称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編

第二十一話 訪れた男

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 紫の2地区にあるクロードの家を後にした真尋は、辻馬車を乗り継いで再び青の2地区の市場通りへと来ていた。
 今日も賑やかな通りを真尋は一人、颯爽と歩いて行く。

「さて、どっちに行ったものか」

 今日は、貧民街へ行ってみようと思ったのだが、青の3地区にあると言われてもブランレトゥの町は兎に角広くてどこにあるのかよく分からない。とりあえず、南に向かって行けばいいのだろうかと思いながら真尋は、先ほど肉屋で買った串焼きを頬張った。何の肉かは分からないがそれなりに美味しい。アーテル王国の食文化がそこそこ発達していることは、美食家である真尋には何よりも嬉しいことだった。欲を言えば、和食が食べたい。さらに言えば、雪乃の作ってくれる味噌汁が飲みたい。我が儘以外の何物でもないので口にはしないが。
 こんなことならクロードにでもジョシュアにでも貧民街の詳しい場所を聞いて来るべきだったな、とささやかな反省をしながら食べ終わった串を手の中で消してしまう。
 あの花売りの少女も今日は、酒場の前に居なかった。やはり只管、南に歩いて行くしかないのだろう。と腹をくくった所で真尋は、顔見知りを見つけてその幸運に僅かに口端を吊り上げた。

「やあ、リック」

 パン屋から出て来た青年に声を掛ければ、ジャムパンを頬張っていたリックがきょろきょろと辺りを見回した。

「こっちだ」

「あ、マヒロさん、こんにちは」

 リックが人好きのする笑みを浮かべて頭を下げた。

「非番か?」

「はい。久々に実家に顔を出しに来たんです。うちはここでパン屋を営んでいるんですよ」

「ほう、ここか?」

「そうです。弟が両親と一緒に」

「……では、ここでいいか」

 真尋は待って居ろと告げてパン屋に入る。それなりに広い店内には、壁際に棚が設けられていて所狭しとパンが並んでいる。次々に焼き上がるパンの良い香りが鼻先を撫でて行く。
 真尋は、店員に声をかけてパンをどっさりと買い込む。会計をしてくれたのは、リックの父だったがあまり似ていない。奥でパンを焼いてる母親の方にリックはよく似ていた。
 店の外に出れば、リックが律儀に待っていてくれた。

「お前、暇か?」

「非番なので……これから帰って鍛錬しようかと」

「よし、なら貧民街に行こう。案内してくれ」

 ぱちりと目を瞬かせたリックが、はぁと間抜けな返事をした。

「何の御用が?」

「この町のことを知りたいだけだ。案内してくれ」

「そりゃあ構いませんが……まあいいです。今日は職務中じゃないので近くまで辻馬車で行きましょう」

 リックが、ふっと苦笑して歩き出し真尋もその隣に並ぶ。リックは、腰に剣を差していて休日というラフな格好だがその態度や姿勢は騎士そのものだ。割と腕が立つのだろう。足の運びや動作の一つ一つが洗練されていて、隙が無い。
 辻馬車に乗り込んで、青の3地区へと向かう。
 辻馬車は、荷車に座席を設けたようなもので向かい合う様にして席が並んでいる。屋根は無く大抵が二頭立てで通りを行ったり来たりしている。乗り降りは、手前の方で行う。乗る時に御者に銅貨を三枚渡せば、どこで降りようと自由だ。
 真尋は、空いていた席に腰掛け隣にリックが座った。
 辻馬車の上には、老婆が一人、親子が一組、若い女性が三人と職人風の男が一人乗っている。

「イチロさんは、ご一緒じゃないのですか?」

「ああ、ロビンのことでカマルに会いに行った。俺は、午前中は友人の所に出かけていたのでな」

「そうなんですか。そういえば、今日、エディがクルィークに行くと言っていたので、もしかしてばったり会ったなんてこともあるかも知れませんね」

 まさかばったり会った上に一路がエドワードの企みに巻き込まれたなどとは知らない真尋は、そうかもな、と軽く頷いて返す。
 動き出した辻馬車は、ガタガタと音を立てながら石畳の上を進んでいく。
 通りは多くの人々が行き交い、馬車や同じ辻馬車ともすれ違う。歩道と車道はきっちりと分けられている。交差点には信号機代わりの物は無いが、広い方の通りが優先と決まっているのか、或は、何かしらのルールがあるのか馬車同士がぶつかるようなことも、あわや、ということもない。

「この町は、広いな」

 真尋の言葉に市場通りを眺めていたリックが顔をこちらに向けた。

「このアルゲンテウス領の領都ですからね。その中でも青の地区は、一番広い地区なんですよ。庶民の生活の場でもありますから」

 真尋は、ほう、と返事をする。

「地区ごとの特色がはっきりしているのだな、この町は」

「そうですね、赤の地区は、宿屋とか武器屋とか冒険者向けの施設が多いですし、地区自体もそれほど広くはありません。黄の地区は職人たちの工房の他に素材屋とかも多いです。緑の地区は我々騎士と魔導師と魔術師の地区で、一般市民の方々は、大通り以外には何かのトラブルや病気や怪我がない限りはあまり来ないかも知れませんね」

「そもそも魔導師と魔術師っていうのは何が違うんだ?」

「根本的な仕事内容は同じです。新しい呪文や薬の開発だとか魔導具の作成など研究職というやつですね。ただ魔導師は光属性を持っていて治癒術師も兼ねているんです。反対に魔術師は、光属性を持たないので、魔導師にはどうやってもなれません。でも、魔導師も魔術師も二つ以上の属性を持っていないとなれないんですよ。それに何より騎士になる以上に頭の出来が問われるので……マヒロさんとイチロさんは、光属性も持っているし、読み書きも完璧だし魔導師になれる素質がありますよ」

 リックが屈託なく言った。

「そもそも、日常的な魔法は兎も角も、属性魔法を完璧に操るのは難しいんです。魔力の消費も激しいですしね。副属性を扱えるようになるにはかなりの修練が必要になります。マヒロさんは、光属性の副属性である治癒をあんなにも完璧に使えるから、本当に凄いです」

 深緑の瞳に純粋な尊敬が混じる。
 真尋は、何となくこの世界に来てまだ九日だとは言い辛くて、そうだな、と曖昧な返事をして濁す。

「マヒロさんはあのレイさんを倒したほどの実力を誇る方ですから、いずれそのお手並みを拝見させていただきたいです」

「……まだ言うか」

 真尋は呆れ交じりに肩を竦めた。

「そりゃあ言いますよ。だって、あのSランクも夢じゃないと言われる程の実力を誇るレイの剣を受け止めたんですよ?」

「激昂している人間は、冷静な判断が出来ない。それだけで大きな隙になるんだ。俺はそこを付いただけだ」

「理屈は分かりますが、実行できるか否かはまた別の話でしょう? 俺は素直に凄いと思います。それにあのジョシュアさんだってあなたの実力を認めているんですから、そうだ、その内、騎士団の方で一度模擬戦などうです?」

「……実に楽しそうな誘いだが、一路が五月蠅い。あれは目立つのを好まんからな。それに……神父という怪しげな職業の俺を騎士団が快く迎え入れるとは思えんが?」

 真尋は目だけをリックに向けた。
 リックは、困ったように眉を下げて小さな苦笑を零した。

「お前も神父を良く思わんか?」

「いえ、私は少なからずマヒロさんの人となりを知っていますから。それに騎士としては、もし貴方が正道に反するというのなら、マヒロさんが何であれ剣を向けるだけです」

「ほう……面白い。この俺を斬るか?」

 くっと喉を鳴らして、口端を吊り上げた。
 リックが、怯えたように肩を跳ねあがらせた。それが面白い反面、深緑の瞳があまりに泳ぐので憐れに想えて、揶揄い過ぎたか、と真尋はいつも通りの無表情に戻す。

「すまんな、揶揄い過ぎた」

 手を伸ばして、ぽんとその頭を撫でた。それに金縛りが解かれたかのようにリックは、はぁぁと息を吐きだした。恨めし気にぎろりと睨まれるのを真尋は軽く受け流す。

「……貴方は本当にただの神父ですか?」

「他にどう見える?」

 問いに問いで返した真尋にリックは、じっと真尋を観察するようにじろじろと見る。

「どこかの、やんごとない家柄の方、とか……或は、秘密組織の長とか王家の諜報部員とか」

「ははっ、お前は実に想像力が豊かだな」

 真尋は思わず声を上げて笑ってしまった。
 リックが、頬に朱を走らせて睨み付けて来る。騎士の時と違って、実に青臭い少年のような反応に真尋は、再びその茶色の髪をくしゃくしゃと撫でた。

「俺は、遠い地から参ったただの神父だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 リックは真尋の手の下で、絶対に嘘です、とぼやきながら唇を尖らせた。
 そうこうしている内に目的地に近くなって馬車を降りて、こちらです、と歩き出したリックに続き、真尋は貧民街へと向かうのだった。




 薄暗い。それが貧民街に対する真尋の第一印象だった。
 ブランレトゥの町を囲う背の高い石壁の所為で、貧民街は昼だというのに薄暗い。風が抜けないせいかどこか淀んだ空気が立ち込めていた。
 貧民街は青の3地区の尤も南、壁の所為で日が当たらない所にあった。一応、木でできた柵で貧民街と一般街は分けられていたが、貧民街の近くもまた貧しい人々が住んで居るのだという。ブランレトゥは北へ行けば行くほど豊かで、南に行けばいくほど貧しくなるのだ。

「元々は、普通の地域だったんですが……長い歴史の中で町が広がり、壁も高くなり、日が当たらず風も通らぬこの場所はいつしか貧しい人々が暮らす地になったんです」

 あばら家のような家々が並んでいる。風でも吹けば倒れそうな家々は、ここの住人たちが自力で作ったものだという。石で出来た家もちらほらあるが屋根が落ちていたり、壁が崩れていたりとまともなものは一つも無い。さらには四隅に木の棒を立てて、そこに布を掛けただけの粗末な家もあった。空気が淀んでいて、それに何かが饐えたような鼻につく臭いが辺りに立ち込めていた。
 貧民街に暮らす人々は、どこか目が虚ろで表情が暗い。髪もぼさぼさで襤褸服を纏い痩せ細っている。
 あばら家の玄関先に座った老婆など、生きているのかどうかも良く分からない。白く濁った眼が虚空をじっと見つめている。すれ違った男は足を引きずっていて、真尋たちを一瞥すると路地裏へと消えていく。
 地球にも似たような場所は山ほどある。日本にだって同じような生活をする人々がいる。
 きっと国が違えど、次元が違えど、一定数、こういった場所は有るし、そこに暮らす人々が居るのだろう。

「ここに居るのは、人族や獣人族、有隣族が殆どです」

「何故だ?」

「ドワーフ族やエルフ族は、長命ですし、帰ることの出来る里があります。妖精族もまた里がありますので」

「つまりここは、帰る場所の無い者が行きつくところか」

 真尋の言葉にリックは、はい、と何とも言えぬ顔で頷いた。
 貧しさ、というのはどの次元にあっても、魔法の国や機械の国であっても、必ず存在するものだということを真尋は実感する。平等であることほど難しいことは、他に無いだろう。

「孤児もたくさんいるのか?」

「はい。ここには一夜花ノッテフィオと呼ばれる娼婦が多く、その女たちが産み捨てた子供や事故や病で親を亡くした子供などが多いです」

「孤児たちは、どうやって生きているんだ?」

 リックと並んで歩きながら真尋は問いを重ねる。

「町角で靴を磨いたり、ゴミ捨て場を漁って古物屋に持ち込んだり……掏摸や盗みを働いたりと様々です。青の市場通りなんかでよく商売をしていたり、騒ぎを起こしたりしますが……町の人々も余程の事でなければ騎士団には届け出を出しません。盗まれるのは大抵が、食料ですから」

「そうか……この町は、良い町だな」

 真尋の言葉があまりに意外だったのか、リックが深緑の瞳を瞬かせた。

「憐れむ心が残っているだけ豊かだということだ。本当に貧しい町であれば、パン一つ盗んだだけで殺されることだってあるんだ」

 真尋は足を止めて、丁度、あばら家から出て来た女性に声を掛ける。まだ若いのだろうが生活からくる疲労が彼女を老けて見せた。女性は疲れ切った顔で訝しむ様に真尋を見上げた。彼女の後ろには、小さな男の子がいた。

「夫人、すまないが聞きたいことが有るんだが」

「……なんだい?」

「俺はこの町に最近やって来た神父で真尋というものだ。これは俺の友人だ」

 女性は庇う様に男の子を後ろに隠した。その目は、真尋が何者であるかを見極めようとするかのように、じろじろと不躾な視線を寄越す。リックが真尋の後ろでオロオロしている。

「ミア、という名の孤児を知らないか? 獣人族で兎の耳を生やしている。砂色の髪に珊瑚色の瞳の少女だ」

「……さあ。孤児なんてここには山ほどいるんだ。知らないね」

「そうか。ありがとう」

 女は礼を言われるとは思っていなかったのか、面食らったような顔をした。真尋は、鞄からリックの実家で買った白パンを四つ取り出して女性に差し出した。

「礼だ。これしかないが受け取ってくれるか」

 女は暫し迷っていたが、細い手でパンを一つ受け取った。女性の片手より少し大きな白パンは、やわらかでふわふわだ。女性はパンを撫でて、その荒れた唇に皮肉とも安堵ともとれる緩い弧を描いた。

「こんな、柔らかいパンは何年振りかねぇ」

 遠いどこかを懐かしむ様に目を細めた女は、そのパンを後ろに隠れていた息子に渡した。息子は、子どもらしく顔を輝かせると大事そうに小さな両手でパンを抱え込んだ。
 
「……あんたの探す孤児は知らないけど、ここから少し行ったところに二階建ての木造の廃墟が有って、その中に数人の孤児が固まって暮らしているよ」

「孤児が?」

「ああ。そこに居る有鱗族の十二、三歳の子供が貧民街の孤児たちのリーダーなのさ。名前は、サヴィラ。顔に薄茶と茶色の鱗が有るからすぐに分かると思う。尤もこの時間にいるかどうかは分からないけどね、いつもは町に出て何かしているみたいだから」

「いや助かった。ではこれを」

「え」

 驚く女を他所に真尋はその手を取って残り三つのパンを渡した。
 真尋は、もう一度、礼を言ってリックに声を掛けて歩き出す。リックがぺこりと女性に頭を下げると慌ててついて来た。

「……何故、パンなんですか?」

「金でも構わんが……金は食えんだろう。そうなれば町へ出てパンを買わねばならん。ここの出身というだけでじろじろ見られるだろうし、ここから町は遠いからな。だったら最初から現物支給にしようと思ったまでだ」

 真尋の答えにリックは分かったような分からないような返事をした。真意を測りかねているらしかった。
 それから少し行くと女の言った通り、二階建ての廃墟があった。粗末な建物で雨風をしのぐことが出来るかどうかも怪しかった。生憎とリーダーと思しき少年は居なかったが、十歳くらいの女の子が、ミアの居場所を知っていた。彼女は、弟と二人で暮らしているのだという。
 真尋はまたもパンをどっさりと置いて、ミアの元へと向かう。

「ミアという孤児とどこで出会ったんです?」

「昨日、市場通りでな。花売りをしていて、花を買ったんだ」

 当たり障りのない話をしながら、貧民街を進んでいく。

「そういえば、変死体はここで見つかっていたんだったな」

「はい。場所はバラバラですが、十一名の遺体がここで発見されています」

「ここの治安はどうなっている?」

「良くも悪くもありませんよ。騎士団が定期的に見回っていますし、ここで悪さをしても得られるものはありませんからね。盗みに入っても金は無いですし、町の人々はわざわざここには来ませんから。とはいえ、柄の悪い連中が隠れて居たりするのも事実です。でも十一名とも周囲に争ったような形跡はありませんでしたし、争う様な声を聞いたという話もありません」

「……そうか。それ以外にここ最近、貧民街で起きた事件はあるか?」

「通り魔が三件ほど報告されています」

「そういえばあの時もそんなこと言っていたな」

 真尋は、ロークで男が暴れた時、リックがそう言っていたのを思い出した。確か、その内の一件は若い女性が犠牲になって、犯人は皆、自殺したと。

「…………実は、あの時の男なのですが、」

 リックが周囲を見回した後、声を潜めた。真尋は、さりげなく周囲に視線を巡らせた後、リックを掘っ立て小屋の影へと誘う。真尋が黙ったまま目だけで先を促せば、リックが慎重に口を開く。

「以前、ロークのライバル店、クルィークで働いていたらしいんです。男は名をルイというのですが、五年ほど前から、親が借金を残して蒸発し、クルィークで働きながらその借金の返済をしていたそうです。ですが三年前、ある日突然、店を馘になって借金返済の目途が立たずに貧民街に落ちたそうです。普段は、日雇いの仕事をしながら暮らしていたらしく、商業ギルドでもそれは確認できました。最も男が派遣されていたのは、黄の2地区に工房を持つ大工職人の所で話を聞けば、口を揃えて「真面目で誠実な良い奴だ」というんです。商業ギルドでも派遣先からの評価が高いので、重宝していたそうです。それにその大工の親方が、自分の所に来ないかと誘って居て、ルイも良い返事をしたのだと」

「つまり、ロークで暴れる理由が無いということか?」

「というよりあのような騒ぎを起こす理由がありません。彼自身も貧民街を漸く抜け出せる身だったのに、何故あんなことをしたのかと首を傾げるばかりで……薬物検査もしましたが完全な白です。それに犯行当時の記憶は一切なく、当日の朝、仕事に出かけようとして、気付いたら治療院のベッドの上だった、と」

 真尋は、ふむ、と顎を撫でる。

「ロークに恨みでもあったのか、と問いかけても接点が無かったので心当たりも無い、と。クルィークでは主に裏方仕事をしていたらしいです。ただ、クルィーク側は、そんな男は居なかったと言っているので……ルイの証言全てを信じる訳にもいかないんですがね」

「それでお前は、休日返上でルイの痕跡をここまで探しに来た訳か?」

 リックがバツが悪そうに苦笑を零した。

「……ここの人々は仲間意識が強くて、その上、騎士があまり好きでは無いんです。だから私服の方が怪しまれないかな、と。しかし、マヒロさんは鋭いですね」

「いや、お前の父親が言っていたんだ。パンを買った時にお前の話をしたら「バカ息子も仕事熱心なのも良いが、わざわざ休みの日に貧民街なんざ行ってねぇで娼館にでも行って女の一人二人作ればいいのに」とな」

 リックが、父さん、と呻きながら恥ずかしそうに顔を伏せた。茶色の髪から覗く耳が赤くなっているのを見つけて、真尋はくすりと笑った。

「女の一人二人いないのか? 休みの日まで仕事とは、さもしいな」

「大きなお世話です。マヒロさんだって独り身でしょう!」

 悔しそうに噛みついて来たリックに真尋は左手を見せる、薄暗い路地でも永遠を誓った銀の指輪は輝いている。

「俺は既婚だ。雪乃という妻がいる。この指輪は俺の里では、結婚の証だ」

「なっ、はっ」

 がしりとリックに手を掴まれた。深緑の瞳が指輪を凝視する。

「嘘だと言って下さい! マヒロさん、俺より年下じゃないですか!」

「甲斐性に年齢は関係ないだろう」

 それはそうですが、と力なく言ってリックが項垂れた。真尋は、やれやれと肩を竦める。
 不意に真尋は、後頭部の辺りに鋭い視線が向けられたのを感じて、目を細める。真尋は、通りを背にして立っていて、リックが真尋の真正面に立っている。

「リック、俺かお前を見ている奴がいる。通りの方だ」

 真尋の手を握って私だって結婚したいと嘆いていたリックが、嘆いた情けない顔のまま、深緑の瞳にだけ鋭さを取り戻して視線を走らせた。

「……子どもです。男の子だと思いますが……有鱗族ですね。肌に鱗が浮いています。もしかしたら、先ほどの女性が言っていた孤児のリーダーかも知れませんね」

「サヴィラ、だったか?」

「はい。私も名前だけは聞いたことがあります。貧民街じゃ名の通った悪ガキで、孤児たちをまとめ上げているらしいんですが……あ、行ってしまいました。どうしますか? 追いかけますか?」

「いや、いい。それよりさっさとミアの所に行こう」

 真尋はリックの手から自分の手を抜き取り、踵を消す。
 狭い通りには、薄汚れた肌の老婆が杖をついてとぼとぼと歩く姿があるだけだった。小さな鼠の魔物が数匹通りを渡って路地裏の向こうに消える。もうどこからも視線は感じない。
 
「何だったんでしょうね」

「あの家に居た女の子から、孤児を尋ねて来た男が居たと聞いたんじゃないか?」

 そう返して真尋は歩き出す。リックが、そうかもしれませんね、と頷いてついて来る。
 ミアの家は、孤児たちの家からそう遠くない場所に有った。通りから細い路地を通った先にある小さな小屋のような家だった。そこに数件、似たような家が並んでいて、そこかしこに人の居る気配はあるが、いやに静かな場所だった。中央の少し開けた所には井戸があった。
 真尋は、井戸の中を覗き込む。光の玉を放り込めば、井戸はまだ生きているようで水がキラキラと光りに反射した。川縁の町であるから、少し掘れば水が湧くのかもしれない。
 真尋は、そのまま進んでいき、一番奥にある家の間に立った。風が吹けば壊れてしまいそうな、粗末な家だった。戸の横に窓があるが、ガラスが当の昔に失われていて布がぶら下げられている。
 こんこん、と辛うじて形を保っている戸を叩いた。家の中には、微かに人の居る気配がある。

「ミア、いるか? 昨日、花を買わせてもらった神父だ」

 少しの間を置いてぱたぱたと小さな足音が聞こえた。だが、戸ではなくその横にあった窓の布が揺れて、ミアが顔を出した。白い兎の耳がぴょこんと飛び出してくる。真尋が髪に差してあげた花がまだ咲いていた。
 珊瑚色の瞳が真尋を捉えると不安がほろりと溶けて、その小さな顔に安堵が滲んだ。ミアは、ひょいと慣れた様子で窓から出て来た。真尋の隣に見知らぬ青年がいることを少し警戒している様だった。

「ミア、これはリック。俺の友人だ」

「初めまして、ミア」

 リックが人好きのする笑みを浮かべて丁寧に頭を下げれば、ミアもぺこりと頭を下げた。

「あ、あの……クッキー、ありがとうございました」

 ミアが真尋を見上げて言った。珊瑚色の瞳は、どこまでも真っ直ぐで清らかに澄んでいる。

「俺の方こそ、間違って買ってしまったから困っていたんだ。甘いものは苦手でな」

 真尋は、ミアの小さな頭を優しく撫でた。真尋の大きな手にすっぽりと収まってしまう。小さな頭だった。

「これ、取らなかったのか?」

 真尋はミアの耳の上にある瞳と同じ珊瑚色の花に触れた。少しだけ萎れてしまっている。
 ミアは、こくりと頷いた。

「神父さまがくれたから。それにね、昨日、神父さまの言った通り、お花がぜんぶ売れたの」

 ミアが嬉しそうに言った。
 真尋は、そうか、と微かに笑って頷き、花に触れた。今度は少し多めに魔力を注いでおく。再び息を吹き返した花にミアがますます嬉しそうに笑った。その笑顔は、こんな薄暗い路地でも輝いているように見えた。

「ミアぁ! ミアぁ!」

 家の名から泣き叫ぶ幼い声が聞こえて、ミアの耳がぴょんと立つ。真尋とリックが顔を向けると窓からミアによく似た小さな男の子が顔を出して、ミアを見つけると転がり落ちるように出て来て、ミアに抱き着いた。ミアが、小さな手でその小さな体を受け止める。

「ノア、どうしたの?」

 ひっくひっくとしゃくりあげながら、真尋の手のひらほどの大きさも無いような小さな小さな手がミアの服をきつく握りしめた。ミアは、慣れた様子で泣く幼子を受け止めて、よしよしとその背中を撫でる。ミアと同じ砂色の髪に白い兎耳の生えた本当に小さな男の子だ。一歳か二歳くらいに見える。

「ミア、この子は?」

「私の弟なの。私が離れるとすぐに泣くから、いつも大変なの」

 そう言いながらもミアの表情は柔らかい。真尋はしゃがみこんでノアの顔を覗き込む。ノアは、知らない人間が居ることに驚いて益々ミアにしがみついた。

「ノア、この人は、昨日の甘くておいしいのをくれた、神父さまよ」

「ノア、初めまして。真尋という神父だ」

「私はリックです、よろしくね」

 膝に手をついて屈みこんだリックも自己紹介をする。ノアは、ミアにしがみついたまま、僅かにこちらを振り返る。翡翠色の綺麗な瞳が涙に濡れている。真尋は、その目を見つめて、穏やかに微笑んだ。ミアの小さな手が自分と同じ白い兎耳の生えた頭を撫でる。
 ノアは、やっぱりすぐに顔をミアに押し付けて隠してしまった。どうやらかなり人見知りのようだ。ジョシュアの二番目の息子のリースを思い出す。あの子もなかなか真尋たちに懐いてくれない。

「ごめんなさい、ノアはとっても泣き虫で……」

「大丈夫だ。俺の友人の息子もこんな風に泣き虫なんだ」

 真尋がそう告げて立ち上がったその時だった。

「きゃぁぁああああ!」

 絹を裂くような女の悲鳴が静かだった路地裏に響き渡った。真尋は咄嗟にミアとノアを背に庇い、リックが腰の剣を引き抜いて構える。
 真尋たちが先ほどやってきた路地の方が騒がしくなり、リックが駆け出していく。近くの家々からも人々が何事かと顔を出した。

「ミア、ノア、家の中に入って、これを被って隠れていろ。あとこれも預かっておいてくれ」

 真尋は鞄に手を突っ込んでローブを取り出してミアに被せた。このローブも一路の鑑定の結果、それなりの守護が施されていることが分かったのだ。邪魔になるだろう鞄もミアに預ける。ミアは、こくりと頷いた。真尋はノアごとミアを抱き上げて窓の中に押し込んだ。
 ミアが家の中にしっかりと入ったのを見届て騒ぎの方へと駆け出した。





 路地から飛び出すと足元に血まみれの老人が倒れていた。危うく転びそうになって真尋は、老人を跨ぐように飛び跳ねた。振り返った先で老人は、首から大量の血を流していて、既に息絶えていた。
 カンッと鉄と鉄のぶつかり合う音が聞こえて顔を向ける。リックはかすり傷だらけで、服がボロボロになっている。左肩を深く切られたのか、彼の左半分が血まみれだ。
 何事だ、と首を傾げながらリックの睨む先を目で追えば、黒いローブを纏った人間がだらりと両手を投げ出す様にして立っている。その右手には、錆びた剣が握られていて、血が滴っている。間違いなく足元に転がる老人を殺したのはあいつだろう。ここからでは、体格から男であることくらいしか分からない。
 辺りに武器になるものはないかと見回すが棒切れ一つ落ちていない。
 リックが一歩を踏み込んで剣を振り下ろす。投げ出されていた右腕が瞬時に対応し、その剣は弾かれた。カンカン、と剣がぶつかり合う音が辺りに響く。住民たちが建物の物陰や家の中から様子を窺っている。

「リック! 危ない!」

 ローブの男が投げ出されていた左手に濃密な魔力を溜め込んでいるのに気付いて叫ぶ。それは躊躇うことなくリックに向けられる。真尋は咄嗟にリックに体当たりをかまして、二人して通りの上に転がった。その直後、リックが居た箇所に鋭利なナイフように尖った氷が大量に放たれていた。それは真っ直ぐに飛んでいき目の前にあった石造りの家を粉々に砕き、家の崩れる音が通り一体に響き渡った。

「野次馬をしている場合じゃない!! 今すぐに逃げろ!!」

 真尋の声が響き渡ると同時に住民たちが悲鳴を上げながら逃げ出した。
 ローブの男が逃げ惑う人の群れをぼんやりと支線で追っているのが窺えた。顔が見えないのでやはりこれも推測でしかないが、顔が人々の方に向けられているのだ。

「大丈夫か?」

「は、はい……すみません」

 リックがかろうじて返事をする。背中を強かに打ち付けたのか、眉を寄せながら体を起こした。全身に切り傷があるがどれもこれも浅いが、やはり切られた左の肩は傷口が深く、そこの出血が酷かった。真尋は敵を警戒しながらその肩に手を当ててとりあえずの応急処置をして、リックに肩を貸して立ち上がらせて物陰へと連れて行く。
 あばら家の影に座らせて壁に寄り掛からせる。

「ま、マヒロさんも、早く逃げ……」

 はぁはぁと浅い呼吸を繰り返しながら青白い顔でリックが言った。
 真尋は、彼がそれでも離さなかった剣をその手から抜き取る。

「借りるぞ」

「だめで、す。逃げて、くださ」

 リックが深緑の瞳を丸くするのに小さく笑みを返して立ち上がり、ローブの男の元へと戻る。
 そいつがゆっくりとこちらを振り返る。目深にかぶったローブのせいでやはり顔は見えない。その手にも黒い手袋が嵌められていて、皮膚が何色なのかすらも分からなかった。
 真尋は、剣を右手に構えて左手に男がしていたように魔力を溜め込む。
 そいつは、異様だった。はっきり言って殺気が無い。殺気も無ければ気配も無い。ローブが宙に浮いているようだと言っても良いかもしれない。ただそこに存在しているだけ、目に見えているだけとも言えた。

「この手のタイプの剣はあまり得意ではないんだがな……」

 ぼそりと呟いて、真尋は一歩を踏み込んだ。真正面から振り下ろした剣が錆びた剣に受け止められる。そのまま真尋は一気に猛攻を駆ける。薙ぎ払うように、叩きつけるように、突き刺すように剣を操り、攻撃を仕掛ける。その全ての攻撃が錆びた剣に受け止められるが、リックの手入れが行き届いた剣と錆びたボロ剣では、圧倒的に強度に差が出る。ひびが入ったのを確かに感じた。折れるのも時間の問題だ、と更に攻撃を仕掛けていく。
 だが真尋の隙を狙って、氷や風の刃が放たれる。真尋はそれを左手で生み出す水の盾や炎で打ち消して応戦する。火花が飛び散り、真尋が避けた氷や風の刃が家々に当たって崩れる音が絶え間なく響く。
 突然、何の予備動作も無く回し蹴りが繰り出された。真尋はそれを上に飛び上がることで紙一重で避けて、逆にその足を踏み台にしてそいつの背後に飛んだ。そしてそのまま袈裟懸けに背後から切り付ける。確かに手応えを感じた。吹き出す血を避けるつもりで足に力を入れたのに、そいつから噴き出したのは、鮮やかな血では無く、瘴気のようにどす黒い霧のようなモノだった。

「なっ」

 真尋は思わず息を飲んだ。思わず足が止まる。
 黒い霧は真尋に向かってまるで高波のように襲い掛かって来たが、それは真尋に触れると儚く散って消えていく。真尋は意を決して、それを風を纏わせた剣で薙ぎ払った。黒い霧が一気に霧散して、ローブの男の姿が露わになる。
 背中を斜めに走る傷口から溢れているのは、間違いなく血では無い。黒い霧のようなそれがぶわりぶわりと溢れている。

「お前は一体……」

 ローブの男は、振り返ると真尋に向き直り、ゆっくりと後退していく。真尋は、再び剣と魔力を構えて臨戦態勢に入る。

「顔を見せろ」

 男は何も答えない。今も尚、男から殺気も気配も感じられない。
 不意に男が足を折り曲げると勢いよく地を蹴り上げて屋根の上に飛び乗った。そして、屋根から屋根を伝う様にして逃げ出す。男の手から投げ出された剣がカラン、と音を立てて転がった。
 真尋は咄嗟に男に向かってあるものを投げつけた。白い折り紙の小鳥が男の後を追って飛んでいく。
 真尋は、そこへ駆け寄り、錆びた剣を拾い上げる。
 血がべっとりとついていることを覗けば、とくに珍しい所のある剣では無い。ひびが入っている剣身は今にも折れてしまいそうだった。真尋は、それを腰のベルトに差して、リックの元に戻る。リックは、青白い顔で立ち上がり、眩暈でも起こしたのか倒れそうになったのを真尋が抱き留めるようにして受け止めた。

「おい、どうした?」

「わ、かりま、せん……酷い、眩暈が……まるで魔力が……な、」

「おい!」

 リックの体から力が抜けて、ずしりとその重さが増した。肩口も止血は成功しているから、もう血は流れていない。しかし、リックは青白い顔で荒く浅い呼吸を繰り返している。首筋に触れるが脈はしっかりとしている。だが触れた首筋は、氷のように冷たくなっていた。
 真尋は、仕方がないとそのままリックをその場に寝かせる。

「《ヒアステータス》

 呪文を唱えれば、リックのステータスが開く。とは言ってもこれは治療用の魔法で、ステータスを見ることが出来る。ただ表示されているのは、名前と種族、年齢、職業、そしてMPとHPだけだ。

「MPが異常に減っている」

 真尋は、リックのMPが5しかないことに気が付いた。HPが半分以下になり、MPは5しか残っていない。
 自分のステータスを開いて確認するが、魔法を使った分は減っているが、正常値の範囲内だ。そんな大規模な魔法でも使ったのだろうか、と首を傾げつつ、真尋はリックの魔力の回復を開始する。両方のステータスを開いたまま、治療を行っていく。
 だんだんとリックの顔に血の気が戻り、呼吸が安定し始める。MPの基礎値の九割が回復したところで手を止めて、肩の治療にあたる。

「マヒロさ、ん?」

 名前を呼ばれて顔を向ければ、早々に意識を取り戻したらしいリックの深緑の瞳がこちらを見ていた。

「今、肩の傷の手当てをしている」

 真尋は水の球を作ってそれに浄化をかけて聖水にし、リックの肩口の傷を洗っていく。リックが痛みに眉を寄せたが、声は出さなかった。傷口が綺麗になった所で聖水で清めた両手を当てて、呪文を唱え、傷口を塞いでいく。傷痕が跡形も無く消え去ったのを確認し、彼の胸に手を当てて、全身に魔力を伸ばし、そこかしこに出来た浅い切り傷を治していく。
 ステータスの中の真尋のMPは然程、減っていない。

「リック、お前の魔力は5しか残っていなかったが、何があった?」

 真尋は、治療をしながらリックに問いかける。出しっぱなしだった彼のステータスを彼に見えるように動かす。リックが自分のそれを見ながら首を横に振った。

「分かりません。ただ剣を交える度に、力が抜けていったんです」

「魔力を奪われた、ということか?」

 真尋が手を離すと深々と息を吐きだしてリックが体を起こす。

「無理はするな。起きて平気なのか?」

「はい。少し、血が足りない様な気がしますが、気絶するほどではありません。それより、あの遺体を」

 リックが顔を向けた先には、あの老人の死体が転がっている。真尋は、リックが立ち上がるのに手を貸す。

「これは返しておこう」

 真尋がリックの剣を返せば、リックはすみませんとそれを受け取り、腰の鞘に戻した。
 二人は老人の元に近付いて行く。騒ぎが静まったからか、戻ってきた人々が遠巻きに老人を囲んでいた。
 真尋たちが、近づけば人垣が割れて道が出来る。
 頸動脈がばっさりと切られている。辺りは鉄臭い血の臭いが充満して、夥しい量の血液が地面に広がって血溜まりを作っていた。人族に比べ嗅覚の優れた獣人族が鼻を抑えて顔を顰めていた。中には嘔吐しているものまでいる。
 
「私は今は私服ですが、クラージュ騎士団の騎士です」

 リックの言葉に住民たちが顔を見合わせる。

「この中で、この者を知っている人はいますか?」

 リックが声を上げれば、ざわめきが大きくなり、少しして一人の中年女性が手を挙げた。

「ダビド爺さんだよ」

「貴女は?」

「あたしは、シグネ」

 シグネは、極力、ダビドの方を見ないようにしながら懸命に口を動かす。

「ダビドさんに家族は?」

「いない。一人暮らしだった」

 シグネが首を横に振った。リックは、取り出した手帳に証言をメモしていく。
 真尋はその横で、老人の様子を観察する。老人の顔には怯えが広がっていて、目はカッと見開かれ、口が大きく開いている。首の前がぱっくりと切られていて、尚且つ、左側に向かって傷が開いているということは、真正面から切り付けられたのだろう。老人の顔の様子からしても、おそらく、あのローブの存在を認識し恐怖してから殺されたのだ。この老人は、あのローブの正体を知っていたのだろうか。

「一体、貧民街ここで何が起こっているんだ?」

 真尋の呟きは、喧騒の中で目立たずに消えていく。

「どなたか、この方が誰かをトラブルを起こしたとか、何か恨まれているとか、そういった話を聞いたことのある方はいますか?」

 リックの問いかけに住民たちは、お互いに顔を見合わせ、首を捻って囁き合う。
 再び口を開いてくれたのは、シグネだった。

「ダビド爺さんは……こんな風に恨まれるような爺さんじゃないよ。こんな場所でも、誰にでも優しい爺さんだったんだ。爺さんに助けられた人間は大勢いても、爺さんを恨むような人間なんていないよ。なのに……こんな、こんな風にっ」

 シグネが言葉を詰まらせた。
 周りの住人達もシグネの言葉を肯定して頷き合い、何かに耐えるように顔を俯けた。中には涙を零している者までいる。
 真尋は、再びダビドに顔を向けた。光を失った目は恐怖に見開かれたまま空を仰いでいる。

「おい! 何事だ!!」

「リック!」

 聞こえてきた声に顔を向ければ、騎士団の制服を着た人間が四人、人垣の向こうから現れる。男性が三人と女性が一人だった。女性が先頭に立ってこちらにやって来る。
 彼らは、血まみれのリックの目を見開き、真尋の足元に横たわる遺体に気付くと息を飲んだ。その顔に緊張が走る。

「リック、酷い怪我じゃないか!」

 赤みがかった金の髪の背の高い女性がリックに駆け寄る。獣人族らしい彼女の頭には、ライオンの耳が覗いていた。

「いえ、確かに傷は負いましたが既に、マヒロ神父様が手当てをしてくださいましたので、平気です。この通りです」

 リックが少し屈んで傷口のあった場所を仲間に見せた。覗き込んだ騎士たちは驚きに顔を見合わせて、こちらを振り返る。真尋は立ち上がり、丁寧にお辞儀をする。

「ティーンクトゥス教教会の神父、真尋だ」

「……君が? レイを負かしたっていう?」

「負かすも何も勝負はギルドマスター預かりになったからな、何も起こってはいない」

 真尋は首を横に振って答える。
 女性騎士は、思案顔になったがすぐに前に出て来て手を差しだしてくる。

「挨拶が遅れて済まない。私は、クラージュ騎士団第二小隊隊長のカロリーナ二級騎士だ。こちらは、私の隊の者だ」

 真尋はその手を握り返して握手を交わす。カロリーナの紹介に三人の騎士が頭を下げた。
 カロリーナの瞳は、燃えるような赤だった。少々きつめの顔立ちとライオンの獣人ということもあってか、威厳がある。彼女の犬歯が人族に比べると随分と鋭いのに気付いた。その体格もかなりがっしりとしている。
 カロリーナが指示を出せば、三人の騎士たちが老人の遺体の元に駆け寄り、現場検証を始める。

「一体、何があったか説明して欲しいんだが?」

「それが私達にもよく分からないのです」

 リックが言った。

「後でその辺は説明しますが、私とマヒロさんは顔見知りで、今日、市場通りで偶然会ったんです。それで案内を頼まれてここに来ました」

「神父殿は、何の御用があってここに?」

「知り合いの孤児を尋ねて来た。昨日、市場通りで花を売っていた少女でミアという。すぐそこの裏通りに家が有って、俺とリックはそこを尋ねて、ミアと話しをしている時に悲鳴が聞こえてリックが先に現場に駆け付けた。俺はミア達を家の中に入れてから、こちらに。その時には既にあの老人は事切れていて、リックが犯人と思われるローブの男と剣を交えていた」

 カロリーナがリックに視線を向ける。リックが、真尋の言葉を肯定するようにして頷いた。

「間違いありません。私が通りに飛び出した時にも老人は既に……血まみれの剣を持ったローブの男が傍に立っていて老人を見ていたんです。声を掛けた所、突然、切りかかって来て戦闘になりました。向こうはかなりの手練れでマヒロさんが来てくれなければ、私は死んでいたと思います」

 カロリーナが細い眉を吊り上げてリックを睨んだ。

「リック三級騎士、随分と気弱な発言をするな。仮にも誇り高きクラージュ騎士団の者が、一般市民である神父殿に助けを求めるなど……」

「いえ、カロリーナ小隊長。そういうことではないのです。剣技だけなら私やカロリーナ小隊長でもあれは倒せたでしょうが……そうではないのです」

 リックの言葉にカロリーナが訝しむ様に首を傾げた。

「リックは、魔力の殆どを奪われていたんだ」

 真尋の言葉にカロリーナがますます首を傾げる。

「剣を交える度に、体から何かが奪われる様な異様な感覚に見舞われて、マヒロさんが助けてくれなければ、私は男の放った氷の刃で串刺しになっていたでしょう」

 リックが振り返った先に有るのは、男の氷の刃のせいで崩れた石造りの家だった。カロリーナは、驚きをその顔に浮かべた後、真尋を振り返る。

「本当か?」

「ああ。俺が治療に当たったから間違いない。治療のためにリックのステータスを開いたところ、MPは5しか残っていなかった。HPの減り方は怪我の具合などを鑑みても正常値の範囲内といえただろうが、俺の見る限りリックは魔法を使って居た様子も無いのに、MPが殆ど残っていなかったんだ。俺がした治療は、肩の傷の治療とMPの回復だ」

「……そうだったのか。マヒロ神父殿は、治癒術師としてかなりの腕をお持ちの様だな」

「否定はしないが、あくまで俺は神父で、それ以上でもそれ以下でもない。後で必ず治癒術師に診て貰ってくれ」

「カロリーナ小隊長」

 駆け寄って来た短髪の騎士にカロリーナが顔を向ける。

「死因は、頸動脈を切られたことによる失血死です。被害者の名前は、ダビド、すぐ近くの家に独りで暮らしていて、親族などはいないそうです」

「そうか。何か異常は?」

「一見しただけでは特には見当たりません。目撃者の話によるとダビドさんが家から出て来て、この通りを歩いていたところ、突然現れたローブの男がダビドさんに剣を向けたそうです」

「ああ。そうだった。剣で思い出した。これがそいつの持っていた剣だ」

 真尋は腰にぶら下げたままだった血まみれの錆びた剣をカロリーナに渡した。カロリーナはそれを受け取ると血まみれの剣身を観察し始める。

「ひびが入っているな。こんなもので良く切れたものだ」

「ひびを入れたのは俺だ」

「は?」

「俺は見ての通り、丸腰だ。リックから剣を拝借して、ローブ男と戦ったんだ。その時、剣を叩き折るつもりで攻撃したので、ヒビが入ったんだ。向こうは魔法も駆使してきて、風と水の使い手であることは間違いないだろう」

 カロリーナはまたもリックを振り返った。リックが頷くと再び真尋に顔を戻す。

「まさか、マヒロ神父殿が行ったのは、治療だけでは無い?」

 どうやらカロリーナは、真尋が戦ったとはつゆほども考えていなかったようだ。

「私はてっきり、マヒロ神父殿が現れて、向こうは逃げたのかと……戦ったのか?」

「ああ。リックから剣を借りてな。その際に少し周辺の建物が壊れてしまった。これらを壊したのは風と氷の刃の防ぎきれなかった分だ……怪我人がいないことが幸いだ」

「駄目だ。頭がこんがらがっている。ここでは話がまとまらん。マヒロ神父殿、すぐ近くの詰所までご同行願えるか? そこで詳しい話を聞きたい」

「構わないが、尋ねて来た孤児の無事を確認したい。リックと後から行っても構わないか?」

「大丈夫だ。リック、一番近い詰所にいるから用が済んだら神父殿と一緒に来てくれ」

 リックが、はい、と返事をする。
 騎士の誰かが魔法で作ったのか、蔓で作られた担架に乗せられたダビドの遺体がこちらにやって来た。真尋が手を上げて止まるように制すれば担架が目の前で止まる。
 ぱっくり空いた傷口からは今も尚、血が僅かに溢れて滲んでいる。血の気を失った真っ白い顔は恐怖に歪んだままだった。辺りを見回せば、先ほどよりもその目に涙を浮かべている人間が増えている。
 ダビドの目尻には深い皺が刻まれている。そこに彼の人生が刻まれているような気がした。

「……目を閉じてやっても良いだろうか?」

 カロリーナに問えば、カロリーナは、神妙な顔でああ、と頷いた。
 真尋は、ダビドの両目を覆うように手を当てて、ゆっくりと見開いたままだった瞼を閉じてやる。手の下に感じた体温はほどんと失われてしまっていて、この亡骸がだんだんと冷たくなっていくのを感じる。真尋の手から移った温もりなんて瞬きをする間に消えてしまうだろう。
 真尋は、腰からロザリオを外して構える。

「ダビドの清らかなる魂が我らの愛するティーンクトゥス神の御許に無事に辿り着き、安らかなる眠りと果てない幸福を与えられますように。ダビドの魂に導きの風を」

 ロザリオのガラス玉の中で真尋の蒼にも銀にも見える魔力が淡く輝き、柔らかな優しい風が貧民街の通りを駆け抜けていく。それは不思議と貧民街独特の嫌な臭いも纏わず、まるで森の中を吹き抜ける風のように爽やかで、優しく穏やかに人々の髪を揺らした。
 皆の視線が吹き抜けた風を追う様に晴れ渡った青い空に向けられた。どこまでも青く青く澄んだ空は、皮肉な程に今日も綺麗だ。不意に何か光り輝くものが一瞬、見えたような気がしたがそれは気の所為だったかも知れない。けれど、今の風は間違いなくティーンクトゥスが与えてくれたものだろうと真尋は胸に温かなものを感じる。

「ティーンクトゥス神の深い愛と優しさに感謝を」

 真尋は両手を組んで祈りを捧げてから、ロザリオを腰に戻す。

「……顔が、」

 騎士の呆然とした呟きに顔を向ける。血を失い白くなった肌もその生々しい傷口にも変化はないが、苦しみに歪んでいた筈の顔に浮かんでいたのは安らかな寝顔だった。少し微笑んでいるようにも見えた。声を掛けたら起きるのではないのかと、そう錯覚するほどに穏やかな表情をダビドは浮かべていた。
 目じりに刻まれた深い皺は、きっと笑い皺が深く深く刻まれたものだったんだろうと真尋は思った。

「ああ……ダビド爺さんの、いつもの優しい顔だ……っ」

 シグネが泣きながら笑って、ダビドの頬を慈しむように撫でた。
 覗き込んでいた住民たちが、良かった、良かったと声を上げて泣き始めた。

「……神父殿、あなたは一体……」

 カロリーナが呆然と問うてくる。

「俺は、ただの神父だ。それ以上でもそれ以下でもない。だが……安らかな眠りを与える事もまた、我々の役目の一つなのだろう」

 同じ言葉を繰り返して、真尋は小さく穏やかに微笑んだ。



―――――――――――― 

ここまで読んで下さってありがとうございました!!
いつも感想&お気に入り登録、日々の励みになっております><。

真尋の方でも事件が起きてしまいました。

次のお話も楽しんで頂けると幸いです♪
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