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番外編

雪乃と真尋と、その父

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*文章中の成人について
この作品は2016年ころのお話ですので、まだ成人年齢が二十歳です。





「口も出すな、金も出さなくていい、関わるなって……もうそれ実質絶縁宣言じゃん」

「うわぁ、いつかやると思ってたけど遂に……」

 海斗と一路が驚きをその顔に浮かべる。
 雪乃は、鍋の中をお玉でかき混ぜながら、苦笑を一つ返す。
 先日、雪乃の誕生日祝いのホテルでのディナーデートの日に起きた、真尋とその父・真琴のあれこれを二人に話したのだ。双子の要望で一緒にお留守番を頼んでいた二人には、色々と迷惑をかけてしまった。

「真尋さん、かなり落ち込でいたのよ」

「……僕らには分かんないけど、雪ちゃんがそう言うならそうなんだろうね」

 一路が苦笑交じりに言った。
 ここは水無月家のキッチンで、雪乃は鈴木兄弟と一緒に料理とお菓子作りに精を出していた。今夜、雪乃の誕生日パーティーを開いてくれるというので、その仕度をしているのである。主役は雪乃であるが、雪乃の一番好きなことは真尋に料理を作ることであるから、今も現在進行形で楽しい。
ちなみにその真尋と双子は、リビングの飾りつけに精を出している。折り紙などで双子があれこれ作ってくれたものでリビングを飾っているのだ。園田は八百屋に頼んだ苺を受け取りに行ってくれている。双子と真尋がケーキを作ってくれるそうだ。とはいっても、スポンジ部分を焼いたのは雪乃なので、彼らは飾りつけ担当である。

「自分のことには寛容というか……無頓着だし、割と諦めが早いでしょう? でもちぃちゃんと咲ちゃんに関することだけは、真尋さん、絶対に許さないから」

「あー、確かに。……あれから真琴さんから連絡は?」

 一路の問いに雪乃は首を横に振る。

「なーんにも。お義父様もすこしは反省してくれているといいんだけど……あの後、真尋さん、落ち込んでもいたけど荒れて大変だったのよ……自分の家にお義父様の痕跡があるのも、なにもかも嫌だったみたいで、お義父様の部屋の荷物を整理するように充さんに命じて、自分は何をするのかと思ったら……お義父様が双子ちゃんに持ってきたフランスのあれこれの資料を庭で燃やし始めて」

「まさかあの日の焼き芋は……」

「フランスの香りがしたでしょう?」

 頬を引き攣らせた一路に雪乃は肩をすくめる。

「充さんが流石にどこから手を着けたものかと困っているのを見たら、自分で片っ端から全部段ボール箱に入れて、ガムテープで蓋をして、運送会社に集荷してもらって、家具さえも本社に送りつけてたわ。お義父様に貰った車も早々に売っちゃったし……売ったお金は全額、恵まれない子どもたちにって寄付して来たそうよ。秘書さんたちが荷物に困って真尋さんに電話したけど出てもらえなかったって私に電話して来たから、お義母様に相談するように言ったの。だからお義父様の部屋、本当に空っぽよ。カーテンだってないわ」

「うわぁ、すごい行動力……」

「でもここ、おじさんの名義じゃねぇの?」

「この家の名義はとっくに真尋さんよ。でも、もとはお義父様が建てた家でしょう? 真尋さんったら本気で引っ越しを考えていたから、私と充さんで必死に止めたんだから。だって来年にはイギリスへ引っ越して、十年はここに戻らないのよ? 二度も三度も面倒くさいじゃない」

「雪ちゃんのそういうとこ、僕は好きだよ」

 イチロがクッキーの生地をめん棒で伸ばしながら言った。

「ふふっ、ありがとう」

 雪乃は笑って返し、鍋の火を止める。メインのビーフシチューは完成だ。

「結局、雪乃たちもイギリスに来るんだな」

 海斗が言った。彼にはマッシュポテトを頼んである。ビーフシチューにじゃがいもを入れるより、チーズの風味をつけたクリーミーなマッシュポテトを添える方が、雪乃は好きなのだ。

「ええ。もちろんよ。双子ちゃんが真尋さんから離れるわけもないし、私だっていやだもの。真尋さんだって本当は置いていけないくせに、置いていくつもりだったんだから困ったものよね」

「あー……真尋くん、真琴さんみたいに家族を振り回す人間にだけはなりたくないって気持ちが強すぎるんだよなぁ」

「そうそう。俺たちには『おい、来年、イギリス行くからな』って感じだったんだけどな。ま、それも信頼されるからなんだろうけど」

 一路と海斗が苦笑交じりに告げる。

「変なところで臆病なのよ。まあ、そこが可愛いところでもあるんだけどね」

「あいつのこと可愛いなんて言うの、雪乃だけだけどな」

 くすくすと笑いながら、雪乃はサラダの準備に取り掛かる。冷蔵庫からレタスやキャベツを取り出しながら、ドレッシングはどうしようかしらねぇと頭を悩ませる。

「りんごはあったかしら……サラダに入れたいんだけど」

「僕、缶詰のミカンも入れてほしい。フレンチドレッシングがいいな」

「いいわねぇ。さっぱりだからビーフシチューにも合うし……海斗くん、その棚の上に缶詰があったはずだからとってもらってもいい?」

「OK……えーっとあった、これだな。はい、どうぞ」

 渡された缶詰をお礼を言って受け取り、作業スペースに置く。
雪乃は、籠の中から林檎も見つける。真っ赤なりんごは良い香りがする。まだ二つもカゴに残っているから、アップルパイでも焼こうかしら、それともタルトタタンのほうがいいかしら、と頭を悩ませる。
ここは一番甘いものが大好きな一路に聞こうと振り返る。

「ねえ、一くん、アップルパイとタルトタタン、どっちが……」

「雪ちゃーん!!」

「た、大変だよ!!」

 ばたばたと騒がしい足音に三人は顔を見合わせ、声のする方に顔を向ければ、双子がリビングに飛び込んできた。そのままキッチンへとやって来る。いつの間にかどこかへ行っていたようだ。

「どうしたの? あら苺……充さん帰って来たの?」

 真咲が差し出す木箱に入った苺を受け取り、雪乃は首をかしげる。
 だが、真智が口を開いた瞬間、玄関からの怒鳴り声が彼の口を封じた。

「今すぐに出ていけ!! 二度と顔を見せるな!!」

 聞こえてきたのは、間違いなく真尋の声だった。
 短気な夫だが、ここまで声を荒げるのは珍しいことだった。

「え? 何? どうしたの?」

 一路が目を白黒させている。

「お、お父さんが来たの……っ」

 真咲が泣き出しそうな顔で言った。
 雪乃は、手に持っていた苺をカウンターの上に置いて、玄関へと向かう。弟たちと一路と海斗も後をついて来る。
 リビングを出て、玄関へ向かい、その光景に雪乃は目を瞠る。
 何故か真尋を園田が羽交い絞めにし、その向かいで真琴の第一秘書でここに出禁を言い渡されているはずの村山が真琴を羽交い絞めにしていた。 
 さらに近寄れば、真尋の頬が殴られたのか、赤くなっていて、口端に血が滲んでいるのも見て取れる。
 
「二度とここへは来るなと、顔を見せるなと言ったはずだ!」

「お前が勝手に決めた事だろう!? 第一、父親に対して、どういうことだ!? なんなんだ、あの荷物は!!」

「お前の部屋にあったゴミだ。あそこは物置にするんで、邪魔なゴミを持ち主のところに返しただけだ!!」

「親に向かってその口の利き方はなんだ!!」

 どうやら真琴が送り付けられてきた荷物に対して、文句を言いに来たようだった。忙しい仕事の合間を縫って、普段寄り付きもしない我が家に来たのだから、相当頭に来ているのだろう。

「言っただろう、お前はもう親じゃない。血がつながっているだけの赤の他人だと……っ」

 唸るように真尋が告げる。
 真琴は、その言葉に全く動じていない様子で、鋭く息子を睨みつけている。

「真尋さん」

 雪乃は夫に駆け寄り、その手を握る。園田を振りほどこうとしていた抵抗がぴたりとやんで、真尋の目が雪乃に向けられた。

「頬が腫れてるわ……冷やさないと。ちぃちゃん、咲ちゃん、キッチンで氷嚢の準備をしておいてくれる? 一くんと海斗くんもお願い」

 泣きそうな顔をしている双子にお願いし、一路と海斗にも傍に居るように言外に頼む。
 だが、敏い二人はすぐに雪乃のお願いを理解してくれ、双子の頭を撫で、手を取る。

「OK。おいで、ちぃ、咲」

「僕たちと準備しよ。救急箱も出さないとね。場所分かる?」

 海斗と一路が双子とともにリビングへと入っていく。
 雪乃はほっと息を吐いて、困った親子に意識を戻す。
 ようやく暴れるのを止めた親子であったが、それでもお互いを睨むのは止めていなかった。びりびりとした殺気が肌を刺す。園田と村山がその拘束を解かないということは、離せば殴り合いになりそうということだろう。

「真尋さん。何があったの?」

「……これが、性懲りもなくちぃと咲をフランスへやると言い出したんだ……っ」

 思わぬ言葉に雪乃は真琴を振り返る。
 先日のホテルで電話ではあったが、あんなにもきっぱりはっきり真尋が断ったというのに、真琴はまだ諦めていなかったようだ。

「お前に張り付いていては、あの子たちはちっとも成長しないじゃないか。あの子たちだって、いずれはミナヅキの中で役職に着く。それ相応の経験や知識を……」

「成長……?」

 雪乃は思わず目を丸くし、口に出していた。
 話の腰を折られた真琴の目が苛立たしげに雪乃に向けられる。

「……なんだね、雪乃さん」

 ぶっきらぼうに真琴が、雪乃が聞き返した意味を求めて来る。

「あら、失礼。だって、お義父様がとても面白いことをおっしゃるものだから、うふふ、笑っちゃいますわ」

 真尋と園田が、びくりと体を揺らした。

「成長って、お義父様はなにを偉そうにおっしゃっているのかしら?」

 普段、淑やかで大人しく、息子の半歩後ろに控えている義娘の言葉が、真琴は理解できていないようだった。

「お義父様ったら、もしかして真智と真咲がまだお乳をあげておむつを替えてあげなきゃいけない赤ちゃんか何かだと思ってますの? あの子たち、もう十一歳ですよ? ご自分の無知と無様を曝け出して、みっともないったらありませんわ。それこそ、水無月家の恥です」

「な、なにを……」

「あの子たち、もう立派に自分の考えや意見がありますし、将来の夢だってあるんです。ミナヅキの役職っておっしゃいますけど、お義父様みたいな家族を大事にもできない、仕事しか能のない器の小さい男が運営する会社の将来なんて、たかが知れているじゃありませんか。私、可愛いあの子たちには、将来性のあるお仕事についてほしいんですの」

 真琴が怒りで顔を真っ赤にして、はくはくと唇を震わせている。なのに村山は何故か正反対の蒼い顔をしている。
 園田が真尋を離して、一歩下がった。

「お義父様、何か勘違いしてらっしゃらない? 私の夫は、とっくにあなたより優秀ですよ。あなたの言うことを聞いてくれているのは、何百、何万というミナヅキの社員のそれぞれの生活が懸かっているから。あなたに任せておいたらその社員たちが路頭に迷うことになるもの。それが上に立つ者の最低限の責任だと思いませんこと? そもそもあなたはおじい様の用意した人生の道を歩んできただけ、周りはイエスマンだらけで楽しいお山の大将気取りだもの。自分の意思で、自分の責任で、自分の人生を生きている真尋さんや私とは、そもそも覚悟が違うんです。それに、ねえ、真尋さん、あと一年と半年もすれば、二十歳ですよ。成人するの。そうすれば、もう……あなたの許可は何一ついらないの」

 雪乃はおっとりと微笑んだ。
 真琴の顔が強張る。
気付かなければならない。息子の首に繋げたつもりの鎖は、法律というものがなんとか補強してくれているだけで、それはもう親への僅かな義理としてぶら下がっているだけだということ。それはもう千切れる寸前まで来ているということに、彼は気づかなければいけない。

「帰って頂けるかしら? 私の夫と子どもたちに、無礼しか働かない恥知らずの上、同じことを二度も三度も言わないと理解もできない無能は、水無月の家には不要なの」

「…………言わせておけばっ、無能はどっちだ!!」

 真琴が顔を真っ赤にして怒鳴る。
 雪乃は冷めた目でそれを見つめる。

「水無月の家にふさわしくないのは、どっちだ! 真尋がどうしても君じゃないと嫌だと言うから、許可しただけだ! だというのにろくに子どもも産めなっ」

 村山の手が真琴の口をふさいだ。

「あらまあ、優秀な秘書さんですこと。大事になさったほうがよろしいわ。息子の地雷をそんなに踏み抜きたいなんてお義父様ったら、お茶目ね。でも……それ以上、おっしゃっていたら一年半後にあなた、全部を失っていましたわよ」

 雪乃は、振り上げられそうになっていた真尋の手を握りながら告げた。

「充さん、お帰りよ。ドアを開けてさしあげて」

 園田が、すっと前に出てドアを開け、そして真琴を拘束したままの村山の襟首を掴むと、思いっきり外へと放り投げた。
 村山が律儀に真琴をかばいながら、玄関ポーチに転がる。

「あまり、私の主人夫妻を馬鹿にしないでいただきたく思います。私があなたを、旦那様、と呼ぶのは……真尋様への義理以外の何物でもございません。そこには尊敬も敬愛も忠誠も、なにも存在しておりません。私も水無月家の……いえ、真尋様と雪乃様の忠実な執事でございますので、主人を護るための牙の一本や二本は持ち合わせておりますよ」

 園田の声は、いつも通り穏やかだったが、彼を見上げる村山と真琴の顔は蒼かった。
 園田の手が腰に伸びて、警棒が取り出される。折り畳み式のそれが、バシン、と音を立てて本来の姿になる。

「次に、勝手に我が家に入りましたら、不肖ながらこの園田が、全力でお相手させて頂きます」

 とんとんと手のひらの上を警棒で叩きながら、園田が言った。
 村山がいい加減まずいと思ったのか「真琴様、帰りましょう」と真琴を立たせ、ひきずるようにして歩き出した。真琴は、苦々しげに園田を睨んでいたが、園田の肩越しに真尋と目が合うと、少し顔色を悪くして唇を固く結び、逃げるように目をそらした。そして、自分で歩くと告げて村山の手を振りほどき、門のほうへと歩き出す。
 園田が、バタンとドアを閉め「清めの塩をとってきます」と告げて、キッチンへ行った。

「真尋さん、大丈夫? ほっぺた赤くなってるわ、痛い?」

 雪乃は、黙ったままの隣の夫を見上げる。どんな怖い顔をしたのかしら、と見上げるがもう既にいつもの無表情に戻っていた。
 黒い瞳と目が合って微笑めば、控えめに抱き締められる。

「……惚れ直した。ありがとう」

「うふふ、本当? 得しちゃったわ」

 その背中に腕を回して、とんとんとあやすように撫でた。

「さ、頬の手当てをしましょ? 冷やさないと」

 体を少しだけ離して、その顔を覗き込む。
 
「ちぃちゃんと咲ちゃんも待ってるわ。……行けそう?」

「ありがとう。大丈夫だ」

 額にキスが落ちて来る。雪乃も背伸びをしてキスを返して、真尋の手を取る。

「充さん、念入りにお願いね」

「かしこまりました」

 塩の入った袋ごと持ってきた園田にそう告げて、雪乃は真尋の手を引き、リビングへ戻る。
 リビングへ足を踏み入れた途端、真智と真咲が雪乃と真尋に抱き着いて来る。

「お兄ちゃん、大丈夫? これ、海斗くんと作ったよ!」

 真智が差し出した氷嚢を真尋が受け取り頬に充てる。

「びっくりさせたな。すまない」

 大きな手が順に二人の頭を撫でた。雪乃は、自分に抱き着いている真咲の背をとんとんと撫でる。

「でも、急だったね。インターホン鳴った?」

「あれのセキュリティ認証を解除しておくのを忘れていて、勝手に入って来たんだ」

 一路の問いに真尋が淡々と答える。
 雪乃は、座って話しましょ、とソファへと皆を促す。
 真尋とその膝に真智が座った。真咲を真ん中にして、雪乃も座る。一路と海斗は向かいのソファに座った。

「テーブルに飾る花でも探しに行くか、と庭に出ようとしたところで会った」

「お父さん、急に『どういうことだ』ってお兄ちゃんに詰め寄って、お兄ちゃんが『勝手に人の家に入るな』って言ったら怒って……いきなりお兄ちゃんを殴ったの。僕、びっくりした……」

 真咲が心配そうに兄を見上げる。

「どうせ真尋さんのことだから、殴り返すつもりで大人しく殴られたんでしょ」

 雪乃がじとりと睨めば、案の定、夫は目をそらした。

「そうなの、お兄ちゃん?」

「……まさか」

「まあ、殴られればボコボコにやり返しても正当防衛だとでも思ってんでしょ、真尋くんのことだから」

 一路が呆れたように言った。雪乃もそうだと睨んでいるのだが、夫は「まさか」と同じことを繰り返した。短気だが無駄に頭がいいので、瞬時にそういう計算をするのだ。
 真尋は分が悪いと悟ったのか、わざとらしく咳ばらいをした。「それよりも」と続けて、話題の転換を試みているようだ。

「ちぃ、咲……一応、確認だが母さんじゃなく、俺と雪乃と一緒にイギリスってことでいいか?」

「うん。フランスはやだ」

「僕とちぃはお兄ちゃんと雪ちゃんがいいよ」

 双子は悩みもせずに言った。真尋はその返事に柔らかに目を細めて頷いた。

「じゃあ、今後、あの人が何を言ってきても、何をしようとしても、気にしなくていい。……俺が必ずお前たちを護るから、一緒にイギリスへ行こう」

「うん、分かった!」

「はーい」

 双子がそれぞれ返事をする。
 そのやりとりで、双子は大分安心したようで、表情が晴れやかになっている。雪乃はほっと息をついて、笑みを浮かべた。

「園田、庭に行ってテーブルに飾る花を見繕ってきてくれ」

「みーくん、僕も一緒に行くよ」

「僕も行く。だって、僕、雪ちゃんの好きなお花知ってるもん」

 真智が真尋の膝から降りて、玄関の塩まきから戻って来た園田に駆け寄り、真咲がそれに続く。

「かしこまりました。では、行きましょうか」

 園田が塩をキッチンに片づけてから、改めて双子とともにリビングを出ていく。
リビングの南側の窓の向こうへ顔を向ければ、しばらくして庭に三人の姿が見えた。
 真咲が園田と手を繋ぎ、真智が少し先で花壇を指差している。

「……あの人にとって、母さん以外は本当にどうでもいいんだろうか」

 温度のない声がぽつりと呟いた。
 
「真智と真咲が……思い描く未来を、一緒に見ようと、見てみたいと願うことはないんだろうか。好物も、嫌いなものも知らないのに父親だと言い張って好き勝手しようとする。真智が苦手な漢字を一生懸命練習して覚えたことも、真咲がたくさん練習して逆上がりを成功させたことも……その彼らの努力がもたらした成長を何一つ知らないのに、成長させなければなんて馬鹿なことを、なんで言えるんだろうな」

 淡々と心底不思議そうに真尋が告げる。
 雪乃は、テーブルの上の救急箱に手を伸ばしながら「そうねぇ」と口を開く。膝に乗せた救急箱から消毒液とガーゼ、ピンセットを取り出す。

「大事なものをあれもこれも抱えられるほどの大きな器が、お義父様にはないんでしょうねぇ」

「……もしかして雪ちゃん、かなり怒ってる?」

 一路がおそるおそる雪乃の顔を覗き込んで来る。
 雪乃は「そうねぇ」と同じ言葉を繰り返して笑う。

「私の大事な家族を虚仮にされたら、ねえ? ……真尋さん、少ししみるわよ」

 ガーゼに消毒液をしみこませて、ピンセットでつまみ、真尋の切れた口端にぽんぽんと充てる。爪がかすったのか、頬骨の上にもひっかき傷があって、そこもついでもぽんぽんする。

「絆創膏貼っときましょうね」

 嫌そうな真尋をさらっとスルーして、雪乃は頬と口端にそれぞれ絆創膏を貼った。

「どうします? お医者様に行って、診断書とります?」

「そうだな。今後のためにとっておくか。俺はまだまだ立派な未成年で、親の庇護下にある子どもだからな」

 一路と海斗が心なしか頬を引き攣らせている。

「電話して、ちょっと行って来る。一路、海斗、後は頼んだぞ」

 そう告げて真尋が立ちあがった。
 雪乃も続けて立ち上がり、リビングの入り口の壁にかけられていた真尋のコートを彼に着せる。運転免許証の入っているお財布を持ったか確認も忘れない。

「真尋さん、車の鍵は充さんが持っているからね」

「ああ、分かった」

 真尋は頷いて「行って来る」とスマホを取り出しながら玄関を出ていく。
 雪乃がリビングに戻れば、電話をしながら花壇に向かう真尋の姿があった。知り合いの医師に連絡を取っているのであろう。
 園田が、ぶんぶんと首を横に振って、双子が何かを言った。双子は家のほうに戻って来て、それを見届けると真尋は園田と連れ立って、家の裏手の車庫のほうへと歩いて行った。
 双子は、雪乃と約束している通り、洗面所にいって手洗いうがいを済ませてからリビングに戻って来る。

「雪ちゃん、みーくんが車がないからお兄ちゃんを自分で病院に連れて行くって」

 真咲が言った。

「なんで? 真尋くん、車は売っちゃったっけど、送迎用のと買出し用のあるでしょ」

 一路が首をかしげる。

「お兄ちゃんに買出し用の軽自動車は似合わないってみーくんが全力で拒否した。送り迎えの時の車は大きいし邪魔だからやだってお兄ちゃんが言ったから、みーくんが運転するって」

「充さん、変にこだわりがあるのよねぇ」

 雪乃は苦笑を零す。

「いやでもまあ確かに……真尋って軽自動車が似合わないんだよなぁ」

 海斗はうんうんと頷いている。男の子にしか分からないことかしらねぇ、と雪乃は不思議に思いながらも、救急箱を手に立ち上がる。

「さて、パーティーの準備を進めないといけないわね」

「今度は、僕たちもお手伝いするよ」

「雪ちゃん、ケーキの飾りつけはね、お兄ちゃんとするからね」

「はいはい。ふたりとも、ちゃんとエプロン付けなきゃダメよ」

「はーい」

 雪乃が笑って頷き、そう促すと双子は自分の部屋にエプロンを取りに行く。

「雪ちゃん、クッキー焼くから、オーブン使っていい?」

「どうぞ」

 一路に返事をして、雪乃もサラダづくりを再開する。

「ねえ、雪乃」

「なぁに、海斗くん。マッシュポテト、出来たかしら?」

 振り返り、首をかしげる。

「真尋は……いつかおじさんと決別しちゃうのかな」

 雪乃は、思わぬ問いかけに手を止めて、二度、瞬きをする。一路が「兄ちゃん?」と首をかしげる。

「どう、かしらね……でも、お義父様が、ちぃちゃんと咲ちゃんを、あまりにないがしろにするなら、そういう道もあるかもしれないわね。……でも、真尋さんもね、あんなことを言っているけれど……本当はお義父様に認めてもらいたいのよ」

 止まっていた手を動かして、レタスをぺりぺりと剥いでいく。

「だって、ただ一人の父親だもの。そういうところが、血のつながりの厄介なところかもしれないわね。ただ……お義父様は知らないのよ。無表情の息子が……傷付いて泣くんだってことを、知らないの」

 雪乃や双子たちの前では、わりと感情を分かりやすく顔に浮かべる夫だが、父親の前ではそれは極端に少なくなる。むしろ無かもしれない。
 だから、真琴は何にも知らずに、言葉の刃で真尋を傷つける。ぴくりとも表情が変わらない息子が、傷付かないと思っているのだ。馬鹿で愚かでどうしようもない。

「……私と真尋さんが結婚した時に、お義父様に言われたの。高校生の内は雪乃さんは帰れる限り実家にって。それで真尋さんが『俺の安眠のためにも雪乃には傍にいてほしい』って……お義父様、鼻で笑ったわ。『我が儘はよせ』って」

「まさか、知らないの? あの事件以降、真尋くんが眠れないって……」 

 一路の強張った声に雪乃は頷いた。

「知らないの。なーんにも知らないくせに、ああいうことを言うの。……いつもそう。真尋さんがお義父様の意思に反するようなことを言うと昔から『我が儘はよせ』ってそればかり。どうしてそう思ったのか、なんでそう思うのかと聞いたこと何で一度もないの。真尋さんは、そう言われる度に傷付いているのにね」

 レタスの葉を一枚、一枚丁寧に洗っていく。
 
「でも、真尋さんが諦めないなら、私だってお義父様をまだお義父様って呼ぶわ。……まあ、今日はちょっと頭に来過ぎて怒ってしまったけれど」

「雪ちゃん、お待たせ!」

「何すればいいー?」

 賑やかに双子がやって来て、話は切り上げられる。

「じゃあ、二人にはレタスをちぎってもらおうかしら。よろしくね」

「はーい! いつもみたいでいい?」

「ええ。サラダ用にお願い」

 二人は手慣れた様子でざる一杯のレタスを受け取って、真咲がサラダボウルを出して、真智はざるから水が零れないようにお皿を用意してダイニングにいく。そちらのテーブルで作業をするのだ。

「さ、一くんと海斗くんも手を動かして? 真尋さんが帰ってくる前に仕上げなくちゃ」

 ね、と笑顔で振り返れば、はっと我に返った鈴木兄弟は顔を見合わせ、苦笑を一つ零して作業に戻る。
 オーブンの調子を確かめる一路とマッシュポテトの仕上げに戻った二人を横目に、雪乃はりんごの皮をむく。
 早く帰って来ないかしらねぇ、と考えながら雪乃は、自分の誕生日パーティーのための料理を、一番幸せそうに、美味しそうに食べてくれる夫のためにせっせと仕上げるのだった。





「…………」

 ぴりぴりした痛みに眉を寄せながら、大仰に貼られたガーゼを引っぺがす。
 顔見知りの医師は、真尋の顔の腫れに自分が顔を蒼くして、丁寧に診察して処置を施してくれた。もちろん診断書もきっちりとって来た。

「真尋様、せっかく貼って頂いたのに……」

「ちぃと咲が心配するだろう。第一、大げさだ。殴られただけだぞ」

 運転席で眉を下げる園田に真尋はそう返し、足元のゴミ箱にガーゼを捨てる。
 たかが病院にこんなバカでかい車で行く必要はないと言ってもこの執事が言うことを聞かなかったので仕方がない。広い車内で、後部座席に乗るのは億劫で選んだ助手席で真尋はため息を零す。

「……止めてしまいましたが、止めない方がよろしかったですか?」

「いや、止めてくれてよかった。やり返していたら、歯止めが効いた自信がない。それに……これが取れただけでもよしとする」

 診断書の入った封筒を一瞥する。

「……園田」

「はい」

「あの人は、躍起になって強硬手段に出るかもしれない。真智と真咲の身辺警護に、より一層、力を入れてくれ。父が用意したボディガードも一切信用するな。帰ってすぐセキュリティ認証も両親の分を消去してくれ。……時塚さんの分も消去を」

 足を組み、髪を掻く。
 時塚は、長年水無月家に仕えているが真尋より父を大事にしている。父が彼女を使う可能性は、心のどこかに留めておかなければならない。

「かしこまりました」

「真智と真咲の意思は、あの人にとってはないも同然だ。無理矢理、二人を連れ去る可能性は否定できない」

「奥様に、相談されては……?」

 園田が躊躇いがちに言った。

「母さんは……結局はあの人の味方だし、前々から俺たちの誰かと一緒に暮らしたいと言っているんだ。協力はしても、こちらの完璧な味方には、ならんだろうな」

「……そうですか。かしこまりました」

 左へと出されたウィンカーがカチコチと静かな車内に落ちる。

「…………だが、雪乃があそこまで怒るとは思っていなかったな」

「……前々から雪乃様は、旦那様への怒りは溜めていたようですよ。園田の母が言っていました。『女の不満は貯蓄式だから気を付けろ』って」

「それは、確かに。金言だな」

 くくっと喉を鳴らして笑う。

「正直、あそこまで怒ってくれると思っていなかったから、驚いたが、嬉しかったよ」

「凛として美しいお姿でした。……ところで私、大変優秀な執事でございますので……」

 信号で車を停止させた園田が、懐から銀色の細長い物体を取り出した。

「雪乃様のお言葉、全て記録してございます。真尋様が診断を受けている間に確認いたしましたが、完璧です」

「流石は俺の選んだ執事だ。あとで褒賞も期待しておけ」

 真尋は素直にそれ――ボイスレコーダーを受け取って懐にしまった。
 信号が青になり、再び車は動き出す。

「……イギリス行を早める。四月の半ばには向こうへ」

「かしこましました。そのように準備いたします」

「家自体はいくつか目星はつけてある。一路のおじい様が相談に乗ってくれた。年が明けたら決めて来る」

「はい。ご家族で行きますか?」

「雪乃の体調次第だが……元気なようなら一緒に、真智と真咲にも現地の空気を味合わせてやりたいから、いっそクリスマス前に行くのもいいな。冬期休暇はあちらで過ごすか」

「ふふっ、海外で年越し旅行ですか。雪乃様もご一緒なのは初めてですから、きっとお喜びになりますよ」

 園田が柔らかに笑って言った。
 真尋の脳裏にも、旅行だと喜ぶ二人の姿が容易に浮かぶ。自分たちであれこれ調べたり、一路と海斗を捕まえて言葉の練習をしたり、見どころはどこかと嬉しそうに聞くだろう。
 きっと、父は二人のその笑顔より、仕事と自分が大事なのだ。
 それでもいつか、子どもがどれほど愛おしい存在か気づいてほしいと願うのは、双子にとって父親はあれ一人だけだからだろうか。それともこれは、真尋の、いや――幼いころ、ひとりぼっちだった真尋の願望、なのかもしれない。

「……いつかは、諦めなければな」

「何か、おっしゃいましたか?」

「何も。前を見て大人しく運転していろ」

「かしこまりました」

 何でか嬉しそうな執事はハンドルを握り直して、鼻歌交じりだ。
 それに苦笑を零して、真尋は窓の外に顔を向ける。
 もうすぐクリスマスだ。街はそれ一色に染まっていて、賑やかだ。今年の双子たちへのクリスマスプレゼントは、すでに準備万端だ。きっと喜んでくれるだろう姿と、それを見て微笑む雪乃を思い浮かべて、真尋は早く着かないかな、と我が家を恋しく思うのだった。


ーーーーーーー
ここまで読んで下さってありがとうございます!
いつも閲覧、ブクマ、感想、励みになっております♪

久しぶりの更新過ぎて、法改正が先に終わりました( ˘ω˘ )

ありがとうございました。
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