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第十章

人質

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 ホテルには売りでもある日本庭園のある中庭を眺めながら談話できるように、あちらこちらにソファが置いてあった。匠の前に座る猿は外から差し込む光が眩しいというように軽く目を細め少しぼんやりしているようだった。

 この猿の中に淫気がいる。

『そういう認識でいいわ』

 トイレから出てきた何かに匠が聞いたとき、あっさりとそう言った。

『いろんな名前があるもの』

 猿の声のはずなのに、なぜかひどく甘ったるく聞こえる。
 そして、驚くことにゆたりとしたソファに座る猿はまるで一枚の絵画のようで、通り過ぎる人の目を引く。通り過ぎた人、特に男がもう一度振り返り猿を見る。
 もともと綺麗な顔立ちの猿に何かがプラスされた。
 滴るような色香というもの。妖艶ともいえるもの。
 座っているだけだというのに猿のまわりだけ空気が違う。
 猿はぼんやりと中庭を眺めながら赤く色づいた唇を物憂げに動かした。
 いや、淫気だ。

『あなたに選択権があるようには思えない』

 そして、くくっと口の端だけ上げて笑う。

『このまま外に出て私が満足するまで男を漁るか、あなたが私を満足させるか』

 淫気の言葉に匠が強く眉を寄せる。もう幾度目かになる。

『私はどちらでも構わない。……まあ、男の体は初めてだけど、この子かわいいし』

 淫気の言葉に匠が頭を抱える。

「なんで、喰われたのに浄化されないんだ?!」

 そう、陰気なら浄化できると猿は言った。淫気は違うのか?じゃあ、今まであの猿は淫気をどうしていたんだ?

『……さぁ、私も今までも何度か祓われたことはあったけど、食べられたのは初めてだもの』

 淫気も少し真顔になり、目の高さまで手を持ち上げて軽く振る。

『動きやすいわ』

 そういえば、あの女性の時は、ゆらゆら、かくかく動いていたな。体の中に入ってしまえば乗っ取れるのだろうか。
 匠が冗談じゃないと頭をガシガシとかきむしる。

「ええと!祓う?祓うって……ん?」

 祓う?それは……。

「除霊みたいなもんか?……ん?除霊されても浄化しない?」
『問答無用で吹っ飛ばされることが多かったわね。ひどくないっ?私、SEXがしたかっただけっ…』
「黙れっ!」

 とんでもない言葉が出てきて思わず匠が怒鳴る。
 猿はん、と口を閉じた。聞き分けは悪くない。匠が回らない頭で必死に考えるのをどこか楽しんでいるような目で見ている。
 問答無用で吹っ飛ばされても元に戻る?靄だから?実体がないから吹っ飛ばされても散るだけ?それがまた集まって淫気になるのか?
 それを猿が喰った?
 溜息しか出てこない。

「……猿は?どうしてるんだ?」
『まぁ、当たり前だけどすっごい暴れっぷり。だけど……いまいち私みたいなのを相手にするには赤ちゃんみたい』

 赤ちゃん……。

「修行中って言ってた……」
『修行を始めたばかりじゃない?てゆーか、これ使いもんになるの?』

 結構手厳しい。図星で匠が再び頭を抱える。
 陰気と淫気の区別がつかないってなんだ?匠ですらわかることが、なぜ猿にはわからなかった?

『やだ』

 急に淫気が言い左半分顔を手で覆った。
 驚いた顔で左目だけから涙を流している。

「……猿?」

 淫気が顔をしかめた。匠がハンカチを出してやると綺麗な仕草で涙を拭う。

「猿にも聞こえているんだな?」

 おそらく淫気に図星をつかれて悔しかったのだろう。はぁと匠が溜息を吐きながら淫気を見ると淫気も軽く息を吐く。

『そうよ』

 全く。本当に。

「さーる……。俺、喰うなって言ったろ?もう……腹壊すぞ」
『人を腐っているみたいに言わないでくれる?!』

 匠がきゃん!と吠えた淫気に頭を垂れて深ーく溜息を吐く。
 ここから連れ出して自分の家にでもと思ったが、淫気は誘拐だと騒いでやると笑った。
 匠に示された選択は二つ。だが、そのうちの一つは絶対にさせるわけにはいかない。
 残るは一つ。

「淫気」
『なによ』

 匠は本当は口にしたくないと思いながら目の前に座る淫気を見る。

「問題が二つある」
『何』

 ああ、くそ。猿にも聞こえているって言ったな。だが、言わないことにはどうしようもない。

「一つ。俺は今までそういう事をしたことがない。ましてや男同士なんて知識がある程度だ」

 しかもその知識もこの一週間ほどでだ。

「二つ、俺は昨日猿にひどいことをして、心底傷つけた。猿は俺を嫌いだと言った。猿は……」

 ああ、くそ。昨日のフェンス越しの猿の泣き顔しか浮かんでこない。

「猿は……」

 ああ、もう……あれだけ傷ついたのになんでここに来ちゃうんだよ。修行のため……じゃないよな。だって、あの手紙には何もついていなかったと言ったのは猿だぞ。

 さーるー……もう、お前、なんで来た?

 匠が泣けてくる。心底弱る。もう、本当にどうすることが猿のためになるんだろう。どうしたら、猿を助けられるんだろう。

『キャッ』

 いきなりがくんと目の前に座る猿の頭が大きく揺れた。体ごとソファから落ちそうになり、匠がとっさにその体を支える。

「ど……」

 どうしたと聞こうとして、猿の体を支えた腕に猿の手が伸びた。
 きゅっとしがみつくような仕草にはっとする。

「猿?」

 恐る恐る小さな声で聞くと、猿は目を開けているのもつらいと強く顔をしかめながらも口を開いた。

「……嫌いって言ったの、嘘だ。ごめん」

 猿だ……。猿の小さな顔を両手で包み込み、涙が浮いている目尻を指で幾度も拭ってやる。匠の目にも涙が浮かぶ。

「違うだろ!俺が!俺が悪い!」

 こんなことに巻き込んで。こんなことになるなんて。

「猿、お前なんで来た?なんで喰った?俺の事なんて放っておきゃよかったろ?この馬鹿」

 猿の顔を覗き込み、目を開けてくれと祈りながら猿の頭をなでさする。だが、猿は強く目をつぶったまま、眉を寄せている。

 淫気がまだいる。

「しっかりしろ!しっかりしなきゃ、お前が淫気の姉ちゃんに喰われそうだ!」
「うー……」

 ああ、もう……!どうしたらいい?どうすればいんだ?

「姉ちゃん、強いんだな?お前、勝てないんだな?」

 猿が悔しそうに顔をゆがめ、小さく頷いた。
 やっぱ……そうか。ソファに座るのもきついと匠に凭れ猿が唸り声をあげる。
 祓っても祓っても、吹っ飛ばされても、また集まることができる力をもつ淫気の姉ちゃん。
 匠は猿の前に膝をつき猿の体を支えてやる。
 少しでも、少しでも猿の意識があるうちに。

「猿。姉ちゃんの言っていることわかったか?……俺の言っていることも聞こえたか?」

 猿の耳に話しかける。だが、猿は返事をしない。
 逃げ道がない。……逃げ道が見当たらない。
 腕の中に猿がいるのに、その猿が淫気の姉ちゃんの人質になってしまっている。

「なんで来たんだ……。なんで来た」

 そればかり思う。

「放っておけばよかったろ?俺はお前を傷つけたろ?」

 あれだけ泣かした。傷つけた。
 猿は匠のスーツの袖を握りしめたままようやく口を開いた。

「この、姉ちゃん……頭がいい」
「ん?」
「……あの手紙には本当に何もついていなかったんだ。お前、あれずいぶん前にもらったな?」
「あぁ」

 一か月ほど前になるかもう。猿は匠の胸に頭をすりつけるようにしながらも、どうにかソファに座りなおそうと体を起こした。
 目は強くつぶったままだ。

「俺は多分あの手紙についていた淫気を先に喰っちまった。だから、あの手紙にはもうなんもついていなかったんだ。……姉ちゃんはずっとお前に目をつけてた。でも、俺がお前にまじないをかけちまったから近寄れなくなったんだ」
「ちょっ?ちょっと待て!ずっとって……いったい、いつからだっ?!」

 確か猿が失敗して強すぎるまじないをかけたのは去年の話じゃなかっただろうか。
 いや、だが、淫気は……そうだ。猿が邪魔をしていたと言った!

「気は近づけなくても人は近づける。俺は目的を持って動く人間を防ぐ手立てがない」

 森田さんのことか。
 さすがに匠も動けなくなる。うすうすと思っていたが、まさか、自分が知らないところで一体何が起こっていたのかと青ざめるしかない。

「……皆……利用されたのか」
「ん」

 だが、そこまで話した猿がソファにどうにか凭れ、かすかに笑った。

「猿?」
「俺……卑怯だ」
「何?」
「……俺も姉ちゃんを利用しようとしている」
「え?」

 猿の体を支えていた匠の腕から手を放し、その手で軽く匠を押しやった。

「ずるいな……俺。ごめん。もういい。帰れ」

 手が匠から離れる。帰れと言われ腹の底にどっと何かが溢れ、とっさにその細い手首を掴んだ。

「なに、がだ?何を?」

 聞き直した時、思い出した。匠もあ、となる。
 そう……だった。だったけども……。
 匠は猿の顔を覗きこんだ。猿は青ざめた顔に冷や汗を浮かべ、強く目を閉じ何か考えているように見える。
 匠をずっと狙っていた淫気。匠が欲しいと言った猿。
 利用しようとしている。
 どうして、言っちまうんだ?黙ってりゃいいのに。なんで、全部しゃべっちまうんだ?
 どうして、お前は俺に対してそんなにまっすぐなんだ?どうして、そんなにまっすぐでいられるんだ?
 そして、帰れって……俺に言うんだ?

「……俺の事……嫌いになったか」

 匠の声が掠れて震えた。昨日、猿はそう言った。匠はもうその言葉に怯えている。
 同じ言葉を猿の口から聞きたくないと心の底から思うのは……なぜだ?

「もう、遅いか?」

 猿の手首を掴んだままの手に猿の手が重ねられた。のけようとしているのかと思い、とっさに強く掴んでしまう。
 いやだ。ただ、いやだ。

「違う……匠。俺は……姉ちゃんが言うように、そんなに強くないんだ」

 ぐっと匠が唇をかみしめる。当たり前だろうが、お前まだ子供じゃねぇか。いろんな言葉が腹の中であふれかえりそれがうまく出てこない。
 強くないってなんだ。強くなくたっていい。猿はいろんなものをひっくるめて匠を助けようとここに来た。匠を守ろうと今も自分の中の淫気をどうにかしようとしている。
 昨日から猿はどんだけ傷ついたろう。
 陰気と淫気の区別がつかないと告白させられた。淫気の姉ちゃんに『赤ちゃん見たい』と言われた。自分は強くないと自分の口から言わせた。
 どれだけ猿のプライドを傷つけただろう。
 全部、匠のせいだ。

「もう、いい。んな、強くなくていい……」

 どうにかしよう。どうにか猿を守ろう。
 匠は猿の薄い体を抱きしめた。どこもかしこもまだ薄い体を必死にさする。
 猿が一度、何をされているかわからないと体を強張らせたが、匠に抱きしめられていると気が付いたのか、目を閉じたまま顔だけを上げた。
 その顔を自分の胸に押しつける。猿の顔がなぜか途方に暮れているように見える。自分の腕の中にいるのに、迷子みたいでもうどうしようもない。
 迷子にさせてたまるか。んな、困った顔してるんじゃねえ。心細い顔をしなくていい。

「お前をよそにやりたくねぇ……。他の奴に渡したくない。……また、一緒に飯食うんだ」

 ぴくっと閉じたままの瞼が震えた。汗で濡れた額を匠の腹にすりつけて、ははと猿が笑う。

「も、それだけで……俺、うれし」

 そう言った途端、くらっと猿の体から力が抜けた。張りつめていたものが切れたのが猿の体を抱きしめていた匠にも分かった。
 匠が息を整え、猿の体をソファに凭れさせる。
 出てくるだろうと思っていた淫気の姉ちゃんがなぜか頭を押さえながら目を開けた。

『信じられない……やっぱただもんじゃないのか』

 匠が猿の前に膝をつきその顔を覗き込む。淫気の姉ちゃんは目の前にいる匠を見ずに目を細めて頭をしきりにさすっている。

『ぶん殴ったわね。信じられない』
「は?」

 ぶん殴った?よし、よくやった。えらいぞ猿。
 だが、次に淫気の姉ちゃんが発した言葉に匠は一気に頭に血が上った。

『いいわよ。ちゃんと伝えてあげる』

 淫気の姉ちゃんがようやく匠を見て、口の端を上げていやな笑みを浮かべた。

『さっさと帰れですって。帰ってクソして寝ろって』
「このクソ猿!てめぇちょっとそこで寝てろ!」

 思わず怒鳴った匠に淫気の姉ちゃんがころころと笑った。
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