出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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中編

8 写真の男

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 地鳴りが聞こえる。

 空にある黒い闇は先ほどよりも大きく広がっていた。
 柏木紳士は熱海の町を走りながら、ある違和感を覚えはじめていた。この世界の静寂には慣れた。からくり人形の襲来も受けて、彼は自分の考えうる限りの非現実を受け入れたつもりだった。しかし、この世界には、まだ彼の知らない恐怖が息を潜めている。

 知らないよりも知らなかったことの方が時には厄介なのだ。なんでも知っているつもりだと、いざその顔が豹変したときに驚いてしまう。無知は罪だというけれど、知らない方が気楽でいられる。

 柏木はついに足を止めた。もう少しで商店街を出るというところで、彼は後ろを振り返る。
 一直線に伸びた商店街。肩を並べた店先には、その店の目玉商品を謳った旗や看板がいくつも掲げてある。「氷」や「温泉饅頭」、「お茶」と、本来ならそういった文字が見えるはずだ。

 しかし、ここは現実とは似て非なる異世界。柏木が駆け抜けた商店街の看板たちには、商品の謳い文句ではなく、知らない男の顔が浮かび上がっていた。

 すべて同じ男の顔。

 柏木は目の前の喫茶店を見た。白を基調とした洋風の建物。店先の看板には「喫茶・煌き」の文字の下に(おそらくメニューなどが書かれていた場所に)同じく男の顔がある。

 その男は、ひどく悲しい顔をしていた。

 特徴の無い顔。30代くらいであろうか。ワックスで綺麗に、いや、典型的に整えられた短髪は、ごく平凡なサラリーマンを思わせる。柏木も自分の社内で見かけたことのありそうな男だと思った。

 違和感はこの男の顔だった。何かを訴えている顔。どうにかして欲しい、助けてくれと願っているような。
 そして、この男は生きていない。強い念を残して死んだ、成仏できない「悪霊」だ。
 どうして自分自身でもそう確信できるのか、柏木には分からなかった。だが、この世界で目覚めてからというもの、いや、からくり人形の魔の手から脱出してから、どこか心に穴が空いた気がして仕方がなかった。虚無感と言ってもいいかもしれない。

 そんな彼の精神は、自分でも驚くほど「お化け」だの「幽霊」だのをすんなりと受け入れることが出来たのだ。
 描かれた男の顔を見ていると、不思議と胸が締め付けられる。君の気持はわかる。痛いくらいに、と。

 後ろ髪を引っ張られる思いで、柏木は男の顔から視線をそらす。もうすぐ商店街を抜ける。

 そして、あの駄菓子屋へ――。

 彼の心は決まっていた。お菓子を売りながら、骨董品を集める駄菓子屋。この広い熱海の町で、ホテルの次に知っている場所であった。

 もしかしたらあの青年も、この世界にいるのかもしれない。彼の方がこういうことに慣れているはずだ。きっと何かのヒントを見つけてくれる。

 柏木紳士は自分の想像に頼るしかなかった。会社を経営難から復活させることができたのも、自分の直観を信じたからだ。今回もきっと自分の直観は当たっている。

 商店街を出ると、海岸へと続く坂道が続いている。錆びたガードレール。煙突が高く伸びる温泉宿があちこちに見える。
 出雲の駄菓子屋を目指して、くねくねと曲がったその道を下っていくと、彼は宿と宿との間にある路地裏を見つけた。

 そこは、美琴と雄一が最初にぶつかった場所だった。この物語が始まった場所といっても良いが、もちろんそんなことは柏木は知らない。

 何かの気配を感じる。柏木は引っ張られるようにして、その路地裏に入っていった。従業員が着るような割烹着が干してあったり、長靴が何足か並べられている。隅っこには雑草が生えており、近くには割れたビール瓶の破片が土に埋まっていた。

 路地の中ほどまで進むと、柏木はあるものを発見して立ち止まった。
 地面に血の跡がある。さらにその血痕は、戸が開きっ放しの隣の宿へと続いているではないか。

 中は真っ暗で、何も見えなかった。大きな口だ。先ほど感じた気配の主が待ち構えているのかもしれない。柏木はからくり人形の二の舞にはなるまいと、覚悟を決め、血痕を追って宿の中に入っていった。

 従業員用の通路らしく、狭くて窮屈だった。一直線に伸びる暗い道のせいで、柏木の緊張は高まる。この先で待っている何かが突然襲ってきて、自分の首に食らいついてくるかもしれない。

 後ろを振り返ると、まだ空いた扉がすぐそこに見える。柏木はとっくに通路を抜けるくらい歩いた気持でいた。

 前を向いて再び歩き始める。その一歩目。柏木は固い何かを踏んでしまった。
 パキと音が鳴る。足元をよく見ると、何かの破片があちらこちらに落ちていた。何もない通路には、同然割れるような物などない。強いて言うなら蛍光灯くらいだ。しかし天井には、機能していない電灯がちゃんとあった。

(いったい何があったのか)

 さらに目を凝らして足元を観察してみると、破片が散らかっているあたりには、血の塊があるではないか。

 彼が辿ってきた血痕のレベルではない。まるで水たまりだ。壁にまで血のしぶきが掛かっている。それは、大量の血を勢いよくこぼしてしまったかのようであった。

 そして、また新たな発見があった。
 血の水たまりから、さらに宿の奥へと続く、血の足跡があったことに。

 裸足の足跡。足跡の主は、つま先を宿の奥に向けて歩いていったのだ。

  血痕を辿り、血の水たまりを越え、そして今度は血の足跡を追って、柏木紳士はさらに歩き始めた。警戒を解くことは無く、周囲を確認しながら、一歩一歩確実に。

 長かった狭い通路を、足跡は右へ左へ迷うことなく続いている。もう入り口の扉は見えないくらい、彼は足跡を辿りながら進んでいく。

 やがて、足跡はあるドアへと続いていく。

 通路の壁に突如として現れたそれは、まるで安アパートのドアのようであった。青白く。所々メッキが剥がれている。この宿には相応しくない。別の空間から切り取られたようなそのドアには、「206」と色褪せた文字の下に郵便受けも付いてあった。もちろん隣には「205」号室や「207」号室なんてものはない。

 足跡はこのドアの向こうへと続いている。嫌な音が鳴る。柏木はその錆びたドアノブを回して、ゆっくりと開けた。

 ドアの向こうには、アパートの一室が広がっていた。奥の大窓からセピア色の光が漏れている。
 生活感が溢れる光景――狭い玄関と食器が溜まったキッチン。その向こうには畳の部屋があり、ベランダには洗濯物が干してあるのが見えた。

 血の足跡はその和室へと続いている。柏木は靴を脱がないまま、和室へと入っていった。

 八畳ほどのその部屋には、脱ぎかけの服や本が散らかっていて、真ん中には古い卓袱台がひとつ置かれていた。これだけなら整理整頓が苦手な一人暮らしの部屋であろう。だが、窓のすぐそばにはベビーベッドも置かれていた。

 足跡はベビーベッドの前で止まっている。柏木は足場を探しながら、ゆっくりとベッドへと近づいていく。怖い物見たさもあるのだろう。この世界では、赤ん坊が寝ているはずのベビーベッドに、いったい何が隠されているのだろうか。

 恐る恐る顔を覗かせると、案の定赤ん坊は居ない。

「良かった」

 ため息を一つつく。しかし、そんな安堵も束の間に、柏木は赤ん坊の代わりにあるものを見つけてしまった。
 裏返しになった一枚の写真。写真を手に取り、表を向けると、柏木は思わず叫び出しそうになった。

 その写真には、商店街で見た男の顔が映っていたのだ。平凡な顔ではあるが、悲しそうな目で何かを訴える男。

 ガタン!

 写真の男と睨めっこしていた柏木の後ろから、突然、卓袱台の倒れる大きな音がした。

 柏木は背中で何かの気配を感じた。それは彼を路地裏へと誘った気配と同じもの。ゆっくりと振り返ってみると、そこにはスーツを着た男が宙にぶら下がっているのが見えた。

「うわああ!」

 首吊り。卓袱台の真上では、苦悶の影を残した男が揺れている。それは写真の男であると、柏木はすぐに気が付いた。

 ここに居てはまずい。

 柏木は写真を握りしめたまま、この部屋の出口に向かって一目散に駆け出した。
 ドアを勢いよく閉めた後、柏木は今度は血の足跡の向きに逆らって、来た道を戻り始めた。
 後ろを振り返ってはいけない。無我夢中で走り続ける。やがて出口が見えてきた。さっきの路地裏だ。

「助かった」

 無事に宿から脱出できた柏木は、膝に手をついて息を整える。だが、また何かの気配を感じてすぐに顔を上げた。

(まだ追ってきているのか? でもさっきとは違う気配……)

「君は!」

 長い前髪が切れ長の目にかかっている。いつもは面倒くさそうにしている青年の驚いた顔。

「柏木……さん?」

 そこには、探していた出雲の駄菓子屋の青年――真太郎が立っていた。それから――

「そ……そいつは!?」

 柏木は、真太郎の後ろでプカプカと浮いている生首を指さした。

「なかま……なかま……」

 生首は柏木の顔を見ると、うわ言のようにそう繰り返す。

「大丈夫です。こいつは何もしてきません」

 それよりも。




 真太郎が柏木の腕を掴かむ。

「また走りますよ」

 青年の手は驚くほど温かかった。いや、自分が冷たいのか。恐怖で体がマヒしているみたいだと、柏木は思った。普通なら心が折れてしまいそうな状態なのに、柏木には確固たる信念がある。それが恐怖への麻酔になっていたのだろう。

 真太郎に腕をひかれ、柏木は再び走り出した。

 
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