称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第三十三話 告げる男

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 ティナは、クイリーンとともにせっせと書類に目を通し、サインをしたり、訂正したりしてそれぞれ分類する。
 エルフ族の里は、とても遠い。無論、それは隣接する妖精族の里にも適応される。普通の馬車なら来るだけで二週間、乗り合いを利用すればそれ以上はかかるようなところだ。ティナだって故郷である妖精族の里には幼い頃に一度だけしか来たことがなかった。
だが、里の近辺にはいくつか村があり、冒険者ギルドの支部がある。東の地域の本部はもちろんブランレトゥの冒険者ギルドだ。
 今回の世界樹の異変とドラゴンのバーサーカー化に伴う魔獣の襲撃による被害は、エルフ族の里に一番近いところに位置するシケット村に対して想定していた以上に深刻な影響を与えていた。
ゆえにイチロはエルフ族の里のことは兄に任せて、シケット村のほうの対応に追われていて、ティナもまた彼を補佐しながら、魔獣被害に関する冒険者ギルドで処理しなければいけないあれこれを、こうしてクイリーンと一緒にこなしていた。
ちなみに夕方になるとポチが迎えに来てくれるので、毎日エルフ族の里に帰って、朝、ここにポチに送ってもらっている。

「クイリーンさんが一緒に来てくれてよかったです。私じゃ分からないこともたくさんで」

 シケット村のギルドの支部が用意してくれた部屋、大きなテーブルの向かいの席で作業していたクイリーンが顔を上げた。

「そうよねぇ。ティナは優秀だからギルマスもうっかりしてるけど……まだ受付嬢を始めて半年かそこからだもんね」

 指折り数えてクイリーンが言った。

「はい。もちろん、ブランレトゥのインサニアによる魔獣被害の後処理はありましたが、こんな遠くに派遣されてやるのは勝手が違うので……」

「魔獣が異常発生したりした地方での処理はないことはないんだけど。とはいっても私も二百年くらいギルドで働いてるけど、本当に極稀よ」

 クイリーンが極稀と言うのだから、本当に極稀なのだろうとティナは納得する。ティナもクイリーンの本当の年齢は知らない。

「ね、そろそろ休憩しましょ。お昼ご飯の時間だわ」

 そう言ってクイリーンが立ち上がった。ティナもペンをペン立てに戻して立ち上がり、ぐっと伸びをする。ぱきぱきと背中で筋肉がなる。

「ピオン、プリム、私たち休憩に行くわよ」

 テーブルの端っこに置かれた籠の中で眠っていた二匹が欠伸をしながら起きて、ティナの肩に乗った。
 二人は連れ立って仕事部屋をでる。
 ここは村長の家の一室だ。シケット村は、そこそこの大きさの村だが何分、領地の隅っこにあるので商業、冒険者、職人ギルド全ての役割を持つ役場が村長の家にある。それで事足りてしまうのだ。
 そこにいた村の職員に声をかけて、二人は外へ出る。
 村の中はのんびりした空気が流れていて、穏やかだ。すぐ近くにある村唯一の食堂へ行く。少し遅い時間なので、並ぶことなく中へ入れた。
 店の隅っこのテーブル席へ案内され、向かい合うようにして座る。日替わりランチを二つ頼んで、料理が来るのを待つ。
 店の中は、冒険者や騎士が大勢いて、なかなかに賑やかだ。彼らは皆、今回の騒動によって近隣から派遣されてきた人たちだ。

「それにしても驚いたわ。神父さんや見習いくんの奥さんとかお兄さんが来るなんて」

 最初の一杯は無料でサービスしてくれる村特産の葡萄ジュースを飲みながらクイリーンが言った。

「ええ……本当に。私も驚きました」

 ティナは苦笑を零しながら頷く。
 いきなりジョシュアがやって来て「ティナ、カイトの姿絵持ってるか!?」と聞かれた時は、本当に驚いた。
 よくよく話を聞いてみれば、ウォルフたちが派遣されたカロル村周辺の以上は、近くの泉に強力な魔獣が出現したことが原因で、その飼い主がマヒロの妻で、更に彼らの身内がいたとのことだった。
 そこで、イチロがマヒロに頼んで描いてもらった兄のカイトの姿絵の所在をジョシュアは尋ねてきたわけだ。だが、それはイチロがお守り代わりに持ち歩いていて、残念ながらブランレトゥにはなかったのだが。

「ねえ、ユキノさんってあの姿絵通りの美人さん? 姿絵って結構、誇張されるじゃない」

 クイリーンが首を傾げた。
 マヒロは信頼できる女性や子どもには、割と普通に奥さんの姿絵を見せてくれた。小さな絵だが、とても緻密で、そこに収まっていたのは美しい人だった。
 まあ、確かに姿絵が誇張されて描かれるのはよくあることだ。だが、ティナは首を横に振る。

「あの姿絵の数倍、綺麗な人ですよ」

「そうなの?」

 驚くクイリーンにティナはうんうんと頷く。

「実物は全然違います。だってあのマヒロ神父さんの奥さんで、彼と並ぶとしっくりくるくらいの美貌です。それに……すごく優しくて、芯のしっかりした素敵な女性です」

「へぇ。私も会ってみたいわぁ。会えるのが楽しみになって来た」

 そう言ってクイリーンが目を輝かせたところで、日替わりランチが二つ、到着する。
 今日は少量のサラダとレーズン入りのクッキーが添えられたキノコたっぷりのピザだった。秋らしいメニューだ。ピオンとプリムがティナのサラダから葉っぱを一枚ずつ取り出して食べ始めた。彼らが食べるということは、やはり世界樹の魔力が少なからずこの野菜にも混じっているのだろう。

「ん、おいしー。シケット村もこの百年で大分、大きくなったわねぇ。前に来た時はもっと小さかったのよ」

「そうなんですね。ここ、お野菜も美味しいですよね」

「みずみずしくて、野菜の味がしっかりしてるわよね」

 他愛のない話をしながら昼休憩をのんびりと過ごす。
 ランチを食べ終えたら、会計を済ませて店を出る。

「さて、ティナ」

「はい」

「これ、あげる」

 渡されたのは、先ほどクイリーンが会計の時に受け取っていた持ち帰りの品だった。ランチを頼んだ時に一緒に頼んでいたのだ。
 
「クイリーンさんのおやつじゃないんですか?」

「ふふっ、それは別で頼んだから大丈夫。見習いくんの様子見てきてあげなさい」

「え、でも」

「アンナは、愛情最優先だから、これは仕事をさぼったうちには入らないわよ。それよりなんだか知らないけど見習いくん、根を詰めすぎてる感じがするわ。あなたが息抜きさせてやんなさい。恋人でしょ? あの子、食べ盛りだしお昼食べてても、おやつにはなるわよ」

 ぱちりとウィンクをしてクイリーンが紙袋をティナの手にもたせた。
 ピオンとプリムはお腹いっぱいになって昼寝をしたいのか、欠伸をしながらクイリーンの肩にぴょんと飛び乗った。仕事部屋の日当たりのいい窓辺に彼らのベッドが置いてあるのだ。

「気づいてたんですね……」

「だてに長生きしてないもの。マヒロ神父さんと違って、見習いくんはあまり自分の不機嫌を表に出さないけど、なんとなーく珍しく不機嫌でしょ?」

 マヒロは無表情が常の人だが、案外、不機嫌なのは分かりやすい。大体が仕事が多すぎてミアとサヴィラとの時間が取れない時に不機嫌が伝わって来る。一方のイチロは、あまり人に自分の機嫌が悪いことを察知させない人だ。

「……カイトさんがこっちに来てしまったことに、悩んでいるみたいで」

「どうして? 仲の良い兄弟なんでしょ」

 クイリーンが首をかしげる。
 彼女はティナにとって憧れで、とても信頼できる先輩だ。それにエルフ族である彼女はずいぶんと長生きで、本当の年齢は知らないが冒険者たちが「俺のひぃじいちゃんが現役だった頃も受付にいた」と言われるくらいには年上で人生経験が豊富だった。

「イチロさんは突然、神父として生きることになって、故郷では事故で死んだことになってるんだそうです。だから、カイトさんまでもご両親を置いて来てしまったことが……その、許せないというか、飲み込めないみたいなんです。二人きりの兄弟だから、会えて嬉しい気持ちと、ご両親の悲しみを想うと板挟みみたいで」

「……なるほどねぇ。優しい見習いくんらしいわ」

 クイリーンが肩の上にいるプリムの頭を撫でながら、小さく笑った。

「私たちエルフ族は、いつだって置いて行かれる側だから、ご両親の気持ちを想うと胸が痛むわ。二人きりの兄弟だったなら、なおさらね。とくに子に先立たれた親の悲しみは、簡単には癒えないもの」

 ティナがブランレトゥの屋敷で共に暮らす庭師のルーカスとクレア夫妻も不慮の事故で息子家族を喪ってしまっていた。毎朝、二人が教会で熱心にティーンクトゥス様に祈っている姿をティナは知っている。
 クレアは「悲しみはずっと胸にあり続けるけれど、あの子たちが寒いとことにいなければ、お腹を空かせていなければ、それでいいのよ」と言っていた。だが、そこにたどり着くまでに、どれほどの時間を要したのだろうか。
 共に教会で祈るイチロが、二人の気持ちや祈りを知らないわけもない。

「そういうものはね、時間に頼るほかないのよ。でも、その時に……大事な人が傍に居てくれたら、少しだけ心が温まるものよ」

 そう言ってクイリーンは優しく目を細めて、ティナの頭をぽんぽんと撫でた。

「傍にいてやんなさいな。あなたたちの人生は、ほんの一瞬のことなのだから」

 そう言って、クイリーンはひらひらと手を振って、さっさと行ってしまった。

「あ、ありがとうございます!」

 その背に声を掛ければ、クイリーンは投げキスを一つティナに贈ると、今度は振り返らずに帰って行った。
 やっぱりクイリーンはティナの憧れの先輩だ。ティナにもいつか後輩ができたら、クイリーンがしてくれるみたいにさりげなく気遣えるようになりたい。
 ティナはぺこりと頭を下げて、村の騎士団の詰所へ向かう。
 だが、そこにイチロの姿はなく、騎士が村の外の畑にいると教えてくれた。ティナは、そのまま村の外へと向かう。
 その辺で作業している村人に聞けば、イチロの場所を教えてもらえた。案外近くにいたことにほっとしながら、目当ての畑に向かう。
 そこはアゼルの家の畑で、大きな穴が開いていて、カースバッドの毒性のある血が散乱してしまったために土地が汚染されてしまった割と被害が深刻な場所だった。

「イチロさん!」

 アゼルとその兄弟と話し込む背中を見つけて、ティナは声をかける。
 ふりかえったイチロがティナを見つけて、微笑んだ。

「どうしたの、ティナ」

「お昼、食べましたか?」

「ああ、もうそんな時間って過ぎてる」

 イチロが懐中時計を取り出して時間を確認し、目を丸くする。

「えっ、神父さん、また食べてなかったんですか?」

 アゼルが驚きに声を上げた。

「ははっ、うっかりしちゃってたみたい」

 苦笑を零しながらイチロが言った。

「じゃ、じゃあ、すぐに休憩に入って下さい。駄目ですよ、適宜休憩はとらないと、そこの農具小屋、狭いですけど休憩できるようになってますから好きに使って下さい。今言ってた件は俺が確認しておきますから」

「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて少し休ませてもらうよ。行こう、ティナ」

 イチロに手を取られて歩き出す。
 葡萄畑の片隅に小さな小屋があった。中へ入れば半分は様々な農具が地べたに直接置かれてアゼルの言う通り、一画だけ一段上に作られていて休憩ができるようになっている。カーペットが敷かれていたので、靴を脱いで上がる。
 小さなテーブルがあったので、そこにクイリーンからもらったランチを置いた。二人くっつくように並んで座り、壁に寄りかかる。

「あ、飲み物……」

「大丈夫、アゼルさんが水筒持たせてくれてるんだ」

 そう言って一路は、アイテムボックスから錫製の水筒を取り出して、蓋のカップに注いだ。葡萄の香りがする紅茶のようだった。

「美味しそうな匂いがする。なんだろ、パン?」

 楕円形の白い塊を取り出してイチロが首を傾げた。

「多分、ピザです。お持ち帰り用は具材を生地で包んで焼いてあるんじゃないでしょうか」

「なるほど。……ん、ほんとら」

 イチロが齧り付けば、みょーんとチーズが伸びた。
 もぐもぐと食べながら、イチロが紙袋のを中を覗き込んで、目を輝かせた。

「クッキー! 四枚も入ってる!」

 嬉しそうなイチロにティナも自然と笑みを浮かべる。ランチには二枚しかついていなかったが、持ち帰り分はサラダがないため、クッキーを多めにつけるようにしているのだろう。

「ここのレーズン、本当に美味しいよねぇ。ワイン用のブドウとは別の種類のブドウで、専用で作ってるんだって」

「そうなんですね。でも確かに美味しいですよね。クッキー用のは小粒ですけど、パンに入ってるレーズン、大粒でジューシーで驚きました」

「それね。アゼルさんのお母さんが持たせてくれたレーズンパン、本当に美味しくて……ここのレーズン、リックさんの実家のパン屋に卸してもらえないかな。なんならポチに輸送してもらえばいいし……」

 甘いものに関しては妥協しない恋人は、真剣に悩んでいる。
 ティナは彼によりかかったまま、もぐもぐと美味しそうにピザを食べるのを見つめる。ほっぺが動いて可愛い。
 あの日、マヒロが目覚めてイチロが顔を見に行くと言ったあの朝、ティナはイチロとともにユキノの告白を聞いた。
 彼らの愛する神様であるティーンクトゥス様の名前が出て来て、まるで彼らは神様に会ったことがあるかのようだった。それと同時に「ニホン」という彼らの故郷らしい地名が出て来た。他にも「転生」とか「存在を消す」とか「寿命」とか。
 ユキノが告げる内容はにわかには信じがたかった。
 でも、取り乱すイチロや、唇を噛むミツル、会いたかったと弟を抱き締めたカイトが嘘を言っているようには見えなかった。
 以前、イチロはプロポーズをしてくれた時、ティナに「いくつかの秘密がある」と言った。これが、多分、それなんだろうとはなんとなくだがティナにも分かっている。
 ティナの大好きな恋人は、一体どこから来たんだろう。

「ティナ、は、さ……」

 ピザを食べ終えたイチロがおもむろに口を開いた。

「聞いてたよね。雪ちゃんの話」

「……アーテル語だったので」

 ティナの言葉にイチロの横顔が曇る。

「……言いたくなかったら、いいんですよ?」

 なんとなく彼が苦しそうに見えて、ティナはその腕をぎゅうと抱き締めて告げた。
 イチロは「かっこわるいな、僕」と片手で顔を覆って、くしゃくしゃと柔らかな髪を掻いた。

「話したくないわけじゃないんだ。僕はティナとずっと一緒にいたいから、知ってほしい。僕たちがどこから来たのか、とか、どうして来たのかって……でも、どう話したらいいか分からなくて」

 ティナは顔を上げて、彼の横顔をじっと見つめる。

「……僕たち兄弟や真尋くん、そして雪ちゃんたちが産まれたのはね、地球という惑星のイギリスや日本という島国だったんだ」

「チキュウ? ワクセイ?」

 島国はティナにも分かった。海に浮かぶ島が国となっている場合に使われる言葉だ。イギリスやニホンはそれに分類されて、国の名前なのだろう。
 だが、チキュウとワクセイは分からなかった。

「僕らはこの世界の人間じゃない。……なんて言ったらいいのかな、異なる世界から来たんだよ」

「異なる、世界」

「うん。僕らの世界では魔法も魔獣も物語の中だけの創造の産物だった。その代わりにね電気というものがあって非常に高度で発達した便利な社会が築かれていたんだ。真尋くんが創る魔道具は、僕らの世界にあったものを再現してるんだよ」

「な、なるほど?」

 理解したいと思うが何分、想像するのも難しい。だが、なんとなくマヒロの作るものはずば抜けているので、それが違う世界のものだと言われると納得もできた。

「僕と真尋くんは、あの日、車っていうこっちで言う馬車みたいなものに撥ねられて死んだんだ。次に起きたら、神様のところに……ティーンクトゥス様のところにいたの。文字通り、神の御許に呼び出されたんだ」

 それはなんとなく想像できた。物語でも神に呼ばれた勇者の話を読んだことがあった。神の声を聴くために、神の下に呼ばれるのだ。それに近いものだろうか。

「ティーンクトゥス様は、信仰を失って力を失い、苦しんでいた。だから、真尋くんを呼んでしまったんだ。本当はね、助かるはずだったんだ、真尋くん。でも、神様に呼ばれてしまったことで、真尋くんは……そしておまけの僕も、あちらの世界で完璧に死んでしまった」

「おまけ?」

「……呼ばれたのは真尋くんだけだったんだよ、本当はね。それに車が突っ込んできたとき、真尋くんが僕をかばってくれたんだ。でも僕は、結局、死んじゃった。真尋くんの命を無駄遣いさせちゃったんだ。……これ言うと、真尋くんに怒られるから、このことはもう納得してるんだ、一応、形だけね」

 そう言ってイチロは苦い笑みを口端に浮かべて目を伏せた。

「ティーンクトゥス様は、どうして真尋くんを呼んだのか分からないって言ってたけど、僕には分かる気がするんだ。真尋くんほど眩しくて、美しい光なんて僕は知らない。ティーンクトゥス様がうずくまっていた絶望だらけの真っ暗闇でだって、きっと、強く輝いていたはずだよ。それに手を伸ばしてしまったことを……ティーンクトゥス様は泣いて謝ってくれた。もちろん、僕にもね。愛する人たちとの永遠の別れを強制的に与えてしまったことを、神様なのに謝ってくれたんだ」

 ティナは手を伸ばして、その頬に触れた。イチロが目だけをティナに向け、すり、と頬を寄せて来る。

「真尋くんと僕は、ティーンクトゥス様の話を聞いて、そして、この世界にやって来た。ティーンクトゥス様の力を取り戻すためにね。もともとの世界に魔法はないから、魔法が使える体に作り替えてくれて、そうして……うん、思い出したくないんだけど、真尋くんに突き飛ばされて僕はこの世界に来た」

「……突き飛ばされて?」

 思いがけない言葉にティナは首を傾げた。

「ティーンクトゥス様はね、自分の世界の窓から僕らのことを見守ってくれているんだけど……ドジな神様でうっかり開けた窓が魔の森の遥か上空だったんだ。それで飛び降りるのをためらった僕を、真尋くんが突き飛ばして追い出してくれたってわけ。死ぬかと思ったけど、癪なことにその真尋くんのおかげで生きてる」

 イチロが眉を寄せた。本当に嫌だったというのが伝わって来る。
 突拍子もない話だが、マヒロならやりかねないので妙に現実味があった。何せマヒロは、リックとウォルフをブランレトゥの壁から既に突き落としている。ウォルフが嘆いていたので間違いない。あの人は口より先に手と足が出ることくらい、ティナだって知っている。

「それで魔の森で野営してたんだけどさ……真尋くんってごはんにうるさいでしょ?」

「そうですね……とても」

「体を馴染ませるために魔獣を倒したり、薬草集めたりしてたんだけど、なんの調味料も持ってないから、料理ができなくてね。 携帯食と水だけで生きてたんだけど、それにすぐ耐え切れなくなって森を出て、道中で盗賊に襲われてたジョシュアさん親子に会ったの。それでそのままブランレトゥへ。あとはティナも知っての通りのハチャメチャな日々だよ」

 彼の頬を撫でていた手を離して、彼の目に入りそうな髪を指先で払う。淡い茶色の髪は、ふわふわして柔らかい。
 ティナの大好きな琥珀に緑の混じる森色の瞳は、寂しそうに遠くを見つめている。なんだか、イチロが遠くに行ってしまいそうで、ティナは彼の腕にますますぎゅうと抱き着いて、顔をうずめた。紅茶の柔らかい匂いがする。

「……ティナ?」

「……イチロさんは、帰りたいですか?」

「僕は帰れても、もう帰れないよ。君を置いて行くわけにはいかないから」

 悩むこともなく返された言葉に驚いて顔を上げれば、ちゅっと瞼にキスが降って来た。

「…………こういうことが人づてに伝わるのは嫌なんだ。エディさんとかめちゃくちゃうっかり喋りそうだから、先に言っておくけどさ」

 なんだか気まずそうにイチロが口を開く。

「僕の初恋ってね、雪ちゃんなの」

「そう、なんですね……」

 ティナの脳裏に微笑む雪乃がよぎる。美人で、優しくて、スタイルも抜群だし、料理だってとびきり上手だ。おおよそ欠点がない、あのマヒロを支えられるくらいに完璧な人だ。ティナでは到底、敵いそうもない。

「お、落ち込まないで……! 初恋って言っても僕が七歳くらいの頃だから! 雪ちゃん本人も知ってるし、真尋くんも僕の家族も知ってるから、やましいことはひとっっつもないから! 微笑ましいねぇくらいのやつだから!」

 イチロが慌てて取り繕うように言った。
 ちょっと泣きそうになりながらイチロを見上げればあたたかな手がティナの頬を包んで、親指の腹が柔くティナの目元をぬぐった。

「ごめんね? でも絶対にエディさんがうっかり喋りそうだったから、僕の口からちゃんと伝えておきたかったんだ」

 またちゅっと今度は額にキスが落とされた。

「僕の一番は、これから先はずっとティナだよ。雪ちゃんのことは今だって好きだけど、それは真尋くんとか兄ちゃんとかジョンくんとかミアちゃんとかそういう皆に向ける好きと同じ。特別なのはティナだけだよ」

「……ほんとう?」

 ティナの問いにこつんとイチロが額をくっつけてくる。至近距離で見つめる森色の瞳はやっぱり安心する。

「本当。だって、例えばの話だけど、もし向こうの世界に帰れる方法があってさ、僕がティナと出会っていなくて、今みたいに雪ちゃんが来たとしたら『あ、真尋くんもう大丈夫だ! 僕、帰ろ!』ってなんのためらいもなく思ってたよ。でも僕は、ティナがいるから、パパとママを悲しませていると分かっているけれど、帰りたいとはもう思わないんだ。僕、もう……君無しじゃ生きていけないもん」

 とんでもない殺し文句を言われた気がして、ティナは瞬きを繰り返しながらイチロを見つめる。そんなティナに、イチロはくすくすと柔らかく笑う。

「僕ね、ティナに恋をして、初めて本物の恋を知ったんだ。ドキドキしてわくわくして、同時に不安で、嫌われるのが怖くて、でも、君が笑ってくれたら世界一幸せになれるし、とびきり嬉しい。こんなめちゃくちゃな気持ち、僕は知らなかったんだ」

「私も……好きな人にキスするのが、こんなに幸せだなんて知りませんでした」

 ちゅっと彼の唇に自分から触れるだけのキスをすれば、嬉しそうにキスが返される。
 そしてぎゅうと抱き締められた。ティナはイチロの背に腕を回して自分からも抱き着く。

「理想論だけど、パパやママ、おじい様やおばあ様、友だちとか、僕の大事な人たちにちゃんと『さよなら』を言えたらよかったとは思うんだ。彼らのためにも、僕のためにもね。それができなかったから、僕は余計に苦しいのかも」

「うん」

「パパとママのこと、大好きだよ。僕のこと、愛してくれて大事にしてくれた。だけど僕はもう何もしてあげられないから、兄ちゃんに僕の代わりに大事にしてほしかった。……でも、そればかりを兄ちゃんに押しつけるのは違うよね。兄ちゃんは僕以上に辛い選択をしたのにね」

 ティナはイチロの背に回した腕に力を込める。

「僕は……どうしたらいいんだろうね」

 迷子みたいな頼りない声で呟いて、イチロはそれきり黙ってしまった。
 ティナは、イチロを抱き締めたまま、その背中をあやすように撫でて、ただ傍にいることしかできなかったのだった。









「グラウでの療養か」

 海斗は今しがた、外にいた海斗の下にすごい勢いで飛んで来たハヤブサが運んで来た手紙をジークフリートに渡す。
 それはジークフリート宛で、送り主はナルキーサスだった。ハヤブサは、海斗の肩で大人しくしている。
 もう既に真夜中に近い時間帯だと言うのに族長の家の一室で、今回のことに関する書類とブランレトゥから持参した書類仕事をしていたジークフリートは手紙を読みながら、ぽつりと零した。
 ちなみに可愛い弟は昔から早寝早起きが基本なので、もう既に寝ている。健やかでとても可愛いと思う。

「グラウってどこにあるんだい?」

「ブランレトゥの東にある町だよ。地下深くに火と水と地の魔石が同時に生成されている場所があって、そこから温泉が湧き出てきているんだ。病気療養はもちろん、怪我にも効くと言われている」

「マヒロ、また悪化したのか?」

 不安になって尋ねると、ジークフリートは首を横に振った。

「魔獣につけられた魔法傷は治りにくい。だからまだまだ包帯まみれだそうだが、奥方のおかげで元気だそうだ。ベッドからいつ逃走し始めるかが問題だと書いてある」

 ほら、と差し出された手紙を受け取り目を通せば、確かにジークフリートの言うとおりのことが書いてあった。
 これはナルキーサスから、マヒロの療養許可を求める手紙だった。
 ジークフリートは、護衛騎士のホレスが用意してくれた便せんに返事を書き始めた。

「マヒロには、頭が上がらないからな、許可をするほかない。それに一日も早く彼がよくなってくれないと、娘殿を泣かせたことに対して更に頭が上がらなくなる」

「あいつ、親馬鹿だからねぇ」

 海斗は割と真剣にペンを動かすジークフリートに苦笑を零す。

「……君や双子くん、奥方殿、執事の彼も治癒魔法を使えるのか。執事の彼は、ジョシュアの義父のぎっくり腰を治したとか」

「いや? 俺たちにはないよ。俺にあるのは、光属性の浄化の力だけ。双子にも光属性はない。みっちゃんのあれは治癒魔法じゃなくて、彼の整体技術が素晴らしいだけなんだけど、素晴らしすぎて魔法と勘違いされたみたいだね。……雪乃は、また少し特殊でね、光属性はあるけれど、その力を彼女自身が魔法として使うことはできない」

 紅い双眸がちらりと海斗に向けられる。

「では、マヒロから魔力を剥いだのは、魔法ではないと?」

「雪乃曰く『真尋さんにくっついてた薄皮はね、ゆで卵の殻を参考にして、私の魔力を流して剥いだだけよ』だそうだよ。まあ、シンプルに愛の力だと俺は思うけどね。彼女の総ては真尋のためにあるし、その逆も然りだよ」

 背後に置かれている海斗はソファに寄りかかった。ハヤブサは、じっとジークフリートを見つめている。

「弟に、忠告されたかもしれないけれど、雪乃には絶対に手を出さない方がいい。彼女を傷つけるものには、真尋は本当に容赦がないからね」

「……いちど、再婚を勧めて死ぬかと思った」

「……よく、生きてるね」

「我ながらそう思うよ。あの時は本当に……死ぬかと思った」

 ペンを置きジークフリートが遠い目をして言った。彼の後ろに控える護衛騎士二人もその時のことを思い出したのか蒼い顔をしている。

「でも、雪乃がいれば真尋はもう大丈夫だよ」

「それは僥倖。……もしあちらに戻ってもまだ、マヒロが療養を続けているようなら、君たち兄弟も好きにいくといい」

「いいのかい?」

 封筒に入れられ、蝋封が施された手紙の返事を受け取り、首をかしげる。

「君たちには世話になっているし、正直、ポチがいればグラウなら一瞬で行き来できるからな。……本当に便利だから、なにがなんでも私はポチを借りる許可をマヒロに貰わねばならん。だって領地見放題だぞ」

「ふふっ、OK。その時は俺も口添えしてあげるよ。それとアドバイス。雪乃を害されると尋常なく怒るけれど、雪乃に利益があれば真尋は機嫌が良くなるし、言うことも聞く。だから、まあ君は、まず雪乃が仲良くしている君の奥さんと仲直りすべきだね」

「……そ、それは」

 ジークフリートが苦虫を噛みつぶしたような顔をした。

「正直言って、出発の時のあれはないね。もっと言いようがあっただろうに。心配をかけたことを詫びるとか、逆に彼女の身を案じるとかね」

「…………ぐっ」

 彼の後ろのホレスとオーランドも深く頷いている。彼に忠実な護衛騎士をもってしても、あれはよくなかったということだ。

「いいかい? 言葉は尽くすべきもので、ケチっちゃいけないんだよ」

「……はい」

「次に帰るまでに、奥さんに何ていうかちゃんと考えるように。俺も一緒に考えてあげるから、まずは草案を出してよ」

「……ありがとう」

「どういたしまして。じゃあ、返事は出しておくよ。おやすみ、あまり根を詰めすぎないようにね」

 海斗はハヤブサに手紙を咥えさせて、ひらりと手を振って部屋を後にする。
 暗い廊下を進んでいき、玄関から外へ出る。
 エルフ族の里の夜は植物を象ったランプが暗闇を柔らかく照らしている。

「じゃあ、頼むよ。ついでに、これも真尋に届けてくれるかい?」

 ハヤブサは海斗が差し出した手紙を、もともと咥えていた分と合わせて器用に咥えた。
 その背を撫でて帰りの分の魔力を補充すると、ハヤブサはばさりと翼を広げ、月の浮かぶ空へと飛び立って行った。あっという間に見えなくなったハヤブサを見送って、海斗は歩き出す。
 族長の家の庭に停められている馬車へと戻り、中へ入る。もう皆、眠っているのだろう家の中は静かだった。
 海斗は上へは上がらず、簡易の教会代わりの部屋に入る。部屋の中は真っ暗で、海斗は呪文を唱えて火の玉を一つ、その辺に浮かべた。
 祭壇の前に膝をつき、ロザリオを握りしめる。
 真尋が作ったというティーンクトゥス像は、さすがの出来栄えで、銀色の眼差しが優しく海斗を見下ろす。

「……どうか、幸せでありますように」

 囁くように願いを告げて、海斗はティーンクトゥスを通して、遠い遠い世界への願いを託すのだった。



ーーーーーーーー
ここまで読んで下さって、ありがとうございます!
いつも閲覧、ブクマ、感想、励みになっております♪

来週の本編の更新はお休みさせて頂きます。
来週は、水無月家の執事シリーズを、19時に更新予定です。
(土日になるか、どちらか一日だけになるかは未定です)

次回の本編更新は、24日、25日を予定しておりますが変更になる場合もございます。
お手数ですがTwitterで確認して頂けますと幸いです。

次のお話も楽しんで頂けますと幸いです。
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女神の代わりに異世界漫遊  ~ほのぼの・まったり。時々、ざまぁ?~

大福にゃここ
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目の前に、女神を名乗る女性が立っていた。 麗しい彼女の願いは「自分の代わりに世界を見て欲しい」それだけ。 使命も何もなく、ただ、その世界で楽しく生きていくだけでいいらしい。 厳しい異世界で生き抜く為のスキルも色々と貰い、食いしん坊だけど優しくて可愛い従魔も一緒! 忙しくて自由のない女神の代わりに、異世界を楽しんでこよう♪ 13話目くらいから話が動きますので、気長にお付き合いください! 最初はとっつきにくいかもしれませんが、どうか続きを読んでみてくださいね^^ ※お気に入り登録や感想がとても励みになっています。 ありがとうございます!  (なかなかお返事書けなくてごめんなさい) ※小説家になろう様にも投稿しています

貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた

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 貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。  僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。  魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。  言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。  この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。  小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。 ------------------------------------------------------------------  お知らせ   「転生者はめぐりあう」 始めました。 ------------------------------------------------------------------ 注意  作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。  感想は受け付けていません。  誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。

フリーター転生。公爵家に転生したけど継承権が低い件。精霊の加護(チート)を得たので、努力と知識と根性で公爵家当主へと成り上がる 

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400倍の魔力ってマジ!?魔力が多すぎて範囲攻撃魔法だけとか縛りでしょ 25歳子供部屋在住。彼女なし=年齢のフリーター・バンドマンはある日理不尽にも、バンドリーダでボーカルからクビを宣告され、反論を述べる間もなくガッチャ切りされそんな失意のか、理不尽に言い渡された残業中に急死してしまう。  目が覚めると俺は広大な領地を有するノーフォーク公爵家の長男の息子ユーサー・フォン・ハワードに転生していた。 ユーサーは一度目の人生の漠然とした目標であった『有名になりたい』他人から好かれ、知られる何者かになりたかった。と言う目標を再認識し、二度目の生を悔いの無いように、全力で生きる事を誓うのであった。 しかし、俺が公爵になるためには父の兄弟である次男、三男の息子。つまり従妹達と争う事になってしまい。 ユーサーは富国強兵を掲げ、先ずは小さな事から始めるのであった。 そんな主人公のゆったり成長期!!

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