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16 一筋の涙

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「なあ、賢治はなんで医者になりたいと思ったんだ」

 すっかり回復した賢治と講習を終えランチを共にする。

「そりゃあ、かわいいナースたちと日々楽しい生活を送るため」
「真面目に聞いているんだ」

 すると賢治もいつものふざけた顔を引っ込めてポツリと話し出す。

「俺の弟がさ、小さい時すごい熱出して、危うく命落としそうだったんだ、俺も両親もどうすることもできなかったのに、病院いったら先生が魔法のように治してくれたんだ、格好よかったな。あれから俺のヒーローはあの先生だ」
「そうか」

 しかし──

「でも、全員が全員助けられることはできないんだよ。どんなに努力をしても、助けることのできない命だってあるだろ。医者になったらそんな場面たくさんみなくちゃならないんだよな」

 眉を八の字にしながら僕はそう言った。

「弱気だな……でも、俺は助ける、みんな助けてやるよ」
「無理だよ」
「無理なんかない、初めから諦めてたら助けられる人間も助けられないじゃないか」

 珍しく賢治が大きな声をだす。

「俺は誰も見捨てない、絶対助けるんだ」

 そんなことできるわけない。
 でもそれを口にする必要はない。
 賢治は見捨てない。みんな助ける。言葉にすることで、自分に誓うのだ、相手に誓うのだ。

「お前のそういうとこ好きだぜ」
「なっ! すまん、俺にはもう春江という恋人がいるんだ、俺たちはいつまでも健全な親友でいよう」

 賢治はそう言ってふざけたように笑った。
 そうなんだ。考えたってしかたない、自分たちは今出来ることを信じて精一杯やるだけだ。それがどんな結果になろうが後悔だけはしたくない。

 彼女が医者を目指しているのも、きっと最後まで希望を捨てないため。
 母親の延命の先に自分が新しい道を開くと信じているからだろう。

 それから一週間後、僕は見舞いの品をもって病室に訪れた。再来月、久美の母親の移転が決まった。
 しばらく三人で他愛もない話をした。

 母親の移転後、彼女も外国の大学に留学するらしい。まぁ彼女の実力なら、それも可能だろう。

 「少しの間、待っててね」子供のようにはしゃいだ声をだす久美を、母親は優しいまなざしでただ見詰める。
 僕は少し複雑な気持ちでその光景を目に焼き付けた。

 それから母親は「少し寝るわね」といってベッドに入った。
 僕らは近くの喫茶店で軽くお茶をしてから帰ることにした。

 コーヒーがテーブルに運ばれてくると同時に、彼女の携帯がけたたましい音を立てた。
 僕は何か嫌な予感を覚えた。彼女もそう感じたのだろう、なぜかしばらく、鳴り響く携帯を見詰め、それから我に返ったようにそれを手にした。

 携帯からもれる声は聞こえなかったが、彼女の表情から全てがわかる気がした。
 彼女は携帯を握り締めたまま店を飛び出した。僕も慌てて彼女の後を追ったが、レジの清算ですこし遅れをとった。

 僕が肩で息をしながら病室の前にたどり着いた時、中から彼女の母を呼ぶ悲壮な声を聞いた。
 情けないことに僕はドアを開くことができず、その場に立ち竦んだ。

 そのうち内側から扉が開かれ、数人の看護婦と医者が出てきた、僕をみるとみな頭を小さく下げて廊下を去っていった。

 僕はようやく病室に足を踏み入れた。
 病室はすごく静かだった。ほんの少し前まで、そこには確かに温かい空気が流れていたはずなのに。

 彼女の大きく見開いた真っ黒な瞳が、ただ一点を見詰めている。
 静かにベットの横に立って母親の顔を見詰める彼女は、悲しんでいるというより、怒りを耐えているかのように見えた。
 
 僕が入ってきたことにさえ気づかない様子だった。
 僕もどう言葉をかけて言いかわからず、病室に一歩足を踏み入れたまま、動けずにいた。
 どれくらい長い時間そうしてたのだろう、本当はほんの数分の出来事だったのかもしれない。
 彼女の大きく見開かれていた目が静かに閉じた、そして大きく長く息を吐いた。

「本当に──、頑固はどっちよ」

 彼女の頬に一筋の涙が落ちる。
 彼女の母親は自分の望みどうり、人間として寿命をまっとうしたのだ。
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