称号は神を土下座させた男。

春志乃

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本編 2

第二十話 奔走する男と夫を想う女

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 アゼルの生まれ故郷であるシケット村は、広大な葡萄畑のその奥、正にエルフ族の森へと続く道の傍に太い丸太で作られた高い壁に囲われるようにして存在していた。
 ワインと森から切り出した木材で作る木工作品で主な生計を立てていて、今の季節は昨年仕込んだワインを売りに出す、一番忙しくて活気のある時期だと聞いていた。
 真尋たちがそのシケット村に到着したのは、西日がそろそろ赤く色づく時間帯であったのだが、シケット村は喧騒と恐怖に飲み込まれていた。

「この患者の処置は終わった、次だ! イチロ、解毒薬の補充は!? エディ、包帯の補充を頼む!」

「あと二分で可能です!」

「了解です!」

 ナルキーサスが指示を飛ばす声が集合所の中の喧騒の合間に響く。
 
「アゼル、水の交換を頼む! リック、この人の体が動かないよう固定してくれ!」

「はい! 兄さんたち、手伝ってくれ! 姉さんたちは手が空いたら包帯作成部隊に加わって!」

「今行きます! では、奥さん、旦那さんにこの薬を飲ませておいて下さい」

 アゼルが洗面器を抱えて彼の兄だと言う青年たちと共に出て行く。リックは、呻く男性をその妻に任せてこちらに駆け寄って来ると、痛みにのたうち回る男の体を上手に押さえ込んでくれる。それに礼を言って肩の傷口に手を翳し、治癒呪文を唱える。
 集会所は、血と薬草の臭いが充満していて、そこかしこから男たちの呻き声が聞こえて来る。
 真尋たちが村に着いた時、村の門は固く閉ざされていた。夜は魔獣の侵入を防ぐために門を閉めているが日が出ている内は畑に居る者も多いので閉めることはないからおかしいと、アゼルが首を傾げた。
 とはいえ、顔見知りで、曰く村の期待の星であるアゼルが門番をしていた青年に事情を説明すれば、待ってましたと言わんばかりにすぐに門は開かれ、中へと通された。
 そこで真尋たちを待っていたのは、数十名に及ぶ負傷者たちだった。
 今日の昼過ぎ、突如として村に押し寄せた魔獣の群れが東側、エルフ族の森へと続く平野に広がる葡萄畑で作業をしていた農夫たちを襲ったのだ。
 先日、森を出た際に騎士団に異変を報せていたので、シケット村にも派遣された小隊が常駐していたために、農夫たちのほとんどは怪我を負いながらも警邏をしていた騎士たちによって村の中へと逃げることが出来た。代わりに村の自警団の者たちが加勢に加わり、どうにか魔獣を退けつつ騎士たちを含め、全員が村の中へと逃げ込むことに成功したが、彼らは籠城を余儀なくされていたのだ。
 真尋たちが潜ったのは西門で、そちらに異変は見られなかったのだが、東門の偵察に行ったダールは真っ青な顔で惨状を伝えてくれた。
 まだ魔獣の多くが葡萄畑の中をうろうろしていて、ほとんどは低ランクの魔獣だが、それでも三割はこんなところにいるはずのないエルフ族の森の奥深くに生息するランクの高い魔獣たちだったというのだ。ならば何故、西側にはいなかったのかと首を傾げるも、おそらく居たには居たのだが、ロボを畏れて彼らは早々に逃げ出したのだ。
 現在、ロボが単独で村の外を見回っているため、無理矢理にでも壁をよじ登って侵入しようとする魔獣はいない。だが、それでも人間という狩りやすい餌を前に諦めきれない腹を空かせた魔獣たちが葡萄畑の中で息を潜めている。
 真尋は、ナルキーサスの指示の元、負傷した者たちの治療にあたっている。ナルキーサスが所持していた薬だけでは足りず、一路が薬を延々調合して補充していて、薬草に詳しい双子がそれを補佐している。ジークフリートは、擬態のペンダントを袋から出すのを忘れてそのままの姿で騎士団や自警団、応援に駆け付けた冒険者たちを纏めている。とはいえ、流石に騎士団の上の者たちを除いて、彼が領主だと気付いている者は少ないようだ。確かに領都に住んでいたとしても領主の顔を見る機会は少ないし、まさか本人がここにいるとは誰も思わないだろう。一部の人間が顔を蒼くしていたが、ジークフリートは何食わぬ顔で「クラージュ騎士団特殊災害対策室所属、ジフ正騎士」と名乗って動いているのだ。ダールはジークフリートの護衛を買って出てくれて、彼の傍にいる。ジークフリートの本来の真面目な護衛騎士たちが聞いたら卒倒するだろう。
 ジークフリートたちには大樽二十個分の聖水を渡してあり、念入りに里の周辺に撒くように言ってあった。聖水は魔獣を退ける効果があるので、ロボと共に抑止力になるだろう。

「真尋、その患者が終わったらこちらを頼む。解毒は終わっている」

「ああ、了解した」

 傷口から手を離しながら答える。深く引き裂かれていた傷口は癒されて、浅い傷跡が残っているだけになった。リックが手を離しても男が暴れることは無く、ほっとしたような表情を浮かべている。

「これで貴方の治療は終わりだ。具合が悪くなったら、すぐに呼ぶように」

「ありがとうございます、騎士様」

 真尋は「当たり前のことだ」と頷いて返し、リックと共に次の患者の下へ移動する。
 集会所に優先的に運びこまれているのは、大けがをしている者、怪我の度合いによらず毒に侵された者だ。魔獣の中に毒爪を持つコロネル・ゴブリンや鋭い牙に毒を持つカースバッドなどが紛れ込んでいたようだ。
 治癒術師であるナルキーサスが解毒を担当し、真尋はもっぱら怪我の治療だ。騎士団の衛生騎士と村の女たちがサポートをしてくれている。
 集会所に入った直後は、負傷者の数が多く、加えて不安と恐怖に怯えるその家族もいたため混乱を極めていたが、今は何とか終わりが見え始めていた。
 真尋は丁度、包帯を届け終わったエドワードを呼ぶ。

「リック、エディ、聖水を作るから重傷、軽傷に関わらず魔獣と戦った者を優先的に、村人と騎士、全員に飲ませてくれ。ほんの一口でいい。それで異変があったら教えてほしい。傷の具合や様子からしてバーサーカー化した魔獣はいなかったようだが、用心に越したことは無い」

「でしたら、アゼル騎士をお借りしても?」

「そうだな、顔見知りがいればそれだけで安心するだろう。水を汲んでもらいにいっているから、準備が出来たら声をかけてくれ」

「分かりました」

「もうそろそろ終わりが見えている。頑張ろう」

「はい!」

 揃って頷いた二人は、丁度戻って来たアゼルの下に行き、二言三言交わすとアゼルの兄たちと共に再び外へと出て行った。その背を見送り、真尋も次の患者の下へと腰を上げたのだった。







「ようやく、一息付けるな」

 案内されたのは集会所からほど近い、アゼルの姉夫婦の家だった。

「姉ちゃんたちは、炊き出しに行ってて留守なんですけど、了解はもらってますから。廊下を挟んで向かいの部屋も使って良いって言ってたんで、良ければ仮眠でも取って下さい」

 集会所での治療が終わったのは、日付を跨いで少し経ったころだ。幸い死者はおらず、患者は皆、快方に向かっている。

「ならばさっそく部屋を貸してくれ」

 真尋は抱えていたティリアを抱き直し、その言葉に甘えて廊下を挟んで向かいの部屋へと向かう。真尋の服の袖を掴んでフィリアもついて来るが、もう今にも頭が落ちそうなほどぐらぐらと揺れている。
 治療に目途が立ち、緊張感が解けたのか、だんだんと眠気に抗えなくなってしまったようで、ティリアは集会所を出る時に転びそうになって真尋が抱えたが、フィリアは男の意地でどうにかここまで歩いて来てくれた。
 ベッドは一つだったがティリアを寝かせれば、フィリアがその隣に潜り込んでいく。
 ベッドの縁に腰掛けて、二人の銀髪を順に撫でる。

「よく頑張ったな、ありがとう」

「ん……やくそう、とくいだから……ね、神父様」

 今にも閉じそうなフィリアの蒼い瞳が真尋を捉える。

「いくときは、ちゃんと、おこしてね、おいてかないでね」

「分かっているとも。置いて行ったらまた無茶をして追いかけて来る気だろう? あと二、三時間しか眠れないかもしれないがゆっくりと寝るといい。起きなかったら眠ったまま馬車に放り込んでやる」

 小さく笑いながら告げれば、フィリアはふっと表情を緩めて頷き、そして、あっと言う間に眠ってしまった。
 もう一度、二人の頭を撫でて布団を掛け直してやる。
 モハルの森でゴブリンに襲われて以来、双子の不安は日に日に大きくなってここのところは眠れていなかったようだから、限界に近かったのだろう。
 サヴィラと同い年で、背格好は一路とそう変わらないのに、どこか子どもっぽさが強い二人は、まだまだ庇護されるべき幼い子どもなのだと、その様子に触れる度にまざまざと実感する。

「母とは強いものだ。だから、きっと、いや、絶対に大丈夫だ」

囁くように告げて真尋は静かに部屋を後にしてリビングに戻った。

「あ、寝ましたか?」

 何やらティーセットを抱えたアゼルが振り返る。その後に一路がくっついてきて、どうやらキッチンでお茶の支度をしてくれたようだ。

「ああ。あっという間だった」

「いっぱい頑張ってくれていましたから疲れたんでしょうね。でも本当、ナルキーサス様と神父様たちがいてくれて、ロボもいてくれて、本当に本当に助かりました。ありがとうございます! 皆さんがいなかったら、村自体がなくなっていたっておかしくありませんでした」

 ティーセットをテーブルに置いたアゼルが深々と頭を下げた。
 確かに、被害を最小限に抑えられたのはアルゲンテウス一の治癒術師であるナルキーサスや治癒魔法の得意な真尋たちがいたことが大きいだろう。解毒と治療が的確に行えなければ必ず死者が出ていた。A+ランクのヴェルデウルフのロボがいたことで魔獣たちへの抑止力になり、村は二次被害を免れた。そうでなければアゼルの言う通りシケット村は壊滅的な被害を被っていて、存続すら危うかったかもしれない。

「いや、こちらこそお前がいてくれて助かった。顔見知りのアゼルがいるだけで、村の人々は俺たちをより信用してくれるからな。それにお父上が重傷だったにも関わらず、よく動揺することなく冷静に取り組んでくれた」

「そ、そんな! 俺まだ半人前も半人前の五級騎士でっ、も、勿体ないお言葉です!」

 アゼルがぶんぶんと首を横に振った。緊張ゆえか、彼のしっぽがぶわりと膨らんでいる。
 アゼルの父もまた大怪我を負っていた。一緒に畑で作業していた妻を庇い、カースバッドの毒の餌食になり、ゴブリンに襲われたのだ。すぐさま、近くで作業していた長男がゴブリンを殴り倒し、アゼルの父は母に支えられて村に逃げ込んだそうだ。アゼルの兄も軽傷を負っていたが、アゼルと同じ鼬の獣人族であった兄は自警団の一員であったため、自分の身を守ることが出来たのだ。

「神父様がいて下さって、ナルキーサス様というアルゲンテウス一の治癒術師様がいるって分かっていたから俺も動けたんですよ。でなきゃ、オロオロして、何も出来なかったと思います」

「そんなことはない。俺はアゼルをなかなかに評価しているからな。でなければ、幾らこちらの地理に明るいとは言っても連れて来なかったさ」

「そうそう、真尋くんは自分の傍に置く人間に関しては選り好み激しいからね」

「流石はシケット村の期待の星だな。君が迅速に人員や作業場所を確保してくれて、私もとても助かったよ、アゼル」

 三人からの言葉にアゼルは夕陽のように真っ赤になって固まってしまった。それが面白くて、つい笑ってしまう。だがこれ以上、あれこれすると一路に怒られそうなので、一旦、逃がしてやろうと口を開く。

「俺たちは厚意に甘えて暫くここで休ませてもらう。その間、集会所の様子を見て来てくれ、ついでにお父上にも顔を見せてやると良い。それだけで随分と元気になられるだろう」

「立派な息子の姿をみれば、より一層元気が湧いてくるというものさ」

「わ、わかり、わかりましたっ! あの、い、行ってきます!!」

 真っ赤な顔のままアゼルがリビングを飛び出していく。

「ははっ、まだまだ若いな。可愛いイタチだ!」

 ナルキーサスが可笑しそうに笑いながら足を組みなおす。

「もう、真尋くんもキース様もあんまりからかわないで上げて下さいよ」

 言いながら一路がカップに紅茶を注いでくれる。真尋はナルキーサスの隣に腰を下ろしながら肩を竦めて返す。一路は呆れたようにため息を零すとナルキーサスの前にはクッキーを二枚、皿に乗せて置いた。

「一応聞くけど、クッキーとか食べる?」

「ナッツのやつはないのか、甘くないやつ」

「あるよ、はい」

 ナッツがたっぷり乗ったクッキーが二枚、皿の上に現れた。一路は、今回の旅に備えてかなりの甘味を買い込んでいたが、まだまだ在庫は尽きないようだ。

「真尋くん、僕、ロボの様子を見て来てもいいかな」

「ああ、構わんが休まなくて平気か?」

「大丈夫そうならすぐに戻って来るから」

 ひらひらと手を振って一路が出かけていく。その背を見送り、真尋はソファに座り直した。
 隣に座るナルキーサスは、ひじ掛けに肘をつき、頬を乗せ気だるそうに紅茶を飲んでいる。助手と呼べるほどの助手がおらず、殆どの指示を彼女が出していたから疲れたのだろう。

「大丈夫か? ……キース?」

 返事がなくその顔を覗き込むと黄色の瞳がはっとしたように揺れて、苦笑が落ちる。

「ん? ああ、いや、すまないな。少し疲れたみたいだ」

「俺も一路も怪我に関しては魔法という補助がある分なんとかなるが、専門的なことは素人だからな、大分負担をかけてしまった」

「あれだけ的確に治療を施しておいて素人も何もないとは思うが……確かにいつもは大勢専門職員がいてこそだからな」

 そう言ってナルキーサスがクッキーに手を伸ばす。真尋もそれに習ってナッツがたっぷりのクッキーに手を伸ばした。カリッと心地よい音がして、口いっぱいにローストされた木の実の香ばしさが広がり、ナッツの自然な甘みが広がる。疲れた体と頭が糖分を欲しがっていたのか、あっと言う間に二枚とも平らげてしまった。
 ふと自分のステータスを開いて体力や魔力を確認する。何十人と治療したので、いつもよりは減っているが、少し休めば戻るような値だった。

「…………君は、全ての属性を持っているんだろう」

 不意にナルキーサスが言った。
 ちらりと彼女に視線を向けるが彼女はぼんやりと天井を見ていて、ステータスに顔を戻して確認するが隠蔽はきちんとかかっている。許可も出していないから見えていないはずだ。

「ふふっ、分かるさ。君、私にアイテムボックスを作ってくれただろう? 君は、こんな……規格外のものを作ってくれた」

 キースが左手を上げた。植物の蔦を模った銀色の細いブレスレット型のアイテムボックスは、彼女の瞳と同じ黄色の魔石が一つ、控えめにはめ込まれている。
 真尋の脳裏に「それみたことか」と言わんばかりの愛息子の呆れ顔が過ぎった。そういえば、サヴィラにネックレス型のアイテムボックスを渡した時に全属性持ちだとバレたのを思い出す。サヴィラに分かってしまうのだから、稀代の魔導師であるナルキーサスにバレないわけがない。

「別に誰それに言いふらしたりはしないさ。これのお蔭で私は大切なコレクションとも……シャマールとも常に共に在れるのだから」

「……墓は作らなかったのか」

「ああ。七歳の、小さなあの子を緑の少ない王都の冷たい土の下に埋める気にはなれなかった。ブランレトゥの墓地も、君が来るまでは鬱屈とした墓地だったからな。それに色々あってジークは領主になったが、そうでなくも彼がクラージュ騎士団に戻る時、夫が戻るにあたって、私もアルゲンテウスに行くに違いなかったから王都の遠く離れた墓に置いていくことは出来なかった。だが、もし次に、エルフ族の里に帰ったら、先祖代々の墓に入れてやろうと思っていた。あそこなら、世界樹が守ってくれるし、私の母や遠い祖先が眠っているからな」

「今回、無理矢理にでも着いて来たのは、本当はそれが目的なのか?」

 紅茶に口を付けながら問う。ナルキーサスは、静かに頷いた。

「……レベリオ殿に、言わないままで良いのか。彼の子でもあるのに」

 彼女の口元に小さな笑みが浮かぶ。それは酷く悲しげで、寂しそうなものだった。

「十年ほど前、私がブランレトゥに来たときに、レベリオはブランレトゥに墓を作ろうと言った。サヴィラが墓守をしていたあの墓地だ」

「貴族は……確か奥の方に専用の墓地があったな」

 一応、平民と貴族が分けられていて平民の墓地の奥に木柵で区切られた貴族たちの墓がある。ほとんどがコシュマール家のように爵位は持つが領地を持たず、ブランレトゥに居を構える貴族たちのものだ。
 貴族のものと言っても、墓石が多少立派なだけでその寂れ具合は平民の墓地とそう変わらなかった。

「あんなアンデットがうろついていて、墓石が苔むしているような場所は嫌だと言ったら、喧嘩になった。コシュマール家の一員である以上、あそこ以外ないと言われて、私は家出して魔導院の部屋で暮らし始めた。時折、執事に泣きつかれて帰ったがこの十数年、両手で足りる程度だな。レベリオもほどんと騎士団で寝泊まりをしていたしな」

「……大分、初っ端からこじれているじゃないか」

 そうだな、とナルキーサスは苦笑を漏らす。

「君にシャマールの話を聞いて貰って、私も余計な力が抜けたのかもしれない。ここ数日、昔のことをあれこれ思い出して、どこか第三者の視点で考えてみると……なるほど、そうだな。マヒロの言っていた通り、言葉が足りなかったと、そう思うばかりだ」

「今からでも遅くはないんじゃないか」

「さあ、どうだろうな。……あの子の顔を見るとどうも冷静でいられない。十年くらい、頭を冷やせばなんとか話もできるかもしれんな」

「……気の長い計画だ」

 呆れたように言った真尋にナルキーサスは「それがエルフ族だからなぁ」とのんびりと答えた。
 見た目こそ真尋たち人族とそう変わらない上、まだ出会って数か月なので実感がないがナルキーサスにしろ、ドワーフ族のジルコンにしろ、長い時間を生きる彼らは時間に対する使い方や考え方が全く違う。
 真尋は、レベリオが単身でこちらを追いかけてきていることをナルキーサスにはぎりぎりまで伝えないつもりだった。エルフ族の里についてお互いに逃げ場がなくなってからの方がいいと思っているのだ。そうでなければきっと彼女も、そして、レベリオも話し合うことが出来ないような気がするのだ。

「ところで私の話はさておき、今回の件、どう見る?」

「気になるのは、やはり双子の母が託した枝から出てきたドラゴンだ。ダールたちが聞いたドラゴンの声も気になるしな」

 ナルキーサスの眉間に皺が寄る。

「だが、エルフ族の里の周辺にドラゴンは棲息していない。山の山頂付近にはいるが……降りてくることはまずない」

「インサニアは、人里離れた秘境と呼ばれるような地にこそできる。そこでインサニアに侵されたドラゴンが降りてきて、世界樹や精霊樹に何らかの影響を与えているのでは、と考えているが……」

「それならもうすでにここを襲った魔獣たちがバーサーカー化していてもおかしくないだろう?」

 ナルキーサスの言葉に頷く。
 まさにそれなのだ。インサニアという存在が見え隠れしているのに、全く確証が得られない。フィリアとティリアの母が託してくれた枝から出てきたものは間違いなくインサニアと呼ばれるものに違いないはずなのに、だ。

「その山頂付近のドラゴンが仮に降りてきていたとして、こんな風に魔獣や魔物たちが森を捨てて逃げだしてくるのか」

「いや、ありえないな。山頂に入るのはロックドラゴンと言って小型と中型の間の種だ。ランクとしてはAだが、だとすれば同じAランクのゲネラール・ゴブリンが逃げてくるはずがない。ロックドラゴンは単体で行動するが、ゴブリンはトレープを作っているのだから、ゲネラール・ゴブリンが率いるゴブリントレープの方が強いんだ。それにロボやビアンカと言ったさらにランクが上のヴェルデウルフの成体でさえ理性を保てずバーサーカー化した時の暴れようはすさまじかった。だが、ダールの話では、ドラゴンが暴れた形跡はない」

「……では、更にその上のSランク以上のドラゴンがバーサーカー化し、世界樹が抑え込んでいる可能性は?」

 真尋の言葉にナルキーサスは、きょとんとした後「まさか」とカラカラと笑った。

「ありえんな。Sランクのドラゴンはアルゲンテウスにはいないし、その上となるとほとんどが伝説の中の生き物さ。それにアルゲンテウス領でそんなドラゴンが確認されたことはこれまで一度だってないんだぞ? アルゲンテウス領にはドラゴンに関する伝承すらないんだ。ああ、竜人族の奪略は別だがな」

「だが、やはりドラゴンが無関係だと、俺はどうしても思えない」

「実際に現地に行ってみなければ、結局のところ、真実は分からない。今は体を休めて明日に備えよう。私は双子のところで休むよ」

 そう言ってナルキーサスは紅茶を飲み干し、カップを空にするとそれを流しに置き、リビングを出て行った。
 その背を見送り、真尋もクッキーと紅茶を胃の中に流し込み、靴を脱いでソファに横になって目を閉じる。眠るわけではないが、こうしているだけでも十分に休息がとれる。
 だが、まだ興奮が体に残っているのか、思考がぐるぐると渦巻き、気が休まらない。なんだか嫌な予感がするのだ。ざわざと胸の奥で不安が顔を出している。

「……何事も、なければいいが」

 ぽつりとつぶやいて、真尋は束の間の休息をとるのだった。





 チクタク、チクタクと秒針が静かな部屋に規則正しく時を刻んでいる。
 窓の外は真っ暗で、月がぽっかりと浮かんでいる。広い部屋の中を照らすのは、傍に浮かべた燭台の灯りだ。
 ベッドではミアがラビちゃんを抱えて穏やかな寝息を立てていて、ミアの頭の上にはタマが丸くなって眠っている。真智と真咲は、サヴィラの部屋で男の子だけのお泊り会を楽しんでいる。なんだかんだと馴染めているようで何よりだ。
 雪乃は椅子に腰かけ、テーブルの上に裁縫箱を広げて繕い物をしていた。ミアは眠る時間だが、雪乃が眠るにはまだ早い時間だったので、昼間、サヴィラが訓練中に破れてしまった服を繕っているのだ。
 ここへ来た翌日、騎士の方々と海斗と園田は手合わせをした。それが楽しかったようで、海斗はとくに暇があると訓練をしている。サヴィラは真尋に剣術や体術を教わっているらしく、楽しそうに参加している。雪乃には武道の良し悪しは分からないが、園田が言うにはサヴィラはかなり筋が良いそうだ。
 サヴィラは訓練に参加する時は、真尋がつくってくれたという動きやすい服装なのだが、今日は相手の木剣が引っ掛かり、袖が破れてしまった。怪我はなかったのだが、避けきれなかったことがサヴィラは悔しかったようだった。

「男の子は元気ねぇ」

 雪乃はなんだか幸せな気持ちで糸の始末をつけて、出来上がりを確かめる。

「ふふっ、上出来だわ」

 満足の仕上がりに服を畳んでベッドの枕元に置き、針や糸を裁縫箱へと戻す。これはティナに借りたものなので、丁寧にしまう。
 真尋が帰って来て自由に町に行けるようになったら、雪乃も子どもたちの服を作りたい。四人分となると真尋と手分けをして作ったほうが良さそうだ。真尋や子どもたちと一緒にデザインを考えて、生地を選んだり、小物を選んだりするのはきっと、とても楽しい時間だ。
 雪乃が、幸福な未来予想図に思わず笑みをこぼした時、コンコンと控えめなノックの音が聞こえた。
 手を止めて首を傾げる。真咲あたりが眠れなくて戻って来たのだろうか。

「どなた?」

 雪乃の誰何する声にドアが遠慮がちに開く。
 さらり、と銀色の長い髪が揺れる。

「まあ……」

 予想だにしていなかった人物に目を瞬かせる。
 顔を出したのはアマーリアだった。
 
「あ、あの、よろしいかしら?」

「ええ、かまいませんわ。どうぞ、お入りになって下さいな」

 雪乃が笑顔で答えれば、アマーリアはほっとしたように表情を緩めて中に入って来た。雪乃と同じようにネグリジェにガウンを羽織った彼女もまた眠る準備は万端のようだった。
 パタン、としまったドアの前でアマーリアは所在なさげに立っている。
 雪乃は「どうぞ」と椅子を手で示す。幸い、ミアの寝顔が見えるようにベッドの傍にテーブルセットがあったので、雪乃がベッドに座れば話は幾らでも出来る。

「でも、ユキノ様が」

「私はベッドに座りますから。ごめんなさい、ミアちゃんのお部屋はあまり人が来ないものだから椅子がなくて……」

「いえ、押し掛けたのは、わたくしですから……では、失礼いたします」

 ぺこりと頭を下げて、アマーリアが椅子に座り、雪乃もベッドに腰かける。

「申し訳ありません、こんな風に押し掛けてしまって……もしかして、眠る所でしたか?」

「いいえ、まだ起きていましたよ。息子の服を繕っていたんです」

 ベッドの上に置いたサヴィラの服をとんと撫でた。

「そういえば、ここへ来ることはリリーさんたちには……」

「ちゃんとダフネに許可をもらって来ました。今も部屋の前で待っていてくれます。リリーにはシルヴィアの傍にいてもらっています」

 同じ屋敷の中とはいえ、彼女の立場を考えれば所在をはっきりさせておくのは大切だ。

「ミアちゃん、よく眠っていますね」

 アマーリアがベッドの方へ視線を向け、微かに笑みをこぼす。

「ええ、今日も元気に遊びまわっていたから、絵本を読む間もなくぐっすりです」

 雪乃は、ミアの頬を撫で毛布を掛けなおす。ミアは、撫でられた頬がくすぐったかったのが小さく身じろいだが、ラビちゃんをぎゅうと抱き締めてまた穏やかな寝息を立て始めた。

「わたくしの娘たちもミアちゃんやジョンくんとお友達になれて、本当に楽しそうで……きっかけは、少々お恥ずかしいものですが、ここへ来られて良かったと今は心から思うのです。命を守るためとはいえ、城では窮屈な生活でしたから」

 そう言ってアマーリアは寂し気に目を伏せた。
 産まれもった立場というものは、どうすることも出来ない。レオンハルトやシルヴィアは賢い子だ。自分の立場を幼いながらに理解する良い子だったのだろう。それでもやはりここでのはじけるような笑顔に母親であるアマーリアは何か思うところがあったのかもしれない。

「先日のお料理のこと、是非、お礼を言いたくて。ありがとうございました、ユキノ様」

 思わぬことに目を瞬かせる。

「お料理なんて初めてしたのです。お野菜をちぎって、ドレッシングをかけて……それだけのことがとても新鮮で。何より、ユキノ様がわたくしを信頼して仕事を任せて下さったのが嬉しいのです。リリーはなかなか過保護で、もちろんわたくしのことを一番に考えていてくれるのは知っています。ですがわたくしだってもう大人だというのにリリーの中ではシルヴィアとそう変わらない気がするのです」

 ちょっとむっとしたようにアマーリアが言った。
 くるくると変わる表情は時に大人びていて、時にあどけない。
 彼女は大人の女性としての美しさも、少女のような可愛らしさもある素敵な女性だ。

「ふふっ、私はリリーさんのお気持ちが分かります。ここへ来た日、私も充さんを孤児院に送り出すのに、なんだかちぃちゃんたちを初めてのお泊りで送り出すような気持ちだったのです。充さんは私や真尋さんより年上の大人の男性なのに」

「ミツル様はわたくしから見ても……なんだかちょっと放っておけない方です。子どもみたいにたくさん泣いていたからかもしれませんわ」

 雪乃が笑うとアマーリアは納得したように頷いた。
 それから他愛のない話が続いて、ぷつりと途切れる。数秒の沈黙が部屋に漂う間にアマーリアの表情にわずかに緊張が走る。

「あの、ユキノ様」

 おずおずとアマーリアが雪乃を見ている。
 雪乃はその視線を受けとめ、話しやすいように小首を傾げ、先を促す。

「ユキノ様とマヒロ神父様は、とても仲の良い夫婦だと聞いております。それで、その……失礼なのは承知なのですが、マヒロ神父様のような気難しい殿方と、どうすれば仲良くなれるのでしょうか」

 予想外のことに雪乃は目を瞬かせた。

「真尋さんと仲良くなりたいのですか?」

 するとアマーリアは慌てたように首を横に振った。

「い、いえ、マヒロ神父様のことではなくて、そのですね、あの、ええと……わたくしの夫のことを相談させていただきたくて」

 なるほどと雪乃は納得する。
 アマーリアが夫婦げんかの末にここに家出してきたことはプリシラがそれとなく聞いている。修道女シスターにしてくれと真尋に直談判しにやってきて、この屋敷で預かることで話が落ち着いた、と。

「……神父様は、ユキノ様のことを本当に心から愛しておいでですわ。お二人は運命の出会いだったとか」

「運命といえばそうだと思いますけれど、何せ物心がついた時には真尋さんが傍にいて、私をお嫁さんにすると決めていたものですから、私に選択肢はありませんでした。でも、それを喜ばしく想うことはあれども不満に思ったことも疑問に思ったことも一度もないので、やっぱり運命だったのかもしれませんね」

「素敵ですわ。まるで物語のお姫様と王子様みたいです」

 アマーリアがうっとりと言った。少女のような表情はあどけない。
 やっぱりとても可愛らしい人だ、と雪乃は笑みをこぼす。

「アマーリア様と領主様は、どういったきっかけなのですか?」

「わたくしたちは、親の決めた結婚です。アーテル王国の貴族では普通のことですが……わたくしは最初、ジークフリート様の兄上、セオフィラス様に嫁ぐ予定でしたの。ですが、セオフィラス様が不慮の事故で身罷ってしまい、わたくしは弟のジークフリート様のもとに嫁ぐことになりました。わたくしは、誰にというよりアルゲンテウス辺境伯に嫁ぐと言った方が正しかったのかもしれません。ユキノ様のお話ではありませんが、生まれた時にはそのように決められていて、幼い頃から辺境伯夫人になるために学ぶ日々でした」

「そうなのですか……大分、年が離れているとお聞きしましたが」

「ジークフリート様は私より十五歳ほど年上です。だから……子どもに見えてしまうのでしょうか」

 アマーリアがぽつりと零す。
 その表情は寂しげで、それでいて、どこかに諦めがあるようにも見えた。

「……喧嘩中だと聞いておりますが、差し支えなければ原因について教えて下さいますか?」

 雪乃の言葉にアマーリアは、目を伏せ「小さなことです」とさみしげに言った。

「わたくしは、ジークフリート様と結婚して十年になります。ですが、この十年、アルゲンテウス辺境伯夫人としてした仕事は……二人の子を産むことだけでした」

 アマーリアの青い目が窓の外へと向けられた。
 真っ黒い空に二つの月が浮かんでいて、優しく庭を照らしている。

「十年前、わたくしはジークフリート様と共に初めて出席した夜会で、失敗をしてしまったんです。急に具合が悪くなって、持っていたワインをお話をしていた伯爵夫人にかけてしまったんです。伯爵夫人はお優しい方で具合が悪くなったわたくしの心配をして下さいました。ジークフリート様も、その時はわたくしを心配してくださいました。……ですが、それ以降、わたくしを伴って夜会に出ることはなくなりました。それどころかわたくしを王都の屋敷に残して、年に一度、社交期にわずかばかり会いに来るような、そんな関係になってしまったのです。それでもレオンハルトが生まれて、シルヴィアが生まれてようやくわたくしは、このアルゲンテウス領へやってまいりました。けれど、ジークフリート様は、食事の席を共にするだけで、ほとんどわたくしや子どもたちと過ごすこともなく……ですが先日、ジークフリート様はわたくしを伴い、王都の王家が主催するパーティーへ出席したのです」

 ほんの少し彼女の口元がほころんだ。

「わたくしを妻として連れて行ってくださって、本当に嬉しかったです。子どもたちも連れて行ってくださって、あの子たちも父親と過ごせる時間をとても楽しんでいました。だから、少しだけわたくしを見直して下さったのではないか、と……でも違ったのです」

「違った、とは?」

「わたくしは、せめて茶会を開きたいとお願いしました。わたくしたち貴族の妻にとって、茶会を開くこと、出席することはとても重要な仕事の一つです。人脈をつくることが夫の支えとなるのですから。それにシルヴィアにも茶会がどういうものなのか教える必要があるのです。夜会に子どもは出席できませんが、昼間に開かれる茶会は、子どもたちも出席できるので、そこで社交を学ぶのです。……ですが、ジークフリート様は「だめだ」の一点張りで、理由も教えて下さいませんでした。それで喧嘩になって……神父様や皆様にご迷惑をおかけすることになってしまったのです」

 なんとなくだが、きっとアマーリアはこの十年、耐えていたものが爆発してしまったのだろうと思った。
 彼女はあまり前へ前へと出るタイプには見えない。どちらかといえば半歩後ろで夫を支える堅実な女性だ。

「……そして、結局、グラウの視察からお戻りになっても、会いに来ても下さらないのです」

 アマーリアがぽつりと言った。彼女は、哀しみを押し隠すように微笑んでいた。青い目は、今にも泣きだしてしまいそうなのに、それでもなお、微笑んでいる。彼女の矜持が、涙をこぼすまいと押しとどめているのかもしれない。

「私は、領主様をよく知らないのですが……総じて男性というのは格好つけなのですよ」

「格好つけ、ですか?」

 アマーリアが、ぱちりと目を瞬かせた。

「ええ。私の夫もそれはそれはもう格好つけですもの。呆れるくらいに弱みを見せようとしないんです。でも、そうやって私を守ろうともしてくれていることを私は知っています。ですから私は時には見ないふり、気づかないふりをすることも心得ています」

「守る、ですか?」

「はい。……ご存知かと思いますが私は体があまり強くなくて、何度か死にかけたこともあります。その度にあの人には辛い思いをさせてしまいました。思うように傍にいてあげられなくて、寂しい思いもさせてしましました。でも、彼の家は立派なお家で、真尋さん自身も将来を期待される人でした。だからそんな真尋さんの隣に立つのがいつ死ぬかも分からない私では不満を抱く人が多かったのです。そんな方々が私に向けるのは憐憫を装った悪意だけです」

 貴族として生きるアマーリアには、雪乃の立場が理解できるのだろう。もしかしたら彼女も同じことを言われているのかもしれない。表に顔を出さない彼女に不満を抱く者も、二人の不仲を利用してあわよくば辺境伯の寵愛を得ようとする者もいるだろう。
 アマーリアはなんとも言えない顔でじっと雪乃を見つめている。

「真尋さんは、そういった悪意から、いつも私を守ろうとしてくれました。酷いことを言われても、私には絶対に言おうとしませんでした。そうやって不器用ながらに私を、守ってくれていたんです」

 雪乃は眠るミアへと顔を向ける。
 真尋はこちらでも随分と活躍しているようだ。神父としてこれからさらに有名になっていくだろう彼に、貧民街の孤児であった二人の子について口さがないことを言う者も出てくるだろう。その時もきっと、真尋は雪乃たちに何も言わずにいるのだろう。

「……もしかしたら、領主様も不器用にアマーリア様をどうにかして守ろうと足掻いていらっしゃるのかもしれませんよ」

「そう、でしょうか」

 アマーリアは、そんなことはありえないと思っているのだろう。その声には自信というものが全くない。

「会いに来られないのも、合わせる顔がないとお考えなのかもしれません。真尋さんもそうですけれど、男の方って変なところで意気地がないんですもの」

 ふふっと雪乃が笑うとアマーリアが、つられるように小さく笑った。だが、その笑顔は今にも泣きだしてしまいそうで、胸がぎゅっと切なくなる。先ほどまでの少女のような笑い顔とはまるで違う。
 雪乃は立ち上がり、アマーリアの目の前にしゃがみ、膝の上で固く握りしめられていた彼女の手をそっと両手で包み込む。

「あまり思い詰めないで下さいな。お二人に必要なのは、落ち着いてお話をする時間です。領主様も真尋さんにグラウの町で会ったなら、同じことを言われているに違いありません。ですから今は、その時が訪れた際、何を話すべきか、何が一番聞きたいのか、を整理する時間なのです。不安でしたらお二人がお話をされる時、私と真尋さんも同席いたしますから」

「本当、ですか? お傍にいて下さいますか?」

「ええ。アマーリア様がお望みになられるのならいくらでも。真尋さんは基本的に女性の味方ですから、私たち夫婦はアマーリア様の味方ですからご安心くださいね」

 ぽたりと一筋だけ涙が彼女の頬を落ちて行った。雪乃は、ハンカチを取り出してアマーリアの頬をぬぐうが、アマーリアはそれ以上、涙はこぼさなかった。
 だが、どこか安堵した様子で小さく笑い「ありがとうございます」とお礼を言ってくれた。

「ユキノ様は、神父様と同じで、お話していると心が軽くなります」

「まあ、嬉しいです。ありがとうございます」

 雪乃は笑って立ち上がる。

「さあ、そろそろ寝ましょう。きっとダフネさんやリリーさんが心配しておられます」

「はい。ユキノ様、お時間、ありがとうございました。……あの、またお料理、お手伝いさせてくださいませ」

「ええ、もちろんです」

 雪乃が頷くとアマーリアは嬉しそうに頬を緩めた。
 椅子から立ち上がり、部屋を出て行く彼女を見送る。
 ドアを開ければ、彼女の言葉通りダフネが待機していた。

「もうよろしいのですか?」

 ダフネが首を傾げる。

「ええ。ありがとう、ダフネ。……ユキノ様、本当にありがとうございました。おやすみなさいませ、良い夢を」

「こちらこそ、ありがとうございます。アマーリア様もダフネさんも、おやすみなさいませ。良い夢を」

 挨拶を交わし、部屋に帰る二人を見送ってドアを閉める。

「夫婦って、難しいわね、真尋さん」

 夫が帰って来たら、丸く収まればいいけれど、と目を伏せる。アマーリアに悲しい顔は似合わない。それに彼女が哀しむと彼女を大切にしているリリーたちや、彼女の大切なレオンハルトやシルヴィアも哀しむ。
 雪乃は窓際へと歩いて行き、外を見つめる。
 今日も月に照らされ魔法の火の玉が浮かぶ庭は、静かだ。警邏の騎士が時折、ランタンを手に庭の中をチェックするために入っていく。
 毎晩、こうして眠る前に庭を見つめるのが癖になっていた。あの大きな門が開いて、真尋が帰って来てくれるのではないかと思ってしまうのだ。
 不意にざぁぁぁと強い風が庭を駆け抜けていく。ざわざわと枝葉が揺れて、木の葉がぶわりと舞い上がって、どこかでしまい忘れたブリキのバケツが転がる音がした。風に運ばれて雲が出てきたのか月の光が遮られて、闇がどろりと濃くなった。
 風と共に得もしれぬ不安が突如、胸の内に顔を出す。

「……真尋さん?」

 暗い庭を見上げてぽつりと零す。
 なんだか胸騒ぎがする。大きな試練が真尋の前に立ちはだかろうとしているのかもしれない。ジョシュアが教えてくれた日程的には、もうそろそろエルフ族の里につくはずだ。
 エルフ族の里で何が起こっているのか、雪乃には想像もできない。だが、その原因を真尋たちは究明しに行ったのだ。それを解決するには生半可な覚悟では務まらないだろう。
 だが、雪乃の中には「真尋さんだったら、なんとかしそうだわ」という確証もあった。雪乃にとって真尋はいつだって、そういう人だった。そうやっていつだって自分の行く道を進む人だ。

「……ママ?」

 ぼんやりした声に振り返るとミアが顔を上げていた。半分しか開いていない瞼の下からサンゴ色の瞳がのぞいている。

「あら、どうしたの?」

「かぜ、びっくりした……」

 どうやらミアの優れた耳は、風がたてた様々な大きな音に驚いたようだった。確かに雪乃もウサギの耳を得てから前よりずっと音に敏感になった。あのバケツが転がる音もおそらく人族だったら聞こえなかったかもしれない。
 ベッドへと歩きながら指を振って燭台の火を消して、燭台をテーブルの上に下ろす。そしてベッドへ入り、ミアの横へ寝ころぶ。

「ママ……」

不意にミアがもぞもぞと動いて雪乃にぴたりとくっついてくる。可愛いしぐさに抱き締め返して額にキスをする。
 よほど眠いのだろう。良いポジションに収まるとすぐにミアは再び寝息を立て始めた。

「おやすみ、ミア。良い夢を」

 愛しい娘が優しい夢を見られるように願い、雪乃は夫の無事を願いながらそっと目を閉じたのだった。



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