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本編
第三十六話 対峙した男
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「良く降るなぁ」
ジョシュアは、閑古鳥の鳴く店内でムートンの毛を刈りながら言った。開け放たれたままの店の入り口の向こうでは、桶をひっくり返したかのような雨がざあざあと降っている。
ジョシュアに言われてムートンを抑えているレイは、仏頂面でそっぽを向いている。幼いころから変わらない都合が悪い時の彼の仕草にジョシュアは、くすりと笑って毛刈りばさみを動かす。
余りにも雨が酷いからか客が動かず、今日のロークは暇だった。昼下がりの今、従業員たちは殆どが母屋で昼食をとっている。普段なら有り得ないが、朝から客が三人しか来ていないので、今日は特別だ。ジョシュアとレイ以外には、店内にはカウンターの向こうで帳簿を付けるカマルとそれに付き合う番頭、それと魔物たちの世話をしたり、棚を整理したりしている従業員が三人きりだ。それでも魔物たちの鳴く声がするので店内は穏やかな時間が流れながらもそれなりに賑やかだった。
もしかしたら五日前、貧民街で行われた緊急クエストのことも客の足を鈍らせる原因になっているかもしれない。正式な発表はされていないが、人の口にドアは無い。町民たちはアンデットが出たことを知り、怯えているのだ。
アンデットに対応するには、それなりの技量が必要になるのだ。そんなものとは縁のない一般人にとっては脅威以外の何物でもないだろう。家の外に出たがら無いのも頷ける。それにずっと振り続けている雨のせいで町が薄暗いから余計に人々の不安を煽るのだ。
「今日もソニアが来るって言ってたぞ。そろそろ来るんじゃないか?」
ジョシュアは、暗くなりそうな思考を切り替え、ムートンの頭を撫でて、レイに離すように促した。ムートンは、めぇぇ、と鳴いて慌てて立ち上がる。レイが出て行こうとしたので、その肩を掴んで捕まえ、後ろを指差す。
「あと二頭いる」
「……ちっ」
舌打ちしながらもレイは、ジョシュアが教えた通りにムートンを捕まえる。何だかんだこういう素直な所も変わらないなと思う。臆病なムートンは毛刈りをする時、仲間がいると落ち着くので柵の中には三頭のムートンが居る。もこもこの毛を刈られたムートンは、ほっそりとして何だか別の魔物みたいだ。ムートンは冬と早春以外は、毛を刈れるのであまりにも伸びたら刈ってやらないと丸い毛玉みたいになってしまうし、何より夏場は特に蒸れて皮膚の病気になってしまうので要注意だ。
ジョキジョキと鋏が毛を絶つ音は何だか心地が良い。
「……この三年でお前は変わったなと思ったが、そうでもないな。あんまり変わらない」
ジョシュアはムートンに顔を向けたまま言った。
「…………お前が言う、レイはもういない。ブランレトゥで輝いていたAランクの冒険者は、もういない」
硬い声がつまらなそうに言った。ジョシュアは、くくっと喉を鳴らして笑い首を横に振る。
「変わらないよ。そりゃあ、多少ひねくれてるし、拗らせてるなとは思うが……こうやって無視する癖に素直に俺の言う事を聞くところも、サンドロの飯が大好きなところも、なんだかんだソニアを無碍に出来ない優しいところも変わらない」
モーとボヴァンの暢気な鳴き声がする。世話をしていた従業員が、ケラケラ笑ってブラシを掛ける軽やかな音に合わせてボヴァンは、モーモーと嬉しそうに鳴く。きっと気持ちが良いのだろう。
「…………昔から、」
低い声がか細く落ちる。
「空腹が嫌いだった」
ジョシュアはちらりとレイを見やる。レイの母親譲りの黄緑の瞳は、どこか遠くを見つめている。
「俺の腹が鳴ると母さんは、自分の分の飯を呉れた。お前も、ソニアもサンドロもそうだった。でも、父さんは違った。父さんは俺の腹が鳴るとそれが靴磨きの最中だろうが何だろうが、母さんの所に行って「腹が減った!」と騒ぐんだ。うちにはパンの一かけらも無いから母さんが困った顔をすると「俺が腹減ったらから飯を食いに行こう」と俺と母さんをあそこから連れ出してくれたんだ」
低く少し掠れた声が紡ぐ言葉は雨に消えそうな程か弱いものだった。
その低い声は、間違いなく彼が成長し、大人になった証拠だと言うのに何故かジョシュアには忘れていた筈の幼い頃の彼の声が聞こえているようで、毛刈りばさみを操る手が止まる。
「別に食堂やレストランに連れて行ってくれる訳じゃないんだ。大抵、市場通りで買い食いをしたんだ。でも……それが凄く美味しかった。父さんは、同じものを買わない。別々のもんを買って、味見させろって勝手に食べるけど、でも、自分の分も美味しいぞって同じように差し出してくれる。譲り合う訳でも一方的に与える訳でも無くて、美味しいってことを共有する幸せを教えてくれる、そういう人だった。あの家に居ると……そんなことばかり思い出す。もうそんなものはどこにも無くて、分け与える相手すら居ない。思い出すだけ惨めだって言うのに」
こんな風にレイの口から、彼の父、アンディの話を聞いたのは彼が死んで以来、初めてだった。レイは、家族を失う度に家族の話を全くしなくなったからだ。ミモザが元気で明るく笑っていたあの頃でさえ、両親の話は一度たりともしなかった。
ジョシュアは、どう応えようか悩んで、思い出を語りたいならそれに付き合おうと再び毛刈りばさみを動かす。
「ソフィは、アンディの求婚になかなか頷かなかっただろう?」
レイは応えない。けれど、視線がこちらに向けられたのが分かって、ジョシュアは先を続ける。
「ソニアの方がソフィの心情については詳しいけど……まあ彼女なりに色々悩んでたんだと思う。それでも諦めきれなかったアンディが俺とサンドロとソニアに説得するのを手伝ってくれって、ソニアの家にソフィを呼んで、結婚してくれって、土下座したんだ。黙ってろって言われたけど、もう時効だ、時効」
「……土下座」
レイのちょっとショックだという感情の混じった声が聞こえて、ジョシュアはクスクス笑った。
「ああ。潔い程の土下座だった。でもソフィはそれでも首を縦に振らなかった。「レイは貴方の子供じゃない。父親が誰かも分からない。私にとっては世界一愛おしい子だけど、いつか貴方はそれを邪魔に思うかもしれない」って言ったんだ。一夜花の娼婦に限らず高級娼館の娼婦でさえも身請けした後、その子供だけを捨てさせる男も少なくないからな、ソフィはそれが不安だったんだと思う。ソフィにとってお前以上に大切なものは無かったから。そうしたら、アンディは何て言ったと思う?」
ジョシュアは、その時のことを思い出して思わず笑いを零す。顔を上げれば、その先を求めるレイの黄緑の瞳と目が合った。
「アンディは物凄く真剣な顔で「レイは俺の息子だよ! だってそっくりだ!」って言ったんだ」
「は?」
「ソフィが「赤の他人だから似てない!」と言い返したら「そっくりだよ! だって性別が同じ男だし、人族だし、それに俺と同じでソフィのこと大好きだし! あ、俺と同じで甘いもの好きだし! 耳の数も目の数も指の本数だって同じだ!」って言い返した。サンドロが鼻から紅茶を吹いて、ソニアは腹を抱えて笑い出した。俺も腹がよじれるほど笑った」
レイは何とも言えない顔をしている。
彼の中でアンディは美化されている部分があるが、実際のアンディは真っ直ぐで少々阿呆な男だった。
「その返しには、流石にソフィも呆れかえって、困ったように笑ってたよ。その後、二人きりになったアンディたちが何を話して、ソフィがアンディを受け入れたのかは知らないけど、お前の父親は、ソフィに土下座して結婚してもらったんだよ」
ジョシュアは、くすくすと笑いながら言った。
数年ぶりに紐解いた思い出は、あの時と変わらず温かいままだった。あたたかくて優しくて、何度思い出しても笑える。それと同じだけ、どうして死んでしまったのだと思い出の中だけで笑う彼らへの怒りも悲しみも溢れるけれど、でも心の奥底に残るのは、あの時は確かに幸せだったという証拠だ。
「なあ、レイ。俺は変わらないものがあるって、信じてるよ。人の願いも想いも世界も忙しなく移り変わっていくし、俺達の哀しみや幸福なんて、世の中には何も残さないけど……俺達の中には、その悲しみも幸福も永遠に残り続けるものだって信じている。なあ、レイ、そうだろう? お前の中にだって、癒えぬ悲しみの傍らで幸福が変わらずに輝いているだろう?」
故郷を捨てて、愛する人の手を離してでも神への愛を貫いた青年は、その悲しみに囚われてはいなかった。胸を張って、彼は前だけを見ている。でも、時折、愛おしそうに愛する人の話をしてくれる。そのとき彼は、芸術のような美貌に一片の哀しみを滲ませながらも、ふわりと幸せを言葉に、眼差しに、表情に咲かせるのだ。
その強さが、ジョシュアたちには無かった。哀しむばかりで幸せであったことを忘れようとした。彼や彼女たちが、与えてくれた幸せや喜びが確かにこの胸の中にあったのにそれを忘れようとした。そうすれば、哀しみすらも消えると信じていたのだ。それはただ、哀しみが深く色濃くなっていくだけだったのに。
「哀しみなんかに囚われるなよ、お前はミモザが何よりの誇りにしたブランレトゥのAランク冒険者なんだから」
レイは、逃げるように顔を俯けた。
ムートンを掴まえている手が少しだけ震えている。
「そうねぇ、ミモザにとってあんたは、どんな物語に出て来るよりも格好いい王子さまで、英雄だった」
弾かれたようにレイが顔を上げた。
何時の間にやって来たのか、ソニアがムートンの柵に肘をついて、こちらを眺めていた。その顔に浮かんでいるのは、哀しみが隠された優しい微笑みだった。
「あんたがあたしを赦せないのは、仕方がないことだと思う。大事な時にあたしは、あんたの傍にもミモザの傍にも居てやれなかったからさ。でも……」
ソニアが何かを言いかけた時、ガタンッとけたたましい音が入り口から聞こえて顔を上げる。レイの手から逃げ出したムートンが、めぇえと鳴きながら柵の隅へ隅へと逃げ込もうとする。
びちゃびちゃと雨に濡れた足音がいくつも聞こえる。振り返った先に居たのは、クルィークで雇われている狩人たちだった。全員、ずぶ濡れで靴底についた泥が床を汚し、服や髪から滴る水が床に水たまりを作るほどだった。
「下がれ!」
ジョシュアの一声に我に返った従業員たちがカマルが手招きするカウンターの向こうへと逃げ込んだ。
ジョシュアとレイは、柵を飛び越える。魔物たちが不安の声を上げて泣き喚く。カマルのリーフィが体を膨らませて威嚇する。
様子が、可笑しかった。狩人たちは、一言も言葉を発さず、それどころか目の焦点が合っていない。十数人の狩人たちは、言葉にもならない唸り声を上げ、涎を垂らし、ふーふーと獣のような呼吸を繰り返す。
「まるで……あの時の暴漢の様ですね」
肩にリーフィを乗せたカマルが隣にやって来て言った言葉にジョシュアは、腰の剣に手を掛けながら頷いた。
レイがソニアを背に庇いながら、目で説明を求めて来る。
「ここで暴れた通り魔だよ。あんな風に薬でもやっているみたいだった」
「ソニア、カウンターの向こうに隠れてろ」
レイの言葉にソニアが頷いて、カウンターの向こうへと飛び込む。大丈夫だよ、と従業員たちを励ます声がすぐに聞こえて来た。幸い、逃げ遅れた者はいない。目の前の招かれざる客以外は店内に客が居なかったことが幸いした。
「何の用だ?」
ジョシュアは努めて冷静に尋ねる。
だが、狩人たちは答えない。ぎょろぎょろと左右好き勝手に動く目玉が獲物を探す様に動いている。まるで同じだ。あの時の、あの通り魔の青年と同じだった。
「レイ、こいつらは予備動作無しに突然、攻撃してくる。気を付けろ」
「分かった」
レイが右手に大剣を左手に魔力を込める。ジョシュアも同じく剣を抜いて、左手に魔力を溜める。
「……ああ、居た。あれだ」
感情の感じられない冷たい声がしたと思った瞬間、カマルに向けて一斉に魔法とナイフが放たれた。ジョシュアとレイは同時に炎と風の盾を発動し、攻撃を弾き飛ばした。悲鳴が上がり、魔物たちが騒ぎ立てる。
「カマル! 下がってろ!」
「狙いはお前だ! 下がれ!」
ジョシュアとレイの言葉にカマルが後退し始めると同時にその男が、気配も無く音もなく狩人たちの中から現れる。
真っ黒な長い髪から雨の雫が滑り落ちる。
「……ザラームっ」
ジョシュアは思わずその名を口にした。
漆黒を纏う気配のない男は、感情の宿らぬガラス玉のような黒い瞳でジョシュアたちを捉えたのだった。
酷い雨の所為で町は、人影も疎らだった。いつもは賑やかな市場通りも閑散としている。
真尋は、手綱を操りながら視線を周囲に巡らせるが、そこにボルドーの髪の騎士の影は無い。濡れた雨避けの外套が重い。
「真尋くん、一度、戻ろう」
隣に並んだ一路に目を向け、真尋は暫しの逡巡の後、そうだな、と頷いた。
「リック、戻るぞ」
「はい」
騎士団の詰所から馬を借りて来たリックが付いて来るのを確認し、真尋は屋敷に向けて馬の腹を蹴った。
蹄の音が三頭分、雨の音の中に重なるようにして響き合う。
見回りの騎士とすれ違い真尋は目を細める。騎士団内で箝口令が敷かれているとは言え、時折、見かける見回り騎士たちの表情は、どこか緊張し、強張っているのが分かる。どれほどの規模の援軍を連れて出かけて行ったのかは分からないが、町の警備が手薄になっていることは確かだろう。
だが、不思議なことに第二小隊の騎士を一人も見かけない。彼らは現在、町の警邏のみを言い渡されている筈なのだが、どこにもいないのだ。貧民街にも今日は騎士は誰も顔を出していないとウォルフが言っていた。
教会が見えて来て、少しだけ速度を落とす。真尋が手を振れば、屋敷の門が風の力で開かれて、三人はそのまま庭へと入って行く。雑草が刈り取られて、枯れた樹木が取り除かれた庭は、閑散としている。噴水だけが勢いよく水を吹き出していて、ざばざばと水の溢れ落ちる音が雨音を掻き消している。
真尋たちが正面玄関へ近づくと待っていたかのようにドアが開いた。
「イチロさん、おかえりなさい」
「お兄ちゃん、おかえりー!」
顔を出したのはティナとジョンだった。ロビンが嬉しそうに出て来る。一路が「濡れるよ」と騒いだがお構いなしだ。ティナは、アンナに命じられてここに居る。神父さんをサポートしなさいと言われたらしい。
「ただいま、ティナちゃん。変わったことは無い?」
「はい」
一路が声を掛ければティナは、不安そうな顔で頷いた。ロビンはコハクの後ろに飛び乗って、一路に擦り寄る。一路は後ろに手を回してロビンの頭を撫でて馬から降りる。コハクは、大分成長したロビンが重たいのか気にするように後ろを振り返る。
「よく俺達が帰って来たのが分かったな」
「ティナお姉ちゃんと一緒に二階の窓からお庭見てたから!」
ジョンの言葉に、そうかと頷いて真尋は、馬から降りる。リックも馬から降りた。
「ジョン、ノアは?」
真尋の問いにジョンは泣きそうな顔で首を横に振った。
「キース様が色々試してるけど、もうどれも利かないって……一時間くらい前に一度、数値が大きく落ち込んで戻らないって」
ジョンが濡れるのも構わず真尋に抱き着いて来る。真尋は金茶色の髪の小さな頭を撫でて、そうか、と顔を伏せた。
ノアの容体に異変が起きたのは、日の出の頃だった。微熱だったそれが一気に上がり、熱痙攣を再び起こした。おそらく四十度以上の熱が有る。獣人族は、有隣族とは逆に平熱は高いというがノアのそれは異常なほどの高熱だ。ナルキーサスには、覚悟をしてくれと言われた。
「マヒロさん、エディの捜索は私一人でも大丈夫です。今日はもうマヒロさんは、ミアとノアの傍に居て上げて下さい」
「そうだよ。エドワードさんのことは僕とリックさんで探してみるから、午後からは二人の傍に居て上げてよ。ミアちゃんには君しか居ないんだから」
リックと一路に言われて、真尋はジョンの頭をあやす様に撫でながら頷いた。
「ならお言葉に甘えさせてもらう。ティナ、ミアはどうしている?」
「……ノアくんの傍で微動だにしなくて」
ティナが唇を噛み締めて顔を俯けた。一路がその肩を抱き寄せて、慰めるように腕を擦る。
早くミアの傍に行こうとした、その時だった。
「お兄ちゃん、誰か来るよ」
ジョンが空を指差して言った。
真尋たちがその視線の先を追えば、確かに東の空から何かがこちらへとやって来る。よろよろと飛ぶそれは、近づいてくるごとに人の形をしているのが見て取れた。
「鳥系の獣人族の子ども、でしょうか」
リックが目を細めて言った。
「……――っ! ――!」
雨音と噴水の音に阻まれて聞こえないが空飛ぶ少年が何かを必死に叫んでいるのが分かった。少年は、落ちるように真尋たちの前へと降り立った。鮮やかな鶯色の翼をもつ少年は、ぼろぼろと泣きながら真尋たちの元に駆け寄って来る。
真尋はこの少年に見覚えが有った。カマルの店で働いている少年だ。
「神父様、た、大変なんです!」
倒れ込む様に真尋の腕の中に少年が飛び込んでくる。
「どうした? ん? お前、怪我を……っ」
受け止めた拍子にぬるりとしたものが手のひらに触れて真尋は息を飲む。翼の付け根に刃物でつけられたような傷が有った。一路がすかさず手を当てて治癒魔法を掛ける。
「大変なんです! た、たすっ、助けて下さいっ! お店が、旦那様がっ!」
「落ち着け、ゆっくりでいいから」
真尋は少年の背を撫でながら、リラックスを掛ける。少年は真尋の服をぎゅうと握りしめ、泣きながら真尋を見上げる。
「店にクルィークの狩人たちが乗り込んで来てっ、そ、それ、それにつ、真っ黒な綺麗な男の人がっ、レイさんが倒れて、旦那様も大怪我を負って居て、ジョシュアさんがたった一人で戦っているんですっ! それでジョシュアさんが、僕に……神父様が昼には屋敷に戻っている筈だからと……っ! ジョシュアさんも足を切られて、それで、それで……っ」
途中、しゃくりあげながらも少年が必死に紡ぐ言葉に真尋は目を見開く。
「お、お兄ちゃん……お父さん、危ないの?」
ジョンが不安そうに問いかけて来る。いつの間に出てきたのかプリシラは、クレアに支えられるようにして立って居た。リースが不安そうに母親のスカートにしがみついている。
「大丈夫だ。俺と一路がすぐに助けに行く。リック」
「はい」
「この少年を頼む。この屋敷には、俺が実験も兼ねて守護魔法を幾つも重ねて掛けてある。この町で一番安全だと言って良い。ここでプリシラたちを守ってくれ」
「ですが、私も同行を」
リックが食い下がる。
だが真尋が言葉にせず、信頼を込めて見返せばリックは、少しの抵抗の後、こくりと頷いた。真尋は、少年を抱き上げてリックに託す。真尋は一路に顔を向けて頷き合い、愛馬へと再び跨った。一路がロビンに彼らを護るように命令する。
「ジョン、リース、プリシラ、ジョシュアのことは俺に任せておけ。必ず無事に連れ帰る。リック、後は頼んだぞ。その子は念のため、ナルキーサス殿に診てもらってくれ」
「はっ!」
リックが力強く頷いた。
「お兄ちゃん、絶対だよ!」
小指をぴんと立てて真尋に向けたジョンに真尋は、馬上から小指を立てて返す。約束の印にジョンは、泣きそうな顔で笑ってくれた。
「行くぞ! 一路!」
「うん! 急ごう! ロビン、君もティナちゃんと皆を頼んだよ!!」
馬の腹を蹴る。馬の嘶きが雨音を切り裂いて、力強い蹄の音が響き渡った。真尋と一路はロークへと向けて、一心不乱に馬を走らせた。
自分の呼吸の音が酷く大きく聞こえる。
マヒロのくれた魔石は、ジョシュアの魔力が奪われるたびに補給してくれ、傷が出来れば癒してくれていたがそれももう限界だ。傷を治すことも出来ず、ただただ魔力が奪われて行くのを感じながらもジョシュアは、剣を構える。
ジョシュアの後ろにはレイが倒れている。血まみれのソニアが、必死にその名を呼んで自分が持っていたマヒロがくれた魔石をレイに握らせるが彼女を襲った黒い霧を消し、その傷を治し、彼女の魔力も補った石は、根こそぎ魔力を奪われ、全身傷だらけのレイを回復させるには至っていない。それもそうだろう、レイはソニアを庇って全身に炎と氷の矢を受けたのだ。彼の倒れる床に赤黒い血だまりがじわじわと広がっていく。
狩人たちは、死ぬほどの大怪我を負っていると言うのに誰一人として斃れる者は無い。腕を落とされ、足を切られても尚、攻撃を止めようとしない。カマルは辛うじて立って居るが、リーフィを庇った彼の腕も骨が折れて使い物にならなくなっている。リーフィは、魔力を奪われてカウンターの向こうで介抱されていた。
ザラームは、片手に狩人から奪った剣を構えて、ジョシュアと相対している。狩人たちは、ザラームの背後でアンデットのように蠢いている。ジョシュアを斃してから、残りの獲物を狩る為かも知れない。
これだけの騒ぎが起きていると言うのに騎士が来ない。それどころか、外は不自然なほど静かで雨の音しか聞こえてこなかった。
ジョシュアは、口の中に溜まっていた血を床に吐き出して、ゆっくりと息を吐きだす。
「……ザラーム、何が目的なんだ」
「……カマルを殺せと言われたから来た」
ザラームは、事も無げに言った。まるでお遣いを言いつけられた子どものようだ。
怜悧な美貌はまるで人形のようだった。ジョシュアの脳裏に同じように、いやそれ以上の美貌を誇るマヒロの顔が思い浮かんだが、彼は確かに芸術のように美しいがその銀に蒼の混じる双眸には、真っ直ぐで強い意志が宿っている。輝く月夜のような双眸は、彼の美を最大限に際立たせ、彼の内面に秘められた力や強さをその美貌に乗せる。
だが、目の前の男はまるで人形そのものだ。人形のように美しいのではない、美しい人形のようなのだ。涼し気な双眸はガラス玉のように澄み切って感情一つ見当たらない。気配もない。殺気も無い。存在しているのか頭を抱えたくなるような不気味な男だった。
「マノリスの、いや、エイブの指示なのか?」
「そろそろ終焉がこの町に訪れるから。邪魔なものを片付けておこうって言ってたよ」
他人事のようにザラームは告げて剣を振りかぶった。ジョシュアは、それを受け止めて押し返す。また魔力が奪われる。ザラームと剣を交える度、その魔法を受ける度、魔力が奪われて行く。膝をつきそうになるのをぐっとこらえて、意地で立つ。
自分が斃れればそれで終わりだ。ソニアもレイもカマルも従業員たちも皆、死ぬ。
だが、彼が、あの美しい神父さえ来てくれれば、形勢は間違いなく逆転するという自信がジョシュアには有った。その為にソニアが命を賭けて、翼を持つ子どもを外へと逃がし、レイがその体を盾にそのソニアを護ったのだから。
「……お前もあの女も、カマルも……何を持っているの? 僕の力を受けて尚、何故、魔力が無くならない? 何故、この闇に囚われない? 僕はそんな魔法、知らない」
ザラームの左の手のひらに黒い霧のようなものが現れる。最初にジョシュアを襲ったものだ。貧民街でみたインサニアと同じ姿形をしているが、あそこで見たものよりは禍々しさが無い。それはマヒロが与えてくれた魔石の力に阻まれて呆気無く霧散した。仕組みも原理も分からないが、マヒロの言う通り、この闇は光を嫌う。
「光だ。俺は、美しい光を知っている。銀に蒼の混じる、琥珀に緑の混じる、美しく力強い光を知っている。だからお前如きの闇には囚われない」
長い黒髪がさらりと揺れた。首を傾げたザラームは、本当に何も知らない子どものようにジョシュアの目には映った。
「闇は、光を飲み込む。光なんて……弱いものだよ」
視界が霞み始めた。左手で胸ポケットを握りしめる。僅かなぬくもりがだんだんを失われて行き、魔石の力が遂に尽きたのだと悟る。ジョシュアは、ちらりと後ろを見やる。ソニアがレイに握らせる石の光も酷く弱い。カマルに目をやれば、彼もまた首を横に振った。
「まあいいや、殺した後、ゆっくり見せてもらうから」
ザラームはそう言って剣を振り上げた。ジョシュアは、気力だけそれを避けて、風の刃を打ち込んだ。また魔力が奪われる。ザラームはそれを呆気無く吸収し、更に剣を振り上げる。足に力が入らない、辛うじて受け止めたがその威力にジョシュアは、棚へと突っ込んだ。ガシャガシャンとけたたましい音が響き渡った。
霞む視界で血まみれの剣が降り上げられる。だが、指先一つ動かない。魔力の完全な枯渇だ。
煙る意識の中にジョンとリースの顔が浮かぶ。自分の命よりも大事だと言える愛しい命。プリシラの笑顔が浮かぶ。何よりも愛おしいその笑みがジョシュアの生きる意味だ。
駄目だ、駄目だ、ここで死ねない。こんなところでは死ねない。
自分の様な想いを大切な人を失う哀しみを、何より愛する彼らには、幼い息子たちには、まだ知らずに居て欲しい。
「た、て……ジョシュア……誇り高き、冒険者の名にかけ、て……っ」
ジョシュアは、剣を握りしめた。愛する人のために諦めるな。諦めてなるものか。と自分を奮い立たせる。
その時、思い浮かんだのは、何故か祈るマヒロとイチロの姿だった。
「なぁ、神様……もし本当にマヒロの言う通り、見守っていてくれるなら……っ、俺に守る、力を……どうかっ」
その瞬間、ふわりと優しいそよ風が吹き抜けてジョシュアの血と汗で汚れた頬を撫でたような気がして僅かながらも魔力が戻った。ジョシュアは咄嗟に体を横に投げ打った。振り下ろされた剣が床を抉った。
そして、何かがはじけ飛ぶような甲高い音がした。
「何あれ!?」
一路の素っ頓狂な声が上がった。見えて来たロークは黒い靄のようなものに店全体が覆われている。店の前には、騎士たちが居るが中に入ることは愚か近づくことも出来ないのか、立ち往生している。
「一路、一か八かだが、あれに向かって矢を放て!」
「分かった!」
一路が馬の上でアイテムボックスから取り出した弓を構える。ジルコンが作り上げた弓は光の矢を携えて輝く。
「退け!! 道を開けろ!!」
真尋の声に騎士たちが、はっとして振り返り道が開かれる。一路が弓を引く。弦の張る音がして、シュパンッと矢が空を切る音がした。光の矢は真っ直ぐな軌道を描き、ロークの正面玄関へと突き刺さった。次の瞬間、パリーンッとガラスのはじけるような甲高い音が響き渡った。黒い靄が呆気無く霧散する。
「その槍を貸せ!」
真尋は先頭に居た騎士に向かって手を出した。エルフ族の男は、真尋とそう年齢が変わらぬように見えたが、投げ渡された槍に真尋はすぐに興味を失った。
そして愛馬に跨ったまま、真尋と一路は店の中に飛び込んだ。一路は、小型のコンポジット・ボウに持ち替え光の矢を番え、真尋は槍に光の力を籠める。勝手に拝借したが随分と素晴らしい槍は、魔力が滞りなく巡る。
馬から飛び降りて、そのまま向かって来たゾンビのようなガタイの良い男たちを槍でなぎ倒していく。
「一路見えるか!?」
「すっごく空気が淀んでるんだけど! なにこれ気持ち悪い! ってか、この人たち、クルィークの狩人だよ!」
馬上から次々に狩人に向けて光の矢を放ちながら一路が言った。光の矢が刺さった狩人たちはバタバタと倒れて行く。死んだわけでは無い。あの青年同様、体に蔓延っていた黒い霧が失せてただの人間に戻ったのだろう。
真尋は一路の光の矢が狩人を射るのを手助けするように槍を片手に狩人たちの動きを止める。ロークが広い店で良かった、と思いながら店の奥へと進んでいく。不意に何の気配もなく突然、振り下ろされた剣を真尋は槍を平行に構えて受け止める。
艶やかな長い黒い髪がさらりと揺れる。真尋の背後で最後に猪のような狩人が床に倒れる音がした。
「……だれ?」
空っぽの声が問う。
「通りすがりの神父だ」
ニィと真尋は口端を吊り上げて、ザラームの腹に思いっきり回し蹴りを叩き込んだ。ザラームが吹っ飛んで、テーブルセットに突っ込んで行った。それに意識を向けつつ、真尋は店内を見渡す。
「ソニアさん! レイさん!」
「カマル! ジョシュア!」
ほぼ同時に一路と真尋は叫んだ。
店のカウンターの傍には血まみれのソニアとぴくりとも動かないレイが倒れ、片腕でナイフを構えるカマルが安心したように不恰好な笑みを浮かべている。彼のだらりと力の入っていない左腕は血まみれだ。そして、ジョシュアがぐしゃぐしゃの棚のすぐ傍に転がっている。辛うじて意識はあるようで、真尋の声に反応し片手を上げた。
「マヒロ! 後ろ!!」
真尋がジョシュアに駆け寄ろうとした時、ソニアが叫んだ。真尋は咄嗟に横に飛んだ。真尋が居た場所に真っ黒な闇に包まれた剣が降り下ろされた。耳障りな音を立てて床が抉れる。
真尋は、槍を右手に構える。シャラン、と腰のロザリオが揺れる音がした。
間髪入れず振り下ろされた剣を紙一重で避けて、その胴を凪ぐように槍を振りかざす。ザラームはそれ剣ではじき返し、氷の礫を投げつけて来た。それを炎で打ち負かし、首を狙って風の刃を放つ。しかし、それはザラームに触れる寸前で霧散し、串刺しにしてやろうと突き入れて槍は避けられ、ザラームはそれを脇で挟んで捕まえると真尋の動きを封じた。槍がピクリとも動かない。数瞬の睨み合い。風を切る音が聞こえた。真尋はその槍を主軸に風の力を借りて上に飛んだ。ザラームは、一路の放った光の矢を右手で受け止めた。槍が転がる音がした。ザラームの意識が一路に向けられる。真尋はその一瞬の隙を逃さず、手の中に出したティーンクトゥスが呉れたナイフをその肩に突き刺した。返り血が真尋の頬を濡らす。振り返ったザラームの目に初めて感情が宿る。驚愕、そこに浮かぶのは正にそれだった。真尋は、冷たく笑ってザラームを蹴り飛ばした。今度は壊れた棚に突っ込んだザラームに真尋はナイフを構えて隙を伺う。一路は弓を構えて、光の矢を番え同じようにザラームを狙っている。
ザラームがゆっくりと立ち上がった。くるりと振り返った彼の目には真尋への興味があるのが窺える。
「……僕の魔法が、効かない。魔力が……奪えない。どうして?」
「お前如きに俺の魔力が奪えるわけがないだろう」
「それに……その矢、何で出来てるの? ただのライトアローじゃない。ほら見て、こんなになっちゃった」
ザラームが右手を掲げた。その手は火であぶられたかのように焼けただれ、血が滴り落ちている。
「お前には、血が流れているんだな。お前も黒い霧で出来ているのかと思った」
「……なら、あんたが僕のツェルを傷付けた、神父さん、だ?」
ザラームが首を傾げた。
「あれは何だ?」
「あれは僕の影と力から作り出した人形だよ。僕の大事な人形」
「……では質問を変えよう。お前は何者だ?」
「……僕は、……何だろうね、自分でもよく分からない。気付いたらこの世に居たんだ」
ザラームは子どものように肩を竦めた。どうも調子が狂う。まるで幼く無知な子どもと話しているような気分になる。殺気を持たず、しかし、真尋の命を狙って振るわれた剣。現に大事な友人たちはそこかしこで死にかけている。真尋はナイフを握り直す。一路の弓は、一瞬たりとも弦が緩むことは無い。
「……君は、ああ……あの時の従者だね」
一路が僅かに目を眇めた。
「あの貴族役の女の子は、いつも君と一緒にいる子かな」
一路が更に弓を強く引いた。琥珀に緑の混じる眼差しがいつになく鋭く尖り、目線ですらザラームを射抜こうとするかのように鋭く尖る。
「それとさぁ、貧民街で僕のツェルが殺したおじいさん、僕らの秘密を知ってしまったんだけど……もしかしてあの蜥蜴の子に話していたりしたかなぁ」
ティナとサヴィラのことがばれている。どこかで様子を窺っていたのかもしれない。
「……インサニアを生み出したのは、お前か?」
静かに問いかける。
ザラームはきょとんとこちらに顔を向ける。
「あれ? どうして知っているの?」
「インサニアだと分かる前から、あの黒い霧は魔力を奪うことが分かっていた。そして、お前も魔力を奪う得体の知れん魔法を使う。それに色んな事象を繋ぎ合わせれば、自ずと答えは導き出せる」
「ああ、あの何でか助かっちゃったあの騎士の所為か。あのインサニアも随分と弱って戻って来たから驚いちゃった」
ザラームはまるで事の重大さを感じさせない口調で話を続ける。
「まあいいや、カマルも殺し損ねちゃったし……僕も手と肩が痛いし、帰ろ」
そうのんびり呟くと、ザラームはぽいっと剣を投げ捨て、足元に手を翳した。ぼそぼそと呪文が呟かれるとザラームの足元に黒い闇の穴が生まれて広がっていく。
真尋は咄嗟に足元に落ちていた誰かの剣をザラームに投げつけた。ザラームはすぐに気づいて、後ろに飛んでそれを避けた。
「危ないなぁ」
「話はまだ終わっていない。これに見覚えがあるな?」
真尋はアイテムボックスから例の黒い魔石が入った小瓶を取り出して掲げて見せた。
「お前たちのオトモダチの阿呆貴族が置いて行ったぞ、我が家の暖炉にな」
「あーあ、折角、僕が上げたのに。やっぱりあいつも役に立たないね」
ザラームはつまらなそうに言った。
「これは何だ?」
「インサニアの核」
あまりにも素直に答えられて面食らう。
「僕の生み出すインサニアは、本物と比べたら紛いものだよ。だから魔石に僕の力を込めて核にするんだ。それから僕の力が供給されていないとすぐに消えちゃうからね。ちゃんと育てるとその核も取り込んで消してしまうんだ。僕の生み出すインサニアの糧は魔力だよ」
その言葉に真尋は、自分が立てていた仮説が、仮設のままで有って欲しいと間違って居てくれと願ったそれが正しいことを悟る。
「では……貧民街の住人たちを殺したのは、」
握りしめた手が力の込め過ぎで震える。
「力を、その魔力を……得るためかっ?」
ザラームが小首を傾げて、不思議そうに目を瞬かせた。
「だって、そうしないと強くなれないんだもん」
「強くなれない?」
「自然に発生するインサニアより、僕のインサニアは弱いから魔力を上げなきゃ育たない。でもね、魔獣とか魔物よりも人の命を吸うと強く、大きく、濃く、より邪悪になるの。あそこの住人は、この町で疎まれる存在だから、僕の役に立てた方がいいでしょう?」
気付いた時には、振りかぶった拳がザラームの頬を抉るように捉えていた。
吹っ飛んだザラームが壁に思いっきりぶつかってけたたましい音が響き渡る。
「……いったぁ」
転がったザラームが呻くように言った。
「お前が遊び半分に奪った命は、町の奴らには不要でも、誰かにとっては愛する命だったんだ」
「僕にとって大事じゃなければ、意味が無いよ」
ザラームは淡々と告げて起き上がる。
「ねえ、神父さん。明日にはこの町は終わってしまうけど、神父さんの力がどういうものか僕は知りたいって初めて思ったんだ」
「どういう、意味だ?」
そこで真尋は、ザラームが先ほど生み出した闇色の穴がいつの間にか彼の足元に移動しているのに気付いた。
「また会えるよ、じゃあね」
「おい! 待て!」
咄嗟に真尋は駆け出すが、ザラームはあっという間に闇の中に消え、穴もぱちりと閉じてしまった。何の変哲もない店の床が残るばかりだ。
「……ちっ、先に拘束しておくべきだった」
真尋はそう零しながらナイフをアイテムボックスにしまって、ジョシュアの元に駆け寄る。一路は弓矢を降ろしてカマルの元に駆け寄った。
「おい、ジョシュ、大丈夫か? ステータスを開くぞ」
真尋はヒア・ステータスを唱えて、彼のステータスを確認する。MPが一桁になっていて、HPも三分の一まで減っている。黒いローブの男と対峙した時のリックと同じような状態だった。
「……マヒロなら、きてくれるって信じてた」
「今すぐ治癒魔法を……」
「俺はいい。俺はまだ大丈夫だから……先にレイを、ソニアを庇ったんだ……あいつは石を持って居なかったから」
ジョシュアが首を横に振った。途端に痛みに顔を顰めた。太ももがざっくり切られているし、肩の傷も割と酷い。
「お前たちの剣には光の魔石が入ってただろ?」
「最初に黒い霧を切ったら、それで空になっちまったよ……」
「そうか、分かった。ならこれでも握ってろ」
真尋は光の力を込めた魔石を取り出して、ジョシュアに握らせて立ち上がる。一路もカマルに先に「レイさんを」と言われたのかこちらへとやって来た。カマルは腕を抑えながら、なだれ込んで来た騎士団の対応をしている。騎士団が狩人たちを次々に拘束していく。
真尋は、ソニアの隣に膝をつく。
「ソニア、怪我は?」
「あたしの怪我はマヒロがくれた石で治ったんだ、でも、でも、レイが……レイがっ、あたしを庇って……っ!」
ソニアが真尋の顔を見た途端、ぼろぼろと泣き出した。真尋は、大丈夫だ、とその背を撫でる。ソニアが握っていたレイの手を解けば、空っぽになった魔石が転がり落ちた。
「《ヒア・ステータス》」
ブオンと小さな音がしてレイのステータスが開く。
MPが一桁でHPは辛うじて二桁だがゆっくりと減っている。俗に言う瀕死、というやつだ。口元に耳を近づければ、辛うじて呼吸の音が聞こえた。意識は無い。顔色は死人と変わらない。火傷と凍傷の痕が無数に散らばっている。はっきり言って最悪だった。
「何が有った?」
「ソニアさんを庇って、ファイアアローとアイスアローを全身で受け止めたんです。その時に魔力をほぼ奪い取られたんだと」
応えられないソニアの代わりに腕を抑えながらこちらにやって来たカマルが言った。
真尋は、そうか、と頷きレイの胸の上に手を当てる。
「一路、これは俺が診る。カマルを頼む」
「了解」
一路が立ち上がり、カマルに声を掛けた。一路に頼まれて騎士が無事だった椅子を持ってきて、カマルがそこに座る。
「神父さん」
アルトゥロが白衣の裾を揺らしながらこちらにやって来た。見れば、治癒術師たちが狩人たちに治癒魔法を掛けている。
「狩人たちの方は?」
真尋は、レイの服を脱がせて傷口を診ながら問う。アルトゥロが光の玉を出して、手元を照らしてくれた。
「死んでいるものは今の所居ませんが……欠損も酷いですし、生きているのが不思議な程です」
「一路が光の矢を打ち込んだから浄化と同時に多少、治癒が行われたんだろう」
真尋は答えながら、レイの肩の傷口で虫のように這う黒い霧の滓を見つけて目を細めた。アルトゥロもそれに気づいて、首を傾げる。眼鏡のブリッヂを押し上げながら覗き込んだ。
「この傷は?」
「あ、あの男の真っ黒な剣に切られたんだ……」
ソニアが答えてくれた。
やはりそうか、と真尋は納得する。
「そこの馬鹿! その剣に触るな!」
黒い霧を纏ったまま落ちている剣を拾い上げようとした若い騎士は、真尋の声にびくりと肩を跳ね上げて、驚いたように振り返った。
「死にたいなら止めないが、そうでないなら触るな」
「は、はい!」
騎士が慌てて離れたのを見て、真尋はレイの傷口に顔を戻す。
「アルトゥロ、触ってみてくれ」
「はい」
アルトゥロは、何の躊躇いも無く、頼りなく蠢くそれに触れた。アルトゥロの男にしては白く細い指先に黒い霧が絡みつく様に伸びた。
「何でもいい、指先に意識を向けて光属性の治癒呪文を」
「《ヒール》」
擦り傷などに用いられる初歩中の初歩の治癒呪文をアルトゥロが唱えた。だが、黒い霧はアルトゥロの魔法を受けても尚、その細い指にじゃれつくようにして絡みついたままだった。真尋はアルトゥロの手首を掴んで持ち上げ、それに顔を近づける。
ふっと少しの魔力に光の力を吹かして吐息に込めて吹きかければ、黒い霧はさらさらと零れ落ちるように消えていく。
「これは何なんです?」
アルトゥロが首を傾げる。
「俺の仮説が正しければ、インサニアに類似する何かだな」
「へ?」
レイの顔に視線を向ける。血の気を失った顔は青白い。ソニアの縋るような目とかち合って、真尋はレイの手を握りしめたままの彼女の手をぽんと叩いた。
「神父さん、それはどういうことですか?」
「話は全部後だ。先に治療を優先させる」
すっぱりと切り捨てて真尋は、レイに意識を集中させる。ベールを広げて彼の体を包み込むように魔力を込めていく。
「……《ヒール・プリリーフ》」
レイの体全体が淡い金の光に包まれる。傷がじわじわと癒えて行く。真尋はステータスを見ながら慎重に魔力を注いでいく。レイの体はボロボロだ。
「神父さん、レイさんはHPとMPの均衡が完全に崩れています。魔力は三分の一以下までの回復に留めて下さい。MPとHPのバランスが悪過ぎれば、魔力暴走を起しかねない。それだけは避けなければなりません」
意識を切り替えたらしいアルトゥロがレイのステータスを見ながら言った。
「分かった」
しつこく溢れていた血が止まり、凍傷と火傷が癒えて行く。MPが全体の三分の一ほど回復したのを見計らい、魔力を注ぐの止めた。治療だけに専念すれば傷はみるみる癒えて行く。それに比例するようにソニアの瞳に希望が宿っていくのを見つけた。真尋は、少し悩んで傷が八割回復したところで治癒魔法を打ち切った。HPの数値は「27」で止まった。こんな低い数字を見たのは初めてだ。これまで治療したルーカスもリックもここまでHPは削られていなかった。だが、これだけ血を流せば、当たり前かと血だらけの服や床を見て思った。
アルトゥロが淡い紫の透明な液体が入った小瓶を鞄とスプーンを取り出して、スプーンの上にそれを垂らした。少しとろりとしている。
「レイさんを少しだけ起こしていただけますか?」
アルトゥロに言われて真尋はソニアと位置を代わり、レイの頭の下に腕を入れて少しだけ持ち上げた。その口元にアルトゥロがスプーンを運び、口の中に流し込んだ。喉仏がこくりと動く。ステータスを見れば、HPが徐々に回復し始めた。
「それは?」
「回復薬です。これはHPの回復薬です。本来は本人が持つ治癒力や回復力を頼るのが一番です。こういうものや治癒魔法を使い過ぎるとそういった能力は楽をしようとしてすぐに弱まります。でも、今回のように死にかけている場合やあまりに酷い時には呼び水的な意味合いで使用するんです」
「ほう……見せてくれ」
差し出した手に小瓶が渡される。
様々な魔力の均整が完璧に整えられている。何で出来ているかは分からないが、何となく高価なのだろうなと思った。
「マヒロ、レイは?」
くいっと袖を引かれて振り返る。ソニアが不安げに真尋を見上げていた。真尋は、ステータスを見る。干からびそうだったHPは三桁にまで回復し、尚もゆっくりと数値が上昇していく。彼の基礎値が7865なので、まだまだがそれでも最悪の事態は脱したと言えるだろう。
「……もう大丈夫だ。とはいえ、絶対安静だがな」
真尋が安心させる様にそう告げて、アルトゥロがにこりと笑って頷けば、ソニアの両目からぼたぼたと涙が零れた。
「……ああ、神様っ……よか、たっ」
ソニアが彼の胸に突っ伏せば、レイが、呻いた。瞼が痙攣し、黄緑の瞳が現れる。タフだな、と笑いながら真尋は床の血にクリーンを掛けて消す。
魔石でどうにか回復したらしいジョシュアがよろめきながらもこちらにやって来て、アルトゥロの隣にどすんと崩れるようにその場に座った。まだ足の傷が癒えきっていない。子どもたちに渡そうと思って作った魔石だったので、それほど魔力が入っていなかったのだ。それでもジョシュアが歩ける位には魔力が回復したと言うことだろう。
「ソニ、ア」
掠れた声でレイが呼ぶ。
「馬鹿! この馬鹿息子! 馬鹿! 馬鹿! ばかぁ!」
ソニアが駄々を捏ねる子供みたいにレイの胸を力なく殴りつけた。それでも傷に響いて痛いのかレイが顔を顰めたが、真尋にはソニアを止める気がこれっぽっちも無いのですぐにジョシュアの隣へと移動し、彼の足の傷に手を当てる。ルーカスにしたのと同じように治癒魔法を掛けるが、アルトゥロの言う通り、完璧には治さない。しかし、すぐに動けるようにと九割程度の治療で止めた。深い切り傷は浅いかすり傷ほどになった。馬に跨る時に痛そうだなと思った。
「レイの怪我は?」
「ソニアがつきっきりで看病すればすぐに治るさ」
真尋がこそりと告げた言葉にジョシュアは、セピア色の瞳をぱちりと瞬かせた後、悪戯を思いついた子供みたいにくしゃりと笑った。真尋は肩を竦めて返し、治療に専念する。一路の方は無事に終えて、今度はリーフィの手当てと従業員たちの怪我の様子を窺っている様だった。
「神父殿」
掛けられた声に顔を上げれば、先ほど、店先で真尋が槍を借りたエルフの騎士が立って居た。
「ああ……先ほどは、槍をどうも」
ザラームに奪われた後、そのままだったことを思い出す。彼の手には槍が握られていたので、自分で拾ってきてくれたらしい。
ハシバミ色の髪のエルフの男性騎士は、そう年が変わらないように見えるが、その雰囲気はかなり落ち着いている。彼もまたウィルフレッドと同じように右肩から斜めにサッシュを掛けている。真ん中に細く白い線が一本だけ入ったそれは綺麗な常盤色だった。どうやら彼もまた立場ある人間のようだ。槍を借りる相手を間違えたかも知れないとちらっとだけ思った。
「ジョシュアもレイも大丈夫か?」
「ラウラス殿、マヒロ神父のお蔭で俺もこいつもなんとか」
ジョシュアはどうやらこの騎士と顔見知りの様だった。
「真尋くん、こっちの治療は終わったよ。カマルさん以外には怪我も無いし、リーフィは魔力を奪われただけだったからこの通り」
一路の腕の上でリーフィがほーと鳴いた。カマルは、血の流し過ぎで青白い顔をしてはいるものの、リーフィが元気になったからかそのラクダ顔に浮かぶ表情は明るい。
真尋は立ち上がり、ザラームが捨てて行った剣の元へと行く。遠巻きに見ていた騎士たちが、真尋に場所を譲る。真尋は、それに軽く手を挙げて返し、剣の傍らに膝をついた。一路が付いて来て後ろから覗き込んだ。
「うわ、真っ黒。しかもすっごく禍々しくて、気持ち悪い感じ」
真尋はそこまでの感想は抱かなかったが、一路にはそう感じられるらしい。
どこにでもあるようなショートソードだ。
「ザラームが狩人から拝借した剣だ。あいつ自身は、武器というに武器は持ってなかった」
ジョシュアが座ったまま言った。
ラウラス、という名らしいエルフの騎士もこちらにやって来た。
「マヒロー、お前が棒切れの如く振り回してたラウラス殿の槍、おやっさんのだからな。普通は振り回せないからなー」
ジョシュアの面白がるような声に真尋は顔を顰めて友を振り返る。ジョシュアは、明らかに面白がっている。彼がおやっさんと呼ぶのは、ジルコンを指す。つまりラウラスの槍もまた選ばれた人間しか使えない代物という訳だ。一路が睨んでくるがこれは、不可抗力というやつでは無いだろうかと抗議したい。
「……あー、まああれだ、その……無我夢中だったから使えたんだと……いうことにしよう」
真尋は剣を拾い上げて、一路からガラス瓶を貰い、黒い霧をその中に落として蓋をする。言い訳を探しながら、物騒な剣もさっさと浄化してしまう。
「安心してくれ、神父殿。ウィルフレッド団長から、胃の腑を守る魔法の呪文を教わっている。こんなに早く使うことになろうとは思わなかったが……だってマヒロとイチロだからな、で私は無理矢理全部納得するから大丈夫だ」
真尋の気の所為でなければラウラスの目は死んでいた。
――――――――――――――
ここまで読んで下さってありがとうございました!
その内、騎士団の暗黙の了解が「だってマヒロとイチロだからな」になると思います。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。
ジョシュアは、閑古鳥の鳴く店内でムートンの毛を刈りながら言った。開け放たれたままの店の入り口の向こうでは、桶をひっくり返したかのような雨がざあざあと降っている。
ジョシュアに言われてムートンを抑えているレイは、仏頂面でそっぽを向いている。幼いころから変わらない都合が悪い時の彼の仕草にジョシュアは、くすりと笑って毛刈りばさみを動かす。
余りにも雨が酷いからか客が動かず、今日のロークは暇だった。昼下がりの今、従業員たちは殆どが母屋で昼食をとっている。普段なら有り得ないが、朝から客が三人しか来ていないので、今日は特別だ。ジョシュアとレイ以外には、店内にはカウンターの向こうで帳簿を付けるカマルとそれに付き合う番頭、それと魔物たちの世話をしたり、棚を整理したりしている従業員が三人きりだ。それでも魔物たちの鳴く声がするので店内は穏やかな時間が流れながらもそれなりに賑やかだった。
もしかしたら五日前、貧民街で行われた緊急クエストのことも客の足を鈍らせる原因になっているかもしれない。正式な発表はされていないが、人の口にドアは無い。町民たちはアンデットが出たことを知り、怯えているのだ。
アンデットに対応するには、それなりの技量が必要になるのだ。そんなものとは縁のない一般人にとっては脅威以外の何物でもないだろう。家の外に出たがら無いのも頷ける。それにずっと振り続けている雨のせいで町が薄暗いから余計に人々の不安を煽るのだ。
「今日もソニアが来るって言ってたぞ。そろそろ来るんじゃないか?」
ジョシュアは、暗くなりそうな思考を切り替え、ムートンの頭を撫でて、レイに離すように促した。ムートンは、めぇぇ、と鳴いて慌てて立ち上がる。レイが出て行こうとしたので、その肩を掴んで捕まえ、後ろを指差す。
「あと二頭いる」
「……ちっ」
舌打ちしながらもレイは、ジョシュアが教えた通りにムートンを捕まえる。何だかんだこういう素直な所も変わらないなと思う。臆病なムートンは毛刈りをする時、仲間がいると落ち着くので柵の中には三頭のムートンが居る。もこもこの毛を刈られたムートンは、ほっそりとして何だか別の魔物みたいだ。ムートンは冬と早春以外は、毛を刈れるのであまりにも伸びたら刈ってやらないと丸い毛玉みたいになってしまうし、何より夏場は特に蒸れて皮膚の病気になってしまうので要注意だ。
ジョキジョキと鋏が毛を絶つ音は何だか心地が良い。
「……この三年でお前は変わったなと思ったが、そうでもないな。あんまり変わらない」
ジョシュアはムートンに顔を向けたまま言った。
「…………お前が言う、レイはもういない。ブランレトゥで輝いていたAランクの冒険者は、もういない」
硬い声がつまらなそうに言った。ジョシュアは、くくっと喉を鳴らして笑い首を横に振る。
「変わらないよ。そりゃあ、多少ひねくれてるし、拗らせてるなとは思うが……こうやって無視する癖に素直に俺の言う事を聞くところも、サンドロの飯が大好きなところも、なんだかんだソニアを無碍に出来ない優しいところも変わらない」
モーとボヴァンの暢気な鳴き声がする。世話をしていた従業員が、ケラケラ笑ってブラシを掛ける軽やかな音に合わせてボヴァンは、モーモーと嬉しそうに鳴く。きっと気持ちが良いのだろう。
「…………昔から、」
低い声がか細く落ちる。
「空腹が嫌いだった」
ジョシュアはちらりとレイを見やる。レイの母親譲りの黄緑の瞳は、どこか遠くを見つめている。
「俺の腹が鳴ると母さんは、自分の分の飯を呉れた。お前も、ソニアもサンドロもそうだった。でも、父さんは違った。父さんは俺の腹が鳴るとそれが靴磨きの最中だろうが何だろうが、母さんの所に行って「腹が減った!」と騒ぐんだ。うちにはパンの一かけらも無いから母さんが困った顔をすると「俺が腹減ったらから飯を食いに行こう」と俺と母さんをあそこから連れ出してくれたんだ」
低く少し掠れた声が紡ぐ言葉は雨に消えそうな程か弱いものだった。
その低い声は、間違いなく彼が成長し、大人になった証拠だと言うのに何故かジョシュアには忘れていた筈の幼い頃の彼の声が聞こえているようで、毛刈りばさみを操る手が止まる。
「別に食堂やレストランに連れて行ってくれる訳じゃないんだ。大抵、市場通りで買い食いをしたんだ。でも……それが凄く美味しかった。父さんは、同じものを買わない。別々のもんを買って、味見させろって勝手に食べるけど、でも、自分の分も美味しいぞって同じように差し出してくれる。譲り合う訳でも一方的に与える訳でも無くて、美味しいってことを共有する幸せを教えてくれる、そういう人だった。あの家に居ると……そんなことばかり思い出す。もうそんなものはどこにも無くて、分け与える相手すら居ない。思い出すだけ惨めだって言うのに」
こんな風にレイの口から、彼の父、アンディの話を聞いたのは彼が死んで以来、初めてだった。レイは、家族を失う度に家族の話を全くしなくなったからだ。ミモザが元気で明るく笑っていたあの頃でさえ、両親の話は一度たりともしなかった。
ジョシュアは、どう応えようか悩んで、思い出を語りたいならそれに付き合おうと再び毛刈りばさみを動かす。
「ソフィは、アンディの求婚になかなか頷かなかっただろう?」
レイは応えない。けれど、視線がこちらに向けられたのが分かって、ジョシュアは先を続ける。
「ソニアの方がソフィの心情については詳しいけど……まあ彼女なりに色々悩んでたんだと思う。それでも諦めきれなかったアンディが俺とサンドロとソニアに説得するのを手伝ってくれって、ソニアの家にソフィを呼んで、結婚してくれって、土下座したんだ。黙ってろって言われたけど、もう時効だ、時効」
「……土下座」
レイのちょっとショックだという感情の混じった声が聞こえて、ジョシュアはクスクス笑った。
「ああ。潔い程の土下座だった。でもソフィはそれでも首を縦に振らなかった。「レイは貴方の子供じゃない。父親が誰かも分からない。私にとっては世界一愛おしい子だけど、いつか貴方はそれを邪魔に思うかもしれない」って言ったんだ。一夜花の娼婦に限らず高級娼館の娼婦でさえも身請けした後、その子供だけを捨てさせる男も少なくないからな、ソフィはそれが不安だったんだと思う。ソフィにとってお前以上に大切なものは無かったから。そうしたら、アンディは何て言ったと思う?」
ジョシュアは、その時のことを思い出して思わず笑いを零す。顔を上げれば、その先を求めるレイの黄緑の瞳と目が合った。
「アンディは物凄く真剣な顔で「レイは俺の息子だよ! だってそっくりだ!」って言ったんだ」
「は?」
「ソフィが「赤の他人だから似てない!」と言い返したら「そっくりだよ! だって性別が同じ男だし、人族だし、それに俺と同じでソフィのこと大好きだし! あ、俺と同じで甘いもの好きだし! 耳の数も目の数も指の本数だって同じだ!」って言い返した。サンドロが鼻から紅茶を吹いて、ソニアは腹を抱えて笑い出した。俺も腹がよじれるほど笑った」
レイは何とも言えない顔をしている。
彼の中でアンディは美化されている部分があるが、実際のアンディは真っ直ぐで少々阿呆な男だった。
「その返しには、流石にソフィも呆れかえって、困ったように笑ってたよ。その後、二人きりになったアンディたちが何を話して、ソフィがアンディを受け入れたのかは知らないけど、お前の父親は、ソフィに土下座して結婚してもらったんだよ」
ジョシュアは、くすくすと笑いながら言った。
数年ぶりに紐解いた思い出は、あの時と変わらず温かいままだった。あたたかくて優しくて、何度思い出しても笑える。それと同じだけ、どうして死んでしまったのだと思い出の中だけで笑う彼らへの怒りも悲しみも溢れるけれど、でも心の奥底に残るのは、あの時は確かに幸せだったという証拠だ。
「なあ、レイ。俺は変わらないものがあるって、信じてるよ。人の願いも想いも世界も忙しなく移り変わっていくし、俺達の哀しみや幸福なんて、世の中には何も残さないけど……俺達の中には、その悲しみも幸福も永遠に残り続けるものだって信じている。なあ、レイ、そうだろう? お前の中にだって、癒えぬ悲しみの傍らで幸福が変わらずに輝いているだろう?」
故郷を捨てて、愛する人の手を離してでも神への愛を貫いた青年は、その悲しみに囚われてはいなかった。胸を張って、彼は前だけを見ている。でも、時折、愛おしそうに愛する人の話をしてくれる。そのとき彼は、芸術のような美貌に一片の哀しみを滲ませながらも、ふわりと幸せを言葉に、眼差しに、表情に咲かせるのだ。
その強さが、ジョシュアたちには無かった。哀しむばかりで幸せであったことを忘れようとした。彼や彼女たちが、与えてくれた幸せや喜びが確かにこの胸の中にあったのにそれを忘れようとした。そうすれば、哀しみすらも消えると信じていたのだ。それはただ、哀しみが深く色濃くなっていくだけだったのに。
「哀しみなんかに囚われるなよ、お前はミモザが何よりの誇りにしたブランレトゥのAランク冒険者なんだから」
レイは、逃げるように顔を俯けた。
ムートンを掴まえている手が少しだけ震えている。
「そうねぇ、ミモザにとってあんたは、どんな物語に出て来るよりも格好いい王子さまで、英雄だった」
弾かれたようにレイが顔を上げた。
何時の間にやって来たのか、ソニアがムートンの柵に肘をついて、こちらを眺めていた。その顔に浮かんでいるのは、哀しみが隠された優しい微笑みだった。
「あんたがあたしを赦せないのは、仕方がないことだと思う。大事な時にあたしは、あんたの傍にもミモザの傍にも居てやれなかったからさ。でも……」
ソニアが何かを言いかけた時、ガタンッとけたたましい音が入り口から聞こえて顔を上げる。レイの手から逃げ出したムートンが、めぇえと鳴きながら柵の隅へ隅へと逃げ込もうとする。
びちゃびちゃと雨に濡れた足音がいくつも聞こえる。振り返った先に居たのは、クルィークで雇われている狩人たちだった。全員、ずぶ濡れで靴底についた泥が床を汚し、服や髪から滴る水が床に水たまりを作るほどだった。
「下がれ!」
ジョシュアの一声に我に返った従業員たちがカマルが手招きするカウンターの向こうへと逃げ込んだ。
ジョシュアとレイは、柵を飛び越える。魔物たちが不安の声を上げて泣き喚く。カマルのリーフィが体を膨らませて威嚇する。
様子が、可笑しかった。狩人たちは、一言も言葉を発さず、それどころか目の焦点が合っていない。十数人の狩人たちは、言葉にもならない唸り声を上げ、涎を垂らし、ふーふーと獣のような呼吸を繰り返す。
「まるで……あの時の暴漢の様ですね」
肩にリーフィを乗せたカマルが隣にやって来て言った言葉にジョシュアは、腰の剣に手を掛けながら頷いた。
レイがソニアを背に庇いながら、目で説明を求めて来る。
「ここで暴れた通り魔だよ。あんな風に薬でもやっているみたいだった」
「ソニア、カウンターの向こうに隠れてろ」
レイの言葉にソニアが頷いて、カウンターの向こうへと飛び込む。大丈夫だよ、と従業員たちを励ます声がすぐに聞こえて来た。幸い、逃げ遅れた者はいない。目の前の招かれざる客以外は店内に客が居なかったことが幸いした。
「何の用だ?」
ジョシュアは努めて冷静に尋ねる。
だが、狩人たちは答えない。ぎょろぎょろと左右好き勝手に動く目玉が獲物を探す様に動いている。まるで同じだ。あの時の、あの通り魔の青年と同じだった。
「レイ、こいつらは予備動作無しに突然、攻撃してくる。気を付けろ」
「分かった」
レイが右手に大剣を左手に魔力を込める。ジョシュアも同じく剣を抜いて、左手に魔力を溜める。
「……ああ、居た。あれだ」
感情の感じられない冷たい声がしたと思った瞬間、カマルに向けて一斉に魔法とナイフが放たれた。ジョシュアとレイは同時に炎と風の盾を発動し、攻撃を弾き飛ばした。悲鳴が上がり、魔物たちが騒ぎ立てる。
「カマル! 下がってろ!」
「狙いはお前だ! 下がれ!」
ジョシュアとレイの言葉にカマルが後退し始めると同時にその男が、気配も無く音もなく狩人たちの中から現れる。
真っ黒な長い髪から雨の雫が滑り落ちる。
「……ザラームっ」
ジョシュアは思わずその名を口にした。
漆黒を纏う気配のない男は、感情の宿らぬガラス玉のような黒い瞳でジョシュアたちを捉えたのだった。
酷い雨の所為で町は、人影も疎らだった。いつもは賑やかな市場通りも閑散としている。
真尋は、手綱を操りながら視線を周囲に巡らせるが、そこにボルドーの髪の騎士の影は無い。濡れた雨避けの外套が重い。
「真尋くん、一度、戻ろう」
隣に並んだ一路に目を向け、真尋は暫しの逡巡の後、そうだな、と頷いた。
「リック、戻るぞ」
「はい」
騎士団の詰所から馬を借りて来たリックが付いて来るのを確認し、真尋は屋敷に向けて馬の腹を蹴った。
蹄の音が三頭分、雨の音の中に重なるようにして響き合う。
見回りの騎士とすれ違い真尋は目を細める。騎士団内で箝口令が敷かれているとは言え、時折、見かける見回り騎士たちの表情は、どこか緊張し、強張っているのが分かる。どれほどの規模の援軍を連れて出かけて行ったのかは分からないが、町の警備が手薄になっていることは確かだろう。
だが、不思議なことに第二小隊の騎士を一人も見かけない。彼らは現在、町の警邏のみを言い渡されている筈なのだが、どこにもいないのだ。貧民街にも今日は騎士は誰も顔を出していないとウォルフが言っていた。
教会が見えて来て、少しだけ速度を落とす。真尋が手を振れば、屋敷の門が風の力で開かれて、三人はそのまま庭へと入って行く。雑草が刈り取られて、枯れた樹木が取り除かれた庭は、閑散としている。噴水だけが勢いよく水を吹き出していて、ざばざばと水の溢れ落ちる音が雨音を掻き消している。
真尋たちが正面玄関へ近づくと待っていたかのようにドアが開いた。
「イチロさん、おかえりなさい」
「お兄ちゃん、おかえりー!」
顔を出したのはティナとジョンだった。ロビンが嬉しそうに出て来る。一路が「濡れるよ」と騒いだがお構いなしだ。ティナは、アンナに命じられてここに居る。神父さんをサポートしなさいと言われたらしい。
「ただいま、ティナちゃん。変わったことは無い?」
「はい」
一路が声を掛ければティナは、不安そうな顔で頷いた。ロビンはコハクの後ろに飛び乗って、一路に擦り寄る。一路は後ろに手を回してロビンの頭を撫でて馬から降りる。コハクは、大分成長したロビンが重たいのか気にするように後ろを振り返る。
「よく俺達が帰って来たのが分かったな」
「ティナお姉ちゃんと一緒に二階の窓からお庭見てたから!」
ジョンの言葉に、そうかと頷いて真尋は、馬から降りる。リックも馬から降りた。
「ジョン、ノアは?」
真尋の問いにジョンは泣きそうな顔で首を横に振った。
「キース様が色々試してるけど、もうどれも利かないって……一時間くらい前に一度、数値が大きく落ち込んで戻らないって」
ジョンが濡れるのも構わず真尋に抱き着いて来る。真尋は金茶色の髪の小さな頭を撫でて、そうか、と顔を伏せた。
ノアの容体に異変が起きたのは、日の出の頃だった。微熱だったそれが一気に上がり、熱痙攣を再び起こした。おそらく四十度以上の熱が有る。獣人族は、有隣族とは逆に平熱は高いというがノアのそれは異常なほどの高熱だ。ナルキーサスには、覚悟をしてくれと言われた。
「マヒロさん、エディの捜索は私一人でも大丈夫です。今日はもうマヒロさんは、ミアとノアの傍に居て上げて下さい」
「そうだよ。エドワードさんのことは僕とリックさんで探してみるから、午後からは二人の傍に居て上げてよ。ミアちゃんには君しか居ないんだから」
リックと一路に言われて、真尋はジョンの頭をあやす様に撫でながら頷いた。
「ならお言葉に甘えさせてもらう。ティナ、ミアはどうしている?」
「……ノアくんの傍で微動だにしなくて」
ティナが唇を噛み締めて顔を俯けた。一路がその肩を抱き寄せて、慰めるように腕を擦る。
早くミアの傍に行こうとした、その時だった。
「お兄ちゃん、誰か来るよ」
ジョンが空を指差して言った。
真尋たちがその視線の先を追えば、確かに東の空から何かがこちらへとやって来る。よろよろと飛ぶそれは、近づいてくるごとに人の形をしているのが見て取れた。
「鳥系の獣人族の子ども、でしょうか」
リックが目を細めて言った。
「……――っ! ――!」
雨音と噴水の音に阻まれて聞こえないが空飛ぶ少年が何かを必死に叫んでいるのが分かった。少年は、落ちるように真尋たちの前へと降り立った。鮮やかな鶯色の翼をもつ少年は、ぼろぼろと泣きながら真尋たちの元に駆け寄って来る。
真尋はこの少年に見覚えが有った。カマルの店で働いている少年だ。
「神父様、た、大変なんです!」
倒れ込む様に真尋の腕の中に少年が飛び込んでくる。
「どうした? ん? お前、怪我を……っ」
受け止めた拍子にぬるりとしたものが手のひらに触れて真尋は息を飲む。翼の付け根に刃物でつけられたような傷が有った。一路がすかさず手を当てて治癒魔法を掛ける。
「大変なんです! た、たすっ、助けて下さいっ! お店が、旦那様がっ!」
「落ち着け、ゆっくりでいいから」
真尋は少年の背を撫でながら、リラックスを掛ける。少年は真尋の服をぎゅうと握りしめ、泣きながら真尋を見上げる。
「店にクルィークの狩人たちが乗り込んで来てっ、そ、それ、それにつ、真っ黒な綺麗な男の人がっ、レイさんが倒れて、旦那様も大怪我を負って居て、ジョシュアさんがたった一人で戦っているんですっ! それでジョシュアさんが、僕に……神父様が昼には屋敷に戻っている筈だからと……っ! ジョシュアさんも足を切られて、それで、それで……っ」
途中、しゃくりあげながらも少年が必死に紡ぐ言葉に真尋は目を見開く。
「お、お兄ちゃん……お父さん、危ないの?」
ジョンが不安そうに問いかけて来る。いつの間に出てきたのかプリシラは、クレアに支えられるようにして立って居た。リースが不安そうに母親のスカートにしがみついている。
「大丈夫だ。俺と一路がすぐに助けに行く。リック」
「はい」
「この少年を頼む。この屋敷には、俺が実験も兼ねて守護魔法を幾つも重ねて掛けてある。この町で一番安全だと言って良い。ここでプリシラたちを守ってくれ」
「ですが、私も同行を」
リックが食い下がる。
だが真尋が言葉にせず、信頼を込めて見返せばリックは、少しの抵抗の後、こくりと頷いた。真尋は、少年を抱き上げてリックに託す。真尋は一路に顔を向けて頷き合い、愛馬へと再び跨った。一路がロビンに彼らを護るように命令する。
「ジョン、リース、プリシラ、ジョシュアのことは俺に任せておけ。必ず無事に連れ帰る。リック、後は頼んだぞ。その子は念のため、ナルキーサス殿に診てもらってくれ」
「はっ!」
リックが力強く頷いた。
「お兄ちゃん、絶対だよ!」
小指をぴんと立てて真尋に向けたジョンに真尋は、馬上から小指を立てて返す。約束の印にジョンは、泣きそうな顔で笑ってくれた。
「行くぞ! 一路!」
「うん! 急ごう! ロビン、君もティナちゃんと皆を頼んだよ!!」
馬の腹を蹴る。馬の嘶きが雨音を切り裂いて、力強い蹄の音が響き渡った。真尋と一路はロークへと向けて、一心不乱に馬を走らせた。
自分の呼吸の音が酷く大きく聞こえる。
マヒロのくれた魔石は、ジョシュアの魔力が奪われるたびに補給してくれ、傷が出来れば癒してくれていたがそれももう限界だ。傷を治すことも出来ず、ただただ魔力が奪われて行くのを感じながらもジョシュアは、剣を構える。
ジョシュアの後ろにはレイが倒れている。血まみれのソニアが、必死にその名を呼んで自分が持っていたマヒロがくれた魔石をレイに握らせるが彼女を襲った黒い霧を消し、その傷を治し、彼女の魔力も補った石は、根こそぎ魔力を奪われ、全身傷だらけのレイを回復させるには至っていない。それもそうだろう、レイはソニアを庇って全身に炎と氷の矢を受けたのだ。彼の倒れる床に赤黒い血だまりがじわじわと広がっていく。
狩人たちは、死ぬほどの大怪我を負っていると言うのに誰一人として斃れる者は無い。腕を落とされ、足を切られても尚、攻撃を止めようとしない。カマルは辛うじて立って居るが、リーフィを庇った彼の腕も骨が折れて使い物にならなくなっている。リーフィは、魔力を奪われてカウンターの向こうで介抱されていた。
ザラームは、片手に狩人から奪った剣を構えて、ジョシュアと相対している。狩人たちは、ザラームの背後でアンデットのように蠢いている。ジョシュアを斃してから、残りの獲物を狩る為かも知れない。
これだけの騒ぎが起きていると言うのに騎士が来ない。それどころか、外は不自然なほど静かで雨の音しか聞こえてこなかった。
ジョシュアは、口の中に溜まっていた血を床に吐き出して、ゆっくりと息を吐きだす。
「……ザラーム、何が目的なんだ」
「……カマルを殺せと言われたから来た」
ザラームは、事も無げに言った。まるでお遣いを言いつけられた子どものようだ。
怜悧な美貌はまるで人形のようだった。ジョシュアの脳裏に同じように、いやそれ以上の美貌を誇るマヒロの顔が思い浮かんだが、彼は確かに芸術のように美しいがその銀に蒼の混じる双眸には、真っ直ぐで強い意志が宿っている。輝く月夜のような双眸は、彼の美を最大限に際立たせ、彼の内面に秘められた力や強さをその美貌に乗せる。
だが、目の前の男はまるで人形そのものだ。人形のように美しいのではない、美しい人形のようなのだ。涼し気な双眸はガラス玉のように澄み切って感情一つ見当たらない。気配もない。殺気も無い。存在しているのか頭を抱えたくなるような不気味な男だった。
「マノリスの、いや、エイブの指示なのか?」
「そろそろ終焉がこの町に訪れるから。邪魔なものを片付けておこうって言ってたよ」
他人事のようにザラームは告げて剣を振りかぶった。ジョシュアは、それを受け止めて押し返す。また魔力が奪われる。ザラームと剣を交える度、その魔法を受ける度、魔力が奪われて行く。膝をつきそうになるのをぐっとこらえて、意地で立つ。
自分が斃れればそれで終わりだ。ソニアもレイもカマルも従業員たちも皆、死ぬ。
だが、彼が、あの美しい神父さえ来てくれれば、形勢は間違いなく逆転するという自信がジョシュアには有った。その為にソニアが命を賭けて、翼を持つ子どもを外へと逃がし、レイがその体を盾にそのソニアを護ったのだから。
「……お前もあの女も、カマルも……何を持っているの? 僕の力を受けて尚、何故、魔力が無くならない? 何故、この闇に囚われない? 僕はそんな魔法、知らない」
ザラームの左の手のひらに黒い霧のようなものが現れる。最初にジョシュアを襲ったものだ。貧民街でみたインサニアと同じ姿形をしているが、あそこで見たものよりは禍々しさが無い。それはマヒロが与えてくれた魔石の力に阻まれて呆気無く霧散した。仕組みも原理も分からないが、マヒロの言う通り、この闇は光を嫌う。
「光だ。俺は、美しい光を知っている。銀に蒼の混じる、琥珀に緑の混じる、美しく力強い光を知っている。だからお前如きの闇には囚われない」
長い黒髪がさらりと揺れた。首を傾げたザラームは、本当に何も知らない子どものようにジョシュアの目には映った。
「闇は、光を飲み込む。光なんて……弱いものだよ」
視界が霞み始めた。左手で胸ポケットを握りしめる。僅かなぬくもりがだんだんを失われて行き、魔石の力が遂に尽きたのだと悟る。ジョシュアは、ちらりと後ろを見やる。ソニアがレイに握らせる石の光も酷く弱い。カマルに目をやれば、彼もまた首を横に振った。
「まあいいや、殺した後、ゆっくり見せてもらうから」
ザラームはそう言って剣を振り上げた。ジョシュアは、気力だけそれを避けて、風の刃を打ち込んだ。また魔力が奪われる。ザラームはそれを呆気無く吸収し、更に剣を振り上げる。足に力が入らない、辛うじて受け止めたがその威力にジョシュアは、棚へと突っ込んだ。ガシャガシャンとけたたましい音が響き渡った。
霞む視界で血まみれの剣が降り上げられる。だが、指先一つ動かない。魔力の完全な枯渇だ。
煙る意識の中にジョンとリースの顔が浮かぶ。自分の命よりも大事だと言える愛しい命。プリシラの笑顔が浮かぶ。何よりも愛おしいその笑みがジョシュアの生きる意味だ。
駄目だ、駄目だ、ここで死ねない。こんなところでは死ねない。
自分の様な想いを大切な人を失う哀しみを、何より愛する彼らには、幼い息子たちには、まだ知らずに居て欲しい。
「た、て……ジョシュア……誇り高き、冒険者の名にかけ、て……っ」
ジョシュアは、剣を握りしめた。愛する人のために諦めるな。諦めてなるものか。と自分を奮い立たせる。
その時、思い浮かんだのは、何故か祈るマヒロとイチロの姿だった。
「なぁ、神様……もし本当にマヒロの言う通り、見守っていてくれるなら……っ、俺に守る、力を……どうかっ」
その瞬間、ふわりと優しいそよ風が吹き抜けてジョシュアの血と汗で汚れた頬を撫でたような気がして僅かながらも魔力が戻った。ジョシュアは咄嗟に体を横に投げ打った。振り下ろされた剣が床を抉った。
そして、何かがはじけ飛ぶような甲高い音がした。
「何あれ!?」
一路の素っ頓狂な声が上がった。見えて来たロークは黒い靄のようなものに店全体が覆われている。店の前には、騎士たちが居るが中に入ることは愚か近づくことも出来ないのか、立ち往生している。
「一路、一か八かだが、あれに向かって矢を放て!」
「分かった!」
一路が馬の上でアイテムボックスから取り出した弓を構える。ジルコンが作り上げた弓は光の矢を携えて輝く。
「退け!! 道を開けろ!!」
真尋の声に騎士たちが、はっとして振り返り道が開かれる。一路が弓を引く。弦の張る音がして、シュパンッと矢が空を切る音がした。光の矢は真っ直ぐな軌道を描き、ロークの正面玄関へと突き刺さった。次の瞬間、パリーンッとガラスのはじけるような甲高い音が響き渡った。黒い靄が呆気無く霧散する。
「その槍を貸せ!」
真尋は先頭に居た騎士に向かって手を出した。エルフ族の男は、真尋とそう年齢が変わらぬように見えたが、投げ渡された槍に真尋はすぐに興味を失った。
そして愛馬に跨ったまま、真尋と一路は店の中に飛び込んだ。一路は、小型のコンポジット・ボウに持ち替え光の矢を番え、真尋は槍に光の力を籠める。勝手に拝借したが随分と素晴らしい槍は、魔力が滞りなく巡る。
馬から飛び降りて、そのまま向かって来たゾンビのようなガタイの良い男たちを槍でなぎ倒していく。
「一路見えるか!?」
「すっごく空気が淀んでるんだけど! なにこれ気持ち悪い! ってか、この人たち、クルィークの狩人だよ!」
馬上から次々に狩人に向けて光の矢を放ちながら一路が言った。光の矢が刺さった狩人たちはバタバタと倒れて行く。死んだわけでは無い。あの青年同様、体に蔓延っていた黒い霧が失せてただの人間に戻ったのだろう。
真尋は一路の光の矢が狩人を射るのを手助けするように槍を片手に狩人たちの動きを止める。ロークが広い店で良かった、と思いながら店の奥へと進んでいく。不意に何の気配もなく突然、振り下ろされた剣を真尋は槍を平行に構えて受け止める。
艶やかな長い黒い髪がさらりと揺れる。真尋の背後で最後に猪のような狩人が床に倒れる音がした。
「……だれ?」
空っぽの声が問う。
「通りすがりの神父だ」
ニィと真尋は口端を吊り上げて、ザラームの腹に思いっきり回し蹴りを叩き込んだ。ザラームが吹っ飛んで、テーブルセットに突っ込んで行った。それに意識を向けつつ、真尋は店内を見渡す。
「ソニアさん! レイさん!」
「カマル! ジョシュア!」
ほぼ同時に一路と真尋は叫んだ。
店のカウンターの傍には血まみれのソニアとぴくりとも動かないレイが倒れ、片腕でナイフを構えるカマルが安心したように不恰好な笑みを浮かべている。彼のだらりと力の入っていない左腕は血まみれだ。そして、ジョシュアがぐしゃぐしゃの棚のすぐ傍に転がっている。辛うじて意識はあるようで、真尋の声に反応し片手を上げた。
「マヒロ! 後ろ!!」
真尋がジョシュアに駆け寄ろうとした時、ソニアが叫んだ。真尋は咄嗟に横に飛んだ。真尋が居た場所に真っ黒な闇に包まれた剣が降り下ろされた。耳障りな音を立てて床が抉れる。
真尋は、槍を右手に構える。シャラン、と腰のロザリオが揺れる音がした。
間髪入れず振り下ろされた剣を紙一重で避けて、その胴を凪ぐように槍を振りかざす。ザラームはそれ剣ではじき返し、氷の礫を投げつけて来た。それを炎で打ち負かし、首を狙って風の刃を放つ。しかし、それはザラームに触れる寸前で霧散し、串刺しにしてやろうと突き入れて槍は避けられ、ザラームはそれを脇で挟んで捕まえると真尋の動きを封じた。槍がピクリとも動かない。数瞬の睨み合い。風を切る音が聞こえた。真尋はその槍を主軸に風の力を借りて上に飛んだ。ザラームは、一路の放った光の矢を右手で受け止めた。槍が転がる音がした。ザラームの意識が一路に向けられる。真尋はその一瞬の隙を逃さず、手の中に出したティーンクトゥスが呉れたナイフをその肩に突き刺した。返り血が真尋の頬を濡らす。振り返ったザラームの目に初めて感情が宿る。驚愕、そこに浮かぶのは正にそれだった。真尋は、冷たく笑ってザラームを蹴り飛ばした。今度は壊れた棚に突っ込んだザラームに真尋はナイフを構えて隙を伺う。一路は弓を構えて、光の矢を番え同じようにザラームを狙っている。
ザラームがゆっくりと立ち上がった。くるりと振り返った彼の目には真尋への興味があるのが窺える。
「……僕の魔法が、効かない。魔力が……奪えない。どうして?」
「お前如きに俺の魔力が奪えるわけがないだろう」
「それに……その矢、何で出来てるの? ただのライトアローじゃない。ほら見て、こんなになっちゃった」
ザラームが右手を掲げた。その手は火であぶられたかのように焼けただれ、血が滴り落ちている。
「お前には、血が流れているんだな。お前も黒い霧で出来ているのかと思った」
「……なら、あんたが僕のツェルを傷付けた、神父さん、だ?」
ザラームが首を傾げた。
「あれは何だ?」
「あれは僕の影と力から作り出した人形だよ。僕の大事な人形」
「……では質問を変えよう。お前は何者だ?」
「……僕は、……何だろうね、自分でもよく分からない。気付いたらこの世に居たんだ」
ザラームは子どものように肩を竦めた。どうも調子が狂う。まるで幼く無知な子どもと話しているような気分になる。殺気を持たず、しかし、真尋の命を狙って振るわれた剣。現に大事な友人たちはそこかしこで死にかけている。真尋はナイフを握り直す。一路の弓は、一瞬たりとも弦が緩むことは無い。
「……君は、ああ……あの時の従者だね」
一路が僅かに目を眇めた。
「あの貴族役の女の子は、いつも君と一緒にいる子かな」
一路が更に弓を強く引いた。琥珀に緑の混じる眼差しがいつになく鋭く尖り、目線ですらザラームを射抜こうとするかのように鋭く尖る。
「それとさぁ、貧民街で僕のツェルが殺したおじいさん、僕らの秘密を知ってしまったんだけど……もしかしてあの蜥蜴の子に話していたりしたかなぁ」
ティナとサヴィラのことがばれている。どこかで様子を窺っていたのかもしれない。
「……インサニアを生み出したのは、お前か?」
静かに問いかける。
ザラームはきょとんとこちらに顔を向ける。
「あれ? どうして知っているの?」
「インサニアだと分かる前から、あの黒い霧は魔力を奪うことが分かっていた。そして、お前も魔力を奪う得体の知れん魔法を使う。それに色んな事象を繋ぎ合わせれば、自ずと答えは導き出せる」
「ああ、あの何でか助かっちゃったあの騎士の所為か。あのインサニアも随分と弱って戻って来たから驚いちゃった」
ザラームはまるで事の重大さを感じさせない口調で話を続ける。
「まあいいや、カマルも殺し損ねちゃったし……僕も手と肩が痛いし、帰ろ」
そうのんびり呟くと、ザラームはぽいっと剣を投げ捨て、足元に手を翳した。ぼそぼそと呪文が呟かれるとザラームの足元に黒い闇の穴が生まれて広がっていく。
真尋は咄嗟に足元に落ちていた誰かの剣をザラームに投げつけた。ザラームはすぐに気づいて、後ろに飛んでそれを避けた。
「危ないなぁ」
「話はまだ終わっていない。これに見覚えがあるな?」
真尋はアイテムボックスから例の黒い魔石が入った小瓶を取り出して掲げて見せた。
「お前たちのオトモダチの阿呆貴族が置いて行ったぞ、我が家の暖炉にな」
「あーあ、折角、僕が上げたのに。やっぱりあいつも役に立たないね」
ザラームはつまらなそうに言った。
「これは何だ?」
「インサニアの核」
あまりにも素直に答えられて面食らう。
「僕の生み出すインサニアは、本物と比べたら紛いものだよ。だから魔石に僕の力を込めて核にするんだ。それから僕の力が供給されていないとすぐに消えちゃうからね。ちゃんと育てるとその核も取り込んで消してしまうんだ。僕の生み出すインサニアの糧は魔力だよ」
その言葉に真尋は、自分が立てていた仮説が、仮設のままで有って欲しいと間違って居てくれと願ったそれが正しいことを悟る。
「では……貧民街の住人たちを殺したのは、」
握りしめた手が力の込め過ぎで震える。
「力を、その魔力を……得るためかっ?」
ザラームが小首を傾げて、不思議そうに目を瞬かせた。
「だって、そうしないと強くなれないんだもん」
「強くなれない?」
「自然に発生するインサニアより、僕のインサニアは弱いから魔力を上げなきゃ育たない。でもね、魔獣とか魔物よりも人の命を吸うと強く、大きく、濃く、より邪悪になるの。あそこの住人は、この町で疎まれる存在だから、僕の役に立てた方がいいでしょう?」
気付いた時には、振りかぶった拳がザラームの頬を抉るように捉えていた。
吹っ飛んだザラームが壁に思いっきりぶつかってけたたましい音が響き渡る。
「……いったぁ」
転がったザラームが呻くように言った。
「お前が遊び半分に奪った命は、町の奴らには不要でも、誰かにとっては愛する命だったんだ」
「僕にとって大事じゃなければ、意味が無いよ」
ザラームは淡々と告げて起き上がる。
「ねえ、神父さん。明日にはこの町は終わってしまうけど、神父さんの力がどういうものか僕は知りたいって初めて思ったんだ」
「どういう、意味だ?」
そこで真尋は、ザラームが先ほど生み出した闇色の穴がいつの間にか彼の足元に移動しているのに気付いた。
「また会えるよ、じゃあね」
「おい! 待て!」
咄嗟に真尋は駆け出すが、ザラームはあっという間に闇の中に消え、穴もぱちりと閉じてしまった。何の変哲もない店の床が残るばかりだ。
「……ちっ、先に拘束しておくべきだった」
真尋はそう零しながらナイフをアイテムボックスにしまって、ジョシュアの元に駆け寄る。一路は弓矢を降ろしてカマルの元に駆け寄った。
「おい、ジョシュ、大丈夫か? ステータスを開くぞ」
真尋はヒア・ステータスを唱えて、彼のステータスを確認する。MPが一桁になっていて、HPも三分の一まで減っている。黒いローブの男と対峙した時のリックと同じような状態だった。
「……マヒロなら、きてくれるって信じてた」
「今すぐ治癒魔法を……」
「俺はいい。俺はまだ大丈夫だから……先にレイを、ソニアを庇ったんだ……あいつは石を持って居なかったから」
ジョシュアが首を横に振った。途端に痛みに顔を顰めた。太ももがざっくり切られているし、肩の傷も割と酷い。
「お前たちの剣には光の魔石が入ってただろ?」
「最初に黒い霧を切ったら、それで空になっちまったよ……」
「そうか、分かった。ならこれでも握ってろ」
真尋は光の力を込めた魔石を取り出して、ジョシュアに握らせて立ち上がる。一路もカマルに先に「レイさんを」と言われたのかこちらへとやって来た。カマルは腕を抑えながら、なだれ込んで来た騎士団の対応をしている。騎士団が狩人たちを次々に拘束していく。
真尋は、ソニアの隣に膝をつく。
「ソニア、怪我は?」
「あたしの怪我はマヒロがくれた石で治ったんだ、でも、でも、レイが……レイがっ、あたしを庇って……っ!」
ソニアが真尋の顔を見た途端、ぼろぼろと泣き出した。真尋は、大丈夫だ、とその背を撫でる。ソニアが握っていたレイの手を解けば、空っぽになった魔石が転がり落ちた。
「《ヒア・ステータス》」
ブオンと小さな音がしてレイのステータスが開く。
MPが一桁でHPは辛うじて二桁だがゆっくりと減っている。俗に言う瀕死、というやつだ。口元に耳を近づければ、辛うじて呼吸の音が聞こえた。意識は無い。顔色は死人と変わらない。火傷と凍傷の痕が無数に散らばっている。はっきり言って最悪だった。
「何が有った?」
「ソニアさんを庇って、ファイアアローとアイスアローを全身で受け止めたんです。その時に魔力をほぼ奪い取られたんだと」
応えられないソニアの代わりに腕を抑えながらこちらにやって来たカマルが言った。
真尋は、そうか、と頷きレイの胸の上に手を当てる。
「一路、これは俺が診る。カマルを頼む」
「了解」
一路が立ち上がり、カマルに声を掛けた。一路に頼まれて騎士が無事だった椅子を持ってきて、カマルがそこに座る。
「神父さん」
アルトゥロが白衣の裾を揺らしながらこちらにやって来た。見れば、治癒術師たちが狩人たちに治癒魔法を掛けている。
「狩人たちの方は?」
真尋は、レイの服を脱がせて傷口を診ながら問う。アルトゥロが光の玉を出して、手元を照らしてくれた。
「死んでいるものは今の所居ませんが……欠損も酷いですし、生きているのが不思議な程です」
「一路が光の矢を打ち込んだから浄化と同時に多少、治癒が行われたんだろう」
真尋は答えながら、レイの肩の傷口で虫のように這う黒い霧の滓を見つけて目を細めた。アルトゥロもそれに気づいて、首を傾げる。眼鏡のブリッヂを押し上げながら覗き込んだ。
「この傷は?」
「あ、あの男の真っ黒な剣に切られたんだ……」
ソニアが答えてくれた。
やはりそうか、と真尋は納得する。
「そこの馬鹿! その剣に触るな!」
黒い霧を纏ったまま落ちている剣を拾い上げようとした若い騎士は、真尋の声にびくりと肩を跳ね上げて、驚いたように振り返った。
「死にたいなら止めないが、そうでないなら触るな」
「は、はい!」
騎士が慌てて離れたのを見て、真尋はレイの傷口に顔を戻す。
「アルトゥロ、触ってみてくれ」
「はい」
アルトゥロは、何の躊躇いも無く、頼りなく蠢くそれに触れた。アルトゥロの男にしては白く細い指先に黒い霧が絡みつく様に伸びた。
「何でもいい、指先に意識を向けて光属性の治癒呪文を」
「《ヒール》」
擦り傷などに用いられる初歩中の初歩の治癒呪文をアルトゥロが唱えた。だが、黒い霧はアルトゥロの魔法を受けても尚、その細い指にじゃれつくようにして絡みついたままだった。真尋はアルトゥロの手首を掴んで持ち上げ、それに顔を近づける。
ふっと少しの魔力に光の力を吹かして吐息に込めて吹きかければ、黒い霧はさらさらと零れ落ちるように消えていく。
「これは何なんです?」
アルトゥロが首を傾げる。
「俺の仮説が正しければ、インサニアに類似する何かだな」
「へ?」
レイの顔に視線を向ける。血の気を失った顔は青白い。ソニアの縋るような目とかち合って、真尋はレイの手を握りしめたままの彼女の手をぽんと叩いた。
「神父さん、それはどういうことですか?」
「話は全部後だ。先に治療を優先させる」
すっぱりと切り捨てて真尋は、レイに意識を集中させる。ベールを広げて彼の体を包み込むように魔力を込めていく。
「……《ヒール・プリリーフ》」
レイの体全体が淡い金の光に包まれる。傷がじわじわと癒えて行く。真尋はステータスを見ながら慎重に魔力を注いでいく。レイの体はボロボロだ。
「神父さん、レイさんはHPとMPの均衡が完全に崩れています。魔力は三分の一以下までの回復に留めて下さい。MPとHPのバランスが悪過ぎれば、魔力暴走を起しかねない。それだけは避けなければなりません」
意識を切り替えたらしいアルトゥロがレイのステータスを見ながら言った。
「分かった」
しつこく溢れていた血が止まり、凍傷と火傷が癒えて行く。MPが全体の三分の一ほど回復したのを見計らい、魔力を注ぐの止めた。治療だけに専念すれば傷はみるみる癒えて行く。それに比例するようにソニアの瞳に希望が宿っていくのを見つけた。真尋は、少し悩んで傷が八割回復したところで治癒魔法を打ち切った。HPの数値は「27」で止まった。こんな低い数字を見たのは初めてだ。これまで治療したルーカスもリックもここまでHPは削られていなかった。だが、これだけ血を流せば、当たり前かと血だらけの服や床を見て思った。
アルトゥロが淡い紫の透明な液体が入った小瓶を鞄とスプーンを取り出して、スプーンの上にそれを垂らした。少しとろりとしている。
「レイさんを少しだけ起こしていただけますか?」
アルトゥロに言われて真尋はソニアと位置を代わり、レイの頭の下に腕を入れて少しだけ持ち上げた。その口元にアルトゥロがスプーンを運び、口の中に流し込んだ。喉仏がこくりと動く。ステータスを見れば、HPが徐々に回復し始めた。
「それは?」
「回復薬です。これはHPの回復薬です。本来は本人が持つ治癒力や回復力を頼るのが一番です。こういうものや治癒魔法を使い過ぎるとそういった能力は楽をしようとしてすぐに弱まります。でも、今回のように死にかけている場合やあまりに酷い時には呼び水的な意味合いで使用するんです」
「ほう……見せてくれ」
差し出した手に小瓶が渡される。
様々な魔力の均整が完璧に整えられている。何で出来ているかは分からないが、何となく高価なのだろうなと思った。
「マヒロ、レイは?」
くいっと袖を引かれて振り返る。ソニアが不安げに真尋を見上げていた。真尋は、ステータスを見る。干からびそうだったHPは三桁にまで回復し、尚もゆっくりと数値が上昇していく。彼の基礎値が7865なので、まだまだがそれでも最悪の事態は脱したと言えるだろう。
「……もう大丈夫だ。とはいえ、絶対安静だがな」
真尋が安心させる様にそう告げて、アルトゥロがにこりと笑って頷けば、ソニアの両目からぼたぼたと涙が零れた。
「……ああ、神様っ……よか、たっ」
ソニアが彼の胸に突っ伏せば、レイが、呻いた。瞼が痙攣し、黄緑の瞳が現れる。タフだな、と笑いながら真尋は床の血にクリーンを掛けて消す。
魔石でどうにか回復したらしいジョシュアがよろめきながらもこちらにやって来て、アルトゥロの隣にどすんと崩れるようにその場に座った。まだ足の傷が癒えきっていない。子どもたちに渡そうと思って作った魔石だったので、それほど魔力が入っていなかったのだ。それでもジョシュアが歩ける位には魔力が回復したと言うことだろう。
「ソニ、ア」
掠れた声でレイが呼ぶ。
「馬鹿! この馬鹿息子! 馬鹿! 馬鹿! ばかぁ!」
ソニアが駄々を捏ねる子供みたいにレイの胸を力なく殴りつけた。それでも傷に響いて痛いのかレイが顔を顰めたが、真尋にはソニアを止める気がこれっぽっちも無いのですぐにジョシュアの隣へと移動し、彼の足の傷に手を当てる。ルーカスにしたのと同じように治癒魔法を掛けるが、アルトゥロの言う通り、完璧には治さない。しかし、すぐに動けるようにと九割程度の治療で止めた。深い切り傷は浅いかすり傷ほどになった。馬に跨る時に痛そうだなと思った。
「レイの怪我は?」
「ソニアがつきっきりで看病すればすぐに治るさ」
真尋がこそりと告げた言葉にジョシュアは、セピア色の瞳をぱちりと瞬かせた後、悪戯を思いついた子供みたいにくしゃりと笑った。真尋は肩を竦めて返し、治療に専念する。一路の方は無事に終えて、今度はリーフィの手当てと従業員たちの怪我の様子を窺っている様だった。
「神父殿」
掛けられた声に顔を上げれば、先ほど、店先で真尋が槍を借りたエルフの騎士が立って居た。
「ああ……先ほどは、槍をどうも」
ザラームに奪われた後、そのままだったことを思い出す。彼の手には槍が握られていたので、自分で拾ってきてくれたらしい。
ハシバミ色の髪のエルフの男性騎士は、そう年が変わらないように見えるが、その雰囲気はかなり落ち着いている。彼もまたウィルフレッドと同じように右肩から斜めにサッシュを掛けている。真ん中に細く白い線が一本だけ入ったそれは綺麗な常盤色だった。どうやら彼もまた立場ある人間のようだ。槍を借りる相手を間違えたかも知れないとちらっとだけ思った。
「ジョシュアもレイも大丈夫か?」
「ラウラス殿、マヒロ神父のお蔭で俺もこいつもなんとか」
ジョシュアはどうやらこの騎士と顔見知りの様だった。
「真尋くん、こっちの治療は終わったよ。カマルさん以外には怪我も無いし、リーフィは魔力を奪われただけだったからこの通り」
一路の腕の上でリーフィがほーと鳴いた。カマルは、血の流し過ぎで青白い顔をしてはいるものの、リーフィが元気になったからかそのラクダ顔に浮かぶ表情は明るい。
真尋は立ち上がり、ザラームが捨てて行った剣の元へと行く。遠巻きに見ていた騎士たちが、真尋に場所を譲る。真尋は、それに軽く手を挙げて返し、剣の傍らに膝をついた。一路が付いて来て後ろから覗き込んだ。
「うわ、真っ黒。しかもすっごく禍々しくて、気持ち悪い感じ」
真尋はそこまでの感想は抱かなかったが、一路にはそう感じられるらしい。
どこにでもあるようなショートソードだ。
「ザラームが狩人から拝借した剣だ。あいつ自身は、武器というに武器は持ってなかった」
ジョシュアが座ったまま言った。
ラウラス、という名らしいエルフの騎士もこちらにやって来た。
「マヒロー、お前が棒切れの如く振り回してたラウラス殿の槍、おやっさんのだからな。普通は振り回せないからなー」
ジョシュアの面白がるような声に真尋は顔を顰めて友を振り返る。ジョシュアは、明らかに面白がっている。彼がおやっさんと呼ぶのは、ジルコンを指す。つまりラウラスの槍もまた選ばれた人間しか使えない代物という訳だ。一路が睨んでくるがこれは、不可抗力というやつでは無いだろうかと抗議したい。
「……あー、まああれだ、その……無我夢中だったから使えたんだと……いうことにしよう」
真尋は剣を拾い上げて、一路からガラス瓶を貰い、黒い霧をその中に落として蓋をする。言い訳を探しながら、物騒な剣もさっさと浄化してしまう。
「安心してくれ、神父殿。ウィルフレッド団長から、胃の腑を守る魔法の呪文を教わっている。こんなに早く使うことになろうとは思わなかったが……だってマヒロとイチロだからな、で私は無理矢理全部納得するから大丈夫だ」
真尋の気の所為でなければラウラスの目は死んでいた。
――――――――――――――
ここまで読んで下さってありがとうございました!
その内、騎士団の暗黙の了解が「だってマヒロとイチロだからな」になると思います。
次のお話も楽しんで頂ければ幸いです。
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