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本編

第七.五話 薄暗い住処にて

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 男は、縺れそうになる足を必死に動かした。忙しなく繰り返される呼吸に肺が軋んだ音を立てて痛みを訴えて来る。
 シトシトと弱い雨が降っている。生ごみの嫌な臭いが満ちる路地裏に足音がバタバタと反射して、夜が少しだけ騒がしくなる。

「く、来るな! 来るな!!」

 真っ黒だ。それはただただ真っ黒でそれ以上でもそれ以下でもない。
 霧が集まったかのように儚く頼りないのに、その中心に抱いた闇の何と濃いことだろうか。夜の闇だって、あんなに黒くは無い。光で照らしたって、あの闇は晴れない。
 無我夢中で逃げ込んだ路地裏の細道は、無情にも壁が前に立ちはだかって逃げ場を失った。
 それが近づいて来る。

「ひっ、ひぃぃぃぃい!!」

 目についた壊れた桶を投げつけた。
 それを通り抜けた桶が路地の向こうでガタンッとやかましい音を立てた。
 迫って来る。なけなしの魔力を込めてファイアボールを放った。真っ赤な炎は闇に吸い込まれて呆気無く消え去った。
 それは消えない。去らない。倒せない。
 闇が迫って来る。
 光の届かない深い深い闇が男に覆いかぶさった。
 氷のように冷たい何かが口の中に押し入って来る。体の奥底にあったそれが無理矢理に引きずり出されていき、同時に想像を絶する苦しみに胸を掻きむしる。自らの爪が肉を抉るその痛みがますます苦しみを大きくしていく。

「ぁ、ぁ、ぁあああぁぁあああああ!!!!」

 男の断末魔が響き渡った路地裏に残ったのは、苦悶の表情を浮かべて横たわる、事切れた男の亡骸だけだった。


***


「今月に入って、何人目だ?」

 路地裏の最奥で、苦悶の表情を浮かべて転がる亡骸にエドワードはそう零す。年のころは、五十代半ばかそれより少し若い位の白髪交じりの中年男性だ。ここは、アルゲンテウス領最大の町・ブランレトゥの貧民街スラムだ。この男もまたこの貧民街に住む人間の一人だろう。生憎とギルドカードを持っていない男の身元は今の所分からない。
 エドワードはアルゲンテウス辺境伯の領地を守るクラージュ騎士団に所属する三級騎士だ。隣には相棒で同じく三級騎士のリックがいて、遺体の傍にしゃがみ込むと襤褸切れのようなシャツの襟を白い手袋を嵌めた手ではだけさせる。

「心臓の発作か?」

 エドワードは、皮膚を深く抉り、シャツを赤く染めるほど掻きむしられた傷痕に眉を寄せた。男の骨の浮いた手は血まみれで爪には肉や皮膚がこびりついている。
 リックは、眉間にしわを寄せて目を細める。

「今月に入ってもう十一人目だぞ。それも全員、貧民街ここで見つかっている上にここの住民だ。流行病の可能性も否定出来なくなっている」

「心臓の発作の流行病なんて聞いたことが無いぞ?」

「だが三日前の遺体も、同じような傷痕のある遺体だった」

 リックが馬につけてあった荷物から遺体を包むためのシーツを取り出して広げる。エドワードはそれを手伝うためにシーツの端を掴んだ。

「確か、お前がガスとの見回り中に見つけたやつか?」

「ああ。ここからそう離れていないゴミ捨て場だ。十代の娼婦だったんだが同じように胸に掻き毟った痕があって、酷く苦しんだような顔をしていた」

 リックの手が男の顔に伸びて、見開いたままだった瞼が下ろされた。

「その娼婦は、道端で男を引っ掛ける一夜花ノッテフィオだったんだが、娼婦の遺体を引き取りに来た一夜花ノッテフィオ仲間の女たちが口をそろえて、病一つ無い元気な娘だったと言っていたんだ」

「でも、心臓の発作なんて、突然起こるもんだろう? 俺の大叔父は、死ぬ直前まで使用人を怒鳴りつけていたんだぜ」

「お前の大叔父さんは、こんな風に胸を掻きむしったのか?」

 エドワードは、顎に手を当てて記憶を探る。覚えている限り、大叔父の胸にこんな傷痕は無かった。

「大叔父は、うっと声を漏らして倒れてそのまま死んだらしい。苦しんだのは一瞬だったと怒鳴られていた使用人達が言っていた」

「だろう? たった三週間の間に十一人全員が同じような傷痕と苦悶の表情を浮かべて死んでいるんだ。身元の分かった八名は、直前まで元気だったと家族や近所の人間が言っている。全員の死因が心臓発作じゃあまりにも偶然が重なり過ぎている。それこそ新種の病だろう? 彼らは貧民街の住む住人という以外共通点は無いんだ。死体を検分したコシュマール殿は想像を絶する痛みか苦しみに彼らが襲われたんじゃないかと言っていた。流行病だけじゃなく、毒とか禁止薬物の可能性も否定できないともな」

 そっちを持て、と言われて遺体の足を掴み、リックが男の脇に腕を入れてシーツの上に男を移動させる。
 昨夜、雨が降っていたからか男のズボンは泥が跳ねて湿っていた。

「コシュマール殿って……魔導院のあの変態魔導師院長? リック、知り合いだったのか?」

「俺なんかが知り合いな訳ないだろ? 隊長が報告した時に教えてくれたんだ。それに一応、変態だが偉い方なんだから言葉遣いに気を付けろよ」

「変態を肯定したお前に言われたくない」

 エドワードは立ち上がり、シーツに包まれた男に向かって手を振って呪文を唱える。そうすれば、男の体が立ち上がり、リックが手早く専用のベルトを肘あたりと腰、膝の三か所に巻いていく。そしてエドワードがもう一度、呪文を唱えてシーツに包まれた遺体は、馬の上に横たわる。リックが呪文を唱えれば、蔵から生えた蔓が男の体に巻き付いて固定される。愛馬は、背中の荷物が気にくわないのか、この陰気な路地裏が気にくわないのか少々不満顔だ。

「後でニンジンやるから我慢してくれ」

 エドワードは愛馬の鼻筋を撫でて、綱を掴み歩き出す。リックがそれについて来る。

「此処の所、貧民街はどうにも不穏だ」

「そういや、通り魔も三件、報告されてるな。二件目は、若い女が犠牲になったんだ」

 蹄の音が路地裏に響く。
 通りに出れば、襤褸小屋のような家が立ち並ぶ光景が視界に広がる。そこに暮らす人々は、あまり覇気がなく、粗末な服を着て痩せ細っている。
 街を囲む石造りの高い塀の所為でこの辺りは陽が当たらず、まだ午前中だというのに薄暗い。

「相次ぐ謎の変死体に頻発する通り魔か」

 そう呟いてエドワードは、愛馬の上の遺体を振り返った。

「何事もなければいいがな」

 リックの言葉にエドワードは返す言葉が見つからずに押し黙るのだった。

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