称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第二十九話 その答えを聞く男

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 日が昇り、朝が来て、目が覚めると雪乃が「朝ごはんの仕度をしてくるわ」と真尋の腕を抜け出して行った。
 雪乃が居ない間に起きたナルキーサスがまた真尋の容態を確かめる。アルトゥロやロイドたちも続々と起きだし、ナルキーサスが「大丈夫そうだ」と告げると、アルトゥロは朝食後も残るが、ロイドと他の助手や薬師は朝食を食べ終えたら、魔導院に帰ることになった。
 それから長々とナルキーサスに当面の治療方針とともに禁止事項を通達された。しかしナルキーサスのそれはなかなか止まない。
 怪我とそれに施した治療の説明から、禁止事項までありとあらゆる説明が事細かにされる。

「――というわけで注意事項は以上だ。また以下のことも順守してもらう。いいか、頼むからしばらくは安静にしていろ。わかるか、安静って言うのは、主治術師である私の許可なしに出歩かないこと、勝手に仕事にいかないこと、教会に祈りにいかないこと、つまりベッドの上で大人しくしているということだ。それともう一度言うが魔法は絶対に使うな。酒も煙草も鍛錬も禁止だ。包帯も勝手に外すな。食事に関しても当面、私の指示に従ってもらう」

 ナルキーサスが真尋の左腕に点滴の針を刺しながら念を押すように告げる。
 真尋は「分かっている」とぶっきらぼうに返す。さすがの真尋だって、今回はまだ疲労が回復しきっていないし、なにより全身が重く怠い。治療のおかげであの激痛はなくなっているが、真尋たちの治癒魔法と違って完璧には治らない上、魔獣による魔法攻撃は治りが遅いそうで、そこかしこの傷も痛い。折れた腕も痛い。

「第一、心停止したくせに、その三分後に起き上がって歩いている人間を見たのは私も初めてだ。君は本当に人間か?」

「……そうだった。……ジークフリートは?」

 殺気のこもった真尋の声にナルキーサスが呆れたように目をすがめた。

「あれはエドワードの嘘だ。婚姻の話は何も上がってない。普段、嫌みなほど冷静な君が、まともな判断もできない状態だったというだけの証明だ馬鹿者」

「…………」

「全く、今回私がどれだけ必死に治療してやったと思っているんだ。治療費も薬代もアルトゥロたちの分だけでいい。私は別途、相応の謝礼を要求するからな。言っとくが、金なんて払いやすいもんはいらんぞ」

「治癒術師だから当たり前だって言ったじゃないか」

「それはそれ、これはこれだ。ほら、ユキノが戻って来たぞ。……さーて、何を貰おうかな。高ランクの魔石もいいが、君の石膏像も捨てがたいし、ふむ、黒トカゲのあれこれも魅力的だ」

 聴診器やらを片付けながらナルキーサスは鼻歌交じりに言った。
 ガチャリとドアが開いて雪乃と、その後ろからワゴンを押して園田がやって来る。

「……味噌汁の匂いがする」

「ええ、真尋さんの大好きなお味噌汁よ。とはいっても、かなり薄味の具無しですけどね。先生が少しなら特別に良いとおっしゃってくれたのよ」

「独特な匂いだな……発酵しているのか?」

 ナルキーサスが興味深そうにワゴンの上のマグカップに入った味噌汁を覗き込んだ。

「ええ。お味噌は大豆というお豆の発酵食品です。体にいいんですよ」

「真尋様、失礼いたしますね」

 園田が真尋の体を支え、背中に特大のクッションをいれてくれ、座る形になる。これだけの動きなのに傷が痛む。鎮痛薬は効かないのだろうか。

「さて、私も下で朝食を貰う。それから、今度は客間でまた寝るから……いいか。安静にしてるんだぞ」

「分かったと言っている」

「君の『分かった』はこの世で一番信じられん言葉だ。ユキノ、点滴は一時間ほどで終わる。鎮痛薬入りだが、効かないようだったら強くもできるから教えてくれ。点滴が終わったらアルトゥロを呼んでくれ。それと君の旦那が無茶をしたらすぐに私を呼んでくれ。ベッドに縛り付ける」

「分かりました。お願いします」

 にっこりと微笑んだ雪乃に、大分怒っているなと真尋は天井を仰いだ。
 ナルキーサスはそんな雪乃に「頼もしいな」と笑うと部屋を出て行った。その間に、園田がベッドの左側に椅子を用意し、雪乃が座る。

「充さん、大勢いて大変だと思うから、下でプリシラさんたちのお手伝いをお願いできるかしら? 呼んだら聞こえるように少しだけドアは開けておいてね」

「かしこまりました。何かありましたら、お呼び下さい。すぐに参ります」

 園田は雪乃の言葉に頷いて、部屋を出て行った。言いつけ通り、園田はドアを少しだけ開けて行った。
 正真正銘二人きりになった部屋で、真尋は深々と息を吐いた。自然と眉間にしわが寄る。

「まったくやせ我慢ばかりして……治癒術師さんに痛いことを痛いって言わないでどうするの?」

 じとり、と雪乃に睨まれる。
 あれこれ言い訳を考えてみるが、真尋は雪乃に勝てたためしがない。早々に諦めて「善処する」と返事をした。

「それより、味噌汁が飲みたい」

「もう……でも、腕を動かせないわねぇ。マグカップに入れてきたけれど……これならスープ皿にすればよかったわ」

 雪乃がそう言いながら、スプーンを手に取りマグカップから味噌汁を掬って、ふーふーと息を吹きかける。

「はい、あーん」

 素直に口を開けば、芳醇な香りが広がった。確かにかなりの薄味だが、それでも涙が出そうになるほど美味しかった。

「……うまい。……こちらに来て、ずっと恋しかった味だ」

「お味噌汁だけは、真尋さんに一番に作ってあげたくて、子どもたちにも我慢してもらったのよ。どうかしら、まだ飲めそう?」

「もう少しだけ飲みたい」

 真尋の要望に雪乃は快く答えてくれた。それからもう少しだけ味噌汁を味わい、真尋の朝食は完了する。
 雪乃は、サンドウィッチを作ってきたようで、ちまちまとそれを食べ始めた。彼女の頭の上で、白いウサギの耳がぴこぴこ揺れていて、癒される。ミアと並べば、それはそれは可愛いだろう。
 そこでふとあの執事にも何か生えていたのでは、と記憶が訴えかけて来る。

「…………そういえば、園田もなんか生えてたな。違和感がなかったから自信がないが、生えていたよな」

「ええ、充さん、ティーンクトゥス様に『真尋様の犬になりたい』ってお願いしたものだから」

「……願う方も願う方だが、叶える方も叶える方だな」

 呆れたように言えば、雪乃はくすくすと笑って、半分ほど食べたサンドウィッチを皿の上に戻して、紅茶を飲む。
 だが、その手はカップを握りしめたままサンドウィッチに再び伸びることはない。じっと手の中のカップを見つめる妻に真尋は首をかしげる。

「……雪乃? 具合でも悪いのか……?」

「…………あなたが亡くなって、三カ月と少しが経った雨の日だったの」

 少しだけ固い声が口火を切った。

「ティーンクトゥス様が、あなたの寝室に現れたの。いきなり土下座をされたものだから驚いたわ……真尋さんが教えたんですってね。ティーンクトゥス様が嬉しそうに教えてくれたわ」

 雪乃が微かに笑ったのが伝わって来る。

「あいつは出会った当初、非常に失礼で無礼だったので矯正しただけだ」

「ええ、ティーンクトゥス様も言っていたわ。真尋さんが私を正気に戻してくれたって……優しい神様ね。私たちに謝りに来てくれたの……真尋さんと一くんのおかげで力が回復したから日本の神様に許可をもらって会いに来たんですって。それで……」

 雪乃はそこで言葉を切った。
 もたらされた沈黙は、どこか物悲しさをまとっていた。マグカップから上がる湯気が、ゆらゆらと揺れている。

「…………もしよければ、私と一緒に来ませんかって。私の地球での寿命はもう残り少ないから、真尋さんのいる世界なら、ティーンクトゥス様の力で転生させられるから長生きできるって。……地球での私の寿命、あと一年って言われたのよ」

 真尋はただ静かに言葉の先を待った。
 雪乃の細い指が言葉を探すようにカップの取っ手を撫でている。

「私、私ね、最初は断ったの。だって、ちぃちゃんと咲ちゃんと充さんを置いてはいけないもの……私に残された時間がたった一年でも傍にいてあげたかった。……あの子たち、あなたが急にいなくなって……悲しくて、寂しくて、ご飯も食べてくれないし、夜泣きや後追いが酷くて……だんだん壊れちゃったの」

「……すまない」

「ううん。ごめんなさい、責めているわけじゃないのよ。それに……一番の原因はね、真尋さんの死じゃないの」

 雪乃が顔を上げた。悲しそうに歪んだ微笑みに真尋は眉を寄せる。

「壊れ始めたきっかけはね、お義母様が……二人を拒絶してしまったの。泣かないでって声をかけた二人に『私が探しているのは真尋なの』って」

「……っ」

 思わぬ言葉に目を見開く。

「でも、お義母様を責めないであげて……お義母様、あなたを突然失って、あまりの悲しみに正常な判断ができていなかったの。粉々になったワインボトルの上を歩いて、足の裏に破片が刺さって血が出ていたのに痛みを感じていないみたいだったもの。声をかけたのが双子ちゃんだってことも分かっていなかったと思うわ」

「なんで、ワインボトルが割れたんだ」

 小さな違和感が、一つずつ重なっていくような感覚に目を細める。

「お義母様、あなたの葬儀が終わってしばらく、ずーっとお酒を飲んでいたのよ。そうしないと、きっと耐えられなかったんだと思うわ」

「割れたボトルの上を歩いていたということは、誰かに、例えば……父に詰め寄っていたんじゃないか?」

 雪乃が真尋の眼差しから逃げるように目を伏せた。

「……ええ。あの日、お義母様は、お義父様と言い争っていたの。それでカッとなったお義母様がワインボトルをお義父様に投げたのよ。間に入った充さんが怪我をしてしまって……。だけど、お義父様に『真尋はどこなの?』『真尋を返して』と泣いて縋るお義母様に双子ちゃんは、駆け寄って、そして……拒絶されてしまったの」

「……そうか」

 真尋に母を責めることはできなかった。
大事な弟たちを傷つけられたことは、悲しい。だが、母を追い詰めてしまったのは真尋の死だ。どうやって愛していいか分からない可愛げのない息子を、一生懸命愛してくれた母だった。

「お義母様は、何度も双子ちゃんに謝ろうとしたのだけれどあの日から双子ちゃんは私以外を拒絶してしまって……お義母様もどんどん精神的に追い詰められてしまって、それで……お義父様がお義母様を静養させるために別宅に移ったの。ちぃちゃんと咲ちゃんは連れて行かなかった……二人が拒絶していたのもあるけれど、でも……」

 僅かに顔を上げ、真尋の様子を伺いながら彼女が言いよどむ言葉を真尋は、瞬時に理解した。

「……あの人が……真智と真咲に何か言ったのか?」

 雪乃は再びうつむいて、カップをぎゅうと握りしめた。そして、小さく頷いた。

「お義母様を連れて、別宅に静養に行くって急に言い出して……私、引き留めたの。でも、今思えば引き留めなければよかったわ。さっさと送り出してしまえばよかった……。二人が出ていく日、双子ちゃんもいたのよ、近くに。それなのに、お義父様は……私が、今こそ子どもたちの傍に居てあげるべきだと言ったら『俺には無理だ』って…………『あいつらは真奈美を傷つけたんだ』『俺にも、ミナヅキにも、もうあれは必要ない』って」

 雪乃の手に、ぽたぽたと彼女の頬を濡らした涙が落ちる。
 怒りで目の前が真っ赤に染まった。まだまだ正常とはいいがたかった魔力の流れが感情と共に余計に乱れて、外へ溢れ出そうになるのをぐっと堪えて、なんとか落ち着こうと深呼吸を繰り返す。
 それに気付いた雪乃が、カップを置いて真尋の手を両手で包み込んでくれた。その温もりに心が少しずつ静まっていく。

「なんて……なんて、馬鹿な人なんだ……っ」

 絞り出すように告げた言葉は、ただ虚しいだけだった。

「……そこからが本当に、壊れちゃったの、あの子たち」

 震える声で雪乃が告げる。

「家の中じゅうあなたを探し回って泣くの。お兄ちゃん、お兄ちゃんってずっと貴方を呼んでね。それに、おもらしをしてしまったり、駄々をこねたり、食事をひっくり返したり、本を散らかしたり、いやいや期の赤ちゃんみたいだったわ。ご飯を食べてくれないから、みるみる痩せてしまって……でも、二人とも一生懸命、私にしがみついて泣くの。なのに私、傍にいることしかできなくて……っ。充さんも頑張ってくれていたけれど……彼もあなたがいなくなって、笑えなくなってしまっていたから。……海斗くんが自分だって辛いのに、毎日、様子を見に来てくれたの……っ」

 重ねられた手に雪乃の涙が落ちる。
 抱き締めてやれないことがもどかしくて、せめてとその手を強く握り返す。

「そんな時に、ティーンクトゥス様が現れて……言ったでしょう? 最初は断ったって……そうしたら少しだけ考える時間をくれたの。……あなたの部屋のあなたのベッドの上で、泣き疲れて眠ったあの子たちを抱き締めている時に、急に怖くなったの。……あと一年しか傍にいてあげられないんだって、そうしたら一年後、私まで死んでしまったら……誰が、この子たちを……私の大事な真智と真咲を、充さんを……誰が、護ってくれるんだろうって……っ」

 ぼたぼたと雪乃の涙が落ちていく。 
 時折零れる嗚咽に胸が押しつぶされてしまいそうだった。

「あなたが望まないことは、分かっていたけど……でも、あの子たちを護るには、もう……ここへ来るしかないと、そう、思って……っ。だけど、それが奪うことだと、哀しみを与えることだとも分かってはいたのよ。でも、もう置いていくことが私にはできなかった。ティーンクトゥス様は一緒に行くことは可能だって……ただ、私以外がここに来るには……条件が、あって……っ」

「条件? ティーンクトゥスが出したのか?」

 雪乃はふるふると首を横に振った。
 顔を上げた彼女は、なんとか呼吸を整えて口を開く。

「日本の、神様よ。……残り一年しか時間のない私と違って、双子ちゃんも充さんも海斗くんも、何十年と正規の寿命が残っていて……現世との縁が間もなく切れる私を異世界に転生させるのと、まだ強くつながっている彼らを転生させるのは、世界に対する影響が違うらしくて。それに真尋さんと一くんの転生は予期せぬことだったからまだその修正も途中だから…………だから、こちらに転生させるには、」

 彼女はそこで言葉を切って、ぼろり、と大粒の涙を零した。

「その存在を、元からなかったことにするしかないって……っ」

「存在、を? なかったことに……?」

 言われた言葉の意味が分からないなど、人生でそうなかったことだった。
 雪乃がぼろぼろと泣きながら、真尋を見上げる。

「……ちぃちゃんも咲ちゃんも、充さんも海斗くんも……地球に産まれたこという事実も、ご両親やお友だち、これまで関わって来た全ての人々から記憶さえも綺麗さっぱり消し去ることが、こちらへ来る条件だったの……っ」

「なら……母さんには、双子を産んだ、その記憶さえないということか?」

「私……お義母様に、なんてことを……っ」

 雪乃は両手で顔を覆って、囁いた。
 絶対的に良い母親だったわけじゃない。それでも母は、確かに真尋を、双子たちを、母として愛してくれていた。どんなに離れていたって、一緒に過ごせなくても、愛しているんだと伝え続けてくれていた。
 両腕に抱えた産まれたばかりの双子たちに、涙を滲ませながら幸せそうに笑っていた母の顔が浮かんで、消えた。
 感情がぐしゃぐしゃになって、耐えていた衝動が弾けて彼女を魔法で浮かせて自由の効く左腕で抱き締めていた。ガッシャンとけたたましい音が響いて、点滴台が倒れ、ガラス製の点滴薬の入った瓶が粉々に砕け散った。

「だ、だめよ……真尋さん、傷に障るわ……っ!」

 雪乃が驚いて真尋から離れようとするのを無理やり抱き締める。

「君を、今、抱き締めたいんだ……っ。そうしないと、後悔する」

 ぴたりと雪乃が抵抗を辞めて、徐々に彼女の体から力が抜けていく。細い腕が真尋の背に回された。
 こんな、力を込めればあっけなく折れてしまうだろう細い腕で、雪乃は真尋の大事なものを守ってくれようとしていたのだ。

「ごめ、ごめんなさい……っ、私、止められなくて……っ、あの子たち……何もかもを不安がって、あなたの愛を信じられなくて、私の愛情も怖がって……ティーンクトゥス様に赤ちゃんになりたいって、望んだの……っ、――あなたと、私の、赤ちゃんに、なりたいって……っ」

 真尋の腕の中で雪乃が必死に紡ぐ言葉を受けとめることしかできない自分を殴りたかった。

「ティーンクトゥス様は、それも、できるけど……でも、二人はまだ幼くて魂が不安定だから、記憶が保持できるか分からないって……私、二人を止めることも、許すこともできなくて……っ。海斗くんが、二人を止めてくれて、それで……三歳だけ若返って、八歳に、なって…………っ、あの時、お義父様を引き留めなかったら、あの子たち、こんなに傷付くことはなかったのに……っ、ごめんなさい、ごめんなさい、真尋さん……っ」

 ごめんなさい、と何度も謝る雪乃を、真尋は強く、強く抱きしめる。体中の傷が痛んだが、そんなものはきっと、自分が死んだあと、彼女たちが負った傷に比べることもできないに違いなかった。

「わたし、あの子たちを……あの子たちの、心を、まもってあげられなかった……っ」

 幸せに、どうか、幸せにとそれだけを願っていたのに。
 まさかそれを、自分の肉親にぶち壊されるとは、真尋だって思っていなかった。何度も、何度も裏切られ続けて来たのに、どうして信じたりなどしてしまったのだろうか。どうして、願ったりなどしてしまったのだろうか。
 でも、遠く離れたこの地で、真尋は信じることしかできなかった。願うことしかできなかったのだ。
 部屋の外に複数の気配があった。点滴台が倒れた音に駆け付けたのだろう。一路と、それに寄り添うティナの気配は随分と前からあった。
 それでも誰も入って来ないように、真尋は左手の指だけを振って、ドアを閉めて鍵をかけた。

「謝らなくていい……君は、ここまで二人を連れて来てくれた。それだけで、充分だ」

「ふっ、うっ、…………真尋さんっ」

 泣き縋る雪乃を、真尋はただ抱き締めることしかできない自分が、酷く腹立たしかった。





 ドアが閉まってガチャリと鍵のかかる音がした。
一路は、片手で口元を覆って呆然と立ち尽くす。
 信じられない話に、彼らが捨ててきたものの重さに、一路が押しつぶされてしまいそうだった。左腕に感じるティナの温もりが、なんとか一路を支えてくれている。点滴瓶の割れる甲高い音に後から駆け付けたナルキーサスたちが困惑気味に顔を見合わせている。
 真尋が目覚めて朝食をとるというから、起きている顔を見に行こうと思ったのだ。
 ティナがついて来てくれて、少しだけ開いたドアの向こうに声をかけようとしたところで、雪乃がこちらへ来たことについて話しているのに気づいて口を閉ざした。

「……みっちゃん、雪ちゃんの話は、本当なの」

 一番に、ここに駆け付けて来たのは園田だった。
 園田は、目を閉じて唇を噛みしめて、頷いた。

「私も、真尋様を喪って……正常ではなかったと思います。真尋様は私の総てですから。それでも……私は真尋様に託されている以上、雪乃様や真智様と真咲様が残るならば、例え真尋様に呼ばれてもあちらに残るつもりでした。ですが私や雪乃様以上に、真智様と真咲様が……限界、でした」

「真琴さんは、本当に、あんな酷いことを、ちぃと咲いったの?」

「……はい」

 園田が重々しく頷いた。

「あの時、彼を殴ればよかったって後悔ばかりしているよ」

 優しくて少し高めの声に勢いよく振り返る。
 園田の肩をぽんぽんと大きな手が叩いて、彼が、兄が――海斗がそこに立っていた。

「兄ちゃん……」

 ティナが、一路の手をぎゅっと握ってくれる。
 記憶にある通りの金髪と、一路と違う高い背に、年相応に見える整った顔立ち。
 だが、青い瞳は一路と同じく、緑が僅かに混じった色に変化していた。真尋と同じ見慣れた黒い神父服を身に纏い、腰にロザリオがぶら下がっている。

「サヴィラがね、気を遣ってくれて……教会の点検を頼まれたってことにしてくれたんだ。レイもあちらに来てくれたからね」

『パパとママは?』

 感情が高ぶり過ぎて、口から飛び出たのは英語だった。
 兄は一瞬、表情を強張らせて、けれど困ったように笑って口を開いた。

『ティーンクトゥス様は俺や父さんたちには会いに来なかった、いや、違うな。来られなかったんだ。……雪乃だけが特別だったんだよ。なんでか分かる?』

 一路は少し悩んだがさっぱり分からず首を横に振った。
 真尋は特別な人だと一路は思っている。だからその伴侶の雪乃に気を遣ったのかと思った。だが、あの優しいティーンクトゥスが雪乃だけを贔屓するようには思えなかった。平等に土下座に行きそうだ。

『もう一年しかこの世にいられない雪乃は、現世との縁が希薄だから、神様に会えたんだ。だから最初、「真智と真咲を連れて、真尋さんのところにいこうと思うの」って言われて、意味が分からなかったよ。ついに雪乃まで壊れてしまったのかと思った。後追いでもするのかと思って、俺とみっちゃんで必死に止めたよ。でも、そうじゃないって……本当に、会いに行くんだって。雪乃が話してくれたことで、俺とみっちゃん、双子にも神様との「縁」ができて、夢の中でティーンクトゥス様と日本の神様に会ったよ』

 海斗が語るそれは、にわかには信じがたい。なのにあちらで死んだはずの一路ががここにいることが、なにより彼の話を真実だと証明している。

『雪乃はね、反対したんだ。私たちはともかく、海斗くんはご両親を捨てるべきじゃないって……母さんも父さんも俺と一路を、ちゃんと愛してくれているんだからって』

『雪ちゃんの言う通りだよ。なのに、どうして』

『父さんと母さんには悪いことをしたと……心から思っているよ。でも、二人は俺の分の哀しみを知ることはなかった。勝手だけど、それは……救いだと思っている』

『勝手だよ……!! 勝手に死んじゃった僕が言えることじゃないのは分かってるけど、でも……!!』

 最後まで言う前に海斗に抱き締められた。
 苦しくて、痛いぐらいに抱き締められる。ティナの手が、そっと離される。

『会いたかった……っ』

 抵抗しようとしたのに弱弱しく震える声が降って来て、一路はなにもできなくなる。
 鼻をすする音が、大げさなほど大きく深い呼吸が、隠し切れない嗚咽が、一路の自由と言葉を奪っていく。

『信じられなかった……霊安室に安置された、お前と真尋の遺体を見たって、何も……信じられなかった、信じたくなかった……っ。お前が、望まないことは分かってた。父さんと母さんを、酷く裏切る行為だって分かってたけど、でも……――会いたかった……っ。俺だけ、置いて行かないでよ……っ』

 腕の力が緩んで、大きな手が一路の頬を両手で包み込んだ。
 兄の青に緑の混じる瞳がじっと一路の顔を覗き込んで来る。潤んだ瞳が宝石みたいだと思った。髪の毛より少し濃い金茶色のまつ毛から、ぽたぽたと落ちていく。

『ははっ、一路だ……本当に、俺の可愛い弟の一路だ……っ』

 心底愛おしそうに、それはそれは嬉しそうに海斗が笑う。
 何かを伝えたかったはずなのに、感情が激流のように溢れ出して、一路の目からも涙が勝手に溢れ出す。

『うっ、ふっ、に、兄ちゃんのばかぁぁあ!』

 一路は、兄の首に腕を回して思いきり抱き着いた。海斗の腕が背中に回されて、また苦しいくらいに抱き締められる。

『僕だって……僕だって、兄ちゃんに会いたかったよ……っ』

 一路が遺してきてしまったものを、兄に大事にしてほしかった。
 だけど、同時に会いたくて、会いたくてたまらなかった。一路を一等可愛がって、甘やかしてくれて、頼りになる兄が一路だって大好きだった。

「でも、兄ちゃんの、兄ちゃんの……ばかぁぁ!」

「一路は、相変わらず泣き虫だなぁ」

 あんまりにも嬉しそうな声で海斗が言うから、一路の涙腺もますます馬鹿になる。

「イチロさんっ、よかったですね……っ」

 ひっくひっくとティナがしゃくり上げる声に、一路ははっと我に返り、振り返る。
 ティナがぽろぽろと涙をこぼしている。そのことに気付いて、一路は即座に兄の顎に掌底を決めて、その腕から抜け出した。

「あっだっ」

「ティナぁぁ……っ!」

「え、あ、イ、イチロさん!?」

 ぎゅうとティナを抱き締めて、一路はわんわんと泣く。ティナがあたふたしながら一路の背中や髪を撫でてくれる。

「兄ちゃんが、兄ちゃんが……ばかぁ……っ!」

「一路! 兄ちゃんはこっち!!」

「いぢろざまぁぁ、よがっだでずねぇっ!!」

 園田が号泣している声がする。
 だけど、一路はティナから離れられそうになかった。
ばか、でとどまった言葉が、それ以上、身勝手に尖らないようにするので必死だった。ティナには一路の情けない体の震えが伝わってしまったかもしれない。

「イチロさん、だいじょうぶ、大丈夫ですよ」

 優しい声が一路にだけ聞こえるように囁いて、細い手が一路を抱き締めて慈しんでくれる。
 きっと、真尋くんが雪ちゃんに救われていたものは、こういうことなんだろうなと今更に知りながら、一路は心が落ち着くまでずっと、騒ぐ兄も号泣する園田も、困惑するナルキーサスたちも置き去りにして、ティナを抱き締め続けたのだった。








「やっぱり君の『分かった』は世界一信用ならんじゃないか……っ!」

 ナルキーサスが怒りながら、再び真尋の左腕に点滴の針を入れた。

「仕方がないだろ。妻が泣いていたら抱き締めるだろ」

 真尋の隣で雪乃が申し訳なさそうにしている。泣き過ぎて腫れた目元は可哀想だったので、ポチを呼んであの不思議な氷水を作ってもらった。雪乃がそっと自分で目元に当てている。

「魔法を使ったろ」

「……」

「魔法を、使った、な?」

「……ちょっとだけだ」

 黄色の眼差しが肉食獣のそれであった。真尋は視線を逸らしながら応える。

「魔力循環不順症は解消された。だが、解消されたばかりの今は、魔力の流れが不安定であるため、暴発する可能性もあるからと説明したはずだが? 記憶喪失にでもなったか? ほんの一時間前のことだぞ? 君みたいな規格外な魔力の暴発は、災害だ。分からんのか? 分かるよな? 無駄に優秀なんだからな、この頭は!」

「ごめんなさい、ナルキーサス先生、私が泣いてしまったから……」

 雪乃が謝るとナルキーサスは、打って変わって優しく「君は悪くない」と彼女の背を撫でた。
 ナルキーサスは、顔を上げた雪乃に柔らかく微笑みかける。

「こいつが本当に、全く、まんじりとも、一切、私の言うことを聞かないのが悪いだけだ」

 この治癒術師はかなりお怒りのようだ、と真尋は天井を仰いだ。一体、謝礼に何を要求されるのだろう。
 分かっている。真尋だって大人しくしているつもりだったし、安静にする気はあった。だがやはり、雪乃が泣いていたら抱き締めるしかないだろう。抱き締めないという選択肢が、真尋の中に一切ないのだ。

「マヒロ、ミアやサヴィ、弟たちに会いたいか?」

「会いたい。今すぐにでも」

 ナルキーサスの問いに真尋は即座に答えた。

「なら、その時は抱き締められるように点滴を外してやるから。そのためにも大人しくていろ、頼むから」

「……分かった」

 ナルキーサスが言うところの、世界一信用ならない返事に彼女は半目になった。心からの言葉だと言うのにどうしたらよいのか、と真尋が眉を寄せれば、ナルキーサスはふと、触れたままだった雪乃に顔を向けた。

「……ところでユキノ、熱出てないか? ……君は動くな」

 起き上がろうとしたところで、ナルキーサスに睨まれて動きを止める。
 ナルキーサスの手が雪乃の額に触れた。頬や顔が赤いのは泣いたせいだとばかり思っていたが、熱が出ていたのかと肝を冷やす。

「そういわれると、少し、くらくらします」

「……うむ、やはり熱があるな。無理をし過ぎたんだろう」

 ナルキーサスは、雪乃をベッドに座らせると、どこからともなくカルテを取り出して雪乃の喉や目を見たり、首筋などに触れたりしながら、触診を済ませていく。

「風邪、ではなさそうだな」

「キース、俺の治療は全部後回していいから、雪乃を優先してくれ」

 思わずそう訴える。

「いや……すべて同時進行で行く。君は自分の現状を甘く見過ぎているからな」

 ナルキーサスがにっこりと笑ってそう告げると呪文を唱えた。雪乃の体がふわりと浮かんで、真尋の左側にそっと横たえられる。ユキノが目元を冷やしていたそれが、彼女の額に乗せられた。
ナルキーサスに「もう一つ、氷水だ、黒トカゲ」と言われて傍で心配そうに成り行きを見守っていたポチが、また新たに氷水を作って、ナルキーサスに渡す。
 そしてナルキーサスはそれを何故か、真尋の額に置いた。

「ユキノのことには恐ろしいくらいに敏感そうな君が熱があるのに気づかなかったのは……君も熱があるからだ」

 言われて初めて、そうなのかもしれないと氷水の心地よさに実感する。
 ナルキーサスがまた呪文を唱え、きょとんとしている雪乃を真尋にぴったりとくっつける。腕枕は点滴中なので許されなかったが、彼女用に枕を入れてくれた。

「これで君も無茶をしないだろう。ユキノは、心身ともに疲れが溜まり過ぎたのと……まあ泣いて、君に心の不安を話せて、安心したんだろうな。緊張の糸がほどけたんだよ。解熱薬を出すから、よく休むように。大丈夫、すぐによくなるよ。……マヒロ、貴様は大人しく寝ろ。さもなくば縛り付ける」

「扱いが……」

「丁寧に扱ってほしければ、私の言うことをもっと早い段階で聞くべきだったな」

 雪乃と真尋に布団をかけ直してくれながらナルキーサスは言った。

「さて、薬は……そうだな。一路に煎じてもらったほうがいいだろう。準備ができたらまた来るから、何かあったら呼べ。黒トカゲ、白トカゲ、君たちの飼い主をちゃんと見張っているように。異変があったら私かアルトゥロを呼ぶんだぞ」

「ギャウ」

「きゅる~」

 ナルキーサスは、返事をした二匹の頭を順に撫でた。
 そして「いいか、安静だからな」と再三の念を押して、ナルキーサスは部屋を出て行った。
 廊下に待機していたのだろう。一路たちと話す声が聞こえて、すぐにそれは遠退いていった。

「大丈夫か、雪乃?」

 真尋は隣の雪乃に顔を向ける。ぽやぽやした銀に紫の混じる眼差しが真尋を見上げる。
 どこかで見た覚えのある紫色に、そういえばポチに挑む時、ロザリオの中で増えた魔力がこの、淡い紫色をしていたのを思い出す。

「ええ……真尋さんにくっついているから、大丈夫」

 幸せそうに微笑んで雪乃が真尋にくっついてくる。どうして抱き締められないんだ、と体中の包帯を恨みながら、真尋は笑みを返して彼女の頭にキスをする。ふわふわの兎の耳が頬をくすぐった。

「……なあ、雪乃」

「なぁに?」

「どうか、もう……自分を責めないでくれ」

 僅かに銀に紫の混じる双眸が揺れた。

「俺は君をこうして、また抱き締められたことが本当に、嬉しい。真智と真咲に会えるのも、本当に嬉しい。……それこそ、自分勝手な話かもしれないが。俺は君の選択を、嬉しく思う。……だから、同罪だ」

雪乃は泣きそうになりながら、微かに笑って目を伏せた。
 うん、と頷く、稚い声に愛おしさが溢れて、またその髪にキスをした。

「ねえ、真尋さん……」

「ん?」

 雪乃が真尋に身を寄せて、顔をうずめる。

「もう……もう二度と、私をおいていかないでね……次は、どうか、つれていって」

 小さくて、弱弱しい声だった。彼女のこんな声を聞いたのは、初めてだ。彼女はいつだって、凛として真尋の何倍も強い人だった。

「……次なんてない。だが、もし……そうなった場合は、一緒に。もう二度と君を置いては行かない」

 真尋の返事に僅かに顔を上げた雪乃は、心底安心したように笑って、またぴたりと真尋にくっついた。
 雪乃は、熱があるのを自覚したからか、うとうととまどろみ始めると真尋に頬を寄せたまま、すっと眠りに落ちてしまった。
 真っ白なドラゴンが、そんな雪乃の顔を覗き込む。

「……ところで、君はなんなんだ?」

 いるのは気づいていたが、話をする暇もなかった。「タマ」と雪乃が呼んでいたが、どうみてもこれは日本一有名な白猫ではなく、白ドラゴンである。
 アメジストの眼差しが真尋を捉えた。これもかなりの力を持っているのだろう。その眼差しに、ぞっとするような何かがある。
 まるで真尋の何かを見透かすようにこちらを見つめている。

「彼女は俺のものだ。君にもやれん」

 そう返すとタマは、なんとなく顔をしかめたように見えた。
 ポチが、ぐるぐると猫のように喉を鳴らしながらタマにすり寄る。そうするとアメジストの眼差しはそらされて、タマは甘えるようにポチに頭を摺り寄せていた。
 いつの間に仲良くなったのか、と思うが死にかけていたのでさっぱりと経緯は知らない。
 二匹は、真尋と雪乃の上で寄り添い合うようにして丸くなった。不思議と重さを感じない。

「……まあ、なんでもいいか」

 雪乃に害はないようだし、と結論付けて真尋は、ふう、と息を吐く。
 確かに自分にも熱があるのだろう体の怠さを感じながら、雪乃のぬくもりに誘われるまま、真尋もまた素直に目を閉じたのだった。



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