上 下
33 / 89

震える夜

しおりを挟む
 突然激しいノックの音が響いた。

「イヴェット様、グスタフ様がいらっしゃっています」

「こんな時間に?」

 トレイシーが戸惑ったようにそう伝えたのはイヴェットがもう寝ようとしていた時分だった。
 とりあえず室内ガウンを羽織ってドアを開ける。

「どうされましたか?」

「どうしたもこうしたもあるか!」

 グスタフはイヴェットの手を掴むとずかずか部屋に侵入した。

「えっ!?」

 イヴェットもトレイシーも驚きのあまり身動きが取れない。
 女性の部屋に入り込むなどありえない事である。
 グスタフは掴んだ手でイヴェットをベッドに投げた。

「ここの娼婦は最悪だ! お前のほうがまだマシだな。ヘクターとはヤってないんだろう? 酔ったあいつが言っていたぞ。可愛がってやってくれとな。仕方がないから面倒を見てやる。この私に抱かれる事を光栄に思え」

 グスタフは酒臭い息をまき散らしながら赤ら顔でズボンを緩めていた。

(こわい)

 体格のいいグスタフがイヴェットの伸し掛かると身動きが取れなかった。
 それ以上に逃げようとしてこの酔った男を刺激すると殺されるかもしれないと思うとイヴェットは震える事しかできない。

(トレイシーだけでも逃げて……)

 なんとか少しでもと防御しつつ視線を動かしてトレイシーに逃げるよう視線を送る。
 その視線を受けてトレイシーは呪縛が解けたように動き出し、バッと身を翻す。

(よかった)

 こんな恐ろしい事にあの子を巻き込みたくない。だから逃げてくれて本当に良かった。
 同時に心細さがせりあがってくる。恐ろしい。こわい。
 目を閉じると涙が落ちた。

「イヴェット様!!」

 その時威勢の良い声と共に鈍い音がした。
 目の前のグスタフがぐるりと白目を剥いて横に倒れこむ。
 その後ろになぜかトレイシーがいた。手には水の入ったバケツを持っている。

「イヴェット様、早くこちらに!」

 呆けたイヴェットの手を取り、トレイシーが一生懸命イヴェットを引っ張り上げる。
 ベッドから離れた場所でどちらともなく抱きしめあい、そこでやっと身体がガタガタと震え始めた。

「イヴェット様……」

「……っ」

 トレイシーがいなかったら今頃どうなっていただろう。
 だが二人が落ち着くのを待つだけの時間はなかった。

 カペル夫妻とパウラは同部屋であり、寝ているにしろ何にしろそろそろグスタフが帰ってこないと怪しむはずだ。
 もし先ほどの事がバレたらオーダム伯爵家の醜聞であり、イヴェットの傷になる。
 被害者であっても「グスタフを誘惑した悪女」となり今後ずっと後ろ指をさされるのだ。
 
 カペル夫人も慰謝料を求めるだろう。
 ヘクターもこれ幸いと傷物の妻と離縁して愛人と一緒になるに違いない。
 被害者はイヴェットであっても、どうあってもイヴェットだけが損をするのである。

「イヴェット様、どうしましょう」

トレイシーもそれは理解しているのか、青ざめた顔でなんとか立ち上がろうとしていた。

(私も同じくらいひどい顔をしているのでしょうね)

 意識を仕事モードにしてイヴェットは立ち上がった。
 見るのも嫌だがグスタフの脈と呼吸を調べて問題が無い事を確かめる。
 
 意識は失っているが死んではいない。ほっとしたような残念なような気持ちだ。
 近くにいたくないのですぐに離れる。

「なるべく早く片付けましょう」

 この部屋はヘクターとイヴェット、そしてトレイシーの部屋用のだった。
 しかしさっきのグスタフの発言からするとヘクターは飲み明かしているか娼館で羽目を外しているのだろう。
 オーダム邸も夫婦の寝室は分かれており、屋敷にいたとしても意識的にイヴェットと同じ空間にいたがらなかった。
 今日もおそらく帰らないはずだ。

(いえ、これはむしろ幸運だったかもしれないわ。この場に彼がいたら最悪襲わせていたかもしれない)

 そこまで肝が据わっているとは思わないが、イヴェットに逃げ道はなくなっていただろう。
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

旦那様は大変忙しいお方なのです

あねもね
恋愛
レオナルド・サルヴェール侯爵と政略結婚することになった私、リゼット・クレージュ。 しかし、その当人が結婚式に現れません。 侍従長が言うことには「旦那様は大変忙しいお方なのです」 呆気にとられたものの、こらえつつ、いざ侯爵家で生活することになっても、お目にかかれない。 相変わらず侍従長のお言葉は「旦那様は大変忙しいお方なのです」のみ。 我慢の限界が――来ました。 そちらがその気ならこちらにも考えがあります。 さあ。腕が鳴りますよ! ※視点がころころ変わります。 ※※2021年10月1日、HOTランキング1位となりました。お読みいただいている皆様方、誠にありがとうございます。

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

女嫌いな辺境伯と歴史狂いの子爵令嬢の、どうしようもなくマイペースな婚姻

野菜ばたけ@既刊5冊📚好評発売中!
恋愛
「友好と借金の形に、辺境伯家に嫁いでくれ」  行き遅れの私・マリーリーフに、突然婚約話が持ち上がった。  相手は女嫌いに社交嫌いな若き辺境伯。子爵令嬢の私にはまたとない好条件ではあるけど、相手の人柄が心配……と普通は思うでしょう。  でも私はそんな事より、嫁げば他に時間を取られて大好きな歴史研究に没頭できない事の方が問題!  それでも互いの領地の友好と借金の形として仕方がなく嫁いだ先で、「家の事には何も手出し・口出しするな」と言われて……。  え、「何もしなくていい」?!  じゃあ私、今まで通り、歴史研究してていいの?!    こうして始まる結婚(ただの同居)生活が、普通なわけはなく……?  どうやらプライベートな時間はずっと剣を振っていたい旦那様と、ずっと歴史に浸っていたい私。  二人が歩み寄る日は、来るのか。  得意分野が文と武でかけ離れている二人だけど、マイペース過ぎるところは、どこか似ている?  意外とお似合いなのかもしれません。笑

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈 
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

王妃さまは断罪劇に異議を唱える

土岐ゆうば(金湯叶)
恋愛
パーティー会場の中心で王太子クロードが婚約者のセリーヌに婚約破棄を突きつける。彼の側には愛らしい娘のアンナがいた。 そんな茶番劇のような場面を見て、王妃クラウディアは待ったをかける。 彼女が反対するのは、セリーヌとの婚約破棄ではなく、アンナとの再婚約だったーー。 王族の結婚とは。 王妃と国王の思いや、国王の愛妾や婚外子など。 王宮をとりまく複雑な関係が繰り広げられる。 ある者にとってはゲームの世界、ある者にとっては現実のお話。

この度、青帝陛下の番になりまして

四馬㋟
恋愛
蓬莱国(ほうらいこく)を治める青帝(せいてい)は人ならざるもの、人の形をした神獣――青龍である。ゆえに不老不死で、お世継ぎを作る必要もない。それなのに私は青帝の妻にされ、后となった。望まれない后だった私は、民の反乱に乗して後宮から逃げ出そうとしたものの、夫に捕まり、殺されてしまう。と思ったら時が遡り、夫に出会う前の、四年前の自分に戻っていた。今度は間違えない、と決意した矢先、再び番(つがい)として宮城に連れ戻されてしまう。けれど状況は以前と変わっていて……。

処理中です...