称号は神を土下座させた男。

春志乃

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番外編

真尋と雪乃の話 前編

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お久しぶりです。
リハビリを兼ねて、こちらのお話を更新します。
本編にも関わって来るお話なので楽しんで頂ければ幸いです。

執事シリーズですが、書き方は本編と同じです。






「では、行って来る」

「充さん、カレーを作っておきましたから、温めて食べて下さいね。朝ごはんも冷蔵庫の中に用意してありますから。ちぃちゃんも咲ちゃんもいい子にしているのよ?」

 真尋は黒のロングコートにスーツを着こなして、雪乃もまたフォーマルな淡い水色のワンピースにコートを羽織って居る。いつもは軽く整えるだけの髪も雪乃が今日の服装に合うようにセットしてくれた。無論、雪乃の髪は真尋がセットした。

「お兄ちゃん、雪ちゃん、楽しんで来てね!」

「僕たちはちゃんといい子にしてるし、みーくんいるから大丈夫だよ!」

「あとで一くんと海斗くんも来てくれるって言ってたからね、ゲーム大会するの!」

 弟たちの笑顔に頷いて、後ろでカメラを構えっぱなしの執事に顔を向ける。

「園田」

「はい! お車は表に回しておきました。ガソリンも補充しておきましたし、整備もばっちりです!」

「それは礼を言うが、カメラを回しながら泣くのを止めろ」

「だって、お二人が神々しくてっ、私、私っ」

 ぐっと片手で口元を覆った園田にため息を零す。雪乃は、あらあらと苦笑を零していた。
 すると双子が、もう行っていいよ、と真尋と雪乃を見上げる。

「みーくん、お兄ちゃんと雪ちゃんがいる間は泣くから」

「僕とちぃでちゃんと面倒見ておくからね! 任せといて!」

 うちの弟たちは本当に天使だな、と二人の頭を撫でて頷いて返す。雪乃が「お願いね」と告げてから、真尋は雪乃の背に手を添えて、弟たちとカメラを構えて泣く執事に見送られて玄関を後にする。
 表には真尋が免許を取った記念にと父が買ってくれた車があった。とはいえ基本、運転は園田がするので真尋が運転する機会はそれほどない。
 ちなみに二、三千万ほどのベ◯ツである。そして、左ハンドルだ。真尋としては、日本国内でしか運転しないのだから右ハンドルが良かった。父はそういうところに気が利かない。あとベ◯ツは真尋の趣味ではない。
 真尋は助手席のドアを開けて、雪乃を誘う。彼女が座ってからシートベルトをはめる。

「ふふっ、ありがとう、真尋さん」

「どういたしまして。閉めるぞ?」

 そう告げてから、ドアを閉めて運転席に回り、自分も乗り込んだ。
 シートベルトを嵌めて、エンジンをかけて車を発進させる。門から公道へと出て目的のレストランへとハンドルを切った。







 今日は雪乃の誕生日のお祝いに真尋が雪乃をディナーに誘ったのだ。とは言っても誕生日はもう少し先で、当日は友人たちを自宅に招いてささやかながらパーティーをする予定だ。
今から行くのはミナヅキ系列のホテルにあるフレンチの店だが、味も品質も真尋の舌と胃袋を満足させてくれる素晴らしい料理長が居るのだ。
 ホテルの前に車を止めれば、すぐにドアマンが車のドアを開けてくれる。礼を言って車から降り雪乃の下へ行き、彼女へ腕を差し出せば当たり前のように細い手が真尋の腕に添えられた。

「真尋様、雪乃様、お待ちしておりました」

 顔を上げれば、総支配人が数名のホテルスタッフと一緒に出迎えてくれた。
 ホテルの中へと入り挨拶を受ける。

「久しぶりだな、横小路」

 ロマンスグレーの髪を丁寧に後ろに撫でつけ、スーツをビシッと着こなした男に声を掛ける。

「真尋様もお変わりなく。雪乃様は……ますますお綺麗になられましたね」

「まあ、ありがとうございます」

 雪乃がくすくすと横小路の言葉に笑った。真尋が少し目を細めれば横小路がそれに目ざとく気付く。

「これしきのことで妬いては器の小ささがバレますよ、真尋様」

 横小路は真尋が幼いころから知っているので、冗談交じりに可笑しそうに言う。

「何を言うか。雪乃のことに関しては、その辺の水溜まりより浅く狭いと評判だ」

「……何を開き直っているのやら」

 横小路は、呆れたように肩を竦めてみせる。

「でも、真尋さんのことに関しては、私も似たようなものですわ」

「相変わらず仲が宜しいようで何よりです。それでは、ご案内をさせて頂きます」

「コートをお預かりいたします」

「ああ、部屋に頼む。車のトランクに荷物があるからそれも頼む」

 真尋は傍に居たスタッフに鍵とコートを渡した。雪乃もコートを脱いでスタッフに渡して、再び真尋の腕に自分の手を添えた。
 和の趣を取り入れた広いロビーからエレベーターホールへと移動し、横小路と共にエレベーターに乗り込んだ。

「真智様と真咲様はお元気ですか?」

「ああ。真智はサッカーに精をだしているし、真咲は英語以外の言語にも興味を持ち始めてな」

「真尋様に似て才能が豊かでいらっしゃいますからね。最後にお会いしたのは、二年ほど前ですからもう随分と大きくなられたのでしょうね」

「子供の成長は早いからな」

「ちぃちゃんも咲ちゃんも私じゃもう抱っこ出来なくなってしまいましたからね」

「そのうち、俺も抱っこが出来なくなって背を抜かれる日が来るのかと思うと寂しいな。昨日までミルクを飲ませていたような気もするし、ほんの少し前に、歩き出したような気もするのに」

 弟たちが産まれた日のことは昨日のことのように覚えている。母は弟たちが三歳になるまでは家に居たが、正確にいうと拠点を日本にしていただけで生まれて半年後には家を空けることが多くなり、真尋と家政婦が世話をしていた。
 今まで学校から帰っても家族のいなかった家で赤ん坊とはいえ家族と呼べる存在が待っていてくれることがとても嬉しかった。二人が成長するにつれて、たった一人でとっていた食事が寂しいものだと真尋は自覚したのだ。あの頃はまだ雪乃は入院していたし、習い事で忙しかった真尋は一路や海斗を夕食に招待する余裕もなく、広いダイニングのテーブルで一人、食事をしていた。家政婦の時塚さんは、優しい人で真尋に尽くしてくれたがそれはあくまで家政婦としてで、真尋との間にはきっちりと線引きがされ、彼女がその線を越えたことは一度としてなかった。

「ふふっ、そうですね。私も息子と娘もついこの間までパパ、パパと私に抱き着いて来ていた気がするのに、今ではもう二人はぞれぞれ家庭を持ち、二児の父と一児の母になり私は父親から祖父になっていたのですから」

 柔らかに目を細めた横小路に真尋と雪乃もつられて笑みを浮かべた。
 そんな話をしている間にエレベーターが止まり、すっとドアが開いた。






「お料理もとても美味しいし、見た目にも楽しかったわ。スープはちぃちゃんと咲ちゃんが好きそうな味だったわね。前菜は充さんが好きそうだわ」

「そうだな。次は弟たちと園田も一緒に来よう。マナーの良い練習にもなる」

「あら、きっと三人とも喜ぶわ。その時も窓際の席が良いわ。双子ちゃんにも充さんにもこの素敵な夜景を見せてあげたいの」

「ああ、もちろん」

 ありがとう、と雪乃が嬉しそうに微笑んで窓の外へと顔を向ける。
 一面ガラス張りの窓の向こうには、宝石箱のような素晴らしい夜景が広がっている。

「……とても綺麗ね」

 雪乃がうっとりと呟いた。
 その横顔が綺麗で真尋は彼女をじっと見つめる。透き通るように白い肌、それを際立たせる艶やかな黒い髪。長い睫毛が縁どる黒曜石の瞳が夜景を見つめてキラキラと輝いている。控えめだが丁寧に施された化粧は彼女の魅力を引き立てていて、それでなくとも綺麗なのに今夜は一段と綺麗でいつまでも眺めていたい気分だ。
真尋の視線に気づいた雪乃が恥ずかしそうにナプキンで口元を拭う。

「もう、何かついているなら教えてくださいな。じっと見ているだけなんて意地悪な人」

「君の横顔に見惚れていただけだ。今すぐにでも奪いたくなる魅力的な唇だ」

 ぱちりと目を瞬かせた雪乃が見る間に顔を赤くする。白い手が頬を押さえて、恥ずかしそうに視線がやや下に逃げていく。
 頬を押さえる彼女の左手に自分の左手にあるものと同じ白銀の指輪が輝いているのが無性に愛おしくなる。恥じらいながらも真尋の言葉に喜びを滲ませる彼女を今すぐ抱きしめてキスをしたい。ここが自宅の寝室でもリビングでもないことが悔やまれる。

「……ねえ、真尋さん」

「ん?」

「何か、言い出し辛い大事なお話があるんじゃなくて?」

 雪乃が穏やかに微笑んだまま首を傾げた。後れ毛がはらりと肩に落ちる。
 予想外の言葉に真尋は、水のグラスに伸ばしていた手を止めた。雪乃の黒曜石のように澄んだ黒い瞳は、じっと真尋を見つめている。
 予想外ではないか、と真尋は降参の意味を含めて苦笑を一つ零して、止まっていた手を動かし、グラスを手に取った。
彼女が産まれて十七年、ずっと傍に居る。真尋は誰より彼女のことを知っているし、理解している。その逆もまた然りだ。それにどういう訳か真尋はこれまで雪乃にだけは隠し事を隠し通せた試しがない。けれど聡く思慮深い彼女は、真尋の隠し事に気付いていても真尋が絶対に話さないだろう案件は気付かなかったふりをして何も言わない。その代わり、彼女に話さなければならないと真尋が思っている隠し事についてはこうしてそのきっかけを作ってくれる。

「君には敵わんな」

「真尋さんは隠し事が下手なのよ」

「君以外は気付かないんだがなぁ……」

「あら、だって私は真尋さんのお嫁さんだもの」

 ふふっと嬉しそうに笑った雪乃に真尋も表情を緩める。水のグラスに口をつけ、口内を潤してから一つ息を吐きだして改めて彼女の瞳を見据えた。

「残念ながら、逃げ切れなかった」

 真尋のその一言に対し、雪乃は微かに息を飲んだ。

「……来年の秋から、俺はイギリスの大学に留学することになった。ついでに五年後、イギリスのとある地方にオープンさせるホテルに関するありとあらゆることを任されることになる。向こう十年、拠点はイギリスになるだろう」

 雪乃は、背筋を正し、黙って真尋の話に耳を傾けてくれている。

「その代わり、真智と真咲に関して本人たちが自分から関わると言わない限り、ミナヅキグループに関することには一切関わらせないと父に約束させた」

「……真尋さんが犠牲になるの? 貴方の夢はもうそこまで」

 雪乃の言葉を遮るように首を横に振った。

「少し時期が遅れるだけだ。起業するくらいいつだって出来る」

「でも、お義父様はこれまで貴方にミナヅキのことを強要したりはしなかったわ。貴方の夢を理解してくれていたんじゃなかったの?」

 食べかけの食事に視線を落としたまま口を開く。

「子どもの我が儘だと言われた。父は面倒だったから何も言わなかったんだろう。父の中では俺の将来は既に決定していて、俺がただ我が儘を言っているように思っていただけのようだ」

「そんな……」

「だが、先ほどもいったがほんの少し時期が遅れるだけだ。俺がこれまで集めてきた人材も共にイギリスに渡り、俺をサポートしてくれる」

「なら一くんと海斗くんも?」

「ああ。あいつらは二つ返事で了承してくれた。二人にとって向こうは実家だし、おばあ様の具合が近年あまりよくないらしくて海斗は来年あたりにでも留学するつもりだったそうだ」

「でも、イギリスなんて大丈夫? 私も頑張るけれど、真尋さん、向こうのお食事に耐えられる?」

 その一言に真尋は目を瞠った。
 彼女が何を言わずとも真尋と共に来る道を選んでくれていることに気が付いたからだ。そんな真尋の様子に雪乃がくすくすと可笑しそうに笑った。

「中等部の時と同じように高等部は特別通信制に切り替えてもらうわ。もともと上には行かないつもりだったし、あなた一人で生活が出来るとは思っていないもの」

「いや、俺だって出来ないことはないはずだ」

「その自信はいつもどこから来るのかしら? あなた、ご自分の下着がどこに入っているかご存知?」

 雪乃が意地悪に目を細めた。真尋は自室のチェストとクローゼットを思い浮かべて暫し悩む。

「……チェストの右の一番上だっただろ」

「いいえ、チェストの左、上から二番目よ。荷ほどきの時点で、貴方は生活に困ることになるわ。それで結局、お部屋が腐海の森になって一くんに怒られる羽目になるのが今からもう目に見えているもの」

 きっぱりと言い切った妻に残念ながら反論が見つからずに押し黙った。
 修学旅行の仕度でさえ、自分ですると言っておきながらどこに何があるか分からず三分ごとに雪乃を呼んだため、自分の部屋だというのに部屋から追い出された。結局、仕度は雪乃がたった十分で終わらせてくれた。

「だが、真智と真咲がいる。こんなこと言うのは間違っているかもしれないが、俺は最悪、一路に面倒を見て貰えば生きていける。だが、二人には君が必要だ」

「もう、そんなことで悩んでらしたの? 連れて行けばいいじゃない。というかそんなことを言っていたら一くんに彼女が出来ないわ」

 あっけらかんと雪乃は言った。
 今夜は彼女に驚かされてばかりだ。真尋の顔が余程可笑しかったのか、雪乃はくすっと控えめに笑った。

「そもそも双子ちゃんが私とあなたから離れるわけないわ。あの子たち、まだ小学生だもの、どうやったって両親に代わる存在が必要だもの。大丈夫よ、もともとあの子たち英語は不自由なく喋れるし、一くんと海斗くんも太鼓判を押してくれているもの。それにイギリスと日本よ? お友達にだって永遠に会えなくなる訳じゃないし、テレビ電話みたいに顔を見て話せるものだってあるもの」

「……俺は、俺の都合で真智や真咲を振り回したくないんだ。彼らには彼らの人生がある。俺は真智と真咲にとって実の父親より父親らしい存在であると言う自覚はある。君が二人にとって母親であるように。だからこそ、俺は……あの人のような父親にはなりたくない」

 テーブルの上に投げ出したままだった手を握りしめる。爪が手のひらに食い込む痛みを微かに感じながら逃げるように目を伏せた。
 真尋にとって父は生活を保障してくれるだけの人間に過ぎない。それ以上の関りを持ったことも、持とうと思ったこともなかった。

「本当は俺だって、真智と真咲を連れて行きたい。傍にいてやりたいし、傍にいてほしい。だが、間違いなく俺はあの人の息子で、あの人は俺の父親だ。あの人の都合に振り回されるたびに、俺も真智や真咲を振り回してしまっているのではないかと不安になる」

「ちぃちゃんと咲ちゃんの好きなものも嫌いなものも将来の夢も貴方は知っているわ」

 雪乃の声に顔を上げると優しく微笑む彼女と目が合った。細い手が伸びて来て、真尋の握りしめた拳にそっと添えられる。

「参観日に来てくれて、宿題をみてくれて、たくさんお話をして、一緒にご飯を食べて、お風呂に入って、たまには遠くに遊びに行って、怖い夢を見たら一緒に眠ってくれて、風邪を引いて寝込んだら一晩中傍にいて看病してくれる。手を伸ばせば無条件で抱き締めてくれる貴方は優しいお兄ちゃんで、お父さんよ」

 真尋の父が参観日に来てくれたことは一度もない。家の食卓に限れば一緒にご飯を食べた記憶もあまりなく、ましてや怖い夢を見た時も風邪を引いて寝込んだ時も幼い真尋は一人で耐えたのだ。父も母もあの家にいることのほうが稀だった。手を伸ばしたって宙を掴むだけだったその日々は、真尋に寂しさの正しい意味さえ教えてくれなかった。

「俺は……寂しいの意味さえもよく分からない子どもだった。君さえいれば、正直、他はどうでもよかった。両親だけじゃなく一路や海斗でさえも。そういう薄情な人間だった。真智や真咲のことは心から愛おしく想っている、だが、結局それは君が教えてくれたことや君が俺にしてくれて嬉しかったことを真似ているだけに過ぎないのかもしれない」

「私の旦那様は、時々、本当に不器用ね。困った人だわ」

 雪乃は言葉とは裏腹に愛おしむように目を細めた。

「大丈夫よ、真尋さん。貴方はちゃんとちぃちゃんのことも咲ちゃんのことも愛せているわ」

 握りしめていた拳を解いて彼女の手を手のひらに迎え入れて握りしめる。
 いつだったか真っ白な病室で彼女は、真尋を自分に与えてくれたことを神様に感謝していると言ってくれたことがあった。
 今、こうして真尋の心の柔らかい部分を優しく包み込んで癒してくれる彼女が、目の前にいるということを実感すると同じように神に感謝したくなる。
 神様と呼ばれる存在が本当にいるのかどうかは分からない。分からないけれど、雪乃という存在を真尋に与えてくれたことを何よりも感謝したい。
 彼女がいてくれなかったら、きっと、こんなにも幸せな気持ちを知ることはなかっただろう。

「……君はすごいな。君が大丈夫と言ってくれるだけで、俺は何でも出来そうな気がするんだ」

「あら、奇遇ね。私も貴方が大丈夫って言ってくれると何でも出来るのよ。死にかけたってこうして何度も戻って来たでしょう? 真尋さんはいつだって私が遭遇した不可能を可能に変えてくれるのよ」

 ふふっと悪戯に笑った雪乃に、真尋もふっと小さく笑みをこぼす。
 一見すれば、風が吹けば折れてしまうような儚さをまとう彼女は、けれど、真尋が知る誰よりも凛と背筋を伸ばし、真っ直ぐに前だけを見つめている。

「……雪乃、イギリスに一緒に来てくれるか」

「ええ、もちろんよ」

 雪乃は、やっぱり一瞬も悩むことなく笑って頷いた。

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