ミアのそれを見せる。

「この少女は、風邪だな。熱も……大分、有るが、獣人族なら元の丈夫さを頼りに治した方がいい。薬を飲む際は、具の無いスープを用意してやれ。おそらく普通の飯はまだ食えんだろから、食事も徐々に慣らしてやると良い」

「分かりました。……大丈夫だ、ミア」

 ミアを抱き締めてあやしながら、真尋は、一路に顔を向ける。

「ナルキーサス殿、あちらが見習い神父の一路です」

「初めまして、一路と申します」

「君が噂の神父見習いの少年か。近くで見るとやはり随分と可愛」

「義姉上」

 アルトゥロがナルキーサスの言葉を遮り窘める。

「それで揃って随分と深刻そうな顔をしているが……報告に来た騎士が随分と物騒なことを言っていた。インサニア、そして、死の痣、と。どういうことか説明頂けるかな、神父殿」

「ナルキーサス殿は、インサニアについて詳しいとお聞きしました。その少年、サヴィラとミアの弟、ノアの二名が死の痣に侵されています。治療法を御存じですか?」

 ナルキーサスは、サヴィラを振り返って目を瞠る。アルトゥロが片手で口元を覆う。ノアの脚は毛布に隠されていて見えないが、サヴィラは上半身裸で横たわっているために真っ黒な腕が目立っている。

「……二百年前実際に死の痣を目にしたドワーフ族のジルコンが、間違いないと判断しています。ナルキーサス殿、安易に触らないでください」

 ナルキーサスはサヴィラの傷口に伸ばした手を止める。黄色の眼差しがジルコンに向けられた。

「わしは、あの時、武器を王都からヴェールムースへと運んで、マヴェト・シャホルをこの目で見た。あんなもん、一度見れば忘れたくても忘れられんよ」

 そう言ってジルコンはこちらにやって来るとソファによじ登って、真尋の隣に腰掛けた。

「……二百年前、バーサーカー化した魔獣と共に北の領都ヴェールムースに甚大な被害を齎したのがこの死の痣だ。インサニアの歴史を紐解けば、必ずこの名が出て来る。バーサーカー化した魔獣に付けられた傷口が黒く変色、全身へと広がり、命を蝕んでいく……だが、不思議なことに二百年前の北の悲劇を除けば、死の痣があれほどまでの猛威を振るったことはない。六百年前は無人島だったためにそもそも人的被害は無いが……それ以前は、確かに人が襲われ死の痣を患ったという記録はあるが、数百名もの命が死の痣で奪われたと言う話は無い」

 ナルキーサスがこちらを振り返る。

「千年より昔、光の副属性には、治癒の他に浄化と呼ばれるものがあったと……文献には記されている。その浄化こそが死の痣を消し、インサニアを鎮めるものだとも。死の痣は、治癒魔法を拒み、あろうことか黒い痣は術師の治癒魔法による魔力すら吸収して、逆に痣を広げる。故に傷口はこのように悪化の一途を辿り、膿と共に黒い霧を吐き出し続けるが、浄化を施し痣を消しさえすれば、治療をする手立てが生まれる。だが……ここ千年、浄化の力を操る者はいない」

 ナルキーサスは腕を組んで、目を細めて小首を傾げた。ほつれた前髪がはらりと落ちる。

「……麗しき神父殿。見た所、この少年には治癒魔法を掛けた痕が無い。庭師の負った大怪我を傷痕一つ残さず消し去った強力な治癒魔法を使う神父殿は、それを知っていたんだろう? 死の痣に治癒魔法を掛けてはならんことを」

 真尋はミアの頭を撫でながら口を開く。

「いいや……俺や一路神父は、治癒魔法が怪我にのみ有効だということを知っていただけだ。そして、病気と思われる場合に治癒魔法を使えば、体内に巡る生命をもった毒が治癒を受け活性化する場合もあるということも知っていた」

 これはこの屋敷の図書室で見つけた治癒術師向けの本に書かれていたことだ。この世界には、ばい菌という言葉は無いが、その概念は存在する。体内を巡る命をもった毒というのがそれに相当するのだ。

「だが、俺や一路神父は、恐らく、この王国で唯一、死の痣を消すことが出来る人間だ」

「教会お得意の幻術ではあるまいな?」

 ナルキーサスの言葉にはあからさまな棘が有った。
 王都の教会の蛮行は、治癒術師たちにとっても苦々しいものには違いない。

「今からサヴィラの浄化を行う所だった。ノアの方は、状態が酷く大した知識も無い俺達では、おいそれと手が出せなかった」

 真尋は立ち上がる。

「ミア、今からサヴィラの治療に当たる。離れて貰ってもいいか?」

 ミアは、泣きそうな顔で頷いて真尋の首から腕を外した。ミアをジルコンの隣に下ろすとミアは、ソファの隣に立って居たレイを見上げた。レイが黄緑の瞳でミアを見て首を傾げるとミアは、すぐ横に有ったレイの手を握りしめた。

「お、おい」

「振り払ったら全裸で縛って吊るす」

 咄嗟に手を払おうとしたレイの手首を掴んで真尋は満面の笑みで告げた。レイが顔を青くして、素直に頷いた。隣のジョシュアも何故か顔を青くしていた。

「花を買ってくれたのを覚えているんだな、ミアが判断した通り、優しい男だから安心すると良い」

 真尋は穏やかに微笑んでミアの頭を撫でた。ミアは、レイの手を両手で握りしめたまま、うん、と小さく頷いた。
 真尋は立ち上がり、広げっぱなしだった取り扱い説明書を片手にサヴィラの元に行く。

「一路、聖水の用意は?」

「後は、変えるだけ……」

 一路が盥にたっぷりとため込んだ水に両手を翳した。

「《ピュリフィケイション》」

 盥の中の水は一瞬、淡い光を帯びて聖水へと変わる。それを見届け、真尋はサヴィラへと向き直る。サヴィラは辛うじて意識を保っている様で、紫紺の瞳がぼんやりと真尋を見つめている。彼のステータスの値を確認すれば、HPとMPが少しずつ下降し、命を蝕まれているのが見える。

「サヴィラ、もしかしたら痛みを伴うかもしれない。この手ぬぐいを噛んでいろ、エディ、ジョシュ、サヴィラが暴れた場合は抑える役目を頼むぞ」

 真尋はサヴィラの口にレイが持って来た布を噛ませる。
 エドワードとジョシュアが頷いて頭と足の方へそれぞれ移動する。アルトゥロはプロだが非力なので除外だ。

「私はここに居ても平気か?」

「何が有るか分からない。もう少しだけ離れていてくれ」

「分かった」

 ナルキーサスが二歩下がる。
 真尋は、改めてサヴィラに向き直り、その腕を左手で取り、右手を翳す。
 ゆっくりと呼吸をして、集中力を高めていき、そして、呪文を唱える。

「《モーヴェ・エヴェイユ》」

 一瞬、膿に覆われた傷口から出ていた黒い霧が中へと消えた。だが、真尋が何かを摘まみ上げるように手を持ち上げれば、その傷口からじわじわと黒い霧が溢れ出してくる。黒いそれが外へ出れば出るほど、サヴィラの腕を覆っていた痣が消えていく。だがそれは苦痛を伴うのか、サヴィラが顔を顰めて思い切り布を噛んだ。

「んーっ、うぐっ」

「サヴィラ、もう少しだ。耐えろ」

 エドワードが声を掛けてサヴィラの肩を抑えて、一路が逃げ出そうとする腕を抑え込んだ。
 だんだんと巨大化していく黒い霧を空いた左手で風を操って、小さな球体へと変えていく。そして、サヴィラの腕から全て抜き取ることに成功し、完全な球体になったそれを慎重に聖水の中に沈めだ。途端に黒い霧はまるで墨のように溶けだして、盥の中の聖水がどす黒く染まる。
真尋は、袖が濡れるのも構わず真っ黒になった聖水の中に両手を突っ込む。まるで氷水にでも手を入れたかのような冷たい感触に眉を寄せながら、体の中を巡っている魔力を水の中に溶かしていく。そして、取扱説明書に掛かれていた浄化の呪文に明確な魔力を乗せて、唱える。

「《ディオス・ルス・マルヴァジタ・ニエブラ・ラディーレン》」

 真尋の手から零れる淡い光が徐々に強くなり、全体へと広がると聖水を穢した黒はだんだんと薄れていき、聖水は元の清らかに澄んだ色と温度を取り戻した。
 ふぅ、と息を吐きだして、水の中から手を出す。びしょ濡れになった手袋を外して、盥の縁に掛けアルトゥロが差し出してくれた布で手を拭いて、サヴィラを振り返る。一路がサヴィラの口から布を取れば、サヴィラが、はぁと息を吐きだして脱力する。

「サヴィラ、痛みは?」

「傷が……じんじんするだけ……痛くは無かったけど、凄く気持ち悪かった」

 サヴィラの腫れてパンパンになっていた腕は、元の細さに戻っていた。手首近くの傷口周辺は赤らんで腫れているが、これが本来の傷口の姿だったのだろう。

「よく耐えた。偉いぞ」

 真尋はサヴィラの頭をくしゃくしゃと撫でた。サヴィラは鬱陶しそうに目を細めたが抵抗する気力は流石にまだ無い様だった。

「診察をしても?」

「ああ。頼む」

 真尋が場所を譲れば、ナルキーサスが膝をつき、サヴィラのステータスを見て、傷を見る。

「少年は何に噛まれたんだ?」

「おそらく、バーサーカー化したグリースマウスだ」

「ふむ……アルトゥロ、消毒液とガーゼ、ピンセット」

「はい」

 アルトゥロがすぐに手に持っていた革製の鞄から言われたものを取り出す。ナルキーサスがガーゼをピンセットで摘まみ、消毒液を染み込ませて傷口の周りに溢れる膿を軽く拭い、指先で周辺に触れたり、何かの呪文を唱えたりする。

「……化膿しているから、薬を出そう。薬を飲んで良く休め。熱を下げるために皮袋に氷水を入れて腋や足の付け根を冷やしてやれ。有隣族は元々体温調整が下手くそだから冷やし過ぎには注意しろよ。それと患部が熱を持って居るから、治癒魔法は今はまだ使わないほうが良い」

 ナルキーサスがアルトゥロに手のひらを向ければ、その上に白い小瓶と銀製の瓢箪型の薄っぺらい匙のようなものが置かれる。ナルキーサスは、それの蓋を開けると淡い桜色の中身をその匙で掬って傷口に丁寧に塗り込んで、綺麗なガーゼを当てて包帯をくるくると巻いた。

「また寝る前に替えよう。こまめに変えて、傷口の熱が引けば、治癒魔法が使えるようになるからな」

 ナルキーサスは、笑って言った。その笑顔は、温かくて女性らしい優しさが溢れていた。サヴィラは、頷いて返し、目を閉じた。どうやら安心して、気が抜けたようだ。少しして小さな寝息が聞こえて来た。

「薬を飲ませたかったんだが、眠ってしまったな……仕方がない、可哀想だが一時間したら起して薬を飲ませよう……そのとき、具の無い薄味のスープが欲しいんだが……」

「ローサが食材も買い込んでたから、言えばどうにかなると思うぞ」

 レイが言った。ミアはまだレイの手をぎゅうと握りしめていて、レイもミアが握りやすいのにとソファの隣にしゃがみ込んでいた。

「騎士の兄ちゃん、大丈夫か? 顔色が真っ青じゃぞ」

 ジルコンの声に振り返ればノアの傍に居たリックの顔色が真っ青だった。

「思い出したか」

 真尋は、リックの傍に駆け寄りその隣にしゃがみ込む。リックはジルコンの指摘通り、今にも倒れそうな程真っ青な顔でソファのひじ掛けを握りしめ、焦点の合わぬ目で自分の手をじっと見つめていた。漏れ聞こえる呼吸が不規則に乱れている。
 サヴィラの腕から溢れだした黒い霧に襲われた時のことを思い出してしまったのだろう。俗に言う、フラッシュバックというやつだ。
 ひじ掛けを握りしめる筋が浮くほど力が入った手に真尋は左手を重ね、右手でその背を擦る。

「リック、大丈夫だ。大丈夫……闇は消えた。恐れることは無い」

「……すみ、すみませっ」

 真尋はリックの背中に手を当てたまま、リラックスを唱える。
 がくりと突然脱力したリックを受け止めて、真尋はその場に座り込む。慌てたリックがどうにか自分で起き上がろうとするので、大丈夫だからとその背を撫で続ければ、次第にリックの呼吸が落ち着きを取り戻し始める。

「エディ、ジョシュ、台所にスープを頼みに行くついでにリックをどこかに寝かせてやってくれ」

「分かりました。リック、無理はするな、ほら俺におぶされよ」

 エドワードがリックに背中を向けてしゃがみ込めば、リックはノアを見た後、素直にその背におぶさった。エドワードは真尋とジョシュアに支えられて立ち上がるとふらつくこともなく、リックを背負って部屋を出て行く。ジョシュアがその背に続いて、部屋を出て行った。








「……あの騎士が貧民街で黒い霧に襲われた騎士だったか」

 ナルキーサスが部屋を出て行く背を見ながら言った。

「大分、落ち着いていたんだが……今ので思い出してしまったらしい」

「私は生憎と治療は担当していなかったが、話は聞いた。死者の声を聞いたらしいな」

 ナルキーサスが問いかけて来る。

「……死んだ仲間の声を聞いてしまったらしい。……もともと、暗闇に対するトラウマがあったからか余計に悪化したんだ。夜にすら怯えるほどだ」

「トラウマとはどういう意味の言葉だ?」

「あー……心に負った傷のことだ。それよりも次は、ノアだ」

「真尋くんは、大丈夫? さっき、結構きつそうだったけど……」

 一路に言われてステータスを確認するが、MPもHPも異常はない。

「平気だ。何と言うか凄く……気色が悪いんだ。あの黒いのに触れるとな。ぞわぞわするというかなんというか……浄化し切れば、それも消え失せるんだが……」

「なら次は僕が変わろうか?」

「いや、大丈夫だ。聖水の状態を確認してくれ」

 一路は、無理しないでよ、と告げて盥の方に戻って行く。

「こちらの方が重症だと言ったな」

「ああ。死の痣もサヴィラよりも広範囲に広がっているが……とにかく、毛布を捲れば分かる」

 真尋の言葉にナルキーサスがノアに掛けられた毛布を捲った。
 端正な横顔に驚愕が走り、それはすぐさま険しいものへと変わった。

「……これは、酷いな。アルトゥロ」

「はい」

 アルトゥロが白手袋と白衣をナルキーサスに渡す。ナルキーサスは一度立ち上がって、消毒液で手を洗うと白い手袋をはめて、白衣を着替え、頭に白い手ぬぐいを撒いて髪の毛が落ちないようにする。アルトゥロも長い髪を手ぬぐいの中に器用にしまい込んで、白衣を着替えて、白手袋を嵌めた。

「神父殿、可能であればすぐにでも浄化を」

「分かった。イチロ」

「聖水は準備出来てるよ」

 一路が頷いた。
 ミアを振り返れば、今にも泣き出しそうなのをじっとこらえている。真尋は、その頭をぽんぽんと撫でてからノアの元へと向かい、傍へと膝をついた。
 ノアの頬を撫でてから、真尋はサヴィラにしたのと同じようにノアの脚から広がる死の痣を抜き取って行く。サヴィラのものよりも大きく、感じる不快感が強い。それに少し眉を寄せながらも真尋は、ノアの脚から慎重に黒い霧を取り出していき、二回に分けて聖水の中へと押し込んだ。聖水の中で黒い霧は溶けだし、水を再び真っ黒く染める。
 サヴィラの時よりも掛かる負荷が大きく、聖水は氷水というより氷そのものように思えた。それでも意識を集中させて、魔力を注ぎ込んで呪文を唱えれば、不快感は徐々に和らぎ、それに比例して水は透明さを取り戻す。

「…………はぁ」

 くらりと感じた眩暈に額を抑えれば、一路が肩を支えてくれた。

「真尋くん、大丈夫?」

「サヴィラのものよりもずっと……濃い」

 真尋は、ゆっくりと長く息を吐きだした。そうすれば体の緊張が解けていくのを感じる。

「大丈夫だ、ありがとう」

「何度も言うけど……無理しないでよ」

 そう言って一路が離れ、真尋もその場所をナルキーサスに譲る。
 ノアの左脚は、赤黒く腫れたままで、変な言い方かもしれないが漸く重度の化膿した傷口と言えるようになった。膿をぬぐい取った傷口は、噛まれた痕だと思われる一センチほどの深い傷が一つ、その周囲には引っ掻かれたような傷痕が縦に五センチほど何本か走っていて余程深く抉られたのか、未だに赤い血が滲んでいる。しかし、左足の甲から下は、完全に壊死してしまい、つま先は干からびて白い骨が見える上に、肉の腐った嫌な臭いがする。
 ナルキーサスがヒアステータスを唱えるとノアのステータスが開かれる。どうやら正式なものでない限りは年齢に達していなくても開けるらしい。だが覗き込んだステータスが示す数値は、瀕死といえるものだった。

「……二歳なのか」

 真尋はぽつりと呟いた。

「……秋になったらすぐに、三歳になるの」

 ミアの声に振り返る。
 真尋が、おいで、と腕を広げればレイの手を離してミアが飛び込んでくる。真尋は、ミアを抱き留めて立ち上がり、ソファに座り込んだ。一路に大丈夫とは言ったが、まだ少し眩暈が残っている。ステータスを確認するが、どちらも異常な程は減っていない。おそらく、精神的な負荷が掛かったのだろうと当たりを付ける。

「一路、水を貰って来てくれ」

「分かった」

「俺が行く。お前はここに居たほうが良いだろう」

 レイが立ち上がって部屋を出て行った。ジルコンが、大丈夫か、と腕を擦ってくれるのに礼を言う。

「この子は何があった?」

「一週間ほど前、同じくバーサーカー化したグリースマウスに左のふくらはぎを噛まれたらしい。二時間ほど前に熱痙攣も起こしている」

「意識は何時から無い?」

 ナルキーサスが振り返った。
 真尋はミアの顔を覗き込む。小さな声が言葉を紡ぐ。聞き漏らすまいと耳を傾ける。

「……サヴィラに会いに行った日の朝から、ということは……四日はずっと眠り続けていることになる」

「そうか……」

 ミアが真尋にしがみつく腕に力がこもる。真尋はミアを抱き締めて、砂色の髪を撫でる。

「この左足の傷が原因による発熱だ。ここから悪いものが血液中に入り血管を通して体内に広がってしまって炎症を起こしているんだ。微かに手が痙攣しているし、更に、この傷口の辺りは既に肉が壊死している……左足はもう駄目だな。この腿の付け根から下を切断することが求められるが……」

「義姉上、この子の体力が持ちません。衰弱が激しすぎます」

 アルトゥロが首を横に振る。ミアが真尋にしがみつく腕にますます力が込められて小さな体が震え出す。真尋は、俺が居る、と声を掛けてミアの背中を擦る。
 丁度、レイが戻って来た。何故かソニアが一緒だった。

「ソニア? 何でここに?」

 ソニアは入り口に立ったまま言った。何故か彼女のエプロンやスカートが濡れている。
 レイは中に入って来て、コップに汲んで来てくれた水を渡される。真尋はそれに冷却魔法を掛けて冷たくして、ゆっくりと半分ほど飲み、ミアにも飲ませた。ミアも喉が渇いていたのか、こくこくと喉を鳴らして素直に飲んでくれた。

「あの女の騎士さんに話を聞いて、宿屋にいた暇な冒険者たちを連れて来たんだよ。今は下の広間で待って貰ってる。ついでにベッドを数台、持って来たから隣の部屋で休めるようにしたよ」

「凄く助かります、ありがとうございます」

 一路がぺこりと頭を下げる。
 ソニアは、お互い様だよ、と笑う。

「あたしは戻るよ、今、チビ達を風呂に入れて大騒ぎしてるんだ。どの子も元気だから大丈夫だと思うよ。サンドロがご飯の仕度もしているけど……治癒術師さん、何か特別、用意するものはあるかい? 薄味のスープはもう既に作り始めるけど」

「この子に薬を飲ませたいから、少し何か腹に入れるものを。スープが出来ていれば、それでいい」

「分かったよ」

 ソニアが頷いて戻って行く。

「神父殿、この子の傷を少し切るから、出来れば部屋を出て欲しいんだ。アルトゥロ、二人の薬を用意してやってくれ」

 アルトゥロが鞄を漁り何かを取り出すのを横目に真尋は立ち上がる。水を飲んで眩暈は治まった。

「ミア、行こう」

 ミアが嫌々と首を横に振った。
 どうやら弟と離れるのが不安なようだ。

「サヴィラを先に隣に連れて行って寝かせてやってくれ」

「分かった」

 レイがサヴィラを慎重に抱き上げて、ジルコンと共に部屋を出て行く。

「小さなレディ」

 ナルキーサスが立ち上がり、ミアの顔を覗き込んで、ふわりと笑う。先ほどサヴィラに向けられたものと同じ、優しくて温かな微笑みだ。

「弟君の治療には全力で当たる。正直な話をすると、弟君の容体はかなり悪い。まだ弟君は小さくて、幼く、弱いからね。でも、同じように小さな君が弟君を護り続けた強さに敬意を表して、私もアルトゥロも出来うる限りのことをしよう」

 アルトゥロも深く頷いて優しく笑った。
 ナルキーサスは、絶対に助けるとも絶対に大丈夫だとも言わなかった。絶対を約束しないその言葉は残酷なようでいて、それは優秀な治癒術師であるナルキーサスかミアへ向けられた最大の配慮だとも思った。素人目に見てもノアの状態は最悪だと言っていい。ミアの前だからと皆が口を噤んだが、いつ死んでもおかしくない状態なのだ。あと少しでも発見が遅れていたら、ノアはもう既にこの時点でこの世にはいなかったかもしれないというほどに。
 ミアが顔を上げた。珊瑚色の澄んだ瞳がナルキーサスを見つめる。

「……ノアはひとりぼっちになると、すぐに泣くの」

 小さな声が心細く言葉を紡ぐ。

「だから、ノアをひとりぼっちにしないで」

 ナルキーサスは、優しく細めた黄色の瞳でミアを見つめたまま、ああ、と頷いた。
 ミアは、再び押し黙ると真尋の首に腕を回して再び抱き着いて来た。アルトゥロから二人の薬を受け取って、真尋は小さな頭に頬を寄せて、では、と目礼して部屋を出る。

「見習い君の手を借りたいんだが良いか?」

 その言葉に足を止める。一路が僕はいいよと言ったので、真尋は「どうぞ」と一路の貸し出しを許可した。

「素人ですが精一杯頑張ります。何か必要な物が有れば言って下さい。すぐにご用意します」

「ならば熱湯と人肌より少し熱い位の湯をたっぷりと頼む」

 一路の申し出にナルキーサスが返し、それと、と言いながら一路やアルトゥロに指示を出す。一路がお湯を受け取りに行ってきますと急いで下へ降りて行った。







 真尋は慌ただしくなった部屋を後にして廊下へと出た。後ろ手にドアを閉める。
 隣の部屋へと入れば、五台のベッドが置かれていて真ん中にサヴィラが眠っていた。ジルコンがベッドの縁に腰掛けて、サヴィラの額に濡らした手ぬぐいを置いていた。

「レイは?」

「下へ行ったぞ。わしだって看病くらいは出来るからの」

 ジルコンは、カカッと静かに笑った。
 真尋はサヴィラの左隣のベッドに腰を下ろす。

「ミア、上着を脱いでいいか?」

 ミアが頷いて腕の力を緩めてくれた。真尋は神父服の黒い上着を脱いでシャツになる。上着は足元に放り投げておく。
 こんこんとノックの音が聞こえて顔を上げれば、開けっ放しだったドアの前にティナが立って居た。その手にはスープの乗ったお盆があり腕には何か布を掛けていた。隣に控えるロビンは、口に籠を咥えて、背中に何かをしょっている。

「スープと温めたボヴァンのミルクです」

「ありがとう。ここに置いてくれ」

 真尋はぽんぽんとベッドを叩いた。ティナがそこにお盆を置き、腕に掛けていた布を広げる。それは布では無くて、子供の用の寝間着だった。薄い桃色の寝間着はワンピースタイプで触ってみると柔らかく肌触りも良い。

「ローサのおさがりです。ソニアさんも色々持ってきてくれたんですよ」

「……ソニアには頭が上がらんな」

 真尋はそれを受け取る。ミアにはクリーンを掛けてあるので、風呂に入って洗ったのと同じだが、何となく濡らした布を温めてミアの顔を拭いてやり、ボロボロの服を脱がせて着替えさせ、スープを飲ませる。真尋も毎日シャワーを浴びるのは、日本人としてやっぱりクリーンでは洗った気にならないからだ。

「マヒロは、奥さんだけじゃなくて、子どもも居るのか? 随分、手慣れておるの」

 ジルコンが感心したように言った。

「年の離れた弟達が居るからな。両親は忙しい人だったから、俺と妻で育てたようなものだ」

 そう返して真尋は、ミアに薬を飲ませようと仕度する。薬は丸薬だった。粉じゃないことにほっとしながら、ミアの口に入れて水を飲ませる。ミアは嫌そうに顔を顰めたが両手で口を押えて、ごくりと飲み込んだ。

「良く飲めた、偉いぞ」

 真尋はミアの頭を撫でて抱き締めてやれば、ミアは真尋の首に顔を埋めてすりすりと甘えて来る。余りの可愛さについつい頬が緩んでしまう。とはいえ、それはジルコンとティナには分からない程度だったが。

「マヒロ神父さん、これ、サヴィラくんの着替えです。それとこっちは、マヒロ神父さんの分のお食事です。お昼、まだ食べてないですよね?」

「ああ。助かる、今、急激に空腹を自覚した」

 ロビンが咥えて運んで来た籠の中に入っていたサンドウィッチを受け取り、頬張る。トマトと鶏肉とハーブの旨味が口いっぱいに広がった。サンドロの料理は疲れた体に染み渡るようだった。
 真尋はサンドウィッチを食べながら、ミルクをミアに飲ませた。ゆっくりと少しずつ飲んで、もういらないと首を横に振ったら、そこで終わりだ。無理は良くない。残りは真尋が飲んでしまう。
 空になった皿やカップはロビンの籠に戻す。

「何かあったら、また呼んで下さいね」

「なら早速で悪いが、ジョシュを呼んで来てくれ」

「分かりました」

 ティナが頷いた拍子にはらりと花びらが落ちた。ロビンと一緒にティナが出て行き、部屋の中は静かになる。
 ミアは、腹が満たされて眠くなってきたのだろう。真尋に抱き着いたままうとうとし始めた。真尋はミアを抱えなおして、体を左右に揺らしながら子守唄を口ずさんだ。
ミアの瞼がゆっくりと閉じられていく。

「今は、ゆっくりと眠れ、ミア」

 真尋はミアの髪にキスを落として、穏やかに優しく子守唄を紡ぐのだった。





――――――――――――――――

ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
いつも感想、閲覧、お気に入り登録、励みにしております。
ファンタジー大賞への応援、本当にありがとうございます!

ナルキーサスと真尋が漸く対面いたしました。
治療は終わりましたが、これからが正念場ですね……

次回のお話も楽しんで頂ければ、幸いです。
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