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第四話 手巻き寿司パーティー
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「それで、朝とお着物が違ったんですね」
「はい。一応、気にしなくていいと、先方にも内緒にするようにお伝えしたんですが、もしかしたら何か連絡があるやもしれません」
昼頃、起きてきた千春が紗和子の着物が朝と違うことに気づいて「何かありましたか」と心配そうに尋ねてきたので、事情を説明するために縁側に並んでお弁当を食べている。春ノ助は、小花衣家のなかなか風情ある庭を楽しそうに探索している。
庭の物干しざおでは三人分の洗濯物に加え、紗和子の着物と襦袢が風に揺れている。
「ええと、御影さんでしたか。確か、先月こちらに越してきて、うちの近所ですよ」
「そうなんですか」
「道場で、お母さん方が話していましたから」
千春は小説家の仕事のほかに近所の公民館で、火曜と金曜の週に二回、夜七時から九時の二時間、子どもたちに空手を教えるのを手伝っている。小説家として売れる前にお世話になった先輩の道場だそうだ。とはいえ、昨日までのように締め切りに追われている時は行けないが。
「角を曲がったところに新築のお家があるでしょう? 庭に木製のブランコがある」
「あそこですか? ……近いですね」
本当にすぐそこの家だ。徒歩三分もかからない。
基本的に薫の送迎は、息抜きがてらと言って千春が担っているので、あまりお母様方と交流する機会がないのだ。薫から話も聞けないので、余計に知らないことが多すぎる。
「何でも奥さんは、弁護士さんだそうです。駅前の法律事務所にお勤めだそうですよ。家族で越してきたらしいのですが、旦那さんが急に海外に出張になってしまったそうで、お子さんも小さいですから大変そうだって皆さん言っていましたよ。森山幼稚園は、三歳児以上が対象なので、妹さんはお母さんの職場近くの託児所に預かってもらっているとか」
奥様方の情報網は相変わらず侮れないなと紗和子は感心してしまう。
千春は、もぐもぐと美味しそうにハンバーグを頬張っている。一緒に暮らしてまだ二週間と少しだが、千春は本当に美味しそうに何でも食べる。そして、人の二倍か三倍は食べる。大きな体に見合う食欲だ。作り甲斐があってとても楽しい。
「紗和子さんは、冷凍食品はあまり使わないのですね」
「そうですね。今は時間がたっぷりあるので下ごしらえも作り置きも余裕がありますから」
「お恥ずかしい話、僕は薫を引き取るまではほとんど料理はしたことがなくて。あの子のお弁当を作っている時は、考えも及びませんで……」
先日、スーパーに一緒に行った際、紗和子が冷凍食品コーナーに行って初めて、千春はその存在を知った。「もっと早くに知りたかったです」とカップグラタンを手に嘆いていた。彼は説明書をきちんと読める男なので、電子レンジは使えるのだ。
「でも、知っていたら知っていたらで、冷凍食品オンリーになりそうですが……」
「得手不得手がありますし、冷凍食品だって別にいいと思いますよ。今の冷凍食品は美味しいですし、何より便利ですから」
ぱちり、と千春が目を瞬かせる。
「……意外です。やっぱりプロの家政婦さんなので、そういったものは嫌いかと勝手ながら思っていました」
「よく言われましたよ。ふふっ、私たちは、プロだから、依頼先のご家庭でそれがどなたかの大好物だとか言われない限りは使えません。でも、今は料理ではなくて、食材そのものが冷凍されたとても便利な代物がありますので、それを依頼主さんがあらかじめ買い置きしていたりするので、使うことはありましたね」
「そんなものがあるんですか?」
「ええ。お肉から野菜、シーフードなんでもありますし、コンビニでも色々あるんですよ」
「なるほど……今度、見に行ってみます」
ぱちぱちと目を瞬かせる千春に紗和子は、ふっと笑ってご飯を口に運ぶ。
それからぽつぽつと会話を交わしながら、昼ご飯を終える。紗和子はお弁当箱を洗って、お風呂の掃除をして、夕食の下ごしらえをする。千春は、急な打ち合わせが入り、紗和子が洗濯物を取り込んでいる間に出かけて行った。
「うん、綺麗になった」
今日は、とても天気が良かったので、桜色のウールの着物はさっぱりと乾き、シミ一つなく綺麗になっている。紗和子は、少し考えてから、もう一度、その着物に着替える。蓮人に会うことがあれば綺麗になったよ、と言ってあげたいと思ったのだ。
「春ノ助、お留守番、お願いね」
庭で遊び疲れて眠る春ノ助に声を掛け、紗和子は薫の迎えに出かけた。
「おかえりなさい、薫ちゃん」
幼稚園の玄関に顔を出した紗和子を見つけて嬉しそうに薫が笑う。急いで靴を履くとぱたぱたと駆け寄って来た薫をしゃがみこんで受け止め、ぎゅーっとする。
帰り支度をした子供たちが、ちらほらと教室から出てくる。送迎バスが門の前に停まっているので、ほとんどの子がそれに乗り込み、保護者のお迎えで帰る子が玄関脇のお遊戯室に行く。
「今日も楽しかったですか?」
こくこくと薫は頷いて、通園バッグからお花の形の折り紙を出して見せてくれた。
「薫ちゃんが作ったんですか?」
「ううん、これはあたし!」
ひょっこりと風香が顔を出す。風香は珍しく今日はまだ帰らないのか、通園バッグは持っていないが、手に色違いのお花の折り紙を持っている。
「こうかんしたの! こっちが薫ちゃんがつくったおはな」
「そうなんですか? どっちもとても上手です」
紗和子が褒めると二人は、顔を見合わせてニコーっと笑い合った。可愛らしくて、抱き締めたくなってしまうのをこらえる。
「風香ちゃんは今日はまだ帰らないんですか?」
「うん。きょうはね、おかあさんがおそいひだから! これからおひるねして、四のじかんにかえるの。でも、きょうのおむかえはねぇ、おばあちゃんがきてくれるんだよ」
「そうなんですね」
嬉しそうな風香に薫もニコニコしている。
「小花衣さん!」
顔を上げると日菜子が慌てた様子でやってきた。
「今朝は本当に……あれ、そのお着物」
目を瞬かせる日菜子に紗和子は立ち上がる。
「はい。ウールの着物は洗濯機で洗えるので便利なんです。それに今日はお天気も良かったので綺麗さっぱりです」
日菜子が、ほっとしたように表情を緩めた。着物に馴染みのない人にとっては、着物=全部高いというイメージがあるので仕方がない。
「……蓮人くん、大丈夫でしたか?」
「あの後もなかなか落ち着かなかったんですが、お弁当を食べたら寝ちゃいまして。今もまだお昼寝中です」
「そうなんですか……もし、気にしているようだったら綺麗になったって言ってあげてください」
「あ、じゃあ、お写真良いですか? 蓮人くん、やっぱり気にしてる様子だったので」
「もちろんです」
日菜子が一度、どこかに戻ってデジカメを持って帰って来た。汚れてしまった側の写真を一枚、あと何故か薫と風香と三人で一枚、写真を撮った。
「じゃあ、薫ちゃん、帰りましょうか」
薫に手を差し出せば、小さな手がぎゅっと紗和子の手を握り返してくれる。
「薫ちゃん、またあしたね! あれ、蓮人くん?」
バイバイと手を振った風香が教室に戻ろうとして首を傾げる。その視線の先を辿れば、ばっちり帰りの支度をした蓮人が立っていた。
「蓮人くん、まだお帰りの時間じゃないよ? お昼寝してたから、間違えちゃったかな?」
日菜子が慌てて駆け寄るが、蓮人はむっつりと黙り込んだままだ。肩から斜めにかかる通園バッグの紐部分を胸のあたりでぎゅうと握りしめている。
泣き過ぎたせいか、蓮人の目は真っ赤になって腫れぼったい。
「蓮人くん、お着物綺麗になりましたよ。だから心配しないでくださいね」
紗和子が声を掛けると蓮人は俯いてしまう。日菜子が「お教室に帰ろうね」と声を掛けるが、蓮人はやっぱり動かない。
「蓮人くん、風香ちゃん、また明日ね。薫ちゃん、帰りましょう」
これ以上いると邪魔になりそうで薫に声を掛け、帰ろうとしたところで、蓮人が紗和子と薫の前にやってきた。日菜子が「蓮人くん?」と追いかけてきたが、それより先に蓮人が薫の手にあったお花の折り紙を奪い取った。
あ、と思った時には、びりびりに破られて、ダンダンと踏みつけられる。
「蓮人くん!」
日菜子が蓮人を捕まえようとするが、蓮人は日菜子の手を払いのけて、何故か紗和子に体当たりをかましてきた。
「きゃっ」
尻餅を覚悟したが、何かに抱き留められて顔を上げれば、出かけたはずの千春がいた。視界の端で教室のほうへ駆け出した蓮人を日菜子が慌てて追いかけていく。
「ち、千春さん、どうしてここに」
「急な打ち合わせだというから、出かけたら急にその打ち合わせがやっぱり無しだと言われて戻って来たんです。それで前を通りかかったら、まだ紗和子さんと薫がいたので一緒に帰ろうかと思いまして。紗和子さん、大丈夫ですか?」
「はい。あ、それより薫ちゃん!」
振り返れば手を繋いだ先で、薫がぼろぼろと涙をこぼしている。千春が「薫」と名前を呼んで腕を伸ばしたが、何故か薫まで紗和子に体当たりする勢いで抱き着いてきた。千春が「薫……っ」と悲愴な声を出した。
紗和子は、しがみ付く薫を抱き上げる。そうすれば、薫がぎゅうぎゅうと紗和子に抱き着いて来る。声が出ない分、薫はなんだか随分と辛そうに泣くので胸が痛む。
「薫ちゃん、ごめんね。折り紙、守ってあげられなくて」
「薫ちゃん、あたし、またつくってあげるよ! あ、そうだ! 薫ちゃんのおかあさん、まってて! おひるねのまえに、ちょーとっきゅーでつくってくる!」
言うが早いか、風香が教室の方へ駆け出して行く。
紗和子は、千春と共に玄関の中に入って隅の方へ移動して、薫をあやす。紗和子は、あの折り紙は薫が風香とお互いに作りっこしたのだと千春に説明する。
薫は、ぎゅうぎゅうと唇を噛み締めて、ぼろぼろと泣いている。
騒ぎを聞きつけた先生がパイプ椅子を持ってきてくれたので並んで座り、薫に声を掛けて風香を待っていると、風香と共に日菜子も戻ってきた。
「薫ちゃん! はい、できたよ! とくべつにひかるおりがみ、理沙先生がくれたんだよ!」
赤い銀紙で折ってくれたお花を風香が差し出す。
だが、薫は風香を見てもなかなか手を伸ばさない。
「薫、風香さんが綺麗なのを作ってくれたよ」
千春が声を掛けるが、ぼたぼたと泣きながら薫は風香を見つめている。
「風香ちゃんが作ってくれたのに、だめになっちゃって薫ちゃんは悲しくて……うーん、悔しくて、風香ちゃんも悲しいのかなって、心配なのかしら」
紗和子がそう口にすると、薫はこくりと頷いた。
すると風香が、にこっと笑う。
「だいじょうぶだよ、薫ちゃん。蓮人くんは、きょう、かなしいひだからしょうがないよ。それよりみてみて、とくべつなおりがみだから、キラキラだよ! ぐれーどあっぷだよ!」
風香は、おおらかでとびきり優しい子だ。
薫が紗和子から降りて、風香から折り紙を受け取った。口元が小さく動いてなんとなく「ごめんね」と言ったのかなと首を傾げると、風香は「へーき!」とまた笑った。すると薫もつられて、小さくだが笑う。
その様子に紗和子と千春は顔を見合わせて、ほっと胸を撫で下ろす。
「小花衣さん、本当にすみません……! 私の配慮不足です!」
がばりと頭を下げた日菜子に紗和子は慌てて「顔を上げて下さい」と声を掛ける。
「怪我もありませんし、私は大丈夫です。それより蓮人くんは?」
「トイレに籠城してしまって、園長先生が傍にいて下さっています」
おずおずと顔を上げた日菜子が教えてくれる。
「今回のことは、流石に蓮人くんのお母さん、御影さんにきちんと伝えさせて頂きます。今朝の嘔吐の件は悪意が無かったので、私も小花衣さんの優しさに甘えさせて頂きましたが今回は流石に御影さんにお伝えしないと、蓮人くんのためになりませんから」
日菜子の言葉はもっともで、おろおろする紗和子に代わって、千春が答える。
「……そう、ですね。確かにあのままでは、蓮人くんがますます苦しくなってしまいそうです。でも、妻も薫も怪我はないですし、風香さんのおかげで薫は特別なお花も頂けたので、大ごとにする気はありません」
薫がこくこくと頷いたのに、つられるように紗和子もこくこくと頷く。
「御影さんは、何時頃、お迎えに来られるのですか?」
「お仕事がお忙しいようで、一番遅いお月さまコースなので、七時なんですけど……ここのところ、ずっと八時過ぎでして」
日菜子が言い淀む。
「毎日、ですか? 朝は?」
「ええ、まあ。朝も毎日、八時くらいに。今日は少し遅かったんです。いつも多少、蓮人くんは駄々をこねるんですが、あそこまでぐずるのは今日が初めてで」
今朝、薫が登園したのは八時半より少し前だ。計算すると十二時間くらい蓮人は幼稚園にいることになる。
千春が懐に手を入れて、名刺入れを取り出すと一枚取り出し、一緒に取り出したペンで裏にスマホの番号を書くと日菜子に渡す。
「僕も紗和子さんも基本的には家にいますから、もし御影さんが何かしら連絡を取りたいとおっしゃるようでしたら、これを渡して下さい。裏面の番号が僕のスマホの番号になります」
「分かりました。お預かりします」
日菜子がそれを両手で受け取り、エプロンのポケットにしまった。
「薫ちゃん、風香ちゃん。蓮人くんは今、ちょっとだけ悲しい気持ちがいっぱいになっちゃってるから、いじわるしちゃったの。元気になったら、二人にしちゃったこと、ごめんなさいするかもしれないから、その時はお話を聞いてくれるかな?」
日菜子の問いに薫と風香は顔を見合わせると頷き合い、にこっと笑う。
「いいよ。風香もね、かなしいひあるもん」
薫は言葉の代わりに、手でオッケーのサインを作って見せた。日菜子は、表情を緩めると「ありがとう!」と二人の頭を撫でた。
それから千春が薫を抱っこして、紗和子は風香にもう一度お礼を言って幼稚園を後にしたのだった。
「はい。一応、気にしなくていいと、先方にも内緒にするようにお伝えしたんですが、もしかしたら何か連絡があるやもしれません」
昼頃、起きてきた千春が紗和子の着物が朝と違うことに気づいて「何かありましたか」と心配そうに尋ねてきたので、事情を説明するために縁側に並んでお弁当を食べている。春ノ助は、小花衣家のなかなか風情ある庭を楽しそうに探索している。
庭の物干しざおでは三人分の洗濯物に加え、紗和子の着物と襦袢が風に揺れている。
「ええと、御影さんでしたか。確か、先月こちらに越してきて、うちの近所ですよ」
「そうなんですか」
「道場で、お母さん方が話していましたから」
千春は小説家の仕事のほかに近所の公民館で、火曜と金曜の週に二回、夜七時から九時の二時間、子どもたちに空手を教えるのを手伝っている。小説家として売れる前にお世話になった先輩の道場だそうだ。とはいえ、昨日までのように締め切りに追われている時は行けないが。
「角を曲がったところに新築のお家があるでしょう? 庭に木製のブランコがある」
「あそこですか? ……近いですね」
本当にすぐそこの家だ。徒歩三分もかからない。
基本的に薫の送迎は、息抜きがてらと言って千春が担っているので、あまりお母様方と交流する機会がないのだ。薫から話も聞けないので、余計に知らないことが多すぎる。
「何でも奥さんは、弁護士さんだそうです。駅前の法律事務所にお勤めだそうですよ。家族で越してきたらしいのですが、旦那さんが急に海外に出張になってしまったそうで、お子さんも小さいですから大変そうだって皆さん言っていましたよ。森山幼稚園は、三歳児以上が対象なので、妹さんはお母さんの職場近くの託児所に預かってもらっているとか」
奥様方の情報網は相変わらず侮れないなと紗和子は感心してしまう。
千春は、もぐもぐと美味しそうにハンバーグを頬張っている。一緒に暮らしてまだ二週間と少しだが、千春は本当に美味しそうに何でも食べる。そして、人の二倍か三倍は食べる。大きな体に見合う食欲だ。作り甲斐があってとても楽しい。
「紗和子さんは、冷凍食品はあまり使わないのですね」
「そうですね。今は時間がたっぷりあるので下ごしらえも作り置きも余裕がありますから」
「お恥ずかしい話、僕は薫を引き取るまではほとんど料理はしたことがなくて。あの子のお弁当を作っている時は、考えも及びませんで……」
先日、スーパーに一緒に行った際、紗和子が冷凍食品コーナーに行って初めて、千春はその存在を知った。「もっと早くに知りたかったです」とカップグラタンを手に嘆いていた。彼は説明書をきちんと読める男なので、電子レンジは使えるのだ。
「でも、知っていたら知っていたらで、冷凍食品オンリーになりそうですが……」
「得手不得手がありますし、冷凍食品だって別にいいと思いますよ。今の冷凍食品は美味しいですし、何より便利ですから」
ぱちり、と千春が目を瞬かせる。
「……意外です。やっぱりプロの家政婦さんなので、そういったものは嫌いかと勝手ながら思っていました」
「よく言われましたよ。ふふっ、私たちは、プロだから、依頼先のご家庭でそれがどなたかの大好物だとか言われない限りは使えません。でも、今は料理ではなくて、食材そのものが冷凍されたとても便利な代物がありますので、それを依頼主さんがあらかじめ買い置きしていたりするので、使うことはありましたね」
「そんなものがあるんですか?」
「ええ。お肉から野菜、シーフードなんでもありますし、コンビニでも色々あるんですよ」
「なるほど……今度、見に行ってみます」
ぱちぱちと目を瞬かせる千春に紗和子は、ふっと笑ってご飯を口に運ぶ。
それからぽつぽつと会話を交わしながら、昼ご飯を終える。紗和子はお弁当箱を洗って、お風呂の掃除をして、夕食の下ごしらえをする。千春は、急な打ち合わせが入り、紗和子が洗濯物を取り込んでいる間に出かけて行った。
「うん、綺麗になった」
今日は、とても天気が良かったので、桜色のウールの着物はさっぱりと乾き、シミ一つなく綺麗になっている。紗和子は、少し考えてから、もう一度、その着物に着替える。蓮人に会うことがあれば綺麗になったよ、と言ってあげたいと思ったのだ。
「春ノ助、お留守番、お願いね」
庭で遊び疲れて眠る春ノ助に声を掛け、紗和子は薫の迎えに出かけた。
「おかえりなさい、薫ちゃん」
幼稚園の玄関に顔を出した紗和子を見つけて嬉しそうに薫が笑う。急いで靴を履くとぱたぱたと駆け寄って来た薫をしゃがみこんで受け止め、ぎゅーっとする。
帰り支度をした子供たちが、ちらほらと教室から出てくる。送迎バスが門の前に停まっているので、ほとんどの子がそれに乗り込み、保護者のお迎えで帰る子が玄関脇のお遊戯室に行く。
「今日も楽しかったですか?」
こくこくと薫は頷いて、通園バッグからお花の形の折り紙を出して見せてくれた。
「薫ちゃんが作ったんですか?」
「ううん、これはあたし!」
ひょっこりと風香が顔を出す。風香は珍しく今日はまだ帰らないのか、通園バッグは持っていないが、手に色違いのお花の折り紙を持っている。
「こうかんしたの! こっちが薫ちゃんがつくったおはな」
「そうなんですか? どっちもとても上手です」
紗和子が褒めると二人は、顔を見合わせてニコーっと笑い合った。可愛らしくて、抱き締めたくなってしまうのをこらえる。
「風香ちゃんは今日はまだ帰らないんですか?」
「うん。きょうはね、おかあさんがおそいひだから! これからおひるねして、四のじかんにかえるの。でも、きょうのおむかえはねぇ、おばあちゃんがきてくれるんだよ」
「そうなんですね」
嬉しそうな風香に薫もニコニコしている。
「小花衣さん!」
顔を上げると日菜子が慌てた様子でやってきた。
「今朝は本当に……あれ、そのお着物」
目を瞬かせる日菜子に紗和子は立ち上がる。
「はい。ウールの着物は洗濯機で洗えるので便利なんです。それに今日はお天気も良かったので綺麗さっぱりです」
日菜子が、ほっとしたように表情を緩めた。着物に馴染みのない人にとっては、着物=全部高いというイメージがあるので仕方がない。
「……蓮人くん、大丈夫でしたか?」
「あの後もなかなか落ち着かなかったんですが、お弁当を食べたら寝ちゃいまして。今もまだお昼寝中です」
「そうなんですか……もし、気にしているようだったら綺麗になったって言ってあげてください」
「あ、じゃあ、お写真良いですか? 蓮人くん、やっぱり気にしてる様子だったので」
「もちろんです」
日菜子が一度、どこかに戻ってデジカメを持って帰って来た。汚れてしまった側の写真を一枚、あと何故か薫と風香と三人で一枚、写真を撮った。
「じゃあ、薫ちゃん、帰りましょうか」
薫に手を差し出せば、小さな手がぎゅっと紗和子の手を握り返してくれる。
「薫ちゃん、またあしたね! あれ、蓮人くん?」
バイバイと手を振った風香が教室に戻ろうとして首を傾げる。その視線の先を辿れば、ばっちり帰りの支度をした蓮人が立っていた。
「蓮人くん、まだお帰りの時間じゃないよ? お昼寝してたから、間違えちゃったかな?」
日菜子が慌てて駆け寄るが、蓮人はむっつりと黙り込んだままだ。肩から斜めにかかる通園バッグの紐部分を胸のあたりでぎゅうと握りしめている。
泣き過ぎたせいか、蓮人の目は真っ赤になって腫れぼったい。
「蓮人くん、お着物綺麗になりましたよ。だから心配しないでくださいね」
紗和子が声を掛けると蓮人は俯いてしまう。日菜子が「お教室に帰ろうね」と声を掛けるが、蓮人はやっぱり動かない。
「蓮人くん、風香ちゃん、また明日ね。薫ちゃん、帰りましょう」
これ以上いると邪魔になりそうで薫に声を掛け、帰ろうとしたところで、蓮人が紗和子と薫の前にやってきた。日菜子が「蓮人くん?」と追いかけてきたが、それより先に蓮人が薫の手にあったお花の折り紙を奪い取った。
あ、と思った時には、びりびりに破られて、ダンダンと踏みつけられる。
「蓮人くん!」
日菜子が蓮人を捕まえようとするが、蓮人は日菜子の手を払いのけて、何故か紗和子に体当たりをかましてきた。
「きゃっ」
尻餅を覚悟したが、何かに抱き留められて顔を上げれば、出かけたはずの千春がいた。視界の端で教室のほうへ駆け出した蓮人を日菜子が慌てて追いかけていく。
「ち、千春さん、どうしてここに」
「急な打ち合わせだというから、出かけたら急にその打ち合わせがやっぱり無しだと言われて戻って来たんです。それで前を通りかかったら、まだ紗和子さんと薫がいたので一緒に帰ろうかと思いまして。紗和子さん、大丈夫ですか?」
「はい。あ、それより薫ちゃん!」
振り返れば手を繋いだ先で、薫がぼろぼろと涙をこぼしている。千春が「薫」と名前を呼んで腕を伸ばしたが、何故か薫まで紗和子に体当たりする勢いで抱き着いてきた。千春が「薫……っ」と悲愴な声を出した。
紗和子は、しがみ付く薫を抱き上げる。そうすれば、薫がぎゅうぎゅうと紗和子に抱き着いて来る。声が出ない分、薫はなんだか随分と辛そうに泣くので胸が痛む。
「薫ちゃん、ごめんね。折り紙、守ってあげられなくて」
「薫ちゃん、あたし、またつくってあげるよ! あ、そうだ! 薫ちゃんのおかあさん、まってて! おひるねのまえに、ちょーとっきゅーでつくってくる!」
言うが早いか、風香が教室の方へ駆け出して行く。
紗和子は、千春と共に玄関の中に入って隅の方へ移動して、薫をあやす。紗和子は、あの折り紙は薫が風香とお互いに作りっこしたのだと千春に説明する。
薫は、ぎゅうぎゅうと唇を噛み締めて、ぼろぼろと泣いている。
騒ぎを聞きつけた先生がパイプ椅子を持ってきてくれたので並んで座り、薫に声を掛けて風香を待っていると、風香と共に日菜子も戻ってきた。
「薫ちゃん! はい、できたよ! とくべつにひかるおりがみ、理沙先生がくれたんだよ!」
赤い銀紙で折ってくれたお花を風香が差し出す。
だが、薫は風香を見てもなかなか手を伸ばさない。
「薫、風香さんが綺麗なのを作ってくれたよ」
千春が声を掛けるが、ぼたぼたと泣きながら薫は風香を見つめている。
「風香ちゃんが作ってくれたのに、だめになっちゃって薫ちゃんは悲しくて……うーん、悔しくて、風香ちゃんも悲しいのかなって、心配なのかしら」
紗和子がそう口にすると、薫はこくりと頷いた。
すると風香が、にこっと笑う。
「だいじょうぶだよ、薫ちゃん。蓮人くんは、きょう、かなしいひだからしょうがないよ。それよりみてみて、とくべつなおりがみだから、キラキラだよ! ぐれーどあっぷだよ!」
風香は、おおらかでとびきり優しい子だ。
薫が紗和子から降りて、風香から折り紙を受け取った。口元が小さく動いてなんとなく「ごめんね」と言ったのかなと首を傾げると、風香は「へーき!」とまた笑った。すると薫もつられて、小さくだが笑う。
その様子に紗和子と千春は顔を見合わせて、ほっと胸を撫で下ろす。
「小花衣さん、本当にすみません……! 私の配慮不足です!」
がばりと頭を下げた日菜子に紗和子は慌てて「顔を上げて下さい」と声を掛ける。
「怪我もありませんし、私は大丈夫です。それより蓮人くんは?」
「トイレに籠城してしまって、園長先生が傍にいて下さっています」
おずおずと顔を上げた日菜子が教えてくれる。
「今回のことは、流石に蓮人くんのお母さん、御影さんにきちんと伝えさせて頂きます。今朝の嘔吐の件は悪意が無かったので、私も小花衣さんの優しさに甘えさせて頂きましたが今回は流石に御影さんにお伝えしないと、蓮人くんのためになりませんから」
日菜子の言葉はもっともで、おろおろする紗和子に代わって、千春が答える。
「……そう、ですね。確かにあのままでは、蓮人くんがますます苦しくなってしまいそうです。でも、妻も薫も怪我はないですし、風香さんのおかげで薫は特別なお花も頂けたので、大ごとにする気はありません」
薫がこくこくと頷いたのに、つられるように紗和子もこくこくと頷く。
「御影さんは、何時頃、お迎えに来られるのですか?」
「お仕事がお忙しいようで、一番遅いお月さまコースなので、七時なんですけど……ここのところ、ずっと八時過ぎでして」
日菜子が言い淀む。
「毎日、ですか? 朝は?」
「ええ、まあ。朝も毎日、八時くらいに。今日は少し遅かったんです。いつも多少、蓮人くんは駄々をこねるんですが、あそこまでぐずるのは今日が初めてで」
今朝、薫が登園したのは八時半より少し前だ。計算すると十二時間くらい蓮人は幼稚園にいることになる。
千春が懐に手を入れて、名刺入れを取り出すと一枚取り出し、一緒に取り出したペンで裏にスマホの番号を書くと日菜子に渡す。
「僕も紗和子さんも基本的には家にいますから、もし御影さんが何かしら連絡を取りたいとおっしゃるようでしたら、これを渡して下さい。裏面の番号が僕のスマホの番号になります」
「分かりました。お預かりします」
日菜子がそれを両手で受け取り、エプロンのポケットにしまった。
「薫ちゃん、風香ちゃん。蓮人くんは今、ちょっとだけ悲しい気持ちがいっぱいになっちゃってるから、いじわるしちゃったの。元気になったら、二人にしちゃったこと、ごめんなさいするかもしれないから、その時はお話を聞いてくれるかな?」
日菜子の問いに薫と風香は顔を見合わせると頷き合い、にこっと笑う。
「いいよ。風香もね、かなしいひあるもん」
薫は言葉の代わりに、手でオッケーのサインを作って見せた。日菜子は、表情を緩めると「ありがとう!」と二人の頭を撫でた。
それから千春が薫を抱っこして、紗和子は風香にもう一度お礼を言って幼稚園を後にしたのだった。
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だが、彼を止める事は誰にも出来ず。
廃妃となった事実を知らされたクリスティーナは、涙で瞳を潤ませながら「分かりました」とだけ答えた。
王妃として教育を受けて、側妃にされ
廃妃となった彼女。
その半生をランドルフのために捧げ、彼のために献身した事実さえも軽んじられる。
実の両親さえ……彼女を慰めてくれずに『捨てられた女性に価値はない』と非難した。
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