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第10話 願うものは

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 白く小さな花が咲き乱れている城の中庭を、人々がせわしなく行き来している。
 光神際から数日、国はいつもの単調で平和な時を刻んでいる。
 そして次の満月に延びた婚礼式のための準備で慌ただしく多忙な日々を送っていた。

「ラシェル、おい無視すんじゃないラシェル!」

 中庭を横切ろうと歩いていたラシェルを呼びとめる声が響いた。

「リーン様」

 ゆっくりと振り返ると、そのまま頭を垂れて挨拶をする。

「なんでしょうか?」

 忙しいから手短にお願いします。とラシェルからの無言の圧力を感じる。

「後で俺の部屋に来い」

 なぜかぶっきらぼうにリーンはそう言った。

「じゃあ、今から」
「いや、後でいい」

 「大した用事でもないから」とぼそりと漏らす。

「遅くなりますよ」
「別にかまわない。だから必ず来いよ」

 そう言い捨てると、サッと踵を返しその場を立ち去る。


「王子、ラシェルです」

 扉を叩く。名前の途中で入れという許可が下りる。

「忙しいのに悪いな」
「そんな、リーン様の用事より優先させるべきものなどありません」

 そう答えたラシェルに、「その通りだな」と言ってリーンが嬉しそうに笑う。そんなリーンにラシェルがため息を漏らす。

「で、なんですか?」

 少し冷たい口調で切り出す。

「……その、あれだ」
「あれとは?」

 もごもごとリーンが口ごもる。リーンが口ごもるなんて初めてのことじゃないだろうか。いつも考えるより先に言葉にしてしまうのに。

「リーン様?」

 不思議なものを見るようにラシェルが眉間をしかめる。

「すまなかった」

 思いもかけない謝罪。
 突然のことにラシェルが唖然とする。
 そんな彼におかまいなしに、リーンはまるで途中でじゃまされるのを恐れるように話し出す。

「こないだは悪かった。祭りの最中に倒れたことにつけ込んでわがまま言って。そのあげく、城を抜け出して落馬して怪我するわ記憶なくすわ。お前に心配かけまくったうえ。俺のせいでお前は一週間も牢屋につながれて。俺もすぐに王に弁解しに行くつもりだったんだが、部屋から出してもらえなくて、会いにもいけず」

 そこまで一気にまくし立てる。

「本当にすまなかった」

 と、深々と再び頭を下げた。

「リーン様やめてください!仮にも王子が世話係に頭を下げるなんて」

 ラシェルの声はほとんど悲鳴に近かった。

「やめない。お前が許してくれるまで」
「許します。許しますから!」
「本当か?」
「本当です。だいたい私はリーン様を恨んでなんかいません」

 リーンの我儘は今に始まったことではないし、とは口に出さなかった。

「それより早くお顔をおあげ下さい」
「ラシェル……」

 そう言って近づいてきたラシェルの顔をリーンが素早く両手で挟むようにつかまえる。

「何を……してるんですか?リーン様」

 ラシェルの黒曜石のような瞳に映っている自分自身をリーンはしげしげと覗き込む。そして満足したように手を離す。

「リーン様、今のはいったい……」
「ようやく目を合わせてくれた」
「いや、今のは無理やり合わせたんでしょうが」

 呆れて言い返す。
 どうやらリーンはあれ以来ラシェルが前のようにリーンの目を見て話さないことを気にしているらしい。

(そんな理由ではないのだが)とラシェルは心の中で自嘲する。

「お前、なんかやつれたな……」

 いいかけてハッとする。

「まさか、牢でひどいことをされたのか!」

 握りこぶしを作りながら、キッと王の寝室のある窓の外を睨み付ける。

「違います!」

 今から殴り込みにでもいきそうな迫力に、ラシェルが慌てて首を振った。

「王は何もしてません、逆に牢とはいえないような小綺麗な部屋で謹慎だけですんで軽すぎて怖いぐらいですよ」

 王子を止められず外泊させたうえ、怪我までさせたのだ。それも血を流すことを禁じられている光神祭の日に。

「本当か?」
「本当です」

 まだなにか言いたげなリーンにラシェルが続ける。

「最近リーン様を避けていたのは……、リーン様に申し訳なく思っていたからです」
「お前が申し訳なく思う必要がどこにある?」

 外泊したことも落馬したことも自分のせいなのに。とリーンが口を尖らす。

「本当に申し訳なく思うなら。俺を避けるな。今まで通り傍にいろ」

 そして命令だと言わんばかりにそんなことを口にする。それを聞いてラシェルが苦笑する。
 
「はい、リーン様が望むのであれば」

 その言葉を聞いてようやく安心したのか破顔する、まるで太陽のような笑顔に、ラシェルはまぶしいものでも見るように目を細める。

 ──変わらない……否、変わらせない。
 ──確かに変わってしまったあの瞬間から。
 ──総てを知ることで総てを失ったあの日。
 ──先の見えない絶望を……それでも今を繋ぎとめられるなら。


 記憶を書き換えることはあまりにも簡単だった。やり方は血が教えてくれた。
 月の光の降り注ぐ中、まるで見られるのを恐れるようにリーンの瞼を片手で覆う。

 ──リーン様、本当に謝まらなくてはならないのは。
 ──リーンの幸せを願い、成長を見守っているだけなどもうできないかもしれない。
 ──気付いてしまった感情に。
 ──知ってしまった本性に。

 痛みを訴える心をごまかすように、自分の唇を強く噛みきる。

 ──それでも……傍にいたいと願うのは。

 まるで紅を引いたように血に濡れた唇を、そっと愛する人の唇に重ねる。
 それだけでよかった。


「ラシェル、どうしたんだ。気分でも悪いのか」

 初めて触れた唇の感覚を思い出し、無意識にラシェルは自分の指を唇にはわせていた。
 急に押し黙ってうつ向いてしまったラシェルを心配そうにリーンが見詰めている。

「…………」

 視線が痛い。
 失いたくない。
 
 心配げに首を傾けて無防備に自分に近づいてくるリーン。白いほっそりとした首筋は、わざともう一人の自分を誘い出す罠のように思えるのはなぜか?

 目を閉じる。苦しげに。

 リーンの声がどこか遠くで聞こえる。

 見ないで欲しい。そんなふうに。

 相反する感情がせめぎあう。

「リーン様」

 頭の奥で声が聞こえる。
 それは抗いがたい甘美な誘惑。

 ──目覚めよ
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