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本編 2

第十四話 懺悔を聞く男

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 馬車の中にある家には、小さな教会がある。教会と言っても八畳ほどの小さな部屋で奥の壁際に木製のテーブルに白いクロスを掛け、その上に真尋自らが作った背丈五十センチほどのティーンクトゥスの石の彫刻像が置いてあり、部屋の入口の両脇に二人掛けのソファが一つずつ置かれているだけの簡素な部屋だ。教会というより祈りの部屋くらいが相応しいかも知れない。一階の東向きの部屋なので、本来であれば早朝に訪れるとティーンクトゥスの背後にある窓から朝日が差し込んでなかなかに美しいのだが、今は馬車の中なので部屋の中は蝋燭の灯りだけだ。
 真尋は両膝をつき、ロザリオを手に静かに祈りを捧げていた。
 森を出て三日が経っている。森を出てすぐ傍にある村に偶然、騎士団の視察隊が訪れていたので情報を下ろした。中身は領主本人ではあるが、一応、擬態しているのも領主様専属の護衛騎士であるから、騎士団は言うことをとても良く聞いてくれた。そして森へクエストをこなしに行く予定だった冒険者のパーティーにも同様に情報を伝えた。エルフ族の里についても情報を双方に求めたが、これといった異変は聞いていないとのことだった。
 とはいえ、世界樹の異変ともなれば極秘事項扱いのため、おいそれと外部に情報を漏らすはずがないというのがダールの見解だ。ただ、そうはいっても里が壊滅するほどの異変があれば、流石に外に救援を求めるだろうからまだそこまでには至っていないのだろうと結論付ける。旅程は予定よりも早めに里へ近づいているが、ダールと双子たちの表情が日に日に曇っていき、あのナルキーサスでさえ憂い顔を見せるようになった。家族が里にいるのだから、彼らの不安は相当なものだろう。

「……人が、祈る姿というのは何度見ても、美しいものだな」

 ハスキーな声はいつものみなぎる生気が感じられず、祈りの部屋に静かに落ちていく。
 だいぶ前にナルキーサスが部屋に入って来たことには気づいていたが、声を掛けられることもなかったので真尋は振り返らなかった。出て行った気配はなかったのでいたのは知っていたが、どこか元気のない声音に真尋は顔を上げて振り返る。
 ナルキーサスは、壁際のソファに腰掛けて、真尋に顔を向けている。だがその黄色の双眸は、真尋ではなくその向こう、どこか遠くに想いを馳せているように見えた。
 だとすれば先ほどの言葉は真尋に向けられたものではなかったのかもしれない、ともう一度、ティーンクトゥスに顔を向けようとしたところで今度こそ真尋に向けて言葉が投げられる。

「……何をいつもそんなに熱心に祈っているんだ」

「幸福だ」

 ゆっくりと立ち上がり、石像に手を伸ばし指先で触れる。冷たい筈の温度も手袋越しでは分からない。

「幸福?」

「ああ。……愛する家族が、友人たちが幸福でありますように。そして今日という日々を生きる我らを見守って下さい、とそれだけだ」

「世界平和は祈らないのかい?」

 皮肉が込められた問いに真尋は緩く首を横に振った。

「ティーンクトゥスは見守るだけの神だ。吐息を風に変えて我々に寄り添うだけの、弱く優しい神様だ。人の子らの力だけではどうにもならないインサニアの穢れから救う手立てを与えてくれる以外は、醜い争いも幸福も平等に見守り続けている」

「…………そう、だったな。ティーンクトゥス神は見守る神様だったな」

 振り返れば、ナルキーサスは自分の足のつま先に視線を向けていた。
 真尋は踵を返し、もう一つのソファへの腰を下ろす。煙草でも一服嗜みたいところだが、生憎とここは禁煙だ。吸ったのがバレたら一路に何を言われるか分かったものではない。長い説教よりは少しの我慢を選び、結果手持ち無沙汰でロザリオを手で弄ぶ。手の中で揺らせば丸いガラス玉の中いっぱいに溜められた真尋の魔力が蒼と銀に煌めく。

「……私の母は妖精族だった」

 沈黙を静かに破ってナルキーサスが話し始める。

「母は健康的で元気な人だったがある日突然、病にかかり三月ほど臥せってあの世に旅立ってしまった。私が成人する少し前の話だから、もう百年以上、昔のことだな。母の病は今では特効薬があり、適切な治療を受ければ死ぬことはほとんどない。……もともと優秀な頭がある自覚もあったし、光属性があったから治癒魔法も簡単なものなら使えていた。だから私は里を出て治癒術師を目指すことにしたんだ」

 ナルキーサスが細く長い脚を組み、膝の上で手を組んだ。

「ブランレトゥの魔導院で一年ほど過ごし、思ったより才能のあった私は王都へ推薦してもらえて、王都へ行った。王都で得た私の師はとても素晴らしい人で私は彼に治癒術師として、魔導師としてありとあらゆることを教わった。ちなみに彼はエルフ族だから存命だぞ。今もたまに手紙のやり取りをしている。ああ、そうだついでに言っておくと初めて行った骨折の治療のための手術で骨の美しさに魅了された」

 ふふっとナルキーサスが懐かしむように目を細める。

「私は人生の殆どを王都で過ごした。研究が楽しかったのもあるし、里は言ってしまえば帰るには遠すぎて面倒くさかった。父も元気だったし、手紙のやり取りはまめにしていた。それでもまあ薄情だとはよく言われたんだがな」

「そうか? 俺も妻や弟たちがいたから家に帰るのが楽しかったが、そうでなければ俺もどこぞの研究室か書斎にでも籠って延々学問でもしていただろうな。父や母も好き勝手に仕事をして家にいないのだから構わんし、元気なら尚のことだ」

 くるりとナルキーサスが振り返り、可笑しそうに笑った。

「肯定されたのは初めてだ。皆、薄情だと私を怒ってばかりいた」

「親子の関係は様々だ。気にしていなかったわけではないのだろう?」

「父のことは愛しているからな。ただ……母を喪って哀しむ父を置いて出てきてしまったという身勝手な負い目もあったのは事実だ。私も三百歳くらいまで好きに生きたら里に帰って父の老後の面倒をみようと思っていたし、父もそれくらいでちょうどいいと言ってくれていたからな」

 やっぱり長生きする種族というのは、鍛冶屋のドワーフ族の爺もそうだが人生計画が百年単位なので、そこの価値観だけは今一つ理解が難しい。真尋の一生は長くても百年くらいだからだろう。

「……私がレベリオと出会った時、あいつはまだ十八の若造だった。領主様は、あの当時はまだ学生だったな。王都の学院から王立騎士団に入団する予定で、そこで学ぶジークフリートにくっついてきていたんだ。仕事先でたまたま会って一目惚れしたとかなんとかいって熱烈に口説いて来た。百歳以上年下だし、子爵という爵位まで持つお貴族様だ。私の性には到底合わんと相手にもしなかったが……あまりにあの若造が熱心に口説くものだから、ついうっかり頷いて結婚などしてしまった」

 ナルキーサスの表情は長い前髪に隠れて見えない。だが、その口元には微かな笑みが浮かんでいるのを見つけた。

「……あの時、私が頷かずにいれば、もっと素晴らしい相手を、コシュマール子爵夫人と名乗るに相応しい女性を得られたろうに。こんな男だか女だか分からんようなものを妻にして、恥を掻かせて苦労をかけてばかりだ。……可哀想なことをあの子にしてしまった。もっと早くこうしてあの子を開放してやれば良かった」

 懺悔するような言葉に真尋は、漸くこれがナルキーサスの懺悔なのだと気が付いた。
 思い出話なのかと思って聞いていたが、どうやら彼女は神父である真尋に懺悔をしに来たらしい。
 あの子、とナルキーサスは言う。百歳以上年が離れているらしいので、間違ってはいないのだろうが何だかあまりに愛おしそうにそう言うものだから、言葉とは裏腹に彼女は、本当はレベリオから離れがたいのだろう。

「レベリオは優秀な男だ。……王家の阿呆が一時期、爵位をやたらめったら与えてな。しかし、爵位は兎も角領地は限りがあるだろう? 古くからの貴族たちが領地を切り売りする訳もなく、ほとんどの物が爵位だけで領地を貰えなかった。コシュマール家もその一つだ。しかし、爵位がある以上、貴族としての義務が発生する。彼らは、学問、治癒魔法、武芸、商売、なんでもいいからどれか一つでもいいから功績を立てて家を繋げ続けるか、コシュマール家のように大貴族に重宝してもらうかしか生き残る道はなかった。どれも簡単な道ではない」

「……だからブランレトゥには貴族街があるのか。多少、不思議だとは思っていたんだ。何故に他人様の領地に居を構えているのか、と。王都なら兎も角な」

「なんだ、知らなかったのか」

 ナルキーサスが意外だなと言いたげに振り返る。

「……多分、興味がなかったんだな」

「ははっ、君らしいな」

 ナルキーサスは可笑しそうに笑う。

「話を戻すが、コシュマール子爵家も成り行きで爵位をもらってしまった家だったが、元々、この東の地で生きていた彼らは、優秀な騎士を輩出することで有名な一族で色々な縁あって領主家の乳母にまで落ち着き、今がある。それでも領地を持たぬ貴族が生き抜くのは容易いことではない。レベリオやアルトゥロの優秀さは、コシュマール家にとって宝と言っても過言ではない」

「……アルトゥロは魔導師だが、コシュマール家は魔導師も多いのか?」

「いや、コシュマール家は言っては何だが脳みそが筋肉で出来ているから、騎士とか冒険者とかの方が向いている。アルトゥロは異色でな。昔は騎士として育てられていたらしいが、運動面で一切の才能がなかったので魔導師の方が向いているのに気付いたレベリオが早々に両親や一族を説得したらしい」

「まあ確かに」

「レベリオも事務官を卒なく勤めているが、ああ見えて暴れ回るほうが好きな性質なんだ。その点は、ジークフリートともウィルフレッドとも相性がいいのだろうな。あいつらもまとめて脳筋だから」

「……まあ確かに」

 同じ言葉を繰り返す真尋にナルキーサスは、またくすくすと笑った。
 ウィルフレッドはしょっちゅう書類から逃げて、鍛錬に混ざって居たりするし、ジークフリートもこの間、愉しそうにゴブリンを狩り尽くしていた。言われて見れば、あの兄弟は書類仕事には向いていないタイプなのだ。

「私もそうなると異色な存在だが、大らかな一族でもあるから私のことも受け入れてくれた。子爵夫人として何の役にも立てないことが本当に申し訳なくなるくらいにはいい人たちだ。義父上も義母上も義弟も義祖母様も、レベリオも人が好過ぎて心配になるくらいに」

 笑みが悲し気なものに変わる。

「……後継が、いないことが問題なのか」

 真尋の踏み込んだ一歩にナルキーサスは数拍の間を置いて、微かに頷いた。
 膝の上で握りしめられていた細い手に爪が食い込むほどの力が込められているのに気付いて腰を浮かすが、完全に立ち上がる前に予想していなかった言葉が聞こえて中途半端な姿勢のまま真尋は固まる。

「…………私とレベリオには、息子が、いたんだ。生きていればリックやエディと同い年だ」

 突如、放り投げられた爆弾は過去の形をとっていた。
 痛みに耐えるかのような顔でナルキーサスが真尋を見上げる。

「聞いてくれるか、神父様。私の……懺悔を」








「……エルフ族は長命故に子どもができにくい。だが、私とアルトゥロは結婚して、僅か半年であの子を授かった。エルフ族は人より妊娠期間が少しだけ長くてな、約一年、身籠ることになるが幸せな一年だった」

 真尋が座り直すとナルキーサスは静かに語り始めた。

「満月の晩、私は産気づいた。だが酷い難産で、産まれたのはその五日後だ。あの子はどうにか無事だったが私は生死を彷徨い、二週間も意識不明だったそうだ。そして…………二度と子を産めぬ体になった。私には子宮がないんだよ」

 そう言ってナルキーサスは薄い腹をそっと撫でた。
 そう告げる彼女の横顔は、どこか虚しくて空っぽだった。

「シャマールと名付けたのだと、意識を取り戻した私にあの子を抱いて泣きながらレベリオが教えてくれたのを今でも鮮明に覚えている。余りに情けない姿に私は笑ってしまったんだがな」

「酷いな、君は」

「仕方がないだろう。本当に面白い顔をしていたんだ」

 ナルキーサスは悪びれることなく言ってのけた。

「シャマールはレベリオによく似て、元気な男の子だった。だが私の息子でもあったから、魔術にも才能があったんだぞ。元気で明るく、悪戯ばかりして、ふふっ、義父上のカツラをパーティーの最中に奪い取ったのは本当に滑稽だった。まだ一歳の時の話だ。お披露目のパーティーでやってくれた」

「ふっ、それは愉快だな」

「ああ、とても愉快だった。義母上は「私は最初からカツラは反対でした」とシャマールを褒めてくれたが、義父上は暫く落ち込んでいた。だがそれからもあの子は色々とやらかしてくれたんだがな。ああ、二歳の時にアルトゥロの部屋に侵入したことがあってな、」

 大切な想い出を騙るその顔は、優しく愛情に溢れていて、それは真尋が初めて見るナルキーサスの母親の顔だった。

「騎士になるのか、魔導師になるのか、はたまたそれ以外か、レベリオは騎士になって欲しかったようだが、私はあの子の好きにしたら良いと思っていた。……だが、あの子が漸く七つになった時、病を患った。…………母と同じ病気だった」

「特効薬があったんじゃないのか」

 ナルキーサスは力なく首を横に振った。

「特効薬が出来たのは、あの子が亡くなった二年後だ。病名をカタラ斑花病という。風邪のような初期症状が現れ、緩やかに悪化していき、それがカタラだと気付く頃にはもう遅い。体に花のような形の発疹が無数に出るんだ。最初は胸のあたりに出始め、次第に体中に広がり、そして熱が下がらなくなり、人体の限界を超える体温にまで上昇し、そして死ぬ」

 大袈裟に息を吐きだして、ナルキーサスは天井を見上げた。

「あの子は五十八日の間、苦しみ続けた。私はありとあらゆる方法を試し、ありとあらゆる薬を飲ませたが、何の効果もなく、王都のあの教会にさえ出向いたよ。それでも最後にはもう奇跡を願うことしか出来なかった……っ」

 握りしめられたその細い手に爪が食い込み、赤いそれがぽたりと彼所のズボンに落ちてシミを作る。ナルキーサスが俯いた拍子にその頬からもぽたりと滴が落ちた。

「治癒術師の私が、奇跡なんてもの縋って…………たすけてやれなかった」

 真尋は立ち上がり、ナルキーサスの下へ行く。彼女の目の前に膝をついてその手に自分の手を重ねた。

「ガリガリに痩せ細って、可哀想なほど苦しんで……わたしはっ、愛するあの子に、何一つしてやれなかった……っ」

 ノアを最期まで諦めなかった彼女の理由を知った。子どもに触れる時、いつもほんの一瞬、躊躇う理由も、奇跡という言葉さえも憎む程に現実主義者であろうとする理由を全て同時に知ってしまった。

「レベリオも、義父上も、義母上も、アルトゥロも、義祖母様も、誰も、誰も私を責めなかった……っ。大切なあの子を救えなかった無力な私を、奇跡に縋った馬鹿な女を、責めてくれなかった……っ」

 爪がますます食い込んで血が溢れ、それを阻止するために自分の手を握らせた。だが、そうすると彼女はただ柔く握るだけで爪を立てようとはしなかった。その優しさが無性に切なかった。

「……レベリオは、空っぽになった息子の部屋で泣き暮らす私に何も言わなかった。抱き締めてもくれなかった……でも、本当は何度も私に声をかけようとしていたことも、抱き締めようとしてくれていたことも知っているんだ。あの子は、優しい子だった。シャマールの優しいところは、父親似だった。でも私が拒絶したんだ」

 自嘲のこもった笑みが一つ、薄い唇に乗せられる。

「離縁してくれと頼んだ。でもレベリオは絶対に頷いてくれなかった。義母上も義父上も、アルトゥロの子が家を継げばいいとそう言ってくれて、アルトゥロも頑張って結婚しますと言ってくれた。でも、でも……私は、私が、嫌だった」

 真尋はナルキーサスに握らせた手と反対の手を伸ばし、彼女の涙を拭う。けれど、次から次に溢れて止まる気配がない。

「マヒロ、エルフ族はな、人族や有鱗族のように夫や妻を変えることはない。一生をたった一人の愛する人とだけ共にするんだ。それは出会えば分かる。触れれば確信する。言葉にし難い不思議な感覚で……私にとってレベリオはまさに運命の相手だった。だから百年以上、独り身だったんだと納得さえした」

 握られた手が少しだけ力を込めて真尋の手を握りしめる。

「……なのに、私は、妻としてもう何の役目も果たせない……っ」

 くしゃりと秀麗な顔が歪んで、溢れる涙が勢いを増す。

「私から離縁を切りだしても頷いてくれないから、レベリオが、好きだと言ってくれた長い髪をばっさりと切った。そして、スカートやドレスは全て処分して、私は男のように振る舞った。子爵夫人としての仕事もすべて放棄して、研究に明け暮れ、屋敷にはほとんど帰らずにいた。そうすれば……嫌ってくれると、追い出してくれると思ったのに、レベリオのエルフの血は薄いから、捨ててくれると思ったんだ。……もっと、ちゃんとした人を迎えて、今度こそ幸せになって欲しかったのに……っ」

「キース……」

 黄色の瞳がゆらゆらと涙の海の中で揺れている。

「離れたくない……そう、願ってしまうんだ……っ」

「それは、いけないことなのか」

「だめだ……だめだ。だって、私はもう子供を産めない、女でも、男でもない……っ。私とレベリオの宝物を助けられなかった役立たずの治癒術師だ……っ」

 ナルキーサスの体が倒れて来て、真尋の肩に額がくっつけられた。真尋は涙を拭っていた手を細い背中に伸ばし、そっとあやすように触れる。背はそんなに変わらないのに、その細く華奢な背中が紛うことなく女の物だった。
 何故だか、全く似ていないのに「子どもは諦めて欲しい」と告げた時の雪乃を思い出した。あの時、雪乃は「ごめんなさい」と何度も何度も繰り返して、今のナルキーサスみたいに真尋の腕の中で泣いていた。
 雪乃は何も悪くないのに、彼女は真尋が何度止めても壊れた絡繰りみたいに「ごめんなさい」を繰り返した。

「俺は男だから、君や雪乃の気持ちは多分、一生分からない。元々産めない俺には、君たちの哀しみも、悔しさも、寂しさも、切なさも、分かったふりしか俺たちには出来ないんだ」

 真尋は男だ。生物学上、子を産むことはどうやっても出来ない。だから、表面上は理解できてもそれ以上は無理だ。分かるよ、と男である真尋が言ったところでそれは詭弁だ。

「でも、寄り添うことはできる。君の溢れる感情を受け止めることはできる。俺も……レベリオ殿も」

 涙に濡れた黄色の瞳が真尋を見上げる。

「でも、もう……疲れてしまった……っ。話をしようとしたんだ、何度も、何度も……でももうレベリオは応えてくれなくなっていて、頑なに私を昔の私に戻そうとして……違うんだ。確かにレベリオを拒否しようとして髪を切った……でも、同時にシャマールへの手向けでもあった……っ。私は顔を上げたんだ。泣いてばかりいてはいけないと、悪戯をしかけてきては私の笑顔が一番好きだと言っていたあの子の為に……シャマールのためにアルゲンテウス一の治癒術師になろうと決意したんだ……っ。でも、もう……この十三年、本当に……本当に、つかれてしまった」

「なら少し休めばいい。君たちの人生計画は百年単位だろ? だったら少しくらい休んでいいんだ、キース。君は本当によく頑張った」

 くしゃりとその双眸が歪められて、ぼろぼろと大粒の涙が彼女の頬を濡らした。嗚咽を殺しながらナルキーサスは、真尋の肩に顔を埋めて縋るように真尋の服を掴んだ。

「君のっ、神様は……私のこの十三年も、見守っていてくれただろうか……っ?」

「もちろん。涙もろいからな、今頃きっと、君につられて泣いている」

「ははっ、やさしい、かみさまだな……っ」

 くぐもった笑い声に続いて嗚咽が漏れた。
 抱き締めるのはレベリオと雪乃に悪い気がして、ただミアやサヴィラにするようにその背を撫でてやる。ナルキーサスも抱き着いてはこなかった。ただ真尋の服を握りしめ、肩に顔を埋めて声を殺して泣いていた。
 真尋はナルキーサスが泣き疲れて気を失うまで、ただそうしてずっと彼女の背を撫でていた。






 泣きつかれて眠るナルキーサスを彼女の寝室に届けて、あとのことは双子に任せた。真尋がしてやれるのは手の怪我の治療と目を冷やすための氷水を作るくらいで、女性の服を脱がす訳にもいかないからだ。ティリアのほうがその辺はどうにかしてくれるだろう。
 夕飯は一路が作ってくれたというので、下へ降りてキッチンへ向かう。そうすれば待ち構えていたらしいリックがすぐに仕度をしてくれて、ダイニングで一人だけ遅れて夕食をとる。リックは「食べ終わったらそのままでいいですよ。旅ではお皿も貴重なので」と言い残し、外へと戻った。

「キースは漸く君に話したんだな」

 ワインの瓶がぐっと差し出されて顔を上げれば、ジークフリートがワイン瓶を片手に前の席に座ろうとしていた。真尋が空になっていたグラスを彼に向ければそこにワインが注がれる。ふわりと葡萄の芳醇な香りがする白ワインだ。

「どうしたんだこれ?」

 真尋が飲みすぎるという理由で酒は全て一路とリックの管理下にあるし、夕食時に一杯しかくれないのだ。しかもあいつらはそれをジークフリートやダールにまで適用している。ダールはもともと普段は夕食時に酒は一杯しか飲まないので文句はないそうだが、真尋とジークフリートは抗議したのだが相手にもしてもらえなかった。

「アイテムボックスに入っていた。部屋でこっそり冷やしておいたんだ。君のところの護衛騎士もうるさいがうちのも大分うるさいんだよ」

 そう言ってジークフリートは自分のグラスにも同じものを注いだ。
 黄金色の液体がグラスを満たすのを眺めながら真尋は口を開く。

「……君は知っていたんだな。まあ当たり前か、君とレベリオは乳兄弟だったか」

「ああ。正直、人生で最も長く一緒にいたのはあいつだな。キースに惚れた時もまあうるさかった。やれ流行りのケーキ屋はどこだ、骨の名前がどうたらこうたら、流行りの色はどれだことの……それでもまあ楽しそうだったし、幸せそうだった。いいや、事実、幸せだった。レベリオもキースも、シャマールは本当に良い子で、ちょっと悪戯好きの悪ガキだったが、優しい子だった」

「一歳の時に祖父のカツラを公衆の面前で暴露したという伝説持ちらしいな」

 真尋の返しにジークフリートは、聞いたのか、と可笑しそうに目を細めた。

「その頃から片鱗は見えていたんだ」

 くるくるとグラスを揺らして、ゆっくりと口を付ける。彼の声に耳を傾けながら、真尋はイチロお手製のナポリタンを啜る。雪乃には劣るが一路の料理もなかなかに美味い。

「……さっき、超速達便で文が届いてな」

「町で何かあったか?」

「どちらかというと私の弟の胃が被害者なんだが、レベリオが辞表と置手紙を残して、町を出たそうだ。こちらを追いかけてきているらしい」

 予想外の言葉に一瞬強張った心が瞬時に脱力する。

「大丈夫なのか? 一人で向かっているんだろう?」

「あれも騎士の端くれだ。一人ならむしろ自分の身を守るだけだから充分だ。…………話が出来ると思うか?」

「さあな。こればかりはレベリオ殿とキースの心次第だ。夫婦喧嘩には外野は出来るだけ口は挟まんほうがいい……とはいえまた家を破壊されては敵わんからな、一応、いざとなったら挟むつもりだが」

「そうか」

 ジークフリートがふっと表情を緩めた。

「……ずっと申し訳ないという気持ちがあってな……。実はシャマールが亡くなって一年経つか経たないかという頃に兄上が亡くなり、私が辺境伯位を継ぐことになったんだ。レベリオも当然、戻ることになったんだがナルキーサスはそれを拒んだ。彼女は王都で立場ある治癒術師だったし、何よりあそこはシャマールが産まれて育った場所だ。離れがたかったんだろう。レベリオを置いて行くことも考えたが、あの馬鹿は譲らなかった。私の家に仕える誇りを折ってくれるな、と私に着いて来てしまった。そして彼女は二年遅れてブランレトゥにやって来た。その時にはもう今の状態だった」

 ぐっとワインを飲み干してグラスが空になった。今度は真尋が彼のグラスにワインを注ぐ。

「自分が父親になって、初めてレベリオとキースの哀しみが分かったような気がして、やはりあの時、殴ってでもレベリオを置いて来るべきだとも思った。……キースはシャマールが亡くなった二年後、カタラ斑花病の特効薬を完成させた。彼女の治癒術師歴でも最も名誉ある功績で、彼女の名をアーテル王国中に知らしめた発見だ。彼女の母と息子を奪った病を彼女は見事、倒してみせたんだ」

「シャマールのためだと言っていた。……シャマールに誇れる母親でいたかったんだろうか」

「かもしれないな。……これは私の自分勝手な願いだが親友夫婦には幸せであって欲しい」

「なら君もさっさと奥方と仲直りをするんだな」

 うぐっとジークフリートが呻いたが知らん顔して自分のグラスにワインをなみなみと注ぐ。

「夫婦喧嘩はな、犬も食わないんだ。うちの何でも喰うテディだって喰わんぞ。あと夫婦の不仲は、子どもの健やかな成長を妨げる最悪の要因だ」

「……帰るまでには、謝る方法を五十パターンぐらい考えておく」

「馬鹿野郎。男なら潔く土下座一択だ。俺が美しく完璧な土下座を君に教えよう」

 真尋のぞんざいな一言にジークフリートは頬を引き攣らせる。

「君はほんとに顔に反して大雑把というかなんというか……あと私は領主だぞ、これでも」

「人んちに嫁が家出している時点で君が威張れることなど一つもないからな」

「……皿の弁償はちゃんとする」

「足りなくなっていなければ別に構わんが……そう考えると皿は足りているだろうか。一応、ある程度の金はクレアに預けてきたんだが」

「アマ―リアの侍女のリリーはしっかりしているから大丈夫だ」

「ああ、家のことなんか思い出したら、ミアとサヴィに会いたくなってきた。帰りたい」

 ワインを煽りながら真尋は項垂れる。ナポリタンはあっという間に空になってしまったが、おかわりとかあるのだろうか。ここでも真尋はキッチンに出禁を言い渡されているのでおかわりの確認もできない。すると何かを察したらしいジークフリートが立ち上がり、真尋の皿を手にキッチンに行くとおかわりを持ってきてくれた。

「ありがとう。流石は領主殿、気が利くな」

「私におかわりを持ってこさせるなんて、君くらいのものだよ」

 苦笑を零しながらジークは席に戻り、一緒に持って来たらしいチーズを摘まみ始めた。

「だが、これはキースの分ではないのか?」

「キースの分は別に取り分けてきた。それよりさっさと瓶を空にしないとまずい。見つかるとうるさいからな」

「全くだな」

 半分ほど残っていたワインを一気に飲み干せば、また並々と注がれる。ジークも自分のグラスに溢れそうなほど注いで慌てて口を付けていた。ビールが溢れそうになったおっさんみたいだなと思ったが真尋は口には出さず、山もりのナポリタンを食べつつとりとめもない話をしながら、夕食を済ませたのだった。
 結局、ナルキーサスは起きて来ず、残りのナポリタンは翌朝、真尋の胃に収まった。


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