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本編

第二十五.五話 雨降る夜に

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 ランプの灯りを落とせば、食堂はしんと静まり返って、鮮明になった雨の音が暗闇の中にじんわりと染み込んでいく。
 耳を澄ませば、宿屋故にそこかしこに人の気配や小さな音を感じる。
 ソニアは、手のひらの上に出した小さな火の光を頼りに厨房の火の始末が出来ているかを確認する。厨房の奥にある仮眠室を覗けば、先ほどまで仕込みをしていた最愛の夫が大きな体に不釣り合いな小さなベッドの上で腹を出して眠っていた。あと二時間もすれば起きだして、サンドロは朝食を作り始める。厨房の手伝いが来れば彼は最上階の自室に戻って眠るのだ。

「風邪ひくわよ」

 苦笑混じりに呟いて、毛布を掛け直しソニアは仮眠室を後にする。
厨房から廊下へと出て、窓の木戸が一つだけ開けっ放しなのに気付いた。幸い雨は吹き込んでいないようだったが、朝礼できちんと注意しなければ、と思いながら窓に手を伸ばし、ふと宿の裏の広場になっているところに何か、光の玉がふよふよと浮かんでいるのに気付いて足を止める。厩の庇の下に人の影が有った。
 ソニアは、窓を閉めて裏口へと足を向ける。基本的に山猫亭では一階の出入り口に施錠はしない。夜中に出かける者が有れば、帰って来る者もいるからだ。それに冒険者だらけのここをわざわざ選んで入る泥棒も居ない。
 宿屋と厩の間には広いスペースが有る。本来は馬車や荷車を置くための場所だったが、冒険者たちはそういうものを持たない。故に冒険者たちが組み手をしたり魔法の練習をしたり、天気の良い日は作戦会議をしたりするちょっとした憩いの場になっている。
 しかし、午前二時を過ぎた時間帯、普段なら人影はない。だというのに、淡く綺麗な光の玉がふわふわと浮かんで雨の中、暗闇をそっと照らしていた。その光は、消えたり灯ったりと酷く不安定で、まるで虫のようにふよふよと飛び回っている。

「……俺の故郷では、こんな風に光る虫を蛍と言うんだ。これくらいの小さな虫でな、今くらいの時期になるとああして光る」

 聞こえて来たのは、低く穏やかな声だった。
 ソニアは、山猫の獣人だ。獣人族は、総じて聴覚や嗅覚が人族より格段に優れている。それに猫系の獣人族は、ギフトスキルに夜目というものがある。他の部族に比べれば、僅かな光でもあれば夜であろうとものが良く見えるのだ。
 厩の庇の下にいたのは、案の定、マヒロだった。その隣に毛布に包まる青年が居てマヒロに寄り掛かっている。流石に起きているのか寝ているのかまでは分からない。二人は座っているようだが、そこにベンチなどあったろうかと首を傾げる。

「本当はもっと黄緑と黄色の間のような色なんだが……ああして、淡く弱く光って飛び回る。…………何故光るか? それはまだ分かっていない。威嚇の為とも蛍同士の会話だとも、或は、交尾の相手を探すためとも言われている」

 雨音の中にその声は、優しく響く。
 ソニアは、そこに立ち尽くしていた。マヒロが手を振るたびに小さな小さな光がいくつも溢れて宙を舞い、光は強くなったり、弱くなったりしながら宙を飛び交う。
 とても綺麗だった。綺麗なのに、なんだかとても儚い。ソニアが、そっと出した手は瞬く間に雨に濡れた。けれど、指先にふわりと光の玉が寄って来て、戯れように止まる。指先に触れた光は、不思議と温かい。
 ソニアは、無意識の内に雨の中に一歩を踏み出していた。マヒロは、最初から気付いていたのだろう。ソニアが現れても然して驚きもせずに顔を上げた。
 二人は、木の枝が複雑に絡み合ったベンチに座っていた。

「……そんなもの、ここにあったかい?」

「魔法の応用だ。リックが悪夢ばかり見て寝付けないから、連れ出したんだ。気分転換は必要だろう?」

 そう言ってマヒロは自分の隣に手を翳した。地面からにょきにょきと伸びて来た木が細かな枝を伸ばして瞬く間に椅子になる。マヒロはそこにどこからともなく取り出したコートを乱雑に畳んで敷いた。そういえば、彼らが出す洗濯物は、大きい方の服はいつもぐしゃぐしゃになって放り込まれているのを何となく思い出した。

「座るか? 雨の中に飛ぶ蛍を見るのもいいものだぞ」

「……いいのかい?」

「ああ。ずっと働いていたんだろう? 少し休むと良い」

 マヒロはそう告げて、顔を前に戻した。まだホタルと彼が呼ぶ光は雨の中を舞っている。
 何度見ても美しいと思うその横顔は、今も完璧な美しさを湛えている。すっと通った高い鼻も長い睫毛に縁どられた切れ長の二重の瞳も薄い唇も全てが完璧だ。いっそ、怖いとすら思う美しさが雨とホタルの所為でさらに際立っている。
 言わなければ、と自分を奮い立たせた。マヒロにもイチロにも、家族やジョシュアにも散々気を遣わせたのだから、自分で決着を付けなければ、とソニアは一度、深呼吸をして口を開いた。
 
「…………すまなかった」

 イラつくほど弱々しい声だった。握りしめた手に爪が食い込んで微かな痛みを訴えて来る。

「マヒロたちが、違うことは分かってたよ……会ってたった一日だったけど、でも分かってた。分かってたのに……あたしは、八つ当たりをしてしまった。女将失格だよ」

「確かに、女将失格だな」

 自分で言った言葉だというのに肯定されたことにソニアは、言い知れぬ悔しさを感じて唇を噛み締めた。

「だが、母親としては当たり前のことだったんじゃないか」

 続けられた言葉にソニアは、ぱちりと目を瞬かせた。

「ソニアは、あの木偶の坊のもう一人の母なんだろう? だとすれば、教会は違えど神父という存在を憎く思うことは当たり前だ。息子が傷つけられて、ボロボロにされた原因を早々赦せる訳もないだろう」

 まあ座れ、と促されてソニアは、力なく隣に腰掛けた。
 ソニアの姿を振り返ったマヒロは、冷えるからな、と言って着ていたカーディガンを脱いでソニアの膝に掛けてくれた。彼の肩に寄り掛かって、青年はぼんやりと光を目で追っていた。

「……俺が幼い頃は、母とは上手くいってなくてな」

 唐突に告げられた言葉にソニアは、マヒロを見上げる。
 マヒロは、青年の肩からずり落ちた毛布を掛け直してやっていた。その青年もマヒロの言葉に驚いて彼を見上げていた。

「知っての通り、俺は少し完璧すぎるらしい。だから母は、俺にどう接していいのか分からない様で、弟達が出来るまでは随分とギクシャクしていた。俺は、祖母ほどの年齢の子守に育てられ、母は仕事で殆ど留守だった。だが、俺は薄情なことに、物心つくより前から雪乃に執着していて、父や母にすらあまり興味を示さなかった」

「……ユキノっていうのは、奥さん? そんな小さい頃からずっと一緒にいたのかい?」

「ああ。家が隣同士なんだ。雪乃は俺の一つ年下で雪乃が生まれた時から一緒にいる。どうしてこんなにも惹かれるのか、どうしてあんなにも愛おしく思うのか分からんが、俺には雪乃が必要だった」

 マヒロの視線が彼の左手に落とされた。シンプルな銀色の指輪がその薬指で輝いている。

「だが俺が雪乃に心を注いでいたこともまた、母が距離を作る理由になってしまった。自分が居なくとも息子は大丈夫とな……今思えば、俺は母に構われない寂しさを雪乃と共にいることで埋めていたのかもしれない。……五歳の頃、一路が隣に越してきて、初めて会った時、実に子供らしい子供だと思ったのを覚えている。喜怒哀楽が非常に豊かで、泣いたかと思えば笑って居たり、笑ったかと思えば怒って居たり、なんと忙しい奴だと思った。子どもらしくない発想だと自分でも笑ってしまったほどだ。母もきっと、俺に欠片でもこういう子どもらしさが有れば、帰ってくるたびにあんな複雑な顔はしなくても済んだろうになと……俺は、母が憐れに思えたんだ」

 ざあざあととめどなく降る雨の音がマヒロの声から感情という感情を洗い流してしまったかのようで、ただ淡々と紡がれる言葉が酷く虚しく思えた。

「母は、無表情で無感情で何を考えているか分からない我が子の愛し方が分からなかったんだ。俺を全く愛していなかった訳じゃない。帰って来た時は一番に会いに来てくれたし、また仕事に行くときはいつも俺を抱き締めて頭を撫でてくれた。でも、俺と母の間には、目に見えぬ壁が有った。母が忙しい人で子育てを全て子守に任せていたのも悪かっただろうし、俺が母を恋しがることが無いこともまた悪かった。それに無駄に頭の良かった俺は、仕方がない、と諦めてしまっていた。だが、俺が八歳の時、弟が生まれた。真智と真咲というんだ」

 ふわりと優しい微笑みが落とされた。

「くるくると変わる表情も愛らしい仕草も無邪気な声も何もかも可愛いんだ。赤ん坊は愛されるために丸くふにゃふにゃしているのだと何かの本で読んで、その通りだなと心から思った。母は、その普通の子供を相手にすることで母としての自信を持つことが出来たんだと思う。俺に接する態度が段々と自然なものになって、俺もまた弟達を通して母に接する理由を得た。俺と母の親子としての再出発は、そこからだった。母は、一路や雪乃に俺のことを聞き、俺が何を考え、何を思っているか理解しようとしてくれた。俺も母に色々なことを話す様になった。そして、弟たちが三歳の頃、母が仕事に復帰する頃には、俺と母は普通の母子になっていて俺は母の愛を素直に受け止められるようになった」

「……本当は、寂しかったのかい?」

 ソニアの問いにマヒロは、ああ。と頷いた。

「俺は、皮肉なことに非常に頭の出来が良かった。だから色々なものを知り過ぎて頭でっかちになっていたんだ。本当は母がいないことは寂しかったし、愛されてないと知るのが怖かったのかもしれない。本当はずっと母は愛してくれていたのにな」

 そう言ってマヒロは顔を上げた。

「血の繋がった実の親子だって、出発に躓いて遠回りをするんだ。だから、今からだって遅くないと俺は思うぞ」

 マヒロがくるりと振り返った。銀に蒼の混じる双眸が、酷く優しい光を湛えていて、鼻の奥がツンとする。ソニアは、その目から逃げるように顔を俯けた。
 雨に濡れた空気がしっとりと辺りを包んでいる。

「……あたしの親友のソフィはね、十四でレイを産んだんだ。妊娠した時は、まだ十三だった。今のローサよりも幼かったんだよ」

 ソニアは、膝の上に投げ出されている自分の手をぼんやりと見つめる。

「あたしは、その時、十六歳。丁度、ローサと同じ年だった。あたしは最初、産むことを反対したんだ。十三歳の子供が子供を産むなんて危なすぎると思った。でも、ソフィは絶対に譲らなかった。しまいには、あたしと縁を切るとまで言いだして……結局、あたしは折れるしかなかった。その代わり、一緒に育てようと約束したんだ。無力な小娘の意地だったのに、ソフィは安心したと言って泣き出した」

 大事な親友は、どこか抜けていておっちょこちょいで、でも優しく真っ直ぐで、ちょっと頑固だった。

「……無事に生まれた時はほっとした。勿論、あたしの両親の手助けもあったよ。あの子が検診に通うお金を工面してくれたんだ。そもそも両親もあたしも、うちにおいでと言ったんだが、ソフィは頷かなかった。娼婦の道を選んで、逞しく生きていたんだ。……レイが生まれた時のソフィの顔は、今でも覚えてるよ。凄く幸せそうで、凄く大人びていた。十四歳の少女はそこに居なかった。そこに居たのは、母の顔をした女だった」

「凄いな、レイの母は」

「ああ。凄いんだよ」

 ソニアは、ふふっと笑って頷く。

「初めてレイを抱っこした時は、涙が出たんだ。可愛くて可愛くて食べてしまいたいと言ったら、ソフィは「私もよ」と可笑しそうに笑ってた。あたしが、ソフィとレイにしてあげられることなんて大したことじゃ無かったよ。ソフィは金銭的な援助は断固拒否したからね。代わりにあたしは、家の掃除をしたり、子守をしたり、食事を作りに行ったり……ジョシュアには弟が居るんだけど、一つしか離れていないから、レイの方が可愛かったんだろうね。暇を見つけては、自分からレイの子守をしていたよ。そうやって年月はあっという間に流れて、レイは母親想いの良い子に育った。あたしのことも、もう一人の母親のように慕ってくれていてねぇ」

 遠い昔を懐かしむように目を細める。
 母親譲りの黄緑の瞳、同年代の子どもらより痩せた手が躊躇いも無くソニアに伸ばされることがとても嬉しくて、誇らしかった。ソフィには、レイが生まれた時から自分に何かあった時はレイを頼むと言われていたが、そんなこと言われずともソニアは、ソフィのこともレイのことも守って行くつもりだった。

「ソフィが結婚するって聞いた時はね、恥ずかしい話……大泣きしたんだ。アンディの人柄は良く知っていたし、アンディの恋心を知ってからは応援を惜しまなかったんだ。二人が結婚すると報告に来てくれた時、本当に本当に嬉しくて、これでもうソフィが辛い目に合わなくて済むと、レイが町角で靴を磨かなくて済むんだと、本当に嬉しくて、安心したんだ。事実、幸せそうな彼らを見ているのは、何よりの幸福だった。でも…………アンディは、死んじまった」

 少しだけ声が震えてしまったのを誤魔化す様にソニアは、膝の上で両手を握りしめた。マヒロのカーディガンに皺が寄る。

「……ソフィは、頑張ったよ。頑張って、頑張って、頑張って……頑張りすぎて過労で倒れて一週間で死んでしまった。レイとミモザが最期を看取ったんだ。レイは、あの時も泣かなかった。わんわんと泣くミモザを抱き締めて、覚悟を決めたような顔をしていた。今も後悔しているんだ……アンディが死んだとき、何が何でもソフィたちを家に住まわせれば良かった……っ、友情が壊れたっていいから、お金を渡せばよかった、もっと……もっと……何か、してやれることが有ったはずなのに……っ」

 最期まで、ソフィは、我が子の事ばかりを想っていた。
 亡くなる二日前、高熱を出したソフィは、何度も何度もソニアに「レイをお願い」「ミモザをお願い」「二人を守って」と繰り返し告げたのだ。ソニアは、その時、彼女の手を握りしめて何度も何度も頷いて、何度でも約束した。

「護るって……あたしの親友が自分の命より愛したレイとミモザを護るって、約束、したのに……っ」

 雨がソニアの手を濡らした。ぼたぼたと大粒の雨がソニアの手の上に落ちる。

「……レイとミモザに嫌われてもいいから……憎まれたっていいから、うちに引き取ってしまえばよかったって、何度後悔してもし足りないんだ……っ」

 大きく温かな手がソニアの雨に濡れた手を握りしめた。その手の上にも雨が落ちる。

「……本当に、笑顔の溢れる優しい、子だったんだよ、レイは……っ、母親そっくりの笑顔が……眩しい子だったのに……あたしはそれすら奪ってしまった……っ。ミモザの最期を看取ってやりたかった……っ、レイの傍にいてあの子を抱き締めて上げたかった……なのに、あたしは……肝心な時にベッドの上でくたばりかけてて、何も、何にもしてやれなかったんだ……っ」

 堰を切ったように溢れだした言葉は、雨と一緒に落ちて行く。
 手を包んでくれていた手が頬を拭ってくれて、ソニアは初めて二人の手を濡らしたものが、雨では無く自分の涙と気付かされた。

「……今からだって、遅くない」

 低く穏やかな声が降って来る。

「あの馬鹿も、ソニアも……生きているんだから。抱き締めてやることくらいは、幾らでも出来る筈だ」

 頬を拭うことを止めた大きな手は、再びソニアの手を包んでくれる。
 優しい温もりに涙がとめどなく溢れる。

「ソニアになら、出来るよ。俺を殴った時のソニアは、俺の為に怒ってくれた母と同じ顔をしていたから。俺は昔、夜中にメイドに襲われたことがあったんだが、その時、メイドに対する母の怒り様はすさまじかった。正直、俺も父も引くほど怖かったが……俺は、嬉しくも思ったし、頼もしくも思ったんだ」

 ぐいっと肩を抱かれて抱き締められる。

「ソニアは、俺の母に良く似ている。不器用で優しくて明るく元気で……愛情深く俺を諦めないで愛する努力をしてくれた母に似ている。幼かった俺は、傷つくことを恐れて諦めてしまったのに、母は諦めないでいてくれた。不器用ながらもずっと、愛してくれていたんだ。今からだって遅くない。生きている限り、どうか……諦めないで」

 懇願するように吐き出された言葉に、咄嗟にソニアはマヒロを抱き締めるようにその背に腕を回した。
 十八歳のこの青年は、愛する神様の為に全てを捨ててここに居るのだ。どれだけ強く見えようと、いや、強くあろうとも家族や愛する人々と離れて平気な訳が無いのに。ソニアが彼に八つ当たりをした時、自分が故郷で死んだことになっていると告げたマヒロの声には、まるで感情が見当たらなかった。でも、二度と会えないと告げた時だけ、その声がほんの少し、ほんとに僅かに弱さに揺れたのだ。
 まだ十八歳。どれだけ大人びて見えても、成人したばかりの若い青年なのだ。

「……ごめん、ごめんねっ」

「俺にはもう謝らなくていい。ソニアに殴られたって、然して痛くも無かった」

 ぽんぽんとあやすように頭を撫でられた。
 何でこんなに優しいんだろう、優しくいられるのだろうとソニアは涙が溢れて止まらなかった。

「我が親愛なる神がそうであるように……その命が輝き生き続ける限り、人は愛を求める。だから、ソニアもその身に溢れる愛を我が子らに注ぎ続ければいい。母が子のために怒るのは当然のことなのだから」

 うん、と子どものように頷いて返すことしかソニアには出来なかった。










「……ありがとうな」

 雨の中を彼らの元に行って、第一声、そう告げた。
 こちらを見上げた銀に蒼の混じる双眸は、なんてことは無いと言う様に細められて彼の胸に顔を埋めたまま眠ってしまった妻に向けられた。
 サンドロは、よいしょ、と妻を抱き上げる。獣人族で、その上、剛力を誇る熊系のサンドロにしてみるとソニアは軽すぎて心配になる。

「サンドロは良い女性を妻にしたな」

「へへっ、だろ? 一目惚れして、ジョシュアに無理矢理頼んで接点を持ったんだ。四つも年上だから、年下扱いされて落とすのには骨が折れたんだ」

 マヒロは、そうか、と肩を揺らして小さく笑った。彼に寄り掛かったままの騎士の青年は、どこかぼんやりとした様子で雨の中で舞う不思議な光を見ていた。サンドロの視線に気づいたのか、マヒロが「大丈夫だ」と頷いた。
 彼が大丈夫と言うと本当に大丈夫だと思えてくるから不思議だ。

「朝飯は、お礼に俺が奢る。何が食いたい?」

「いや、朝飯より夕飯にワインを付けてくれ。その方が嬉しい」

「……酒飲みだな、マヒロは」

 自分はこの見た目に反して酒には強くないので、男としては酒に強いマヒロやジョシュアが羨ましい。それにソニアもめっぽう酒には強いのだ。

「ところでサンドロは、インサニアについて何か知っているか?」

「インサニア?……ああ、北の悲劇か」

 唐突な問いにサンドロは首を傾げるもすぐに思い当たって頷いた。

「っても、インサニア自体が謎だからな。アーテル王国の歴史上、何度か発生しているが最悪の被害を出したのは、二百年前の北の悲劇だな。バーサーカー化したゴブリンの群れが、領都を襲って沢山の騎士や冒険者、罪のない人々が死んだ。今も北の悲劇の爪痕は深く残されていて、領都には慰霊碑がある。それに、北の連中は、極端に黒を嫌う」

「黒を?」

「ああ。ええーっと確か、そうだ……バーサーカー化した魔獣に襲わると傷が黒く変色するらしいんだ。それは、死の痣と呼ばれて、治す術がなく、全身に回ると死ぬらしい。とはいえ、俺も良く知らんが」

 サンドロは、それほど勉学は得意では無い。この知識は、勉強したのではなくブランレトゥに来る前の冒険者時代に現地で聞いた話だ。

「……死の痣、か。ふむ、参考になったありがとう」

「そうか? そりゃ良かった。じゃあ俺はソニアが風邪を引く前に寝かしつけて来るな」

「目が腫れない様に、冷やしてやるといい」

「ああ。分かった」

 サンドロが愛しい妻が濡れないようにと大事に抱きかかえれば、マヒロが手を振った。すると水で出来た傘がサンドロの頭上に広がった。

「おお、凄いな。ジョシュの言う通り、マヒロは本当に魔法が上手だなぁ」

 素直に褒めれば、マヒロは肩を竦めた。相変わらずの無表情なので自信はないが、照れているのかも知れないと思った。

「ああそうだ。リックには」

「分かってる。具だくさんのミネストローネをじっくり煮込んであるから、安心しろ」

「ありがとう。サンドロの料理は美味いからな。とはいえ、嫁の手料理には劣るが」

「一言余計だ。そんなのどんな料理人だって勝てないさ」

 サンドロは、ははっと声を上げて笑った。じゃあまた後で、と声を掛けてサンドロは踵を返す。
 そろそろ東の空が白み始める時間だが、分厚い雲に覆われているから明るくなるには時間がかかるだろう。
 裏口から中へと入り、階段へと足を向ける。今日のソニアは、遅番だからゆっくりと眠らしてやりたい。腕の中で眠る妻は、何だかすっきりした寝顔を浮かべていた。それが無償に愛おしくて、身を屈めて涙に濡れる目じりにキスを落とした。

「……ありがとう、マヒロ」

 朝飯は豪華にしてやるからな、と心の中で付け足してサンドロは、ゆっくりと階段を上るのだった。






―――――――――――

ここまで読んで下さって、ありがとうございました!
いつも感想、お気に入り登録に励まされて、元気を頂いております><。
ちょっと自信の揺らぐことがあったのですが、皆さまの感想を見返して元気をもらいました。本当にありがとうございます。

ソニアと真尋が漸く和解しました。
ずっと書きたいシーンだったので、書けて満足です。

次のお話も楽しんで頂ければ、幸いです。
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