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江戸の町

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 飛ぶように売れる瓦版を、面白くなさそうに蕎麦屋の窓からチラリと見ている人影が一人。琴葉である。
 でもそれはほんの一瞬、客が店に入って来るといつもの営業スマイルで元気に出迎えた。

「はぁ……」

 そしてそんな蕎麦屋にもう一人、瓦版売りの声を聞かないように耳を塞いで肩を落としている人物がいた。犬飼である。

「犬飼さま、あの、よかったらこれ使ってみてください」

 琴葉が小さな小瓶をテーブルの上にとんと置く。

「余りものですみませんが、打ち身や打撲に良く効く薬です……」

 痛々しい痣が怖いのか、視線を伏せながらでも気を遣って薬を持ってきてくれた琴葉に感激したように、目を潤ませながら犬飼が「ありがとう」と感謝の言葉を口にする。

 昨夜ネコ娘との戦闘で、顎を思いっきり蹴り上げられ、その一撃で意識が飛んだ犬飼。蕎麦をすするのさえ響くので、先ほどから、ちょっとづつ蕎麦をつまんで食べていた。

「琴葉さんだけですよ。僕に優しいのは」

 伸びて気お失っているうちに朝を迎えた犬飼は、助け起こされてからさっきまでずっと上司にあたる同心に説教をくらっていたのだ。

 さっそくもらった薬を塗りながら、何度目かになるため息をつく。

 ことの顛末は説教と共に犬飼は上司から聞かされた。そしてその内容を理解するにしたがい、結果仕事とはいえ人身売買するような悪人を守らされていたことを知ったのだ。
 いままでのネズミ小僧とネコ娘の関わった事件からして、今回も何かあるんだろうとは思ってはいたが、本当に嫌になる。
 しかしそれでも犬飼は、上からの指示には従わざる得なかっただろう。

「これじゃあ、どちらが正義で悪かわかったもんじゃない」

 自分の信念が揺らぎそうになりながらも、それでも二人のやり方はやはり間違っているとも思う。

 ネコ娘が絡む事件は人身売買が多く、一刻を争うのはわかるが、ちゃんと正当性を持って挑まなければ、せっかく助けた娘たちは再び取り上げられ、ネコ娘は単なる犯罪者になってしまう。
 ネズミ小僧にいたっては、その情報をこちらに回してくれればちゃんと、義賊などでななく、協力者として迎え入れられるのに、悪人を懲らしめるだけでなく、いつも予告状など出して世間を騒がしては、岡っ引きたちを駆けずりまわして、その状況を楽しんでいるように思えてならない。
 ふたを開けて見れば、悪を懲らしめたと言えなくもないが、振り回された犬飼たちからしたら、素直に感謝できるものではない、いや寧ろ、町民たちからも鼻で笑われた日には、ネズミ小僧に憎しみすら覚える。

 瓦版を手に瞳を輝かす町民たちを遠くから見ながら、犬飼は再びため息を付いた。

 そんな犬飼の空いた前の席に、一人の若い男が座った。
 月代さかやきはそらず、伸ばした頭髪を後ろに撫で付け一つにまとめただけの総髪茶筅そうはつちゃせんのその男は、歌舞伎役者と見まごうばかりの眉目秀麗な優男であった。

「あっ、忠右衛門ちゅうえもん様、どうしてここに? 護衛は?」

 犬飼に忠右衛門と呼ばれた男は「シッ」というように口に指をあてる。
 それだけの動作なのにどこか気品漂う仕草もさることながら、ほのかに漂う花のような香りが、ただならぬ身分であるとほのめかす。

「たまには、こういうところで食事がしてみたくてね」

 そういうわりには、慣れた様子で注文を取りに来た若い娘に蕎麦を頼む。
 色男が愛想のよい表情でほほ笑みながらするものだから、注文を取りに来ただけの娘は、ちゃんとわかったのか、いつものように注文を繰り返すことも忘れポッと頬を赤らめながら小走りに店の奥に消えていった。

 常連の自分にはいままで見せたこともない娘のそんな態度に、なにやら複雑な表情で忠右衛門をみる犬飼。
 犬飼のそんな視線を面白がるように見返す忠右衛門。

「それといつも犬飼が話している、琴葉さんも見て見たくてね」

 今度は慌てて犬飼が「シッ」というように口に指をあてる。
 どうして「琴葉さんのことを……」とでも言いたげな犬飼の表情を、面白そうに眺める忠右衛門。

「犬飼ひどいよね、いい人ができたら僕に紹介してといつも話しているのに」

 真っ赤になった顔を、次の瞬間には真っ青にかえて必死に冷静さをたもとうとしている犬飼の様子に、忠右衛門が微笑ましいものを見るように目を細めながら、わざと口を尖らして見せる。

「で、琴葉さんは……あぁ、あの子か──」

 犬飼が話した記憶もないのに、忠右衛門は店に入って来る客に元気に声をかけている琴葉を見つけると確信したようにそう呟いた。

「あぁ、常闇に光る星のような目をしてるね」

 忠右衛門のめったに見せない、まるで宝物を見つけた子供のような眼差しに、犬飼が恐れていたことが起こったように、琴葉と忠兵衛を交互に見ながら何か言いたげに口をパクパクさせる。

「大丈夫、犬飼の大切な娘を取って食ったりしないから」

 慌てふためく犬飼を面白がりながら、流し目でウィンクをしてみせる。

「忠右衛門様……」

 そんなこと信じられないとばかりに、恨めし気に忠右衛門をねめつける。
 しかしそれ以上のことは犬飼は何も言えない。
 琴葉は店の看板娘で、犬飼とも親しく話す数少ない女性だが、それは犬飼がこの店の常連だというだけで、それ以上の意味がないことを犬飼もよくわかっているのだ。

「これは、

 犬飼のしょぼくれた様子に目を細めながら、忠右衛門はひとりごちた。
 それからおもむろに犬飼の前で今さっき手に入れた瓦版を広げると。

「今回も災難だったが、犬飼は今のまま己の信じた道を行きなさい」

 気遣うようなねぎらいの言葉を投げかける。

「はい。わかっています。次こそはあの二人、必ず捕まえて見せます」

 やさしい言葉に少しだけ勇気をもらったように、犬飼は力強くその言葉に自分の決意をのせて返す。
 真っすぐな瞳が忠右衛門に向けられる。その瞳を満足そうに見つめかえしながら、忠右衛門は小さく笑う。

 江戸は春。二人の義賊の活躍を称える瓦版売りの声が今日も響きわたる。
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