出雲の駄菓子屋日誌

にぎた

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中編

4 誘導

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 滴り落ちる血。

 真太郎と雄一は、その身が裂けてしまうこともお構いなしに、この世界を駆け回っていた。

 右に曲がり、左に曲がる。今度は左に曲がって、右に曲がる。目的地やゴールなどはない。ただ老婆から逃げるため。

 出雲の駄菓子屋の前で遭遇した謎の老婆が振り下ろした大鎌。それは、奇しくも雄一の右肩に命中してしまった。
 彼の悲鳴を聞いて真太郎はようやく体が動くようになり、雄一の腕を引っ張って、その場から二人で逃げ出したのだ。

 二人は出来るかぎり複雑に走り回ってはいるが、老婆はどこまでも追いかけてくる。

 老婆が向かう先では、同じようにすべての窓や玄関が次々と閉まっていった。それが、老婆が来る合図であると真太郎には思った。

 バタン。バタン。バタン……。

 老婆の姿は見えないけれど、閉まっていく扉たちが老婆の襲来を予期させる。

 熱海で生まれ、熱海で育ってきた真太郎。この世界は現実の熱海ではないけれど、「造り」は一緒だった。慣れた町は彼の頭にしっかりと入っている。駅や海の方面ではなく、入り組んだ複雑な道を走っているはずなのに、老婆は必ず二人の後を追ってきた。曲がり角で姿が見えなくなっても、物陰に身を隠しても、二人が通った道を一つも外れずについてくるのだ。

 バタン。バタン。バタン……。

 雄一は溢れだす血を止めるため、右肩を必死に抑えていた。手のひらが血で真っ赤に染まり、指先からポタポタと滴り落ちていく。恐怖の表情はいつしか苦痛の表情となり、とっくに限界を超えた雄一の体では、その内にある心の臓が悲鳴を上げ始めていた。

 真太郎も隣で走る雄一の限界に、薄々気が付き始めていた。ちらと後ろを振り返ると、遠くの窓が閉まるのが見える。そして、雄一の肩から流れる赤い血が、老婆にとって恰好の道しるべとなっていることにも気が付いたのだ。

(まずいな。どうにかしなくてちゃ!)

「もう少しだけ頑張ってください」

 呼吸もままならない雄一にそう声をかけると、真太郎は彼の腕を掴んで少しだけ走るスピードを上げた。

 バタン。バタン。バタン……。

 扉たちが閉まっていく音を背中で聞きながら、二人はある温泉宿に駆け込む。ロビーを抜け、浴場へと続く廊下を進んでいくと、真太郎はそこでようやく足のスピードを落とし始めた。

 真太郎は、何度かこの旅館に来たことがあった。宿泊客としてではなくアルバイトとして。ここのオーナーが彼の父と仲が良く、夏の繁忙期には、小遣い稼ぎに何日かアルバイトをさせてもらっていた。チェックアウトからチェックインまでの時間。主に浴場や客間の掃除。そのため、普通の観光客が知らないような従業員用の通路さえ、真太郎は把握していたのだ。

 浴場の入り口付近には大きな窓があり、熱海の風景がずらりと一望できた。窓の先にはベンチが用意された4畳半ほどのテラスもあって、湯上りに浴衣で潮風と風景を楽しむ客が多いことを真太郎は知っていた。
 だが、いつもは賑わっているはずのこの旅館も、例の如く閑散としている。人だけが居なくなった世界では、大理石の上を走る二人の足音と息遣いだけ。

「北野さん」

 真太郎は傷口を抑えている雄一の手を握った。血は次から次へと溢れ出てくるため、自然と真太郎の手も赤く染まっていく。

 浴場も通り過ぎ、スタッフオンリーのロープも潜り抜け、狭く暗い通路に入る。頭の中にある地図を頼りにして、真太郎はある場所を目指していた。入り組んだ狭い通路をしばらく進むと、目的地である厨房の扉が見えてきた。
 広い厨房で、壁には多くの調理器具がぶら下がっている。ここでは常時20人以上の調理スタッフが時間に追われていた。真太郎がここの流しを掃除していると、時間がないからもういいよと追い出されたことがあった。そんな忙しないこの厨房ではあり得ない静けさ。寂しいこの世界に慣れてきた真太郎も、この厨房の変わりようには少しだけ驚いてしまった。

 無人の厨房の奥へ雄一を連れていくと、食器棚の影に隠れるようにして彼を座らせてやる。すでに限界を超えていた雄一は、息を整えることさえ一苦労のようだ。目は虚ろで、焦点があっていない。開きっ放しの口からは涎も出ている。走って疲れただけじゃない。それは真太郎も当の本人もわかっていた。雄一が荒く息を吐くたびに、綺麗なシンクが曇っていく。

「ここで待っていてください」

 まさに瀕死の雄一と目が合う。「頼む」と目で合図された気がして、真太郎は「大丈夫。なんとかしますから」と頷く。

 雄一の手を放す。真太郎の手はまるで赤いビニール手袋でもしているかのように、血で染まっていた。

 手当が必要。でもその前に対処しなくては……。

 真太郎は急いで食器棚からどんぶり鉢と食器拭きのクロスを取り出して、近くの水道をひねった。

 建物に入ってとしても、いずれ老婆は雄一の血を辿って二人に追いつく。
 幸いにも水は出てくれた。だが、安堵している暇はない。彼はどんぶり鉢に少しの水を入れると、そのまま厨房を早足で出て行った。

 はじめに真太郎は、厨房の中へとつづく雄一の血をすばやくクロスで拭いていく。それから、水の入ったどんぶり鉢に雄一の血が着いた片手を入れた。
 水はみるみるうちに赤く濁っていく。そして、雄一の血が途絶えた廊下から、赤く濁った水を器用に垂らしていった。まるで、二人が厨房に入らずにそのまま廊下を進んでいったかのように。少し薄くはなったけれど、新鮮な濃い生き血は、あふれる生命力の証であって、しっかりとその赤色を保っていた。

 真太郎は赤い水を垂らしながら、さらに早足で廊下を駆け抜けた。食堂。従業員休憩室。ロッカールーム。やがて、搬入口が見えてきた。

 ドアを開けると路地裏となっていて、すぐ真向かいには同じ旅館の別館が建っているのが見える。彼は目の前の別館の扉を開けると、持っていたどんぶり鉢を勢いよく中に放り投げた。

 暗い建物の奥から、どんぶり鉢の割れる音が響く。それと同時に持っていたクロスで濡れた自分の手を拭くと、それもその場に捨てて、彼は雄一が待っている厨房に戻るだけ。老婆と鉢合わせないように気をつけながら。

 刻一刻を争う現状のはずが、真太郎は妙に落ち着いた気持になった。この路地裏は何度か通ったことはある。狭いこの道を、和夫と一緒に鬼ごっこしたりしたことを思い出した。子供が二人並んで通れるくらいの幅しかなく、ごみ袋やビールケースなんかが置かれると、たちまち進行の障害物となるのだが、それらを避けながら猛スピードで駆け抜けることが楽しかった。

 一歩足を進めると、土の音がした。隅っこには雑草が生えていて、すぐそばには割れたビール瓶が土に埋まっている。

 こんな小さく狭い路地裏でさえも騒がしい熱海の見慣れた町は、生命という生命は皆脱出したかのように静まり帰っていた。傷ついた雄一を残して一人で走ってきた真太郎は、本当にこの世界には自分一人しかいないのではと錯覚してしまうほどに。

 老婆の襲来を告げる扉が閉まる音も聞こえない。もしかしたら老婆はもう旅館の中に入っているのかもしれない。

 真太郎は、別館の開いた扉を見てみた。小さな扉の向こうで待つ闇。まるで何かが手招きでもしているかのように思えて仕方がなかった。

 現実世界でも、彼は時々同じようなことを思う。知り尽くした熱海の町に観光客が大勢やってくる。
 本来は交わることのない人々が、互いに混じり溶け合う。綺麗な色になるときもあるけれど、不気味な色になることもあった。
 あの暗闇の中には、そういった違う世界の住人が居て、真太郎との交流を望んでいるのかもしれない。

 雄一の血痕を追ってきているのなら、老婆はあの闇の中に行くはずだ。こんなことに老婆が引っかかる確証はない。また、引っかかったとしても、元凶を消したわけでもない。 ただの時間稼ぎだ。この時間に、早く次の手を打たなくては。

(急がなきゃ)

 ようやく駆けだそうとしたその瞬間、またしても奇怪な光景が彼の目に入ってきた。

 それは生首だった。

 真太郎が足を向けた先には、なんと風船のようにプカプカと浮かんでいる一つの生首があるではないか。
 悲しげな表情をした生首。次はいったいどんな奇怪なことを、この生首が仕掛けてくるというのだろうか。



(はやく帰ってきてくれよ。青年)

 駄菓子屋の青年の目に励まされ、雄一は彼の背中を見送った。一体ここがどこかさえも分からない。視界がぼやけ、吐く息が熱い。熱が出ているのだと、自分でもわかった。

 あの青年はきっと帰ってくる。あのまっすぐな瞳には、その意志をしっかりと感じ取られた。だけど問題は時間だ。彼が帰ってくるまで雄一は自分の命を保つことができるのだろうか。たとえ間に合っても、それからも助かる見込みがあるのだろうか。

 雄一は軽く笑って見せた。

 これもまた運命なのだろうか。悠長に聞こえるかも知れないが、瀕死の雄一は確かに自分の「死」を受け入れる準備が出来ていた。
 順風満帆とは言い難い40年と少しの間ではあったけれど、妻にも子供にも恵まれた。最近では滅法相手をしてもらえないけれど、いざ死ぬとなれば寂しいものがこみ上げてくる。

 コツコツコツ。
 足音が近づいてきた。だが、その乾いた足音を聞いて、雄一は真太郎を想像しなかった。出雲の駄菓子屋で出会った老婆。きっとあいつに違いない。

 (青年。自分を責めるなよ)

 雄一はそっと目を閉じた。
 果てして、この足音の主は二人を追いかけ、雄一に致命傷を負わせた老婆であるのか。いや、違う。真太郎でもない。

 厨房に現れたのは、白無垢を着た一人の女性であった。

「失礼致しましたことを、深くお詫び申し上げます。無関係なあなたたちにはご迷惑をおかけしました。ですが、もうしばらく、ほんの少しで構いませんので、この世界を見させてくださいませ……」

 女性は細く白い腕を、横たわる雄一の傷口にそっと当てた。
 その綺麗に整った目には、まるで真珠のような涙が蓄えられていた。

 
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