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本編 2
第二十七話 願った女
しおりを挟むずっと秋晴れが続いていたのに、今日は朝からしとしとと雨が降っている。
雪乃は、充が淹れてくれた紅茶を飲みながら、窓の外をぼんやりと見つめていた。雨が窓ガラスに当たってはじけて落ちていく。
倒れてから数日が立って、雪乃の魔力は完全に回復しているが、心配性の弟たちや子どもたちに療養しているようにと念を押されている。そのため、こうして部屋で紅茶を飲んで過ごしている。
子どもたちは全員、今日は前々からの約束で孤児院に出かけているため家の中は驚くほど静かだ。
なんでも今日はサヴィラの家族であるルイスの誕生日会があるのだという。夕方には帰って来るそうだ。
充と海斗、ジョシュアは、ボロボロのダイニングの修繕に精を出している。執事としての範疇も越えている気がするが、充は非常に優秀なので修繕なども得意なのだ。
雪乃は、テーブルの上においた魔石に目を向ける。
あの日、雪乃が少しの魔力を補充して以来、なんとか輝き続けている。中心にある真尋の魔力は、まだまだか弱い蝋燭のあかりのようで、時折、風にそよぐように揺れることがあった。
きっとこれは、真尋の命の灯なのだと、雪乃はなんとなく気づき始めていた。
雪乃はカップを置いて、指先でそっと魔石に触れる。
「きゅい?」
アメジストのような目が雪乃の顔を覗き込んで来る。
「ふふっ、そうね、タマちゃんがいたわ」
よしよしと撫でるとタマは嬉しそうにその場で一回転して見せた。
「暇だから本でも読もうかしら。図書室に行くくらいはいいわよね」
「きゅいきゅーい」
タマが頷いてくれ、雪乃はショールを直しながら立ちあがる。テーブルの上の魔石を手に取り、じっと見つめてキスを落とす。
「大丈夫、頑張って、真尋さん」
祈るように囁いて、魔石をスカートのポケットに入れようと握りしめる。
「雪乃様っ、よろしいですか?」
ぼろぼろのダイニングの修繕をしているはずの充の声に「どうぞ」と返す。
すると蒼い顔をした充と修繕を手伝っていた海斗とジョシュア、アルトゥロが部屋に入って来た。
「どうしたの? お顔が真っ青よ……」
「雪乃様、真尋様が……!」
充の声が震えている。飛び出してきた名前に目を見開く。
魔石を握る手に、力がこもる。
「強力な魔獣と交戦し、重体だと連絡が……っ」
思いがけない、しかし、どこかで予感もしていた言葉に息を呑む。ふらついた雪乃を海斗がすかさず支えてくれる。
あの寒い冬の日に、家の中に響き渡った電話のベルを思い出す。スマートフォンが普及して、固定電話などほとんど鳴ることがなかったのに、あの日、無機質な音が広い家の中に響きわたった。あの時、真尋の死を伝えた電話のベルは、今も尚、雪乃の記憶に焼き付いて鮮明に残っている。
「真尋さんが……じゅう、たい?」
声が震えて、視界が揺らぐ。
「重体じゃない、重傷だ。さっき、定期報告が領主様のところに来たんだそうだ。すぐにホレス護衛騎士殿が直々に報せに来てくれた。定期報告といっても三日か四日前の出来事だが……」
ジョシュアが言った。
彼が差し出してくれた手紙を受け取り、中身を確かめる。
そこには、真尋が重傷である、と確かに書かれていた。エルフ族の里を護るため、強力な魔獣と戦闘になり、負傷したとのことだった。雪乃は途中で文字が追えなくなって、手紙を海斗に渡した。
「ユキノさん、マヒロ神父様の傍には僕の義姉がいます。彼女はだいぶ変わりものですがアルゲンテウス一、王国でも指折りの優秀な治癒術師です。それにイチロ神父さんだっていますから、大丈夫ですよ」
アルトゥロが励ましの言葉をかけてくれる。
だが雪乃の手の中で、魔石の中の真尋の命の灯は今にも消えそうに弱弱しいままだ。
「…………私が、少しでも近くに、エルフ族の里に向かうことは、できませんか?」
雪乃は縋るようにジョシュアを見上げる。ジョシュアは眉を下げて、首を横に振った。
「あまりに遠すぎる。それに向こうに彼らがどれだけ滞在するかも分からないんだ。手紙には、より万全な治療体制を整えるべく、ブランレトゥへの早急な帰還も選択肢に入れていると書いてあった。道中、運良く行き会えばいが……どの道を通って帰って来るかは分からない。すれ違いになる可能性のほうが高い」
雪乃は魔石を握りしめ、左手の薬指の指輪に縋るように唇を寄せる。
目を閉じると脳裏に血の気を喪った白い顔で眠る彼の姿がありありと浮かび上がる。彼の胸に耳を当てた時、その冷たさと無音が、信じられないほど悲しくて恐ろしかった。
「真尋様……っ」
充が迷子の子どものような声で真尋を呼んだ。
海斗が充の背を優しく、あやすように撫でる。
「みっちゃん、大丈夫だよ。雪乃も……まだ真尋の魔石は大丈夫なんだろ?」
海斗の言葉に雪乃は、辛うじて頷いて返す。
「あいつも一路も、一回死んだけど……でも、生きてたじゃないか。大丈夫、今度だって死にやしないよ。とくに真尋はさ、ミアとサヴィラが居るんだ。意地でも生きて帰って来る」
緑の混じる青い瞳が優しく細められた。
雪乃は、唇を噛みしめて、なんとか頷いた。
そんな雪乃を気遣い海斗が「座ってな」とベッドに座らせてくれ、充も海斗によって先程まで雪乃が座っていた椅子に座らされていた。充は呆然と自分の手を見つめている。
「ねえ、ジョシュア。その強力な魔獣ってのはなんなんだい?」
海斗の問いにジョシュアは眉を寄せる。
「俺も知らないんだ。だが、こういう文書は、大事なことも確かに書かれているが、全ては書かれていないらしい。手紙を運ぶシャテンが死ぬことだってあるし、悪意を持った第三者に襲われる可能性もあるからな。身内にしか分からないような言葉や暗号で書かれているそうだ」
「でもこれは……」
海斗が手紙に目を向ける。
それは確かにアーテル語で書かれていた。
「それはホレスが、俺たち用に書き写してくれたんだと思う。前にウィルフレッドの下に届いた定期報告を見たが、俺にはさっぱりわからなかったからな……だが、これまでの情報を鑑みれば最悪、相手がドラゴンだった可能性も否定できない」
「ドラゴン……」
皆の視線がタマに向けられた。タマは「きゅい?」と不思議そうに首を傾げる。
「とはいえエルフ族の里の近辺にいるドラゴンは、タマのようなSランクの最上位種じゃない。精々Aランクのドラゴンだ。真尋たちが負けるような相手じゃないさ」
ジョシュアが励ますように言葉を紡いでくれる。
だが、雪乃の心の中はぐちゃぐちゃにざわめき立って、彼の言葉は耳を素通りしていく。
「……子どもたちには、」
雪乃は考えるよりも先に口を開いていた。
「まだ、言わないで下さい。……あの子たち、本当は今だって不安なのよ。真尋さんったら急に死んじゃうんですもの……でも優しい子たちだから一生懸命、我慢しているの……。それなのに、そんな……今度こそ、本当に、壊れちゃうわ……っ。だから、お願い、言わないで……っ」
雪乃は懇願するように告げた。
「雪乃……大丈夫、誰も言わないよ」
海斗の温かな手が雪乃の肩を撫でてくれる。顔を上げれば、ジョシュアとアルトゥロも「言わないよ」「言いません」と頷いてくれていた。
タマが小さな頭を雪乃の頬に寄せる。右手でその頭を撫で、目を伏せる。
「教会に……行っては、だめよね」
「あれもこれもだめですまない……だが、あそこは侵入者が入ったばかりだから」
雪乃が魔力の大半を突然失った日、お祈りに行っていたサヴィラとミアが教会で不審者と鉢合わせた。真尋が施した魔法が、何かの事故で消えてしまい、泥棒が侵入して来たそうだ。幸い、サヴィラやミアに怪我はなかったが、教会への出入口は厳重に封鎖されている。
「ユキノ、俺はウィルフレッドのところに行って、何か新しい情報がないか調べて来るよ。……アルトゥロ、レイを呼ぶから、ユキノとアマーリア様のことは頼む」
「分かりました。僕だって一応、魔導師ですからね任せて下さい」
「ほら、みっちゃん。ダイニングの片付け、しちゃおうよ。真尋が帰って来た時に、驚かせるんだろ?」
海斗がパンパンと充の肩を叩く。
充が「でも……真尋様が……」と泣きそうな顔で彼を見上げた。海斗は、にかっと太陽みたいに笑う。
「だいじょーぶ、。あいつは絶対に大丈夫だよ。みっちゃんはあいつが認めた執事なんだから、みっちゃんがあいつを信じないでどうするのさ。ほら行くよ。雪乃もおいで、気晴らしに……そうだなぁ、あ、スコーン食べたい。スコーン作ってほしいな。この間作ってくれたクロテッドクリームはアイテムボックスに入ってるから安心してよ」
海斗がぱちりとウィンクをする。雪乃は、変わらぬ友人の姿に、なんだか無性に安心する。
「そうね。私たちが真尋さんを信じないと……それにティーンクトゥス様の加護があの人にはあるもの」
「そうそう。ティーンクトゥス様は、優しい神様だし、真尋がいないと布教活動に支障が出るから、なんとかしてくれるって」
海斗が頷いて、雪乃の手を取った。引っ張られるまま、雪乃も立ち上がる。
「ユキノさん、いつ何時、マヒロ神父様が帰って来ても、万全の態勢で迎えられるよう、僕も準備しておきます。あの人、絶対に治療院に入院してくれないので」
「なんだか、すみません……あの人ったら」
「いいんですよ。それがマヒロ神父様ですから。さあ、ジョシュアさん、行きますよ。僕のお手紙をついでに治療院に届けて下さい。必要な薬や人材を確保しなければ」
「そうだな。じゃあ、行って来る。カイト、あとは頼んだぞ」
「任せといてよ」
アルトゥロとジョシュアが忙しなく出て行く。
「ほら、ユキノとみっちゃんも行くよ。今日中にダイニングの壁の穴をふさがなきゃ」
海斗が右手に雪乃、左手に充の手を握って歩き出す。二人はその背を追いかけるように部屋を後にする。彼の真っ直ぐな強さに、いつもどれほど助けられているだろうか。雪乃は、その逞しい背に小さくお礼を言った。
握りしめたままの魔石のぬくもりを手のひらに感じながら、雪乃はただただ真尋の無事を祈るのだった。
「あちらへ、お泊り? ……レオンハルト様やシルヴィア様もいいの?」
そろそろ夕食の仕度をしようかとクレアとプリシラ、アマーリアとリリーと共に厨房にいた雪乃は、子どもたちを迎えに行ったのに一人で帰って来た充に首を傾げた。一緒に行った海斗はそのままあちらにいるようだ。
「海斗様が、あちらにいて下さるそうですし、テディ様もいるので大丈夫だそうです」
「なら、いいけれど」
なんとなく子どもたちの前で取り繕える自信がなかった雪乃は、ほっと息を吐く。
「うちも別にいいわよ。でも着替えを届けてもらわないといけないわねぇ」
プリシラが言った。
「私がもう一度、行って来ますよ。雪乃様、ミアお嬢様の分をよろしいですか? 坊ちゃまたちの分は私が用意しますので」
「ええ。もちろんよ」
「ミツルさん、よければわたくしの子たちの分も届けてもらってもいいかしら?」
「はい、もちろんでございます」
アマーリアはお礼を言って侍女のリリーに仕度を頼む。
雪乃はクレアと一緒に野菜を洗っておくようにアマーリアに頼んでプリシラとともに子どもたちのお泊りの仕度をする。真尋と違って、きちんと整理整頓のできる子たちなので、すぐに必要なものを揃えられるのであっというまに仕度は整った。
エントランスで八人分の子どもたちのお泊りセットを受け取った充を見送る。リリーは余程アマーリアが心配なのか、荷物を充に預けてもう既に厨房へと戻っている。
「ユキノさん、夕食のメニューどうしようかしら」
ドアが閉まり、エントランスに二人きりになるとプリシラが言った。
「そうですねぇ。大人だけになっちゃいましたものね」
本来であれば今夜は、唐揚げを作ろうと思っていたのだ。この間、ちょっとだけ試しに作ったら大好評でレオンハルトとサヴィラからのリクエストだった。
「ジョシュアも帰って来るか分からないし……」
プリシラが、どうしたものかしら、と眉を寄せる。
ジョシュアは、雪乃に報せを持ってきた後、情報収集に出かけてまだ戻っていなかった。もうすぐ日が暮れる。
「唐揚げは明日にしましょうか。レオン様が拗ねそうですし……確かボヴィーニのもも肉の塊があるし、ワインもあるから……ワインで煮込んでシチューなんてどうかしら。少し苦めの大人の味に仕上げて」
「いいわね、子どもたちがいない時しか作れないやつね。子供向けだとどうしても、味をまろやかにしないといけないから、久々だわ。それにシチューなら夫がいつ帰って来ても温めれば出せるものね」
プリシラの賛同を得てメニューが決まる。
二人連れだって厨房へと歩き出す。タマが「きゅいきゅい」とご機嫌に雪乃たちの前を飛んでいた。
だが、突然、タマがぴたりと動きを止めた。
「タマちゃん? どうしたの……」
「きゅ、きゅーい! きゅいきゅい!」
声をかけるとタマが我を取り戻し、慌てたように雪乃に突っ込んできた。雪乃とプリシラが「どうしたの」と声をかけて、おろおろしているとタマは雪乃のスカートのポケットに頭を突っ込んだ。
「タマちゃん……!? 一体、何を……」
だが、タマが咥えて取り出した魔石に気付いて、雪乃は息を呑む。
「嘘……! お願い、嘘だと言って……っ!!」
手の中に落とされた魔石の中、雪乃の魔力に包まれていた真尋の魔力は、今にも消えそうなほど弱弱しくなっていた。息を吹きかけたらあっけなく消えてしまいそうな、かよわい光になってしまっている。
雪乃はずるずるとその場に座りこみ、プリシラが慌てて雪乃を支えるように一緒に膝をついた。
「ユキノさん……!? だ、誰か! 誰かー!」
プリシラが叫ぶとダフネが駆け寄って来た。
「どうなさいました?」
「私には分からないわ。魔石に何かあったみたい……もしかして、マヒロさんに何かあったの……?」
ダフネの問いにプリシラが応え、彼女の空色の瞳が雪乃に向けられつ、だが雪乃には応える余裕もなくて、茫然と手の上の魔石を見つめていることしかできない。
騒ぎを聞きつけ、クレアたちもこちらにやって来るのが足音で分かった。きゅいきゅいいいながら、いつの間にかタマが図書室にいたアルトゥロも連れてきた。屋敷のどこにいたのかレイも一緒だった。
「ただいま! ユキノはどこにいるー!?」
エントランスからジョシュアの声がする。プリシラが「あなた、こっちよ!」と答え、ジョシュアが慌ただしくこちらにやって来る。
廊下にうずくまる雪乃たちにジョシュアが目を白黒させる。
「ど、どうした?」
「分からないですが、神父様の魔石に異変があったようで、ユキノ夫人が取り乱して」
ダフネが説明する。アマーリアが隣に膝をつき、雪乃の肩を抱いてくれる。
ジョシュアは青ざめた顔で「嘘だろ……」と呟いた。
「今さっき、マヒロ特製の伝言魔道具の小鳥が来たんだ。最新型らしくて、かなりの速度で飛んで来たらしい。団長室の窓ガラスを突き破って来たんだ」
雪乃はゆっくりと顔を上げる。
ジョシュアのセピア色の目が躊躇いがちに雪乃を見つめていた。
「あの人に……何か、あったんですね……」
雪乃の確信を持った言い方に、ジョシュアは少しの間を置いて頷いた。
「よく分からないんだが新しい移動手段を得たため、真尋たちは既にエルフ族の里を発って、こちらに向かっているそうだ。魔道具が飛ばされたのは中間地点。遅くとも今日の真夜中には到着予定だと」
「領地の端にあるエルフ族の里からそんな短時間で? 一体、どんな手段なんです?」
アルトゥロが言った。
「そんなの知らん。だが……それより……マヒロは上級魔獣と戦ったことによる魔力循環不順症? というのに陥って、治療がままならず容体が悪化したらしく、現在、意識不明の重体だと……」
その言葉の意味を正しく理解したのは、きっと治癒術師であるアルトゥロだけだ。
皆が困惑し、解説を求めてアルトゥロを見ている。
「魔力循環不順症は、体の中を魔力が回らなくなる状態です。その上、普通の不順症と違って魔獣型は、魔獣の魔力によって魔力循環が阻害され治癒魔法が効かず、魔力を持つ治癒薬などの薬もあまり効かない状態です。……魔獣との対決ですから大けがを負ったものと推測できますが、それが治療できない状態だと思われます。それに魔力循環不順症を起こすと、体内で魔力だまりができて、内臓に支障を来たすんです。魔力が溜まる場所によっては最悪……」
アルトゥロは言葉を濁したが、そこに「死」の一文字が存在することくらい言われずとも分かった。
誰かが「そんな……」と呟くのが聞こえた。
タマが再び「きゅい!」と焦ったように鳴いて、雪乃の背を尻尾でとんと叩いた。雪乃は、ゆっくりと手のひらの中に視線を向ける。
真尋の魔力の灯が、ゆっくり、じわじわと消えていく。
「真尋さん、だめ、だめよ……おねがい、いかないで……つ!」
雪乃は魔石を強く握りしめ、注げるだけの魔力を注ぐ。強い金の光が雪乃の手から溢れる。なんとか真尋のそれを留めようと雪乃は魔力を注ぐ。
「もう、おいていかないで……っ、おねがいよ、真尋さん……っ」
恐怖に心が凍り付いて息ができなくなりそうだった。あの肌の白さを、冷たさを、命の無音を、雪乃はもう二度も三度も耐えることはできそうにない。あの子たちだって、今度はきっと本当に壊れてしまう。
不意に温かいものが雪乃の手を包み込んだ。目を開ければ、それはアマーリアの細い手だった。青い瞳が、真っ直ぐに力強く雪乃を映し出す。
「大丈夫です。あの方は、わたくしたちの大事な領民を、未知なる脅威から守って下さった偉大なるお方です。そう簡単に愛するユキノ様を置いて行ったりなんかしませんわ」
「アマーリア様……っ」
もう一つ手が重ねられる。
プリシラが優しく微笑んで、もう片方の手で雪乃の頬を撫でてくれる。
「そうよ。それに私が安定期に入ったら、この子の安産のお祈りをしてもらう予定なの。マヒロさんは約束を破るような人じゃないわ。ね、ジョシュア」
「ああ。その通りだ。マヒロは、こんなことで死ぬような男じゃないよ。インサニアの中に突っ込んで、平然と帰って来た男だぞ」
ジョシュアの手が更に重ねられる。
「あいつはキラーベアを乗り回すし、聞けばブランレトゥに来る前は魔の森でキャンプしてたって言うし、神父の癖に酒は飲むわ煙草は吸うわ、その上、横暴で傲慢で偏屈で規格外のことばっかりだ。だから、まあ、なんだ……そうだ。俺はあいつに負け越してるからな。あいつに死なれちゃ困るんだ」
レイがぶっきらぼうに、しかし優しさをその声に滲ませて言った。無骨な手が、重ねられた手をぽんぽんと撫でていく。
「ジョシュアさん、マヒロさんはどちらに帰って来るんですか?」
アルトゥロが問う。
「伝言によれば、ここに、ナルキーサス様の指示だ」
「でしたら、すぐに人を呼んで、受け入れ態勢を整えます。先ほど大方の準備は整えましたから。後々のことを考えて、三階の空き部屋がいいでしょう。……ユキノさん、再三になりますがナルキーサス魔導師は、私の知る中でもっとも賢く優秀で、そして、諦めの悪い治癒術師です。絶対に神父様は大丈夫です」
重ねられた手をそっと撫でて、アルトゥロは言った。
「クレアさん、すみませんが手伝いをお願いします。ルーカスさんのお弟子さんに、治療院にロイス医師を迎えに行くようにお願いしてもらっていいですか?」
「ええ、ええ、もちろんです。ユキノさん、マヒロさんは絶対に大丈夫よ。ナルキーサス先生もアルトゥロ先生もすごい先生なんですから」
クレアも重ねられた手を子どもをあやすように撫でて、まだ庭にいる夫を呼びに行く。
「ユキノ様、ここでは体が冷えます。談話室の暖炉に火を入れて、そこで待ちましょう」
アマーリアの言葉に雪乃は頷く。
皆の手が離れていき、ユキノは恐る恐る手の中の魔石を見る。
かろうじて、真尋の命の灯はまだそこにあった。雪乃の強い魔力の中で、かぼそく光っている。
「真尋さん、お願いよ……」
魔石を抱き締めて、縋るように夫の名を呼んだ。
ダフネに支えられてユキノは立ち上がる。
「ユキノ、子どもたちは……どうする?」
ジョシュアが躊躇いがちに尋ねて来る。
「……きっと、あの子たちは泣いて、取り乱してしまいます。治療に差し支えるかもしれません……まだ知らせないで下さい」
「分かった。君の意見を尊重するよ。ミツルにもユキノから伝えてくれ」
ジョシュアの言葉に雪乃は頷く。
ユキノは、ほぼダフネに抱えられる形で談話室に行き、ソファへ座る。プリシラとアマーリアが両側から支えるように寄り添って座ってくれる。
教会に行けないなら、せめてとロザリオを取り出して魔石と一緒に握りしめる。
「ティーンクトゥス様、どうか……真尋さんを連れて行かないで……っ」
「大丈夫、絶対に大丈夫よ」
「そうですわ。絶対に大丈夫です」
雨の音がざあざあと部屋の中を包みこむ。
両側のぬくもりに支えられながら、雪乃は真尋の命の灯が消えぬよう、ひたすらに願うのだった。
「レベリオ、アゼルと交代だ!!」
「はい!」
汗だくになったアゼルがベッドを降りて、レベリオがベッドに上がりすぐに真尋に跨って両手を重ねて胸にあて――心臓マッサージを繰り返す。
魔力溜まりの除去のため魔力のほとんどを真尋に注いでしまった一路はリックの支えがなければ、立っていることもままならなかった。
一日、大人しく眠っていた真尋が再度、吐血したのは夕暮れの頃だった。なんとか胃の上部にあった一番大きな魔力溜まりは一路の魔力を強引に流し続けることで除去できた。それだって一路は三回は魔力を空っぽにしたのだ。その度に、ナルキーサスに怒られたがあの栄養食を食べて無理矢理回復して成し遂げ、除去後はナルキーサスによって「これ以上は君に危険が及ぶ」と栄養食を取り上げられた。
だがそこから悪化の一途を辿り、ついに呼吸と心臓が止まった。レベリオ、アゼルが交代で心臓マッサージを続けて五分以上が経っている。ジークフリートは風の魔法で真尋の口元を覆い、呼吸をさせていた。真尋の周りには、たくさんのパネルが浮かんでいて、様々な情報がそこに映っている、
「マヒロ、聞こえるか!? ブランレトゥはすぐそこだ!」
ナルキーサスが忙しなく手を動かし治療を施しながら、何度も真尋に声をかける。
「アゼル、交代です!」
「はい!」
再びアゼルがベッドに上がる。「一、二、三」という掛け声が延々と続く。
レベリオが、水を飲んで汗をぬぐい、ナルキーサスの補佐に回る。
「アゼル! 止まれ!」
たくさんのパネルの一つを見ながらナルキーサスの鋭い声が飛び、アゼルが止まる。
「だめだ、続行!」
「はい! 一、二、三……」
一路は自分を支えてくれるリックの手を強く、強く握りしめる。
真尋の顔は真っ白で血の気がない。どうして、なぜ、と頭の中は混乱で埋め尽くされて、一路も呼吸もままならなくなりそうだった。
大切な人もできた。家族のような友人もロボ親子もいる。だが、この異世界で、真尋無しで生きていくなんて考えたこともなかった。前に真尋が言った。一路が居るから、日本語を話せる。幼い頃の思い出を語れる。置いてきてしまった大切な人々を愛おしめると、それは一路だって同じなのだ。
「ブランレトゥ、入りました!! もう着きます!!」
見張りをしていたエドワードが部屋に飛び込んで来る。
「聞いたか、マヒロ、もうすぐそこだぞ! 君の娘と息子が待ってる!」
ナルキーサスが呼びかけるが反応はない。絶望が部屋を覆う。
すると何を思ったかエドワードがその顔に決意を浮かべ、真尋へ駆け寄り、ベッドの横にしゃがみこんでその耳元に口を寄せた。
「た、大変です、マヒロさん!!」
「おい、エディ、なんだ……!」
突然叫んだエドワードにナルキーサスが困惑に声を上げる。
「今、団長が教えてくれたんですが、ミアが、ミアが……レオンハルト様と婚約する運びになってましたぁ!!」
一体、何を言い出すのだと皆が呆気にとられたその瞬間だった。
エドワードの頭が、がしり、と掴まれた。その手には、銀色の結婚指輪が輝いている。
ジークフリートが顔を蒼くして、及び腰で呼吸を補助する魔法を継続している。アゼルが「ひえぇ」と情けない声を上げてベッドから転げ落ちた。
「あ”?」
発せられたどすの効いた第一声はチンピラのそれだった。
銀に蒼の混じる双眸が、あの日のポチぐらい狂暴な色を宿している。
「嘘だ……心拍が戻ったどころじゃないぞ、動いた……こいつ……本当、やばいな」
ナルキーサス様が呆然と呟く。
「あだだ、あだだだ、嘘じゃないです! マジです、マジ! ほら、もう屋敷に着きますよ!! あだだだだだ、われる! 割れます!! イチロ、助けてっ!」
「ま、真尋くんが死にかけてるからいけないんだよ! こら、僕の護衛騎士の頭を割らないで!」
一路は慌てて駆け寄り、その手をひっぺがそうとするが先程まで心肺停止をしていたのが嘘のように離れない。
「ミアは、嫁に、やらん……っ」
ぜぇぜぇと荒い呼吸を繰り返しながら真尋が言った。
レオンハルトの父・ジークフリートは真尋の呼吸が戻ったので、呼吸の補助魔法を止めて真尋の死角で気配を必死に消している。こんな手負いの殺気立つ魔獣みたいな真尋と目が合ったら殺されると思っているのかもしれない。そんなことしないですよ、と一路も言えないが。
「分かった、だったら死なないよう、頑張って! ね? だから離してあげて? ね!」
「そうですよ、マヒロさん。それを防ぐには、ミアが嫁に行かずに済むよう、領主になるしかないです!! エディの頭を割ってる場合でも、死んでる場合でもないです!!」
ジークフートが声にならない声で「リック!」と口パクで叫んだ。
真尋の手がようやくエドワードの頭を割るのを諦めた。だが、依然、表情は険しい。体に巻かれた包帯は血が滲んでいるし、痛みが酷いのかもしれない。
「ティーンクトゥスが、泣きわめいていたんだが……体が動かんし、声も出ないし、耳も聞こえなくてな……なにをあいつは騒いでいたんだ。また何かやらかしたのか」
真尋が面倒くさそうに言って、眉を寄せる。
「真尋くん、今の今まで心臓止まってたんだよ?」
一路は呆然としながらも答える。
真尋は「心臓が……道理でな」と相変わらずの冷静さで納得したが、またすぐに険しい顔になる。
「屋敷に……何か、見知らぬ魔力がある……」
「は?」
「サヴィとミア……は孤児院、か。あの小鳥は屋敷にいるな……」
どうやらこの瀕死の状態で二人につけている小鳥型魔道具を発動させたようだった。
「………………あ?」
一路は、こんなに驚いている真尋の顔を生まれて初めて見たかもしれない。
ナルキーサスが「どうした?」と訝しむように声をかけた。
だが真尋は答えない。驚愕を滲ませていた顔にみるみるうちに浮かんだのは、何故か苛立ちだった。
「……おい、園田!!」
真尋が怒鳴るように呼んだ。「ソノダ? 誰だ?」とナルキーサスが首を傾げる。
一路は死にかけたせいで、頭がおかしくなったかと顔を蒼くするが、バタバタと騒がしい足音が階段を上がって来た。
この馬車の家の中にいるはずのメンバーは全員、ここにいるにも関わらず、だ。皆が臨戦態勢に入る中、一路は咄嗟にドアを開けた。エドワードが剣を抜こうとするのを腕で制する。
赤茶の髪が目の前で揺れた。なんでか彼の頭の上で犬耳がぴんと立っていて、見慣れた執事服は今日もきっちりしている。
「み、みっちゃん!?」
「し、知り合いか?」
エドワードが目を丸くする。
「まひろざまぁぁ!」
みっちゃん――園田充が、泣きながら真尋の下に駆け寄り、ベッドの横にスライディングで正座を決めた。
「なんで、貴様と雪乃と弟たちがいるんだ!!」
真尋が怒りながら体を起こす。
「馬鹿者! さっきまで心臓止まってたんだぞ! いきなり起き上がるやつがいるか!」
ナルキーサスが慌てて彼の肩を押さえるが、真尋は聞く耳を持たない。
一路は突然現れた水無月家の執事に状況が理解できず、頭の上にハテナマークを浮かべて、彼と園田を交互に見ることしか出来ない。
「こちらに、こちらに雪乃様もおられます! 外で真尋様を待っておられます……っ!!」
園田が泣きながら言った。
雪乃、という言葉に真尋がわずかにたじろいだ。
「それを、信じてやる義理はない」
真尋が冷たく吐き捨てた。彼の左手に魔力が溜められ始めたのに気づく。だが、うまく溜められないのだろう。児戯に等しい弱い魔力だった。
「本当でございまずっ」
ビービー泣きわめく彼は一路のよく知る園田だった。
だが、確かによく知る園田の姿なのだが、彼が本物かどうかは自身がなかった。だって、園田充はアーテル王国に、この異世界にはいるはずのない存在なのだ。
「みっちゃん、本当になんでいるの……」
一路の力ない呟きに園田が振り返る。
「いち、一路様、お元気そうで……海斗様もお喜びなられるでしょう! 今、孤児院におられますよ!」
「兄ちゃんも? 本当になんで?」
ますます訳がわからない。魔力切れ寸前で思考が回らないのに、余計に頭が混乱する。
園田がしばし困ったように真尋と一路を交互に見て「あ!」と声を漏らし、口を開いた。
『ティーンクトゥス様が、私たちをこの異世界へお連れ下さいました』
それは一路と真尋にとっては、聞きなれた、最も親しみ深い言語――日本語だった。
『真尋様と雪乃様の軌跡でしたら幾らでも申し上げられますっ! 雪乃様は本当に、外でお待ちなのです。私たちは……ティーンクトゥス様の慈悲によって全てを捨ててここへ来たのです。真尋様が、それを望まないことは……雪乃様も承知の上での決断です』
真尋が左手で顔を覆った。
日本語は、何よりの証拠になる。この異世界で、これだけの人間が生きていながら、その言葉を完璧に操るのは日本で生きていた異界の者たちだけなのだ。
「……全てを、捨てて……?」
一路は力なく呟く。
真尋がゆっくりと立ち上がり、リックが慌てて彼を支える。
真尋は誰の静止も聞かず、アイテムボックスから出したワイシャツを着る。そして無言のままおぼつかない足取りながら、部屋を出て行った。ナルキーサスと充が慌てて後を追う。
ベッドの上には、血痕がそこかしこに残っている。
一路は、その痕を見つめながら「どうして」と呟く。
「……ユキノって、マヒロさんの奥様の名前だよな」
エドワードが躊躇いがちに尋ねて来る。一路は、力なく頷いてその場に座りこんだ。魔力不足に加えて、衝撃すぎる情報に頭がくらくらしだす。
それでも、そんな状態でも一路にだって分かっていることがあった。
「ここにいるはずのない……いてはいけないはずの、真尋くんが切望し続けた最愛の奥さんだよ」
一路の呟きにエドワードたちが困惑気味に顔を見合わせる。
訳が分からない。何か取り返しのつかないことが、彼らに起こったに違いないのに、一路の心の片隅が、幾ら抑え込もうとしても彼らとの再会を歓喜している。
「イチロ、とりあえず俺たちも行こう。歩けるか?」
「……うん、大丈夫、ありがとう」
エドワードが差し出してくれた手を取り、立ち上がる。
ジークフリートはアゼルに言われて、擬態のペンダントを取り出してオーランドの姿になった。ここに領主である彼は、いないはずなのだ。
そして、一路もまた彼らの背を追うようにしてエドワードに支えられながら部屋を後にしたのだった。
雪乃はエントランスの外、ポーチへ出ていた。
屋敷の庭は、そこかしこに火の玉が浮かんでいて、雨のせいで余計に真っ暗な夜を照らして屋敷の場所を知らせているかのようだった。
時刻は日付を跨ごうとする時間だ。もうすぐ真尋が帰って来る予定の時間だった。夕方の連絡以降は、なんの一報もない。
雪乃はアマーリアとプリシラに両側から支えられるようにして、門をじっと見つめていた。タマが何かの魔法を使ってくれたのか、寒さは感じなかった。屋敷の皆が、外で彼らの帰りを待っていた。仕事から帰ったティナとウィルフレッドも駆けつけてくれ、アルトゥロの横には、担架がすでに用意されている。
充は、何故か先程からじっと空を見つめている。
「そろそろだと思うんだが……東門の門番からまだ連絡はないな」
「やっぱり俺があっちに行って、鳥を飛ばすか?」
ジョシュアとレイの会話が聞こえる。
雪乃は手の中で、ロザリオと一緒に握りしめた魔石に視線と落とす。真尋の命の灯は、何度も消えたり、戻ったりを繰り替えしていたが、今は弱い弱い光が揺れていた。
「来ました」
充が呟いた。皆の視線が一斉に門に向けられるが、雪乃と充だけは空を見た。
聞こえるのだ。はばたく翼が、風を捉える力強い音が。
「上です!」
充が叫び、空を指差した。雪乃は駆け出し、庭に出る。雨が頬を濡らしたが気にせず、空を見上げた。
真っ黒な夜に、巨大な真っ黒い影が浮かんでいる。誰かが「濡れちゃう」と水で出来た傘をさしかけてくれた。
「な、んだ、あれ……」
「知らん!!」
茫然と呟くレイにジョシュアが潔く答える。
「…………っ!」
「ウィルくん、しっかり!! 今は神父様の治療が優先ですから、君の胃の治療は無理ですからね!!」
泡を吹いて倒れそうなウィルフレッドにアルトゥロが叫ぶ。
「まあ、大きい」
「ドラゴンかしら?」
アマーリアとプリシラがそれぞれ感想を述べる。
二人の言う通り、それは巨大な真っ黒い――ドラゴンだった。
ドラゴンは、真上で止まるとだんだんと高度を落とし、そして気のせいでなければ小さくなり始めた。レイが火の玉をいくつも上に打ち上げてドラゴンを照らす。庭の騎士たちもそれに倣って、火の玉を上げる。
オレンジ色の光に照らされて降りてきたのは、真っ黒い艶やかな鱗を持つ立派なドラゴンだった。そのドラゴンの腕が、馬車を抱えていた。ドラゴンは、庭に下り立つとその体躯に見合わない繊細な動きで馬車をそっと庭に降ろした。
タマより二回り大きいくらいの姿になったドラゴンは「ギャウ」と鳴いて、馬車のドアを開けてくれた。
「おい、園田!!」
ドアが開いた瞬間、雪乃の兎の耳には、確かに真尋の怒鳴り声が聞こえた。
「はい!! ただいま!!」
充が勢いよく駆け出し、馬車の中に飛び込んでいく。
それから時間の流れが止まったようにも、早まったようにも思えた。ほんの数秒のような気もしたし、何十分もそこで待っていたような気もした。
馬車のドア付近が騒がしくなり、充が先に馬車を降り、そして茶髪の背の高い男性に支えられるようにして、彼が降りてきた。
「…………雪乃」
知らないはずなのによく知っているような気がする銀に蒼の混じる目が、限界まで見開かれた。
包帯まみれで、その顔も半分が包帯に覆われていて、ワイシャツにまで血が滲んでいるし、右腕は三角巾で吊っている。それでも、そこにいたのは、会いたくて、会いたくてたまらなかった愛する夫だった。
「ま、真尋さん……」
駆け寄り、彼の目の前で止まる。
片方だけの目が、信じられないと雪乃を見つめている。
雪乃は、投げ出されたままの彼の左手を取った。結婚指輪が変わらずそこに輝いていることに、胸がぎゅうと苦しくなる。雪乃は、大きな手に頬を寄せる。
「私……貴方に会いたくて、会いたくて……――ごめんなさい……っ」
頬を雨が伝って落ちていく。
「ちぃちゃんと咲ちゃんを……まもりきれなかったの……、ごめんなさい、あなたの……大事なものを……私、私じゃ……守ってあげられなかったっ」
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「謝らなくていい……っ」
かすれた声が耳元で響いた。
「……まひろさん……っ!」
雪乃は頬を濡らしたものが雨ではないことを滲んだ視界で初めて知った。
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「こんなひどい怪我をして……それでも頑張ったのね、えらいわ、真尋さん」
雪乃は、笑ってその頬を右手で包み込んだ。左手は彼の背に回す。
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真尋の固く結ばれた唇が震えた。ゆきの、と呼ばれた気がして「なぁに?」と微笑む。
「ゆき、の……すま、ん……」
彼の口から溢れた赤い血が雪乃の頬と服を汚した。真尋の体が倒れていく。真尋を支えていた青年の腕が伸びて、彼の左腕を掴んだ。雪乃の肩に真尋の頭が乗って、ずしりと重い。雪乃を抱き締めてくれていたはずの腕から力が抜けている。
「真尋、さん?」
返事はない。か細い呼吸が僅かに雨音に交じって聞こえるだけだった。
「だから無茶をするなとどれだけ私は君に言えばいいんだ!!」
緑の髪の女性が馬車から降りて来て怒鳴る。
「アルトゥロ!」
「はい!! 受け入れ態勢、万全です!!」
アルトゥロが返事をして駆け寄って来る。
「君がユキノだな。私はナルキーサス。これの主治術師だ」
緑の髪の女性こそが、アルトゥロの言っていたナルキーサスだと知る。ナルキーサスが「担架に乗せろ、慎重に」と指示を出せば、充と茶髪の青年が真尋を両側から支える。
雪乃は、充と茶髪の青年が真尋を雪乃から剥がそうとしたのを止める。
「待って……真尋さんにまとわりついている、この薄膜みたいなものはなぁに?」
少しだけ冷静さを取り戻した雪乃は、今になって真尋にまとわりつく薄膜のような何かに気付く。牛乳を温めすぎた時にできる膜のようなものが、脆そうでいて固まると厄介そうな何かが、真尋の体を覆っている。
「薄膜、ですか……?」
青年が困惑気味に言った。充も首を傾げている。
「おそらく、さっきの黒いドラゴンの魔力だ。それがマヒロの治療を妨げている……私たちには見えないし、分からないが……何か見えるのか?」
ナルキーサスが言った。
雪乃は頷いて、真尋の体を起こしてもらい、両手でその頬を包み込んだ。意識がないのか目は固く閉じられている。再会の高揚で気付かなかったのだろう。今は、なんだか鬱陶しいほどそれが真尋の何かを阻害しているのが分かる。
魔力を流すが、薄膜の上を滑っていくだけで剥がれない。なら、内側からならどうかしら、と雪乃は思いつく。茹で玉子だって割って少し水を入れるとつるっと剥けるのである。
「例え、誰であろうと渡さないわ。真尋さんは、私のものよ。好き勝手しないでちょうだい」
微笑んで雪乃は真尋にキスをした。
口の中に直接、雪乃の魔力を流し込んで真尋の体から薄膜を引きはがすように広げていき、内側から破るのをイメージする。するとぱきぱきと薄い飴が割れるような音がして、ぽとん、と足元に何かが転がった。
雪乃は、真尋を覆う薄膜が消えたのを確認し、彼から離れて屈みこんで、それを拾い上げる。
五角形の手の平にのるくらいの黒い石だった。だが、火の玉に照らされると一部が青と金色に輝く不思議な石だ。
「黒トカゲの背びれに似た石……まさか…………『ヒア』」
ぶつぶつ言いながらナルキーサスが何かの呪文を唱えた。黄色の瞳が大きく見開かれた。
「アルトゥロ! すぐに治療開始だ!! 魔力が剥がれた!! 魔力循環不順症が解消された!! 治癒魔法が効くぞ!!」
ナルキーサスの顔に喜色が浮かぶ。
「ほ、本当ですか!? リックさん、ミツルさん、はやく乗せて下さい!!」
アルトゥロの指示によって今度こそ真尋が担架に乗せられる。だが、雪乃はぐいっと引っ張られてあやうく転びそうになる。
いつの間にか真尋の手が、雪乃の手を握りしめていた。
「ユキノ、すまないが離してくれるか? 治療をせねば……」
ナルキーサスが言った。
「ええ。ほら、真尋さん、離して? 先生に診て頂かないと……」
雪乃も頷いて夫の手を剥がそうとするが小指の一本でさえ剥がれないどころが浮きもしない。充に助けを求めたが、結果は同じだ。びくともしない。
「大変です……っ、雪乃様、剥がれ、ふんっ、剥がれま、せ、んっ!」
充が一生懸命頑張り、茶髪の青年も手伝うがやっぱりびくともしない。だが雪乃の手は痛くもないので、すごい。
「キース様、多分、それ離さないから、雪ちゃんごと連れて行ってください」
呆れの滲んだ耳慣れた声に顔を上げる。
なんだか青白い顔をした一路が苦笑を浮かべて、ボルドーの髪の青年に支えられながら馬車から降りてきた。
「一くん!」
「ただいま、雪ちゃん。再会を喜びたいけど、ほら、早く行って、みっちゃんは雪ちゃんを抱っこしてあげて」
「はい、行きましょう、雪乃様!」
言うが早いか充に横抱きに抱き上げられる。
「ええい、この際妻付きででもなんでもいい! 行くぞ!!」
ナルキーサスがやけくそ気味に叫んで、担架が動き出す。充が担架の横を雪乃を抱えたまま並走していき、真尋は運ばれて行く。エントランスに入る直前、振り返った先で、一路は駆け寄ったティナを強く、強く抱きしめていた。
三階へ駆けあがり、急遽、用意された治療室へ入る。待ち構えていたロイドと助手たちが驚きながらも動き出す。
真尋はベッドに寝かされ、手際よく服を脱がされ、包帯やガーゼが剥がされていく。どれもこれも酷い傷だった。見ているだけで涙がまた出そうになる。ナルキーサスの指示で雪乃から真尋の顔と左肩、左腕だけが見えるように水のカーテンが引かれた。充が雪乃に椅子を用意してくれ、そこに座る。
「ユキノ。真尋の表情に何か異変でもあったら、教えてくれ。……大丈夫、必ず助けるよ」
そう言ってナルキーサスは優しく笑うとカーテンの向こうに戻って行く。
「治療を開始する。アルトゥロはそこら中の裂傷を頼む。ドラゴンの氷魔法による負傷だ。ロイド、君は私とともにまずは魔力溜まりによって吐血しているので、胃の……」
ナルキーサスの指揮の下、治療が開始される。
治癒術師たちが呪文を唱える声がして、助手たちが忙しなく彼らの指示のもと、行ったり来たりしている。
「頑張って、真尋さん。貴方なら、絶対に大丈夫だから」
そう声をかけて、雪乃は彼の左手の薬指、お揃いの指輪にキスをした。
雪乃はその晩、真尋の治療が完了するまでずっと固く握られた手を握り返して傍に居続けたのだった。
ーーーーーーー
ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
いつも閲覧、ブクマ、感想、励みになっております。
次回の更新は23日(水) 19時に本編ではなく、水無月家の執事シリーズの更新を予定しております。
本編は、26日(土)、27(日) 19時を予定しております。
感想欄を開けましたので、よろしければ感想聞かせて頂けますと嬉しいです。
次のお話も楽しんで頂けましたら幸いです。
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